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今週の一枚(2014/01/27)




Essay 655:カウンセリングのススメ

   

 写真は、EnmoreとMarrickvilleの境目あたりの路地裏。

 昼顔、なのかな?
 いかにも「夏空」って感じのバックの空とマッチしていて、

 なんとなく小学生の頃の絵日記を思い出しました。



相談しよう、そうしよう


 前回の後半から続きます。「納得のメンテナンス」のために、カウンセリングを受けたほうがいいよという余計なお節介です。

 ここで僕が「カウンセリング」というのは、(前回も断りましたが)厳密に心理学や精神医学に基づいた定義ではありません。一般用語例の「相談」くらいの意味です。というかね、もともと"counseling"という英単語の意味は「相談」「助言」という一般的な意味です。もちろん「学校・家庭・職場等における個人の適応の問題に関する臨床心理学的援助」という限定的な意味もありますが、それに尽きるものではない。

 "counselor/カウンセラー"の第一語義は、顧問、 相談役であり、顧問弁護士という意味もあります。その昔、僕の友人が東京の国際渉外事務所にいるとき、アメリカかどっかの依頼者から受けた事件処理の一環として、大阪地裁になにかを申請しなきゃいけないときに、「そこだけお願いできないかな?」って頼まれました。そのときの僕の立場は「ローカル・カウンセラー」になっていました。

 だからここでは「カンセリング=相談するといいよ」というくらいの大まかな意味です。
 「相談」と一口に言っても、その内容によって多種多様に分岐していきます。もっぱら専門的な知見が欲しい場合もあるでしょう。老後の設計をするためにファイナンシャル・プランナーと相談するとか、車を買い換えたいので詳しい人に相談に乗ってもらうとかいう場合もあるでしょう。

 ゼネラルに「人生に悩んでいる」という場合でも、例えば職場関係で悩んでいるとか、結婚生活に行き詰まってるとか、キャリアの方向に自信が持てないとか、いろいろあるでしょう。さらに職場関係といっても、リーダーシップが発揮できないとか、どんどん細分化されていくでしょう。

 下の図は、Wikipedia(US版)の"list of counseling topics"ということで、カウセリングに関わる項目を羅列してあるものですが、実にさまざまな分野とベクトルを持っていることがわかります。マリッジカウンセリング(結婚系)、アートセラピー、キャリア・カウンセリング、ポストベンション(近親者に自殺されてしまった遺族に対するもの)、さらに感情解放療法であったり、環境療法であったり、、、めちゃくちゃ沢山あります。

 
 ストレス・マネジメントとかコーチングとか日本にも紹介されているものも多々ありますが、それでもまだまだ「カウンセリング」と一括りにされがちですよね。それって寿司も天ぷらもタコ焼きも懐石も鍋も一括りにして「和食」といってるようなものでしょう。さらには「精神病の治療」みたいな旧石器時代のような古い認識もまだまだ残っているでしょう。

日常業務において

海外という「療法」

 なんでそれを、専門家でもない僕が思い立ったように言い出すか?
 実は、常々考えていたことでもあるのです。

 僕がやってる仕事は、留学生やワーホリさんの最初の一歩のお手伝いです。経営的には学校紹介料が収益部分になるけど、実働部分の80%以上はそれ以外です。現地の生活技術などソリッドな知識もさることながら、日本人独特の「物怖じバリア」を最初に叩き壊しておいて、英語が出来る/出来ないにかかわりなく、「日本人と話すよりも外人と話す方がむしろ楽である」という「驚くべき事実(笑)」を体験的に知ってもらうことだったりします。さらには来る前、帰国した後に、「何しに行くの」「その成果をどう活かすの」という部分もかなりのボリュームを占めます。

 これも昔どこかで読んだのですが、日本人が海外に出るというのは、経済的難民ではなく「精神的難民」であると。日本での従来の環境が、どうも詰まらん、釈然としない、楽しくない、展望に乏しいというときに、「いっそのこと」で来るのが海外だと。実際僕もそうでしたし、来られる人もほとんどはそうです。2014年現在では、精神的難民と並んで、マジに経済難民(orビジネスチャンス)とか環境難民(放射能とか)という要素も出てきていますが、それでもまだまだ精神性は強い。

 そのサポートをする僕の「仕事(といっても大部分は収益性に乏しいのだが)」も、いきおいそうなっていく。つまり、僕のやってること全体が広い意味でのカウンセリングになってるんだろうし、そもそも海外に行くということ自体がひとつの「海外療法」、転地療法なんだろうなって感じるわけです。

 だとしたら、学校選びはどうしたら良いとか、英語の勉強の仕方はどうとか、ビジネス学校に通ってキャリアパスがどうしたとか、その種のソリッドな話はそれはそれとして大事だしやりますけど、でもそれで終わったら「仏作って魂入れず」で、一番大事な精神性が抜け落ちる。大体単純に金を儲けたいとか、キャリアを付けたいのであれば、まずは母国で成功しろです。海外に出ると誰でも背骨がへし折れるくらいの2大ハンデを背負います。言語とビザです。これはもう目が見えないとか脚が不自由だとかいうくらい宿命的で身障者的なハンデです。しかし母国にはそれが一切ない、もう天国環境です。地獄を制覇したかったら、とりあえず天国で番長になってこい、話はそれからだ、で、ほとんど話は終わってしまう。

 でも、そういうことじゃないんですよね。

 英語とか、グロバールとか、キャリアとか「もっともらしい」単語を散りばめていながらも、本当の問題、本当の理想はそんなところにはない。そんなの本人も十分にわかってると思うのですよ。でも、「本当の自分を探しに〜」とか日本社会で口にしようものなら、「は?なに寝言いってんの?」とタコ殴りにされるという現実もある。だから世間的に通りがよい「官僚答弁」になる。ならざるをえない。でも官僚答弁をやってるうちに自分で自分を洗脳しちゃったりもする。でもって、こっちに来て、温かくも涼しげな風に頬をなぶられているうちに自然と気持ちも変わり、自分もまた蓮の花のようにパカ〜っと開いていく。しまいには、キャリアどころか、食うや食わずの極貧生活になりながらも、底抜けに明るい笑顔を浮かべるようになる。転地療法成功です。

日常業務における必要性

 そういった日常業務の中で、一再ならず感じるのは「もっと正面から向き合いなさいな」「もうちょっとコマメに、ちゃんとメンテナンスしなさいな」ってことです。それが隠れたるメインテーマなんだからさ。

 精神性にポイントがあるといっても、その「精神性」の中身は、人それぞれによって全然違います。もう人の数だけあるし、同じ人でもパターンも根っこも違う問題を同時に幾つも抱えているでしょう。それは僕が偏頭痛持ちであるのと同時に、近視でもあり、最近また歯が痛くなっているとかいうのと同じです。「トラブルは一つに限る」なんて法律はどこにもない。花粉症に悩まされている人がギックリ腰になってう〜う〜呻いていたら、インフルエンザにもなってしまったという同時多発テロみたいなことも起きる。だから精神面においても同時並行で幾つもの事柄が進行していても不思議ではない。

 でも、多くの精神的な問題やメンテというのは、精神的な問題としては認識されなかったりしますよね。ここが難しいところなんだけど、「学校がつまらない」とか「シェア先で煮詰まってるとか」とか「お金がない」とというフィジカルな現象としてまずは現れる。もちろん物理的な原因だったらそれはそれとして解決すればいいし、そんなのドライだからむしろ簡単でもある。でも、本体的な原因が本人の精神性にあるのだとしたら、そんな外面だけ解決しても意味がない、てか解決しない。

ほぼ全員にある伸びしろ

 個別事象では僕もアドバイスできます。やれ○○を当たってみるといいとか、○○に行くといいよとかフィジカルで実務的なことは勿論のこと、精神面においても言います。例えば、本来の渡豪目的(何しに来たの?)に照らして今回の出来事はどのように位置づけるべきか?「修行」をしに来て、修行的ハードな状況にあるのだから何の問題もないじゃん、願ったり叶ったりでしょ?とか。あるいは一歩下がって広く世間を見渡せば、「どこの世界、どこの横丁にも馬鹿はいる」という今更言うまでもないような普遍的な現象が、普遍的に出現しているだけの話で、なにを驚くことがある?とか。ときにはもっと踏み込んで話をすることもあります。

 しかし、しょせんはテンポラリーなのですよ。その局面に限定されてしまう。もともと相談の土俵がそこにしか設定されてないから、長い人生史を通じての連続ドラマ的な脈絡はわからない。ある時点で輪切りにしているだけ。その断面から”内臓”的なものもわかるけど、でもその程度でしかない。

 そこから先はカウンセリングだろうなあって思うのです。そして、実際にサポートしてて、「やった方がいいよ」と思うのは「ほぼ全員」です。勘違いしないで欲しいのは、「ここがダメ」「そこがダメ」って欠点が目につくということではないです。これは僕自身の特殊な精神構造なんかもしれないけど、他人の「伸びしろ」がわかるような気がするのですね。ああ、これだけ魅力的な笑顔が出来るんだったら、今の10倍くらい大きくなれるだろうなあとか。あなたの背中には綺麗な翼が折りたたまれているんだけど、多分まだ一回も広げたことないんじゃない?とか。それが何となく分かる、ような気がする。「気がする」だけであって勘違いかもしれないけどさ。でも、なあ「もっといけるっしょ?」ってのは、もう否応なく分かってしまう。あなただって、後輩や部下、あるいは自分の子供などを見てたら、そう思うことないですか?

 だからカウンセリングした方がいいのが「ほぼ全員」というのは、ほぼ全員がいまよりも格段に進歩し、ハッピーになれる潜在的可能性を秘めているってことです。かーなりイケイケでやってる人でもそう。てか、そういう人の方が翼が広がっているから、もっと細かいところまでよく見える。「ここ、ひっかかってて伸びてないよ」って。むしろギューッと折りたたまれてて、団子になってるような場合は、「ダンゴだなあ」って見えるだけで、何をどう手を付けていいのか分からんから、その道の人に手伝ってもらったほうがいいだろうなって感じですね。

 とまあ抽象的に言ってても始まらないので、前職時代の経験も踏まえて、いくつかのケース事例をあげます。

ケーススタディ

離婚事件におけるケーススタディ〜主観と客観の混沌フィードバック

 周囲の人間が自分に冷たいと思うようなときは、周囲の人が客観的に冷血漢ばかりであるというよりは(揃いも揃ってそうなる確率は実際にはかなり低いだろう)、自分が周囲の人をしてそう仕向けている場合か、あるいは別に冷たくもなんともないんだけど、そう感じるという認識レベルにエラーが生じている場合が多いでしょう。確かに客観にも問題はあるかもしれないけど、主観にもある。

 なんでそんなに偉そうに色々言えるの?というと、あなたも他人の離婚事件の裁判を頭から最後まで数年がかりで立ち会ってみたら分かると思いますよ。

 大体どっちもどっちなんだけど、両者の言い分を聞いていると、それもずっと追っていくと、最初は全くかけ離れた主張であったものが、微妙に凸凹が合ってくるのですね。例えば「妻がこんなヒドイ罵声を投げつける」という訴えがあり、確かにそういう言動があったとしても、罵声を浴びるような原因を作っているのは夫の方だったりするわけですよ。それもほんの些細な心ない一言で、「一天俄(にわか)にかき曇り」という相手の感情の急変を招く。奥さんだって仕事で倒れそうなほど疲れているのに、それを必死にクソ面倒くさい晩飯作ってくれたのに、ああそれなのに、テーブルの上にチラリと目をやり、「なんだあ、今日も冷凍物かよ」とか言ったりすれば、そりゃ市中引き回しの上、磔獄門にされてもしょうがないよ。奥さんの額から30センチくらいの角がニョキニョキ生えてきて、デビルマンのように天井突き破って身長3メートルくらいに巨大化し「おきゃあああ!」となっても無理ないよ。でも、そんな「不用意な一言」を言った記憶は夫にはない。だから「もう妻のヒステリーにはほとほと疲れました」になる。その逆もしかり。そんなことが何年も何年も続き、疲労は蓄積する。

 どっちも不倫してましたってケースもあります。で、鏡に写したように相互の主張が同じ。「相手が浮気をするから私もやった」という、「○○ちゃんがやってるから」という小学生の口喧嘩みたいな話になる。でもねえ、相互不倫の場合の「どっちが先か」の事実認定なんか、めちゃ難しいんですよね。もちろんあからさまにやるわけはないから、最初の頃はもう推測ですし、それが合理的推測なのか邪推なのかの判断は難しい。「証拠があります」とかキッパリ言うのですけど、その証拠とやらも、押入れに片付けた布団の順番が違うとか、枕の位置が違うとか、そんな「証拠写真」を見せられてもねえ、、、という。それを弁護士(双方の代理人)も真面目くさって主張立証し、裁判官も真面目くさって聞いているわけですけど、ある意味滑稽でもありますよね。「はああ、何やってんだろ」って。浮気も、投射規制で、自分が内心したいと思ってたり、実際にしてたりするから、相手もしているかのように見えるって心理もあるし、邪推と邪推がバトルをしている間に「だったら遠慮するもんか」で本当にやっちゃうというケースもある。

 何が言いたいかというと、対立当事者が一人しかおらず、また対象となる生活も限定的でわかりやすい筈の婚姻生活でさえ、これだけ主観と客観が入り乱れて、何がなんだかになるってことです。主観と客観が相互にフィードバックしていて、因果関係もなにが原因で何が結果なのかよくわからなくなる。

 だとしたら、職場、教室、サークルその他の人間関係なんかもっと漠然として、もっと関係性が薄い、言うならば枕草子の「紫だちたる雲の細くたなびきたる」ような世界ですから、「そこはかとなくそう感じる」「いとをかし」という、もっと曖昧な感覚世界になりやすい。夫婦生活ではクッキリ&ハッキリと罵声が飛び交い、夕食の味噌汁がこぼれたりして分かりやすいことも、職場などでは「最近、妙に皆がよそよそしい」という微妙な話になります。そこでは自分の主観によって見え方なんかいくらでも変わる。また、自分の発するオーラによって、周囲の雰囲気の色合いもまたオーロラのようにすぐ変わる。そりゃ仏頂面して腕組んで、荒々しく席を立ったりしてれば、皆も腫れ物に触るようになるし「よそよそしく」もなるわな。そう仕向けているのは自分じゃん。でも本人はそんな自覚はゼロだったりする。

 つまり、人間関係の深度が浅い場合、その場の雰囲気とか空気のような環境というのは、客観的にAやBの事実が生じているという生の舞台というよりも、映画のスクリーンみたいなもので、単に自分の主観を投影しているだけって要素が強いということです。

 自分がハッピーだったら周囲の人も優しく見えるし、あんまり悪く受け取らない。日本にワーホリや観光にいったオージーは、大体誰でも「日本の人は皆フレンドリーで、優しい人ばかり」という。僕が去年10日ほど帰った時も、もうオージー化しているのか接した人数十人は誰もかれもみんな「いい人」に感じられました(帰省記で書いたけど)。たまーに無愛想な人とかいたとしても、「ああ、お疲れなんだな」で軽くスルーしちゃうから、あんまり記憶に残らない。でも自分に負い目があったり、上目遣いに世間を見てると、同じ笑顔でも親しみ深い笑顔ではなく「冷笑」「嘲笑」に見えるでしょう(これは心理学の教科書にも載ってる有名な実験だと思うけど)。

ケーススタディその2 中二病的言い訳による福の神除去、疫病神招来効果

 あるいは、(ウチに来るような人にはあんまり見かけないけど)一般的によく話にきくのは「俺のやり方」に過度にこだわってる人。「自分には自分のやり方がありますから」とか、他人の忠告を蹴る。ま、それはそれで「好きにやったんさい」ってことですけど、でもその「俺のやり方」とやらがクソだから、人生パッとしないんでしょ?ってのあるわけです。大体「やり方」、剣術でいえば「○○流」みたいな方法論の確立が、大した人生経験もない人に出来るとは思えない。僕も結構長く生きたけど、「やり方」とか聞かれたら、首をひねりますよね。「あるんかなあ?」って。コスパ的に、そのときそのときで最善の方法を融通無碍に考えればいいんじゃない?って感じですけどね。

 ありていにいえば、苦手なことを勧められて、それはイヤだから「やり方」という言い方をしているだけじゃないの?「そーゆーの苦手なんです」って素直に言えばいいのに、カッコつけてるだけじゃないの?もっと言えば、そっち方面にいくと恥をかくとか、ツライ思いをしそうだからビビってるだけじゃないの?と。

 もし本当に、自分の人生を貫く流儀やポリシーがあったら、それを失うのは死ぬのと同じくらいの意味を持つでしょう。そこを妥協してくれたら1億円差し上げますよ、日本のドンにしてあげますよと言われても、断固拒否という。例えば、悪い仲間に、小さな子どもを誘拐して身代金をせしめようぜ、ガキなんざ殺して捨てちゃえばいいんだしよお、とか持ちかけられたら、「いや、それは僕のやり方ではないです」と、そのくらいの感じだと思うのですよ。ぶん殴られようが、腕一本へし折られようが、それだけはやりたくない、それをやったら俺は終わってしまうというくらいのもんでしょ、「俺のやり方」って。

 要するに単に「人見知りするからヤダ」「○○ちゃんキライ」という幼稚園児みたいなこと言ってるだけなんだけど、それだとカッコ悪いから、「俺のやり方」というレトリックを持ちだしているという。これは別に「やり方」論に限るものではなく、この種の「虚勢を張った理論武装」というのは、傍から見てたら面白いように透けて見える。しょせんはありふれた中二病だもん。

 でもなあ、「終わりの始まり」っつーか、それやり始めると人生ヤバくなりますよ。なんでそう言えるかというと、単に経験的な思い込みに過ぎないのかもしれないけど、その種の「嘘」を的確に見抜ける人間のタイプは二種類あると思うのですよ。ひとつはその人に福音を与える立場の人、上司とか、就職の面接官とか、取引先とかです。「うん、こいつは見込みがある」と思うかどうか、日常的に他人をスキャン査定するのに慣れており、プロフェッショナルな審査技能を持っている人。こういう人達は騙せません。一般にその人がもたらす福が大きければ大きいほど(取引額や給与がデカイほど)、相手もそれなりの能力を持ってそのポジションにいるわけですから、X線のように見通すでしょう。

 これが福の神だとしたら、もうひとつのタイプは疫病神です。いじめっ子とか、そのスジの人達とか、ナチュラルにサディスティックな体質を持っている人喰い鮫のような人達です。鮫やピラニアが遠くにいても血の臭いに反応するように、この種の「痛い言い訳」というのは、彼らからしたら「いじめてオーラ」みたいなもので、嗜虐心を刺激されるのですよ。小面憎く感じるんだろうな。彼等は本質的に強い人には向かっていかないけど、弱い人を探しだすのが上手いし、ここが弱いというポイントを見つけるのもまた上手い。でもって、いじめられるという。

 ということで、その種の虚勢は、心優しい周囲の同僚友人には通用するし、皆もお世辞まじりに頷いたりしてくれるかもしれないけど、人生を致命的に左右するキーパーソンには全然通用しない。すなわち福の神には見捨てられ、疫病神だけを惹きつけるから、人生はオートマティックにヤバくなるんじゃないの?って話です。

弱さがわかれば糸口はつかめる

 その逆に、福の神を惹きつけ、疫病神を近寄らせない人というのは、そこでカッコつけない人ですよね。「いやあ、人見知りするタチなんですよ」「どうしていいのかわかんなくなっちゃって、居たたまれなくなるんですよ」とちゃんと自分でわかってるし、他人にも言える。いわば強い人なんだけど、その「強さ」の正体は、自分の弱さを認識することだと思います。自分の弱さを受け止められたら、いや仮に受け止めるに四苦八苦していたり、受け止められなかったとしても、受け止めきれていないという認識だけでも良い。その程度の強さで十分であり、その程度で良ければほぼ万人が持ってると思います。別に克服しなくてもいいんですよね。

 そして、そこが弱い、そこが苦手というのが認識できたら、もう解決したのも同然でしょ。糸がほぐれてくるから。

 「なんで人見知りするんだろうね?」とか、そもそも貴方の状態を「人見知り」っていうのかな?普通にできてると思うけどな。もしかして滅茶苦茶ハードルを上げてない?どこにいってもスーパースターのようにチヤホヤされるのが「普通」とかとんでもないこと考えてない?他人との関係でも好きと嫌いの白黒ではなく、間にグレーゾーンがあって、実際にはグレーが98%くらいを占めるんだけど、それをむりやり白か黒かに分けようとしてない?

問題のトンデモ設定

 話をさらに一般化しますが、「難しい」「無理だ」とか思う時というのは、最初っから問題設定そのものが間違ってる場合が多いと思います。そんなの絶対無理!ってタスクを自分に課して、「絶対無理だ、、、、」と絶望しているという。当たり前じゃん。「100メートル3秒で走れない奴は生きる資格がない」みたいなトンデモ基準を自分に設定して、「もう死ぬしかない」と絶望するようなものです。世界的なピアニストになれなかったら意味がないと思い込むとか。東大に入れなかったら意味がないとか、永住権取れなかったら意味がないとか、○○しなかったら意味がないとか、、、

 あの〜、その「意味がない」って誰が決めたのよ?世界的なピアニストになれなくたって、ピアノが弾けたら人生楽しいこと沢山あるじゃん。音楽の先生とか、ラウンジで弾くとか、教室開いて教えるのもそうだけど、普通に他人に「わあ、カッコいい」って言ってもらえる得難き武器をもってるわけだし、単に弾いてるだけでも楽しいじゃん。1000万円以上の最高級オーディオ・システムでも生音には勝てない。自分で弾けるというのは、極上の音質で音楽を楽しめているんだから、何が不満なのよ。僕だって、いっときはギター6本も持ってて、バンドもいくつもやったけど、ギターで金を稼いだのは1円もないです。その代わり支出したのは数十万円じゃきかない。経常収支では大赤字の極致。でも楽しいし、弾いててよかったと思うよ。世界的ギタリストになれなくたって、「意味」はあったよ。もう炭鉱のボタ山くらい意味は積み上がっているよ。なんでそんな風に考えるの?と。

 このように糸口さえ掴めたら、「なんでそう思うの?」と誰かにツッコミ入れてもらっているうちに、トンデモ勘違いがみつかったりする。カウンセリングだの相談だのってのは、そこに意味があるのだってことです。

さらにディープな問題

 過去に何度も書いてますが、人間の精神のありよう、意思決定、幸不幸を決めるバロメーターは、実は無意識にあると言われます。僕らが普通に思っている「自我」「意識」というのは、心全体でいえば1%もあるかどうかで、ほとんどが無意識によって決まる。だから意識部分をいくらいじくっても、全然解決しないってことはよくある。と同時に、気持ちよくなるコツは、無意識の表出を目ざとくみつけるこでしょう。地中に温泉があることを示すように、時折大地の切れ目からシュ〜って湯気が立ち上っているような、無意識からのメッセージ。通常は「直感」として感じられるものですが、自分の直感が何を言ってるかに耳を澄ませることでしょう。

 ただ、そんなことは常に出来るものではないし、それはそれで大事なんだけど、同時並行的に他にもやりようがある。それが相談であり、カウンセリングであると。

 無意識レベルまで入っていくのは難しいけど、でもリターンも巨大です。
 このくらいになるとヘビーなケースもあるけど、(これも前に挙げたことがあるけど)刑事事件の精神鑑定とか犯罪心理学に興味深い実例があります。賢兄愚弟というけど、よく出来た兄とダメ弟がいる。兄は献身的に弟をサポートし、無心されるままにお金も貸し、一所懸命説教したり、職を紹介したりするけど、弟は貰ったお金をすぐに博打に使ってしまったり、その挙句、、、という実際の事件があります。

 上の例は、精神医学界の鬼才といわれた中井久夫先生に直接ご自宅でうかがった話なんだけど、なんでそこまで弟はダメなのか?というと、お兄さんにあれこれしてもらう事が、すなわち自分がこれだけダメ人間なんだという痛い事実にもなる。兄に10万円借りたら、懇願したのは自分であるのに、その10万円が自分のダメさを糾弾する槍のようになって心に突き刺さる。だから、もう辛くなって、早くこの10万円を消滅させてしまいたくなるから、アホみたいに博打でスッてしまう。「よくある話」らしいです。

 つまり他人にあれこれ求めるのだけど、いざ他人からそれが与えられると、今度は与えられたという事実が重く心にのしかかる。その好意を受け入れることは、自分のダメさを認めることになり、そこがツライから認めたくない。だから思いっきり裏切るような形でそれに報いようとする。恩を仇で返す、それも一回だけではなく常にそうし続けるという「どーしよーもない人」というのは世間にいます。そこまでヒドイのは貴方の周囲にいないかもしれないけど、法廷とか刑務所にいけば結構います。なんでそうなの?といえば、彼は彼なりに必死にバランスを取っているのだという。このあたりは無意識の深い世界です。

 Aをやろうと思う、やらなきゃ、やるしかない、もうその認識に関しては一点の曇りもなく澄明に分かるのだけど、出来ない。なぜか出来ない。いくら歯を食いしばってやろうとしても、不思議に出来ない。情けなさに泣きたくなるくらいなんだけど、でも出来ない。こういうときは、無意識のどっかにロックが掛かってる場合が多いと思います。

 例えば、何をやってもうまくいかない人は、もしからしたら「成功してはいけない」という無茶苦茶なセントラルドグマが自分の心の奥底にあるのかもしれません。ものすご〜い特殊な事情や、とんでもない勘違いで、自分が成功したら、自分にとって大切な人が悲しむと何故か思い込んでいるとか。だから成功しそうになっても、あと一歩のところで、わざわざ自分から踏み外して失敗させる。でも無意識がやってるから、意識面ではわからない。「なんでじゃあああ!」って思うけど、やってるのは自分。

 よくあるのは「快楽回路」というやつで、何かをやったときにゾクッと快感を感じてしまったら、あとは猿の自慰行為みたいに、そればっか再現しようとする。素人がビギナーズラックで万馬券を当ててしまったら、もうその快感が忘れられず破産するまでやるとか。犯罪で言えば、万引きとか放火がそれですね。経済性よりも精神的動機でやる場合の方が圧倒的に多い。あのスリル、あの快感を知ってしまったら、そこに回路が出来てしまい、いくら止めなきゃと思っても止められない。

 「羊達の沈黙」などのサイコホラー映画でも出てきますが、連続殺人犯とか、自分でももう止められない、誰か俺を逮捕して止めてくれって叫びのような意識で、わざわざ証拠やヒントを残そうとするとか。一回そこに快楽回路が出来てしまったら、もう人生に対してかなり決定的な影響力を与えるのでしょう。

 同じように、中々うまくいかない人の場合、うまくいかないことに対する自虐的な快楽を感じ、そこに快楽回路が出来てしまってる可能性もあるかもしれない。なんて俺はダメなんだって、コタツにはいってウジウジやってる自己憐憫のトロトロした気分が微妙に気持ちいい、なんか心やすまる。逆になまじ成功してると、綱渡りをしているみたいにドキドキする、ああもうこの緊張に耐えられない、早く落ちて楽になりたい、またあのトロトロのコタツに戻りたい、、、なんて快楽回路ができているのかもしれません。

 いや、わかりませんよ。僕もテキトーに書いているだけで、本当のところはどうなのかなんて神のみぞ知るでしょう。精神医学のベテランでも、ほんとうのところは分からないって言いますし、いわんや僕がごときに分かるものではない。

 でも、そこまでディープに何もかも分からなかったとしても、なんか問題あるんだよなってことに気づいただけでもだいぶ違う。なぜうまく行かないのか?を、冷静に緻密に振り返ってみれば、決して能力がないわけでもない、根性がないわけでもない、何もかも揃っている。だから自分の無能や勇気の無さを責めるのは筋違いだ、という程度のことくらいはわかると思うのですよ。責めてはいけないものを責めると、話はさらにややこしくなる。

実践

あんまり難しく考えない

 「か、か、カウンセリングを受けようと思うんだ」なんてどもらなくていいです。ただの相談なんだから。だから別に親しい、あるいは親しくなくても友達に連続ドラマを聞いてもらうようにおしゃべりするだけでもいい。愚痴でもいいんですよね。てか、愚痴って結構大事で、軽いものだったら愚痴をグチグチ言ってたら大抵解消します。

 思うに、愚痴を言いたくなるような心情、ムカついたとか「怒り」とかその種の感情というのは、生存本能に基づいたエネルギーの緊急上昇ではないか。

 古代人の環境で、自分の身の危険を及ぼすような動物や自然の攻撃を受けた場合、「うわ!」と瞬時に反応し、反撃しないとならない。寝ているところを小動物に噛み付かれたら、立ち上がって振り払わないとならない。一瞬にしてアドレナリンは急上昇し、筋肉に酸素が大量に運ばれ、瞳孔が開いて戦闘態勢にしないといけない。「うおおお」と雄叫びを上げ、生き残るために戦わないとならない。「怒り」というのはそれでしょう。とりあえず、エネルギーだけは無茶苦茶積み上がってしまっているから、一刻も早く放出したい。

 でも、スマートな現代社会では、いちいち「うおおお!」と雄叫びをあげていたら社会生活は成り立たないから、押し殺す。しかし服の下で筋肉は撓む。「うぬぬぬ、どうしてくれようか」と思う。やり場がなくなった怒りエネルギーは体内で暴れ狂う。さらに抑えていると、、、、あんまり身体によくなさそうですよね。それが積もり積もっていったら、そのエネルギーが自分を壊す方向に向かい、ときとして精神すら壊す。

 一番簡単な解決方法は怒りの放出です。とりあえず「おんどりゃあ」で殴りかかって、組んずほぐれずの喧嘩をすりゃあいいんですよね。真剣に喧嘩やった人はわかると思いますが、あんなの続きません。柔道の本試合でも3分やったら息があがる。「ひひゃああ、ぶぜえええええ」みたいな息しかできなくなる。怒りエネルギー放出完了です。即解決。だから昭和のさらに前半頃は、とりあえず男の子は殴り合いやって、「ひひゃあ」レベルに疲れて、「おめえ、なかなかやるじゃん」で親友になるという儀式があったりします。僕もやったな。聞いた話ですが、現場労動者とか、喧嘩になったら仲裁しないで小さな倉庫に閉じ込めちゃうそうです。ドッタンバッタンやってるのは2−3分で、あとはシーンとして、しばらくしたらゲラゲラ笑いながら猥談やってるという。そんなもんなんだよなあ。

 愚痴というのは、それを小出しにやってるんだと思うのです。「もう、失礼しちゃうわよねえ」「やってらんねーよな」とか、赤提灯でオダを上げているのは、怒りという感情解放療法であり、あれも一種のストレス・マネジメントであり、よき聞き手になってくれるいい友達はカウンセラーです。「え〜?マジかよ?で、どうしたの?」「かー、そりゃあヒドイよな」という絶妙な合いの手を入れてくれる、持つべきものは友達だよね。今どきやってるのか知らないけど、赤提灯の屋台や居酒屋で、愛すべきサラリーマン諸侯が酔っ払って、ダン!と空になった焼酎のコップをカウンターに叩きつけ、「決めた!もうこんな会社辞めてやらあ」「俺あね、明日ね、もう言っちゃうもんね、ガーンとね。課長がなんだっての、馬鹿野郎、ふざけんじゃねえっつのよ」「おお、そうだそうだ」とかやってるわけです。で、翌日、本当に辞表を出したり課長に意見する人は、まあ皆無でしょうね。でも、それでいいんですよね。これが、複数人あつまって、「○○ちゃんなんかまだいいわよ、あたしなんかね」「いや、俺の部署なんかそんなもんじゃないよ、もう爆心地だよ」という不幸自慢大会は、さしずめグループセラピーですね。

 西欧社会では愚痴をいうのはカッコ悪いこと、という以上に、失礼な行為とされているので、そうそう言えない。ナイスでハッピーでいるというのは、一種の精神的な「身だしなみ」だから、「俺はもう、どうしたらいいのか、わかんないんだよおおおお」みたいに取り乱すのはNGです。だから、カウンセリングが発達するのでしょう。日本やアジア社会のように、人生と職場と家庭がゴチャ混ぜになってる「かき揚げ丼」みたいな社会では、カウンセリングに相当することを、インフォーマルな人間関係のなかで解消しちゃうんでしょうね。井戸端会議とかさ。

 でも、最近は日本も西欧化しているのか?しらんけど、むかしほど見苦しくも愛らしく取り乱している人は少ないんじゃないかな。居酒屋のカウンターで突っ伏して号泣している人とか、今でもいるのかな。傾向としては減ってるような気がします。もし減ってるのだとしたら、それはすなわちカウンセリング機会の減少であり、その分だけ精神のメンテナンスがおろそかになっているということでもあります。ヤバイぜよ。

 だから、まずは「か、か、カウンセリング」なんてどもらなくていいから、愚痴いってみ、という。ただし、聞く方は大変だし、腹が立つので、ちゃんとそこらへんはわきまえてくださいね。「すいません、愚痴言わせてください。3分でいいです。ご反論やお腹立ちはごもっもなれど、私に魂を浄化する機会をお与えください」てな感じで宣言して、「では、僭越ですが」で始め、「っざけんじゃねえ〜!」とやってください。で、「お耳汚しでございました」でしめると。

治療ではない

 まあ何らかの改善を目指すから「治療」といえばそうなんかもしれないけど、何かを相談しにいったり、カウンセリングにいっても、その場で素晴らしい回答が与えられ、たちどころにメンタルヘルスがめきめき改善なんてことはないです。過剰に期待するもんじゃないっす。禅問答みたいに、「師に問わん。○○なのに○○なのはこれ如何に?!」と絶叫し、それを受けた老師がぼそっと「○○が〇〇であるが如し」と答えたら、雷に打たれたかのように周囲のビジュアルが白黒反転するような衝撃を受け、「恐れいりましたあああ!」とか、そんなドラマチックなものじゃないです。

 通常の場合、答は自分が知ってるんですよね。
 延長コードがこんがらがっているみたいなもので、ゆっくり解きほぐしていけば、別にどこも結び目があるわけでもない。単に捻くれてひっかかって、そう見えているだけで、時間をかけて話しているうちに、あるとき、「あ、そっか」「なあんだ」になるし、場合によっては「あれ、何に悩んでたんだっけ、、、思い出せない」になったりもします。

 前回ギチギチにつまったデスクの引き出しを会議室の大テーブルにぶちまける比喩を出しましたけど、心の中にあるものをブチ撒けるだけブチ撒けて、あとは、「えーと、これとこれは同じグループで」とか分類仕分けをすればいいだけです。でも、普通はそんな「大テーブル」なんかないです。だからプロのカウンセラーの人が重宝するのでしょう。

 ふんふんと聞いてくれるし、「お前、甘ったれんじゃないよ」とか普通の反応も抑えてくれるし、かといって「よ、憎いね」とかなんでもヨイショする幇間でもなし、でもって単に右から左に聞き流しているわけでもなくて、言ったことはきちんと覚えていてくれて、「さきほど、○○と言ってましたよね?」とかさりげに修正とか記憶喚起をしてくれる。だから、それが大テーブル役になるんでしょう。

 良い聞き役、よいテーブル役になるかどうかは、ひとえに相性だと思います。同じプロフェッショナルであっても、相性の善し悪しはあるでしょう。なんかこの人の前にいると緊張してしまう、構えてしまうという場合もあれば、この人の前だと不思議と楽だし、情けないことも言えてしまう、叱られても腹が立たない、素直に聞けるって人がいるでしょう。それが相性。弁護士選びもまさにそうだし、シェア選びも職場選びも、およそ人間関係に関することはこの種の「相性」がとても大事だと思います。てか、「相性」って一口に言ってるけど、これだけで一本書けるくらいに深い奥行きをもっているのだと思います。「信頼」とは何かとか。突っ込んでほしいけど、つっこまれたくない心理とか。

世界観バグ

 大体誰でもそうだと思うのですけど、世界観とか、慣れた思考パターンとかに、どっかにバグがあるんですよね。それがメインテーマだったらまだミスに気づきやすいんだけど、どうでもいい枝葉末節みたいなところにバグがあるから始末が悪い。例えば、、、いい例が思いつかないけど、オーストラリアに留学したいけど、どの都市がいいか論で、シドニーはちょっと論外で、、とかいうから何でなの?と聞いていくと、「え、シドニーといえばボンダイビーチに住むんでしょ?みんなサーファーで、僕、そういう雰囲気だとあんまり勉強できなくて」とかいうあたりにバグがある。シドニー=ボンダイ・ビーチ居住=全員サーファーという世界観が間違っている。バグのある世界観で物事考えているから悩むという。

 こういったパターン=実体験したこともないことを勝手に思い込むという世界観バグはよくありますよね。嫁姑関係は鬱陶しいに決まってるとか、女性週刊誌の「鬼嫁」とかの読み過ぎでしょう。現場系の仕事は荒っぽい雰囲気がどうもダメでとか、水商売はちょっととか、、、なんのことはない偏見と差別の双葉状態で、こういうのって実体験が極端に少ない場合に出てきます。もうアラブ世界にいったら全員ラクダに乗っているとかさ、それって日本人の女性は全員ゲイシャで、男は全員ニンジャであるというくらいトンデモ世界観なんだけど、本人はなにげにそう思い込んでる。それを前提に将来設計なんぞをやってるから、煮詰まる。当たり前じゃん。

 カウンセリングなどでは、そのあたりのバグに気づきやすいんだと思います。温厚そうな女性カウンセラーに、「あら、どうしてそう思うの?」という質問に意表をつかれて、「あれ?」と気づくという。

メンテナンスの意味

 オーストラリアに来て学んだのは、こっちの人はメンテナンスを大事にするということです。予防を重視する。困ってから何かをするのでは遅い、遅すぎる!という。

 歯医者というのは、痛くないときに行かないと意味がない。痛くなってから行くというのは、もう神経までやられているから、神経抜いて、根管治療して、と、どーんと金が出る。ところが全然大丈夫って段階でいけば、「ここ虫歯になりかかってますね」と言われ、問題ない時点で治療が済むから安い。大体、歯の進行なんか数年がかりの海岸の浸食作用のようなものだから1年に一回くらいの定期点検ですみます。チェックアップは大事です。車でも定期点検します。これを「サービス」といいます。多分オーストラリア独特の英語なのかな?何回かに一回はメジャーサービスといって、チェック項目が増える。

 そのあたりの取り組みというか、トラブルから逃げるのではなく、先に自分から進んで、まるで狩りのようにトラブルを追いかけ、追い詰めていって、まだ小さなうちに仕留めてしまう。さすが狩猟民族みたいな、「攻撃は最大の防御」的な発想があります。これは何度も何度も痛い目にあっているうちに僕も体得しました。いかにメンテナンスが大事かと。

 精神面でも同じで、万事順調、人生青空ピーカン曇りなしって感じの人が、むしろ積極的・定期的にカウンセリングに行くのですね。大丈夫だからこそ行くという。で、大体の場合が、本人の自信過剰で大丈夫だと思ってるだけで、実は結構知らない間にストレスが溜まってるとか、ハッピーなふりをしているだけとか、100%そうではないけどちょっとした「濁り」が入り始めているとか。初期症状だったら直すのは簡単ですからね。

 良い「聞き役」に常日頃から恵まれている人はかなりラッキーですが、普通、そんな聞き役はいないんじゃないかな。愚痴を言うにしても、どうしても相手に気を使って、面白おかしくエンターティメントに仕立てて喋ったりするから、結局怒りの感情の解放にならない。カウンセリングなんか単に話を聞いてるだけじゃん、そんなもんにお金を払うのは馬鹿らしいっていう人もいるかもしれないけど、ンなこと言ってるから、その程度のメンタル認識でいるから問題が解決しないんでしょってのはあると思いますよ。

 あれだけ豊富に伸びしろがあるのに、結局腐らせてしまうのねって、それがどれだけ勿体ないかわかってない。金銭換算するのは適当ではないかもしれないけど、生涯年収でも数十%違ってくるでしょう。損得勘定でいっても、軽く数千万単位の話になると思います。アメリカの映画なんかでも、バリバリのビジネスマンとかCEOとかがスケジュールの調整で「シュリンク(精神科医を意味するスラング)」の予定がどうのとか出てきますけど、お金を儲けている人は、さすが儲け方をよく知っているのでしょう。

 メンテナンスでいえば、その技術が卓越している人ほどメンテに気を使う傾向があります。料理のプロは、包丁にこだわるし、毎日研ぐし、握りの木材が甘くなってきたから修理に出すとか、ミクロ単位でメンテに気を使う。F1レーサーでも、エンジンのピーク調整をメカニックと詰めた話をするし、プロの音楽家はコンサートの移動先の湿度によって楽器の音が変わるのを嫌がるとか。自己ベストを維持するためには何をどうすればいいのか、とことん考え抜いているし、何をどうすればいいのかにも最大に心を砕く。だからメンタル管理にも人一倍気を使う。「くっちゃべってればいいんだ」なんてヌルい認識でいるから自己ベストが更新されていかないんじゃない?ってのはあると思います。

そういう自分は

 そういうお前はどうなんだよ?っていえば、カミさんがカウンセラーなんで、雑談で話をきくだけでも(実際の仕事の内容は守秘義務があるから一切言わないし、僕も聞かないけど)、いい刺激、いい勉強になってます。てか、結婚生活ってお互いにカウンセリングやりあってるようなもんでしょ?そんなスマートじゃなくて、ブチ切れたり、ガンガンやるけど、でも相手の態度がいい鏡になりますわ、

 あと、自分カウンセリングみたいなことはよくやります。実のところ、かなり昔から意識してたような記憶があります。中学校のときには心理学の本とかむさぼり読んだし。宮城音弥さんの古典的な岩波新書の入門書は何冊も読んだ。前の仕事でも、絶対ミスは許されないという環境になると、自己ベスト維持には気を使いますし、常に「妙な思い込みをしてるぞ、してるはずだ、それはどこだ?」とやります。何千ページもある証人尋問調書で「ここに矛盾がある」というのに気づくには、妙な思い込みをいかに避けるかがキモですから。意識の盲点に入ったら見つからないので。推理小説みたいな感じですよ。

 平衡バランスとか、世界観バグとか、「勝手にそう思い込んでるだけじゃないか」って自己検証は中学の頃からしてたような気がします。だから、ダメだと思い込んでるものを、検証するために敢えてやってみるとか、それで「な、ほら違っただろ」と一人で納得するという。今でも、「あー、ダメ!」と自分にダメ出しすることがよくあります。いつも出来ている手順を、なぜかその日に限って間違えたときとか、「なんで間違えたのか」という原因をさぐったりします。なんで今日はそんなに焦ってるの?何が恐いの?何が不愉快なの?という。大体は下らない原因なんですけどね、それがわかればそれを潰す。

 あとは、このエッセイでしょうか。日本にいる頃に激しくやっていたパソコン通信の異業種交流でもそうだけど、匿名ではやらない。ハンドルネームとかあったとしても、どこの誰かは直ちに分かるように公開してやります。これは僕個人の特殊な意見かもしれないけど、匿名でやったら意味がないというか。実名でやると、それも何もかも明かしてやると、滅多なことは書けないんですよ。このエッセイでもあまりにもアホなことを書いてたら(まあ、書いてるんだけどさ)、大恥晒しなわけで(晒してるんだけどさ)、だから何か一行書くにしても「本当にそれは正しいの?そんなこと言っていいの?」という自己検証はします。その自己検証が、自分にとってはいいカウンセリングになってるんだろうなって思います。

 それにこんなに長いこと、空では考えられないです。文章にしていくからこそ、これだけ息の長い、ロングストロークの物事を考えられるわけで、その効用は凄いと思います。皆さんに体験談を書いてもらっているのも、あれを書くこと自体がすごいメモリアルになると同時に、あれ(オーストラリア体験)はなんだったのかという会議室の大テーブル代わりになるし、いいカウンセリングになってるんだろうなって思います。



文責:田村



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