今週の1枚(02.09.16)
ESSAY/ おばさん”Lady”化計画
メールで留学や学校選びの相談をやってますと、コンスタントに尋ねられる定番ともいうべき質問があります。
定番質問は沢山あるのですが、そのなかの一つに、年齢に関する質問があります。いわく、「(私は)年齢がちょっと高めなので、あまり若い人ばかりの学校では馴染めないのではないかと懸念してます。年齢層が高めで、落ち着いた学校はありますか?」など。
要するに自分がちょっと年食ってるので、若いのばっかりだと浮いちゃったり、沈んじゃったりしそうでヤだなあってことでしょう。じゃあ、「年齢が高い」ってどのくらいなの?というと、なんのことはない30歳前後だったりするわけです。25歳前後でそれを言う人もいます。
すでに感性がオーストラリア人になってしまってる僕からみると、「は?」「おっしゃってる意味がわからないのですが?」というくらいの「なぜに、そんなこと気にする?」という不思議な質問だったりします。年食ってるけど大丈夫ですか?と聞かれたら、「大丈夫です」と言うしかないです。また年齢を基準に学校選びをしてもあまり意味がないし、そういう選び方は難しいです。
僕がサポートしている方々の平均をとれば30歳くらいです。僕からみれば「最もありふれたケース」です。僕自身、最初に来たのが34歳ですしね。また、僕の年齢からすれば30歳なんて「まだまだ子供」ですって。
ちなみにこのHPをお読みになっておられる方、特にこんなクソ長いエッセイを(最後まで)読んでおられる方は、平均年齢がある程度高いと思われます。それはメールなどのレスポンスからも窺われますし、また内容的にも、ある程度トシいってないと理解しにくいことを書いてます。単語や表現でも特に易しい言い回しにしようという手加減してません。もっとも、ちょっと気のきいた中学生だったら十分理解できる範囲にはあると思いますが。
これまでお世話したなかで最長老は75歳と70歳のご夫婦でして、そのお二人はワーホリさん御用達のようなラリングアという学校で楽しくエンジョイしておられました。同じくワーホリさんや若い人のキャピキャピした雰囲気のある学校に、30代後半の人が沢山いかれてますし、62歳のお母さんも楽しくやってます。名前を聞けば誰もが知ってるような大企業の役員さんや部長さんクラスの人も来られましたが、別に違和感なく交わられてます。だから30歳前後なんかどってことないし、ましていわんや25歳をや、です。
この年齢を気にするカルチャーは世界に沢山あります。でも、それはどっちかというと「年取ってる方がエラい」というカルチャーです。いわゆる長老政治で、中国などでもある程度年齢がいってないと一人前に相手にされないといいますし、儒教文化でも年齢の上下は大事なスタンダードになるでしょう。韓国なんか特にそれがキツいですよね。でも、今の日本の場合、どっちかというと「年取ってる方がダメ」という逆ベクトルのカルチャーだったりします。
日本の場合でも、いくところに行けば「40、50歳は洟垂れ小僧、60歳でまだ坊や」というカルチャーもあります。政治家の世界なんかそうだといいます。しかし、同時に、「鬼も十八、番茶も出ばな」というカルチャーもあります。前者は精神年齢の成熟による尊敬を、後者は肉体年齢の若さへの賞嘆が基準になっているのでしょう。つまりは肉体的には若い時分が最盛期であり、精神的には年を追うごとに高まっていくという。それはそれで人間の当然の摂理でありましょう。
精神も肉体も、ともに人間の両輪であり、どちらか一方をのみ重視すべきというものでもないです。アタマ(ココロ)とカラダ、どっちが大事?といわれたら、「どっちも」というのが普通でしょう。でも、なぜか、日本では、日本人全体が「若くなければゴミ」というスペルバウンド(魔法)にかかってるんじゃないか?と思われるくらい、皆してトシを気にします。WHY?
あのー、世界はそんなにトシを気にしません。というか、知りません。聴きません。少なくともオーストラリアではそうですし、少なくとも語学学校の教室ではそうです。
肉体的なルックスでいえば、ただでさえ日本人は若く見えます。40歳の人がカジノに入れてもらえなかったり、僕も39歳のときにタバコ買うのに免許証出せと言われたくらいで、多少ふけて見えて丁度いいくらいです。骨格構造上彫りの深いヨーロピアンの場合、思春期過ぎたらどんどん大人顔になります。第二次発毛も活発ですから、髭も胸毛も濃いです。17歳くらいでも日本人の30歳以上に見えます。イアンソープなんかもまだ20歳にもなってないんじゃないですか。
実際、こちらの教室にやってきて気になるのは、自分がトシ食ってることではなく、逆に自分が若い(未熟)であるということです。年齢相応のオトナになってないこと、これまで精神的成熟を怠ってきたことをむしろ意識するようになるでしょう。こちらの社会で平均的に18歳に求められる成熟度を、30歳になっても40歳になってもまだ満たしていないという意味でのイケてなさです。
例えば、「世界はこれから、アメリカ式資本主義の浸透で徐々に均一社会になっていくのか、それとも民族主義の台頭でより細分化されていくのか、キミの意見は?」とか聞かれたら、即座に「それはですね」と答えられますか?そういうことを常に考え、自分の意見を持っていて、他人に開陳できるようにしておくのがオトナの条件だったりしますから、こっちの17,8歳は「ボクはこう思う」といきなりとうとうと自説を展開する人が多いです。
「えっとお、わかんなあい」というのが許されるのは10歳までってな感じです。というかこっちだったら10歳くらいだったら、もっと小生意気だからそんなアホみたいなことは言わないかもしれない。小学校の校庭で、小学生達に学校のイジメ問題を取材していたTVニュースを見てましたが、10歳くらいでもいっぱしの口をききますもんね。「イジメというのはイジメる人とイジメられる人だけの二者間の問題ではなく、そういう人間関係を許すかどうかという全体の問題として捉えるべきなんだよね」とか小学生のガキンチョがとうとうと述べてますから。そういえば「わかんなあい」という答えをした奴は一人もいなかった(まあTVの編集でカットされたのかもしれないけど)。
でも、日本人だったら40歳になっても、「そんな難しいこと、わかんなあい」って言います。でもって、そういう態度というのは、こちらでは40歳である肉体年齢よりもなによりも、激しく浮きます。こちらではいろんな人がいるので、かなり素っ頓狂なことをしても浮きませんし、日本人のパーソナリティでそうそう目立つことは少ないのですが、こういう態度をしてるとかなり目立ちますし、恥ずかしい思いもするでしょう。
ですので、現地に来ている日本人で実際にトシを気にする人はあんまり居ないと思います。少なくとも日本にいるよりは気にしなくなります。その代わり、背伸びしなきゃいけなくなります。
もしトシを気にしてる人がいたとしたら、こちらのカルチャーに入っていかず、日本から持ち込んできた日本カルチャーの世界にどっぷり浸って日本人村作って日本人としかつきあってない”小宇宙”での話だと思います。あなたがそういうところに行きたいと思うのであれば、年齢を気にした方がいいかもしれませんが、そうでなければ多くの場合は杞憂でしょう。
このテーマは既に何度が取り上げました。たとえば、あなたがオバサンになったら(98年02/04)とか、なぜ日本では若者がエラのか?(1)(2) (99年09/25) など。屋上屋を架するような感じではあるのですが、なおも書きます。書くべき必要度は、昔から全然変ってないし、むしろ増してるかもしれないからです。
日本ではなぜトシを取るとダメになるか、ダメであるかのように思い、思われ、そのベクトルで行動せざるをえないのか、です。
上述の例でいえば、人間は年齢を重ねるにつれて、肉体的には下り坂になり、精神的には上り坂になります。これは実力主義の動物世界でも、肉体的に最も優れている筈の若い個体がリーダーにならず、より精神的(知的)に老練である個体がリーダーになること、つまりは肉体と知性のマックスポイントにある個体がリーダーになることからも、自然の摂理に叶ってるといえるでしょう。
人間というのは、その身長体重からすれば、自然界では肉体的にかなりヒヨワな存在だと思います。人間と同じだけの体長・体重をもった動物と素手で殺し合いをした場合、人間の方が弱いでしょう。大人ほどあるシェパードと真剣に殺し合いをして素手で勝てる人間は少ないと思われます。素裸で自然界に放り出されたら、皮膚も薄く、毛皮もなく、移動にトロい二本足歩行で、耳も悪く目も悪く、牙もなく、消化能力も弱い人間などすぐに死んでしまう。だから、人間がこの地球で人がましくやっていこうと思ったら、「アタマで勝負」ということになると思います。武器を考案し、戦略を立て、食料の備蓄を覚え、保存技術を開発し、生産量を増大させ、社会を作り、分業を徹底させることでGDPを極大値にする。
人間という生き物は、アタマとカラダのうち、特にアタマに特化した生き物であると言えます。だからこそ、より自然界に近い、未開時代においては、肉体的に勝る若者よりも、老練な長老がリーダーになっていたのでしょう。人間のヒヨワな筋肉ごときは自然界ではなにほどのこともなく、それが優れていても大したメリットもなく、他の動物や厳しい自然から身を守りサバイブしていくにはイチにもニにも知恵であったのでしょう。だから、本来的に人間界においては、ナチュラルに年長主義になっていったと思われます。生存時間の長さは体験の豊富さを意味し、多くの体験から知識を得、知識はやがて知恵になり、叡智になる。その叡智こそが、人間の幸福を最大化する。
これは今でもあまり変わってないと思います。
たしかに今日の急激な社会経済構造の変化は、過去の経験を無効化するかもしれません。真空管を一生懸命勉強してもトランジスタになってしまったらパーになるとか、大家族制から核家族化に変化するなかで、かつての処世術や「人生の叡智」は時代遅れになっていくでしょう。社会が変れば、マーケティングも変り、駅前商店街はさびれ、郊外の量販店が栄える。社会が変れば、人々の気質もまた変るから、従来の人間関係構築方法もまた変る。お得意様相手の「損して得とれ」的な長期的な信用取引よりも、ドライな現金取引が重宝されたり、接待技術よりもコンピューター知識の方が尊ばれる。
これだけ世の中が変わってしまったら、過去の経験などなにほどの価値もなく、むしろ旧態依然とした考えは邪魔ですらある。過去の経験も知識も、それらを積み上げてより価値を増し、人々に賞賛されるというよりは、old timer、時代遅れの遺物としてバカにされる。ゆえに、トシを取ればとるほど、過去の記憶に邪魔されて現実との適応能力が減少し、精神的に下り坂になる。OLさん達は、電子メールのSMTP設定に戸惑うオジサンを馬鹿にし、なにかといえばノミニケーションにもっていこうとする人間関係の古く臭さを嘲笑う。
だから、日本ではトシを食ったほうがダメになる、と。肉体的最盛期を過ぎ、身体も醜くたるみだし、行動にキレがなくなり、溌剌さを失い、センスも悪くなり、生活に疲れ、多額のローンを抱えて小遣いにも不自由し、使えない実務能力と、お仕着せがましい人間関係の強制、十年一日の処世訓、オジサンはスポーツ新聞のエロ記事を読み、オバサンはみのもんたを教祖と崇める。どう考えても人間としての価値がさがっていってるではないか、と。
Really? 本当にそうなんですかね?
僕はそうは思わない。
日本のオジサン、オバサンがダメな部分があるとするならば(ところで、ローン抱えて小遣いに不自由し、生活に疲れ、、云々は僕個人としては重責を果たしている故であり、ちっともダメなこととは思いませんが、それはさておき)、それは年を食ったからダメなのではない。それはその人個人が、インディビュジュアルにダメだからでしょう。せっかく時を与えられたのにも関わらず、それを無駄遣いしてきたからダメなんじゃないか。レトリックでいえば、「年をとったから」ダメなのではなく、「年を取り損なかったから」ダメなのだ、と。
日本にいるときは気がつきませんでしたけど、日本人は世の中が変るのが大好きです。「激動の時代!」という表現が大好きです。これはこっちにきたら、あんまりそういう言い方をしないし、あまり誰もそうは思ってないようなので、ある日、ふと気づいたのですが、日本の書店にいけば、いつだって、やれ「時代が変るぞ」「これからの時代」「新時代のどうしたこうた」本ばっかりです。
これは日本人は受動的な歴史観に通底する部分があるのかもしれません。黒船がやってきて江戸時代が終わり、西欧帝国主義に翻弄されて文明開化と戦争への道を歩み、敗戦と同時にアメリカ文化が押し寄せ民主&物質主義万歳になり、高度成長がバブルで弾けてさあどうしましょという、ここ100年の足取りがあります。時代が変ると、生き方から世界から価値観からすべて根こそぎ変る。それら時代の変化は、いずれも外在的要因によって変った部分が多く、自分たちで考えて「よし、次はこの方面にいこう」と決意して変っていったものではない。だから、いつも受動的であり、波間にゆられてプカプカ浮いてるひょっこりひょうたん島みたいな歴史観と自己認識、世界観が、日本人の場合はよその国よりも強いように思います。
西欧の連中は、悔しいんだけど、自分たちで時代を作ってきたという意識が日本人よりも強いと思う。植民地支配にせよ、帝国主義にせよ、資本主義的大量生産による人間疎外せよ、共産主義にせよ、戦争にせよ、およそロクなもんではないにせよ、「自分が作った」という主体意識は強いと思います。今だって、アメリカがイラクに戦争を仕掛けるかどうか、世界はこれから殺伐とした大戦状態になるかどうか、日本では固唾を飲んで見守ってる部分があるでしょう。つまりは見守るしかない。でもあなたがアメリカ人だったら、世界の明日を決めるのは自分達だという自負が多少なりとも出てくると思う。時代というものに対する主体性と受動性の差というものがまずあると思います。
この受動性がゆえに、日本人の時代の変化に対する敏感さを際立たせているのでしょう。風まかせであるから、風向きがすべてだから、敏感にならざるを得ない。それが、日本人の「時代」に対する過大な意識を生み出しているような気がします。
なにを隠そう、僕も日本にいるときは、時代の行く末を考え、あーなるからこーなる筈だとという先読みに腐心し、それに合わせて自分の人生の長期展望を立ててきました。それはそれで間違ってはいなかったとは思いますが、今にして思えば、オブセッション(強迫観念)だったよなあ、と。
思うに、「時代」 ゴトキが幾ら変ろうとも、ちーっとも変らないものは沢山あります。
早い話が、人間は、酸素を吸って二酸化炭素を吐いているということ、空気がなければ死んでしまうこと、一日の最低カロリーを摂取しないと死んじゃうという事に変わりはありません。寝ないと調子が悪いのも同じ。年頃になると異性を意識し出すことも同じ。恋情
の切なさ、激しさ、物狂おしさも一緒。子供の寝顔に潮を満ちるような幸せを感じること、友達と痛飲・快酔する心地よさ、愛する人を失うときの喪失感、自分の能力をギリギリまで発揮するときの緊張感と抱えきれないほどの充実感、達成感、、、、、こういったものは、時代ごときが変ろうが、何も変らないです。
そして、自分が幸福になるためには、これら変らない普遍的なモノゴトだけで十分です。
空気がおいしくて、おいしい物を食べて、ぐっすり寝て、愛する人と睦み、友と愉快な時を過ごし、「これが自分の仕事だ」と誇らしく思える何かを創り、長年一緒に歩いてきた人の手を握り、しめやかな夜の雨音を聞きながら眠りに落ち、快晴の朝を迎える。それでいいんじゃないんですか?What else do you want?
だから時代もヘチマも関係ねーよ、っていう言い方も出来ると思うのです。
そりゃ金がなければ飢えますから、生きていく限りにおいては生計を得なければならないし、そのためには多少器用に立ち回る必要もあるでしょう。その「器用に立ち回る」というプラクティカルなレベルにおいて、「いま、世の中どうなってんの?」という多少の透視能力・パースペクティブは必要でしょう。だから、時代の変化とは無関係ではない。
だが、その程度のことでしかないです。通信手段が、訪問や手紙から、電子メールや携帯電話に変ろうとも、「人と関わって、喜びを得る」という基本的な部分は微動だにしていない筈です。そりゃそうですよね。美味しいものは、箸で食べようが、フォークで食べようが、手づかみで食べようが、多少の趣きの差はあっても、美味しいことに変りはないもん。
だから時代が変ったとかいっても、それって、幸せになるために必要な「器用に立ち回る」レベルでの、いわば「微調整」にしか過ぎないのではないかと思うわけです。
そしてまた悔しいことには、西欧の連中って、それを本能的に知ってるんじゃないかと思われます。
前回のエッセイだったかで、オーストラリアでは、そもそもお金を得る仕事というものが人生の優先順位においては上位にカウントされてこず、もっと他の人間らしいイトナミの方が上位に来る、という社会的なコンセンサスがありげに見えると書きました。だから、福祉とか年金とか、「幸福になるためには、最低限必要なモノゴト」を準備するのは政府の当然の役目であり、そのために税金を払っているという意識が非常に強いし、「最低限」のレベルも高い。
時代の変化によって影響をこうむるのは、産業構造など経済的な側面でしかない。産業経済ももちろん大切ではあるのですが、どうしてそんなに経済が大事なのか?というと、とどのつまりは、人間の普遍的な幸福のための前提条件になるからです。だから、経済そのものに価値があるのではなく、それはただの手段にすぎない。そのあたりの上下関係は、かなりしっかり認識されているような気がします。
だから、だからです。こっちでは、年をとってもあんまり時代遅れにならない。
時代遅れになるようなモノゴトというものに、それほど高い価値序列を与えてないからです。パソコンができなくても、電子メールができなくても、「それがどうした」って感じですもんね。
そして時代によっても変らない人間の普遍的なことというのは、これは自然界の摂理がそのまま働きます。年をとり、多くの経験を得た方が、知識も知恵も豊富になり、単なる information ではない、wisdom に至る。だから、年を取ればとるほど精神的には成熟し、まろやかになり、それなりの尊敬をナチュラルに得る。
「変る変る、時代が変る」と連呼しながら走り回ってる社会では、情報は飛び交うだろうけど、叡智は蓄積されない。あなたが幸福になるには知らなくても何の支障もない情報はやたら豊富にあるけど、幸せになるためには知っておいた方がいい叡智はあまり出てこなくなる。あるいは出てきても、古臭いといって馬鹿にされる。この差はけっこう大きいのかもしれません。
オーストラリアでは、最新ヒットチャートなんか必要ないですもんね。ベストテンの歌番組なんかオーストラリアには少ないし、そもそもが歌番組が少ない。せいぜいが日曜の午前中、日本だったら囲碁や将棋の対局中継くらいの扱いしか受けてないです。夜のゴールデンタイムでは、まあ、やってないですね。「裏庭にベンチを作ろう」「バラを植えてみよう」というレジャー&ホビー関係の番組ばっか。カラオケにいって、知らない曲ばかりだからといって落ち込むようなことはないです(そもそもカラオケいかないけど)。
日本社会の、いっつも激動している感覚、時代遅れになったら人生も人格も根こそぎ否定されるような感覚、その反面、人生に何が大事かという、down to earth な、地に足のついたものの見方が軽視されている世の中においては、年をとることが難しいと思います。だから、ちゃんと年をとれてない人も増えてきてしまうのかもしれません。
一方、年齢が高いと馬鹿にされる分、要求水準も低くなります。これは表裏一体だと思うけど、「馬鹿にされることさえ甘受すれば、別に努力しなくてもいい、どんどん楽になっていく」という。それに甘えちゃうから、ますます年をとるのが難しくなる。
年齢相応の多方面への知識、教養、男女の機微への含蓄ある理解や、世の中の構造に対する本質的理解とそれに対する自分のスタンスと日々の実践などなど、今にして思えば、十代の大学入試の何倍もの厳しさで、20代、30代で自分を高めていくようにしていかないと、なかなか年齢相応になれないです。若いときはねなんか一つ優れていればチヤホヤされるけど、年食ったら全方位に出来ないとダメだもんね。ラブサイケデリコを聴きながらバッハの対位法について論じ、後期印象派の画風を論じ、イスラエルという国の存在の歴史的・政治的・宗教的意味を論じ、歌舞伎と能の本質的な差異を論じ、WindowsXPの出来を論じ、自動車のアイドリングの調整が出来、魂を照射する文章が書け、遺伝子工学の展開を論じ、ハリウッドビジネスの構造的問題を論じ、税金の減価償却の
計算が出来、セックスが上手で、子供のあやし方も上手で、冷蔵庫を一分見ただけで献立が浮かびあがり、下ネタからフーコーの哲学まで瞬時に切り替えられ、それだけ知っていながら知識に溺れずひけらかしもせず、瞳にはなお少年の透明さとイタズラっぽさを宿し、、、、えーとえーと、いくらでも発展していく余地はあります。
「わたしもうトシだから」なんてのは、なーんの免罪符にもなりません。
トシを理由に自分の怠慢を正当化しようという人は、トシを理由に馬鹿にされたとしても、それはそれで因果応報、正しいんでしょうね。
日本で「ちゃんと」年をとるのが難しいのは、他にも沢山理由があると思います。例えば、日本の「お稚児さん文化」というか、なにも出来なくても可愛かったらそれでいい、何も出来ない方がむしろ可愛くていい、というジジ臭い趣味です。ロリータ趣味と言い換えてもいいです。ロリコン的価値観でいえば、十代の少年少女あたりが一番価値があって、あとはトシをとればとるだけ商品価値が落ちていくのも分かります。でも、それって愛玩動物としての価値でしょう?そしてまた、いかにもジジ臭い趣味でしょう?そんなジジ臭い趣味に、日本社会が統一されていいわけはないと思いますけど。ほんでまた、ロリータ愛玩世界を経てきた人は、知らないうちにロリータ爺趣味が伝染して、例えば女の人でもあっても30過ぎたら、年下の清潔で可愛い男の子を好ましいと思うという。真に成熟しないまま、ガキからジジーにワープしちゃうという。ねえ、もう、死ぬまでやってろって感じですな。
あと、最後にひとつ。僕からのお願いです。女性は自分から進んで「おばさん」とは言わないでください。それが、甥・姪に対して純粋に親族関係を意味する伯母・叔母である場合以外は、です。
今現在の日本語における「おばさん」は、その語が本来持っているべき「温かみある敬意」を失い、殺伐とした侮蔑用語になりつつあります。「温かみのある敬意」というのは、例えば「ステラおばさんのクッキー」みたいな、親しみと日向の匂いのするニュアンスです。
今の日本語における「おばさん」に該当する英語はないと思います。
つまり20代から70代くらいまでの女性を呼ぶ一般名詞でありながら、「トシをとったがゆえに価値がさがっている」というニュアンスが含まれており、中立的な一般名詞を装いながら、罵倒用語としてのスラング的側面もあわせもっている単語です。しかも、それを本人を自分を意味する言葉として頻繁に使うということは皆無でしょう。「わたし、もうオバサンだから」というのは、日本人だったらよく言いますが、そのままでは英訳不能だと思います。
英語の場合、純粋に罵倒スラングは勿論あります。old bag のように、日本語にしたら”クソババー”みたいな言葉です。でも、これは違う。「わたし、もう、クソババーだから」とは言いませんからね。
あと、他人や自分をそういった名前(固有名詞)ではなく一般名詞で呼ぶ習慣がないです。名前が分かれば、その名前で呼ぶのが普通ですし、だから最初に自分の名前を必ず言います。もし、名前も知らないまま呼びかけることになる場合は、Lady、Madamでしょう。これは敬称を意味します。男性で言えば、Sir とか Mister に相当します。しいていえば aunty くらいでしょうけど、あんまり使ってないような気がします。auntやuncleは、親族関係を意味する場合が多く、あとは「ステラおばさん」的な使い方でしょう。"uncle Tom's cabin (アンクル・トムの小屋)”みたいに。
相当する英語がないのも当然です。だってトシをとったがゆえに価値が下がるとは、あまり思われてないですから。大体暦数年齢を聞く習慣がほとんど無いし、聴く習慣が無いのも「マナーだから我慢して聞かない」というよりも、そもそもそんなに興味がないから聞かないという感じもあります。まあ、本当はすごい気にしてるのかもしれないし、価値が下がると皆が思ってるのかもしれないけど、それでもそれを大っぴらに肯定するような風潮はないです。そういう風潮がない以上、それに相当する言葉もまた生まれてこないのでしょう。逆に成熟を表す、mature は非常によく使われます。むろん、基本的にはいい意味で使われます。あと、old を婉曲に表現する場合として言われることはあります。
日本人が感じるような、「年を取ったが故の制約感」も、こちらでは薄いです。制約感というのは、年をとったがゆえに、あまりハデな衣類は身に着けられないとか、学校に通ったり、ビジネスを起こしたり、新規に何かをやり出したりとするのは気恥ずかしいということです。「年齢相応に地味にしなきゃ」という発想は乏しいですね。そもそも、年齢に関わり無く、自分の趣味を出すのが気恥ずかしいという意識が乏しいですね。だから、ヘソ出しルックでも、「キミがするか?」というお相撲さんみたいな体型の人でも嬉しそうにヘソ出してますから。それは結局、他人がなにをしようがあまり気にしないことであり、他人がどう思おうがあまり気にしないということでしょう。
というわけで、mature な ladyは、「おばさん」などというケッタイな自己表現をされないようにお願いしたいわけです。
名前には呪術的効力があります。自己暗示と言い換えてもいいです。日本語における「おばさん」という言葉がまとっているネガティブなキャラクターが、そのまま自分にのしかかってくるからです。そういう呼び方で自分を呼んでいるうちに、そういう人間になってしまうという恐さがあるからです。
僕は、前にも書きましたが、「おばさん」が大嫌いです。もう、見つけ次第射殺!ってなくらい嫌いです。それは年齢の問題ではなく、「おばさん的なるもの」が嫌いだからです。これまで述べてきた例でいえば、「正しく年をとりそこなって、年齢をもって自己弁解のツールにし、自分を甘やかし、人格的に卑しくなっていってる唾棄すべき存在」だからです。年齢が高ければ高いほど、僕の要求水準は高くなりますから。絶対に年齢だけで馬鹿にはしない反面、その分要求水準は高くなるということですね。
じゃあなんて自分を呼べばいいのか?といえば、別に自分の名前でいいと思います。「私」でもいい。世界に二人と居ない、かけがえのない存在としての自分でいいです。「わたしはオバサンだから」と自問自答するところで、「私はワタシだから」と置き換えると違った見え方がしてくると思います。それでも抽象的でよう分からんというなら、「おばさん」のところを全部「Lady」に置き換えたらいいです。
私はオバサンだから--
私はレディだから--
そう置き換えるだけで、全然アイデンティティが変ってくると思いますし、ダウナーな方向が、アッパーになっていくと思います。レディと自己規定したら、「わたしは、レディと呼ばれるに相応しいか?」と自己検証をするでしょう。こんな品格の無い喋り方でいいのか、こんな話題の貧しさでいいのか、こんな生き方でいいのか?と思うようになるでしょう。逆に「おばさん」だと思ったら、何をするにもブレーキが掛かるでしょう。ただ、レディなりマダムという自己規定が、単なる虚栄の肥大(ブランド物買いあさったりエステ通いに奔走したり)だけだったら、あんたはどこまでいってもやっぱり「おばさん」ですわ。そんなもん見る人が見たらすぐわかるでしょう。
男性の場合は、自分で「ミスター」なり「サー」と呼ばれるに相応しい見識と人格と立居振舞いをしているかどうかと考えたらいいと思います。
なんでこんなに余計なお世話で、他人の自己規定まで僕がクチバシを挟むかというとですね、
@語学学校選びの相談の際に、年齢に関する質問がなくなってメールを書くのが楽になる
A日本の「激動の時代」的な狂奔的な情報、モー娘やキムタク的ロリコンお稚児さん文化と、みのもんた的&半可通科学知識の安全第一オバサン文化にうんざりしてるから、早く消えて無くなって欲しい
Bもっとイイ女や、イイ男が増えるだろうから楽しい社会になる
という理由があります。
よろしくお願いします。
写真・文:田村
写真は家の近所を散歩してたら見かけたクッカブーラ。こうしていると可愛いのだが、鳴くと異様にうるさいのだ。
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