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今週の一枚(2015/04/20)



Essay 719:「輝ける個人ドラマ」の陥穽

水平原理主義者による蚊取り線香的戦略思想(笑)
 日曜の昼下がり、平和なビーチ沿い。
 たまには南の方もということで、Brighton-Le-Sands。カウンシル的にはRockdaleカウンシル、慣習的なエリア区分でいえばSt Georgeエリア。

 「ブライトン・レ・サンズ」と読むヘンな名前ですが、この近くにもSANS SOUCI(サンスーシー)というサバーブがあります。僕の好きなフリードリッヒ大王の建築した王宮の名前。この写真の交差点の左がブライトン・レ・ザンズで、右側がモントレー(Monterey)になります。これもどこかで聞いたような名前ですね。モントレー・ジャズフェスティバルのモントレーです。なんでこんなにパクリ系というか、由来系が多いの?と思って調べてみたら、まずブライトンは、トーマスさんという人がイギリスのブライトンみたいなリゾートを作ろうと始めたそうですね。本家と区別するためにLe Sandsをつけたと。

 モントレーは、なんかしらんけどカルフォリニアチックのノリでやってたみたいで、この地区にはハリウッドとかパサディーナとかそれっぽい名前のストリートが多いようです。比較的新しいサバーブで、ブライトンと反対側のラムズゲートから分離独立したのが1987年。ちなみにスカボローパークというのがあって、これもイギリスのスカボローから取ったそうです。

 スカボローと言えば、有名なS&Gの「スカボロー・フェア」って曲がありますが、あれってもともと民謡(文字通りフォークソング)だったのですね。16-7世紀の吟遊詩人(←本当にその頃には実在した)達が語った詩篇に19世紀ころに編曲されたものが原曲らしい。へえ、初めて知った。歌詞というか背景物語は別れた恋人同士が相手に「無理を承知でやってみな」って言う話だとか。でも「パセリ、セージ、ローズマリー、タイム」というハーブシリーズの連呼の意味がわからない。まあ、日本の童謡で、「ずいずいずっころばし」に「ごまみそずい」って出てくるけど、なぜそこに「胡麻」「味噌」が出てくるのか?みたいなものでしょうかね。で、何の話だったっけ?


 ちょっと世界観や人生観にかかわることを書きます。
 先週同様、あっち(卒業生専用の掲示板で一般には見れない)のネタで書いているうちに、山芋掘ってるみたいに根が深くなってしまって、本腰入れて説き起こさないとダメだ〜ってなったので、こっちで書きます。

 や、不登校とか、障害とか、自信をつけるとか、ガビーンとなるとか、差別とか、社会正義とかそのあたりの話からなんだけど、まあ、分かりませんよね?ゆっくり暇なときにでも読んでください。今週はちょい「書生談義」です。

タテに見るか、ヨコにみるか

 There're lots of differences in this world, some people see them vertically, while others see horisontally.

 というテーマがまずあります。英語で書いたのは、その方がドンピシャと言えそうだから。

 なにか(お金、障害、能力..etc)が有る人と無い人がおって、そこに「違い」はあるんだけど、その「違い」の解釈や意味付けです。その違いによって何らかの上下関係が生じるという発想と、それは単なる個体差の問題であって水平的な散らばりに過ぎず、上下的な段差はないよという発想があると思います。タテに見るか、ヨコに見るか。

 ずっと前のエッセイ「貧乏臭い人は世の中全てタテに見る」で書いたこととベースは同じです。シドニー雑記帳時代で、97年5月に書いたものだから18年くらい前ですね。これは貧乏と貧乏臭いは違うとか、それは情報量の差によってもたらされる場合が多いとかそういう切り口ですので、今回のとはちょっと違いますが。


 例えば、とある子供がある日を境にずっと出来なかった逆上がりができるようになったとします。それはその子にとって人生の転換点になるような出来事なのかもしれない。しかし、その子の母親にとってみれば、逆上がりが出来ようが/出来まいが、愛する我が子の価値に何の変化はないでしょう。

 出来る/出来ないと、価値がある/ないとは必ずしも連動しない。てか全然連動しない。「白い猫も黒い猫もネズミを取る猫がいい猫だ」とケ小平は言ったけど、それは偏った利用価値からみた見方であって、猫にしてみればどの猫も全力で猫やってるわけで、その価値に差はない。

 これがエッセイでよく言うけど、利用価値でもなく交換価値でもない「存在価値」です。使えるからではなく、高く売れるからでもなく、単に「ある」「いる」だけで価値がある。これは、大切な恋人や親友に死なれてしまったという悲しい経験をした人だったら、すぐにわかると思います。

水平派の言い分

 この世界の森羅万象で、何かに価値が有る/無いという判断は、いずれにせよ何かしら偏った尺度をもってきて判定するからそう見えるだけのことでしょう。時価一千万円のダイヤの指輪も、こと文鎮として使おうと思ったら、そこらへんの石ころに価値的に劣るわけで要は見方ひとつ。

 しかし、そんな手前勝手な主観や状況次第のモノサシに、いったいどれほどの意味があるというのか?
 観察者が何を思うが思うまいが、猫は猫でそこにいるし、今日も太平洋のどっかをマグロが回遊し、その上をアルバトロスが悠々と滑空している。かんけーねーよ。

 水平派は、この「かんけーねーよ」的な自然の理(ことわり)のようなものを、常に当たり前の前提としていたいと思う人々です。僕もそう。このリンゴは美味しいけどこのリンゴはマズイとかいうのは、人間が勝手に言ってるだけの話で、リンゴの木にしてみれば、「余計なお世話じゃ」「てゆーか、お前ら、なに勝手に俺の子供達(果実)を食ってんだよ!」てなもんでしょう。それが大前提じゃないのか。

 水平派の世界観によれば、万物は、ただ、あるようにあるだけです。それぞれに個体の差異があり、それは浮かんでいる雲がどれ一つとして同じではないように全部違う。ではその違いに意味はあるのか?あるわけねーじゃんって立場です。そんなもん生成過程の偶然の差だろ。ましてや森羅万象に価値的な差異などあるはずが無い。酸素が窒素よりもエライという根拠はないし、この酸素原子があの酸素原子よりも由緒正しく高貴な生まれであるという根拠もない。そして森羅万象のワンピースにすぎない人間どもに、そんな差があるわけない。

 その違いに意味をもたらすのは、たった一つ。それは観察者(人間)の主観であり、「偏った」ものの見方です。それが偏ってるからこそあるものが上に見え、あるものが下に見えるだけ。でも「見える」だけ。勝手にそう思い込んでるだけ。しょせんは誰かさんのの頭の中の話でしかない。つまり「価値」という概念そのものが、誰かの思考の産物でしかない。

 ここまで突き詰めたら存在価値すら主観の産物です。ただ最も自然に近い。本来なら、自分は価値があるのか無いのかと悩むこと自体ナンセンスであり、あるようにあるんだから、あるようにあれば良いのだ。あとはどうなりたいかという自分の主観の問題でしかない。

「差別」に関する感情

 「あるようにあるだけ」的な世界観にたって、現実社会を見た場合、そうなってない場合が多い。というよりも殆どがそうなっていない。本来何の意味もないはずの差異にベタベタと厚化粧をほどこすように歪んた視点で意味をつけ、価値に格差をもうける。

 それによって現実社会の個々人に悲喜こもごもの人生ドラマが生じる。このドラマは、個体差×視点の歪み(特殊性)というマトリクスによって生じる。背が高い方が良いという特殊な視点でみれば、たまたま背が高く生まれたものは得をし、低いものは損をする。しかし、妙な独裁者が絶対権力を握り、自分よりも背が高い者は全員処刑することになったら、背が高いものは損をする。たまたまそうなるだけ。酒を沢山飲める奴がエライという面白い価値観の社会に暮らせば、下戸はとても苦労する。アルコール分解酵素がたまたま多いか少ないかというDNAの差なのだけど、そんなもん、人類がアルコール発酵を発見する前の時代だったら何の意味もないし、宗教その他の理由で禁酒を強いられている社会では、なまじ酒が飲める人の方が苦痛の量は激しくなる。たまたま、です。

 このように局面×個性差のたまたまの組み合わせで、あれこれ損得するわけですが、その損があまりにも激しい場合、おかしいじゃないか?という発想があります。これが「差別」と呼ばれる領域で、合理的な範囲を超えた差異的(かつ不利益な)取り扱いは制限しようということですね。

 例えば、個性差によって直接的に生じるあれこれの損は仕方ないけど、そこから意味なく派生する損はダメであるとか。足が不自由な場合、それで階段の昇り降りが面倒臭いとか、駆けっこが遅いとかは仕方がない。目が悪いから見るときにいちいち苦労するとかいう直接的に生じる不利益は仕方がない。しかし、それ以上にその差異に意味を持たせるのはおかしい。その個性差によって、何かしら人間的に価値が劣るかのように扱ったり、人格的に侮蔑して良い理由はないだろう。

 また出来ればそのロスを最小限にしたいと人は思う。単に足の機能がちょっとばかり損なわれているというただそれだけで、その人はもう一生海にも山にも映画にいけず、およそ外出する喜びの全てを奪い去さられて良いのかというと、他人事であったとしてもそうは思えない。できるものなら同じように世界をエンジョイ出来たほうがいいじゃないの?って感情がある。本来差がないのに、必要以上にエンジョイ度の差が出てくるのが、なんか気持ち悪い。

 これは自然にそう思える。この原始感情がすごく大事だと思うのですよね。

 人間には、皆で楽しくなりたい、人生を同じようにエンジョイしたいって本能みたいなものがあるように思います。自己中な人間の筈なんだけど、なぜかそういう感情も併せ持つ。ほんのちょっとした工夫でエンジョイ度を同じにできるなら、そうした方が良いと思う。目が悪い人がいたら前の方の席に座らせてあげればいいし、車椅子の人のためにスロープをつけるれば良いとか。これは身体障害の場合だけではないです。花火大会で、小さな子どもが、周囲の大人によって花火が全然見えずにピョンピョン飛んでたら、誰かが肩車してあげたり見えやすいところに導いたりするでしょ。一人だけエンジョイできてないって状況が、なんかイヤなんだわ。

 なんでそう思うのか?といえば、「可哀想だから」ではないと僕は思う。その感情を「可哀想」という言葉に翻訳してしまうと話がややこしくなるわけで(後述)、まずは、その前段階のナマの感情が大事だと思います。なんかイヤ、なんか納得できない、あんまりじゃない?って気持。できりゃあ皆エンジョイした方が気持いいじゃんって感じ。

 そこで、「へ、いい気味だ」「ざまあみやがれ」って思う人もいるかもしれないけど、一般にはそれが人間として素敵なあり方だとは思われてはいないし、僕もそうは思わない。あなたはどうですか?

 つまり、万物には違いはある。その違いによって、それぞれに割りを食ったり損をしたりするんだけど、必要以上にそのロスが拡大していくことを、あまり良いことだとは思えない。そして他人事ながら、誰かのハッピー度が上がるとなんかしらんけど自分もうれしくなる。だからちょっと工夫すればいいことだったら、工夫すればいいじゃんって思う。

誰もがひいてる貧乏クジ

 さて、そうはいっても、お金がないとか、勉強が出来ないとか、ルックスが残念だとか、人間誰しもどっかでは絶対貧乏クジ引くものです。それを「障害」「宿命」「不運」など呼び名は何でもいいけど、誰しもそれなりに「なんか」あります。

 なお、中には、何もかも満たされているかのように見える人もいるけど、今度は最初から満たされているというのが超特大の貧乏クジだと僕は思いますね。持たざる者の気持がわからないから、崇拝者はいても本当の意味での理解者を持たず、長い人生どっかでは大コケして奈落の底に転落する運命が待ってるとか(〜挫折経験に乏しいから受け身がヘタで、一回コケると全身打撲で死んでしまう)。羨ましがられるというのは、同じ質量で嫉妬もされるということだったり。満たされなかったものが満たされるようになっていくプロセス快楽を得られないとか。言うならば一生お腹が空かない体質みたいなもので(光合成みたいなので栄養補給ができちゃうとか)、頑張ってゴハンを食べる努力からは解放されるけど、生涯にわたってゴハンを食べる快感を一度も得ることが出来ない。

 いずれにせよどっかで貧乏クジはあるとして、直接のダメージ部分はしょうがないとしても、それを無駄に拡大させて良い理屈はない。例えば、お金が無いという不利益は、文字通りお金がないという点に限られるべきで、欲しいものが手に入らないとか、無理しててでも働かないとならないとかそういう局面だけ。それ以上に、人間的に軽蔑されるとか、恥ずかしいとか肩身の狭い思いをするとかいうのは余計な拡大損害で、そこが無駄だと。学生時代のバイトみたいなもので、「いや、先週でバイト終わっちゃって、今月ピンチなんだわ」程度でいいはず。

 余談ながら、オーストラリアの場合、わりとそのあたりの拡大損害は少なく、お金がないのが恥ずかしいという雰囲気は少ない。英語がヘタな方が恥ずかしいね。だからワーホリさんや留学生さんには最適だと思いますよ。肩身の狭さから解放されて、貧乏生活エンジョイできるから。ぶっちゃけ年収的に言えば超底辺なんだけど、でもそんな不幸で絶望的な感じがしない。なんでそうなのか?といえば、もともと流刑囚の島流しの国、いわば掃溜めみたいな成り立ちのところで、「上流階級〜」とかぶっこいてる事自体が滑稽極まりないって意識もあるでしょう。オーストラリア独特の平等主義(イーガリタリアリズムやトール・ポピー・シンドロームとか)もあるでしょう。あとは宗教でしょうか。だいたいキリストだって聖人だって経済的には乞食同様だったんだから。「人間にはもっと大事なことがある」と年がら年中神父さんや牧師さんに説かれているわけですからね。
 

お釣りが出てこない自販機への怒り

 しかしながら、悲しいかな現実社会においては、ちょっと工夫すれば解消するようなことを放置してたり、あまつさえ「差別」と呼ばれる現象〜傷口に塩をたっぷり塗りこんで拡大するようなことがあったり、いろいろとムカつく局面があります。

 あらゆる差別問題の原点はココだと思います。このムカつき、この怒り。本来的なロス以上に無駄にロスを拡大させていることが、なんとも釈然としない。「クソ当たり前のことがクソ当たり前になっていない」ことに対する気色悪い感じです。それが、いわゆる”正義””人権”とか言われる原感情だと思います。

 それは「可哀想だ」という感傷的でメランコリックな感情というよりは、出来の悪いシステムに対する怒りです。1+1が2にならないで3になってる感じ。自販機でお釣りが出てこなかったときの感情。これって、けっこー強烈な感情ですよ。その昔のパチンコなどで、ガラス板をガンガン叩いて「おーい玉が出ないぞ!」と叫んでるおっちゃんがいたけど、当然そうなるべきものがそうならかったとき、堂々と理不尽を押し付けられたときに、人の感情は一気にレッドゾーンになって怒りが湧く。

 必死に受験勉強をして90点取れた。しかし結果は不合格。それならまだ許せるけど、60点だった奴が堂々と合格している。内申点とかカンニングとかその他の付帯事情は一切なく、なぜか90点だと落ちて60点だと受かってる。そうなったら「なんでやねん!?」ってなる。めっちゃ腹立つ。こういった理不尽なるものへの怒りというのは、かなり強烈ですよ。それは単に自分の損得勘定だけではなく、他人事でも同じくらい腹立つ。

 さらに怒りにの炎に油を注ぐ要素があります。
 一つは、これが一過性のミスではないことです。単なるミスだけだったらまだ許せる。オーストラリアなんか年がら年中これですから、そんなので怒ってたら世の中渡っていけない。しかし、一過性の誰かのミスではなく、システマティックにバグがあり、しかもバグだとして認識されず、ほっとけば未来永劫これが繰り返されるとなったら、理不尽感はどーんと高まる。

 その2は、周囲の人々の対応です。誰も彼もがこの理不尽に気づかなかったり、当然のように受け入れてたりする場合です。1+1が3とかアホな回答が出て、おかしいだろ!って言ってるのに、周囲の誰もが「え、3だろ?」「3に決まってるじゃん」とか言ってられたら血管ぶち切れそうになる。ましてや2とか言い張ってる自分を、あぶない人であるかのように見られたりした日にはもう失神しそうだよね。

 いや実際、自分がやられてみたらわかると思うけど、その怒りは凄まじいですよ〜。もう「てめえら、ぶっ殺してやる」って火が出るくらいの激しい怒りになるよ。で、実際にその種の訴訟やら活動やらその現場にいけばわかるけど、世間知らずのいい子ぶりっこがキレイゴトで「人権〜」とか言ってるんじゃないのよね。心象風景としては、もう出入り直前のヤクザの事務所くらいにアドレナリンが沸騰してたりするのだ。表面上は平静で淡々と語ってるようだけど、腹わたは煮えくり返っているのだ。

 差別(に限らず、およそ社会正義系の問題)は何があかんのかといえば、フレームが曲がってて気持悪いからだと僕は思う。同じものを違うように扱ってるシステムの出来の悪さ、それに気づかない人々の頭の悪さ、心の狭さ、さらにどんなに間違った事柄だろうがそれで他人を見下せるならそれを利用するというヘタレな邪悪さ。

 第三に民主主義的プライドって要素が入ります。日本人には馴染みにくい感覚ですけど。このヘタレなシステムが、まだ他国や自分の関係ないどっかの企業がやってるならまだしも、こともあろうに自分の集団・社会がやっている、省略すれば「自分がアホをやっている」という感覚です。それは自分までその汚物の一部にされちゃってる、自分自身が汚された、自分の衣服にウンコつけられたくらいにムカつく。

 自分が関わる局面でくだらないことやるんじゃねーよって感覚。これは西欧人には強い。自分の所属する社会がクソだったら、自分までクソになっちまうだろうがあ!って感じ。つまり、社会が悪いことを他人のせいではなく「自分のせいだ」「管理不行届」と思い、それがダメだと自分のプライドを汚されたくらいに怒る。またそれを矯正する義務を感じる。それこそが自分のプライドだし、自分自身の社会へのプライド。ここに至って初めて民主主義って呼べると思います。

 「社会が悪い」とか他人事のように言ってるのは、この社会というのは自分よりも遥かに強大な奴らが勝手に動かしているだけで、自分らは結局はその指示に従うしかないヒヨワな存在、家畜のような奴隷のような荷物のようなミジメな存在なのだって認識を背景にしないと出てこない。あなただって自分が起業して、苦心惨憺育て上げた会社で、一人の従業員がアホなことをしたら(例えば顧客名簿を見てストーカーや強姦をするとか)、殺してやりたいくらいに腹が立つだろうし、そういう従業員を見抜けなかったシステムの再検討をするでしょう?てことは、この社会全体を、そこまで「自分のもの」「自分が参加していてマネージしているもの」という所有意識や責任感がないってことでしょ。そこで、自分がそんな被統治的存在(家畜扱い)で当然だとは思えない、もっと俺はマトモな存在じゃあって思うのが、本当の意味でのプライドだと思います。民主主義的プライドってのはそゆことです。投票率が常にほぼ100%の国ではそうだと思う。


 「可哀想」というのは、その歪んだ状況においてとばっちりを被ってる被害者へのシンパシー感情を意味するもので、それも当然に同時に立ち上がってきますよ。後でも述べるけど、それが着火点として強烈なモチベーションになるけど、すぐに主戦場はシステム全体に移る。お釣りがマトモ出てこない機械、そんな機械を設置したアホ会社、誰もそれに気づかないでお釣り出なくても満足してる愚劣な状況、それら全てについての"Fuck out!!"っていうテーマになっていく。

 だから、とばっちりは食らってるけど、全然可哀想だとは思えない人だっているし、むしろ憎々しげな奴だっていたりするんだけど、そーゆー問題じゃないのね。可哀想という感傷で文句言ってるわけではない。システムがクソだと言っている。

 システム全体の問題と、個々のケースの問題とを取り違えてはいけないと思いますね。これは絶対に!と言いたいくらい。「こんなケースがある」と言い出したら、幾らでもでてくるのだ。そして個々のケースをみて湧き上がる感情だけで決めてたら、これはもう、どういうケースを出されるか?によって感情を支配されるのと一緒ですわね。もし個々のケースを精査したいんだったら、全ケースを見なきゃいけない。そういうケースが100万件あったら、100万件みなきゃわからんでしょう。少なくとも「少数サンプルで全体を推知する方法」というサンプリング調査の統計学的なメソッドがあるんだから、それに則らなきゃ。ランダムに出されたケースを見て「許せん」とかいうのは、それは怒ってるのではなく、怒らされてるだけ。感情をコントロールされてるだけ。猫じゃらしを目の前でパタパタやられて興奮している子猫と同じくらいの知的レベルだろ。可愛いっちゃ可愛いけど。

 以上が前半。こっからが本番。疲れた?明日にしてもいいですよ。


個人ドラマと成功体験の罠

荒ぶる現実に対峙する二つの方法

 水平派にとってみたら、世の中垂直派ばっかで、なんだか知らないけどテストでより多くの点数を取ったほうが「エラい」とか、いろんなところに差異を見出し、どんな細かいことでも格付けをして嬉々としている。もう死ぬまでやってろって感じだろうけど、ほんとに死ぬまでやってるだろう。

 だから、そんな水平的理想やら存在価値やら言ってても虚しいって「荒ぶる現実」があるわけですが、さてこれにどう対峙するかです。

 一つは頑張ってそのハンデや逆境を「乗り越える」方法論です。
 世間的にはマイナスになるような貧乏クジを引きながらも、それにメゲず、希望を捨てず、研鑽を積み、何事かを成し遂げる。いわば「世間を見返す」というやつですね。最も普遍的な王道であり、それはそれで素晴らしい。

 しかし、もう一つ方法があります。乗り越えるのではなく「シカトする」方法論で、僕のこれまでの発想法ですが、原理主義型というか、開き直り型というか、達観&武闘派というか。

 水平原理的にいえば、本来がナチュラルな個体差であり、それが価値差につながるワケがないにもかかわらず、あたかも何かが「欠損」してかのように、それが人としての価値として劣っているという阿呆なこと言う人がいるわけですよね。しかし、それは壮大で邪悪な企みのもとに進行しているというよりは、単にそいつが薄ら馬鹿というか、頭悪過ぎなだけ。だもんで、馬鹿につきあってやる義理なんかねーよ!くらいに思えと。もし、そこに何らかが現実的な段差があるなら、段差がある方が悪い!と、まずは思ってみる。

 まあ、一人で「そっちが悪い!」と息巻いていても、当然ながら現実は一ミリも動きませんね。厳然としてネガな現実は目の前にあり続けます。普通そこでメゲるんだけど、でもメゲない。ここが大事。

 それがどうした?So What?と言ってみる。
 現実はそうなってないから、そっちに従えって?やーなこった。それが重力とかの自然法則だったら従うけど、所詮は人間個体の主観的誤謬が数量的に上回っているだけの話で、早い話が馬鹿ばっかりだから苦労するわけで、所詮はそれだけのことだろ?って思っちゃう。廻りが馬鹿だからといって、つきあいよくこっちまで馬鹿になるこたあないよ。そのためにあれこれ煮え湯飲まされたり、イヤな思いもさせられっかしらないけど、でもその分こっちは馬鹿であることから免れてるから、何を言っても俺の方が黒字、お釣りがくるぜ、くらいに思ってみる。

 まーね、ここまで傲慢に思える人は少ないでしょう。僕はそうでもあなたはついていけないかもしれない。だからこんなケッタイなことを真似しろとはよう言わない。

 でもね、壁をあるかのごとく扱っている方が悪いという点だけは、頭に入れておいたほうがいいと思います。

戦略的蚊取り線香

 もちろん、実行レベルにおいては壁を乗り越えますよ。「実績積んで世間を黙らせる」ってこともやります。戦略的にね。

 でも、それは「馬鹿対策」というか、藪蚊が多いから蚊取り線香たかなきゃね〜ってくらいのもんです。暴力的にも対抗しなきゃいけないから柔道やったし、社会的権力もあったほうがいいから司法試験も合格したけど、それらは本質的には蚊取り線香程度の価値しかないと思ってました。寒くなってきたからダウン着なきゃくらいの感じ。乗り越えずに済むなら乗り越えないほうが楽でいいよね〜、雪が降ってきてもチェーン巻かないでなんとかなったらその方がいいよね〜くらいなもんで。乗りこられたから俺はエライとはあんまり思ってないし、人に勧める気もないです。そもそも「乗り越えた」ってあんま思ってないのですよ。後に述べるけど面白いからやっている感覚の方が強い。

 だからそれがどんなにハードで、どんなに晴れがましい成功体験であっても、しかし本質的には、蚊取り線香に着火できたというに過ぎない。勿論うまくいけば嬉しいけど、だからといって世界観は変えない。ダシは変えない。どこまでいってもただの方便、ツール、戦略。だいたいその成功体験に固執してたら、僕もオーストラリアなんか来てないですよ。

壁を乗り越えたら自分が壁になってしまう

 何が言いたいかというと、目の前の現実の理不尽な壁や、段差や、差別や、貧乏クジがあったら、それらに対決して乗り越えていくわけですけど、乗り越えていく間に自分がその壁になってしまうという、とんでもないどんでん返しがあるという恐ろしさです。戦って敵をやっつけた時点で、こんどは自分がその敵に取り込まれて敵側に廻ってしまう怖さ、愚かしさです。今回のテーマはそこです。

 なんでそんなことになるのか?といえば、そこに成功体験があり、そこに輝かしい個人ドラマがあると、なんかドえらいことを成し遂げて、大きなことを学んだような気するのですね。頑張れば出来るんだ、希望を捨ててはいけないんだ、やればできるんだと。いや、それは全くその通りで文句のつけようもないですよ。美しくもあるし、感動的でもある。

 だけど!そっちに気を取られて、いつの間にかそこに壁があることを前提にしてしまう。壁があって当然という世界観になるし、壁を乗り越えるのが素晴らしいことだって価値観になっていく。

 ちょ、ちょっと待ってよ。そもそもそこに壁があること自体が幻想というか、クソなんでしょう?本来だったら壁なんか無視して、すっと壁抜けできたらそれが一番良い筈。本当の問題は、そんなクソみたいな幻想システムがのさばってることでしょ。そしてその幻想を現実たらしめているのは何かというと、人々の世界観でしょ。「世の中そんなもんだよ」という。皆がそんな具合に思ってるから現実もそうなっているというのが、一番ダメなところじゃないのか。なのに、乗り越えた自分がそれを前提にして、壁ある派になったらダメじゃん。

 壁に対する本来の戦い方は、壁なんかねーよ、気の迷いだよ、あるっていう人もいるけどさ、それって頭悪いだけだよって。その存在を否定する、馬鹿にする、シカトする、軽んずることだと思う。あんな錯覚に付き合いきれるかって態度を貫くことだと思うのですよ。でも、そうは言っても現実的に大変だから、それなりに手当はするんだけど、所詮はそんなのその場限りの手当でしかないし、蚊取り線香で蚊を追い払うだけの話。

 問題は、蚊を追い払って、さて何がしたかったの?どうなりたかったの?でしょう。こんなの所詮、想定外のトラブルで足止めくらったり、道草食ってるだけでしょ。「見返してやる」というその意気やよし!ですわ。でも、見返して、そんでどうすんの?本題はその次でしょう。もっともっと輝いて、豊かな世界がその先にあるんでしょ、そこに行きたかったんじゃないのかよ?
 

余談:「可哀想」って言われなさい  

 これとよく似た構造を持つものとして「可哀想」問題があります。
 障害や、ハンディや、何らかの不運を被っている人は、ときとして他人から可哀想と言われるのを嫌います。気持はわかる。可哀想というのは、ドツボにはまった人を、岸から見下ろしたときに吐かれる言葉であり、意識的にせよ無意識的にせよ、「私が上、あなたが下」って前提で語られるかのように思えるからです。馬鹿にすんな!って反発する気持はわかる。

 しかし水平派原理主義(笑)からしたら、これはナンセンスな感情とも言えます。
 なぜなら、そんな段差なんか最初からないから。それに前述のように人間誰しも貧乏クジを引くわけで、誰もが何らかの現実的なハードシップにブチ当たります。その割を食って大変な思いをしている他人に「大変ですねえ」って思ったり言ったりすること、シンパサイズすることは、人の情として当たり前だというのが一点。「同情」がいかにも悪いことにように言われるけど、「感情を同調すること」であり、「他人の身になって考え、感じること」であり、それの何が悪いのですか?

 第二に、ここがキモなんだが、思っているほど他人は自分を見下していないという事実です。これはやるだけやったという人生経験がないと分からないかもしれないけど、「同情はするけど見下してはいない」という領域が意外と多いです。少なくとも僕の経験ではそう。単に見下しているだけのアホもいるけど、少なくとも同情と見下しはパラレルではない。

 第三に、確かにあるはずもない段差を根拠に他人を見下すのに必死な人達はいるし、また貧乏クジのロスが何倍も増幅されるBullshit!な状況はあるのだけど、それは上に述べたように、「蚊取り線香」的な戦略的な対処で済む。何度も言うけど、それって事務作業であって必要な限度で粛々とやればいいのであって、それをメインテーマにして、なんでもかんでも全面戦争すれば良いというものではない。それはエネルギーのロスであり、戦線の無用な拡大という愚策でもある。

 第四に、誰も彼もがいろんな形の貧乏クジをひいて大変な思いをしている。自分だけではない。均してみれば似たようなものです。それをあたかも自分だけが馬鹿にされていると思うのは、自分だけが酷い目にあってるかのように思う視野狭窄であり、自意識過剰であるという点。

 第五に、理不尽な段差拡大があったら、他人事であっても腹が立つのは前述のごとく。ましてや社会が悪いのは「俺のせいだ」と思えるくらいの民主プライド持ってる人だったら、我が事として恥じ、そして怒る。そういう人らが吐く「可哀想」というのは、ここに問題点がある、ここに解決すべき課題があり、戦場があるのだという意味である。見下すとかそんなのどーでもいいのだ。敵はもっと巨大なのだ、敵は全世界なのだ。

 だもんで、僕は平然と「可哀想だ」と言いますよ。だって可哀想じゃん。可哀想というのは、男気がバーンと出てくる前提段階、侠気誘発フェロモンでもある。実際、30年くらいかけてやる冤罪事件や公害事件、途方も無い手間暇をかけて手弁当でやるけど、あの原点は「だって、可哀想じゃん」です。「義を見てせざるは勇なきなり」って言ってもいいけど、感情の原点は同じことですよ。そこでは「正当化しえない理不尽がここにある」という意味ですから。大体デカい仕事をやる人ほど、原点はシンプル極まりなかったりするのですね。「可哀想だから」とか「カッコいいから」とか。「そ、それだけですか?」「うん、それだけ」みたいな。

 加えて言うなら、そこで素朴な感情として「可哀想」という「同情」をすること、シンパシーを感じること、その感情的な化学反応がどれだけ強烈かによってその後の展開が決まるようなものです。かつて僕が仰ぎ見た偉大な先輩諸氏は、例えば特別公務員暴行陵虐罪について準起訴手続を行い、付審判請求をするという、プロでも「そういえばあったな」ってくらいドマイナーな領域を何十年もかけてやっていました。これは警察などが拷問などやり過ぎた場合、それは暴行罪とか何らかの犯罪になるんだけど、でも当然のように警察内部で握りつぶされる。それを防ぐ対抗措置です。公開の場での裁きを求める権限(公訴権)は検察官しか持ってないけど、この領域に関しては一般市民でも検察官に成り代わって直接裁判所に訴える事ができるという刑事訴訟の別ルートです。しかし、医療過誤と同じく、当然組織の厚い厚い壁に阻まれてなかなか上手くいきません。もう死ぬほど努力しても報われない(戦後2万件近く申請をしても認めらえたのはわずか23件かそこら、有罪になったのは9人しかいない wiki)。それを何十年もやり続けている。執念の鬼のようにやる。なぜそんな苦労をするのかといえば、「ひど〜い」「許せな〜い」って素朴な感情があるからです。

 その原点感情で、核爆発のような臨界に達し、ビッグバンのような膨大なエネルギーが出てくるかどうかです。ここでしょぼい線香花火くらいしか出てこなかったら所詮それだけでしょう。この現実社会で、(それが仮に蚊取り線香レベルのものだとしても)何事かを成し遂げるには、このくらいの莫大なエネルギーが要る。そのエネルギーを生み出すものは何かといえば、素朴な感情です。まずここで着火し、途方も無い臨界反応が生じ、そして視線を上げ、広げ、国家そのものを敵に廻して、何十年も取っ組み合いの喧嘩をし続け、おそらくは取っ組み合ったまま戦場で死んでいく。可哀想という感情で着火しつつも、主戦場やテーマは「社会のバグ」になっていくという過程を辿ります。

 ちなみに、こういう人達にとってみたら、かつて若いころに刻苦勉励して難しい司法試験を通りました、乗り越えましたとかいう「輝ける個人ドラマ」なんて、大した意味も持たなくなっている。どうかすると忘れているくらいでもある。乗り越えたら、「やれやれ道草食っちまった」で、とっとと次に行くでしょう。「その次」「本来のこと」ってそういう意味です。

実は「蚊」はいなかった

 なお意外と誰も見下してないって部分ですが、これは「戦略的蚊取り線香」をやってて思ったのだが、自分が力をつける前は、世の中全部が敵に思えたし、常に世間に見下されているかのように思っていたけど、だんだん自分が力を得てきたら、別にそんなことないじゃんってのが見えてきた。要するに自分が弱いという無駄で間違っているコンプレックスが、世間を怖く見せていただけ。法曹を目指したのも、人間なんかドス汚い生き物だって感覚があって、いっそそれならどこまで汚いか徹底的に見てやるって気持もありました。ところがやってみたら、素敵な人の多いこと。え、人間っていいじゃん、、ってズルっとずっこけましたね。

 実際、暴力的闘争に負けてはいけないと柔道で段位を取ったものの、あれから30年、喧嘩に使ったことは一度もないです。国家でも大企業でもヤクザでもかかってきやがれって戦闘能力をつけたら、個人的なレベルで使う機会はほぼ皆無。なんも無いわけではないのですけど、いざ自分の身に降りかかると、意外とそんなに腹が立たないというか、どうでもいいことのように思えてしまうという。つまり、あれだけ必死に努力して蚊取り線香をつけまくっていたのですが、全部着火し終わったら、実は蚊なんかほとんど飛んでませんでしたってオチで。

 まあ、思春期とか若い時分は、客観的にも戦闘能力がヒヨワだから、なんでも怖く見えるだろうし、蚊もブンブン飛んでるように見えるでしょう。つねに戦々恐々としているから、自分が見下せるような優位っぽく見える局面に立ったら、嬉しくてたまらない、ここを先途と見下しまくるという心理はあるでしょう。でもそれって「怯えている」ことの裏返しで。それからしたら、いい年ぶっこいて未だに常時に人を見下しまくってる人がいたら、よっぽど怖いんだな〜、すげー劣等感深いんだな〜って思っちゃいますよね。もう恐いもんだから常に戦闘態勢〜って、疲れるんじゃない?ご苦労なこった。

まとめ

 書生談義もそろそろまとめます。キリないし。

 水平派原理主義(笑)である僕の主張は、

 ★この世界は、単にあるようにあるだけ。木星が土星と違うように個体差は当たり前にあるが、その差異に意味などない。生成過程などにおける偶然の作用にすぎない。

 ★その差異に意味や価値や格差を生み出すのは、すぐれて主観。どっかの誰かの脳内の「偏った」ものの見方。この偏り具合を人は「価値観」と呼ぶ。

 ★たまたまもっている自分の諸特徴によって、たまたま所属してる社会に照らして貧乏クジを引くことはあるが、それは万人がそう。

 ★さて、貧乏クジをひいてしまった!この冷たく厳しい現実社会で割を食っているぞ!となった場合の考え方は二つ。
 (1)とにかくその逆境を頑張って乗り越えるんだ!
 それもいいのだが原理主義を貫くならば、
 (2)その貧乏クジに本質的に意味は無いとまず確認せよ。確かにそれによって現実的に差別されたり、いじめられたり辛いことがあったりもするけど、それはそういう偏りを脳内に持ってる人間が、たまたま周囲において数量的に多いというただそれだけのことである。それがどうした?世界はただあるようにあるだけという点については、いささかの変わりもない。

 でも降りかかる火の粉は払わねばならないので、それなりに現実的に対処する。以降は(1)と同じなのだが、位置づけが全然違う。(2)の場合は、単に仕方なしにやってること、藪蚊が多いから蚊取り線香をつけるくらいの対処に過ぎない。この位置づけの差がその後に出てくる。

 ★頑張って貧乏クジを返上して壁を乗り越えた場合、個人史において輝ける個人ドラマになる。だけどその個人ドラマの輝きで大局を見誤ってはならないと思う。壁なんか最初からないのだ。それをあるという馬鹿ども(蚊)が多いから、仕方なしに蚊取り線香を焚いただけの話であって、「くそ、いらぬ手間をかけさせやがって」とうそぶき、とっとと次に行く。
 その個人ドラマの輝きに拘泥してしまい、この世には壁があって当然なんだ、そこを乗り越えることに価値があるのだという具合になってしまうと、壁側の住人になってしまう。この弊害は、例えば乗り越えようとしない人を軽蔑したり、乗り越えることが唯一の解決法だとかいう形になってしまう。エリートや勝者ほどそうなりがちで、過去の成功体験にとらわれて小さな人間になってしまうという陥穽があること。なまじ部分的には滅茶苦茶正しいだけに、また感情的にもそうだ!って感動的に正しかったりするだけに、この分別作業はなかなかに難しい。でも、難しいからやらなくて良いということでないでしょう。

 例えていえば、車に乗っててデートに行くね。途中山道でパンクするね。タイヤ交換なんかやってことなかったので、必死こいてあーでもないで頑張って、ついにタイヤ交換完成!やったぜ!となったら、どうするか。何事もなかったようにデートを続行すれば良い。山頂でオニギリ食べたり、ファーストキッスをしたり、どっかでなんかやったり、やることは沢山あるのだ。にもかかわらず、パンク修理の輝かしい成功体験に囚われてしまい、以後デートもそっちのけで、パンク修理屋を開業できないとか考えたり、もっとよりスマートな交換方法はないかを考えたり、、、まあ、それもそれで一つの人生のありようかもしれないけど、しかし、違うでしょ!って、僕は言いたい。原理主義者はそこで異を唱えたいってことです。今回のテーマは。

 途中、個人ドラマの生成過程に関して、差別であるとか、可哀想問題とか書きましたけど、本筋は上記の通りです。


 で!後から来る人に伝えるならば、(2)の蚊取り線香着火行為ですけど、注意点は、
 ★これは仕方なしにやる事務作業なのだ、蚊取り線香的な行為なのだというのを忘れない。世界観は変えないこと。

 ★蚊取り線香面倒くさいし、へたすれば10年以上の闘争になったりして大変なんだけど、でもね、やってみたら意外と面白いですよね。これは蚊取り線香よりの上の段階の本来の主戦場でもそうなんだけど、もうねー、使命感とか、原始的な怒りとか、いろいろあるんだけど、単純に戦うことは面白いのです。それはゲームの多くがファイティング系やシューティング系、競争系であることからもわかるでしょ?だからやってられるのよね。別にはたから見てるほど「苦労」しているわけでもないのよね。あれはあれでエンジョイしてるんだわ。

 本当の苦労というのは、やりたくないことをやらされることであって、蚊取り線香はしょーことなしにやる事務作業であったとしても、自分がやりたくてやることに変わりはない。でもって、やってたら勝手に盛り上がって楽しくなるのですよね。なっかなか上手くいかないだけにハマってしまう。適当に難しいゲームみたいなもので、その楽しさは存分に味わったらいいと思います。

 以下、輝ける成功体験なんだけど、なんでそれが輝くの?いわゆる自己実現とか自信とかいうけど、あれって本質は何なの?って話になっていって、いまそこらへんを考え中です。今思ってるのは、もしかしたら「自己」なんて要らないのかも?もしかして、すごーくうれしかったら、それでいいのかも?ってことですが、これはまとまったら又書きます。

 以上、お疲れっ!



文責:田村



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