1. Home
  2. シドニー雑記帳INDEX



なぜ日本では若者がエラいのか?(その1)




 よくAPLaCのゲストハウスにいらっしゃたお客さんが、「これ空港で買った日本の雑誌ですけど、良かったらどうぞ」で置いていかれるので、「ふーん」とか見るともなく見てるのですが、前々から一つ気になってることがあります。それは何かというと、良くも悪くも若い人が話題になる度合が日本の方が高いということです。

 それは例えば、コギャルやらガングロがどうしたといった、女子中高生モノであったりもしますし、「最近の若い者は〜」的な論調であったりもします。日本に居るときは、かすかな違和感程度でしたが、こちらにいると結構「あれ?」と思ったりもします。

 オーストラリアでは、日本ほど若者が注目されることはないし、女子中高生の流行を、それほど誰もが知ってるということはないと思います。僕の知る限り、日本で使われている(独特のニュアンスを伴った)「女子中学生・女子高生」に相当する英単語はないんじゃないか。いや、そりゃ表現できますよ。「中学生=Year7〜9の女子学生」という言い方は出来ますが、それはそれだけことで、「30代前半の既婚女性」という無味乾燥な言葉でしかない。つまり、そもそも日本で語られているような「最近の女子高生〜」という独特の概念自体がないんじゃなかろか。

 勿論若者だって話題になります。でも、その話題の切り口というのは、HSC(NSW州の統一高校卒業試験で大学入試の代りになるもの)がどうしたとか、若年失業者数がどうとか、失業保険をもらって働かない連中がどうしたとか、ドラッグが蔓延してるとかしてないとかいうような話題です。つまりは、教育、雇用、健康、犯罪などの文脈で、それは老人介護とか年金問題と同じように、あくまで社会問題の一環として語ってるに過ぎない。

 ここ、ちょっと興味深いのですね。

 端的にいって、日本というのは、若い人、それも女子高生とかそのあたりを皆してチヤホヤしてるというか、注目する傾向があるように思います。「最近の若い人の流行」とか。日本に比べれば、オーストラリアなんか殆ど無視に近いんじゃなかろか。オーストラリアの30〜40のおっちゃん・おばちゃんは、15〜16の少女達の流行がどうしたとかいうことにそんなに興味はないみたいです。


 僕自身も、日本にいる頃から女子高生がどうしたとかいう、そのテの話には全然興味無かったので、こちらの社会のシカトぶりは自然に感じられるのですが、それだけに久しぶりに日本の雑誌等でコギャルがどーしたこーしたという記事を読むと、メチャクチャ違和感あります。

 正直いって、そんな15〜16のコムスメが何やろうが「俺の知ったこっちゃねえ」「そんなんどーだっていいじゃん」って思います。おそらく僕だけではなく、実を言えば多くの日本人にとって大して興味を引く話じゃないんじゃなかろか。じゃあ、なんで日本の場合、飽きもせずにそんな話題や視線が漂っているのか?

 いきなり掘り下げたことを当て推量でいってしまうならば、日本社会の方が「若さ」というものに何らかの価値を認める傾向が強いんじゃないか?

 オーストラリアというか、西欧系の発想では、若いということは、どちらかといえば、未熟とか半人前とかまだ修行中とか、そういったネガティブな文脈で語られることが多いように思います。映画なんかでも、洋画の方が、成熟した完成度の高い「大人」がヒーロー/ヒロインになってるケースが多いような気がします。

 一方、日本では、若くなくなったら、男性はオヤジになり、女性はオバサンになるしかないみたいな部分がありますね。要するに人生のピークを過ぎてしまって、あとは落ちるだけみたいなニュアンス。なんか野菜の鮮度を言うみたいに、ティーンエイジャーが一番新鮮であとはどんどん古びていくみたいな。30歳過ぎたくらいで「もうオバサンだから」みたいな謙遜ともつかぬことを言ってみたり。20代後半から30才過ぎた人々の会話でも「今の若いコは〜」という言い方しますし、その言い方の根にあるのは、若さに対する眩しさとか脅威だったりします。

 これ、素朴に「なんでやねん?」と思います。

 この種の話をはじめると、例によって色んな考え方が可能で収集がつかなくなりそうですが、全部考え尽くして整理するのは面倒だからランダムに書いていきます。

(1)経済的側面=日本の若い人は金持ちであり、消費リーダーであること


 これは一つ言えると思います。マーケティングでもトレンドリーダーとかいって女子高生に流行ったものは全世代で流行るとか、若い人の感性が一番時代を先取りしてるとか。だから、彼らをターゲットにして物を売ったり商品開発したりすると聞きます。リアルタイムにはちょっと変化してると思いますが、少なくとも数年前まではそうだったといいます。

 音楽でも、ファッションでも、ちょっと古いけどたまごっちもプリクラも、みな若い人達にウケて成長しました。オーストラリアでもたまごっちは売られてましたけど、でもそんな「社会現象」というほど売れてはいないでしょう。おそらく20歳以上のオーストラリア人に「たまごっちって知ってるか?」と聞けば、どのくらい知ってるのかなあ?直感的にはもう90%以上は「そんなん知らん」という感じじゃなかろか。少なくとも行列を作ったみたいな話は聞いたことがない。仮に知ったとしても。「ティーネイジャーはクレイジーだからね、なんでも興味をもつものさ」みたいなクールな捉え方をするような気がします。

 それと日本の方が子供にお金(小遣い)を持たせてるんじゃないかな。いや、これは統計的な裏づけあっての話じゃないけど、オージーの若者って皆さん大体貧乏臭いですから。大学のキャンパス歩いていても、セーターに穴があいてたり、金のかかった身なりをしてる風ではないです。また、最近は傾向が変わってきたといいますけど、こちらでは18歳で成人になり、しかも18歳になると親の家を出て自活するというのが伝統的なパターンですので(勿論仕送りなんかない)、金なんかあるわけないんですわね。バイトしたり失業保険もらったりして、カツカツ暮してるってのが一般的ではないでしょうか。中高生で携帯電話を持ってるなんてのは、一体どれだけいるんだろうか(アジアの留学生くらいちゃうか)。だからそんな若い人狙って商売やっても貧乏だから儲からない。


(2)若者に冷淡な社会/家庭と政府の役割分担


 (1)の点をもう少し敷衍します。

 オーストラリアでは、というか西欧系の発想では、日本(ないしアジア)だったら家族でやることを政府の仕事にしちゃってる部分があります。

 オーストラリアではキャリア重視のキビシイ就職環境になってますので、若年失業率は一般の2倍以上あるといいます。これは日本でも同じですけど、こちらの方は万年政治問題になってます。こちらの若者がDole(失業保険/生活保護)貰ってサーフィンやっててノラクラしてるという批判もあって、年々支給基準が厳しくなってはいるのですが、それでも貰ってる人は結構います。ちなみに失業保険が無期限で貰えるから天国だみたいに言うむきもありますが、あれって週1万円ちょっと、2万貰円も貰ってない筈です。だからビーチ沿いのフラットの部屋に何人も雑魚寝して、昼間は海で遊んでるという感じなんでしょ。

 ところで、日本の失業保険は、ある程度労働実績があって、保険掛金払ってないと受取れないし、また給付期限も限定されてますから、「福祉」というよりは、在職中の「積立金の払い戻し」というニュアンスが強いですね。「折角これまで払い込んで来たんだから貰わないと損」という。でも、こちらではそういう制限はなく、期間も事実上無制限ですから、失業保険というよりは「生活保護」といった方が近いでしょう。ということは、こちらでは、息子が生活保護受給者になっても親はそんなに面倒見なかったりします。で、親がやらないからそれは政府の仕事。

 これ日本の感覚ではそこまで割り切りませんよね。大学入試に失敗した18歳の子供を、「あとは福祉事務所でもいって生活保護でも受けるなり勝手にやりなさい」で路頭に放り出す親ってのはあんまり居ないでしょ。逆に言えば18歳(こちらでは成人でもある)になれば、誰の世話にならずに一人前になれるように小さな頃から育てるんでしょう。遡れば、物心ついた頃から寂しがろうが一人ぼっちの部屋に寝かせたり、中高生で町のお店で実地で労働体験をさせるワーキング・エクスペリエンスという正規授業(これも学校がお膳立て整えてやるのではなく、生徒本人が各自「働かせてください」と交渉しにいかなきゃならない)があったりという積み重ねなのでしょう。

 学費についても最近は受験戦争らしきものが熱くなってきてますし(公文塾がそこそこ営業でてきたり)、クソ高い名門私立に通わせたりして貧富の格差の再生産がされたりしてますが、日本に比べればまだまだお金を遣ってない。また中高一貫教育で高校入試が存在せず、さらに高校1年までは比較的のんびりしたカリキュラムで進み、高校一年終了時で大学組とその他に分かれ、高校2、3年は進学組だけでいきなり勉強が超ハードになるというハッキリした区分ができてます。だから日本のようにのべつまくなし受験に追い立てられず、必死になるのはNSW州ではHSC(統一高校卒業試験)一回のみ。

 大体親が学費で面倒みるのは高校までで、大学は「成人してからいくところ」だから、自助努力でいけという考えが伝統的にあります(最近の学費高騰でそうも言えなくなってきてますが)。また大学なんて一回社会に出て自分の適性を見極めてから入るもの、というコンセプトもあります。そんでもって入ったら入ったで勉強に追いまくられるという。

 一方、親の代りに政府の奨学金制度が発達してます。海外留学・体験についても各種の政府の補助があり、希望者は鵜の目鷹の目で掲示板を見る。僕らの知ってるオージーで日本に暮したことある人達は、皆なんらかの形で政府(日本政府も含む)の交換留学やらそのあたりのプログラムで行ってますし、親にお金出して貰った人というのは、、、、考えてみたら一人もおらんわ。ちなみにワーホリというのも、若者に海外体験は貴重だ→でも若者はお金をもってない→じゃ条件緩和して働かせてあげようというのが元々の発想だと推察します。だから「ワーキング」「労働禁止条件の緩和」にポイントがあって、「働きながら休日を創っていく人=ワーキング・ホリデー・メイカー」なんだと思います。



 総じていえば、オーストラリアの方が若者は経済的に恵まれていない。政府がやるにしても、一定のやる気と実力と才能を証明しないとお金出してくれない。社会全体が若い人に冷淡ですよね。まずもって、親が子供に経済的援助を(日本に比べれば)しない。いろんなケースはあるでしょうが、概していえば親のスネをかじらせてもらえない。少なくとも学費・住居費はおろか、ろくすっぽ勉強しない大学生のスキー旅行の費用まで援助する親とか、もともと勉強するつもりもない子供に「大学に行かせてやれなかった」って謝ったりする親って、そんな日本ほど多くはないでしょう。

 ものすごーく図式的に言えば、16〜18歳までは自立能力がないから親が面倒をみる。面倒を見るかわりに割と厳しくしつける。私立学校なんか、fuckといっただけで一週間の停学とか、一週間校長室の前に机もってきて晒し者にされるとか(反面、教師を刺したりする荒れてる学校もありますが)。で、16〜18歳で時期がきて自立能力が出来たら、口出しはしないかわりに面倒もみないで追い出す、と。これ、僕が中高生だった時のことを考えれば、あと数年でストリートに投げ出され、自分で生計立てることに決まってたら、全然気構えが違ってたと思います。そんな甘ったれたりグレたりしてる場合じゃないですよね。


 ちなみに親が子供の面倒をみない代りに、子供も親の老後の面倒は見ないというのが当然の前提になっていて、だからこれも政府の仕事。公的扶助が発達するわけです。


 西欧系のほうが、こと経済的な面については、家族関係はドライだと思います。もっともだからといって人情面がドライであるとも言えないんですよね。巣立った子供も毎週週末には家に帰ってバーベキューやったりするし、これ結婚しても毎週実家に帰るようなもんですから、日本の盆暮帰省なんかよりも遥かに濃厚ですよね。しょっちゅう親戚が遊びに来たりするし。習慣の違いもあるけど、よく親子で抱き合ってキスしてますし。ただ毎週実家というので、嫁姑で結構キツそうな部分も目撃したりしますけど。

 どちらがエラいとかいう問題はさておき、そういった差があるんかなと思います。この分野に関しては、なんでも発想が逆になっていきますので面白いですよね。経済面については、それは政府の仕事、そのために政府があるんだ、そのために税金払ってんだという意識が日本よりも浸透してるから、監視も批判も厳しい。ちなみにこちらでは国民全員確定申告をする義務があり、今僕もタックス・パックという小冊子見ながら確定申告の準備してますが、これが涙が出るほど面倒臭い。これだけ面倒臭い思いしながら毎年税金やってりゃ、そりゃ意識も先鋭になるわなって気もしますね。

 日本というかアジア系は、伝統的に政府を信用してませんよね。どっかのエラい人が適当なことやってて、俺達は関係ないわという。日本人だってそうでしょ。公的介護だ年金だとかいっても心の底から「これで大丈夫」なんて全然信じてないもんね。政府なんかアテにしてたら身の破滅だから、せっせと自己防衛するわけで、だからアジア系は貯蓄率が異様に高かったりするのでしょう。

民主主義の根付き→遵法意識
 さらに余談ですが、政府に対する信頼性と関係してるのでしょうか、こちらに住んでるとある日本人の人が言ってましたが、「アジア系の方が気楽に法律を破る傾向がある」と。確かに、こちらの社会で「それはイリーガル」といったら、まず「絶対やってはいけないこと」というくらいの強いニュアンスがあります。"That's a law.""It's illegal."と言われたらそこで議論は終わり!というくらい動かしがたいものがある。日本ではイリーガルということが語られる機会自体がまず少ない。近所のオバサン同士の会話で「あ、それは違法なのよ」みたいな話にはならない。そもそも法律を知らない。興味もない。興味あるのは「他の皆はどうしてるのか」ということ。

 こちらでは、こっちがイリーガルなことをしてたらガンガン文句言われたり、チクられますもんね。僕の住んでるエリアでは(これはNSW州全体なのかオーストラリア全土なのかは知りませんが)、庭で焚き火をすることはイリーガルです。で、最初そんなん知らんもんだから、モクモクやってたら、近所の人が通報したのでしょう。家の前に大きな消防車が停まってさんざん油を絞られました。また、幼稚園でも先生一人あたりの子供の数の上限というのも法律で決っていて、先生が病欠したりしてこの上限を超えたりしたら、即クレームがついたり、役所にチクられるとかいうのも経験者の話として聞いたことがあります。

 また、ウチの近所に駐車車両が増えてきたので駐車禁止にしようじゃないかという市(というか町)議会で話題になったことまで、印刷して各家に配られます。そこには、@〜Dまでの各案(○○ストリートの南側だけ2時間期限の駐車違反をし、○○ストリートについては終日駐禁にするとか細かい)、それらについてのメリット・デメリット、さらに次回の議会日程と意見を言う電話番号が記されてます。

 ※面白いので参考までにスキャンしてみましたので、よろしかったらご覧ください。その1その2

 こっちの人は総じて日本の人より法律を良く知ってるし、よく守る傾向があると思います。民主主義が根づいてるといえばそれまでなんかもしれないけど、感じとしては、政府や公的機関や法律を、いかに自分の生活のために役立たせようか、「いかに酷使したろか」という意識が日本よりも強いと思います。

 そういった背景もあって、ここまでが家庭の仕事、ここからが政府の仕事という線引がしやすいのかなという気もします。ところで、「ここからは政府の仕事」と書きましたが、これを読んで「ああ、そこからはもう俺はやらなくてもいいんだ」ってチラッと思いませんでしたか?でも、それも日本人的だと思うんです。「政府の仕事」ということは、また別ルートでの「自分の仕事」でもあるんです。候補者の支援をせなあかんわ、公聴会に出席せなあかんわ、意見はいわなきゃならんわ、必要があったらデモをせなあかんわ、何かと大変なんですね。そこの意識の違いってのは、あるんじゃないかと思います。

 なんでこうなってしまうのか?なぜ日本はそこまで子供の面倒を見てしまうのか?といえば、「そういうもんだ」と思ってることもあろうし、後々老後の面倒を見てもらおうと思ってるから、「困ってるときはお互い様」式にやるという部分もあるでしょう。じゃ、なんで老後の面倒を見て欲しいかというと、政府はアテにならないから。じゃ、なんで政府はアテにならないか?というと、日本の国民は、つまり僕らはアテにならない政府しか構築しえなかったからだ、投票しないとか、関心がないとか、これまでパブリックな努力を怠ってきたからだと言う事もできるでしょう。この関係性は、いよいよ実施が秒読みになった介護保険において、今まで以上に鮮明に出て来ると思います。

 ただ、それは進歩してるとかしてないとかいうだけの問題ではなく、それぞれの社会の伝統であり慣習であり、オールドカスタム・ダイ・ハードという慣性でもあるのでしょう。なんでも家庭に抱え込んでしまうという傾向は、遡れば、儒教の影響やら、家制度やら色んなものはあるのでしょうし、一概に悪いと決め付けることもできない。ここも面白いけど、話が逸れすぎるのでここまでにします。

 ただ、経済的な部分を家で処理しようとするなら、相対的に若い人の方が可処分所得は多く、リッチになりますよね。親になったら、子供の教育費やら老後の心配やらで、貯金、積み立て、保険にローン、可処分所得なんか殆どなくなる。だから浮動購買力がなくなり、マーケットとしては痩せてくる。相対的にリッチなのは若年層ということで、(1)につながっていくのかなと思います。日本でも親の世代がもっと可処分所得が多くなってきたら、話はまた違ってくるでしょうし、徐々にそうなりつつもあると思います。


(3)若い人の感性はそれほど優れているのか?



 いくら若い人が経済的にリッチだとしても、その感性がダメだったらそんなに注目されないと思います。やはりビートルズを最初に発見して支持したのは若者だったということで、若者が最初にイイモノを発見しそれが徐々に浸透していくという構図があるからこそ、若い人は社会で注目されるのでしょう。

 まあ、多分にそういう側面はあるのは否定しませんが、冷静に自分を振り返ってみるに、若い時の方が感性が鋭かったり優れていたか?というと、一概に言えない。といよりもハッキリいって、今の方が全然勝ってると思う。若いときの方が、神経の数も足りないし、粗雑だし、その素晴らしさに気付かなかったというものは沢山ある。

 ただ若い時の方が感情の振幅は激しいですよね。それは、経験してる領域が狭いから、すぐに「こんなの初めて」ということで動揺しちゃう。それに考えなきゃいけないことも少ないから集中できるし。学校の先生や親が気に食わないというだけで、世界が全部自分の敵のように思えてしまうとか。

 それがゆえの切迫感や緊張感は、確かに若い頃の方があるでしょうし、そういう激情の純度みたいなものは高いでしょう。二度目、三度目になってくると、結構余裕になってきますから、ひたむきさというのは薄らいできますもんね。ただ、それって、今から思うと、単に「ビックリしてるだけ」「パニクってるだけ」という部分も多いんですよね。感情が不安定だから、ちょっとしたことで「わあ、もうオシマイだ」みたいに思い詰めてしまうという。

 そのビックリして思い詰めていく緊迫感が、感性の鋭さを産むこともあるでしょう。だけど、基本的に「ビックリ」と「感性の鋭さ」とは話が別じゃないかという気もするのですね。だってビックリしてるが故に、本来しょーもないものでも素晴らしく思えちゃったりすることだってあるだろうし、どっちかというとその場合の方が多い。実際、「女子高生に人気」とかいうようなモンって、基本的にはしょーもないものが多いような気がするし、音楽なんかでもいいと思うものが少ない。確かにビートルズを発見したのは若者だろうけど、その数百倍しょーもないものも発見してる。大体ビートルズにしたって音楽的に理解してたかどうか怪しいし。

 僕らが中高生だった頃、クラスの女子がキャーキャー言って聴いてた曲なんて殆ど残ってないし、今聴いたって「こんなもん、何がよかったんだ」みたいなものが多いでしょ。勿論アイドルタレントが売れるのは、純粋に音楽として売れてるわけではなく、異性経験が少ないが故に耽美的に夢見る小道具として利用価値があるからこそ売れてるんだけど、だから逆にいえば、音楽的感性として彼ら彼女らの感性はあんまり信用できないとも言えます。

 そら若い人で感性鋭い人は沢山います。でも、思うんですけど、そういう人って年食ってもいい感性してるんじゃないの?つまり若いからいい感性をしてるのではなく、もともと感性のいい人がいて、感性のいい人は若い頃からそうだというだけの話じゃなかろか。10代でジャリタレにキャーキャーやってるやってる人は、20代でトレンディドラマでキャーキャーいって、30代でワイドショーでキャーキャーいって、60代で皇室アルバムでキャーキャーいって、、、という具合に、失礼ながら一貫して低空飛行をしてるだけじゃん?という気がしてならんのですけどね。

 ただ、年を食ってくると感性が鈍磨してくるという点は確かにあると思います。ただこれは肉体的な加齢現象というよりも、社会的にやることが多くなってくる+その割には新鮮な局面展開が少ない→段々擦り切れて来て慢性疲労になる、という点にむしろ原因があるような気がします。これは後でもう少し述べます。




★→その2に続く

1999年09月24日:田村
★→シドニー雑記帳INDEX
★→APLaCのトップに戻る