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今週の一枚(2015/03/09)



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Essay 713:二度寝JAPAN〜国家共同幻想の融解

 写真は、京都の東本願寺にて。
 敷地の北はずれくらいで、公道に面している門でしたが、ふと見ると猫達が。

 最初、置物か彫刻かなんかだと思った。全然動かないし、あまりにも出来過ぎている配置だし。でも、「え?本物?なんで?」ってすぐわかって、あとは写真撮りまくり。これがいわゆる「猫の集会」というやつでしょうか。いいもん見せていただきました。

 そういえば、芸妓さんとか「猫」という呼び名があるらしいですね。和服(羽織)を着て、正座してお辞儀をしていると(帯で背がふくれて)猫がちょこんと座ったシルエットになるから。丁度この写真のように。

 見事なトラ猫やら錦鯉みたいな三毛猫やら、さすが京の都って感じで(ちがうか)、浮世絵みたいな。



 数日前に日本から戻ってきました。
 なんというか、「ふう」って感じ。
 銭湯の大浴場から出てきて脱衣場にいる感じ。扇風機の前でコーヒー牛乳飲んでる感じ。視野がクッキリして、空気がひんやり普通になって、リラックスして自分が自分に戻った感じ。「わーん」と反響し続けていた通奏高音が消えた感じ。

 いつも帰省すると長々帰省記を書くのですけど、前回述べたように今回はそんなに間隔空いてないので、それほど多くはないです。飛ばしちゃってもいいかな〜とも思ったけど、いくつかあるので。帰省とは関係ないのかもしれないけど。

 思ったことを箇条書すると、
 ・二度寝
 ・中枢部では戦時中モード、でもそこだけ
 ・モザイクパーツ社会〜ヤンキー庶民的世界観
 ・突っ込みどころがあるのか無いのか
 ・要は人々の善性のスレ方
 ・視点設定を他人に作ってもらってる時点でダメ
 ・動いた分だけ魅力的になる
 :

 みっちり書いたらそれぞれにエッセイ一本分くらいあるけど、とりあえずばーっと書きます。

二度寝

 前回の「グラニー・フラット」と並んで、今の日本を見て出てきた言葉が「二度寝」。あ、そか、二度寝してるようなものなのかと。

 起きなきゃいけない時間に目が覚めて起き始めたんだけど、なんだかんだ面倒臭くなってまた寝てしまうのが「二度寝」ですけど、まさにそんな感じ。おそらくは数年前の民主党への政権交代が果たされたときが起き時で、あのまま起きていれば何とかなったんだろうけど、又寝ちゃったという。ここでは個々の政党や政策がどうのとかではなく、「潮時」としてはあのあたりであったろうよ、ということです。

 まあ、本当のこと言えば、90年台初頭のバブルがはじけたあたりが本当の起床時間だったとは思います。自民党の長期支配が終わって、細川連立政権が出来て〜ってころ。あの頃は結構まだ盛り上がっていたんだけど。ほんでも、「眠いからいいじゃん」「まだ時間あるし」的な誘惑(変えたくないよ〜という慣性圧力)は強力で、あろうことか自民と社会が連立するという離れ業を演じ(多分このときに目覚まし時計を止めてしまったんだな)、あとは腰くだけ〜。バブルの後始末も、「社会的影響力」が大きいとかで税金つかってウヤムヤにしだしたあたりで、僕も「あ、こら、あかんわ」で見切りをつけて、本気で日本を出る気になったわけですけど。

 ねえ、あんときやってりゃ、「失われた〜◯◯年」とかもなくて、オーストラリアごときに給与水準で負けるわけもなくて、今頃は初任給70万か、平均年収1600万くらいになってたかしらん。これ嘘や冗談じゃないですよ。当時のオーストラリアの給与水準は日本の半分くらいだったんじゃないかな。詳しく確認してるわけじゃないけど、留学中や永住権取得当時もあまりの給与と物価の安さに働く気が失せたくらいだもん(だから完全無収入&貯金食いつぶしでも、呑気にAPLACとか作れたわけだが)。でも、今はオーストラリアの給与の方が2倍かそれ以上になっている。でもって何度も書いてるけど大体給与というのは20年で3倍くらいに上がるもので、日本の過去(90年前まで)もそうだったし、90年代以降のオーストラリアもそう。だから90年台に初任給20万だったら25年後の2015年には70万円くらいになってないと嘘だし、またオーストラリアの給与の二倍水準を今もキープしてたら、今のオーストラリアの平均年収800万の二倍だから1600万くらい貰ってるはずでしょ?株価だって2万円がどうしたなんてケチなレベルではなく、6万とか8万円台で推移してなきゃ。そのくらいの目線でモノ考えてないと本当は嘘だと思うぞ。オーストラリアの90年代初頭の株価は1000ドル台で今は5000ドル台だよ。だから8万円が夢のように思える時点ですでにジリ貧でしょう。

 今日本から来たらオーストラリアの物価は何もかもが目が眩むほど高く感じるだろうけど(給与も高いが)、20年以上前に僕が来た時は「無料みたいなもん!」とワクワクしたもんね。え、嘘?なんでこんな安いの?って。だって当時、語学学校に半年通っても授業料30万ちょいだったし、Glebeの2BRまるまる借りても週220だったし。今だったら同じ学校で100万、同じフラットでも週600以上はしますよ。日本の中にずっと居ったら慣性の法則でピンとこないだろうけど、外からみてたら一貫してフリーフォール自由落下の絶叫マシン状態ですよ。この等比級数であと20年経ったら、もう留学もワーホリも夢のまた夢でしょう。その代わり、こっち来たら最低時給6000円くらいでガンガン稼げるかも(ま、オーストラリアもコケる可能性大だけどね)。


 まあ、こんな「たら・れば」話をしても、そんな計算通りいくわけもないだろうし(てか現実には何一つ実現してないし)、考えるだに虚しいんですけど。でも、この25年で日本人がどんだけ大損ぶっこいているか、これも考えるだに虚しいですよ。逆に言えば、日本社会の中で「こうすりゃいいのに」って伸びしろは山ほどあって、てか、もうほんと「伸びしろしかない」って感じなんだけど、でも伸びしろを伸ばす気はなさそうで。だってさ〜、寝てるんだもん。

 民主への政権交代時点が最後の起きどころ、というかその時点でも既に遅刻確定だったんだけど、まだ謝れば何とか許される程度の遅刻、一時限目はアウトだけど、二時限目くらいには間に合うくらいだったと思います。でも、なんだかんだで「起きたくないよ〜」圧力でポシャって、靴下はいてる途中でまたベッドに倒れこんで、あとはもう一分一秒経過する毎に事態はどんどん悪化している。でも悪化しすぎてもう考えたくもない、夢の世界にまどろんでいたい。イヤなことは無かったことにして解決、あったことが明白になってもシカトして解決。てか「解決」じゃないんだけど。汚染水ダダ漏れでも知らんぷり、当の東電でが「大嘘でした」と発表したとしても話題にもしない。このまま無限に寝てられるわけないんだけど、でも考えたくないって感じ。なんというか、もう、日本全体が不登校だよね。

 でもね〜、二度寝って気持ちいいんですよね〜(笑)。
 ああ〜起きなきゃ〜って思いながら、ふかふかのお布団に埋もれているのって、すっっっごい気持ちいいんだわ。このまま死ぬまで寝ていられたらどんなにいいか、トロトロとしたまどろみから醒めたら、不思議なことに何もかもがちゃあんと解決してて、何事もなかったかのように平常生活が始まってくれたらなあ〜、どんなに素敵なんだろうな〜、もうどうでもいいじゃん〜、気持ちいいんだからそれでいいよね〜って、自堕落な快楽はもう圧倒的で。

 これはですね、僕は力強く語れますよね。なんつっても高校時代はコレでしたからね。高校時代の思い出を一言でいえと言われたら「眠い!」です。もう朝は眠いし、授業中は眠いし、電車乗ったら眠いし、なんであんなに眠かったのか不思議なくらいだけど。それだけに起きる切なさはハンパなくて、毎朝死刑を執行されてるような。だからですよ、司法試験だ!と思ったのは。超難関で、ロックスターになる!くらいのありえない成功率で、地獄の勉強が待っているんだろうなとは思ったけど、でも自由業いいな〜、寝たいときに寝れたらいいな〜。動物園の動物達はいつ行っても寝てるよな〜、いいな〜、僕もライオンさんになりたいな〜。とにかく〜、もうこんな切ない苦痛を毎朝感じるのは御免だぜ、それから逃れられるなら悪魔に魂売ってもいいぜ、どんなクソ勉強が苦節10年続こうが30年続こうが俺は構わんよって思った。それが僕の人生のモチベーションでありテーマですね、前にも書いたけど。

 だから、日本全体が二度寝カマしてても、あんまり強く非難できないというか(笑)、気持ちは分かるぞ、というか。でも、どうせならそれをモチベーションにすればいいのに。もっともモチベーションに転化するためには、毎日死刑執行されるくらいの痛みを感じないとダメなんだろうけど。

そこだけ戦時中

 でもって、シカトぶっこき方だけど、もう日本の政治の中枢とか新聞・テレビのマスメディアって、「それってギャグで言ってるのか」って感じでしょ。実質賃金が19ヶ月連続して下がっても、「景気は持ち直し〜」とかさ、もう毎日2−3個大ボケかましてて、突っ込みいれるのもうんざりして、今はほったらかしです。

 一昨年頃までは普通にムカついてたんだけど、去年あたりから感覚が変わって、今は「はあ〜」と感嘆してます。ギャグなんだけど、あれは「芸」なのかと。漫才師がボケてるのと同じで、あれは本当に頭が悪いからではなく、芸として言ってるんだな〜って。そのくらいの感じ。

 でもね、上の比喩でいえばちょっと起きかけた頃(民主政権時)の日本のマスコミの世界の評価(報道の自由度ランキング)は20位以内くらいだったのに、あとは「つるべ落としの秋の陽よ」って感じで、ついに61位にまで落ちてます。韓国に負けてるという。でもそんなランキングによらずとも、普通に見てるだけで異常を通り超えてるよ。

 で、思ったのは、なんであそこまで露骨にミエミエに嘘つくんだろう?と。これって、大空襲受けてそこらへんに焼死体がゴロゴロしてながら「我軍大勝利」とかやってた大本営レベルと似てる、てか、もしかしたら「超えてる」かも。だってあの頃は他にニュースソースがなかったし、遠い南方戦線では勝ってるんだって言われたら検証のしようもなかった。でも、今では言ってるそばから間違ってる証拠がネットでぼこぼこ出ている。いやネットで別情報を探すまでもなく、見出しと内容が食い違ってたり(10対0でボロ負けしてても”惜敗!”とか書くような)、統計発表でも思いっきりいいとこ取りしてたり、もう1秒〜3秒で嘘だと分かるような。それでも言い張るってのは戦時中を超えてるよな〜って。

 だから思ったのですよ。ああ、あのあたり(政界やマスコミ中枢)は、今戦時中モードなんだなって。もうバキバキに言論統制かまして、本気モードでやっているという。おそらく、あの現場でそれに逆らったら、マジに命が無いってくらいの恐怖感に縛られてるんじゃなかろか。なんだかんだいって、それって殺されたんじゃ?って疑われる変死事件は結構ありますからね。真剣に命がヤバイんじゃないかしらん。でなきゃあそこまで出来ないでしょう?と。

共同幻想の融解〜モザイク型社会

 そして思ったのは共同幻想が溶けてきてるな〜ってことです。

 国家といい、社会といい、あって当然のように思いながらも、あれって抽象概念であり、そこらへんに転がってる石ころのような客観的実在ではないです。「そーゆーものがある」という脳内幻想でしかないし、「あることにしよう」という「お約束」をシェアしているだけ、草野球の透明ランナーみたいな、つまりは共同幻想であるという考え方があります。

 別に幻想だから悪いとかいうつもりはなく、人間の社会活動というのは大体それです。法律をはじめ、いわゆるルール一般はそう。「そーゆーことになっている」系の「決め事」は大体そう。次に述べる結婚とか恋人なんかもそう。そのルールが共通認識になっていて、ルール通りに動いている限りにおいては、あたかも厳然と実在しているかのように思われるんだけど、ちょっとズレてきて綻(ほころ)びが出てくると、「え?そうじゃなかったの?」みたいな、おかしなことになっていく。

”つきあってる”共同幻想

 例えば、友達→恋人→夫婦という進化論みたいなのがありますよね。ボーダーが曖昧なのが、親しい友だち〜恋人あたりのトワイライトゾーンで、「私達、”つきあってる”のかな?」という微妙なエリアがあるでしょ。何を持って「つきあってる」と言うのか、よく考えるとわからない。そんなもんセックスしたかどうかに決まっとる!と一刀両断の人もいるかしらんけど、そういう即物的な人ってモテないんじゃない?そーゆー問題でもないのよね。セフレだっているし。してなくたって深く愛し合ってるカップルはいるし。一緒にゴハン食べたらつきあってるの?バレンタインで本命チョコ渡したらいいわけ?イブに一緒にいたらいいわけ?なんかよう分からんのですよ。

 法解釈学では「こーゆー条件のときは(法律要件)」「こうなる(法律効果)」っていうんだけど、つきあってるというための「条件」って何よ?がまず分からない。それ以上に、「かくあるべし」という効果もわからない。つきあってたら、何がどうなるわけ?例えば、つきあってたら、他の異性と一緒にゴハン食べたら「浮気」になるの?バレンタインやイブなんかの”季節もの”でなんかしないといけないの?何がなんでもペアルックというのはさすがに無いだろうけど、そのあたりよう分からんのですよ。つまり、「つきあってる」というのは、どうなったらそういう状態になるのか(要件)、そうなると何をすべきなのか(効果)、いずれも曖昧だということです。そこが曖昧だから当事者間で認識がズレるのはよくあることだし、「えー?信じらんない!」って揉め事が起きたりもする。

 それが重なってくると、もうつきあってるんだか/いないんだかがさらに曖昧になっていく。これをもって「恋人」であるという「共同幻想が溶けてきている」とも言えるわけです。

 同じように結婚・夫婦だって、戸籍という明確な基準があるようで、全然そうじゃない。だって、結婚式も披露宴も新婚旅行も年賀状も全部やりながら、でも届けは出していないという内縁関係だって世間では珍しくないですから。戸籍なんか実は決定的ではない。じゃあ何なのよ?というと、同居?同メシ?世間への宣言?(「◯◯の家内でございます」と自己紹介するかとか)、これも微妙です。さらにより実質的な要件=「愛し合っているか」「心が通い合っているか」を検証していくなら、もう目を覆わんばかりの惨状(笑)になったりもするわけですよ。大体結婚して数年で、そのあたりの共同幻想は醒めまくったり、しかし形骸化した骨格、あたかも全焼した家屋に柱が焼け残ってるかのような主要ポイント(戸籍や同居、生計、親関係)なので辛うじて支えられているだけみたいになったり、しかしその骨格から新たな肉付けがほどこされていったり。

 引いて考えれば恋人や夫婦が「こういうもの」ってのは、言ってみりゃ個々人の勝手な思い込みに過ぎないでしょう。その思い込みと思い込みが重なり合う限度でシェアがなされ、共同幻想が成立し、実体化する。これって哲学的に広げれば、個の全に対する認知論でしかない。「世界はこういうもの」という、過去の経験事実から推論し、勝手にそう思い込んでるだけの話です。「仕事とはこういうもの」「世間とはこういうもの」「親とはかくあるべきもの」とかね。まあ、同じ現実世界に生きているんだから経験事実も多分に重なりあうし、勝手な思い込みとは言いながらも多くは重なりあうから、なんとなくうまくいってるだけの話で、そういった世界観や価値観がズレていったら、幻想シェアの範囲もだんだん少なくなっていって、しまいには瓦解・融解していく。熱い部活などでもう一生の仲間だぜ!という絆を得たと思ったけど、卒業後年数が経つうちに、だんだんとそれも薄らいでいく。女同士の仲良しグループも、結婚や子育てを契機にすこしづつ緩んでいく。融解していく。

国家も同じ

 国家も同じことで、その実態は共同幻想でしょう。日本の場合は、民族・言語・地勢・領土が、世界でも珍しく一致しているから共同幻想を得やすく、それゆえに統治しやすく、治安も良い(内戦が少ない)という特性を持ちます。ほかの国は、例えば旧ユーゴスラビアみたいな合体ロボみたいな国家もあるし、大国の思惑で勝手に線引されて民族と国境が全然一致しないエリアも数多くあります。そういう国では、国家というものの擬制性、便宜性、テクニカルでメカニカルな実体がわかりやすい。

 純粋に法的に言えば、国家なんてものは極めて技術的なものに過ぎないです。それは実践レベルでもそうだし、社会契約論という原理原則レベルでもそうです。「そうした方が便利だから・おトクだから」という生協みたいな合理性で国家というのが作られる。それが近代国家論。そこでは、国民(国籍)といってもフィットネスクラブの会員資格みたいなものであり、「国を愛すること」とかいうウェットな要素はない。オーストラリアの場合は、ビザの取得レベルでも「オーストラリアの価値観に従う」という項目にチェック入れさせられるのですが(覚えてないだろうけど)、それですら「オーストラリアを愛すること」ではなく、「表現の自由」「法治主義」とか近代自由人権主義を認めるかどうかというベーシックなことです。

 それ以上に実質内容に立ち入って「大和魂をもってること」「フェアディンカム・オージーであること」とか条項を入れても、何がそれに該当するのか人によって千差万別であり、誰がどんな基準でそれを認めるのか?みたいな話になると、もう無茶苦茶になります。そういうのは趣味のサークルでやってくださいってことで、法律はタッチせず。法律というのは信号のようなもので、青は進メ、赤は止マレでよく、合理的でシンプルである方が分かりやすいし守られ易い。

 法律の専門家から言わせてもらえば、国家というのはシステムであり、プラグラミングであると。それで良いし、それが良い。それが成立する根拠は、第一に(最大多数の最大幸福などの)合理性であり、第二に構成員の心情的な親和性であるけど、あくまで合理的システムなのがメインでしょう。

 だけど、実際に僕らが日本人とか日本とか観念するときは、そんなドライでメカニカルな感じではない。所得税における配偶者控除を最大限に受ける方法〜みたいなテクニカルなものではなく、もっとウェットなものです。同じ価値観を共有する同じ仲間であり、同じ民族であるという。これはどんな国にもあるし、日本にも濃厚にある。これが共同幻想の部分です。メカニカル部分には幻想は要らない。

 以上、長ったらしく説明して悪いんだけど、ここ、実はすごい難しいこと言ってるので、わかりにくいんですよね。お許しあれ。

 で、言いたいことは、この共同幻想がか〜なりゆるゆるに溶けてきているな〜って話です。

 融解する国家幻想

 「日本って大体こんなもん」っていう暗黙の了解というか、常識というか、共同認識があったと思うのですよ。でもそれが段々ズレていっている。

 例えば、政治家が悪いことをして、官僚が悪いことをして、世間が冷たくて、正直者はいつも泣きを見て、、、ってのも、ある程度までは許容範囲、てか別に「許容」はしてないけど、秋になると台風が来るくらいの自然現象くらいの感じで僕らの共同幻想の範囲内にあったと思うのですよ。「いい先生もいるけど、イヤな先生もいる」とかさ、苦いんだけど、まあそういうもんだよって。

 しかし、自ずと許容限度ってのがあったと思うのですよ。ある程度悪いことやズルいことをしてても、そこまでやったらシャレにならないだろうってラインです。国だって、マスコミだって、ムカつくくらいにヘタレなんだけど、ここまでひどいことはしないというお約束があって、政治家も汚職でポッケナイナイするんだけど、ある程度はちゃんと国民のためにやっていた。でも、今はその一線を超えてる。今の福島に対応するのが70年台の公害で、最初の企業/政府の対応はそりゃひどいもんで、被害住民が叫んでもヤクザ使って脅したりとか。でも、段々とシカトできなくなってきたら、それなりに判決もおりるし、公害規制立法もするし、ドン臭いながらも一応収束方向に向かっていった。でも、今はそれから外れてきている。なんかもう収束させようという気が全然ないように思える。

 昔は、ヘタレなんだけど、まあそれなりにやることはやるって認識(&実体)だったと思います。特に政権交代とかなくても政権内部の自浄作用でやることはやっていた。田中角栄が首相だった頃、地方の講演で「自民党というのはね、長年連れ添った亭主みたいなもんで、まあ女癖は悪いわ、バクチは打つわでろくなもんじゃない。でも外でガンガン働いて、家にきっちりお金を入れているから、まあ許してやるか、みたいな感じなんですよ」とか言ってたらしいけど、当ってると思う。高齢者など、今でも自民をそういうものだと思っている人は多いかしらんけど、もう全然別物でしょ。

 マスコミが偽善的で手前勝手なのは今に始まったことではないし、誰もそんなに信頼なんかしてなかったけど、それでも限度というものがあった。そこまでするか?という。企業の人事だって、モーレツ社員だ過労死だとかやったけど、それなりにOJTでいいことも教えてたし、面倒見ようという気概もそこそこあったけど、今のブラックなんか単に条件がキツイだけではなく、最初から消耗品として使い捨てる悪意の戦略性があるでしょ?人間を人間として見ていない。

 なんつか、プロレスでいえば悪役レスラーがある程度反則をするのはもうお約束で、あれこれ汚いことをやってはブーイングが飛んだりするんだけど、そんなこと皆分かってエンジョイしてるんだけど、その一線を超えている。反則の凶器攻撃でも栓抜きとかそこらへんではなく、いきなりピストルを持ちだして射殺したりとか、そんな感じ。

 それはもう、僕らの知ってるプロレスではないわけで、それと同じように、それはもう僕の知ってる日本(当局)じゃないよって感じです。これが融解の一つなんだけど、それだけじゃない。

国家ごっこカルト

 当局は戦時中のノリかしらんけど、マスコミ言論統制カマして、企業も大政翼賛にしてやってるつもりなんだろうけど、その共同幻想の範囲が、昔に比べてぐっと小さくなってるような気がする。

 その昔はマスメディアが描写する範囲が僕らの共同幻想たる日本の範囲で、それがすっぽり現実を包んでいた。そりゃ誤報はあるわ、興味本位でスキャンダラスだわ、意図的に報道しないものもあるわで批判点は炭鉱のボタ山くらいあるんだけど、それでも現実社会の80%くらいはカバーしていた。でも、今は50%も怪しいし、積極的に嘘まき散らしている部分もある。

 そうなるとね、国家共同幻想のボーダー=マスメディアの報道エリアという等式が崩れてくるのでしょう。あんなもん読んで何が分かる?って気分になってくる人も一定数おられると思うし、僕もそう。マスゴミ→ダマスゴミに言い方が変わったように、単なる無価値なものから、有害なものに見られるようになった。

 このような状況においては、日本=マスコミ描写世界って共同幻想にすっぽり浸かっている人が相対的に減ってくる。今でも、お年寄りを中心に数で言えばマジョリティかもしれんけど、そこに属さない人も増えてきて、そういう人から見るとリアルな日本社会の中の一部においてはそうなってるって感じになる。かつては日本列島を、いや地球すらもすっぽり覆った共同幻想の金魚鉢みたいなのが段々縮小していって、日本の半分くらいしか収まらなくなって、そのうち本当の金魚鉢みたいなサイズになってっちゃうんじゃないか?って。日本の政府も官僚もマスコミも、国家ごっこをやっているカルト集団のように見えてくるんじゃないかと。てか、今時点ですら、僕にはそう見えるんですけど。

 これはもう世界的にもそうで、これまでのゲーム・舞台設定というか、主たる登場人物があーやってこーやってって手に汗握る活劇世界に入り込んでいたのが、段々、舞台が安っぽくなってきて、書割背景なのが丸わかりでどっちらけてきて。あれこれ一生懸命やってるけど、なんか嘘くせーなーという。かつては壮麗なオペラ歌劇だったのが、いまドサ廻りの旅芸人一座みたいな。だってさ、結局、マレーシア航空機はなんだったのよ?うまく行かないと、ろくすっぽ説明をしようともせずにバックレるあたりがショボいわけだし、そのあたりをちゃんとやってくれないと僕らも乗れないんですよね、その共同幻想世界には。

 これね、日本の現状に悲憤慷慨している人も同じことだと思うのですよ。あそこがいかん、けしからんって批判は批判として大事ですけど、すっぽり入り込んでるという意味では共同幻想社会なんですよね。その共同幻想から離れてしまっている僕からすれば、あんなカルトにリアルな日本が決められるの?そんだけの影響力やパワーが本当にあるの?って、まずその時点から疑問だったりもします。

庶民のリアルな世界観

 歴史=政治史・経済史とするのは偏った見方だと僕は思います。リアルには、思想史もあるし、園芸史もあるし、農業史もあるし、漫画史やロック史もあるのでしょう。

 政治や経済がこの世の全てを決めているようで、実は案外決めてないのかもしれないな〜って、最近よく思います。

 それが投票率50%とかマイルドヤンキーとか言われている現象とつながっていくんだけど、庶民ってもともとそんなもんなんじゃない?って感覚です。中央政界で何があったとか、歴史の転換点でどーのとか、あとから理屈で考えると怒涛の激変だったように思うんだけど、リアルな感覚では意外と大したことないのかも?と。

明治維新を知らなかった

 記憶の間違いがあったらごめんなさいだけど、明治維新って日本史上画期的な転換点だったんだけど、でもリアルタイムには明治維新が起きたことを知らなかったという日本人が結構いたらしいという。そんな馬鹿な!と思ったけど、でも冷静に考えてみると、ありうるかもな〜って。だって、いわゆる水呑み百姓とか地方の農村の風景では、中央政界なんか全然リアリティなかったと思うのですよ。朝起きて、農具持ちだして田んぼ耕して〜って毎日で、普通の権力者(直属の上司や支店長くらいの)は、庄屋様とか地元の大農家で、その上に君臨する鬼みたいな存在がお代官様で、逆らったら磔にされて殺されるくらいの絶対存在。しかし、そのお代官様だって、その地を治める大名の中では地方政務官であり、殿様周辺の重臣からみれば木っ端役人であり、でもその大名ですら江戸幕府から見れば吹けば飛ぶような外様の小藩であり、いつお取り潰しになるか戦々恐々としている可憐でひ弱な存在だったわけですよ。だからその中枢レベルで権力シフトがあったとかいっても、そんなの一般庶民にとっては想像の範囲外でしょう。◯◯光年離れたマゼラン星雲で超新星が〜みたいな感じで、リアリティない。

 まあ、それでも「ご一新」という言葉で普遍化はしただろうけど、怖いお代官様が、洋服着て髭生やした怖い官吏様に変わっただけで、虐められていることに変わりはないしね。それにご一新とか明治維新って言葉で知ってたとしても、その内実をどれだけ正確に理解していたか?となったら怪しいものでしょう。当時の知識人階級ですら怪しいものです。今にして思えば、18世紀頃に、産業革命と資本主義、それに軍国覇権主義(植民地主義)という、人類史の鬼っ子みたいなものが3つも登場してきて、いわば3つの頭を持つキングギドラみたいな存在が出現して、そのキングギドラに19〜20世紀の人類は翻弄され、2つも世界大戦をやって〜という初期から中期の流れがこの時期に極東日本に波及して、、、とか、そこまでは分かってなかったと思いますよ。今だから分かるだけのことで。

 だから庶民のリアルってのはそんなもんなんかな〜って。それは今でも同じで。世界史上、驚天動地の大事件があって世の中がガラッと変わったとしても、リアルな日常は実はそんなに変わらないという。

ヤンキー的世界観

 これはいわゆるヤンキー的世界観を例に取ると分かりやすいと思うのですが、例えば教育改革があってゆとり教育が改められましたとか、県の教育委員会で癒着の大スキャンダルがあってメンバー一新になったとか、学校群制度が変わったとか、あれこれあったとしても、暴走族とか番長的なアクティビティにいそしんでる青少年にとっては別に関係ないことでしょ。どうせ授業にも出ないし、勉強しないしさ。彼らにとって気になるのは対抗勢力の動向であり、今年の新入生にクソ生意気な奴がいるから一遍シメたらなあかんなとか、そういうことでしょ。

 これは僕ら庶民においても同じことで、雲の上であれこれ派閥争いがあろうが、グローバルで覇権争いがあろうが、末端レベルの日常では、何段階もあるからショックが少ない。そりゃ世界レベルの変動で、結果として勤務先の工場が閉鎖されてクビになるかもしれないけど、工場閉鎖なんか別に世界レベルの変動なんかなくなって日常的にあることだし、そもそも工場は健在であったとしても自分がクビになったら同じことだしね。それよりも、日常感覚のリアルでは、なにかと馬が合わない天敵みたいな上司がいつ転勤や配転でいなくなってくれるか、もうそれだけを神仏に祈っている、、みたいな感じじゃないすか?

 結局、日常生活レベルでは、政界がどうしたとかいうよりも、彼女にフラれたとか、物損事故起こしたとか、親が入院したとか、携帯無くしたとかが、はるかに重大なイベントであり、人生が変わる。そんなもんちゃう?

 つまり、僕ら庶民の生活は、ぶっちゃけた話、政治も経済も国家もなくても廻っていっちゃうんじゃない?ってことです。凄いこと書いてますけど。いや、確かに法律や政治経済によって網の目のように規律されているんだけど、だからそれらについて正常に稼動するように批判や監視をすべきですよ。でもね、ありていにいって、そこまで強烈なインパクトがあるのか?というと、意外と微妙なんじゃないかなあって。

 いやいや国家動向によっては徴兵されるかもしれないし、経済の格差を放置すると女の子は女郎屋に叩き売られてって悲惨な人生を送るので影響は甚大なのだ!って意見はあるでしょう。はい、そうですね、それに異議を挟む気はないですよ。でもね、徴兵とか女郎屋とかいうけど、そういうことになっている時代背景でみれば、寒村ではマジに一村あげて餓死レベルな状況だったりしたわけですよ。仮に兵隊や女郎がなかったら幸せで豊かであったというわけでもない。むしろ当時の庶民の感覚でいえば、海軍のメシは美味いぞとか、女郎屋では三度のゴハンが食べられるからありがたい、村に残してきた弟達に申し訳ないとかいって仕送りしてたりするわけです。北海道の開拓民だって本土で死の寸前まで食い詰めて一村あげてやってきたり、アメリカや南米の移民だってあのまま日本に留まってたら餓死しかないってレベルだったりもしたわけです。そうでもなければ、当時の感覚でいえば「火星移住」にも等しいような移民なんかするわけないでしょう。

 だからといって徴兵や女郎という搾取システムをいいことだと強弁するつもりは毛頭ないですよ。でも彼らの当時のリアルな感覚でいえば、それすらも選択肢の一つくらいだったんじゃないかと。そんなに幸福な生活がメチャクチャに破壊されましたって物語ではなく、庶民レベルにおいては右を向いても左を見てもしんどいことにかわりはなくて、この圧倒的なハードな生活事情のリアルからしたら、歴史学的な意味とか中央での政権どーたらというのは、それほど決定的ではなかったんじゃないか?決定的だったかもしれないけど、そう感じられていたのか?というと、そこは考えどころだなあって思うのです。

幻想に参加する必要がない

 結局何が言いたいかというと、国政やマスコミのありかたとかがリアルな日本を決めているという共同幻想がだんだんと薄らいでいるって感覚が僕にはあるわけですけど、リアルな庶民感覚で言えば、最初っから共同幻想に入ってないというか、入る気も無いというか、そういう側面もあるんじゃないかと。

 政治がどうの、社会がどうのでムキになって怒ったり議論したりしているのは、いわゆるインテリさんの脳内世界のお話で、共同幻想内部における正邪論なんだけど、そもそも共同幻想に参加すること自体にハードル高く感じて、「難しいことはよう分からん」「政治とか経済とかさっぱりですわ」って人達だってたーくさんいると思うのですよ。

 そしてそれが別に悪いことだとは僕にはあんまり思えなくてね。だって、人が生きていく、幸福になりたくてあれこれやってるってリアルにおいては、必ずしもその種の思弁的で大きな枠組って必要ないんだもん。影響は確かにあるんだけど、同じように、天候にも、周囲の人間関係にも強い影響は与えられるわけで、別にそれだけが全てではない。相対的にいえば大した比重を占めない。

 僕自身小学校低学年の頃はド劣等生だったし、子供の頃の気持ちをわりとよく覚えている方なんですけど、庶民という社会のボトム層においては、「上の方」がどうなろうと、あんまりキョーミないし、いっそ「知ったこっちゃねえ」って感覚もあるわけです。国家や政治がどうなろうが、俺の知ったこっちゃねーよ、かんけーねーよと。それを、政治意識に疎い困ったB層であるとか、いつかは国家に救ってもらえると無邪気に信じている救いがたい人々だと思うのは、ちょっと違うんじゃないか。まあ、そういう人もいるでしょう。また止せばいいのに書店の平積み本読み漁って一知半解でわかった気になって面倒臭い人になってしまう向きもあるだろうけど、多くは興味のないまま。

 なぜかといえば、ボトムにおいてはエライさんの首が誰から誰にすげ変わろうが、自分らが怒られたり、叱られたり、偉そうに指図されたりする不愉快な感覚に変わりはないわけだし、そういう深海魚みたいな圧力世界に生きているならば、それ相応にしたたかに進化するし、それとは関係ないリアルな生活実態を作り上げるでしょ。

 投票率50%とかマイルドヤンキーとかいうのも、その現れだと思うわけで、ある面からすれば「嘆かわしい」ことかもしれないけど、別の観点で見れば「頼もしい」「逞しい」ことでもあるんだろう。だって、国家も政治もカンケーねーよ、なくても俺らやっていけるよって感覚。共同幻想に入ってない、入る気もない、入る必要もないって。

 でもってそういう人らが別に頭が悪いわけでもないのですね。そう思い込まされて、セルフエスティームが低かったりもするかもしれんけど、違うと思う。それは頭の善し悪しではなく、リアリティの有る/無しだと思う。翻って考えれば、国家共同幻想にリアリティがなかったとしても、それはある種至極まっとーな感覚でもあるのですよ。だって幻想なんだもん。妄想なんだもん。実体ないもんね。だから興味がないというのは、ある意味では健全なセンスでもあるかと。

 ただその幻想でベネフィットを受ける人達、つまり高学歴とかハイステイタスで共同幻想の上部に位置する人達においては、それが幻想だってことになったら自分の利権やプライドの根拠も無くなってしまうわけで、それは困る。彼らにとっては幻想でもなんでもなく現実なんだろうけど、でも、言ってしまえば、自分に都合がいいからそーゆーことにしているって言えなくもないのですわね。

 さらに言えば、オーストラリアに留学やワーホリで来て、ジャパレスで働いたり、ラウンドしてファームで働いたりしている場合、あるいはこっちに移住してる僕にせよ、オーストラリアにおいてはボトム階層です。唸りを上げるほど金持ってるわけでもないし、有力なコネもあるわけでもないし、それどころかその国の言葉に四苦八苦して日々糊口をしのいでいるような存在は、やっぱボトムでしょ?でね、この国にいたら分かると思うけど、ボトムであることは悪いことでも恥ずかしいことでもないじゃん。むしろ自分の持ち場で精一杯やってるというほのかな誇りすらある。そして、ボトム層の僕らが、オーストラリアの中央政界の権力闘争や、財界の動向や、メルボルンクラブあたりのエスタブリッシュメントやらに興味ありますか?っつったら無いでしょう?彼らは彼らでやってください、僕らは僕らでやりますからって感じでしょ。それと同じことだと思うのですよ。

日本人の自画像の融解

 長くなったのでもう〆ます。到底語りきれなかったけど、同じ流れでもう一つだけ。ヘイトスピーチとかネトウヨとか呼ばれている人らについてです。

 あそこまで他人を口汚く罵倒するってのは、これまでの日本人の自画像には無かったと思います。主義主張がどうのとかいうレベルではなく、人間類型として、ああいう変な人は僕ら日本人社会においては珍しい。いるにはいるだろうが、そんなに大手を振って歩けるポジションではなかったと思う。リアルな日常生活、つまり職場とか、クラスにそういうのが居たら、嫌われるとか、敬遠される存在だったでしょう。

 あるいはネットにおける罵倒も同じです。
 共同幻想における僕ら日本人ってのは、なんによらずそこまでエクストリームに傾かない、中庸の美徳をそこそこ持っているというのが共通属性だと思ってた。理屈で全て割り切ろうともせず、誰かと誰かが激しく対立しようとも「まあまあ」「それぞれに言い分はあろうけど」って感じで、全体にバランスを取ろうとする。いわば市民としての成熟したセンスをもっているのが自画像だったと思います。

 これは日常生活においては、今でも通用していると思う。
 僕が日本に帰った時に、いつも気にしている点、唯一といってもいいくらいの観察ポイントはそこで、店先や色々な接触において、日本人として一般に持っているだろう「人としての善性」を損なわれているか、スレているか、です。ここがスレてきたら、もうダメだなこの国はって思うだろうけど、その点は常にOKです。今回もそう。もう僕の視点は世界レベルの感覚、いやそんな大げさものでもなく「この人とシェアしてもいいかな?」と判断するような感覚ですが、その感覚でいってこのくらい素材が良質だったら、ぜーんぜん心配することはないと思います。そりゃなんだかんだドッタンバッタンあるかしらんけど、でもこれだけ素材が損なわれてないなら全然大丈夫。仮にあと二回くらい敗戦焦土になっても余裕ですわ。世界ってもっとメチャクチャだもん。

 勿論ダメダメな人もいますし、そういう事例を挙げれば枚挙に暇もないでしょう。でも、ランダムに数十人規模で僕が接する一次情報を何よりも重視したいです。だってそれが一番確実な気がするもん。その笑顔の「作ってる度」はどのくらいか、心の開き方は何度まで開いているか、軽くギャグを飛ばして笑いが返ってくるまでのレスポンスタイムで心の弾性値がわかるとか、そういうことね。一人だけ、DAISOのレジのおばちゃんがちょっとヤバくて、「い、生きてますか?」って感じの人でしたけど、ちょい心が痛んだ。相当キてるなって。でもその他は全然OKでした。

 でもってネトウヨ君とかあそこらへんの心情傾向を持ってる人って、別に昔っからいました。これは司法界、とりわけ刑事司法など、その種の人らが特に集まるようなエリアにおいては珍しい話ではないですから。直に犯罪を犯してないけど、いずれ犯したとしても不思議ではないなって、少年法における虞犯(ぐはん)少年くらいの。ただ、表にはそんなに出てなかったです。

 それが表に出てくるようになって、おそらくは皆の日本人としての共同幻想、日本人としての自画像は変容を迫られたと思うのですよ。俺らの仲間にあんなのがいたのかって。それがまた共同幻想を融解させていく一つの側面でもあるなと。

 翻ってみれば、宮崎事件、酒鬼薔薇事件で、オウム事件、、、で、同じ日本人がまさかここまでするとは?と共同幻想の埒外の事件が起きる度に、共同幻想の修正を余儀なくされていたんだけど、もうそういう例外事例があまりにも多くなってきている。政治は政治であんなだし、マスコミはマスコミであれだし、企業や就職も変わってきたし、「いろんな人」が居ることも見えてきたし、そんなこんなで「そーゆーことにしましょう」という決め事のシェア、共同幻想のシェアが溶けてきているなあって思ったのでした。もう「共同」なんか出来ないよって感じですかね。



今週のオマケ

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文責:田村