緊迫感、あるんだか、無いんだか
「サラリーマン」を絶滅危惧種になぞらえて語るのは、別に僕のオリジナルではなく、かなり昔から多くの人々が語っています。2013年現在においては、むしろ「何を今更」的な話題かもしれません。
でも、この種の話はもっと語っても良いと思うのです。およそ殆どの人が影響を受ける話なんだし、「あ、そう」で片付けられるような話題でもないでしょう。それに、そういう時代の流れがあったとして、@何でそうなるの?Aどの程度の規模でそうなるの?Bじゃどうしたらいいの?という部分、特に@→Bになるほど語られてないし、通説的な答えもない。
これって、「近い将来、首都圏にも大地震が来るらしいよ」「そうだよね、来てもおかしくないよね」という会話みたいに、キンパク感があるんだか無いんだかよく分からない感じに似てます。特に首都圏で稼働している人の場合、真剣にドカンと来たらタダゴトでは済まない〜生きるか死ぬかの大問題であるにもかかわらず、アドレナリン出まくりって感じにならない。一つには、本当にそうなるの?というと「らしいよ」という確率の問題があるのでしょう。それ以上に、じゃあ首都圏離脱といっても、現在の就職状況下ではおいそれと移転先(+就職先)が見つかるとも思えない。探すだけでも一苦労だし、何処へ?と考えるだけでも雲を掴むようで、ハッキリ言って対応できない。対応できないことを言われたってどーしよーもないから、それに応じて緊迫感も「そうだよねえ」という微妙な感じになるのでしょう。これは分かる。
いわゆる「サラリーマン」という日本人の生計パターンが、将来的に完全消滅とは言わないまでも、かなりのレベルで衰亡、少なくとも変化していくということは、これまでの日本人の人生攻略スタイルが、かなりのレベルで通用しなくなるということでもあり、これは多くの人にとっては「えらいこっちゃ!」でしょう。でも、じゃあどうするの?という部分は、開拓前の北海道の原野のように手つかずのままで、これといった国民的なコンセンサスも出来てないし、抜本的な政治的な対応もなされていない。
だからちょっと考えてみます。まあ、考えるといっても経済統計を引っ張り出してギンギンに論じるというよりは、「いやあ、○○なんじゃないスかねえ?」くらいの雑談レベルで。
サラリーマンとは何か?
サラリーの有無ではない、お気楽要素
まず、「サラリーマン」という概念ですが、これがわかったようで分からんです。
以前、「正社員」という法的な裏付けなど何もなく、あんなの共同幻想に過ぎないと書きましたが(
Essay574:マボロシの正社員)、「サラリーマン」に至っては、さらに文学的、幻想的な概念だと思います。まあ、多分に感覚的なコトバです。「エリート」とか「美人」くらいの一般名詞。
まず「サラリー(給与)」を貰っていれば誰でもサラリーマンか?というと、それは違う。なぜなら内閣総理大臣にだって給与は出るのだけど、首相とサラリーマンはどう見ても違うでしょう。また創業者社長と対比して「サラリーマン社長」とか言われますが、創業者だろうが何だろうが社長と名が付けば役員報酬(サラリー)を貰っているわけで、ここでもサラリー(給与)は決定的な要因ではない。また「最近の○○(教師とか刑事とか)はサラリーマン化してきた」という言い方がありますが、昔の刑事だってサラリーは貰っていたのであって、ここでのポイントは「職人気質の希薄化」でしょう。つまり、「サラリーマン」と言いながらも「サラリー」は本質的に関係ない!という凄い話になるわけで、サラリーマン概念は、しょっぱなから大きな亀裂が入ります。
思うに、「サラリーマン」という概念には、仕事に対するややヌルいスタンスが含まれているのでしょう。
かつて植木等が「気楽な稼業ときたもんだ」と歌ったように、また「サラリーマン根性」と時どき軽侮を含んだ言われ方をするように、「給料の分だけ仕事(らしきこと)をしていれば、それでいいのさ」という、どこかしら生ぬるく、お気楽な要素を含んでる。この「お気楽」ファクターは、サラリーマンという概念の「属性」ではなく「本質」でしょう。お気楽ではなくてはサラリーマンではない!という。
日本の庶民のほろ苦い自画像
この「気楽さ」は、必ずしもポジションとしての「おいしさ」を示すものではないです。気楽である分、それに見合うだけのデメリットはきっちりある。まず給料以外の所得がなく、その給料も大体において「安月給」といわれるのが通例でした。可処分所得が低く、奥さんもらった「おこづかい」で汲々とし、ファッション的にも「ドブネズミ・ルック」とすら言われた灰色の吊しの背広、昔の日本語でいえば「ぱっとしない風采」「うだつのあがらない」、エラいさんの前では「米つきバッタのようにペコペコ」するという。
そう、サラリーマンというのは、戦後経済復興してからバブル期頃までの平均的な日本人、いわゆる「庶民」の自画像のようなものであり、江戸時代における「町人」みたいなものだったのでしょう。エラくないこと、パッとしないこと、ダメ気味な部分を、やや自嘲気味にアイデンティティにするようなニュアンスがあります。
そのあたりはサラリーマン漫画といわれる一群の作品を見ても窺われます。今の若い人は知らんと思いますが、初期のあまり屈折してなかった頃は「サザエさん」の波平&マスオさんの「普通に働いている感覚」でしたが、それが徐々に屈折してくると、東海林さだお「サラリーマン専科」やら「フジ三太郎」やらになり、もう少し豊かな時代になると「釣りバカ日誌」のようになるのでしょう。釣りバカ日誌には、会社人間や仕事人生に対するアンチテーゼという側面が強くなってきます。仕事なんぞに自己実現なんかしてたまるか、という。
僕もまだガキだったし、ウチはサラリーマン家庭ではなかったのでよく分からんのですが、60〜80年代の「サラリーマン」という概念は、平均的な日本人像であり、それが平均的であればあるほど微妙にネガティブな要素も入ってくる。それは社会の平均的大多数を占める人々を表わすのに「庶民」「大衆」「平凡」という言葉を使いますが、そこにはマジョリティゆえの優越性というニュアンスはなく、微妙に「雑魚キャラ」的な屈辱感があります。「キミのような庶民/凡人にはわからない」と言われると、カチンときませんか?
つまり「サラリーマン」とは「普通の人」であり、それが一握りの上流エリートと対比して語られるときは、うだつのあがらない小市民であり、いわば「(普通の)負け組」として描かれる傾向があった。それでも人生なんとかなったという意味では「勝ち組」ではあったんだろうけど、あんまり「勝ち」的なニュアンスはなかったと思います。というのは、普通に就職できていた当時の「負け組」って誰だったのかよく分からないからです。おそらくは犯罪者とか前科者とか、浮浪者とか乞食とか一種の落伍者みたいな想定のされ方であり、だからそれに比べて「勝ち」という意識はあまり無かったでしょう。
なお、エリート層とサラリーマン層以外には、昔ながらの職人集団がありますが、これはこれで別次元に存在していたと思います。大工や板前さんなどの昔ながらの手に職系、あるいはスポーツ選手や芸能人。また同じ給与所得者であったとしても、刑事や消防士、看護士、パイロットなどは一種の技術職であり、「エラい人VSサラリーマン」とはまた構図が違う。そこに勝ち・負けという視点はあんまりなかったんじゃないかな。
前のエッセイ(577「お勉強」的方法論)で書いたように、漫画「庖丁人味平」のオヤジさん(日本一の板前)が、息子には板前ではなく「立派な大学をでた立派な会社員」になってほしいと夢を語るシーンがあり、その意味ではホワイトカラー優越感覚はあったのでしょう。でもそれは「エリート会社員」の話であり、ここでいう一般的な「サラリーマン」というのは、そんなに立派な大学もでておらず、そんなに立派な会社員でもない人達のことですから。まあ良い勝負だったと思います。そのものズバリの漫画の画像を見つけましたので、右に上げておきます→。こんなビジュアルイメージだったんですよね、1973年当時は。今も変わらないか?
勝ち組/負け組という日本人のフェバリットな二分法がありますが(バブルの頃はマル金/マルビ=貧乏というもっと露骨な言い方だったな)、無自覚に使われる場合が多いのでしょうが、問題は「勝者比率」をどの程度に想定するかです。もし勝ち組が1%以下で、人口の99%は負け判定されてしまう場合と、逆に勝ち組が99%で負け組が1%以下である場合とは、ぜーんぜん話が違うと思うのですね。でも、歩合99対1くらいになってくると、勝ち負けを言うこと自体リアリティがなくなります。そして「一億総中流」と言われた時代に、勝ちも負けもなかったように思います。今リアルタイムで勝ち組とか言われているのは、どのくらいの勝敗レシピーなんだろう?
サラリーマンからビジネスマンへ
さて、以上のような古典的な意味でのサラリーマンは、バブルの頃にカッコ良く昇格し、世界を舞台に24時間戦いまくる「ジャパニーズ・ビジネスマン」になってました。大手商社を描いた「なぜか笑介」やら、大手電機メーカーを舞台にした「課長島耕作」のように、サラリーマンは、ビジネスマンとしてカッコいい存在になっていった。
でもって、「デキるビジネスマン」になるためのアレコレの雑誌やら、小物やらが大量に売り出されます(システム手帳やら、ザウルスやら)。この頃は僕もリアルタイムに体験してますが、仕事をすることがカッコいいことだった。あるいはカッコよく仕事をしようとし、カッコいい仕事が持て囃された。勿論リアルにはそんなことなくて、トホホに泥臭いんだけど、それでも「仕事=カッコいい」というフォーマットはあった。そのフォーマットに乗って「カッコいいビジネスマン小物」を扱う雑誌も山ほど出てきた。これはフジ三太郎時代にはなかった構図でしょう。
しかし、そんなに無邪気に喜んでられたのも、バブル崩壊〜失われた10年くらいまででしょう。特に崩壊後の10年間で、「いいかい、時代は変わったんだよ」と繰り返し諭すように言われ続け、その種のチャラいムードは大分消えていったように思います。
このフジ三太郎的・大衆的サラリーマンと、島耕作的なビジネスマン像は、A→Bと変化したのではなく、Aだったものに新たにBが付け加わったのだと思います。昔ながらの「気楽な稼業」としてのサラリーマン像は消えることなく存続していたけど、それに付加する形でカッチョいいビジネスマン像が加わった。ただ、この加わったことで、サラリーマンの本質の一つである「国民の平均的自画像」という要素は揺らぎます。「サラリーマン」という概念は、90年代にはもう時代後れのものになりつつあったのかもしれません。あるいは、同じ事務系の給与所得者を指して、ポジティブに表現するときは「ビジネスマン」といい、ややネガティブに表現する場合は「サラリーマン」と言ったのかもしれない。いずれにせよ、どっちもフェイドアウトしていきます。
そして正社員と派遣へ
2000年以降新たにてでてきたのが「正社員」「派遣」という区分法であり、これらが従来の「サラリーマン」に対応すると思います。どちらか一方がサラリーマンの継承者というのではなく、両方対応すると思います。いわば、分割されたのでしょう。
サラリーマンの本質的な要素=「普通」「マジョリティ」という部分ですが、今はまだ正社員の方が多いかもしれないけど、若い世代に限っていえば、もうどちらが多いともいいがたいでしょう。ちょうど今くらいが過渡期・端境期だと思いますが、将来的には派遣などの「非正規」形態の方がより「サラリーマン」の正当継承者になっていくのかもしれません。すなわち「マジョリティであるがゆえのトホホ感」というサラリーマンのDNAの継承者です。
もっとも、「正社員」なんていう概念そのものが何ら法的な裏付けを伴わない幻想であり、正規・非正規という区分自体がナンセンスな部分もあるのですが(
Essay574)、それを言うなら「サラリーマン」概念を裏打ちするこれといった法的規定も無かったわけで、その意味では似たり寄ったりです。
しかし、正社員であれ派遣であれ、かつてのサラリーマンが持っていた「お気楽DNA」はありません。正社員といえども安閑とは出来ず、いつクビを切られるかわからないリストラ予備軍であり、会社に残ったとしてもリストラによって人数が減った分だけ自分の作業量が異様に増えて、愚痴をいう相手もいないという過労&鬱病予備軍だったりします。まあ、かなり漫画チックに書いてますが、でもかつての「お気楽さ」は影も形もないでしょう。もっともお気楽な筈だった(失業懸念が少ない)公務員だって、今はどうなるかわからんし。
一方派遣その他の場合は、リストラ以前にクビそのものが未だコネクトされていない不安定なニュアンスがあるし、この先昇給やキャリアなど時間とともに積み上がっていくものがない。それどころか時間と共に、未だに年齢制限が厳しい日本の場合、再就職可能性が刻一刻と減っていくという意味で、時が経つほどに不利になるということで、これも「お気楽」というニュアンスからは100光年くらい離れています。
要するに今の日本で「お気楽」にやってる人などあまりいないところ、サラリーマンが「国民の平均像」&「お気楽」性を中核にするならば、そんなサラリーマンなど、絶滅「危惧」どころか、とっくの昔に絶滅しているといっても良いかもしれません。
音楽は終ってもメロディは残る
ただし、実体はなくなっても記憶は残る。村上春樹の表現を借りれば「音楽は終った。しかしメロディはまだ鳴り響いている」ということで、かつてのサラリーマン的な記憶とノウハウ、かつてのビジネスマン的な記憶とノウハウは未だに残っているのでしょう。
それは例えば「普通にやってりゃ正社員になれる」とか「大企業に入れば安泰だ」とかいう”感覚”として残っているでしょう。また、仕事では、面白くて、格好良くて、スリリングなものがあるという、島耕作的幻影を未だに抱いている人もいるでしょう。
でもって、それらが100%間違っているわけでもないからややこしいのですね。
例えば、「普通にやってりゃ」という「普通レベルの錯誤」があります。いわゆる有名企業、就職人気ランキングで上位になるような企業に堂々と入ろうと思えば、誰もが正社員になれた「古き良き時代」であっても、普通どころか「異常」な能力と努力が必要だったでしょう。ハッキリいって全然「普通」ではないです。そもそもあの当時に大学、それも有名大学に行ける時点で、中学でクラスのトップグループ、同年代のいいとこ上位数%でしょう。さらに就職戦線を勝ち抜いて出世競争を勝ち抜いてと絞っていけば、さらに比率は減る。1%いくかどうかでしょう。それらを「普通」と呼ぶのであれば、今だって「普通にやってれば」就職することも、一生仕事に困らないことも、別段それほど困難ではないでしょう。
そんな「異常」な彼らでも、それでも絶対数でいえば数万人はいるし、全世代ひっかき集めたら数十万人はいる。人口1億からすれば極端少数派でしかないにしても、それはそれで結構な数の集団になる。でもって、大手マスコミもその中に入るわけで、人口構成でいえば超マイノリティである彼らの「異常な常識」を、発言力があるがゆえにあたかも「日本の常識」であるかのように流布しているキライがあると思います。だって、相も変わらず「東大合格者ランキング」とか「上場企業ボーナス」がどうしたとか、そんなのエリート村のローカルニュースでしょうが。
その一握りの「彼ら」の”いびつな”感覚で語られる「普通」を基準にしてたら、そらしんどいですよ。就職ランキングとか超有名企業がズラリと並ぶけど、あんなの意味あんのか?って昔から不思議なんです。就活に臨む全体数からすれば、本当にそこに就職できる人なんかコンマ数%の比率でしょう。にも関わらずああいう結果になるというのは、超マイノリティの「異常な普通」が一般常識を浸蝕している、つまり「普通の錯誤」が起きているんじゃないかと思われるのです。
また、ビジネスマン的にスリリングでエキサイティングな仕事というのは、いつの時代もあるのであって、別に死に絶えたわけではない。むしろ単純事務作業がOA化されるにしたがって、よりクリエィティブな部分は増えたかもしれない。しかし、「やりがい」のある仕事というのは、それがこなせるくらいの有能&優秀な人でなければそうは感じない。有能でなかったら単なる無理難題やパワハラにしか思えないかもしれない。一人ぼっちで中国の荒れる現場に飛んで「なんとかしてこい!」なんて社命、その人が有能だったら「面白い仕事」だろうけど、そうでなかったらイジメにしか思えないでしょうな。
したがって、サラリーマン的な「普通にやってりゃ」感覚も、島耕作的な血湧き肉躍るビジネスシーンも消滅したわけではないのです。あるところにはある。ただしそれは一部である。
そして一番問題なのは、それが一部に過ぎないという正確な「縮尺感覚」が狂っているような気がする点です。もともとナチュラルに狂っているのが、ここ20年で誰も彼もが大学に進むようになって一層狂ってきている。そして本家のエリート村でもかつてのような美味しさも、席数も減ってきている。
実体が衰亡しているのに感覚だけが肥大化していくという異常な逆転現象はなぜ起きるかといえば、「メロディ」だけ鳴り響いているからでしょう。実体に裏打ちされない「記憶」とか「感覚」とか、そういった「おはなし」的な部分だけが一人歩きしているからでしょう。
端的にいって、今の日本社会で「普通」って何なのか?もう誰にも分からなくなっていると思います。それは世代により、自分の経験により、価値観によりバラバラでしょう。もう「普通って何よ?」みたいな、「普通」が幾つもあるかのような、交錯した状況になっているのでしょう。それが話を一層ややこしくしているのだろうなと思われます。
サラリーマン概念に即していえば、「普通の別名・代名詞」のような「サラリーマン」概念が、昨今の「普通」概念の混乱によって、徐々にパワーを失い、衰弱していくのは、当然といえば当然なのでしょう。
なぜサラリーマンは絶滅するのか?
これはもう割愛してもいいですよね。多くの人が言っているし、過去のエッセイにも何度も似たようなこと書いてるし。
でも重複覚悟で幾らか書くと、一番大きいのは、科学技術や経済構造の変化によってビジネスのやり方が変化したからでしょう。特に先進国では。オフィスはOA化やIT化、工場などではロボット化し、生身の人間がそんなに要らなくなってきている。というか、要らなくなるようにしてきた。その昔は伝票整理といって、朝から晩まで伝票を帳簿に手書きで書き写す「だけ」という職種もあったわけですよ。パソコンなかったし。コピーといえば真っ黒なカーボンコピーを下敷きにした二枚複写で、今では現物を見たことない人だっているんじゃないかな。メールアドレスの「CC(カーボンコピー)」に僅かに痕跡を留めていますが。工場だって、何から何まで人手でやってて、自動で動くのはベルトコンベアだけみたいな。警察の捜査の指紋の照合だって、昔は人力で一枚づつ照合という気の遠くなるようなことやってたんだし。
まあ、今でも日本は紙に対するノスタルジックな愛着があるのか、先日のオーストラリア新聞のコラム記事で「なぜ日本では未だにFAXを使うのか」というのがあったくらいです(
The joy of fax: Why Japan refuses to enter the 21st century (FAXの愉悦:なぜ日本は21世紀になるのを拒み続けるのか)。だからOA化といいつつも、昔ながらの書類編纂作業は残っており、それが雇用確保に一役買っているのでしょう。これがドラスティックに合理化したら、もっともっとサラリーマンは激減するでしょう。
ロボット化も凄いものがあって、工場の無人化は当たり前、今ではロボットがロボットを作る工場なんかもあるそうです(2011年稼働のファナック山梨工場)。また物流における自動化もよくニュースになってますよね、アマゾンとか。病院での食事の運搬もロボットがやるとか(アメリカのAethon社)
経済構造の変化も色々あります。人件費の安い国に外注に出せばいい、そこで作ればいい、売ればいいということで国内の仕事そのものが減るとか、少子高齢化で国内需要も減るとか、つまりは仕事、それも人手仕事が減っていくということです。いずれにせよ資本主義(安く作って高く売るゲーム)をやってる以上、経費削減は大きな柱になり続けるだろうし、機械あるいは海外によって経費削減できるならそうする。だから仕事が減る。
もっとも、だからといって国内の仕事がゼロになるなんてことは無いです。それは絶対にない。逆に増えている仕事だってあるでしょう。要は「変化している」ってことなんだろうけど、従来のサラリーマン的な文脈でいえば減っている、絶滅に瀕しているってことなのでしょう。
何が問題なのか〜人生フォーマットの消滅
さて、そういったゴリゴリの経済論はさておき、「サラリーマン」というやや幻想的&文学的な概念でいえば、その中核にあるのは(繰り返しになりますが)、
1、普通にやってりゃ誰でも出来るという普遍性、
2、仕事もそれほどキツくなく基本的にはお気楽なものであること、
でしょう。ビジュアルイメージや属性としては、「カイシャに入って」「ネクタイやストッキング穿いて」「給料を貰う」ということなんだろうけど、それは本質ではない。いくら属性面が満たされても、それが1万人に一人という狭き門になってしまったらもうサラリーマンではないし、仕事内容も激務で二人に一人は過労死か殉死だったら、それもサラリーマンではない。
つまり、サラリーマンという概念には普遍性と気楽性があり、さらにそれを合体すれば
「人並みにやってれば人並みに人生OKさ」というぶっ太い人生街道です。「これさえやってれば、あとは難しいことを考えなくても良い」というお手軽さ。何も考えずに勉強して良い学校に入って、良いカイシャに入って、頑張ればそれでいい。その頑張り度によって中の上か中の下かは決まるが、基本はそれで良いという。すごい楽ちんな大街道があった。そして、それが消滅するということは、人生(生計)の方法論そのものが抜本的に変わるということです。これはもう革命的にデカい変化なのでしょう。
しかも「変わる」のではなく「消える」かのように思える点が大問題なのでしょう。「変わる」だけだったらまだしも対応できる。農業漁業の一次産業(後を継いで百姓をやる)→二次産業(町に出て工場に勤める)→三次産業(企業に入ってホワイトカラーになる)という具合に、次の行き先が見えるときは、それほど迷わずに済む。皆と一緒にそっちにゾロゾロといけばいいだけです。でも、今は次の行き先が見えない。四次産業があるわけでもないし、それまで皆とゾロゾロ歩いていた大通りが段々狭くなったり、舗装が途切れてきたりして心細いことになっている。でも次が見えない。
これをコトバを換えれば、「皆と一緒にやってれば大体OKさ」という日本の「皆」主義、宗教法人日本"皆"教みたいなものの消滅。それに伴う、
知的&精神的なイージーさの消滅でしょう。自分で決めなきゃいけない。それも一人ぼっちできめなきゃいけない。しかも全責任をひっかぶらないといけない。これは頭も使うし、心も使う。
じゃ、どうするの?
サラリーマンがフォーマットになること自体がおかしい
僕自身サラリーマンというのをやったことがない、、、強いて言えば2年間の司法修習くらいかな。イソ弁時代もサラリーは出てたけど、個人収入も平行してあったし、技術職的側面も強かったし、それ以前は普通のバイトだし、こっち来てからは自営だし。最後に「給料」というものを貰ったのは18年以上も前です。それ以降、給料というものを貰ったことはない。そういう僕から見てると、サラリーマンが普遍の人生フォーマットになること自体、ちょびっと違和感があったりします。
人間が生きていくためには食糧など物資は必要で、それを生産採取するだけではなく、他者と(等価)交換して得なければならない、すなわち何らかの経済活動が必要、ここまでは万人にほぼ共通するでしょう。その交換形態は古典的な物々交換でもいいわけですが、かったるいので貨幣という媒介物を入れる(貨幣経済)。で、貨幣をゲットする活動(稼ぐ)、貨幣を使う(消費)という二面に分れ、稼ぐ活動がいわゆる「生計を立てる」ことです。
でも貨幣をゲットするのは、実に色々なやり方があります。一件いくらの請負仕事で報酬を貰うとか、右から左に商品を売りさばいて利潤を得るとか、他人と交渉・成約して一定の歩合を貰うとか、印税や著作物のようなロイヤリティを貰うとか、何かを教授して月謝を貰うとか、お金や物資を他人に貸して賃貸料や利息を貰うとか、投資してリターンを得るとか、、、もうその態様は無限に近いくらいあります。ほかにもワケのわからん「お車代」「相談料」「解決金」があったり。これが非合法エリアにまで及ぶと、「みかじめ料」だの「身代金」だの、端的に「賄賂」が乱れ飛んだり。
貨幣というのは実に様々なバリエーションで行き交っているのですが、そのなかで「サラリー」というのは雇用契約の一方対価である「賃金」であり、且つ「サラリーマン」におけるそれは、単に一回的雇用なものではなく、長期的、それも終身レベルの超長期であり、しかも「取引先」である雇用主が終身同一でありつづけるという極めて特異な形態と言えると思います。こんな固定的な人間関係は、歴史的に見ても、封建時代の、それも比較的平和な封建時代の、武家の家臣団のような例くらいしかない。封建時代でも町人市民階級は職人社会であり、徒弟制度の修行時代を終えて一人前になれば、雇用主が替わる転職は当たり前だし、独立して自分で客を取るようにもなる。丁稚で入って、番頭はんになって、やがて「のれん」を分けて貰うという。
なんでサラリーマンのような存在が普遍的になったのか?といえば、日本に限らず戦後の平和な時代(冷戦下ではあったが)に、資本主義が伸張し、企業も巨大組織化し、膨大な事務作業が行う人員が必要になったからでしょう。つまり経済伸張期であり、且つ組織も水ぶくれしていたほんの一時期の話でしかない。その後、事務や経営の合理化が進むと、機械に置き換えられるものはどんどん置き換えるし、単純作業だったら外注に出せば良いということでどんどん人員の整理が進んでいくのは自然な流れとも言えます。
人間でなければできないこと〜機械化・効率化の限界
さて、サラリーマンという大街道が希薄になってきても、仕事そのものがガタ減りするわけではないでしょう。ただ色々な変化がある。減っていく仕事、増えていく仕事、形態が変わっていく仕事、いろいろなパターンがあるでしょう。
まず、IT化、ロボット化などの仕事減少要因を考慮して、それでも減らない、変わらない仕事はあるかどうか?です。これはあります。
簡単にいってしまえば「人間でなければ出来ない領域」なんだろうけど、これがまた範囲が広い。
片や最高レベルの意思決定。これは人間がやるでしょう。超エリートの中枢部です。その反対側には、機械でも出来ないことはないけど、人間雇った方が安いからという理由で残る領域。例えばファーストフードなんか、回転寿司のタッチパネル注文のようにやろうと思ったらかなり省力化できる。でも、さして主力店でもなく売り上げも知れているような支店で数億のロボットを導入するくらいなら、時給数百円で高校生バイト雇った方が安い。つまりさして熟練度を要求されず、誰でも出来るような仕事(マックジョブ(McJob))。
しかしそれに尽きるものではない。結局これは「人間しか出来ない」ということの意味は何か?であり、機械と人間とで何が違うか?論なのだと思います。人間にしか出来ないというと答を見つけにくいけど、「機械化しにくいもの/出来るけどコスト的に割が合わないもの」は何か?と考えた方が早いと思います。
じゃあ「機械化」とはなにか?ですが、多分、数学的なアルゴリズムに解析可能というかプログロラミング可能であるかどうかでしょう。生じうる事態を予め限定的に想定でき、且つ対応も一義的に明快なもの。Aという事態が生じたらA1を行い、Bという事態になったらB1をやる。自動販売機なんか典型的ですが、120円の缶コーヒーの注文を受け、200円を受け取ったら80円のお釣りを返すというように、全ての行動・対応バリエーションがキッチリ予想できればできるほど機械化しやすい。
逆に機械化しにくいのは、反応が非論理的で想定しにくいものです。早い話が「女心」ですね(^_^)。「気まぐれ」「今泣いたカラスがもう笑った」という具合に、Aという事態になったらA1をすれば良いというものではない。ではどうすればよいのか、その法則性はあるのかというと、あまりにも複雑すぎて分からない。これはどうすればモテるか論と同じで、古代より人類が頭を悩ませ、未だに解決出来てない領域です。つまり機械化の最強の敵は、不確定要素があまりに多すぎるもの、すなわち人間(の心)そのものでしょう。心理学や意思決定科学である程度のところまでは分かるけど、「ある程度」に過ぎない。
もう一つは自然。大自然の環境変数も膨大なオーダーに上るから正確にこうなるというのが分からない。だからこそ大地震の予知もできないし、天気予報だって当らない。ある程度限定された範囲であれば、ここに魚群がいますよとか、海底油田がありますよとか、かなりの精度で分かるようになるけど、じゃあ実際にその自然を相手に、いつ何をどのくらいやるべきかという意思決定は複雑すぎて人間固有のものでしょう。油田があるよと言われても、数千億円の開発資金をどっから引っ張ってくるのか、領海や公海だったらどこの政府の承認がいるのか、どの業者に下請けに出すのか、採掘している最中に領海をめぐってドンパチ戦争になったらどうするのか、このあたりになるとロボットでは不可能でしょう。
また独特のカンドコロというものもあります。農業でも、土壌を調べ、地形を調べ、年間降水量を調べ、全国の生産者価格や流通コストを調べ、全部インプットすれば、オートマティックに作付けを判断し、実行し、出荷しという農業ロボが作れるかもしれない。でもソ連のコルホーズみたいだったらまだしも、実際に日本の高付加価値の農業には使えないでしょう。それに農業というのは膨大な手間がかかる。果物は同時に同じ成熟度で出来るものではないから、いちいち選別して手で摘む以外方法がない。だから二回目のワーホリのピッキングの仕事があるのでしょう。機械化不可能の膨大な人手仕事があるからこそ、ワーホリを二回目という餌で釣って働かせようという話になる。
酒造りも料理も、ある程度までだったらオートマティックに出来るだろうけど、一定品質以上になってきたら、職人のカンという限りなく解析不明のファクターが入ってくるし、こういうファクターが入ってきたものの方が高品質・高価格になりやすい。なぜかといえば、それを評価判断するのもまたファジーな人間だからでしょう。
こうして見ていくと、森羅万象のうち、人間が事前に「絶対にこのパターンにおさまる」と言い切れ、プログラミング出来るものなんか、実は非常に限られた領域でしかないことが分かります。今日のランチだって、弁当買おうか蕎麦を食おうかその瞬間になるまで自分でも分からないくらいなんだから、人間の気まぐれ(意思決定過程の複雑さ)は人智を越えている。そして自然そのものも膨大な変数がありすぎてインプット仕切れない。
「結局は分からない」ことを「不可知論」といいます。やれ神はいるかとかあの世はあるかとかいう哲学的な話なんだけど、別にそこまで大袈裟ではなくても、彼女をデートに誘ってYESという返事があるかどうかも不可知ならば、明日の天気も不可知であり、自分がどういう映画や小説を好きになるかも不可知。自然も不可知、自分も他人も不可知。要するに、なんだかよく分からない世界、予想しにくい世界を、なんだかよく分からない自分がポコポコ歩いていって泣いたり笑ったりしているのがこの世のありようなんだから、「絶対こうなる」なんてことが分かること自体不思議だし、マレだし、あったとしても「トイレの水洗ボタンを押すと水が流れる」という面白くもおかしくもないものだったりする。
大体において面白い部分、テイストのある部分は不可知です。単に風景を描写すればいいだけだったら写真があれば十分で「絵画」なんて不要。実際写真が発明された頃、どっかのオッチョコチョイが「これで世界の画家は全員失業だ」とか言ったとか言わないとか。でも実際、写真は写真、絵は絵で全然違う。同じ風景を描くんだったら一人が描けばあとは情報として十分だろ?という見方もありえない。別に情報が知りたいわけではなく、タッチやテイストを味わいたいわけなんだから。文章作成ソフトや印刷活字がこれだけ普及したって、書道は廃れないし、手書きの良さはむしろ価値を増した。今ではいかに(読みにくいけど)手書きの良さを再現するかという手書きフォントの方に人気があるくらい。
こういうものはプログラミングできないし、機械にもっていかれることも少ない。だから、将来的な仕事でも、そういう部分は残ると思います。
もっと言えば、これは文明論や経済論になるのかもしれないけど、大量生産や効率化しやすく採算ベースに乗せやすいようにするなら、社会の構成員の人生のありかた、生計の立て方、ものの考え方、感じ方、価値観などを出来るだけワンパターンに収斂した方がやりやすいです。ファシズムとか軍国主義とか。全てをマニュアル化し、パターン化すればするほど、IT化やロボット化がしやすくなる。とにかく高校卒業すれば大学にいくことになっていれば、大学入試関連産業は栄えるし、パターン化処理もしやすい。新卒採用が延々続けば就活関連産業もその手順もやりやすくなるわけです。はいここで結婚〜、はいここで第一子出産、はいここでマイホーム購入っって、人生がパターン化すればするほど、プラスチックの画一品みたいな団地や集合住宅を基本的に同じ設計図の使い回しで効率処理できる。
でね、ここで「うふふ」と不気味に笑ってしまったんですけど、「良くできてるよなあ」って。
だってそうやってセッセと人生や社会をマニュアル化して、生産効率を上げれば上げるほど、逆に仕事はどんどん減っていって、中間層という「マス」という塊が溶解し、結果としてパターンが崩れていくわけでしょう?自然とバランスが取れるようになってるのかな?って。
分かりにくいかもしれないからもう一回言うと、これまでは「皆」「普通」という大街道があったから、そこを皆と一緒にゾロゾロ歩いていれば、そこそこ人生の帳尻は合った。そして皆と同じ道を皆と同じように歩いているんだから、消費者の性向も似たり寄ったりになり、だからマス処理、パターン処理しやすかった。でも、今後街道が細くなり、一人ひとりがバラバラの小道をいくようになると、「マス」というものが観念しにくくなり、パターン処理もまた難しくなっていくということです。
パターン化と個性化のせめぎあい
サラリーマンって大量パターン処理、効率処理の象徴みたいなものとも言えます。だからこそ業種職種が千差万別でありながらも「サラリーマン」という無茶苦茶に広い上位概念で括って語られるのでしょう。
で、今後のこの種のサラリーマン的な、合理・効率処理に馴染みやすい仕事はどんどん減っていくでしょう。何もしないでいたら、刻一刻食い扶持が減ってくる。だから対抗策がいるとなれば、その対抗策の要諦は、機械化しにくい、個々人の個性を全開にしたインディビジュアルな生き方をすること、インディビジュアルな喜びや価値観、幸福を模索することだと思います。一人ひとり全部違うんだったら、もうマニュアル処理できない。だから、人間の仕事にならざるをえず、職は確保できる。ここは結構せめぎあいだと思います。
逆に、ある程度パターン化処理していいんだったら、例えば鬱病のカウンセリングでも、カウンセリングロボットで出来るでしょう。そりゃ自動販売機みたいな四角い箱に話しかけてたら虚しいけど、ゆったりした空間にゆったりしたリクライニングシート、心落ち着く音楽と、アロマの香り、そしてその人が無意識的に好んでいる声質で、「では、ゆっくり目を閉じましょう」とBOSEのスピーカーでどこからともなく聞こえてきたら、ある程度のカウンセリングはできるでしょうね。音声入力識別ソフトで、予め設定されたとおり「そうですか、それは大変でしたね」「なるほど、では、そのときどう感じましたか」とか返事をさせてさ。
実際風邪の投薬程度であればロボットで出来そうですもんね。顔も向けず目も合わさず「今日はどうしましたか」という医師に、「ちょっと喉が」「検査をしましょう。あちらに」。検査が終ったら、「お薬出しておきますので3日たっても変化なかったら又来てください」程度だったら、ロボットで出来そうです。
でも、本当の人間関係や職人芸というのは、そういうものではないでしょ。まず「この人、好き/嫌い」という強烈な(あるいはほのかな)好悪があり、ちょっとした言い淀みや語調から何かを感じ、徐々に信頼関係を築いていくという。そのあたりのインディビジュアルで個性的な部分にあくまでこだわっていくか、それとも合理化のためにそういった個体差は”誤差”として捨象処理し、無理やり最大公約数に収斂させていくか、このあたりがせめぎ合いなんだろうなって思うわけです。
でも、このあたりの問題意識って、メディアなどを見てもあまり窺われないです。
実際「鳴り響いているメロディ」だけを取り出して、あたかも何も変わっていないかのような前提で論じたり報道したりすることは可能だろうし。それに「大街道」だっていきなり消滅しているわけではないですからね。でも、徐々に細くなり、やがては毛細血管のように、あるいはケモノ道のようになっていくかもしれないし、既にそうなっている部分もあるでしょう。また早々に大街道から外れて、自分だけの道を歩き始めた人もかなりの数いると思います。
ただし、それらはマスとして固まることはないので、メディアには取り上げられにくいし、伝わりにくいですよね。結局、相対的になにが一番大きく見えるかといえば、昔ながらのメインストリームでしょう。これはカタマリだからです。将来的に、この層が絶対数的にマイノリティに転落しても、マジョリティがバラバラに分散していれば、昔ながらの部分が相対的には"最大派閥"になる。そのあたりの「見えにくさ」というのはあると思います。
あー、あと思いついたことが数百行くらいあるんだけど、既にこの時点で数回分のネタを殴り書きしているのだけど、本当は何回かに分けて書くべきなんだけど、、、、
以下、簡単にメモ書きくらいに残しておくと、同じ仕事をするにしてもパターン処理的にするか、個性処理をするか、二つの方向があると思います。ユニクロみたいに平均的な商品を安く供給するか、オートクチュールのように徹底的に個性に対応する方法。書いてて自分で気づいたんだけど、僕がやってる仕事って後者の典型なんだろうなって思います。一見、留学とかサポートとかパターン化処理しやすそうなことなんだけど、実際には個々人の個性をかなり重視している。重視どころか、最初はパターン的発想で「留学」「渡豪」とか考えている人に、「あなたの人生史において、それをすることの意味は?」みたいに個性化を広げていくようにやっています。
それは海外という環境、あるいは西欧圏の個人主義社会というのが、ものすごく個を大事にするものであり、個がしっかりしてなかったら立ち往生してしまう、だから野性の虎のような「獰猛な個」を、まるで寝た子を起すように揺すぶって起こす必要があると思うからです。
だからなんだ?というと、同じような仕事でも、パターン化処理方向にもっていくことも、インディビジュアル方向にもっていくことも可能であり、これからの時代は、後者の方が成長性が高いんじゃないかってことです。これが一つ。
もう一つは、全然視点が変わるのだけど、先ほど出てきた非熟練仕事のマックジョブです。
これからはこっちがスタンダードになるんじゃないか、それを嘆かわしいとか、悲観的に考えるだけではなく、もうそーゆーもんだと腹括って受け止めるべきだと思うのですね。要するに高校生のバイトみたいなことやって、それが全生涯の仕事の内容である。それがいいとか悪いとかいう問題ではなく、そういう流れになっている。それが21世紀の最先端のリアルの資本主義経済が突きつけてきた「回答」であるからです。別にそれが回答の全てというわけではないけど、無視できないレベルでの広がりとボリュームを持っている。
大事なのは、そういう前提で世の中の仕組みを考え直すべきということです。つまり賃金は生涯上がらない、雇用保障があるとは限らないというのが平均的な国民像だとするなら、国家システムもそれに応じて変化させないとならない。例えば年金にしたって、膨大な負債がどうのとかいうのとは別に、「稼働時代に老後の蓄えを稼ぐ」という発想そのものがアウトであるなら、掛け金方式そのものが無理ではないかとか。今だって国民年金だけでは老人ホームにも入れず、別途生活保護を受けねばならないのであれば、年金も生活保護もやめて、最初から無料の老人ホームだけを作っておけばそれで良いではないかとか。いわば「ここに行けば生きていける」という設備や環境の現物支給に絞り込むとか。
ま、そんなのすぐには出来ないかも知れないけど、年金にせよ生活保護にせよお金の授受で物事廻すというシステムは、世の中にお金がガンガン廻っている時代にはリアリティありますが、あんまり廻らなくなったらリアリティが無くなる。何重にも面倒臭いシステム作って、大量の設備と人員と経費をかけて、乏しいお金の授受手続きをやって、それで結局足りないくらいなら、最初から現物作ってドーンと配布した方が良くはないか?と。そういう発想もあるのではないかとか。
あと、高校生や大学生のバイトのような仕事だけして、それで一生が終るのが情けないとか、恥ずかしいとか、そういう感性も変わっていくんじゃないですかね。ものは考えようで、じゃあそのバイトをやってた高校大学時代は恥ずかしかったか?というと、アレやったりコレやったり、真面目になったり、馬鹿やったりで楽しかったわけでさ、要は高校や大学みたいな時期が一生続くんだと考えてもいいわけでしょ。もちろんそんな額では、出産や育児、老後という人生の難所を乗り越えるのは難しいかもしれないけど、だからそれが知恵の出しどころだと思うのですね。
今は「金を持ってる」ということを全ての前提にしてシステムが出来上がっていて、だからお金が無くなったら死ぬしかないみたいになってるけど、それだと経済がしょっぱくなったら終っちゃうわけで、そんなんでええんかい?と。逆に「お金がない」ということを全ての前提にしたシステムを逆構築することだって出来るんじゃないの?と。人類の知恵って、その程度のことだったらクリアできると思うけど。
そして、個が個としてやっていく世の中になるのであれば、抜本的な解決法は、個が個として逞しくなる以外にないと思います。でもって、それってそんなに難しいことか?って気もしますね。個を殺して大勢に順応させていくことで活路を見いだしていく方法論と、個を逞しく太らせてそれで活路を見いだしていく方法論とで、どっちが難しいか?っていったら一概に言えないんじゃないですかね。でも、少なくとも後者の方がやってて快楽成分は多いような気がするんですけど。
文責:田村