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今週の一枚(2014/11/17)



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Essay 697:40代がヤバイらしい〜価値反転の難しさ

 写真は、マッコーリーのショッピングセンターの飾り付け。1〜4Fまでの吹き抜け空間に結構でっかくやられてました。

 リアルタイムには、そろそろクリスマスの飾り付けになってるかもしれないです。この種の飾り付けは結構あちこちにあって、特に大きなショッピングセンターではやってるところが多いです。

 そういえば、マッコーリーのショッピングセンター、ドーンと増改築して、もうドえらい人出で駐車するのに苦労しました。Chatswoodでいえば、Westfieldに無理やりChatswood Chaseをくっつけたって感じで(ローカル民しか分からないですよね、ごめん)。ユニクロが出店してて、これもえらい人気で、入場制限してました。覗いてみようかと思ったけど、並んでまで入るほどのこともないのでパスしましたけど。


40代がヤバイらしい


 時折、「40代ヤバイよな」と思うことがあります。今の自分は50代ですが、振り返ってみると40代の方がしんどかったような気がします。50歳過ぎるとむしろ楽になる(あくまで「個人的には」ですが)。

 なんでそう思ったのかですが、もともとは、前にちょびっと紹介したけど(Essay 553 :「うつ」をめぐる風景)、日本の場合、中高年になると自殺率がゴンと上昇する点で、これが頭にひっかかってました。特に男性の場合は顕著です。1999年の統計によると40〜50代になるとハタチの頃の3〜4倍は死にたくなるみたいです。自殺というのは、すぐに思いつめる若者の特権みたいなイメージがあったけど、実はそうじゃない。素朴に思うのは、なんでそんなに年食うと死にたくなるの?ってことです。

 もっとも、この傾向はその後の10年間で緩和され、世代間差は減りつつあります。
 しかしこれも注釈が必要で、一つは格差が減ったのは中高年が死ななくなったからではなく、若い人も死ぬようになったからだということ。もう一つは、直近10年くらいの日本の統計って、正直いって無条件に信じられなくなってきている点です。統計の前提をこっそり変えちゃうとか、現場で適当に処理しちゃうとか、そのあたりの数値偽装がありがちなので。これも前に触れたけど、例えば犯罪検挙率を上げたかったら、分母になる犯罪認知件数を減らせばいい=現場的には被害届の受理をしなければいいわけで、実際にそういう状況が疑われるとか。ま、これ以上は話が逸れるので、このへんで。

 そのあたりもあって「40代ヤバ」とか頭にあったんですけど、、どうもそう思ってたのは僕だけではないようです。

 過日、ネトウヨという人々は実は40代前半くらいが多いらしいというのを読んで「ほう?」と思いました。これも10−20代のニート君のルサンチマン風味の人達の特徴かと思いきや、実はそうではなく、「不惑」の筈の40代だと。一応出典を書いておくと、「湯浅誠×やまもといちろう リベラル対談(前編)」で、調査会社の統計などをみて「42歳から46歳にでっかいボリュームゾーンがある」と書かれてました。ま、これで何が明らかになったわけでも無いのだけど、ただ「四十面(づら)ぶっこいて何やってんだか?」とは素朴に疑問にもなりました。

 一方、最近、AERAと糸井重里がコラボで40代にフォーカスを当てたりしてます。「40歳は、惑う」というサイト、あるいは「40代に蔓延する?「心の定年」願望」です。

 いずれにせよ、40代、ヤバイかも、って気になります。

 まーね、しんどくない世代なんか無いんだろうけどね。20代30代のしんどさも分かるんだけどね。
 でもね、40代のしんどさに比べてみたら、若い頃のしんどさはまだ質量共に大したことないよな〜って気もします。端的にいって、20代でニートやってるのと40代でニートやってるのとでは、やっぱ違うんじゃないですか?ニート歴長くてベテランだから、そこらへんは余裕でクリアっすよって感じにはならないんじゃないかな。

「前」以外のどこを見るの?

 ところで、このエッセイの共通特性として、単にビビらせて終わりという形にはしません。そーゆーのキライだし。基本、「イイコト思いついたから、言いふらしたくなる」というモチベーションでやりたい。てか、それ以外の発想法は僕には出来ないみたいです。なぜなら、バッド・エンディングってのがどうにもケッタクソ悪いからです。なんか負けっぱなしみたいじゃん、ムカつくじゃん。だから、どんなことでもハッピーエンディングにしたい。もちろん全てがハッピーになるわけないから、ハッピーになるかも?ハッピーになるにはどうしたら良いか?という方向で考える。ほっといても自然にそうなる。

 これをもって、やたら「前向き」「ポジティブ」とか言う人もいるだろうけど、僕に言わせればそっちの方が理解しがたい。前向きっていうけどさ、「前」以外のどこを見ればいいわけ?自然状態で普通に視線を向ける方向を「前」というのでしょう?道歩くときでも前を見ませんか?それともアナタは、一塁ランナーを牽制しながらセットポジションをしているピッチャーみたいな不自然な体勢でカニ歩きでもしているのか?

 それに僕らが四次元世界の住人でない限り or ドラえもんのタイムマシンを持っていない限り、時間は一方向にしか流れないんだから、進んでる方向(未来/前)を見るのは当然でしょう。さらに自殺願望に取り憑かれて、今この場ですぐに死にたいとか思っているならともかく、とりあえず今日一日だけでも生きていたいと思えば、その一日を少しでも気持ちよくしたいと普通考えるでしょう。仮に自殺するにしたって、より痛くない方法、より眺めの良い場所で死にたいとか、その限りでは「前向き」になってるわけで、それをいちいち「ポジ」とか言われても困るよなあ。何言ってんだい!って。

 結局、目の前の現実しか無いんだって所与の前提条件がバーン!とある以上、その前提でちょっとでもいい気持ちになりたい、どうしたらいいかを考えるわけで、そんなの誰だって同じだと思いますけど。

 こういうと「それは理屈であって、現実には、、」って言う人もいるかもしれない。ま、気持ちは分かるんだけど、そういう人と僕とが多少なりとも違うとすれば(そんなに違うとは思わんけどね)、おそらくは「所与の前提がバーン」の「バーン!」部分だと思います。僕の方がよりバーン!の音が大きいね。換言すれば「逃げ道なんかねーよ!」「絶対ねーよ、そんなもん!」という徹底感でしょう。ファンタジーや空想に逃避しても逃げきれないよ。どっか悪者作って罵倒の限りを尽くしても、だからといって自分が救われるわけでもない。一時的な憂さ晴らしをやったところで、気分転換以上の意味はなく、本質的には無駄無駄無駄、てか時間の浪費、エネルギーの浪費、すなわちその分だけ状況は悪化悪化悪化!ってことです。泣こうが愚痴を言おうが、状況は変わらない。もうびっくりするくらい変わらない。客観は客観。無慈悲なまでにそれだけ。そこが骨身に染みてるかどうかでしょ。

 ということで、この「40代ヤバい」話も、ハッピー方向に(それを目指して)やります。出来るのか?っていえば、この程度の難易度だったら、ちょろいっすよ。大口叩きますよ。もっとしんどい話は山ほどあるんだし。

価値世界の反転

 中高年になるとしんどくなる原因として、よく出てくるのは、育児の問題とか、仕事の重責とかです。いずれもハンパないしんどさだと思うけど、でも、ここでは割愛します。なぜなら、子供のいない人に育児問題はないし、また育児にはしんどさもあるけど、子供がいる幸福はそれを埋め合わせて余りあると思うからです。勿論、個々的には違うでしょうけど、大雑把にいえばプラマイゼロないしプラ気味だと。少なくもプラスにもっていけるだけのポテンシャルな素材はある。仕事の重責もありますが、これもその分権限もやりがいも生じうるんだからプラマイゼロないしプラでしょう。大体40−50歳というのは「脂の乗った」仕事盛りの年代なんだし。

 ここでいきなり僕なりに思ってる結論を出すと、40歳を過ぎると、価値世界を反転させる難しさが出てくるからだと思います。

 ここ、すごいわかりにくいのでもう少し書きますね。

 これは、糸井先生の「ゼロになってちゃんともがく」と共通する部分もあるんだけど、40代くらいになると、それまでの方法論やら、価値観やらが通用しなくなるのですよ。全部がダメになるわけでは無論ないけど、主力となる部分があかんようになる。将棋で言えば飛車角を失うのではなく「王の取り合いをするゲームである」という本質的なパラダイムが変わるくらい。

 変わるのは概ね2点。一つは身体的な問題、もう一つは右肩上がりのガンバリズム的な価値観です。

身体変調

 まず分かりやすいカラダの問題です。身体の衰えは30代、正確には18歳くらいを過ぎてくると感じてくるんだけど、40代過ぎると「衰える」というよりも、「壊れて」くるのですわね。衰えるだけなら、まだ対応策もあるのですよ。節制するとか、エクササイズするとか、気を使うとか、つまりは「頑張る」ことでなんとかなる。それが30代くらいまで。

 でも、40歳過ぎてくると(人によるけど、もちろん)、いわゆる厄年系やら男性更年期障害やら、健康の構造それ自体が変わってくる。これは特に成人病とかいうレベルではなく、普通に健康であったとしても、根本部分が変わるという感じ。それが何なのか僕にもよく分からないし、調べてもいないけど、「根本から変わる」という。

 20代はパワーで押しきれる。いわゆる「頑張る」ということが、一番輝いている時代ね。でも30代になると、昔のように頑張れなくなるから、だましだましというか、あれこれ気を使って頑張れるようにもっていく感じ。そのケアは確かに難しいんだけど、最終的にはパワー維持&パワーで解決という根本論理に変わりはない。でも40代過ぎると、その「頑張る」という方法論そのものを捨てないといけないって感じ。

 ま、それを過ぎても「頑張る」局面は山ほどあるんだけど、でもメインではない。なんせいくら気をつけていても、意味不明な体調不良がいきなり襲ってくるから対応策の立てようがない。あるいはうっすら慢性的にモヤがかかるというか。これは個人差が大いにあるから一概に言えないけど、でも、僕の場合もそう。

 男性更年期といえば、「はらたいらのジタバタ男の更年期」なんかにも書かれてますが、僕の場合はここまでひどくはないけど、〇〇が痛いとか不調だというわかりやすい場合だけではなく、そもそも「やる気が起きない」という雲をつかむような不調感もあり、自分にしてみれば「なんでじゃあ〜!!」と言いたくなる。とにかく不愉快やねん。

体質移行期の工事中

 おそらくは、身体が自然に体質の移行期を迎えているのでしょ。あっちこっちで改装移管作業をしていて、どこもかしこも「工事中につき、ご迷惑をおかけてしております」状態になっているのでしょう。

 こんなのどーしよーもないわ。それは例えば、乳歯が永久歯に生え替わったり、声変わりをするのを「なんとしても阻止!」しようとするのと同じ。身体がガタピシいうのは、身体が一生懸命仕事をしてくれているわけで、「お役目ご苦労さまっス」「なるべく手短に済ましてくださいね〜」くらいの感覚でいれば良いのでしょう。それが成人病とかなんか変な病気でないなら、いずれ時期がきたら収まりますから。

 ほんでも、それが分からないと、困る、苛立つ、腹が立つ。もう通勤しようと思ったら、あちこちの電車や道路が不通や工事中になってるようなもので、予定が立てられない。でもって静養しようが、気合3倍増量で臨もうが、あんまり効果はなく、何をどうメンテしてもしょっちゅうバッテリーがあがる自動車みたいで、それがもう「やってらんない!」という気分にさせる。しかも、そういう時に限って仕事忙しいし、やらなあかんこと多すぎるしって。これがまたメンタルにも影響を与える。もう生きてて全然楽しくないねって。もう、死んじゃおっかなあって。中年期鬱ですね。

 この対処法ですけど、もう「対処しない」「あきらめる」というやり方しかないですね。
 全ての健康法がそうだけど、それが「方法論」である以上「こーやって、あーやって、こう」というダンドリがあり、目論見があるわけだけど、それらが全崩壊するわけですよ。ここが難しい。

 いや、まあ、対処はしますよ、それなりに。そりゃ静養すればその限りで多少楽にはなるだろうしね。でも本体的解決には程遠い。だから「頑張ればなんとかなる筈だ」という大前提を変えるしかない。健康で体調バッチリが普通で100点で、それが「損なわれた」「マイナス」と思うのではなく、それが普通だと。工事中なんだからしょうがないだろって。だから、○○健康法とか健康促進はそれなりにやるにしても「多くを期待しない」ことです。あんなの趣味だ、気休めだくらいに思ってたらいいです。それに変に効きすぎても気持ち悪いでしょう?だって、副作用を一切無視して、その場限りの対症療法で一番効果的なのは何か?っていえば、覚せい剤だもん。効くよ、あれは(笑)。

 子供の頃から虚弱体質で病気がちだったり、あるいは病気のデパートのようにあれこれ抱えている人だったら、若い頃にこの「極意」を学んでいると思うのですよ。体調不調と「共存/共生」することを覚える。でも、僕の場合はなまじっか健康に恵まれていたから、「こ、こんなはずでは!」的に思ってしまう。それがジタバタ焦りを招くという。

 わかってしまえば、どってことないです。
 健康をお金に置き換えてみれば分かりやすいかもしれないけど、仮に年収○○万円が「普通」で、それを下回ると途方もない異常事態が発生している!とか考えるとしんどい。お金というのは、年収がいくらだろうが、それなりのレベルでそれなりに使うから(100万持ってたら120万円分欲しくなる)、結局のところ日常感覚でいえば、「いつも足りない」「”今月”は常にピンチ」ってな感じでしょ。誰だってピンチに慣れてるし、金欠とは常に共存関係にあるでしょう?

 あるいは勉強やテストの点に置き換えてもいい。100点満点取って当たり前、それから一点でも失点したら異常!とかいってたらやってらんないでしょう?勉強だったら68点とか73点くらいで普通って思うんだから、健康だってそれでいいのだ。

 要は何を基準に置くか、ですよね。犬に比べたら人間の嗅覚はお話にならないくらいお粗末で、だから犬からしたら人間はみんな「身障者」ですわ。超音波が聞こえるコウモリからみても、わずか4秒ダッシュで時速110キロに達するチーターからみても、空を飛べる鳥からみても、海中延々潜っていられる魚からみても、人間はみんな身障者です。だからそんなの基準次第。30代までの基準を、40代以降になったらちょびっと移動させればいいだけ。工事中だから、バス停の位置を20メートルくらいズラしたりするようなもん。

人生観や幸福感の価値反転 

青春と白秋の間の「朱夏」

 健康面で生じたパラダイム転換は、健康以外の全てにおいても生じます。こっちの方がもっと難しいね。

 世間的・伝統的なイメージとしては、職場においては中堅から上層部に移行する過程で、充実の仕事ぶりを発揮し、家庭においては思春期から青年期にさしかかる我が子をしっかり受け止め、背中で語り、公私ともに無くてはならないカナメ的な存在として期待される、、ことになっています。

 「青春」と「白秋」の中間にある「夏」の時期、「朱夏」とも呼びます。
 ともあれ「真っ盛り〜!」って時期であり、ウジウジ悩んだり、惑ったりするヒマもないわって年代。

 まことに結構なことでございますが、だったらそんなに自殺しなくたって良さそうなもんですよね。でも現実には死んでいる。ごく一部の人ではあるんだろうけど、年代で比較するとよく死ぬ。真っ盛りどころか、虚しくなりがちであるという。てかね、真っ盛りであるから虚しく感じるのかもしれませんな。

 まず伝統的なモデルケースですけど、40歳を「不惑」とネーミングした本家である孔子先生の場合、あの人自体がバケモンだったという気がしますね。「吾十有五にして学に志す」で始まる人生双六によれば、 50歳知命、60歳耳順、70歳従心と70歳まであります。あんな釈迦と同時代でキリストよりも550年先輩という紀元前でありながら、70歳までスパンに入れてる時点で破格の長命です(本人は74歳没)。また、身長216センチという、誇張分を差し引いてもプロレスラーのような巨体だった思われるわけで、つまり「あんたは特別でしょ」って言いたくなるくらい並外れて生命力が強かったのでしょう。そんな人に「四十歳」とか言われてもね〜、って気がします。

 さらに昔の平均寿命ですが、縄文時代は20歳以下で、江戸時代でもいいとこ30代で、明治大正になって40代になり、戦後になってようやく50代です。昭和22年に男性で50.06歳とか。だから人類のスタンダードでいえば40にして惑わずどころか、もう死んでるって。もっとも、この平均寿命のカウントは、昔は、戦乱、治安、疾病、栄養その他で早く死ぬ場合が非常に多かったわけで、天寿をまっとうするということ自体がかなり難しかったのでしょう。歴史上の人物だけを対象に平均をとると、戦国時代でも60代だというから、ある程度危険を除去して早死しないようにしていたら、60歳くらいは普通に生きていたのかもしれません。しかしいずれにせよ、環境差や個体差が大きく、今のような感覚で「40歳になったら〜」ってな感じではなかったと思う。

 戦後の昭和期ですが、寿命が70歳の大台に乗ったのは1970年代ですが、だいたいその頃のライフモデルが今でも語られている気がしますね。年金制度の基本コンセプトも、そもそもは「60代後半から70代前半で死ぬ」という前提だろうし、経済的にも20年で初任給3倍ペースで順調に伸びているわけで、こういう時代の40歳と、今の40歳とでは根本的に違うでしょう。社会全体がイケイケのときは、ビジネスも楽だったでしょうよ。ある程度マトモなことやってたら、日に日に旺盛になる中間層の消費意欲によって売れたろうし、会社も大きくなれば、自然と役職も権限も増えるし。まさに40〜50代は「働き盛り〜」でもあったでしょう。それは「そういう時代だったから」ともいえます。でもって、盛り上がるだけ盛り上がって、フィナーレはすぐそこですからね、人生設計もわりと楽ですよ。70年台はデフォルトで55歳定年とかそんなでしたもんね。終身雇用とかいっても、終身までのスパンが短かったし、資金は十分にあったし。

 以上あれこれ書きましたが、何を言いたいのかというと「○○歳になったら〜」というのは、そのときどきの平均寿命やら、経済状況やらによってかなり変わってくるのであって、一概に言えたもんじゃないってことです。ましてや、1970代の黄金の時代モデルを修正したり、ツギハギしたりして何とかなるような21世紀じゃないですもんね。

パラダイムが変換するわけ

 そういった時代的・経済的な変数を除去し、大体70-80歳まで生きるという前提で考えると、40歳というのは単純に計数的に「折り返し地点通過後」であり、且つ、職業=スキルの問題としていえば、修行開始20年くらいの地点ですから、大きな転換点が来ても不思議ではないです。これは時代や経済によってそう変わらないと思います。以下その点を書きます。

 どんな仕事も10年から20年やればひと通り覚えます。最初の3年丁稚奉公でパシリやって、次の数年見習いやって、10年目くらいでそこそこ一人前になるけどまだ青二才で、それも10年やれば、ある程度のところまではいきますよね。そして、そこから先は仕事の性質が変わると思います。それまではプロフェッショナルとしての技芸の練磨であり、さらにそれを安定的な軌道に乗せるためのマネジメントでしょう。その後になると、そのレベルに留まる限り、あとは「同じことの繰り返し」になる。だからより上になるなら、ゼネラル・マネジメントが必要になる。糸井先生の上記のエッセイにも書かれてましたが、それまでの自分の領域とは違う人達と会っていかないとならない。それはそれまでの自分の領域の価値観や論理が全く通用しない世界に入ることでもある。

 もうちょい具体的に言うと、○○業界に入って、一人前のプロになるのに10年、そこで危なげなく実戦経験を積むのに10年やったら、あとは独立して社長になるとか、それまでの組織の首脳陣になって、業界以外の人達とつきあっていかないとならない。特殊技能のプロの方が分かりやすいかと思いますが、スポーツ選手は現役の頃はひたすら練習して上手になり、強くなり、大会で優勝すれば良かった。引退したあとも現場のコーチで後進の育成をすればよかった。ところがそれ以上になると、日体協の役員になるとか、どっかの政党に請われて選挙に出たりとか、高校野球の雇われ監督として、クライアントである学校理事会やPTA相手にそれなりの「政治」をしないといけなくなったり。野球なりサッカーが好きで球とじゃれてればよかった青春時代に比べて、はるかに物事は複雑になります。旧業界でいかに帝王として君臨しようとも、ほかの世界にいったら、その技術についての評価は実際上ゼロで、「客を呼べるか」「儲かるか」という全然違った次元での話をしないとならない。

 それは個々の業界によって、あるいは個々人のライフパターンによって色々なバリエーションが出てくるとは思いますが、おおよそその転換点が来るのが、やりはじめて10−20年経過後であり、年齢に換算すると40歳くらいってことだと思います。

 これをさらに因数分解のようにエッセンスを絞り出して整理すると、問題点は二つ挙げられると思います。

 (1)同じことの繰り返しになる詰まらなさ
 (2)全然価値観の違うゼネラルマネジメントの詰まらなさ

 (1)は、大体10−20年で普通のプロが達成できる技芸のひととおりは習得してしまうことです。右肩上がりではなくなっていく。実際、初期の段階で急上昇し、やがてプラトーがきて、それを乗り越えていくあたりが一番おもしろいと思います。そこから先は成長カーブはぐっと鈍ると思う。それだけに既存の知識技術で大体対応できるし、メンタル的にも楽にはなるけど、しかし新たな成長とか、視界がばっとひらけるというスリリングな展開にはなりにくい。それでも落穂ひろい的に、あんなケース、こんなケースをいろいろやって、ゆるい勾配ながらも右肩上がりの修行は続くけど、それもそろそろ一段落です。

 この時点になると、上に述べたように身体的に無理がきかなくなるし、むしろ下がってくるから、スキルの維持に汲々とするようになる。反面、より高みを目指して上がっていくことはできるんだけど、それが出来るのはごく一部のバガボンド的な天才や恵まれた人達だけです。一般にはかなり上級のプロになってもネタ切れやら何やらで難しいんですよね。これは一般のビジネスでも同じで、ビジネスの面白さ、駆け引きやマーケティングや、そういう「世間を学ぶ面白さ」というのは、最初の10-20年かそこらで殆どやっちゃうんだと思います。あとは、社内の派閥闘争やら、他業界をも含んだ政治やらで、本業の面白さとは違う。ここでも、その方向でガリガリやっていける人はいるんだろうけど、そっちの方が少数派でしょう。

 つまり、「働き盛り」とか言うものの、やってる本人がそれで燃えるか?面白いか?というと話は自ずと別問題です。「円熟の境地」とか「抜群の安定感」とか褒められたところで、それってやってる側からしたら「同じことの繰り返し」であって、あんまり面白くない場合も多い。どんどん新しいことにチャレンジ出来るなら話は別ですけど、そのためにはかなり才能とチャンスに恵まれるか、あるいは70年のイケイケ時代のように、ほっといてもどんどん日本企業の業務”領土”が広がっていた時期くらいでしょう。大体においては頭打ちになりがち。

 そしてそこから先の「上」は、「大人の世界」というよりも「ジジーの世界」になっていって、ハッキリ言ってそんな清々しい世界ではない。そういうのが好きな人、得意な人もいるけど、万人がそうではないし、多くの人にとってはそれほど魅力的なものでもない。だって面白さの質が全然違うんだもん。

 だからここで転換点がくる。「つまんねーなー」「死んじゃおっかなあ」になる、のではないか。

じゃあ、どうすんの?

 えーとですね、これは置かれている状況によって千差万別だと思うし、個人データーをインプットしてくれたら、「じゃあ、こうしたら?」とアウトプットも出来るのですが、とりあえずここでは概略のみ。

40歳で架空の線をひく〜面白さの質を変える

 何度も同じことを書いて申し訳ないのですが、僕は高校生の頃に「40歳で死ぬ」と決めてました。別に本気で死ぬわけではないのですが、そこからは先過ぎてピンと来なかったからです。老後の〜とかいっても全然リアリティないし。だから40歳で一応死ぬことにして、それまでにやりたいことは全部やっておこうと。

 結果的にはそれが良かったと思います。大きなチャレンジングなことを二つばっかやって、それで37−8歳の折り返し地点に来て、こっから先は死後の世界みたいな感じになったので、いい感じで転換点がきたという。

 30代までのパラダイム(ゲームのルールみたいなもの)は、まだ世間も知らないし、自分の能力もどんどん伸びるし、山登りの楽しさだと思います。頑張る楽しさ、積み上げて高みに達する面白さですね。何事かを成し遂げるとか、その報酬として金銭とかステイタスとかゲットするとか。その種の話です。

 でもそんなの飽きるんですよね。僕も”山登り”二つやったけど、3つ目は無いなと思った。もう登らなくてもいい。登らなくても楽しくなれる、幸せになれるって方向にシフトしていきました。APLACやりはじめたのもその頃だし、鬼門の40代の頃に沢山の人が来てくれるようにもなりました。しかし、「会社を大きくして〜」「有名になって〜」とかいうのは、全っ然思わなかった。お金も名声も別に。そりゃ生活していくくらいは欲しいし、それすら危ういんだけど(わはは)、そりゃ名声は欲しくないけど悪口言われたら腹が立つだろうけどさ、でも、メインの目的でも、サブの目的でもない。

 冒険的にガンガンやって、どんどん視界が開けて、風景が変わって、ドラマが山盛りあって、それでめくるめくようなエクスタシーを〜ってのは、もうどうでもよくて、なんも風景変わらない〜、毎日同じことの繰り返し〜でもいいと。そうであっても、主観的に深まっていくことは出来るし、幾らでも楽しくなりうる。客観なんか変わらなくていい、主観が進化したらいい。「上る」のではなく、「深まる」って感じ。

 大河物語や連続ドラマでなくていい。小品でいい、四コマ漫画でいい。俳句みたいなのでもいい。書道の数文字であってすらいい。その代わり、その場その場の局面では、「ちゃっちゃと仕上げて一丁あがり」というのではなく、また一丁あがりを山のように積み上げて高度を勝ち取るというのでもなく、一つひとつを丁寧にやる、常に「おお」「ほう」という新鮮な感動を得るようにしようと。

 これなら体調が工事中であっても、同じことの繰り返しのように見えても、クリアできるのですね。40代からはこれでしょうと。あくまで僕の場合は、ですけどね。

 でね、これが面白いんだわ。ほんと、一人ひとり全員違うし、それなりの思いをもって来ているわけだし、人好きな僕からしたら「美味しい」ですよ(^^)。特に、来たばかりで生きるか死ぬかくらいのテンションの人って、おいしいです。オーラが新鮮で浴びてるだけで気持ちいい。

 それまでとは違う面白さなんだけど、大河小説書き上げて直木賞取りましょうじゃなくて、「お、ここで一句浮かびました」みたいな速戦即決なのがいい。別に誰に褒められようとも思わず、自分にとって納得いくものが出来るかどうかだけが問題。つまりは、30代までは幸福になるために他人が必要だったり、世間が必要だったりするわけで、面倒くさいんですよね。合格とか受賞とか、そういう肩書(他人の承認)を求めたり、ハッピーになるための手間数が多い。でも、40歳過ぎたら世間も見えてくるし、そんなの実は大した意味も持たないよってのがミエミエになってくるから、幸福になるのに他人や世間を必要としない。今すぐこの場でハッピーになれる。ずっとお手軽。超簡単。

 早い話がこのエッセイだってそうです。もうすぐ700本になろうとしている大河エッセイですけど、これだけ積み上げて有名ブロガーになりたいとか、本を出したいとか全然思わない。そう思うんだったらもっと違った形式にするし、やろうと思ったら出来るとは思います。結果が伴うかどうかはわからんけど。でもそんなん全然興味ないし、極端な話、誰も読んでくれてなくてもいい。ただ、毎週、それなりに内容のあること、常に自分の考えを半歩でも進めるような新しいことをカタチにしておく、それを自分に課すと。毎週ジムに通ってるようなもんですよ。それだけですね。逆にそれだけじゃないとこうは続かないです。

職人って本来はそう〜純度を保つ

 もっとも、考えてみたら、弁護士時代もそうだったな〜って思います。弁護士一生やっても出来るかどうかって三大イベントがあって、無罪判決を取ること、記者会見をすること、そして最高裁の口頭弁論に立ち会うこと(逆転判決を下す場合など滅多にやらない)らしく、運良くその3つを経験させてもらえたんだけど、でも、本筋はそこにはない。有名な事件を手がけて名を挙げてとか、そのあたりも全然思わなかった。なりたいのは職人、それも腕のいい職人です。有名だろうがなんだろうが、人さまの人生の重さに変わりはないし、それは綺麗事でもなんでもなく、やってりゃ普通に分かると思います。

 地味な仕事を地味に一所懸命やるのがサイコーにカッコいいことだと思ってたし、今でもそう思う。

 でもさ、職人って普通そうじゃないの?医者だって、目の前の患者を治すことが第一で、教授選でどうこうとかいうのは医療職人としては余技でしょう。料理人だろうが、教師だろうが、アスリートだろうが、起業家だろうが、ビジネスマンだろうが、何でも同じじゃないですか?自分のやってることに納得したい、それが一番じゃないですか?それによって出世したいとか、世に君臨したいとか、個々の仕事はそのための「手柄をたてる機会」でしかないとか、そんな風に思わないんじゃないじゃないですか?よーっぽどつまんない仕事してるんならともかく、普通にズシッと手応えのある仕事だったら、まずはそれを納得いく水準までやりたいでしょう。むしろ問題は、それをやらせてくれない職場や企業論理だったりするわけで。

 だとしたら、仕事やら職というのは、本来的に同じことに繰り返しであり、身分的に高くならなくても良いし、どこにもいかなくても良い。その世界を極めるという意味で、見聞を広めたり、修行したりって旅はアリだけど、業界団体のトップに君臨したり、それで政財界とつながって〜とかいう「出世」は、本来の職世界の話ではない。

 ということは、本来の職人世界においては、30代までの路線で別に良いのですね。40歳になってから別に切り替えなくても良い。ただし!そうは思わせない、カンチガイさせがちな背景状況があります。

 それは何かといえば、30代までは本来の「職の修行」といわゆる「出世」とが二人三脚のように混じっているのですね。職を深める、より良く理解し、修行すればするほど、それなりの地位になるから出世もするし、給料も上がると。そこで混乱するのですね。自分は職を面白く極めようとしているのか、出世しようとしているのかごっちゃになっていく。料理人でも、美味しい料理を作るのが目的なのか、それで金儲けをしたり、有名になるのが主目的なのか。それをゴッチャにしないで、生涯イチ職人でいいです、てかそれがいいですってクリアに見えている人だったら、40歳過ぎてもやることは同じだし、そんなに迷わないと思います。でも、普通はごちゃ混ぜになって迷うと。

以下簡単に

 あ〜、結構長く書いてしまった。孔子とか余計なこと書いてたからかな。まだまだあるんだけど、とりあえず今回はこのくらいにします。

 書き残したこと、箇条書きで以下に要点だけ。

 ★このように「何度繰り返しても飽きない」って仕事や物事を見つけられた職人さん(でもなんでも)は幸福で、40歳でもそんなにヤバくないと思います。価値反転はないから。

 ★でも、世間の風潮として、幸福なイチ職人でいることを許さない部分もある。一兵卒として現場で頑張ってる人を「しがない〜」とかいって蔑んだり、出世しないのを甲斐性なしとか無能であるかのよう見るクソ視線はあって、それにまんまと乗ってしまうと40代でしんどいです。

 ★一般のサラリーマンなど仕事で、そこまで職人的な面白さや自由裁量を得られるものは少ない。これはどんどん減っているような気がする。そうなると最初から「出世(見栄)」「年収」くらいしか楽しみがないことになり、40代以降はしんどくなる。一生出世競争やってるのもアリだけど、それが出来るのは一部であり、大体の場合40歳までに足切りや篩い落としがなされてしまうから、あとの楽しみが乏しくなる。またずっと競争してるのも、それはそれでなんだかなって気もする。40歳以降のもっとダイレクトに楽しい機会をミスるわけだし。

 ★20−30代の右肩上がりの楽しみは、別に仕事に限ったことでもないし、世間的な成功/不成功もまた関係ない。どんなことであっても、十分にやった、遊んだ、頑張った、上がろうとしたという感覚があればそれで十分だと思う。まあ、出来れば実際にある程度の高みまで登るのが望ましいけど、それは「登るという行為が面白いだけで、登った先に何があるわけでもない」ということ、これはA地点→B地点への移住ではなく、単に行って帰ってくる登山に過ぎないのねってのが腑に落ちやすいというだけの差です。

 ★もちろん40過ぎても右肩上がりで頑張ってもいいんだけど、それはもう「趣味の頑張り」であって、強迫観念にかられてやる必要はない。

 ★話はボンと飛ぶけど、日本史的にも、世界史的にも、世界全体が40代のような気がする。頑張ってカタチを整えたら実質がついてきて幸せになれるって感じじゃない。実質が伴ってくれない。だから仕事にしても、頑張ることを楽しむ、趣味の頑張りって時代になってるんだろう。


 いずれにせよ40歳になるまでは、40になったら転換期が来ると思ってたらいいです。40歳で死ぬと思っててもいい。それまでにやりたいことはやっておけと。出来なくてもいいから、トライはするといいです。そして、その経験が40歳過ぎてから生きてきますから。やるだけやったら諦めというか、踏ん切りもつくのですよ。結果的に右肩がピクリとも上がらなかったとしても、トライはしたぞ、やることはやったぞって思えたら、それでいいです。

 そして、40歳過ぎたら、上がったことのプライドや虚栄心も、上がらなかったことの劣等感もルサンチマンも、さっさと洗い流して忘れなさいな、「引きずるな」と。ここからは違うゲームが始まるから。イヤでもそうなるから。だったら、自分から迎え撃っていった方がいい。

 30代までは、世間を知る、オノレを知る部分に本当の意味があるのだと思います。こーゆー世間であり、こーゆー自分であると、自分で納得するための期間。40年もあったら大体のところはわかるっしょ?そして、右肩が上がったなら上がったなりに、上がらなかったら上がらないなりに、それなりに世間を見てきたことに変わりはないのですよ。むしろ上がらない人の方がキビシー現実を見てきたとも言える。だから本質的な意味では全員合格でいいんだと思うのよね。やることやってきた、見るもの見てきたんだから。

 40歳以降は、それまで学んできた世間を前提として、さてこれからどうやって楽しみを開発していくか?ってことだと思います。ちゃんと生きてきたら、なんぼでも思いつくし、何もしなくても普通にハッピーになれると思うよ。なれないなら、なんかミスってると思うし、それを探すのがまた楽しいゲームになったりするしね。

 20-30代まではガキが大人になるプロセスだとも言えます。大人になったら、誰かに指図される必要もないし、誰かに評価される必要もない。また誰かが指導してくれるわけでもない。「勝手にやんな」です。そこで勝手に出来るようになるのが、吹っ切れるようになるのが、30代までの修行なのだっていい方も出来るでしょう。誰はばかることなく、にゅっと腕を伸ばして幸せをわし掴みに出来るような人になること。それだけ傍若無人にやっても、不思議と波風を立てず、誰にも恨まれずって、それが出来るような人。

 でもって、40歳過ぎてまだそれが出来ない、世間を気にしているようでは修行が足りないんじゃない?「やることやってきた」って自分で思えないんじゃない?だったら、それをやるのをまた遊びにしてしまえばいいです。補習ゲームね。

 なお、40歳って一応書いてますけど、こんなの人それぞれで、巡り合わせで20代前半に「おう、なるほど」と分かってしまう場合もあるでしょう。でもね「世間なんかこんなもん」って認識を、ニコニコしながら思えなかったらそれは嘘だと思うぞ。そこに何らかの恨みつらみが残ったり、「けっ!どーせ」って斜めに構える部分があったら、それは要するに「拗ねてる」だけで、わかったことにはなってないね。吹っ切れてないね。「俺だってその気になれば」「単に恵まれてないだけ」とかさ、「やることやった、やり切った」という感覚がないんでしょ。だったら、はいはい、やりなおし〜、早いことやることやってきんしゃい。40歳過ぎたら、大人の世界だべ。それは一切の言い訳がきかない世界。一切の言い訳がきかないからこそ、言い訳をする必要も又ないんだわ。だから、そこにはでっかい自由があるのよね。





文責:田村