シドニー雑記帳
貧乏臭い人は、世の中をタテに見る
「”貧乏臭い”ということは何なのか?」という問題があります。いや、アナタにはそんな問題はないかもしれないけど、僕にはあります。いや、別に、そんな巨大な問題としてソビエ立ってるわけではないし、分からなくても一向に差し支えないのですが、「何なんだろうね、実際?」と、ずーっと頭の片隅にひっかかっていました。
「貧乏臭いとは、どーゆーことか?」という問い方をすると、「何をまたしょーもないことを」とお笑いでしょうが、この問いをちょっとひっくり返せば、「豊かさとは何か?」という問いになるわけで、これならアナタも笑うまい。
何が「貧乏臭い」と感じられるのかというと、例えばステイタスにこだわる心理とか、高級品やブランド品をやたらありがたがる傾向とかです。他人をエライ/エラくないという二元論で見る人も貧乏臭いですね。逆に、レストランに入って食べ残したものを包んで貰うのはちっとも貧乏臭いとは思いませんし、ズボンにツギを当てて穿いていても貧乏臭いとは思わない。むしろ「物を大切にする人」ということで尊敬すべきかなと思ったりもします。単純に「お金がない」という貧乏そのものも、明るく「ちょっと、ビンボーしてんだわ」という感じで、そんなに恥ずかしいことだとも思わない。お金一杯持ってるのって、なんかちょっとカッコ悪いですね。
ちなみに客観的に何かが欠乏している「貧乏そのもの」と、「貧乏くさい」のとは全然違うような気がします。貧乏そのものは貧乏くさくはないです。特に何かが欠乏してるわけでもないのに、何となく貧しげな様子が「貧乏くさい」。
例えば、日本では老後の社会福祉制度は十分に整備されているとは言い難いです。言うたら「貧しい」わけです。だから、皆さん養老保険入ったり色々手当を考え、実行する。これら一連の営みは別に貧乏くさくはないです。あるいは、日本は住環境が貧しいので、出来るだけ安く、広く、近くて快適な住居を探して頑張るわけで、これも全然貧乏くさくはないです。当然の営みという。でも、別にそんなに頑張らなくてもいい状況なのに、何かに取り付かれたようにガツガツしてるのは貧乏くさいです。
結局どこが違うのかというと、「必要以上に」「欲望/煩悩に支配され”過ぎ”ている状態」なのではないか。ガッツいてるというというか、飢餓意識にオーバードライブされちゃってる状態が、貧乏くさいのではないか。
さて、今の日本(オーストラリアもそうだけど)、基本的な物資でそうガツガツすることはないです。食卓の肉を取り合って真剣にいがみあったり、慈悲の心で譲ったりというスチュエーションは滅多にないですね。まあ、バイキングなんかで、食べきれないのが分かっていながら全部の料理を取ってきてしまうというのも(俺だ、俺)、貧乏くさいといえばそうなのですが、この辺の話ならば、まあ、笑っていられます。そう真剣に貧乏くさいと思うこともないです。
問題は精神的な貧乏ですね。基本的物質的な欲求がクリアされたら、マズローの欲求五段階説ではありませんが、次は精神的なものを欲しがるようになります。一般に「貧乏くさいな」と思うのは、この精神的な部分で、欲望/煩悩に支配されちゃってる状態なのではないかと思います。
ところで、精神的欲求にもレベルがあって、ランクの低い精神的欲望というのは、「皆にチヤホヤされたい」とかそんなレベルですが、より高くなると「充実したい」「自己実現したい」というものになっていく、と。で、僕が「貧乏くさい」と特に感じるパターンは、この「チヤホヤ願望」が全開になってる状態のように思います。
例えばですね、彼女とデートするのにカローラだったら恥ずかしくて、ポルシェだったらOKとか。「車なんて何だっていいじゃん」という具合には悟れないわけですね。こだわっちゃう。やっぱ彼女にチヤホヤされたいわけです。ああ、彼女とか恋人の場合は、性愛的欲求とか別なものが入ってきちゃうから例がマズかったかもしれないけど、彼女に見せるわけでなくても、ポルシェ乗って街行く人に羨望の目で見られたいというのであれば、やはり、チヤホヤという煩悩にとりつかれた”餓鬼”状態にあるわけですよね。
同じように、偏差値の高い大学がいいとか、有名企業に就職したいとか、ブランド品を持ちたいとか、人気のあるエリアに住みたいとか。世間的にカッコいい肩書や名誉職を欲しがるとか、行き着く先は、春秋の叙勲なんか受けちゃって、天皇陛下の園遊会にお呼ばれすることとか。そういう分かりやすくも貧しげな行動原理。早い話が「見栄」ですね。衣食足りて礼節を知るのではなく、衣食足りたら今度は見栄に走るのが人間なのでしょう。その気持はよ〜く分かる。僕だって、そこらへんをクリアできてるわけでもないし。
ただ、豊かさが進行していけば、そんなことも次第にアホらしくなってきます。高度成長を果たした日本で、金ピカの80年代に「見栄講座」なんてのが流行ったり、マル金・マルビなんてフレーズが流行ったりしたのも、一種の過渡期だったのでしょう。民族的に大人になるためのハシカみたいなものだったかもしれません。バブルが弾けて、我に返れば、見栄とかマル金とかに熱中すること自体が、僕にはすごい貧乏臭く見えたりします。あなたには、そう見えませんか?「シーマ現象」なんか、もう貧乏くささの極致というか。「オシャレなシティホテルで、、」みたいなコンセプトがもうすごい貧しげに見える。早い話が浮かれて成金趣味に走ってるだけじゃん、と。過剰な飢餓感が過剰な行動を呼ぶのでしょう。
で、もう、欲しい物も特になくなると、或いは他人にソンケーされたくて堪らないというわけでもなくなると、次のステージは、もっと内面的な充実って話になるのでしょう。すごい陳腐な話をしてますが、実際そうだと思います。だから、今の時点では、成金趣味やら立身出世主義から抜け出せていない、その暑苦しいまでの飢餓意識が、はたから見てても「貧乏くさい」のでしょう。
さて、貧乏くささの正体が分かった(ような気がした)ところでこの話は終わってもいいのですが、まだ続きます。これはほんの序文。これっぽっちのクソ当たり前のネタだったら雑記帳に載せない。
さらに進んで考えると、貧乏臭い人というのは、言わば「世の中をタテに見てる」人じゃなかろか。「タテに見る」というのは、なんでもかんでも「上下」「序列」「格付」があるという意味です。部長は課長よりもエラいという分かりやすい例だけでなく、同じ芦屋でも阪急沿線のほうが阪神沿線よりも格が上とか、古典的なものだと同じお歳暮でも三越の包装紙だとありがたく見えるとか。改まって考えれば、誰だって「くっだらねえ」と思うと思うのですが、でも、ありますよね、そーゆーのって。
でも、ここらへんはまだ分かりやすい。もっと分かりにくい形で存在する、いわば「かくれ貧乏」というのもあるでしょう。例えば「やたら通ぶる」とかいう態度があります。「やっぱ養殖の鮎なんかダメ。天然物じゃなくちゃ」なんてブッてる人。「本当に分かんの?」とツッコミいれたくなりますね。
これ、僕もいっときその手の方向にかぶれかけた事があるので他人事ではないのですね。それは日本酒とかでしたけど、冗談で実験のように目を瞑って味見をしたら、全くの大ハズレでして、それで少しは目が覚めました。学んだことは二つ。一つは、自分の味覚はアテにならないということ。これは未だに全然信用してません。味覚が駄目なのに、なんで「いい・悪い」を言いたがるのか、その心理構造が学んだ二つ目のことです。要するにエエカッコしいだけなんですね。「違いが分かる男」になりたかったんですな。他人にそう思われたいというのと、自分自身それに酔っていたいという。ガキっぽい願望です。
ねえ、そんなところでいい気分になりたいなんてのは、可愛いっつっちゃ可愛いですけど、アホといえばアホですよね。もっといえば「貧乏」なんだわ。なにが貧乏かといえば、「自分」が貧乏なんでしょう。「自分貧乏」。
自分自身で、本当にオリジナルな価値尺度を持っていれば、それにもとに世の中いくらでも自由に楽しんでいける。でも、そこが貧しいから、借りてきたモノサシやら、どっかで聞いてきたような話をもとに、なんだかんだ言う。自力航行ができない帆掛け舟みたいなもんです。風まかせ。
つまり自足することも出来ないから、満足するためには「他人」の存在がいつも必要になる。他人にエラいと思われたいとか、馬鹿にされたくないとか、そんなレベルで一喜一憂するわけです。仮に全人類に馬鹿にされたとしても、「あ〜、キミタチわかってないねえ」と軽くやりすごす余裕も自信もない。その状態にあるときは、森羅万象全ての物事が、プラス○点マイナス○点とか、上下に配置されている、つけようと思えば、全ての物に偏差値をつけることが出来る。「友達に自慢できる度」ということで、恋人すらも偏差値をつけることが出来る。いや、気付かないうちに付けているのでしょう。自分貧乏の人は、世の中すべてをタテに見る。
ま、チヤホヤ系の精神的飢餓に縛られているのだから、そこでの世界観は、いきおい他人に対して「勝った/負けた」の話になるので、全てが白黒デジタルなランキング表として見えてしまうというのも、当たり前といえば当たり前の話ですが。
では、そこは分かったとして、貧乏臭くない人はどうなのだろうか?世の中全て「ヨコに見る」のではなかろうか?カローラにはカローラの良さがあり、ポルシェにはまたその良さがある。発展途上国には途上国の、経済国は経済国のそれぞれのカラーがあり、緑は紫よりもエライということがないように、そんなのは個性と状況の違いじゃないかと、あとは自分の好みで選ぶだけという具合に構えているのではなかろうか?ここですね、僕が一番興味があるのは。
その人・社会が豊かであるということ、貧乏臭くないということ、その一つの尺度として、世の中タテに見る人とヨコに見る人との人口比率があるのかもしれません。オーストラリアも別にそんなに素晴らしい国というわけでもないですし、昨今の右傾化で、人種差別と愛国心の区別もつかない(というか実は同じなのかもしれないけど)、カッコ悪い人達も出てきてます。そんでも、冷静に、冷静に、もいっかいクールに考えていって、アジアの人達を心の底で見下している人達の比率は、白人国家のオーストラリア(全土は分からんから”シドニーでは”ということにしましょうか)よりも、日本の方が高いかもしれない。残念なことなんだけど。
いや、そうでないかもしれないし、こんなことはたやすく断言できることでもないし、たやすく断言してる奴がいたらそいつは馬鹿です。それでもそういう疑念が拭えないのは、もしタテに見ないでヨコに見るなら、ちゃんとそれぞれ比較できるほどに知っているのではないか?という気がするからです。いや「知らねばならない」というより、その社会に住んでたらごく自然に耳に入ってきて、当然のことのように知ってしまうのではなかろか。知りもしないで、フラットに並べて見るというのは難しいのではないか。
そして、日本以外のアジアのことは、日本人よりシドニーの人の方がよく知ってるかもしれない。町にあるタイレストラン、ベトナムレストランの数の多さ、その客が殆ど白人系のオーストラリア人であること。レストランの激戦地であるニュータウンでも、タイ、ベトナムレストランが、他のイタリア系などを抑えて一番多いかもしれない。その料理の内容や食材についてもよく知ってる人が多いこと、スーパーでもアジア系のハーブや調味料がふんだんに売られていること、などなど。
一方、日本はどうだろうか。もちろんタイレストランもあります。あるけど、それが一番多いなんてことは、まずない。アジアに関する知識やイメージも拾い上げていけば、経済水準が低いとか、衛生状態がよくないとか、なんかそんなタテ系のものばかりが目立つような気がする。マレーシアとかインドネシアの人々が敬虔なイスラム教徒であるとか、東チモールとインドネシアが独立をめぐってドンパチやってるとか、そういう超基本的なこともあまり知らない。少なくとも僕は知らなかった。でもシドニーに半年も住んでたら自然に知ってしまったわけです。
こんな知識の乏しさで、本当にフラットに見ることが出来るのだろうか?その国の人と会っても「経済発展が遅れた国の人」という情報しかなかったら、そしてそれ以上の知識がないのであったら、もうごく自然に、どうしようもなく見下す方向にいってしまうんじゃないでしょうか?
ここ1年ほどのオーストラリアでの人種差別論争で、よく言われるのは、「差別の根源は無知である」ということ。より正確にいえば、無知が偏見を生み、偏見は差別に進みやすいと。「ウソつきはドロボウのはじまり」というように、無知は差別のはじまりだと。これは、僕は、かなり真理だと思います。よく知らない物事に対しては、ほんの破片のような取るに足りない情報一つで全てを判断してしまうし、その危険にすら気付かない。小さな情報から大きな結論にジャンプしてしまう、その飛躍こそが「偏見」なのだと思うのです。その結論がネガティブであるかどうかではなく。
話が逸れたようですが、僕のなかでは、これらは一本の線でつながっています。なんでもかんでもタテにしか見れないのは、ヨコに見ることが出来るだけの「自分」が貧しいからだ。そして、なぜ自分が貧しくなっちゃうのかというと、よく知らないから、知ろうとしないからという絶対的な情報不足ではないか。貧しい情報に基づけば貧しい自己と貧しい世界観しか出てこない。
逆にいえば、よく知らない物事を適当に分かったような気になるには、全てをタテに配列して格付けするのが一番簡単な方法なのだ。生徒一人ひとりの個性を把握できなければ、「成績の良い子」と「成績の悪い子」という乱暴なモノクロ画像になってしまう。知らない国でも、経済発展という尺度一つで全てが分かった気になれる。会って話したことが一度もなくたって、楽勝に美人コンテストは出来る。しかし、よく知っている親しい友達数人の中で順位をつけろと言われたら、もう出来ない。ましてや、家族のなかで順位をつけろと言われたら頭を抱える。よく知ってる物事は、その一つひとつが持つ豊かな世界を知ってしまっているからこそ、優劣順位はつけられない。タテになんか見ることは出来ない。知らないからこそ、平気でタテに見ることが出来る。
貧しい知識(貧しい熱意)→貧しい自我と貧しい世界観→貧しげな言動=貧乏臭い、ということで、「貧乏臭さ」の本質は、もしかしたらそんなところにあるんじゃないかしらん。
タテに見るのを卒業したからといって、無条件で次のステージに進めるわけではない。金持ってる人も持ってない人も、有名な人も無名な人も、学歴ある人もない人も、容姿端麗な人もそうでない人も、五体満足な人も障害を負ってる人も、年寄りも子供も、国籍も民族も、すべてヨコに並べて自然に受け入れるようになるためには、もしかしてとんでもない知識、経験、成熟という距離を進まねばならないのではないか。一本の線分で表された一次元的世界観が、ベタッとした平面の二次元に展開するのだから、そのフィールドの増加はもはや爆発的であり、無限大。
ちょっとやそっとで、次に進めるというものでもなさそうだな、むむむ、と唸り思っている今日このごろです。
(1997年5月13日:田村)
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