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今週の1枚(2011/09/26)



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Essay 534 : 愛という名の「通貨」

バクチ性経済ではなく、「楽になる」という人類の大テーマに回帰する話
 写真の場所は、Central駅の裏手、というか東南側。Surry Hillsの方です。あなたがシドニーでビザを取得する場合、そして健康診断を受けたならば、おそらく帰路にこの風景を見るでしょう。


なぜ楽にならないのだ?

 世界経済(含・日本経済)がヤバくなりそうな今日この頃ですが、不況とか不景気とかいう循環的で短期的なことよりも、もっと抜本的に貨幣経済というのを考え直す時期にきているのではないかと思う今日この頃でもあります。我ながら凄いテーマを書こうとしてるのですが、いや、でも、ほんま、せやで。

 あなたはおかしいと思いませんか?
 人類がこれまでコツコツと頑張ってきたのに、未だに働かないと生活できない、しかも昔よりも頑張って働かないとならない、それどころか働く場所にすら事欠くというのとは一体どういうことか?おかしいじゃないか?

 僕が子供の頃のSFで語られていた未来は違う。「なんでもかんでも機械がやってくれるようになったので、もはや人類は働く必要がなくなった」というトーンが多かった。働かなくても良くなったのはいいんだけど、逆にやることが無くなって魂が空洞化するような危機を迎えましたとか、ロボットやコンピューターに支配される不気味な世の中になりましたとか、そういうオチなり問題提起はあったのだけど、いずれにせよ未来になれば「人類は労働から解放される」というのが前提でした。でも、現実に21世紀になっても全然解放されていないし、この先も解放されるような雰囲気ではない。素朴に思うのですね、なんでじゃあ?って。

 これはSFだけの話ではないです。原理的にいってもおかしいではないか。

 原始時代の採集生活では日々狩りをしながらも常に餓えていた。食えずに(最低カロリーに達せずに)餓死する人も多かったことでしょう。それが、稲だの麦だの異様に果実(種)が多く&播種しやすい植物を発見し、これを計画的に育てるという「農業の発見」があり、人類は一歩進化します。朝から晩まで食糧ゲットのために奔走しまくる日々から解放され、ある程度見通しの立つ安定的な暮らしになります。まる一日野山をさまよったり、釣り糸を垂らしても収穫ゼロというのが普通にあった時代では、それだけに「無駄な労働」が多かった。しかし農業になると無駄が少なくなる。必死に育てたのに台風が来て全滅という「無駄」もあるけど、それでも昔に比べれば遙かに労働の無駄は少なくなった。逆にいえば労働量が減った。つまり、人類の進化というのは、いかに労働量を減らすかの軌跡と言ってもいい。

 以後、人類は生産面での「革命」を何度も体験します。例えば農業においては、地力回復のための三圃式ローテーション農法が開発され、さらには牧畜と冬野菜を組み合わせた輪栽式農業に発展するとか(農業革命)。これまで100働いて100の収穫だったのが、50の労働でよくなり、さらには20の労働でよくなる。そして生産力の余剰が、余剰人口を生みだし、それらが宗教・貴族・武士階級などになり、国家が形成されるようになった。そして、社会制度もまた別に生産革命によって変容していく。例えば日本における製鉄の広まり→農具の普及によって、荘園支配(=その本質は鉄を使った農具支配だった)のクビキを離れた武士階級が勃興したりした。また、余剰生産物の「交換」が行われるようになり、交換経済や広域経済が発達し、万能交換ツールとしての通貨が作られるようになった。さらに化石燃料の発見によるエネルギー革命、工業技術の産業革命、資本主義の発達、、などなどによって、人類の生産効率は飛躍的に高まり、どんどん物財はあふれ、ゆとりのある生活環境になっていった。

 細かい話は省略しますが(精密に書く能力もないのですが)、要はどんどん便利になってきたということです。それまで谷まで延々歩いて水を汲んできたのが、井戸ができ、水道ができ、温水器ができた。風呂一つでも、水汲みも、たきぎ集めも、マキ割りも、竹筒をフーフー吹いての湯沸かしもせずに蛇口やボタン一つで済むようになった。洗濯機も出来たし、冷蔵庫も出来た。移動も徒歩オンリーだった時代に比べたら飛躍的に楽ちんになった。

 ここまで進歩したんだから、人類は朝から晩までゴロゴロしててもよくなりそうなのに、実際には忙しい日々を送っている。バブルの頃なんか「24時間戦えますか?」などと言っていた。ダメじゃん、24時間も戦ってたら。何のために人類は進歩してきたのか?有史以前からの人類のテーマを一言でいえば、いかに働かずに済ませるか、「いかに楽をするか」ではなかったのか?これだけありとあらゆるものが進歩しまくったその結果として昔より働いているんだったら、なんのこっちゃ?です。

 これはもう素朴な素朴な大疑問です。
 なんでそうなるの?なんか間違ってないか?です。

ゴールを過ぎてもまだ走ってる

 この「何故まだ働いているのだ?」問題については、もちろん合理的に説明することが出来ます。大昔に比べれば遙かに生産効率は良くなったものの、それと比例して生活水準というゴールも遙かに高くなったから、相対的に頑張らねばならない量は変わらないのだと。原始時代のように、平均寿命が20代で尽きて、赤ちゃんが5人生まれたら成人するまでに4人死んでしまい、摂取カロリーもギリギリで、人生最大のご馳走が白いゴハンという水準で良いなら、そんなに頑張って働かなくても良い。その程度の水準のゴールだったら、そんなに働かなくてもやっていける。当時の100分の1の労働量で済むでしょう。しかし、当時よりも100倍ゴールが高くなったから、頑張らなきゃいけない量も100倍になっている、という理屈ですね。

 それはその通りだと思うのですが、しかし、と考えてしまうのであった。
 でも、これってどこまで続くの?どこまでいけば気が済むの?無限にやり続ける気?もしかして、とっくの昔にゴールは通り過ぎてしまって、今はただ「走るために走る」という無目的なことをしてないか?と。

 思うに、今世界の人々は何のために技術革新や努力をしているのか?というと、実はこれがよう分らん部分もあるのではないか。「明るい未来を作る」とか「健やかな暮らしのために」という企業CMのコピーのような理念は、これは確かにあるし、現実にそのために奮闘されている方々も沢山います。それは良いです。しかし、中には「それって何のためにやってんの?」というイトナミも相当多数あるような気がします。

 OA化などもそうだと思うのですが、昔はいちいち全部手書きで写していたものが、真っ黒なカーボンコピーで複写が出来るようになった。カーボンコピーなんか今ではメールの "CC" くらいにしか残ってないかもしれないけど(オーストラリアの手書きの領収書では実はまだよく使ってるが)、それがゼロックスなどの光学式コピーになり、さらにはスキャンしてPDFファイルにしてとなった。もの凄い労働省力化です。楽ちんになりました。めでたしめでたしなんだけど、めでたくない!なぜかというと、そうやって地味な複写労働から解放された従業員はヒマになった時間を遊べるわけではなく、他の仕事をやらされるから結局トータルの仕事量は変わらない。むしろアレコレ多種多様なことをやらされるだけ大変になったとも言える。挙句の果てには、10人必要だったのが5人で済みます、しまいには無人で済みますとなって、クビになってしまうという。あるいは流通・通信技術の発達によって、人件費の安い外国に外注しちゃえばいいじゃんということで空洞化が進み、ここでも失業が増える。

 何かヘンじゃない?
 技術の進歩によって省力化が出来ました、楽ちんになりました。でも楽になったその果実を享受しなかったら、何のために楽になってるのよ?という。てか、全然楽になってないじゃん!?

 人類が日々頑張って工夫を凝らし、技術を進歩させても、そのご褒美は自分の失業であるという、嘘みたいに皮肉な構造になっている。ヘンだよね、これ。SF的に極限まで想像を進めていくと、世界人類の全ての仕事は巨大な中央制御コンピューターが一台あれば足り、全てはオートマティックになされることになる。エネルギーの採掘から、製造、流通、全てを自動化してくれるなら、人間は要らなくなる。かつて夢にまでみた究極の理想状態ですけど、しかしその果実を人類が享受できなかったら、人類全員クビで失業者ってことになります。あふれんばかりに「商品」はあるのだけど、誰一人お金を持ってないから、全員餓死。人類が絶滅したあとも、美しく清潔な都市で無人のスーパーが営業しているという。「早く芽を出せ柿の種」で柿の木を育てて、やっと柿の実がなったと思ったら、果実は全て出荷されて自分では一個も食べられないという。人類は猿サニ合戦のカニか?じゃあ、猿は誰なんだ?

 適当に美味しい食料があって、適当に治安も良くて、適当にそこそこの生活が出来た時点で、もうゴールだったんじゃないか?あそこで止めておけば良かったのに、ゴールに気づかず走り続けているから、いつまでたってもゴールが見えない。見えるわけないですよ、過ぎちゃったんだから。あるわけもないゴールを目指していると、今度はだんだんゴール意識すらも怪しくなって、何のために走ってるのかすら分からなくなる。でも走ってるから走るという。

 どうしてこんなことになってしまったのでしょうか?

資本主義や貨幣経済というツール

 諸悪の根源は、資本主義や貨幣経済でしょう。凄いこと書いてますけど、いや、ほんま、せやで。

 いいですか、技術の進歩(人類の努力)→生産性の上昇→「楽チン」という果実→人類左ウチワ、というのが本来の姿だった筈でしょう?でもそうなってないのは、このサイクルのどっかで何者かがピンハネしてることを意味する。どの過程でそうなってるかを見ると、生産性の上昇→左ウチワの部分ですよね。生産性は上昇したけど、それが「労働の解放」=「楽ちん」という化学変化になっていない。

 じゃあどうなってるのか?というと、生産性の向上→収益性の向上になってるんですよね〜。要するに「楽になる」という形にならずに「もっと儲かる」という形になってるわけです。職場に新しい機器が導入されました、これまで1時間の仕事が30分で出来るようになりました。「わーい!」なんだけど、余った30分を遊べるわけではなく他の仕事をさせられる。だから労働者には何にもリターンはない。リターン(柿の実)は誰が取るかといえば、経営者であり、資本家です。それまで従業員一人月給20万円で20万円分の仕事をさせていたのが、新機種の導入によって40万円分の仕事をさせられるわけですから得です。

 これは、まあ、資本主義の原型であり、マルクスが唱えた「生産手段からの疎外」「労働の疎外」という状況で、何を今さら的な議論ですよね。労働者が労働それ自体、生産手段それ自体を所有&コントロール出来ていないから、いかに労働生産性が向上しようが、その果実は労働者に行き渡ることはない。だから「働けば働くほど相対的に貧乏になる」という、資本主義の根源的矛盾があると。それだけ見てたら資本主義というのは自動的に貧富の格差を拡大する奴隷製造マシンみたいなもの、まさに「鬼畜のシステム」なわけで、だから共産主義だあ!って行く方向性もアリです。でも共産主義でも似たような状況が起きるどころか、よりヒドくなったりするので、「しょうがないよね〜」で今は皆さん資本主義になってるわけですけど、まあ、それはいいです。よく知ってます。大学で社会科学系の学部を出ていれば、誰でも知ってること(筈)でしょう。目新しくもなんともない。

 僕がここで言いたいのは、「楽をする」という人類本来のテーマはどこに行ったんじゃい?ということです。皆、大事なことを忘れてないか?と。人間とは何か?一言で定義せよと言われたら、「とにかく楽をしたい生き物である」というのが、僕ら人類の暗黙の前提だった筈じゃないか。「楽」はどこにいったんだ、楽は。

 大体何のために資本主義が人類に採用されたか?です。人類の歴史は、少数支配→多数支配への流れとも言えます。一部の王族など特権階級支配から民主主義やマスの時代になるように、少数から多数へ、です。資本主義というのは原理的に資本家のためのものであり、資本家は少数であるのが通例であるから、徐々に廃れていっても良いはず。なのに、資本主義は民主主義の勃興期、近世から近代に入る頃に広まっているのはなぜか?おかしいじゃないか?

 これは産業革命・エネルギー革命とセットになってるからでしょう。色々な見解はあると思うし、僕も把握し切れてないけど、大雑把に言えばそう。最初は現場の職人さんの工夫という素朴なところから始まった。この段階で終ってたら、一日の仕事も楽になっていて、「技術革新→楽チンの増大」という原始的で幸福なままだったと思う。しかし、段々技術開発が進むにつれ、巨大な装置になっていき、さらに蒸気機関や内燃機関の発達によって、さらにさらに大がかりなものになって、設備一式を揃えるのに天文学的な経費がかかるようになった。もう職人さんのファミリービジネスのレベルではなくなり、そうなると巨大な資本を持ってる人達の舞台になっていく。

 このあたりなんですよね、資本主義が出てくるのは。そして、青年マルクスが悲惨な労働者の現状を目の当たりにして、若き怒りに燃えて資本論を書こうとしたのもこの時期です。マルクスはともかく、資本主義の勃興によって、歴史的には大きな化学変化があったと言えます。それは、文字通り「生活のための生産」だったのが、「利潤のための生産」に置き換わった。それまでは「(よりよく)生きていくため」に生産をしていたのが、それ以降「金が儲かるから」生産をする、という具合に文法が変わった。ロジックが変わった。

 でまた、勃興期だから何をやっても面白いように成長した。この面白さがまた起爆剤になって、もの凄い勢いで資本主義的な生産システムが広がってしまった。それによって副作用も世界に及ぼした。単なる右から左の貿易だけだった植民地支配も、より高度に資本主義的な搾取をするためのものになっていきます。それまでは、現地で生産してその生産物を本国に輸出交易するだけだったのが、本国の高度な生産設備で大量安価に生産できるようになったので、現地はただの素材供給地でしかなくなった。例えばイギリスのインド支配では東インド会社があったのですが、資本主義勃興後、イギリス本国の資本家企業によって東インド会社のビジネスは没落し、またインドの綿織物産業は壊滅し、ただの原料供給地の地位に落とされ、イギリス製の織物を買わされるようになった。つまり資本主義は弱い国の産業的・経済的自立性をも破壊した。

 いずれにせよ、資本主義の成立によって、生産性向上→労働の解放(楽ちんの実現)という水路が破壊され、資本家の利潤増大という新たなピンハネ・バイパス水路が構築された。以後、何をどう頑張っても水はこっち(労働者)に流れてこない、という構造になります。

 このように、資本主義というのは、周囲に害悪を撒き散らすようなシステムなんだけど、それが何故に流行ったかといえば、産業や経済を発展させようとしたら、それが一番効率的だからでしょう。つまりは「儲けるため」には最も合理的で効率的なシステムだった。なぜか。人間はどういう時に最も継続的にパワーを出して頑張るか?といえば、「私利私欲に駆られているとき」だからでしょう。私利私欲を源エネルギーとして、最強の効率を発揮するから資本主義は広まり、今もなお支持されている。確かに、資本主義によって人類の技術や生活水準は飛躍的に高まったとも言えます。まあ、原子力みたいなもので、毒性を考えなければ「使える」と。共産主義はマルクスあたりが源流の思想だと言えますが、資本主義というのは、誰かが開発したものではなく、思想ですらない。人間が自然にやってて、自然に出来てしまったものなので、それだけに強い。が、人間が本来持ってる自然の毒性もまた含んでいるということでしょう。

貨幣

 ただ、資本主義以前にもう一つのツイストがあることに気づきます。それは「儲かる」という概念です。利潤ですね。こんな概念、いつから出てきたのだ?「楽をする」「いい気持ちになる」という人類のピュアな原点からしたら、「儲かる」なんて概念、本来は無いはずだぞ。縄文時代の日本人に「儲かる」という概念を説明するのは難しいでしょう。

 いつから「儲かる」なんて邪悪な(^^*)概念が登場したのかといえば、商業と貨幣が登場してからでしょう。山の民と、海の民が、それぞれの産品を物々交換してた時代には商業というのはまだなかった。原始的な交換経済です。それが、パチンコの景品のメダルみたいに、物々交換の万能アイテムとして「通貨」というものが開発され、こういった交換行為を生業として行う「商業」「商人」という新文化・親人類が出てきてから、「儲ける」という概念が出てきました。「商品経済」「貨幣経済」というものです。このあたりがクセモノで、これこそが本稿の主題です。


 それまでの人類の感覚だったら、額に汗をして何かを生産することが「働く」ことで、それが人間の生きる道であり、その観念は根深いです。だからこそ、右から左に物品を移動して「儲ける」という作業をしている商人や商業というものは、どちらかといえば洋の東西を問わず卑しまれる傾向があった。士農工商で商が最後にくるのもそうですし、これは日本だけではないです。宗教によっては利息を取るのを禁じているのもありますし、利潤を目的とすること自体を何やらいかがわしいことであるかのような風潮もあります。「ベニスの商人」なんかも商人=アコギみたいな偏見らしきものが窺われる気がする。

 現に今の日本だって「お金の話」は微妙に卑しいことだったり、不浄なことだったりしますよね。「ビジネス」という英語が日本語に定着し、ビジネスマンとかビジネスマインドとかカッコよさげに使われてはいますけど、でもやっぱり心の底では「金(貨幣)」の価値をそれほど重くは見ていない部分がある。金は凄い大事なんだけど、敬いたくはないという。「拝金主義」というと卑しいニュアンスがあるし。あなただって、「人生の目的は何ですか?」と聞かれて「金儲けです!それしかないです。人生に金以外の何があるんですか?」と言い切る人に対しては、ちょっとなあって思う部分もあるでしょう?「お金の話ばっかりして恐縮なんですけど」と言い方もあるし、「金さえ儲かりゃそれでいいんか?」「しょせん金かよ?」という非難の言葉もある。「金儲けのために立候補しました」と言い切る候補者は、まあ当選しないでしょう。

 つまり、「通貨」とか「儲ける」という存在や行為は、日々の生活においてとても便利で大事なことなんだけど、究極的な価値ではないと感じている。大事なことなんだけど、どっかしら「座りの悪さ」「扱いづらさ」を感じてる。有用ではあるけど重要ではないというか。なぜかというと、金や商業というのは、そうした方が便利だからという利便性にのみ価値があり、「母性愛」「友情」にみられるような本来的な価値はない、と感じているからでしょう。

 こう感じるのは、ある意味では非常に古くさい発想なのかもしれません。今どきそんな「職人の魂」とか「お客様のために誠心誠意」なんて本気で考える奴は馬鹿だよ、結局金だよ金、金がなかったら潰れちゃうんだから、金しかないでしょう?ってことなんだろうけど、そこまで吹っ切れないよな。この感覚って単に「古臭い」の一言で葬り去って良いものなのか?

 いや、実は、これこそ最も新しい感覚なのかもしれないぞ、というのが今回の拙文のテーマです。

現在の世界不況

 ちょっと前のエッセイに書いたGFC2(世界経済危機第二章)も、ひたひたと迫ってくるような不気味さがある今日この頃ですが、しかし、こんなにモノが有り余って、食品だって有り余って、生活も便利になっているのになんで不況になるの?なんでビビらなきゃいけないの?という根本的な疑問はあります。

 現在取り沙汰されている不況は、モトを質せば金融不況でしょう。産業革命+資本主義によって「生活のための生産」→「利潤のための生産」に変化しちゃったというのは既に書きましたが、今では産業資本主義を通り過ぎて金融資本主義になってます。労働者を搾取して安価に商品を生産してという発想が懐かしいくらいのもので、生産や労働という行為を通じて「儲ける」のではなく、もうダイレクトに投資/投機で「儲ける」だけになってる。もう20年も前から、世界でお金が流れているうち実体経済(輸出入をしたから決済として送金するような場合)は1%以下と言われていました。99%は投機マネー。為替相場も実体経済やファンダメンタルと関係なく動いている。今の円高だって、日本の将来性が高く評価されているからではなく、単にリスク回避の「ちょっとタイム」的なマネーが雪崩れ込んでるだけでしょう。

 でも、投資といい投機といい、要するにバクチです。いまや世界はバクチ経済の上に乗っている。GFC1だって、もとはサブプライムローンでCDSとかいう新型金融商品で大バクチ打ってて収拾がつかなくなったのが原因です。世界人口でいえば0.01%にも満たないバクチ打ちの連中が遊んでて大火事を出して、それで皆の住んでいる家が焼けているようなものです。GFC2だって、GFC1の火消しで世界各国が財政出動をした無理が今になって祟ってるだけのことで、どこまでいってもモトはバクチの失敗です。こんな下らない理由で世界中で何百万人という人が失業したり、あるいはそれを苦にして自殺したりせなならんのか?という。

 金儲けは面白いし、それを目的にする人生もアリだと思うけど、関係ない人にあまり迷惑をかけないでいただきたい。何が一番の迷惑かといえば、不況とか失業とかではなく、人々に人生や仕事その他のイトナミの意味性を失わせることです。

 例えばここにファミリービジネスがあります。家族皆が力を合わせて、一生懸命働いてました。品質も良く、サービスも良いので顧客が増えてきました。ここまでだったら、ちゃんと頑張ったらイイコトがあるぞという人生の意味性が分かりやすいです。頑張ろうかなって気にもなるし、希望も持てる。ここでダイエーのような大型郊外店が出来て、どんどん閑古鳥が鳴くようになり、経営が苦しくなりましたとなると、地道にやっててもダメ、しょせん個人では限界があるってことになります。しかし、それはまだ商業という原理の上のことで、まだしも理屈は通る。大口の取引先が倒産したので連鎖で倒産しましたとか、空洞化が進行したので顧客企業が激減したので潰れましたというのもまだ分かるし、やりようもある。

 しかし、いっときのアジア通貨危機のように、ハゲタカファンドの集中投機によって国の経済が乱調を来たし、その煽りを食らって倒産するというでは、納得しにくいと思うのです。まあ、大規模な環境要因によるものは、地震のように一種の天災なのだと割り切る考え方もあるし、文句をいっても始まらないのだが、しかし、国家も社会も企業も土地も、この世の全てをバクチの対象としか捉えない連中の火遊びによって、営々と築いてきた自分のお店を潰されたら「ばっきゃろー」の一つも言いたいでしょう。当時のマレーシアのマハティール首相も「ばっきゃろー」って叫んでましたね。「国際的山賊団(international brigandage)」と。

 押し寄せてきている世界不況によって割を食らう人々の数はかなりのものになるでしょう。しかし、こういうのっていいんか?幾ら一生懸命仕事を頑張ろうが、どっかの誰かの後始末でひと波来たら全部流されてしまうのって、世界や人生のあり方として正しいんか?「正しい」かどうかは、まあ、分からないまでも、「楽しいのか?」「やる気が湧くか?」と。僕としては、「ええ加減にせんかい」と言いたい。

「愛」という名の通貨

 
 だからといって何も資本主義を止めろとか、通貨を全廃しろとか、儲けた奴は死刑とか、そんな過激なことを言うつもりはないです。ただ、本来の原点、「楽をしたい」「いい気持ちになりたい」から働くんだろ?という、人類の原点&王道をもう少し思い出してもいいんじゃなかろか?ということです。

 思うに人間というのは、時として無意味にムキになって暴走するという悪癖があります。オーバードライブする。本来100しか必要ないのに、100取れた時点で止めないで、意味なく200も300も取ってしまう。食糧ゲットのために釣りに行ったら、入れ食い状態になって面白くなってしまって、食べきれないほど釣ってしまった、、、くらいだったらまだしも可愛いです。魚だったら目に見えて「無駄」というのが分かります。でも、「通貨」「利潤」というのは魚と違って観念的な存在だから際限がない。人間の無駄暴走をエンドレスに過熱させてしまう原子炉みたいなものです。

 大体さあ、ハゲタカファンドやってる人達って何であんなことやってるの?自分らだって高給取りだし、もう十分なくらい稼いだでしょうに。それに投資している超金持ち達だって、使い切れないくらい金を持ってて、まだ増やしたいのか?だからもうTVゲームのハイスコア心理になってるのでしょうね。際限なく無駄に暴走するということです。

 もともと「通貨」というのは交換を便利にするためのツール、カジノにおけるチップみたいなものなんだから、その程度の存在として押しとどめておけばいいのだ。バクチやりたいならご自由にだし、それで身上潰すのもまたご自由にだけど、真面目にやってる人達の人生を破壊する権利はないぞ。山賊よばわりされたジョージ・ソロスでさえ「何らかの国際的規制は必要」と言っているし、このまま他人のバクチに振り回されるのは何とかしようぜ、と思うのです。

 と同時に、大した資金も持ってない僕ら(あなたは持ってるかもしれないけど)が、世界の風潮に染まってギャンブラーになるのではなく、そのぶん原点回帰をしたほうが良いのではないか。その方が現実的だし、生産的ではないか。

 とまあ抽象的に言ってても分かり難いので、「例えば」としてのお話です。
 例えば、自分だけの通貨を作ったらどうか?と。

 「通貨」というものを、単に印刷された紙幣とか、丸くて平べったい金属であると限定しなくてもいいのだ。自分だけで色々な「通貨」を作って、自分なりの価値体系を構築したらいいんでねーの?と。

 何を素頓狂なことを言ってるかというと----
 例えば、あなたが好きで好きでたまらない恋人やら、家族がいたとします。その人を喜ばせてあげようと思って、あなたはセッセとチャーハンを作ったり、何軒もハシゴしてプレゼントを見繕ったりするわけでしょう?これも一種の「労働」ですよね?じゃあ、その労働の対価として支払われるご褒美(通貨)はなあに?その人の喜んだ顔でしょう。「わあ!」と目をキラキラさせて喜んでくれる一瞬、そのスマイルを求めているんじゃないか。だとしたら、そのスマイルは、あなたにとっては「通貨」同然、いや通貨以上の価値があるでしょう。

 まあ、他に流通しっこないし、交換もできないから、言葉の本来の意味での「通貨(流通貨幣)」ではないですけど、「お金みたいなもの」「お金よりも大事なもの」じゃないですか。「お金よりも大事」というとキレイゴトっぽい響きがあるけど、でもでも、稼いだ金を使ってプレゼントを買ったりしてスマイルをゲットしているのだから、スマイル>お金でしょう?スマイルを犠牲にしてお金を得ているわけではない(愛してる人を売春宿に叩き売ってお金を得るとか)。どっちが大事か?ですよ。より大事な方がより価値がある。価値序列をハッキリさせようぜ、ってことです。

 そして、これだけの努力をすると1スマイルをゲットでき、もっと頑張って○○までしちゃうと、なんと3スマイルも貰えちゃう。逆に言えば、3スマイルをゲットしようとすると、相当に頑張って「働く」ことが求められるわけで、要するに、ね、お金みたいなものじゃないですか。

 ステージでキャーキャー言われるのを夢見て必死に練習しているバンドの人は、ステージでの「キャー」が貨幣単位です。今日は頑張ったから3キャーくらい稼げたよな、とか。

 タイトルの「愛という名の通貨」というのはそういうことです。別に「愛」でなくてもいいんだけど、象徴的に。

 資本主義や金融経済の毒性も有用性も知った上で、それを矯正する社会的なムーブメントがあれば支援するなり、興味を持って見守ればいい。一挙に全ては解決しないだろうし、解決するかどうかも不明だけど、それはそれ。だけど、自分のテリトリー内においては、その有害無益な副作用や影響力を減殺して、自分の納得できる本来の価値体系にキチンと整理しなおそうじゃん、ということです。少なくとも世界のアタフタにこちらまで全面的に呑み込まれ、押し流されるこたあないぜよ。お金がないのは大変だけど、でも言い換えれば「金がないだけ」なのですよね。お金がないと全てが無くなるわけではない。

 そんなこと言えば、人類の長い歴史の上で通貨が我が物顔でのさばってきたのはごく最近のことでしかない。日本でも古くから和同開珎という通貨はあったけど、実際には今ほど流通はしてなかった。江戸時代ですら、支配階級の武士のサラリーは「米」だもんね。藩という企業規模も「○万石」だし。藩は藩で藩札を出してたし、明治以降も軍票という軍だけの通貨があった。お金って、実はけっこういい加減に発行されて、いい加減に消滅したりしてます。

 もっと原理的にいえば、お金というのは交換機能がある(使える)からこそ価値がある。欲しい財物をゲットできるという交換機能が本体であって、交換できないお金はお金としての価値がない。ということは、世界のあらゆるものよりもお金の価値は低いということになるでしょ?お金によってゲットしたいモノに価値があるのであって、通貨それ自体に価値はない。通貨は、ガラスのように無色透明であり、鏡のように交換対象となるモノの価値を反映しているだけです。要は金が大事なのではなく、金によって交換したいモノが大事なんでしょ。

 だったら、通貨を媒介とせずに、その大事なもの同士を直接交換したり、あるいは「交換」すらせずに貰ったり、あげたりしてもいいわけですよね。

 理屈はそうだが、そんなことが現実にあるのか?というと、これが大アリです。
 その昔は、労働と食糧の交換とか(田植えを手伝ってメシを食わせてもらうとか)、住み込みで丁稚奉公して働くかわりに食わせて貰うということが日常的にあった。「書生さん」という存在もあった。お坊さんの托鉢なんか一方的に贈与するだけだし、寺社への喜捨寄進もそう。隣近所への「おすそわけ」も贈与、「恩返し」に類する行為もそう。このように善意と善意の交換であったり、さらには「交換」ですらない一方的な無償の善意というのは、実はけっこうあります。

 現在でも、「こないだはおごって貰ったから、今日は俺が出すよ」という普通の貸し借り感覚はありますよね。それに、「いや、これだけしていただいたら、もう○○は結構です」という独特の貸借対照表みたいなものもある。こんなもん誰にだってある。やれ「差し入れ」とか「陣中見舞」とか、わけわからん名目を付けては、人は人に何かをあげたがる。「頑張って〜」って言ってあげたい、形にしたい。マラソン大会で頑張って走ってる人がいたら、沿道で小旗の一つ、拍手の一つもしたくなる。カンパも寄付もそう。オーストラリアで非常に盛んなボランティア活動もNPOもそう。オージー、仕事はいい加減だけど、ボランティアは超真剣だもんね。


 こんなメルヘンチックで浮世離れしたことを僕が書いているのも、今オーストラリアに住んでるから、そして日常的にワーホリさんや留学生さんのお世話をしているからこそしょう。彼らのオーストラリアの第一歩では、「交換ですらない無償の善意」に数多く出会います。シェア探しの段階でかなり出合ってないと嘘です。「なんで皆こんなに優しいんだ」とちょっと理解に苦しむくらい。そしてまたラウンドに出たら、ウーフやヘルペックスのように、住み込みで働くけど、その代わりメシも食わせて貰うという、お金を払いも/貰いもしない、つまり貨幣経済とはスッパリ隔絶された世界がある。滞在期間中、ついに財布を見る機会もないという。あるいは、居心地のいいバッパーで、フリアコで掃除労働とバーターで無料で泊めてもらい、他の滞在仲間と親しくなり、自炊している人達から「ちょっと食べる?」といってお裾分けを貰い、夜になって皆と座っているとどこからともなくビールが廻ってくる。でもって、自分がいい仕事にありつけてお金があるときは、ビールをカートン買ってきてドンと置いて「皆で飲んで〜」とやるという原始共産制みたいな社会。お金を全く使わずになんとかなってしまう。別に幸せになるのにお金って要らないんだ、どうかしたら無い方がハッピーになりやすいという体験をします。

 これは単に若い時期の放浪旅行の楽しいエピソードというのだけではないです。そういう体験って、これからの時代、とっても大事なことだと思うのですよ。なぜならバクチ性金融経済の波浪が高くなるであろう将来において、金の上下動をモロに受けると船酔いしまっせ。衝撃を緩和するサスペンションが必要でっせ。それは何かというと、「貨幣以外の通貨」をどれだけ持っているか、どれだけ体験して知っているか、です。

 そういう体験を経て、そういう視点を得たら世の中の見え方が変わってくるでしょう。  実はゼニカネ以外のアクティビティで、人生の芳醇な部分は廻っているのだ。その芳醇な部分を支えるインフラというか、「小道具」として通貨があるだけのことなのだ。それだけのことなのだ。それが本来の姿であり、そして一見分かりにくいけど、よくよく見たらそれが現実の姿でもあるのだ。

 聞いた話だけど、旅先で出合った人(フランス人かどっかの)がいみじくも名言を吐いたそうです。「お金?あるよ。ただ俺が持ってないだけ」「世間には沢山お金が出回っている。幾らでも手に入るんだから焦ることはない。必要なときに必要な分、正しいダンドリ(働く)で取りに行けばいいだけ。今はそんなに必要じゃないから世間に”預けて”あるよ」と。

 そういえば書いていて思いだしたのですが、大学を自主留年する際(当時は年間授業料1万円程度で留年出来た)、いよいよ正規卒業を棒に振ってまで司法試験をやるという暴挙に敢えて挑戦するとき、自分なりに「腹括り」をしました。もしダメだったらどうする?人生メチャクチャになるけど、それでもいいんか?と。

 そのときに思ったのは、「好きな女の子とギターがあったらいいじゃん」と。ギリギリ詰めていけば、それだけあったら俺の人生はOKだし、ゴキゲンにやっていけるだろう。カッコつけて酔ってるわけでもなく、レトリックでもなく、真剣に考えていくほど「まあ、それだけっちゃそれだけだよな」と思い至ったのですね。幾ら考えても、好きな人がおって、「これさえやってればゴキゲン」というものが一つあったら、それでいいんじゃないの?と。それ以上に何があんの?フェラーリに乗りたいとか、プール付きの家とか、駅前に自分の銅像たてたいとか、そういうのは無いし。「なあんだ」と思ったもんです。

 だから所詮は試験ごときに受かろうが落ちようが滅茶滅茶になんてなりっこない。目指すべきゴールはその2点だけで、それ以外は全部暇つぶし、余芸。しかし、ヒマツブシだからこそ超真剣にやる、超真剣にやらんかったら良質のヒマツブシにもならんし。今から思うと、それが僕の「通貨」だったのでしょうね。そしてそれはあんま変わってないかも。まあ、お金には相変わらず四苦八苦してますけど、四苦八苦すりゃいいだけのことですから。




文責:田村



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