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今週の一枚(2014/01/20)




Essay 654:リスク管理=命の管理=時間×納得の管理

 納得メンテナンスとしてのカウンセリング
   

 写真は、イタリア系のデリカデッセンの店内。

 デリカデッセンは、オーストラリアの場合、西欧乾物屋&惣菜屋さんのようなものです。略して「デリ」と言われます。ちょっと本物志向、グルメ指向のニュアンスがあり、戦後のイタリア系移民の影響でイタリア系のニュアンスが強いかな?

 この店は、"Norton St Grocer"で、イタリア人の町ライカード(Leichhradt)のメインストリートであるNorton STを冠しています。シドニーでノートンSTといえばライカードのそれを意味します。写真はボンダイJCのWestfield支店の店内。

 晩飯作るの面倒くさいときにこの種のお惣菜は重宝します。それなりにお値段もしますが、味は確かにしっかりしてます。手前がカネローニという大きめのパスタで中身をくるりと包んだもの。右の茄子とチーズとトマトソースの段々畑みたいなパルミジアーナとかいったかな。好きです。あとはラザニア三種に、ギリシャ料理のムサカもあります。奥の右手はポルトガルチキンで、別にイタリア料理にこだわってるわけでもなさそうですね〜。

 このあたりは見てると楽しくて、左の写真のようにオリーブオイルだけでもこーんなにあるし、オリーブの種類も山ほどあります。



リスク管理は「命」の管理

リスク=命

 リスク管理とは何か?「リスク」とはなにか?

 「リスク」とは、「価値あるものがダメージを受けること」でしょう。
 無価値なものがなくなろうが(exゴミが回収されようが)、人はそれを「リスク」とは呼ばない。
 そこにリスク性が観念されるということは、そこに何らかの価値性が認められるということでしょう。リスクとは価値の別表現であるとも言えます。

 では何を「価値あるもの」と思うかですが、これは人によりけり、場合によりけりです。
 ある人(ある場合)は、家族の絆が一番価値があると思うかもしれないし、ある人(とき)は「男子一生の仕事」(尊皇攘夷とか天下布武とか)かもしれないし、小確幸(小さいけど確かな幸せ)だと思うときもありましょう。人によりけり、場合によりけり。

 そんななかで、とりあえず「これが最強・最高」と思えるのは「命」だと思います。自分の(あるいは他人)の生命以上に大事なもの=自分が死のうが(誰を殺そうが)、これだけは守らねばならない!というほど価値あるものは、この世にそう多くはないでしょう。

 あなたにはありますか?自分の命以上に価値あること、「死んでも悔いなし」って思えること。お子さんのある方は、お子さんが自分よりも優先する場合もあるでしょう。でも、それとて「命」であることに変わりはないです(命の主体が自分か子供かの違い)。だから、命以外、命以上に価値あることって、あんまり無いような気がします。

 確かに仕事、信仰、政治信念などに没頭していて「死ぬ気で頑張る」ってことはあるでしょうけど、マジに死ぬのか?っていうと死なないんじゃないかな。そりゃあ、殉教者や幕末の志士みたいな例もありますけど、でも信者の全てが殉教するわけでもないし、むしろレアだからこそ賛美されるわけでしょ。政治活動でも、現代において死を賭してまでやらねばならないのだったら、状況そのものが間違ってるという気がします。命がけで投票したり立候補したりって、おかしいですから。それに、なんでそこまで政治活動をするの?といえば、究極価値は自分の家族や仲間、孫子の世代の幸福のため、彼等の「生」「命」を充実させるためであり、政治活動それ自体に価値があるわけではない。

 というわけで、あくまで一般論ですが、価値の最たるものは命であり、ゆえに「リスク」の最たるものは「命」でしょう。

 ↑ここまでは普通ですが、ここから先↓このエッセイ独特のツイストがかかります。

命=量(持ち時間)×質(納得度)


 じゃあ、「命」って具体的に何よ?
 と、余計なことを考えてしまうわけです。

 「命は命だろうが!」と思われるかもしれませんが、単に生物学的に生命反応があれば良いってものではないでしょう?あなたが余命10年の不治の病気になったとして、今ここで植物人間になれば後30年生きられますと言われても、イヤじゃないですか?僕はイヤです。だとしたら、「命」といっても有れば良いってものではない。

 命とは何か?を、僕らの主観的な価値判断のレベルに置き直してみれば、「生きていることの幸せ」だと思います。そして、それは @量 × A質 に分解できるでしょう。

 グラフにすれば、量がX軸で質がY軸(どっちがどっちでもいいけど)。
 より質の高い「生」をより長く得ること、グラフの線分が示す積分の面積(右では緑色の部分)を極大化すること、が、まあ一応の目標なのでしょう。

 この場合の量とは何かといえば、「時間」でしょう。15歳で死んでしまうのと85歳まで生きるのとでは、時間が違う、量が違う。沢山あった方がうれしい。すなわち@量的な観点でいえば、@「命=時間」になります。

 次にA質ですが、「いい人生」「良き日々」と思えるかどうかです。よく言われる言葉ではクオリティ・オブ・ライフ(QOL)で、これで質が決まります。

 しかし、何をもって質が高いといい、低いとするかは人それぞれの価値観の問題で、一概にこれが良いというのはありません。波瀾万丈のジェットスターを良しとする人もいるだろうし、起伏がなだらかで平穏な日々をもって価値があるという人もいるでしょう。いやいや、そんなどちらかに決め付けるものではなく、波乱もあれば平穏もあるという、動と静のバランスがいい感じにとれているのが良いのだという意見もあるでしょう。それを決めるのはあなたの専権事項です。

 ただし、いずれにせよ共通点はあります。人生をやってるあなたが納得するかどうかです。
 いくら他人から「良い」と絶賛されようが、自分では超不本意だってこともあるでしょう。ステイタスもあります、お金も入ってきます、でも、それがあまり良いとは思えない人もいる。「こんなことする為に生まれてきたのか」という忸怩たる思いに苛まれたりする場合もある。

 また、それを得るために犠牲にするものもあるでしょう。学生時代のガリ勉のために諦めてきたスポーツ、趣味、異性、サブカル、そして出世のために犠牲にしてきた職業的プライド(「そんなキレイゴト言ってたら出世はできませんよ」とか言われて、不正行為の片棒担がされたり)、さらには出世閨閥のために好きでもない人と結婚したりして。そこまで犠牲を払って得たものはといえば、どっかの地方の○○局長というポスト。そりゃ他人からは頭下げてもらえるし、そこそこ収入もあるけど、でも相変わらず嫁と嫁の実家には頭が上がらないし、いくら偉くなろうとも上には上がいるから、行くところにいけばパシリ扱いの屈辱は変わらない。他人からみれば素敵な人生に見えるかもしれないし、「うまくやりやがって」とやっかまれたりもするのだけど、「でもなあ」と思ったりもする。これで明日交通事故に遭って「はいお客さん看板ですよ」ってお迎えが来たら、「ああ、俺らしい人生だった」と思えるか?と。

 だからステイタスや収入という世間的な偏差値と、本人の納得度が常に完全にシンクロするというものでもない。ある程度の相似性はあるだろうけど、細かくみていくと全然対応してなかったりもします。

 ↓下にそのあたりの機微を、半分冗談で作ってみました。

 面白いですね〜。もちろんこのパターンは千差万別。無限にバリエーションがあります。
 ちなみに僕が一括パックの仕事などでやっているのは、左半分のピヨピヨ可愛い皆さん相手ですが、シェア探しの指導などで過剰なまでにあれこれサジェストするのは、右半分の「怒涛の上級編」を睨んでのことです。あの荒波を乗り越えるためには、ピヨ段階でやることやってないとしんどいですし、いい予行練習になりますから。

 いやあ、宇宙の大星雲の渦巻きも、コーヒーカップの中のクリームの渦巻きも力学法則は同じであるように、やってることは同じなんですよね、スケールが違うだけで。「全てのアテは外れると思え」とかさ、「動かなければ突破口はない」とか、「予想外の展開というのは必ず生じる」とか、「本当にしっくりくる価値序列に到達する前には、大体一回はワケが分からなくなる時期がくる」とか。一つでもいいからトコトン納得する「仕事」をしてみたら、あとは一生ものの原型になりますので、それが大事なんだと思うからです。僕自身左半分のピヨ時代に散々それは叩き込まれたので、その恩返しですね。申し送り事項みたいな感じ。

 しかし、まあ難しい問題ですよね。正解ナシです。

 ただ、なんでそこで悩むの?なんで悩まない人は悩まないの?といえば、本人がそれで納得してるかどうかだと思います。世間や他人がいくら納得してても意味なくて、本人がどれだけ納得してるかどうかが大事。どうせ死ぬときゃ一人なんだし、人生トータルに眺めて最終評価を下せるのも全てを知ってる自分だけ。
 ということで、A質の視点からすれば、A「命=納得」だと言えるでしょう。

 上の@とAを合体させれば命=時間×納得ということになり、さきほど「リスク=命」だったのだから、これらを数学の代数のように等式で結べば、

 リスク=命=持ち時間×納得度

 になると思います。
 自分が納得できる時間をいかに長く・多くゲットし、クリエイトするか。



 むろん他にもリスクはありますよ。傘持って出ないで雨に降られるリスクとか、飛行機に乗り遅れるリスクとか、競馬で損するリスクとか、カラオケでウケ狙いをしたらドン引きされるリスクとか、、、我々はリスクに囲まれて生きています。

 しっかし、命=人生の質×量という大命題をドーンと語っている今、そんなリスクなど余りにも小さすぎる。どーでもいいっちゃ、どーでもいいです。そのリスクが顕在化したら、キミは死ぬのか?死にたくなるくらい人生の質が極端に低下するのか?そうでなければ、それはそもそもリスクではない。少なとくとも重大ではない。ほかにもっと優先的に考えるべきことがあるでしょう。

リスク管理とは

 上の命題(リスク=命=時間&納得)を前提にすれば、リスク(危険・損害)とは、@.自分の時間が短くなることであり、A.自分の納得度が低下することでしょう。

 リスクが上のようなものだとしたら、ならばリスク「管理」とはなにか?です。簡単ですよね。

 @.持ち時間を長くすること
 A.納得度を向上させること

 です。

 「@持ち時間を短くすること」は、中途でブツッと途切れてしまう不慮の死や早死を招くような危ないことです。あるいは最終地点である長寿を縮める行為(成人病など身体に良くない悪生活習慣)などです。このあたりは普通にわかりやすいでしょう。

 「管理」もいたって簡単で、早死しないように、安全運転を心がけて、酔っ払って暴走運転をするなど無意味にアブナイことはしないとか、生活習慣を改善して成人病を予防しましょうとか「いつもの話」です。
 なお、死ぬことは無いにせよ、病気・怪我をする危険は準@、あるいは次のAの質の低下と考えることが出来ます。

 A質(納得度)の低下は、不本意な人生に陥ることです。平たくいえば、「こんなんヤダ!」って思う方向へ方向へと進んでいってしまうこと。あるいは「なんだかなあ」と思いつつも打開策もないまま、周囲に流されて流されて、気が付いた終わってましたって流れになってしまうことです。

 つまりは「やりたくない事はやるな」ってことなんだけど、でも、最終的により大きな「やりたいこと」の手段としてやっているんだったら、そこには「大きな納得」があるでしょう。自分のお店を持ちたいから頑張って夜のバイトもやってます、お金貯めなきゃね!っていうなら、それはそれでいい。でも、そういう大きな救いも納得もなく、ただただ外部環境に弾き出されるように、あるいは取り込まれて身動きできなくなるように、年とともに不本意な気分が募っていくこと。これがリスクだと思います。

 どこまで自分の納得を大切にすることができるか、どこまで不本意な流れに棹さすことが出来るか。

 ま、理屈はシンプルなんだけど、実際にはそう単純ではないです。

質と量の相関関係

 この質と量はミックスしますし、相乗関係に立つ場合もあれば、反比例の関係に立つこともあります。

 例えば、登山や冒険のように、物凄い燃焼感、一生に一度あるかないかの充実感を得るためには、たとえ死ぬような結果に終わろうとも悔いはないって場合は、量的には短くなるリスクがあるのだけど、それを上回るだけの質の飛躍的向上がある。グラフの積分面積でいえば、縦軸(納得)がドカーンと高い値になるから、トータルの面積は広くなる。やらない場合の質的な低空飛行、生きてんだか死んでんだか分からないような生活が80年続いた場合の総面積に比べて、より広いと思えるからでしょう。

 究極のリスク=死ですけど、「死」とは「生命現象の不可逆的停止」で最後の終着駅です。が、これは生物学的な定義であって、今考えているように価値的に言うのであれば、質×量がゼロになる状態と言えます。

 例えば「量」といっても最終地点(死)までの「全長」だけの問題ではないです。その途中であろうとも、質がゼロになるような時間だったら、価値的には死んでいるのも同じです。物理的に意識不明の植物人間状態が3年続いたというケースもありますが、イヤでイヤで堪らない時期を無理やり過ごさせられたような期間は「死んでいるのも同然」と感じられたりもするでしょう。徴兵で引っ張られて、軍隊内部でいじめ抜かれた数年間とか。

 自分の納得出来ない時間が長くなればなるほど、その納得度の低下部分が本来の(納得幸福)面積から差っ引かれるわけで、その分だけ損してることになります。あるいは、他者の時間の質を低下させたり、無駄な時間を使わせたりすることは、それだけ他人に損をかけている、人生の価値を減損させていることになります。

緩慢な自殺

 他者の生命を完全に奪うことを殺人といい、自分の生命を奪う場合は自殺といいます。だとしたら、仮に1日であろうが1時間であろうが、自分/他者の時間を奪い、その質を低下させることは、何千何百分の1に薄まってはいるものの、それは殺人であり自殺であるということも出来るでしょう。

 まあ、ものすごーいレトリックではあるのだけど。
 でも、なんでそこまでセンセーショナルな言い方をするかといえば、そのくらいに思っていた方が良いと考えるからです。また実感からしてもそれほどかけ離れたことでもないです。例えば、誰かを拉致監禁し、奴隷的拘束をして、以後何十年もの間、死ぬまでまったく何の自由も与えず、ひたすら本人が嫌がることばかりさせていたら、それは逮捕監禁罪ではあるのだけど、実質的にはほとんど殺人に近いような気がしませんか?いっそのこと一思いに殺した方がまだしも本人の苦痛は少ないかもしれないから、殺人以上に鬼畜度が高い気さえします。

 敢えて極論をするならば、納得出来ないことをやることは、その限りにおいて自殺しているようなものだということです。喫煙など悪しき生活習慣は「緩慢な自殺」と言われたりしますが、それと同じことです。

 身体損害でも、外傷よりも内臓疾患の方が分かりにくい。ましてや精神的な満足度やメンタル健康というのはもっと分かりにくい。「なんだかなあ」と鬱々しているというのは、これを外傷に置き換えてみたら、例えば腕が半分千切れかかってるとか、両目からダラダラ血を流しているくらいのことかもしれんのですよ。大袈裟なって言うかもしれないけど、年間自殺者3万人の国が、これを軽視して良い道理はないと思うのですよ。リスク管理の最凶ケースは殺人の被害者になることだけど、日本で殺人罪の被害者はせいぜい1000人とかそのくらい。交通事故死者はその10倍の1万人、そして自殺が3万人。単純に数だけでいえば、殺人にビビるなら、その30倍自殺にビビれということでもあります。「なんだかな」が嵩じて死ぬかもしれないんだし。それほどのことなのだ、と。

「リスク管理」とは

 一般に「リスク管理」というときは、「犯罪に遭わないようにすること」「アブナイことをしないこと」とされます。そこでは、防犯グッズを携行しましょうとか、監視カメラを設置しましょう、繁華街でひとり歩きをするのはやめましょう、安全性に疑問がある食材は使わないようにしましょう、うまい儲け話には注意しましょう、知らないおじさんには付いていってはいけません、○○ちゃんはガラが悪くて下層階級の出身だからつきあっちゃいけません、、、、みたいな話がまことしやかに語られたりもします。多分にジョークも含んでいるけど。

 ま、それはそれで良いです。
 でも、一つ抜けてませんか?というのが、今回言いたいテーマです。

 「納得出来ないことをする」というのもリスクなのだということです。

 否。リスク(危険)どころか、危険が現実化した「実害」だと言っても良い。なぜなら、質が下がれば命(緑部分)も下がるからです。鬱々としていて、毎日楽しくない、展望がない、打開策もない、、、という状況のまま、貴重な持ち時間を消費していくこと自体、既に半分死んでるようなものです。

 しかし、そこから脱出するための種々の試み、例えば転職するとか、思い切って業種を変えるとか、転地するとか、数年間のブレイクを入れてみるとか、そういった試みは「リスクが大きい」といって腰が引けたりする人も多いでしょう。当然ですよね。なんの保障もないのだからさ。

 でもね、そこでいう「リスク」って何よ?って気もするのですよ。例えば収入が減るとか、生活が苦しくなるとか、そのへんの話だろうと思うのだけど、ではそれをやらなかったらリスクゼロになるのか?というと、別にそんなことはないのですね。だって、現在時点で「納得出来ない」「人生の質の低下(緑色の積分面積の減少)」という実害が発生しているのですから。

 つまり、既に発生している実害を無視して、発生するかどうかもわからない将来の危険だけを考えるというのは、思考方法として正しいのか?です。家が燃えています。こうしている間にもどんどん延焼していますというときに、消火活動をしたら家財道具が水浸しになって使えなくなるかもしれない、、とか心配しているようなものではないか?と。話があべこべではないかと。

「我慢して解決」の日本人的発想

 なんでこんなこと言うかというと、僕ら現代の日本人の発想のクセというか、弱点としてそれがあるような気がするのですね。

 以前エッセイでESSAY 548/ 二つの面倒臭さ〜量的ストレス・質的ストレスを書きました。思い切って新しいことをする未知の不安(質的)ストレスと、じっとひたすら辛抱し続ける耐久我慢(量的)ストレスがあるとしたら、日本人は後者はメチャクチャ強いんだけど、前者はメチャクチャ弱い。「思い切って〜する」のが苦手。だから「我慢して解決」という発想をとりがちだという僕の意見です。

 例で挙げたのは、明日の集合時間が4時だか5時かわからない。だったら電話一本かけて確認すればいいのに、でも英語で電話するのは恐いとか、何言われるかわからないとか、そこで二の足を踏む。そんな未知の恐怖に踏み出すくらいだったら、1時間無駄待ちする覚悟で4時に行こうとか思っちゃう。「我慢して解決」ってのはそういうことです。でも、ヨーロピアンとか南米系とか、まずそんなことしないでしょ(そもそも時間を守らないのだが)。「なーに馬鹿なこと言ってるんだよ、電話して死んだ奴はいねーよ」とばかりに物怖じしないでドンドン前に行く。

 でも僕らはどうしても物怖じしてしまいがちです。20年海外に住んだとしても、三つ子の魂百までで僕にもその類の腰が残っている。それで大いなる逸失利益(本来なら得られたものを失う損失)を被る。そして、その「物怖じ」、つまりは単にビビってるだけなんだけど、それを「リスク管理」という美名で誤魔化しているだけじゃないの?って気もするのです。勿論全てがそうだという気はないけど、混じってないか?と。しかも、それを実現するだけの我慢ストレス耐性は豊富にあるから、やってしまうという。もっともこれもニワトリ&卵論で、ビビって我慢するからストレス耐性が鍛えられているだけかもね。

 だってさ、「既に発生している実害を無視して将来のリスク云々」という文脈・情緒は、例えば原発の汚染水が日毎最悪記録を更新してますって実害がバリバリ発生しているのを無視して、原発を再稼働しないと経済的にこれだけ損をしますよと議論しているのに似てるんだわね。

 納得できない現実がある、でも我慢しちゃう、見てみないふりをする、それは言わない約束にする。
 我慢しても意味がない、我慢してはいけないような局面で、なんでそんなに我慢すんの?というと、結局は新しいことをする不安がそれ以上に強く、そのストレス耐性が乏しいという点は、もっと意識的になっても良いと思うのです。

 そういう状況を踏まえるから、敢えて極論を言うわけですね。
 それが納得出来ないという時点で既に実害は発生しているよ、家が燃えてまっせ、あんた半分死んでますよ、というくらいに考えた方がいいんじゃないかと。それを無視して、リスク管理もヘチマもないだろうと。「管理」できてないじゃないか。

カウンセリングのススメ

 さて、ここで一気にポーンと話はワープします。カウンセリングは、ほぼ全員やった方がいいと思うよって話です。カウンセリングなんてものは、精神を病んだ可哀想な人がやる特殊な治療」みたいに、いつの時代の話じゃい?というカビの生えた発想は捨てたほうがいいよと。

 あ、ここでいう「カウンセリング」というのは、単なる日常用語の「相談」くらいの意味で、精神医学や心理学上の厳密な定義に基づいたものではないです。ただ、その筋のプロの人の方が、相談はしやすいだろうなって思います

 なぜかというと「納得」のメンテナンスのためです。

「納得」の判断の難しさ

 上で見たように自分自身の「納得」というのが致命的に大事なものだと思われるのですが、でも、「納得」といっても自分ではよくわからないのが普通だと思うのです。

 さきほど「我慢」がどうとか書きましたが、それが納得できる我慢だったら別に全然問題ないです。いくら辛くても、このレベルを超えないと次に進めないと本人が納得してたら何の問題もない。むしろその種の耐久性というのは、物事を成し遂げるための必須アミノ酸みたいなものですから。だから問題は納得できているのか/いないのか、です。

 また客観的に失業しました、失恋しました、収入が減りましたという不幸も、方向転換するための千載一遇のチャンスにもしうるわけだし、また何がいけなかったのを虚心に反省して学び、ヴァージョンアップする機会でもあるわけです。不具合情報、バグ情報が集まらないとヴァージョンアップは出来ないですからね。ゆえに、別に落ち込むことはなく、当然のプロセスに過ぎないって捉え方もできます。これも「納得」の一つのありようです。

 このように一口に「納得」といっても、ああも言えるし、こうも考えられる。360度自由に考えられるわけだけど、じゃあ、あなたはどう考えるの?ってことですね。「いいのよ、どうせ私なんか」とかいって、自分をごまかして無理やり納得させているという、質の低い「納得」だってあるわけですから。

 で、普通は、ここがこんがらがってよく分からなくなります。

 自分にとっての本当の納得とは何か?というのは、実はめっちゃくちゃ難しいです。その判別には、相当量の思考期間と、相当量の経験値と、卓越した情報処理能力と、健全なバランス感覚が必要でしょう。誰にでも出来るものではない、というよりも、普通は「ま、無理でしょ」といってもいいくらいに難しいと思います。分かるほうがおかしいというか(笑)。

 だってさー、生きてれば誰でも同時平行で計算しなければいけない事柄は数十項目はあると思いますよ。自分の職場のこと、友達や恋人のこと、親のこと、将来のこと、キャリアのこと、、、さらにそれらが細かく枝分かれして、大中小に分類されていく。仕事にしたって、そもそも辞めどきかなと思う部分もありつつ、取引先とのプロジェクトだけは仕上げなきゃなとか思うし、一方では最近配属された新人君が使えないうえに鬱寸前だからどう声をかけたらいいものやら、、、などなど「懸案事項」は山ほどあります。あるでしょ?

 これらを一生レベルの価値序列にしたがって、数十ステップのオーダーできちんと配列することなんか、まあ無理ですよ〜。特に仕事やなんやかんやで忙しかったら、そんなことゆっくり考えているヒマもない。帰ってきて、風呂の中でコックリ船こいで鼻にお湯が入って溺れかけて、のぼせてザーッと出たら、もう髪を乾かすのもかったるくて、そのままベッドに倒れこんでバタンQという状況で、そんなクソ複雑なことなんか考えている余裕はないんじゃないの?と。

 だから強制的にでもブチッと切断して、この時間は、ゆっくり長期スパンで考えましょう、何がしたいの?どうなりたいの?何がそんなに辛いの?なにをビビってるの?とかいうのを、吐き出して、テーブルの上に並べ替えたらいいだろうと。

 もう開かなくなるくらいグチャグチャになってるデスクの引き出しみたいなもので、何がなんだか収集がつかなくなってる。だったら、思い切って引き出しごと引っこ抜いて、会議室の大テーブルにどわーっ!と全部ブチ撒けたらいいです。そのあとで「えっとー、これはもう要らんな」と仕分けしたほうがよっぽど早く済む。ものの10分もあれば大抵片付く。大体容量3分の1くらいに片付きますよね。つまり3分の2は無駄、ゴミみたいなものを後生大事に抱えているという。

 頭の中もこれと似たり寄ったりだろうと思うのですよ。
 頭の中に何が入っているのが自分でも把握できなくなってる。自分が何を考えているのかすら系統立って整理できなくなっている。だから「たまたま思いついた」という偶然性一発で物事を考えているんだけど、そんなのコロコロ変わるから、「お、そういえば」「あー、○○があったか!」とかやってて、一向に進まない。

 そんなグチャグチャ状態で「納得」なんて難しくも微妙な判断が出来るの?と。絶対無理とは言わないけど、難しいだろうなあ、効率悪いだろうなあって。だったら、バーっとぶちまけたらいいじゃんと。僕が思うに、それをカウンセリングというのだろうと。

 さて、ここから先まだ山ほど書きたいことがあるのですが、長くなるので今回はここまでにします。
 書き出したらあと数百行くらいいきそうで、終わらなくなってしまいます。
 
 とりあえず今回は、リスク管理は人生の管理、命の管理であり、それは納得度の問題である。しかし、自分が納得しているのかどうかの判断というのが、これが意外に難しく、それ相応の技術と練度と静かな環境と機会が必要なんじゃないの?という話でとどめておきます。これだけでもお腹いっぱいスかね?



文責:田村



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