今週の一枚(2015/03/30)
Essay 716:フィルターと個性
〜エビで鯛を釣った話
今週も、突出した写真がないので、「枯れ木の山も賑わい」方式で数で勝負です。解説は最後にまとめて書いておきます。
Essay713回の帰省備忘録で箇条書きした最後の一つ。「動いた分だけ魅力的になる」という話を。
わずか10日あまりの今回帰省滞在において、恒例の(ってもまだ二回目だけど)カジュアル説明会をやったのですが(会って話たい人、どうぞってだけだけど)、直近告知にもかかわらず、そこそこの人数の人と一対一でお話することが出来ました。この機会に再度御礼をば。
もちろん本来のワーホリや留学希望の方々にも来ていただけたのですが、まったく”営業”とは関係ない、この「エッセイ読んでて興味があるから」という、ただそれだけの理由で、遠方(東京、名古屋、三重、福井)からはるばる京都まで、交通費と時間を使ってお越しいただいたのは嬉しい誤算でありました。もっと嬉しいのは、どなたも気持ちの良い方々で、僕自身がとってもエンジョイできたことです。
「エビで鯛を釣る」ではありませんが、こんな駄文エッセイでこのような素敵な人達と知り合えるなら、いやあ、書いてみるんやね〜って感じです。
あまりにも面白い人達だったので、卒業生専用の掲示板に「こんな人達に会ったよ〜」と自慢たらしく書き(^^)、さらに各エリアの人に興味があったら会ってごらん、紹介してつなぐよ〜と焚き付けたくらいです。でもって、A=B,B=CならばA=Cみたいな単純な等式論理ってわけではないのだろうけど、それぞれに実り多い時間になったようです。相手のご自宅までいって飲み明かしたケースもあったようで。
振り返ってみて思ったことがいくつか。
でも、よく考えるとやっぱり「不思議」なんですよね。
そんなことって現実にあるんだな〜という。
確かにね、理屈ではわかるのですよ。
なんというのか、「篩(ふるい)の目の粗さ/細かさ」といいますか、フィルターがキツいほど結果的に粒が揃う法則というか。オリンピックだって、参加したかったらまず自分の国で制覇しろってくらいの途方もないフィルターになってるから参加者の粒が揃うわけですし。
あ、こう言うと、ともすれば偏差値的上下関係に翻訳して曲解してしまう人もいるかもしれませんね。そうじゃないですよ。「粒が揃う」という最高品質的な表現がいけないのかな。確かに粒が揃うんですけど、それはあくまで僕の独自のケッタイでユニークな価値観からみての話です。こんな基準は人の数だけあるのであって、一般的に人を選別評価する尺度ではないです。
それは例えば「昆虫採集が趣味」という人でもいいです。その種のサイトを作ればその種の人が読みます。てかその時点で世間の90%以上の人はまず読みません。特に日本人の成年男女は虫嫌いですからね。子供の頃の虫好き率は90%くらいあると思うのだけど、いつしか原則と例外が逆転して嫌いになる。これも不思議ですね。もしかしたら物質文明と資本主義に洗脳されて、野性が欠落し、森羅万象と交歓する感性を失ってしまったのかもしれません。ちなみに僕に日本にいるときは御多分にもれず嫌いになってましたが、こっちに住んでしばらくしたら自然とまた子供の頃の感覚が蘇ってきました。いや、はっと息が止まるほど綺麗な蝶とかいましたもんね。小学生の頃、雑木林のなかでコバルトブルーに輝くルリボシ(瑠璃星)カミキリの本物を見たときは、「UFOを見た!」くらいの衝撃でしたもんね。あまりの感動でしばらく動けなかったもん。
それはさておき、虫嫌い率90%のところで虫好きサイトを作ったら、もうそれだけでフィルターがかかって、残るのは10%内外になるでしょう。しかし、これをもって「上位10%の成績優秀者」という世間一般のエリート性を示すかといえば全然でしょ?要するに虫好き価値観からみたら「粒が揃った」と感じられるだけのこと。
さらにフィルターを細かくしていくともっと「粒が揃い」ます。例えば、昆虫採集というテーマでも、可愛い虫ちゃんを殺したくない、ただ共生するのを楽しみたいという観察派 or キャッチ・アンド・リリース派もいれば、出来るだけ良好な状態で保存し、美しい標本を作るんだ〜というコレクター派もいると思うのですよ。やっぱこの両派は微妙に(あるいは明確に)話が合わないと思うのですよ。最終的に目的とするものが違うし。さらに共生派でも、庭や裏山に散歩しつつ「おや、こんなところに」という風情を楽しむ派もいれば、養老孟司さんみたいにカメムシ追いかけてインドネシアのジャングルまで行くような派閥もあるわけで、そこも違うんじゃないか。はたまた共生といっても、自分の身体の中に寄生虫を飼ってて「共生してまーす」とかやってられたら、そこまではついていけんわとか、いろいろあると思うのですよ。
そのあたりの「ここから→ここまで」的な価値観なり、守備領域なりを明確にすればするほど、「話が合う」人の率がガタ減りするのですが、同時に話が合った時の合致率みたいなものは劇的に高くなるでしょう。
とまあ、ね、理屈では分かりますけど、でもそれって理屈でしょ?って見方もあるわけですよ。
そんなね、あんた、世の中理屈どおり廻りまっかいな?たいがいにしとき〜という。大人な見方。それはそれで分かる。
でも、実体験としていえば、やっぱ本当にそうだったのですね。それも一人や二人じゃなくて、4人も5人もそうだったし、逆に例外はなかったので。「不思議だな〜」と。
ということはですね、そのフィルター理論によるならば、僕のこのエッセイもそれだけフィルターがキツいということであります。しかし、逆に言えば、それだけ全く一般受けしない超アウトロー的な、網走番外地みたいなものを僕は書いているのだということでもあり、喜ぶべきか、悲しむべきかという(笑)。
ま、喜ぶべきことだとは思いますよ。実際楽しいし、鯛も釣れたし。
とは言いながらも、「これは考えたことないやろ?へへへ」みたいなヘンテコなツイストも意図的に入れてます。
と言うかね、そういう”想定外のヒネリ”みたいな部分が無かったら読む意味なんかないんじゃないですか?「ほう?」「なるほどね」「ああ、そこまでいっちゃうのか」というスティミュラスな部分、刺激的な部分が無いと面白くないでしょう?どっかニュース番組みたいな、毒にも薬にもならない人畜無害なコメントとかさ〜「一刻も早い真相解明が待たれます」「政治家にはしっかりしてもらいたいですね」的な、「はやく春になるといいですね」的なコメント、というよりは世間話、まるでお義理で出席した見知らぬ人のお通夜で見知らぬ人と形ばかりの会話をするみたいな。そんなもん読みたくてネット巡回してないんじゃないですか?Waste of your timeとは思いませんか?まあ、思わない人が90%くらいなんかもしれないから、「こんなん誰でもそうは”思わない”」のかもしれませんけど。
あとですね、何ら新規なアイディアがなかったとしても、一字一句自分が常日頃思ってることをズバリと誰かに書いてもらえると「よくぞ言ってくれた!」的なカタルシスはあります。モヤモヤした思いを明瞭に言語化するカタルシスもあります。
それはそれでよく分かります。なんといっても前職でやってた刑事弁護の弁論要旨なんか基本それですもんね。犯罪者として世間に糾弾されている人でも、それでも言いたいことの一つや二つはある。それは子供の頃にお母さんに頭ごなしに怒られて、そりゃ悪いのは自分だけど、でも部分的には「それは違う!」と言いたいことはあって、でも言えなくて、「だって、、」しか言えなくて、言えば言うほど余計に激しく怒られて、結局悔し涙目上目遣いに見ていた、、、という記憶のある人だったらわかるっしょ。その種のわだかまりが残ると「世間を恨む」という成分が残って良くないので、弁護人が本人の代わりに思う存分言ってあげて、解毒させて、でもさ、それでも罪は罪だよね、ケジメはケジメでつけなきゃねって素直に服役していただく儀式です。成仏していただくお経みたいなものです。単に、酢のこんにゃくのと屁理屈並べて、白を黒と言いくるめているわけではないのですね。
ま、そういうカタルシス機能もわかるんだけど、でもそれって書いててわかるので、意図的に避けてる部分もあります。なんか迎合というかウケ狙いというか、ここで終わらせておけばいいのに、わざわざもう一歩も二歩もツイストをかけたい。スッキリするのも大事だけど、スッキリして終わってしまったら後が続かないので、それも良くないな〜と。
そのあたりの妙なこだわりが、どんどんマイノリティに向かわしめ、フィルターの目がきつくなっていく原因かもしれません。
思うのですが文章表現というのは、一定のレベルまでは論旨や論理ですけど、そこから先はアートの世界になっていくのだろうな〜と。理性よりも感性主体になっていく。論旨を要約すれば全く同じようなことを書いていても、その書き方が違う、表現方法が違う、タッチが違う、空気感が違う、言葉のもつ色彩感が違う、浮遊感が違う、そこで初めて世界で一つというオリジナリティが出てくるのでしょう。論旨や発想の新規性だけではそこまでは到底いけないだろうと。
でもって、世界にこれだけという One and Onlyの絶対レベルまで突き詰めたら、そこで何やら臨界反応だか、世界反転だか、極小=極大みたいなワケのわからない不思議な現象が起きて、逆に誰にでもわかるという普遍性を獲得するのでしょう。それがアート。超マイノリティ=超マジョリティという、無茶苦茶な現象。なんか神がかってますけど(^^)、そういうことなんだろうな〜とボンヤリ思います。
ゴッホの有名な「ひまわり」の絵だって、別に「ここにひまわりがあります」という情報を得たくて絵を見ているわけじゃないですよね。なんの変哲もないひまわりでも、ゴッホのタッチ、あの単に絵の具をメチャクチャに混ぜて分厚く塗りたくってるだけのような、しかし、えも知れぬ迫力があって、生命力があって、それはどっからそう感じるのかよくわからないけど、見た瞬間に絵からそれが放射されているという。松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句だって、「それがどうした?」と言われたらそれだけの話です。仮にリアルタイムに一緒にいて、「今、蛙が飛び込む音がしたよ」とか言われても、「ふーん」「ほんで?」てな感じでしょう。客観情報としては殆ど無価値に近いくらいなんだけど、それを敢えて俳句にするという表現行為で、それをとりまくナチュラルで閑寂な世界がぐわっと広がってくるわけですよね。極めてパーソナルな、そんなこと気にしているのは世界でもあんたくらいでしょってくらいドマイナーなことでも、表現行為いかんによっては万人に感動を与えるという。不思議ですよね〜。
これを突き詰めていくと、「個性とはなにか?」問題というか、皆それぞれ違った個性が絶対あるんだけど、でも同時に皆同じなんだよという話、全部違うけど全部同じであるという。ああ、もう仏教哲学ですよね。「有るけど無い」の色即是空。絶対矛盾の自己同一、西田幾多郎か。分かりもしないで書いてるけど。でも、この世界はそこが不思議でワンダラスです。宇宙に果てはあるの?時間に終わりはあるの?みたいな、突き詰めていくと全然わからない。一本道をまっすぐ歩いていたら、いつのまにかスタート地点に戻ってましたという。もう世界の根本秩序がメビウス。それが不快かというと、いや嬉しいですね。世界がそのまま遊園地みたいな構造になってるのって、なんかワクワクするよね(こんなこと書いてるからフィルターがかかるんだろうけど)。ところで、英語のワンダフル(wonderful)っていうのは、wonder(当惑する、戸惑う)がfull(いっぱい)だから、なんでだろうね〜?不思議だよね〜ってのが一杯ある状態をもって「素晴らしい」という。いや英語世界も「よくわかってんじゃん」って気がします。
幸福とは快楽であり、快楽とは楽しさであり、楽しさの重要な要素の一つに意外性があると思います。「え?なんで?」「わ、すご!」という感情が心をふわっと浮き立たせる。ワクワク&ウキウキの素。そしてそれは、なんでも不思議がったり、好奇心を抱いてないと生じにくい。ということで、すべからく不思議がるといいかも。不思議がったり、好奇心に満ちている人で鬱になる人は少ないんじゃないかな〜。
箒と塵取でかき集めるようにキュッとまとめると、もし僕のエッセイになんらかのフィルター的なる機能があるとしたら、それは書いている内容部分もさることながら、そこから先の感性部分での波長共鳴があるのかもしれません。もちろん「アート」というほどのレベルには到底達してないけど、どんな下手っぴにも個性はありますから、感性的な個性という意味ですね。そこがフィルターの役割を果たしているのかな〜とか思いました。
実際、意見が同じ、趣味が同じだけでは、そうそう波長は共鳴しないと思うのですよ。それは同好の趣味の人が集まったクラブ活動でもサークルでも、なんとなく肌が合わない人とか、生理的に嫌いな人とかがいて、どこでも派閥争いや仲良しグループができるという経験的な事実から頷けます。
それがどうした?というと、もしご自身でブログなりサークルなりお作りになるなら、主義主張や趣味テーマもさることながら、感性的な個性の部分が意外とキモになるのではないか?と。その人らしさというか、巧まずして出てくる部分、「しのぶれど色に出にけり我が恋は」的な部分、匂い立ってくるような部分です。それが人を集め、人をいい意味で選別するんじゃないか。同じようなことを言うにしても、その言葉の選び方一つ、その論理のつなぎ方一つに、その人のタッチは出てきます。例えば、ある部分ではブロックを積み上げるような緻密な論理構成をしているかと思ったら、ある部分ではピヨ〜ンとワープしてたりとか、そのアンバランスな感じがその人の個性です。
ただし、これって狙ってやってるとあざとい感じになって台無しですから、天然がいいですよね。
天然を活かそうと思ったら、ある程度は自由度の高い書き方をすると良いのでしょう。「ビジネスレター入門」的な紋切りコピペだと死にます。非の打ち所のない名文なんだろうけど、でも何も伝ってこないとか。逆に言ってることはかなりメチャクチャだし、全然意見は違うんだけど、でもこの人面白いわ、会ってみたいわって。
巧まずして匂い立つ個性〜このあたりを言語技術が覚束ない英語でやろうと思ったら至難の業です。とにかくボキャがない&文法が自信ないから間違ってない英文をつくるのに四苦八苦して、そこが終着点になってしまう。本当に英語の出来る人というのは、英文書かせたり喋らせたりしたら、その人独特の個性が自然と出てくる人なのでしょう。そこまでいって初めて一人前なんですかね、道ははるかに遠いな。
「そういう人だから」という先天的な素質もあるんだろうけど、僕が思うに、後天的な事情、それもちょっと変わった体験をしていてそれが大きいのかなと。ある方は一時期オーストラリアに住んでおられ、ある方は思い立ったが吉日的にぽーんと沖縄にしばらく暮らし、ある方はドイツに、アメリカに、あるいは広告業界からいきなり塾経営に転身され、、と、それぞれにちょっと変わった航路をたどっておられます。
サイトの性格上海外系が多いのも分かるのですが、かといって海外だからどーのという基軸にはなっていません。そんなただの海外自慢とか浅薄なレベルではなく、それらの体験がその人の個性に刻まれ、さらに人格として陶冶されていっているような感じですね。大体ですね、海外っつってもですね、長いこと住んだら誰でも分かるけど、住めば都であり、住めば「日常」ですよね。そんな別にどってことないです。僕のように20年以上もおったら、もう特別もクソも、日本とオーストラリアの心理的な距離感は、自宅のキッチンと奥の寝室くらいの差でしかないですもん。どっちも日常になってしまえば、「このエリアに入るとこういう感じになる」という場の個性差でしかない。
ただ、どんな経験であれ、それをすることで誰しも何事かを感じ、考える。それが日常になってしまうくらいの期間なら、日常的に何かを感じて考えるでしょう。自然と考え方や感じ方が変わっても不思議ではないです。そして、そこで新しい個性が生まれてくるのでしょう。それがちょっと変わった体験であれば、ちょっと変わった個性が生まれる。
確かに、それで知識は増えるし世界観も広がるかもしれないけど、それっていわば内装工事みたいなもので、本格的な土木工事にはなりにくいのではないか。ドーンと地中深く掘り下げてパイル打ち込んだり、山を切り崩したり、大河に橋をかけたりって作業になると、抽象的な情報が行ったり来たりする脳内作業では足りずに、何らかの実体験が要るのだと思います。
人間の意思決定やモチベーションというのは、知性よりも感情によって生じる。それが些細な事務作業であれば論理(能率とか損得)で決定しやすいですけど、より大きな方向性やら、人生の根幹に関わるような物事になるにつれ、論理では人は動かなくなる。やっぱ決め手になるのは感情でしょう。
そして感情というのは活字情報によって生じる場合もあるけど、体験事実の方が何十倍も強力に作用すると思います。体験というのは五感に訴えますからね。理屈ではその通りであったとしても、実際にやってみたら思ってもみなかった五感作用で猛然とやる気になったり、絶対イヤとなったりもします。例えば、匂いなんか強力な作用があります。今日は腹が減ってないからとか、ダイエットしてるからご飯は要らないわとか言いながらも、ぷーんとカレーの匂いやら鰻の蒲焼の匂いが漂ってきたら、いきなり腹が減って、「や、やっぱりちょっとは食べないとね」と180度意見が変わる。逆に、男の戦場だあ、血沸き肉踊るぜとか思って現場に出てみたら、四散した肉片が散らばってて、何よりも腐臭が物凄くて、十秒も我慢できずに吐いてしまって、もう二度と〜とか思うこともあるでしょう。僕も検察修習のときに死体解剖に立ち会う(検視)ため法医学教室を訪れましたが、あの死臭というのは独特ですよね。関係者の人は慣れっこなんでしょうけど、もう生きる気力を根こそぎ奪うようなパワーがある。スプラッタ的なビジュアルショックよりも、匂いがきつかったですね。
今度の休みに海に行こうぜとか言われても、海なんか飽きたよ、慣れたよ、ありきたりだよ、陳腐だよ、ダセーよとか言ってるんだけど、いざ行ってみたら、降り注ぐ陽光やら、ツンとした潮の匂いやら、何よりも海そのものの巨大な存在感やら、空間そのものが気持ちよくうねっているような臨場感覚にやられちゃって、超楽しい〜!って話はあるでしょう。僕も語学学校に通ってた時、なにを血迷ったか全校あげて「運動会」があるとかで、もう気分は高校時代にもどって、けっ、かったりーよ、三十面さげて何がスプーン競争だよ、ばっかばしい!とか、ウザ度300%くらいで朝行ったんですけど、結局、終日一番はしゃいでいたのは自分だったという(笑)。もう、楽し〜い!って、いやあ楽しいってこういうことだったのか、忘れていたなあ、みたいな。
やっぱり五感の説得力っていうのは凄まじいものがありますよね。それに比べてみたら脳内論理の説得力なんぞ、、って。
逆にいえば、人を説得しようとしたら、論理的説得と並行させて感情的説得もしないとダメでしょう。論理という表地に、感情という裏地をきっちり縫い付けておく。説得的な文章というのは、だいたいそのあたりは抜かりないですよね。「情理を尽くして」とかいいますが、「情」が大事です。人は「辻褄が合わない」「論理的整合性を欠く」ようなことは結構放置できるのですけど、「可哀想なこと」「ムカつくこと」はそれほど放置できない。
もうひとつ応用をすれば、気分転換をしたかったら、五感に訴える物事をどんどんするといいです。特に落ち込んでる時とかは、それとは違った感情をムクムクと隆起させるような出来事ですね。極端な話、クビになりました、再就職もヤバそうです、人生もうダメぽですってときに、たたたっと可愛いらしい女の子が駆け寄ってきて、緊張に赤く上気した顔で、「こ、これ読んでください!」とかいってラブレター渡されたりしたら(今どきこんな古典芸能シーンがあるのかどうかの時代考証はさておき)、もうクビのことなんか忘れちゃうもんね。そんなことどーでもいいもんね。てか「どうでもいい」とすら思わないもんね。今泣いたカラスがもう笑ったとはよく言ったもんで、事象Aによって凹まされた感情は、事象Bによって他愛なく回復するのだ。人間なんか、そんなもんよね〜。
ま、そんな望外の事象Bがたたたって駆け寄ってくるケースはマレでしょうから、自分からつくる。やけ食い、ヤケ酒、不貞寝けっこう。新たな五感でネガ感情を相殺中和するわけですから。同じ原理で、とにかくプールでも海でもぼちゃっと全身漬かるとか、カラオケで千本ノックのノリで連続100曲血管ブチ切れるまで歌うとか、全曲知らない歌を自分でその場で作曲しながらテキトーに歌うとか、全然知らない街にいって迷子になって心細い思いをしてみるとか、日頃買わないような趣味の服を無理やり買ってみるとか、ぶっとーしでどこまで歩けるかやってみるとか、ともあれ普段やらないような強烈な異物をぶつけるといいですよね。「なんでこんなことを?」「何が悲しゅうて」という意味度ゼロがいいです。意味が通ったら異物にならんし、意外性がないから楽しくなりにくい。
えーと、何の話かといえば、脳内情報は内装でって話でした。そうなんですよね、本とか読んで考えても、せいぜいカーテンを取り替えたり壁紙変えたりして気分を新たにしましょうくらいだけど、実体験・土木工事は、ときとして発破でドーン!くらいの威力がありますから。一気に山の形が変わったりするもんね。
でも「街」に象徴されるように、単に外に出よう、アウトドア派になろうって話だけでもないと思います。
それなりに変わった体験、まあ「変わってる」ことに価値があるわけじゃないけど、「へえ、そんな世界もあったのね」と思えるような意外性のある体験が面白いのではないかと。それも別にアマゾン秘境の冒険みたいなものでなくても、同じ街の中でも違った仕事をしてみるとか、同じ日本のなかでも一時期瀬戸内海の島に住んでましたとか、そのくらいのことでも十分「変わった」といえるのでしょう。一般的に珍しいかどうかではなく、その人のそれまでの世界観からみて「変わった」かどうかですから。
そして「書」は書で、脳内作業もやっぱり大事だと思います。実際、お会いしたどなたも、深く物事を考えておられる方々で、その深さが人間的な好ましさに転じている。
結局、書も街も表裏一体ではないか。
これは自分自身の体験を振り返ってそう思うのですが、変わった体験をすると、それまでの世界観との辻褄を合わせないといけないから、けっこう猛烈にものを考えるわけですよ。例えば人を見たら泥棒だと思えみたいなコスッ辛い世界で生きてきた人が、多くの人々から無償の善意を受けるような環境になった場合、最初は「けっ」とか思ったりするけど、だんだんと「人間って意外といいのかも」って変わっていく。これまでそう思ってきたけど、実は違うんじゃないか。かといって、「はい、今日からこっちでーす」みたいな制服の衣替えみたいにコロッと変われる筈もなく、信じていい人といけない人が二種類いて、その見分け方はとか色々考える。考えざるをえない。ちょっと前に、海外生活の最初の頃は、知恵熱が出るくらいいろいろ考えると言いましたが、ほんとにそうで、それまでの自分の世界観では処理しきれなくなってくるから、あちこちに別館を臨時増設したり、渡り廊下を作ったり、それじゃ間に合わないから本格的に全部壊して新築したり、忙しいんですよね。
様々な体験が思考を促す。
激しくいろいろ考えるようになるから、書も読むだろうし、情報も欲しくなる。つまり、「街」が「書」を促す。これは書が書を促す(知的好奇心が湧いてきてもっと知りたくなる)よりも強いと思います。書から得るのは「ふーん、こういう考え方もあるのか」という程度ですが、体験レベルになると「あるのかあ」じゃなくて目の前の現実として厳然として「ある」のですよ。泣いても笑ってもあるんだから仕方がないという。なんとかこの現実を自分の理解に合うように咀嚼しなきゃいけないから切迫感が違う。
また、動かぬ現実を前にした思考や読書というのは、書だけ読んで「なるほど」と鵜呑みにするようなリスクが少ないです。洗脳されにくいといってもいいかな。なんせ書だけでは辻褄の合わない部分が絶対出てきているはずですから。それはその人が目の前の現実を、正確に虚心坦懐に見つめれば見つめるほどそうでしょう。適当にチラ見して「こんなもんか」という浅い体験だったら、浅い言説に惑わされるだろうけど(◯◯人はこういう性格とか)、深く長く体験するほどに、そんな一概に言えるわけないじゃないかってのもわかってくるから、そんなに簡単に情報に騙されない。
体験&思考の絶対量が少ない間は、ちょっとのことが大きな影響を持ちます。学生時代にちょっと勉強が出来なかった、授業をサボり気味だったというだけで、自分は不良だワルなのだという可愛いアイデンティティが出てきて、染まったりするのだけど、どっかの中小企業のオヤジさんに拾われ、厳しくも温かく接せられ、仕事の充実感やプライドも覚え、やがて本当に好きな人と所帯を持ち、子供が出来、しかし事情によって離れ離れになり、山奥でしばらく暮らし、大病をわずらって1年くらい入院し、入院中にまた誰かと出会い、、、とかやってると、それぞれの体験がそれぞれに相殺しあったり、中和したりしてくるでしょう。あんなこともこんなこともやってうちに、もはやシンプルな体験だけでは揺るがなくなってきて(付加や拡大はするけど)、その人が本来持っている子供の頃の個性が自然と出てくるのではないか。
人格や性格というのは、見方を変えたら情報処理のパターンだと思います。ある種の情報は大事なものとして中心に据え、ある種のものは周辺に置くとか、その選別配列パターン。だけど、そのパターンそのものを変えるほどインパクトのある体験もあります。「ああ、これって意外と大事だから真ん中に置いておこう」とかね。それによって情報処理パターンが変わり、だから性格や人格も変わっていく。そして、それもこれも積み重なって、ああ変わりこう変わりと紆余曲折を経ているうちに、全体に中和されてきて、まだ何も体験してなかった幼児の頃の本来の自分のパターンが最後には浮き上がってくるような気がします。もっとも、そのためにはバランスよく体験しないとダメだとは思いますけどね。イヤな事ばっか100連発であったら、本来がどうあれ誰だってスサんでくるでしょうから。
このあたり微妙な感覚でわかりにくいと思いますし、僕自身どれだけわかってるのか心もとないのですけど、本来の自分が浮き彫りになっているという表現もありつつも、「もともと持っているものを新たに創造する」という言い方もあるでしょう。もって生まれた「自分の型紙」みたいなものが、徐々にわかってきて、それに無理なく肉付けをしていくというか。わからんかな(笑)。
ああ、この人は、こういう体験があったからこんなに素敵なんだなと。だけど、それだけじゃないなと。体験に食われてないというか、体験を自分の中に取り込んで咀嚼しきってるなと。それは感じたんですよね。
そんな複雑なことを初対面で分かるんかい?って言われたら、これは分かりますよ〜。体験自慢が服着て歩いているような人だったら、一発でわかるっしょ。でも、これだけいろいろ体験してても、まずドンと前にでてくるのは、その人だけの揺るがぬ個性であり、「◯◯さん」って人がただ目の前にいる、ただそれだけなんですよ。「◯◯した人」という「記号」じゃなくて、生身の人間がいるって感じ。これ、おわかりですか?
色々モノを考えてはいるんだけど頭でっかちの印象も実質もないし、個性的ではあるんだけど偏ってるという印象はない。◯◯にハマっている人とか、◯◯系に洗脳されちゃったっぽい人とかいう、属性記号が本質を侵食しているというか、そういう感じでは一切ない。
僕が「面白い」「気持ちが良い」と感じたのは、おそらくはそういう部分だと思います。一言でいえば「自分を持ってる」ってことなんだろうけど、「自分を持ってる」だけだったら、カルト殺人犯だって自分を持ってるっちゃ持ってますからね。問題はその自分の持ち方が好ましいかどうかでしょう。
そして、その「うーん、ちょっと違うんだけどな」「もっと良くなるはずなんだけどな」って感覚が強い。咀嚼はしているけど、それで良しとせずに、あれこれ自分の中にある体験や知識群を組み合わせ、さらに世界に存在するまだ見ぬ新しい知識や体験も視界に入れれば、これが最終形ってことはないでしょう?もっと素晴らしくなるはずなんだけどな〜って思いが強く、それゆえに日々模索していて、その「良くなる筈なんだけどな〜?」って部分が、なんというか真っ直ぐに生きているって感じで、そこが「気持ちが良い」のですね。
「どうせダメだよ」とかヒネくれたりもせず、それなりのことはしてきたし、これからも出来るはずだという謙虚で静かな自信もあり、でもそれが偏平なプライドに堕するわけもなく、ただただもっと素晴らしくなれるんじゃないかって希望オーラがある。まるで温泉が地面から滲みだすように普通に湧いているって感じ。
そのあたりが気持ち良かったです。
なんてのかな、ちゃんと人と会ってる、ちゃんと人と話をしてるって感じですね。
で、冒頭につないで大団円って〆るわけですけど、海老で鯛を釣るにしても、単に論旨内容だけではなく、そのあたりの匂い立つような個性要素があったのかな〜という気もします。でも、これ自分ではよく分からんのですね。それにこのあたりをあんまり言うと、これって他人を褒めているように見せかけて、結局自分を褒めてるだけじゃんってツッコミが入りそうですよね(笑)。ヤらしいよね。
でも、「良い」とかいっても、それはもともと僕の”一風変わった”価値観での話であり、そういう個性オーラをもっている党派が、論理的には解析不能な不思議なビーコン信号を辿って邂逅したって話だと思います。ゲゲゲの鬼太郎の妖怪アンテナ、あの髪の毛がぴょっと立つアレですけど、あんな感じですかね〜、って、どんな感じやねん!って(笑)。あかん、笑いで落としてもーた。
↑奈良から三重に抜ける近鉄線の車中で撮ったもの。伊勢までチンタラ乗り換え乗り換えで行ったんですけど、やっぱ日本の地方はいいですね〜。iPad置き忘れるくらいあれこれ撮ってたので、この後にも複数出てきます。この写真は、なんか70年代の青春一人旅的な一枚ですね。白いフォークギターな。青春18切符の原点みたいな。
↑京都の有名な東寺の五重塔の望遠撮影ですが、よくみると鳥が沢山とまってます。もう「たかってる」って感じで虫みたいで一瞬気持ち悪いんだけど、でもてっぺんの方で段々にくつろいでいるっぽい図は、ちょっとなごみます。
↑伊勢神宮です。全然中が見れなくて、外周ぐるりで終わりだったけど、遠くから望遠で撮ったものです。でも、思ってたのと全然イメージが違って、まあ遷宮新築だから当然とはいえ、ピカピカすぎ。なんつか、合体ロボ一号、二号みたいな感じ。あそこまで金金にしなくてもよいのでは?と、なんかプラスチックか超合金製みたい。
↑なんてことない写真なんですけど、「望郷」「旅に出ませんか」的な一枚。これも前回と同じく昭和歌謡のカラオケの画面みたいな。たまたま写り込まれた方は、全然知らない方ですが、なぜかホームの先端に立っておられて、まさかどいてくださいとも言えず撮りましたが、でも結果的に「いい仕事」されてます。
↑駅の写真&逆光写真は定番ですよね。ほんと雰囲気出ます。
↑ 手すりに雀の彫刻があるのが可愛いんですけど、でもしげしげと見なおしていたら、なんか懐かしい感情が出てきました。これなんだろうな?と心の中を探っていったら「小学校の土曜日の感覚」でした。半ドンで終わりで、日の高いうちに学校から帰るときの感じ。明日は日曜で、なんか開放感があって、陽射しもやさしげというあの頃の感覚を僕は感じました。ああ〜、こんな感じ、こんな感じって。
↑これも定番の駅と逆光。京都駅、大阪方面新快速の乗り場ホームです。
↑京都の錦市場の奈良漬屋さん。ビジュアルに楽しいんだけど、英訳と中国語訳がありますね。奈良漬けも爆買いしてはるんだろうか。
↑ここから奈良〜三重の車窓風景が続きます。これは故郷の田舎的な感じが良くて。見事な切妻屋根ですな。
↑一瞬だけあった風景ですが、なんか川のあたりが心持ちカナダっぽくて。乗りながら、「あ、あの川岸まで行きたい」とか思っちゃったもんね。何があるわけでもないけど、なんか楽しそう。
↑これも故郷の春的な。ふらふらっと降りてしまいたくなりました。小さな駅に停車した時の、束の間の静寂が僕は好きです。「ほおっ」とするような感じ。
↑なんてことない一枚ですけど、個人的な心象風景にハマったので。地方に旅行に行くとき、電車の旅が終わって、やれやれやっと着いたあってときによく見る風景です。全体に閑散としてて、線路が延びて、駅裏に駐車場があって、線路脇にお約束のようにマンションが建っているという。
個人的にさらに味わい深いのは、遠距離恋愛時代が結構長かったので、会いに行くとこの風景がまず入ってくるという。僕にとっては主観的に”艶めいている”風景。
文責:田村
わずか10日あまりの今回帰省滞在において、恒例の(ってもまだ二回目だけど)カジュアル説明会をやったのですが(会って話たい人、どうぞってだけだけど)、直近告知にもかかわらず、そこそこの人数の人と一対一でお話することが出来ました。この機会に再度御礼をば。
もちろん本来のワーホリや留学希望の方々にも来ていただけたのですが、まったく”営業”とは関係ない、この「エッセイ読んでて興味があるから」という、ただそれだけの理由で、遠方(東京、名古屋、三重、福井)からはるばる京都まで、交通費と時間を使ってお越しいただいたのは嬉しい誤算でありました。もっと嬉しいのは、どなたも気持ちの良い方々で、僕自身がとってもエンジョイできたことです。
「エビで鯛を釣る」ではありませんが、こんな駄文エッセイでこのような素敵な人達と知り合えるなら、いやあ、書いてみるんやね〜って感じです。
あまりにも面白い人達だったので、卒業生専用の掲示板に「こんな人達に会ったよ〜」と自慢たらしく書き(^^)、さらに各エリアの人に興味があったら会ってごらん、紹介してつなぐよ〜と焚き付けたくらいです。でもって、A=B,B=CならばA=Cみたいな単純な等式論理ってわけではないのだろうけど、それぞれに実り多い時間になったようです。相手のご自宅までいって飲み明かしたケースもあったようで。
振り返ってみて思ったことがいくつか。
不思議な波長共鳴と個性
フィルター理論
一つは波長が合うのもむべなるかな、という点で、もともとがこんなクセのある(独特の価値観にもとづいている)、やたら長いエッセイを愛読しているという”一風変わった”趣味の持ち主でしょうから、発想や価値観も自ずと近いでしょう。だから波長が合ったとしても不思議ではない。でも、よく考えるとやっぱり「不思議」なんですよね。
そんなことって現実にあるんだな〜という。
確かにね、理屈ではわかるのですよ。
なんというのか、「篩(ふるい)の目の粗さ/細かさ」といいますか、フィルターがキツいほど結果的に粒が揃う法則というか。オリンピックだって、参加したかったらまず自分の国で制覇しろってくらいの途方もないフィルターになってるから参加者の粒が揃うわけですし。
あ、こう言うと、ともすれば偏差値的上下関係に翻訳して曲解してしまう人もいるかもしれませんね。そうじゃないですよ。「粒が揃う」という最高品質的な表現がいけないのかな。確かに粒が揃うんですけど、それはあくまで僕の独自のケッタイでユニークな価値観からみての話です。こんな基準は人の数だけあるのであって、一般的に人を選別評価する尺度ではないです。
それはさておき、虫嫌い率90%のところで虫好きサイトを作ったら、もうそれだけでフィルターがかかって、残るのは10%内外になるでしょう。しかし、これをもって「上位10%の成績優秀者」という世間一般のエリート性を示すかといえば全然でしょ?要するに虫好き価値観からみたら「粒が揃った」と感じられるだけのこと。
さらにフィルターを細かくしていくともっと「粒が揃い」ます。例えば、昆虫採集というテーマでも、可愛い虫ちゃんを殺したくない、ただ共生するのを楽しみたいという観察派 or キャッチ・アンド・リリース派もいれば、出来るだけ良好な状態で保存し、美しい標本を作るんだ〜というコレクター派もいると思うのですよ。やっぱこの両派は微妙に(あるいは明確に)話が合わないと思うのですよ。最終的に目的とするものが違うし。さらに共生派でも、庭や裏山に散歩しつつ「おや、こんなところに」という風情を楽しむ派もいれば、養老孟司さんみたいにカメムシ追いかけてインドネシアのジャングルまで行くような派閥もあるわけで、そこも違うんじゃないか。はたまた共生といっても、自分の身体の中に寄生虫を飼ってて「共生してまーす」とかやってられたら、そこまではついていけんわとか、いろいろあると思うのですよ。
そのあたりの「ここから→ここまで」的な価値観なり、守備領域なりを明確にすればするほど、「話が合う」人の率がガタ減りするのですが、同時に話が合った時の合致率みたいなものは劇的に高くなるでしょう。
とまあ、ね、理屈では分かりますけど、でもそれって理屈でしょ?って見方もあるわけですよ。
そんなね、あんた、世の中理屈どおり廻りまっかいな?たいがいにしとき〜という。大人な見方。それはそれで分かる。
でも、実体験としていえば、やっぱ本当にそうだったのですね。それも一人や二人じゃなくて、4人も5人もそうだったし、逆に例外はなかったので。「不思議だな〜」と。
ということはですね、そのフィルター理論によるならば、僕のこのエッセイもそれだけフィルターがキツいということであります。しかし、逆に言えば、それだけ全く一般受けしない超アウトロー的な、網走番外地みたいなものを僕は書いているのだということでもあり、喜ぶべきか、悲しむべきかという(笑)。
ま、喜ぶべきことだとは思いますよ。実際楽しいし、鯛も釣れたし。
フィルターのあれこれ
もっとも、書いてる本人からすれば「こんなん、誰でもそう思うんじゃないの〜?」くらいの感じなんですけどね。とは言いながらも、「これは考えたことないやろ?へへへ」みたいなヘンテコなツイストも意図的に入れてます。
と言うかね、そういう”想定外のヒネリ”みたいな部分が無かったら読む意味なんかないんじゃないですか?「ほう?」「なるほどね」「ああ、そこまでいっちゃうのか」というスティミュラスな部分、刺激的な部分が無いと面白くないでしょう?どっかニュース番組みたいな、毒にも薬にもならない人畜無害なコメントとかさ〜「一刻も早い真相解明が待たれます」「政治家にはしっかりしてもらいたいですね」的な、「はやく春になるといいですね」的なコメント、というよりは世間話、まるでお義理で出席した見知らぬ人のお通夜で見知らぬ人と形ばかりの会話をするみたいな。そんなもん読みたくてネット巡回してないんじゃないですか?Waste of your timeとは思いませんか?まあ、思わない人が90%くらいなんかもしれないから、「こんなん誰でもそうは”思わない”」のかもしれませんけど。
あとですね、何ら新規なアイディアがなかったとしても、一字一句自分が常日頃思ってることをズバリと誰かに書いてもらえると「よくぞ言ってくれた!」的なカタルシスはあります。モヤモヤした思いを明瞭に言語化するカタルシスもあります。
それはそれでよく分かります。なんといっても前職でやってた刑事弁護の弁論要旨なんか基本それですもんね。犯罪者として世間に糾弾されている人でも、それでも言いたいことの一つや二つはある。それは子供の頃にお母さんに頭ごなしに怒られて、そりゃ悪いのは自分だけど、でも部分的には「それは違う!」と言いたいことはあって、でも言えなくて、「だって、、」しか言えなくて、言えば言うほど余計に激しく怒られて、結局悔し涙目上目遣いに見ていた、、、という記憶のある人だったらわかるっしょ。その種のわだかまりが残ると「世間を恨む」という成分が残って良くないので、弁護人が本人の代わりに思う存分言ってあげて、解毒させて、でもさ、それでも罪は罪だよね、ケジメはケジメでつけなきゃねって素直に服役していただく儀式です。成仏していただくお経みたいなものです。単に、酢のこんにゃくのと屁理屈並べて、白を黒と言いくるめているわけではないのですね。
ま、そういうカタルシス機能もわかるんだけど、でもそれって書いててわかるので、意図的に避けてる部分もあります。なんか迎合というかウケ狙いというか、ここで終わらせておけばいいのに、わざわざもう一歩も二歩もツイストをかけたい。スッキリするのも大事だけど、スッキリして終わってしまったら後が続かないので、それも良くないな〜と。
そのあたりの妙なこだわりが、どんどんマイノリティに向かわしめ、フィルターの目がきつくなっていく原因かもしれません。
そこから先はアートと感性の世界
むしろ理想をいえば、誰一人共感しない、世界で自分だけが納得しているという超弩級のマイノリティまで行くべきだとは思うのですよ。誰も共感しないなら、そんなものを公開する意味があるのか?って気もするけど(笑)。でも、できっこないのですよ。できっこないから理想。どんなにオリジナリティ溢れるつもりでも、世界で同じこと考えている人は3人いるって言いますし、実際には数万人規模でいると思いますよ。同じ現実社会に生きて、似たような知識経験をもっていれば、十人十色はいえども、発想のパターンなんか1万通りもないと思いますもんね。せいぜい数十、数百レベルでしょ。思うのですが文章表現というのは、一定のレベルまでは論旨や論理ですけど、そこから先はアートの世界になっていくのだろうな〜と。理性よりも感性主体になっていく。論旨を要約すれば全く同じようなことを書いていても、その書き方が違う、表現方法が違う、タッチが違う、空気感が違う、言葉のもつ色彩感が違う、浮遊感が違う、そこで初めて世界で一つというオリジナリティが出てくるのでしょう。論旨や発想の新規性だけではそこまでは到底いけないだろうと。
でもって、世界にこれだけという One and Onlyの絶対レベルまで突き詰めたら、そこで何やら臨界反応だか、世界反転だか、極小=極大みたいなワケのわからない不思議な現象が起きて、逆に誰にでもわかるという普遍性を獲得するのでしょう。それがアート。超マイノリティ=超マジョリティという、無茶苦茶な現象。なんか神がかってますけど(^^)、そういうことなんだろうな〜とボンヤリ思います。
ゴッホの有名な「ひまわり」の絵だって、別に「ここにひまわりがあります」という情報を得たくて絵を見ているわけじゃないですよね。なんの変哲もないひまわりでも、ゴッホのタッチ、あの単に絵の具をメチャクチャに混ぜて分厚く塗りたくってるだけのような、しかし、えも知れぬ迫力があって、生命力があって、それはどっからそう感じるのかよくわからないけど、見た瞬間に絵からそれが放射されているという。松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」という俳句だって、「それがどうした?」と言われたらそれだけの話です。仮にリアルタイムに一緒にいて、「今、蛙が飛び込む音がしたよ」とか言われても、「ふーん」「ほんで?」てな感じでしょう。客観情報としては殆ど無価値に近いくらいなんだけど、それを敢えて俳句にするという表現行為で、それをとりまくナチュラルで閑寂な世界がぐわっと広がってくるわけですよね。極めてパーソナルな、そんなこと気にしているのは世界でもあんたくらいでしょってくらいドマイナーなことでも、表現行為いかんによっては万人に感動を与えるという。不思議ですよね〜。
これを突き詰めていくと、「個性とはなにか?」問題というか、皆それぞれ違った個性が絶対あるんだけど、でも同時に皆同じなんだよという話、全部違うけど全部同じであるという。ああ、もう仏教哲学ですよね。「有るけど無い」の色即是空。絶対矛盾の自己同一、西田幾多郎か。分かりもしないで書いてるけど。でも、この世界はそこが不思議でワンダラスです。宇宙に果てはあるの?時間に終わりはあるの?みたいな、突き詰めていくと全然わからない。一本道をまっすぐ歩いていたら、いつのまにかスタート地点に戻ってましたという。もう世界の根本秩序がメビウス。それが不快かというと、いや嬉しいですね。世界がそのまま遊園地みたいな構造になってるのって、なんかワクワクするよね(こんなこと書いてるからフィルターがかかるんだろうけど)。ところで、英語のワンダフル(wonderful)っていうのは、wonder(当惑する、戸惑う)がfull(いっぱい)だから、なんでだろうね〜?不思議だよね〜ってのが一杯ある状態をもって「素晴らしい」という。いや英語世界も「よくわかってんじゃん」って気がします。
幸福とは快楽であり、快楽とは楽しさであり、楽しさの重要な要素の一つに意外性があると思います。「え?なんで?」「わ、すご!」という感情が心をふわっと浮き立たせる。ワクワク&ウキウキの素。そしてそれは、なんでも不思議がったり、好奇心を抱いてないと生じにくい。ということで、すべからく不思議がるといいかも。不思議がったり、好奇心に満ちている人で鬱になる人は少ないんじゃないかな〜。
感性個性の自由度
やあ、話がとっ散らかってきましたね。箒と塵取でかき集めるようにキュッとまとめると、もし僕のエッセイになんらかのフィルター的なる機能があるとしたら、それは書いている内容部分もさることながら、そこから先の感性部分での波長共鳴があるのかもしれません。もちろん「アート」というほどのレベルには到底達してないけど、どんな下手っぴにも個性はありますから、感性的な個性という意味ですね。そこがフィルターの役割を果たしているのかな〜とか思いました。
実際、意見が同じ、趣味が同じだけでは、そうそう波長は共鳴しないと思うのですよ。それは同好の趣味の人が集まったクラブ活動でもサークルでも、なんとなく肌が合わない人とか、生理的に嫌いな人とかがいて、どこでも派閥争いや仲良しグループができるという経験的な事実から頷けます。
それがどうした?というと、もしご自身でブログなりサークルなりお作りになるなら、主義主張や趣味テーマもさることながら、感性的な個性の部分が意外とキモになるのではないか?と。その人らしさというか、巧まずして出てくる部分、「しのぶれど色に出にけり我が恋は」的な部分、匂い立ってくるような部分です。それが人を集め、人をいい意味で選別するんじゃないか。同じようなことを言うにしても、その言葉の選び方一つ、その論理のつなぎ方一つに、その人のタッチは出てきます。例えば、ある部分ではブロックを積み上げるような緻密な論理構成をしているかと思ったら、ある部分ではピヨ〜ンとワープしてたりとか、そのアンバランスな感じがその人の個性です。
ただし、これって狙ってやってるとあざとい感じになって台無しですから、天然がいいですよね。
天然を活かそうと思ったら、ある程度は自由度の高い書き方をすると良いのでしょう。「ビジネスレター入門」的な紋切りコピペだと死にます。非の打ち所のない名文なんだろうけど、でも何も伝ってこないとか。逆に言ってることはかなりメチャクチャだし、全然意見は違うんだけど、でもこの人面白いわ、会ってみたいわって。
巧まずして匂い立つ個性〜このあたりを言語技術が覚束ない英語でやろうと思ったら至難の業です。とにかくボキャがない&文法が自信ないから間違ってない英文をつくるのに四苦八苦して、そこが終着点になってしまう。本当に英語の出来る人というのは、英文書かせたり喋らせたりしたら、その人独特の個性が自然と出てくる人なのでしょう。そこまでいって初めて一人前なんですかね、道ははるかに遠いな。
行動が個性と面白さを彫り上げる
個性的な体験、個性的な人格
もう一点思ったのは、どなたも気持ちが良く、奥行きのある面白い方々だったんですけど、なんでこんなに面白くて奥行きがあるのかな?という理由です。「そういう人だから」という先天的な素質もあるんだろうけど、僕が思うに、後天的な事情、それもちょっと変わった体験をしていてそれが大きいのかなと。ある方は一時期オーストラリアに住んでおられ、ある方は思い立ったが吉日的にぽーんと沖縄にしばらく暮らし、ある方はドイツに、アメリカに、あるいは広告業界からいきなり塾経営に転身され、、と、それぞれにちょっと変わった航路をたどっておられます。
サイトの性格上海外系が多いのも分かるのですが、かといって海外だからどーのという基軸にはなっていません。そんなただの海外自慢とか浅薄なレベルではなく、それらの体験がその人の個性に刻まれ、さらに人格として陶冶されていっているような感じですね。大体ですね、海外っつってもですね、長いこと住んだら誰でも分かるけど、住めば都であり、住めば「日常」ですよね。そんな別にどってことないです。僕のように20年以上もおったら、もう特別もクソも、日本とオーストラリアの心理的な距離感は、自宅のキッチンと奥の寝室くらいの差でしかないですもん。どっちも日常になってしまえば、「このエリアに入るとこういう感じになる」という場の個性差でしかない。
ただ、どんな経験であれ、それをすることで誰しも何事かを感じ、考える。それが日常になってしまうくらいの期間なら、日常的に何かを感じて考えるでしょう。自然と考え方や感じ方が変わっても不思議ではないです。そして、そこで新しい個性が生まれてくるのでしょう。それがちょっと変わった体験であれば、ちょっと変わった個性が生まれる。
体験は土木工事、脳内作業は内装工事
そこで思ったのは、考えたり、人の意見を聞いたり、本を読んだり、、、情報のやりとりでは限界があるんだろうなという点です。確かに、それで知識は増えるし世界観も広がるかもしれないけど、それっていわば内装工事みたいなもので、本格的な土木工事にはなりにくいのではないか。ドーンと地中深く掘り下げてパイル打ち込んだり、山を切り崩したり、大河に橋をかけたりって作業になると、抽象的な情報が行ったり来たりする脳内作業では足りずに、何らかの実体験が要るのだと思います。
人間の意思決定やモチベーションというのは、知性よりも感情によって生じる。それが些細な事務作業であれば論理(能率とか損得)で決定しやすいですけど、より大きな方向性やら、人生の根幹に関わるような物事になるにつれ、論理では人は動かなくなる。やっぱ決め手になるのは感情でしょう。
そして感情というのは活字情報によって生じる場合もあるけど、体験事実の方が何十倍も強力に作用すると思います。体験というのは五感に訴えますからね。理屈ではその通りであったとしても、実際にやってみたら思ってもみなかった五感作用で猛然とやる気になったり、絶対イヤとなったりもします。例えば、匂いなんか強力な作用があります。今日は腹が減ってないからとか、ダイエットしてるからご飯は要らないわとか言いながらも、ぷーんとカレーの匂いやら鰻の蒲焼の匂いが漂ってきたら、いきなり腹が減って、「や、やっぱりちょっとは食べないとね」と180度意見が変わる。逆に、男の戦場だあ、血沸き肉踊るぜとか思って現場に出てみたら、四散した肉片が散らばってて、何よりも腐臭が物凄くて、十秒も我慢できずに吐いてしまって、もう二度と〜とか思うこともあるでしょう。僕も検察修習のときに死体解剖に立ち会う(検視)ため法医学教室を訪れましたが、あの死臭というのは独特ですよね。関係者の人は慣れっこなんでしょうけど、もう生きる気力を根こそぎ奪うようなパワーがある。スプラッタ的なビジュアルショックよりも、匂いがきつかったですね。
今度の休みに海に行こうぜとか言われても、海なんか飽きたよ、慣れたよ、ありきたりだよ、陳腐だよ、ダセーよとか言ってるんだけど、いざ行ってみたら、降り注ぐ陽光やら、ツンとした潮の匂いやら、何よりも海そのものの巨大な存在感やら、空間そのものが気持ちよくうねっているような臨場感覚にやられちゃって、超楽しい〜!って話はあるでしょう。僕も語学学校に通ってた時、なにを血迷ったか全校あげて「運動会」があるとかで、もう気分は高校時代にもどって、けっ、かったりーよ、三十面さげて何がスプーン競争だよ、ばっかばしい!とか、ウザ度300%くらいで朝行ったんですけど、結局、終日一番はしゃいでいたのは自分だったという(笑)。もう、楽し〜い!って、いやあ楽しいってこういうことだったのか、忘れていたなあ、みたいな。
やっぱり五感の説得力っていうのは凄まじいものがありますよね。それに比べてみたら脳内論理の説得力なんぞ、、って。
逆にいえば、人を説得しようとしたら、論理的説得と並行させて感情的説得もしないとダメでしょう。論理という表地に、感情という裏地をきっちり縫い付けておく。説得的な文章というのは、だいたいそのあたりは抜かりないですよね。「情理を尽くして」とかいいますが、「情」が大事です。人は「辻褄が合わない」「論理的整合性を欠く」ようなことは結構放置できるのですけど、「可哀想なこと」「ムカつくこと」はそれほど放置できない。
もうひとつ応用をすれば、気分転換をしたかったら、五感に訴える物事をどんどんするといいです。特に落ち込んでる時とかは、それとは違った感情をムクムクと隆起させるような出来事ですね。極端な話、クビになりました、再就職もヤバそうです、人生もうダメぽですってときに、たたたっと可愛いらしい女の子が駆け寄ってきて、緊張に赤く上気した顔で、「こ、これ読んでください!」とかいってラブレター渡されたりしたら(今どきこんな古典芸能シーンがあるのかどうかの時代考証はさておき)、もうクビのことなんか忘れちゃうもんね。そんなことどーでもいいもんね。てか「どうでもいい」とすら思わないもんね。今泣いたカラスがもう笑ったとはよく言ったもんで、事象Aによって凹まされた感情は、事象Bによって他愛なく回復するのだ。人間なんか、そんなもんよね〜。
ま、そんな望外の事象Bがたたたって駆け寄ってくるケースはマレでしょうから、自分からつくる。やけ食い、ヤケ酒、不貞寝けっこう。新たな五感でネガ感情を相殺中和するわけですから。同じ原理で、とにかくプールでも海でもぼちゃっと全身漬かるとか、カラオケで千本ノックのノリで連続100曲血管ブチ切れるまで歌うとか、全曲知らない歌を自分でその場で作曲しながらテキトーに歌うとか、全然知らない街にいって迷子になって心細い思いをしてみるとか、日頃買わないような趣味の服を無理やり買ってみるとか、ぶっとーしでどこまで歩けるかやってみるとか、ともあれ普段やらないような強烈な異物をぶつけるといいですよね。「なんでこんなことを?」「何が悲しゅうて」という意味度ゼロがいいです。意味が通ったら異物にならんし、意外性がないから楽しくなりにくい。
えーと、何の話かといえば、脳内情報は内装でって話でした。そうなんですよね、本とか読んで考えても、せいぜいカーテンを取り替えたり壁紙変えたりして気分を新たにしましょうくらいだけど、実体験・土木工事は、ときとして発破でドーン!くらいの威力がありますから。一気に山の形が変わったりするもんね。
書を「持って」街に出よう
こんなこと書くと、なんか体験重視の「書を捨てて街に出よう」みたいな話ですけど、ちょっと違います。別に「書」は捨てなくてもいいだろうし、「街」くらいの体験では足りないようにも思います。ま、「書」も「街」も象徴的に言ってるだけだろうから、別にそこで噛み付かなくてもいいんですけど。でも「街」に象徴されるように、単に外に出よう、アウトドア派になろうって話だけでもないと思います。
それなりに変わった体験、まあ「変わってる」ことに価値があるわけじゃないけど、「へえ、そんな世界もあったのね」と思えるような意外性のある体験が面白いのではないかと。それも別にアマゾン秘境の冒険みたいなものでなくても、同じ街の中でも違った仕事をしてみるとか、同じ日本のなかでも一時期瀬戸内海の島に住んでましたとか、そのくらいのことでも十分「変わった」といえるのでしょう。一般的に珍しいかどうかではなく、その人のそれまでの世界観からみて「変わった」かどうかですから。
そして「書」は書で、脳内作業もやっぱり大事だと思います。実際、お会いしたどなたも、深く物事を考えておられる方々で、その深さが人間的な好ましさに転じている。
結局、書も街も表裏一体ではないか。
これは自分自身の体験を振り返ってそう思うのですが、変わった体験をすると、それまでの世界観との辻褄を合わせないといけないから、けっこう猛烈にものを考えるわけですよ。例えば人を見たら泥棒だと思えみたいなコスッ辛い世界で生きてきた人が、多くの人々から無償の善意を受けるような環境になった場合、最初は「けっ」とか思ったりするけど、だんだんと「人間って意外といいのかも」って変わっていく。これまでそう思ってきたけど、実は違うんじゃないか。かといって、「はい、今日からこっちでーす」みたいな制服の衣替えみたいにコロッと変われる筈もなく、信じていい人といけない人が二種類いて、その見分け方はとか色々考える。考えざるをえない。ちょっと前に、海外生活の最初の頃は、知恵熱が出るくらいいろいろ考えると言いましたが、ほんとにそうで、それまでの自分の世界観では処理しきれなくなってくるから、あちこちに別館を臨時増設したり、渡り廊下を作ったり、それじゃ間に合わないから本格的に全部壊して新築したり、忙しいんですよね。
様々な体験が思考を促す。
激しくいろいろ考えるようになるから、書も読むだろうし、情報も欲しくなる。つまり、「街」が「書」を促す。これは書が書を促す(知的好奇心が湧いてきてもっと知りたくなる)よりも強いと思います。書から得るのは「ふーん、こういう考え方もあるのか」という程度ですが、体験レベルになると「あるのかあ」じゃなくて目の前の現実として厳然として「ある」のですよ。泣いても笑ってもあるんだから仕方がないという。なんとかこの現実を自分の理解に合うように咀嚼しなきゃいけないから切迫感が違う。
また、動かぬ現実を前にした思考や読書というのは、書だけ読んで「なるほど」と鵜呑みにするようなリスクが少ないです。洗脳されにくいといってもいいかな。なんせ書だけでは辻褄の合わない部分が絶対出てきているはずですから。それはその人が目の前の現実を、正確に虚心坦懐に見つめれば見つめるほどそうでしょう。適当にチラ見して「こんなもんか」という浅い体験だったら、浅い言説に惑わされるだろうけど(◯◯人はこういう性格とか)、深く長く体験するほどに、そんな一概に言えるわけないじゃないかってのもわかってくるから、そんなに簡単に情報に騙されない。
最後に本来の個性が浮き彫りになる
体験の質量〜思考の質量が一定レベルを超えて多くなってくると、逆にその人が本来持っている個性が浮き彫りになってくるように思われます。体験&思考の絶対量が少ない間は、ちょっとのことが大きな影響を持ちます。学生時代にちょっと勉強が出来なかった、授業をサボり気味だったというだけで、自分は不良だワルなのだという可愛いアイデンティティが出てきて、染まったりするのだけど、どっかの中小企業のオヤジさんに拾われ、厳しくも温かく接せられ、仕事の充実感やプライドも覚え、やがて本当に好きな人と所帯を持ち、子供が出来、しかし事情によって離れ離れになり、山奥でしばらく暮らし、大病をわずらって1年くらい入院し、入院中にまた誰かと出会い、、、とかやってると、それぞれの体験がそれぞれに相殺しあったり、中和したりしてくるでしょう。あんなこともこんなこともやってうちに、もはやシンプルな体験だけでは揺るがなくなってきて(付加や拡大はするけど)、その人が本来持っている子供の頃の個性が自然と出てくるのではないか。
人格や性格というのは、見方を変えたら情報処理のパターンだと思います。ある種の情報は大事なものとして中心に据え、ある種のものは周辺に置くとか、その選別配列パターン。だけど、そのパターンそのものを変えるほどインパクトのある体験もあります。「ああ、これって意外と大事だから真ん中に置いておこう」とかね。それによって情報処理パターンが変わり、だから性格や人格も変わっていく。そして、それもこれも積み重なって、ああ変わりこう変わりと紆余曲折を経ているうちに、全体に中和されてきて、まだ何も体験してなかった幼児の頃の本来の自分のパターンが最後には浮き上がってくるような気がします。もっとも、そのためにはバランスよく体験しないとダメだとは思いますけどね。イヤな事ばっか100連発であったら、本来がどうあれ誰だってスサんでくるでしょうから。
このあたり微妙な感覚でわかりにくいと思いますし、僕自身どれだけわかってるのか心もとないのですけど、本来の自分が浮き彫りになっているという表現もありつつも、「もともと持っているものを新たに創造する」という言い方もあるでしょう。もって生まれた「自分の型紙」みたいなものが、徐々にわかってきて、それに無理なく肉付けをしていくというか。わからんかな(笑)。
体験に食われてない
で、お会いしながら思ったのですね。ああ、この人は、こういう体験があったからこんなに素敵なんだなと。だけど、それだけじゃないなと。体験に食われてないというか、体験を自分の中に取り込んで咀嚼しきってるなと。それは感じたんですよね。
そんな複雑なことを初対面で分かるんかい?って言われたら、これは分かりますよ〜。体験自慢が服着て歩いているような人だったら、一発でわかるっしょ。でも、これだけいろいろ体験してても、まずドンと前にでてくるのは、その人だけの揺るがぬ個性であり、「◯◯さん」って人がただ目の前にいる、ただそれだけなんですよ。「◯◯した人」という「記号」じゃなくて、生身の人間がいるって感じ。これ、おわかりですか?
色々モノを考えてはいるんだけど頭でっかちの印象も実質もないし、個性的ではあるんだけど偏ってるという印象はない。◯◯にハマっている人とか、◯◯系に洗脳されちゃったっぽい人とかいう、属性記号が本質を侵食しているというか、そういう感じでは一切ない。
僕が「面白い」「気持ちが良い」と感じたのは、おそらくはそういう部分だと思います。一言でいえば「自分を持ってる」ってことなんだろうけど、「自分を持ってる」だけだったら、カルト殺人犯だって自分を持ってるっちゃ持ってますからね。問題はその自分の持ち方が好ましいかどうかでしょう。
希望温泉
先ほど「咀嚼しきった」とか書きましたが、正確に言えば咀嚼している途中です。それに強く影響される段階は過ぎているんだけど、全体の最終形はまだまだ先というか、全体にどう統合させていけばいいのか、その作業中という。そして、その「うーん、ちょっと違うんだけどな」「もっと良くなるはずなんだけどな」って感覚が強い。咀嚼はしているけど、それで良しとせずに、あれこれ自分の中にある体験や知識群を組み合わせ、さらに世界に存在するまだ見ぬ新しい知識や体験も視界に入れれば、これが最終形ってことはないでしょう?もっと素晴らしくなるはずなんだけどな〜って思いが強く、それゆえに日々模索していて、その「良くなる筈なんだけどな〜?」って部分が、なんというか真っ直ぐに生きているって感じで、そこが「気持ちが良い」のですね。
「どうせダメだよ」とかヒネくれたりもせず、それなりのことはしてきたし、これからも出来るはずだという謙虚で静かな自信もあり、でもそれが偏平なプライドに堕するわけもなく、ただただもっと素晴らしくなれるんじゃないかって希望オーラがある。まるで温泉が地面から滲みだすように普通に湧いているって感じ。
そのあたりが気持ち良かったです。
なんてのかな、ちゃんと人と会ってる、ちゃんと人と話をしてるって感じですね。
で、冒頭につないで大団円って〆るわけですけど、海老で鯛を釣るにしても、単に論旨内容だけではなく、そのあたりの匂い立つような個性要素があったのかな〜という気もします。でも、これ自分ではよく分からんのですね。それにこのあたりをあんまり言うと、これって他人を褒めているように見せかけて、結局自分を褒めてるだけじゃんってツッコミが入りそうですよね(笑)。ヤらしいよね。
でも、「良い」とかいっても、それはもともと僕の”一風変わった”価値観での話であり、そういう個性オーラをもっている党派が、論理的には解析不能な不思議なビーコン信号を辿って邂逅したって話だと思います。ゲゲゲの鬼太郎の妖怪アンテナ、あの髪の毛がぴょっと立つアレですけど、あんな感じですかね〜、って、どんな感じやねん!って(笑)。あかん、笑いで落としてもーた。
↑奈良から三重に抜ける近鉄線の車中で撮ったもの。伊勢までチンタラ乗り換え乗り換えで行ったんですけど、やっぱ日本の地方はいいですね〜。iPad置き忘れるくらいあれこれ撮ってたので、この後にも複数出てきます。この写真は、なんか70年代の青春一人旅的な一枚ですね。白いフォークギターな。青春18切符の原点みたいな。
↑京都の有名な東寺の五重塔の望遠撮影ですが、よくみると鳥が沢山とまってます。もう「たかってる」って感じで虫みたいで一瞬気持ち悪いんだけど、でもてっぺんの方で段々にくつろいでいるっぽい図は、ちょっとなごみます。
↑伊勢神宮です。全然中が見れなくて、外周ぐるりで終わりだったけど、遠くから望遠で撮ったものです。でも、思ってたのと全然イメージが違って、まあ遷宮新築だから当然とはいえ、ピカピカすぎ。なんつか、合体ロボ一号、二号みたいな感じ。あそこまで金金にしなくてもよいのでは?と、なんかプラスチックか超合金製みたい。
↑なんてことない写真なんですけど、「望郷」「旅に出ませんか」的な一枚。これも前回と同じく昭和歌謡のカラオケの画面みたいな。たまたま写り込まれた方は、全然知らない方ですが、なぜかホームの先端に立っておられて、まさかどいてくださいとも言えず撮りましたが、でも結果的に「いい仕事」されてます。
↑駅の写真&逆光写真は定番ですよね。ほんと雰囲気出ます。
↑ 手すりに雀の彫刻があるのが可愛いんですけど、でもしげしげと見なおしていたら、なんか懐かしい感情が出てきました。これなんだろうな?と心の中を探っていったら「小学校の土曜日の感覚」でした。半ドンで終わりで、日の高いうちに学校から帰るときの感じ。明日は日曜で、なんか開放感があって、陽射しもやさしげというあの頃の感覚を僕は感じました。ああ〜、こんな感じ、こんな感じって。
↑これも定番の駅と逆光。京都駅、大阪方面新快速の乗り場ホームです。
↑京都の錦市場の奈良漬屋さん。ビジュアルに楽しいんだけど、英訳と中国語訳がありますね。奈良漬けも爆買いしてはるんだろうか。
↑ここから奈良〜三重の車窓風景が続きます。これは故郷の田舎的な感じが良くて。見事な切妻屋根ですな。
↑一瞬だけあった風景ですが、なんか川のあたりが心持ちカナダっぽくて。乗りながら、「あ、あの川岸まで行きたい」とか思っちゃったもんね。何があるわけでもないけど、なんか楽しそう。
↑これも故郷の春的な。ふらふらっと降りてしまいたくなりました。小さな駅に停車した時の、束の間の静寂が僕は好きです。「ほおっ」とするような感じ。
↑なんてことない一枚ですけど、個人的な心象風景にハマったので。地方に旅行に行くとき、電車の旅が終わって、やれやれやっと着いたあってときによく見る風景です。全体に閑散としてて、線路が延びて、駅裏に駐車場があって、線路脇にお約束のようにマンションが建っているという。
個人的にさらに味わい深いのは、遠距離恋愛時代が結構長かったので、会いに行くとこの風景がまず入ってくるという。僕にとっては主観的に”艶めいている”風景。
文責:田村