シドニー雑記帳




あなたがオバサンになったら




     数年前、森高千里の「私がオバサンになっても」という曲がヒットしまして、カラオケでよく聴いたものです。もっぱら女性にウケてたようですが、これ男性の側から身もフタもなく言ってしまえば、恋人がオバサンになったら、「そりゃイヤに決まってんじゃん」、that's allでありましょう。

     ちなみに僕も「オバサン」はキライです。ああ、もう、大っキライと言っていいでしょう。ただ、「年を取った女性」一般でいえば、好きでもキライでもない、あるいはどちらかといえば若い女性よりも好きかもしれない。で、「上手に年をとった女性」は好きです。大好きと言ってもいい。




     だから要するに歳なんかどうでもいいのです。問題は「オバサンとは何か」という話、「いいオバサン」と「悪いオバサン」というものがあるのではないかという話です。

     大っキライなのは、いわゆる「オバタリアン」系の年配女性であります。いくら歳をとってもオバタリアンにならないのであれば、問題ないです。また、年齢が若くても、既にオバタリアンとしての属性を身につけている人であればキライです。もっといえば、性別が男性であっても、オバタリアン的であればキライです。十代のオバサン、男のオバサンというのは、これは実在すると思います。そう思いませんか?

     結局、「中年女性に最も頻繁に見られるところの、人間としてのネガティブな特徴」がキライだと言ってるわけです。ド厚かましいところとか、セルフィッシュなところとか、向上心の無さとか、世界観の狭さとか、そこらへん一般の徳性の低さが嫌なわけです。これ、誰だって嫌だと思いますけど、僕はもう情け容赦なくキライです。「オバタリアンも、あれはあれで可愛いところがあるんだよ」というような妙な中間領域はありません。バッサリ斬ります。





     では、進んでオバタリアンをオバタリアンたらしめてる本質部分は何なのか、何が嫌なのか、どうしてそのネガティブな特徴は年配女性に多く発生するのか?そこらへんを考えてみたいと思います。

     いきなりブッ飛んだ結論を言いますが、あれは一種の「拘禁性症候群」みたいなものではなかろうか。社会的に「オバサン居住区」のようなところがあって、意識的・無意識的に、その居住区に追いやられ、そこから外に出れない、ないし出ることが非常に困難な「地区」があるとします。で、そこに追いやられた人間としては、それなりに環境に適応しようとしますから、無駄なあがきをしてもツライだけなので、出ようとはしなくなる、その居住区の中で上手くやっていくようになる。その過程で、思考回路や性格が変容していってしまうのではないかと睨んでいます。

     「オバサン居住区」に追いやられた人間は、一定限度、自由と可能性を失います。例えば「命を燃やすような恋愛」「この社会を変えていくためのリーダーシップ」などです。つまり、歳をとって他の男性から恋愛対象として認知される機会が減る、社会的に責任ある立場に就く可能性が乏しいことなどです。

     若い頃は、(人によりけりでしょうが、一般的に言って)ほっておいても男がチヤホヤしてくれるでしょうし、「命をかけた恋」にしたって、「いつかは訪れるもの」として身近に感じてます。当然テンションは高まります。化粧にも物腰にも気合が入ります。可能な限りベストな「いい女」になろうとするでしょう。同じように、受験なり在学中においては、将来国政を動かしたり、一流のプロフェッショナルになるような可能性があります。それがどんなに遠かろうとも、「もしかしたらなれるかもしれない」という希望はあるでしょう。また、自分が「素晴らしい人間」になりたいと渇望する度合も高いでしょう。そこには無限の自由と可能性があります。客観的に乏しくても主観的にはあるでしょう。たとえ、それが風呂屋のペンキ絵のような陳腐な書き割り程度のものであったとしても、希望はあると思う。

     オバサン居住区は、これらの自由と希望が制限された一種の牢屋みたいなところであり、一旦そこに入ってしまった人間は、前よりも強く希望を抱かなくなるし、心の底に大きな諦念を抱くようになる。そうなると、人間どうなるか?グレますね。何をどう着飾っても男は寄ってこないとなれば、化粧にも気合が入らない。どんなに勉強しても発言権が与えられないのならば、やる気もなくなります。

     そうなると何に興味を持つようになるかというと、「井戸端会議の政治学」のような周囲の狭い世界であり、他人のプライバシーを暴いて喜ぶ出歯亀根性であったりします。要するにワイドショー的な世界になっていくわけで、何か重大な事件/問題があったとしても、問題の構造性を真剣に吟味するというよりは、「元恋人激白!加害者○○の異常な性生活!」といった視点で物事見るようになったりするのでしょう。




     これ、話を分かりやすくするためにかなりデフォルメして書いてますが、原型はこんなもんだろうと思います。

     で、一旦は諦めていたことが、ひょんなことから実現可能になりそうになると、人間喜びますね。滅多にないチャンスなだけに、深く吟味することなくハマってしまいがちです。例えば、若かったら別にどうとも思わない男性に対しても、その人が自分を女性として認め求愛してくれたなら、それだけで好きになって、不倫にハマッてしまうとか。ひょんなことから社会参加の機会が出来たら、より大きな全体状況が見えないまま、そのテーマに没頭して、極端な一元的正義観に陥ってしまうとか。その昔の「おしゃもじ族」とかPTAの悪書追放とか、そこらへんの過激さばかりが面白おかしく取り上げられるだけか、主張が実現したとしても、それは単に鬱陶しがられて腫れ物触るようにしてそうなってるだけで、肝心な社会全体は微動だにしないとか。




     ところで、忘年会の幹事にせよ、とあるセクションの長にせよ、なんでもいいのですが、一度でも人の上に立って全体を仕切らねばならない立場に置かれた人はお分かりだと思います。念仏のような抽象論を唱えているだけの立場と、現実に切り盛りしていく立場との大きな大きな違いが。現実はややこしく、理不尽なことも多々ありますが、そこでメゲていたら何も進まない。脅したりすかしたり、押すべきところ引くべきところ、拳の上げ方、落とし所、いろんなことを考えないとなりません。清濁合わせて飲まないと、現実に物事が進んでいかない。

     普通社会にでていって、それなりの部署についたら、「現実」がタコ殴りのように襲い掛かってくるでしょう。それをクリアしない限りは次のステップに進めないことも知るでしょうし、「現実への勝ち方」も身体で覚えていくでしょう。

     その過程を経て、度量も広くなっていくだろうし、物の見方も総合的になっていく。歳相応の責任感や落ち着いた物腰も養われる。被害者根性振り回してキャンキャン吠えていたって何も始まらないことも、自分がなすべき応分の努力をしなければ冷たい世間は耳を傾けてくれないことも知るでしょう。現実を変えようとするならば、何をどのようにすべきなのか、そのダンドリも見えてくるでしょう。自分が次になすべきこと、自分をいかに高めていくかも知るでしょう。



     余談ですが、企業が採用において女性差別をするのも、理由のないことではないのでしょう。男の場合、社会進出は既得権として約束されてますが、逆に言えば社会から逃げることは出来ない。この薄ら汚れて「力の論理」で動く現実社会でのし上がっていく以外に、男が生きてく道はないわけです。いや、別にないわけではないのですが、「45才、フリーター、特技なし、資産なし」の男が世間的にどのように冷遇されるかは御存知でしょう。だから、どんなに理不尽な現実であっても、「呑み込め」と言われたら呑み込むしかない。企業としても、そういう男性社員に対してはバシバシ理不尽な命令を下すことが出来る。無能だったら容赦なくひっぱたいたり、面罵したりもできる。

     結局、「社会進出」なんていったって、現実世界のクソ水を沢山ひっかぶるだけの話、口の中にゴキブリ沢山詰め込まれて「さあ、飲み込め」と強制されるような機会が増えるだけと言えないこともないです。だって、極端な話ですが、どこかで汚職が発覚すると、実直な中間管理職が自殺したりするじゃないですか。あるいは、今度オリンピックをやる長野県の知事のカミさんが異様に姓名判断に凝っていて、強引に長野県の助役の名前を替えさせているとか。他人の、それも上司の奥方という関係のない人間から、親から貰った名前を変えさせられる屈辱はいかばかりかと思うのですが、それでも耐えなければならない。それを超えて、この社会を自分の思うとおりにしようと働きかけることは大変なことだったりします。ゴミ処理場の反対を唱えるだけで、右翼に襲われたりするわけです。ほんま、命懸けの世界だと思うのです。

     こんな極端な例でなくても、理不尽なことは世に沢山ある。笑って飲み込まないとやってられないし、それなりのタフさが求められます。これは何も男でなくても同じでしょう。患者の家族から殺人者呼ばわりされる看護婦さん、酔客にからまれるスチュワーデス、重箱の隅をほじくるようなクレームに対しても一日中叩頭し続けなければならないカスタマーサービス、挙句の果てにトチ狂った中学生のガキンチョに刺殺されてしまった女教師。これが現実。でも、そこでやっていかなきゃいけない。




     オバタリアンの「オバサン居住区」は、自由と可能性が制限されている代りに、なんだかんだ言っても保護されていると思います。結果としてどのような人間が培養されるかというと、自分自身の可能性を諦め、努力を放棄し、現実の熾烈さを知らないがために、いたずらにビビッたり、他者に依存しようとする、、、、などなど。

     一言でいえばプライドが無くなる。虚栄心は売るほどあっても、本当の意味でのプライドは無くなる。人間、自分自身に対する希望を喪失したあとは、ひたすら下降線を辿る一方であり、早い話が愚かになっていくのでしょう。

     そんなケースは弁護士時代腐るほど見てきましたし、APLaCやっててもたまに遭遇うします。例えば、極端に警戒心が強いのと表裏一体に精神的に脆いという性格が顕著な人がいたりします。財産目当のダンナからの離婚を決意して弁護士に頼むも、相手(ダンナ)が穏便に出ると、それがミエミエの言い逃れであるにも関わらずそこで闘い続ける気力がなく、弁護士を解任して元のサヤにおさまろうとする。「あんたがしっかりしなきゃ!」と自分に厳しい(しかし正しい)意見を吐く弁護士も解任。そんなこんなで弁護士を転々とするから、戦略がなーんも一貫しない。プロの意見も自分に都合のいい所だけ覚えているから何の役にも立たない。挙句の果に、相手さんから骨までしゃぶられて遺産数億全部ダンナ名義に変更させられて、古靴捨てるようにポイと捨てられちゃうとか。

     はたまた、息子の交通事故に関する難しい事件で、頼んだ弁護士は地道な立証活動を続けていたところ、半可通の知人から「知り合いの府会議員やら暴力団に頼めばあっさり解決する」とかいう浅はかな話を聞き弁護士に提案するも、これを言下に否定されたため、信頼できなくなり解任しちゃったりします。「警察や保険会社に顔がきく」という触れ込みの某人物に、手付金名下に婚礼時の着物まで売り払って金作って上納したはいいが結局何もしてもらえず、当然のことながら訴訟もボロ負け。




     何がアカンのか?
     あまりにも近視眼的であり、あまりにも世間知らずであり、現実に立ち向かうのは基本的に「戦闘」であるのだという基本認識があまりにも欠落しているからなのか。現実の困難を「魔法の杖」の一振りで解決できるかのような幼稚な世界観から脱却できないからなのか。「世間を知ってる」というのも、いたずらに世間を汚く描いたり怖がったり、夢も希望もないかのように思ったりすることではないし、騙されまいと極端に防衛的になることでもない(これを「世間を知ってる」と誤解している人もまた多い)。これ、「世間」に「海外」に置換えても当てはまると思いますけど。




     そして、世間智というのは、見え透いた戦略で人を利用しようとすることでもない。あ、思い出したけど、APLaCに限らず、どんな業者さん、どんな人に対しても、「安い」というだけで近寄ったらアカンと思います。安さは大事な判断材料だけど、他人に何かをやってもらおうとするときに、おのれのケチ臭さを紛々とさせて近寄ってもロクなことにならんでしょう。それこそ、本当の意味での「経済活動」というのは、スーパーの特売品探しとは違う。ある程度まとまったお金を動かしている人はおわかりでしょうし、他人を動かしている人はお分かりでしょうが、「タダだから来ました」とか妙な値切りばっかりしてたら結果的には大損するでしょ。

     他人に気持ち良く動いて貰うためには、まず自分が相手を信用して、ケチなことは言わない。礼節は崩さない。場合によっては、相手が100万請求したら120万払うくらいの性根でいくと、相手だって人間なんだから「この人のためならば」と思って色々サービスしてくれるでしょう。そのサービスを積み重ねれば、本来の値引きよりももっともっと割安になる場合が多いです。無理も聞いてくれるでしょうし。もちろんケースバイケースだけど、ある程度継続的な関係を築こうとするなら、それは基本ではなかろうか。

     例えば、APLaCでホテルの予約代行やらアテンド・サポートを一件or1時間を20〜25ドルでやってますが、これ、「25ドルも取るのか」と不満タラタラ、メール送ってもろくすっぽ返事出さない人からゴチャゴチャ言われたら、いい気分はしない。でも、心の真っ直ぐな人から気持ちのいい対応されたら、どんどんサービスしちゃいます。「やってもらって当たり前」とふんぞり返ってる人には、本来の取り決め以上のことは何にも上げませんが、一生懸命頑張っている人には、頼まれなくても色々してあげたくなります。これ、誰だってそうじゃないですか。

     まあ、これも人によりけりですが、単にセコい算盤弾いているだけの人は算盤以上のベネフィットは得られないでしょう。長い目で見て、相手を伸ばし、自分も大きく伸びる。なんのことはない、これは世界に冠たる日本式ビジネス習慣だったりします。日本人ならお家芸でしょう。また、これは日本だけでやってるわけでもなく、そういった義理やら恩義は、オーストラリアで取引していても十分にあります。こっちが誠意出せば、向こうも無理を聞いてくれたりもする。




     どうせやるなら、そうやって大きく儲けたらいいのに、言わなくてもいい不満をブチブチ述べまくった挙句、「ねえ、これもサービスしなさいよ」みたいに言われたら、「天地ひっくり返ってもビタ一文負かるか」と言われるのがオチでしょう。

     で、愚かにもそれを言ってしまうのがオバタリアンであり、だからどんな業者からも嫌われるのでしょう。タクシーも停まってくれないわけだわ。その場は50円、100円得したようでいて、長い目でみたら数千万規模の大損してたりするのでしょう。だって、誰も本当の「いい話」を持ってきてくれないし、近寄る奴は、訪問販売とか新聞の勧誘ばかり。で、ますます猜疑心が強くなる。他人にケチ臭く当たり、礼節を欠く。それが処世術になっていってしまう。猜疑心が強すぎる人って、プロの詐欺師にとってはいいカモだと言われますよね。猜疑心を逆手にとられて一枚上手のことされたらそれまでだもん。




     だから、そういった人間的にしみったれた奴、度量と世界の狭い奴はキライだから、オバタリアンはキライなのです。でも、そういった弊に陥っていない年配女性は、僕は大好きです。子供の頃の可愛さや愛らしさは、決して失われることないし、人によっては墓までもって行ける。その愛らしさと同時に、渋い世間の果実を吸いつつ、それを叡智にまで高めることが出来る女性はいくらでもいますし、僕も知っています。

     さて、オバタリアンの培養環境が前述の「拘禁性症候群」であるとするならば、解決する方法は一つ、拘禁を解くことです。つまり、ガンガン女性に進出していただきます。そういう意味で、僕は女性の社会進出に賛成します。どんどん社会に出ていって、責任ある立場につき、思う存分クソ水を食らってください。ストレスで胃も十二指腸も切って下さい。

     そのうち何%かは、過労死するなり発狂するなりするでしょう。そのうち何%かはこの世の厳しさに人格すり減らし姑息な人間になるでしょう。でも、何%かは、死にもの狂いで戦って、自分のキラキラ奇麗なものを守り抜くでしょう。度量の大きさと無垢の優しさを兼ね備えた人、兼ね備えようと戦う人、そんな人が一人でも増えれば、そしてそういう人がさらに視界を広げてオーストラリアに来てくれたならば、僕らもまた多く学べるし、美味い酒も酌み交わせることでしょう。




     自分の恋人が「オバサン」になったら、それもオバタリアン系になったら、嫌になるよりも先に怒るでしょう。なりかけた時点でボロカス怒るでしょう。それこそが、女、一世一代の突っ張りどころじゃないのか、と言うでしょう。

     でも、書いていて思ったのですが、拘禁性症候群は、何もオバサンだけの話ではないですね。オジサンの世界だって、子供たちの世界だって、見えないバリアが張り巡らされ、「これより先の希望は持っても仕方ないよ」とやんわり殺されているのかもしれない。もしかしたら、日本全体がスッポリなにかに拘禁されているのかもしれない。

     自分が拘禁されているかどうかの一つの判断は、将来について青天井に希望が抱けるかどうかだと思います。仮に1億分の1の確率であったとしても、将来において何でもできる、オリンピックに出ることも、総理大臣になることも、大スターになることも、死にもの狂いの努力と信じられない幸運が重なれば、ひょっとしたら出来るかもしれないと思えるかどうかではなかろうか。だって、きんさん・ぎんさんだって、国民の人気者になったのは100歳からでしょ?あなたにだって出来ない理由はない。

     夢物語のような希望を、「もしかしたら実現するかも」と思える度合が、徹底的にゼロ%だったとしたら、それ、ちょっとヤバいと思います。どっかで拘禁されてませんか?


1998年02月04日:田村


★→シドニー雑記帳のトップに戻る

APLaCのトップに戻る