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今週の1枚(2012/07/02)



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Essay 574 :マボロシの正社員

しがみつきコアラ論(その2)
 写真は、Annandale。この過激なトンガり具合がカッコいい教会は、僕がこちらに来た当初からとっても印象的でした。

 それだけの話なんだけど、この機会に調べてみたら(こういう場合にネットは重宝しますね)、Hunter Baillie Memorial Presbyterian Churchというらしいです。解説によると、ヘレン・ハンター・ベイリー夫人が、亡きダンナさん(ジョンさん)を偲んで私財を投入して1889年に建てたらしいです。1889年といえば明治22年。憲法が公布され、東海道線が開通した年です。

 尖塔の高さ60メートルはシドニーでは一番高い尖塔。ゴシック風だしエリア的に考えても、イタリア系、カソリック系かなと漠然と思ってたのですが、全然違って、スコットランド風味を残した初期のイギリスゴシック風建築らしいです。こちらではPresbyterian(プレバスタリアン)系の教会は多く、良く見かけます。「長老派」と邦訳されてますが、カルバンの宗教改革に源流のある伝統あるプロテスタントの一派。「長老」というのは別に年寄りという意味ではなく信者代表の意味で、教会の運営に聖職者だけではなく信者も関わるという民主的な形態です。寺の檀家総代、神社の氏子総代のようなものでしょう(よう知らんけど)。



 今週は、前回の補足というか、前回カットした部分(の一部)を書きます。
 
 「正社員」ってなんなんだろ?いい加減、日本の「正社員」概念を消滅させたら良いのではないか、というのが今回のサマリーです。

正社員ってなに?

 もともと「正社員」に該当するような概念は日本の法律上には存在しません。最初からそんなモノないのだ。幻なのだ。だから「消滅」ということすら変な話で、無いものが消滅するわけ無いのだから。

 ここで今更ながら整理すると、日本の正社員と非正規雇用の差異は、

 @、正社員の方がなかなかクビにならず安定しているし、定年後の関連企業の再就職など面倒を見てもらいやすい
 A、正社員の方が給与が高く、昇進や昇給、ボーナス、退職金など給与外の支給も多い
 B、正社員の方が社内教育や配転、出向など能力向上機会に恵まれ、福利厚生施設の利用など特典がある。
 C、正社員の方がキャリア評価としてカウントされる場合が多いし、社会的にも一人前的に見られる。

 などの点で非正規雇用よりも優遇されている、とされます。
 これだけみてたら正社員というのは、ものすごーく優遇されています。前回書いたように正社員と非正規とでは生涯年収で3倍の格差があるという説もあり、それって普通に1億円以上、どうかしたら2億円前後違う。もう天国と地獄くらいに違う。

 しかし、一見歴然とした「格差」があるようにみえて、実は正社員と非正規を分ける法律の根拠は薄弱だったりします。

なぜ正社員はクビにならないのか?

 正社員の数ある特典〜給与水準やら福利やら〜のうち、もっとも大きな特典は「滅多にクビにならない」という身分保障でしょう。だからこそリストラとかいうと大騒ぎになるし新聞ネタにもなる。「(正社員は)よほどのことがないとクビにならない」というのは、(一定年齢以上の)日本人には普通の感覚でしょうが、よく考えてみたら変な話です。

 なぜなら、雇用契約というのはあくまで「契約」の一形態なんだから、ニーズがあったら発注し、ニーズがなかったら発注しないというのが自然な姿です。一回発注したら最後、死ぬまで発注し続けないとならないと「恐怖のオキテ」を認めるということは、一回どっかのラーメン屋に入ってラーメンを注文したら、死ぬまでその店でラーメンを食べ続けなければならないというくらいナンセンスな話であって、本来なら「ありえない」。だから「終身雇用」という形態そのものも本来的にはありえない。これが原則でしょう。これを「解雇自由の原則」といいます。

 ただし、雇用は一回ポッキリではなく継続的であり、生活の根幹に関わるという特殊事情から、普通の契約よりも生活者(労働者)を保護すべき必要がある。だから、解雇(契約終了)をする場合にも一定の猶予を与えるべしとされてます。民法においては、期間の定めのない雇用契約の終了は2週間です(627条)。しかし民法だけでは労働者の権利保護に不十分ということで、労働基準法などの特別法で、労働条件やら超勤手当や年次休暇という所定の権利が定められ、且つ団結権や団体交渉権が認められています。しかし、それですらこの解雇自由の原則は貫かれ、基本的にいつでも解雇出来るけど、30日前に言うか、30日分の予告手当を払えという規定があるだけです(労働基準法20条)。

 ということで、基本的にいつでも解雇できるのだから、そこには正社員と非正規の差なんかないし、あってはならない。ところが、この解雇権自由の原則は、徐々に原則と例外が逆転していき、原則解雇不可で、どうしようもないときだけ解雇できるという具合になっていきました。

 最初は、法解釈によって「そういう風に読み替える」というワザを使います。1950年代の下級審の判例の積み重ねによって、やれ正当事由が必要だとか、解雇は権利の濫用だととかいう理屈を駆使して企業の解雇を制限させようとし、やがては「解雇権濫用の法理」として判例法が確立していきます。これを受けて、法律でも2004年に労働基準法18条の2として「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効」として明文化され、さらに2008年には労働契約法という新しい法律の16条に移ります。

 というわけで、本来、「なかなかクビにできない→だから一生安泰さ」なんて制約も保証もどこにもなかった筈なのに、最初は判例や慣習で認められ、さらに明文化されていったということです。


 なんでこんなことになったのか?

 簡単にいえば、戦後に経済成長したからです。モノを作りさえすれば飛ぶように売れた時代においては、どの企業も万年人手不足であり、ゆえに労働者を囲い込もうとした。いろいろと有利な条件を付けて会社に取り込もうとしました。そして、景気の良し悪しによる若干の雇用調整は、農閑期の出稼ぎ労働者や主婦のパートタイムで補ってきた。そういう時代があった。その時代においてクビになるというのは「よほどのこと」であり、「よほどのこと」とは何かといえば、通例は会社にとって煙たい労組の活動家を、何だかんだ難癖をつけてクビにするような場合でした。この時期、会社の意向に従った御用組合やら第二組合やらが乱立した時代です。だから解雇権濫用という事態は、本当に「濫用」的な事態であり、この解雇権制限の流れは、激しい労使闘争の歴史でもあったわけです。

 そして、この時代に「正社員」という概念が出来、同時に今の支配的な労働観念=サラリーマンカルチャーや「『働く』ことの社会的な意味」が形作られていきます。しかし、今となってはプラスよりも、むしろ大きな「負の遺産」として残っているというのが本稿の論旨です。


 日本の基準でいえば、オーストラリアの年収3000万のビジネスマンでも非正規雇用です。いつでもクビ切られるんだから。

 オーストラリアには、フルタイム・パートタイム VS カジュアルという区分はあるけど、その差は労働法上の諸権利の差です。すなわちカジュアルは時給日給ベースで有給休暇などは諸権利はつかない(でも超勤手当はつく)。諸権利で不利な分だけ、むしろカジュアルの方が最低賃金基準は高くなっています。フルタイムとパートタイムは、単に勤務時間&形態の差であって権利の内容に差はない。最も日本の正社員に近いフルタイムであっても退職金も交通費も出ないし、ボーナスは文字通り「臨時賞与」で会社がやたら儲かったとき従業員に還元するものでしかない。「臨時」なのに、あたかも「定期」のように当然のものとする日本の給与体系の方が根拠がない。

 えらい違いのようですが、この差は年と共に薄まってきているでしょう。
 例えば上記@〜Bの正社員と非正規の差異についても、現在の日本企業においては、かつてほど企業研修が充実しているわけでもないし、何から何まで丸抱えで面倒みるような余力もないです。その昔は、日本企業の海外駐在員といえば、住居手当や海外勤務手当はつくわで左団扇だったのですが、10年以上前からそれほど美味しい話ではなくなってきてます。シドニーでの御用達日本食スーパーである東京マートでも、ここ数年ばかりの特売デーの日本人客の混み具合は「殺気立ってる」と表現したくなるほどです。昔は皆さんもっと鷹揚としていた記憶があるのですが。

 社員の福利厚生施設(箱根の研修・保養施設とか)も、バブル崩壊後の資金繰りのために売っぱらってしまった企業も多いし、接待名目で会社のツケで飲み食い自由なんておいしい話も今どきそんなに転がってないでしょう。年功序列でエスカレーター式の昇進するというのも、何を今どき?てなもんで、いっとき成果主義や実力主義の嵐が吹き荒れるし、その弊害が目立ったのでもとに戻りつつありますが、それでも古き良き年功序列に戻ったわけではない。それどころか個人的に好成績を上げていても、工場や支店もろともまるごと閉鎖でクビって事態すら出てきている。

 むしろ海外の大企業の方が社員の待遇は良かったりもします。神戸地震で被災したカミさんが感心してましたけど、P&Gだったか、地震のあったその日に全社員に足の手配もホテルの手配もバッチリできており、船から帰国便からチャーターしているという手際の良さ。世界展開しているだけに、有事の際の対応が一流の軍隊のように良くできている。去年の東北地震のときも、東京近郊の外国人社員があっという間に居なくなりましたけど、そういう手配は強い。また、一般に労働者の権利保護それ自体は強いので、出産休暇も日本とはケタ違いに長い。なぜか?そうしないと優秀な社員が居着いてくれないからでしょう。

 また肝心カナメの「クビにならない」という正社員の権利は〜それこそ最強の「特権」ともいうべきものですが、これだって本当は怪しいものです。いくら法律上の根拠が出来たといっても、「合理的理由&社会通念上相当」だったらいつでもクビにできることに変りはないです。そして、整理解雇=「不景気だからクビ」が合理的&相当かどうかですが、現在そして将来の日本経済状態からしたら「社会通念上相当」と判断される余地がどんどん広がっていくことが予想されます。だから、昔ほど安定はしていないし、今ですらそれほど強い保証とは言えません。

 ということは、日本の正社員とかいっても、どんどん正社員としての実体が薄れてきているということです。もともとが幻のようなものだったので、実体が薄れていっても、ある意味当然といえば当然なのですが。

 ところが、本来的にマボロシであり、そして将来的にも「いずれは溶ける春の雪」のような正社員が、いまだに「正」としてスタンダード化している時代認識や対応の遅さ、そのあたりが「しがみついてる」って感じがするのです。そういう形態の雇用もあってもいいとは思いますが、それはもはや「正」というよりは「特」と呼ぶべき例外事象であるか(公務員のキャリア採用みたいに)、はたまたいっそ端的に「旧」と名付けた方が良いくらいです。

正社員という概念が出てきた過程

 問題は、こんなマボロシのような正社員概念と慣行が未だに「正」として健在であり、そのマボロシを基準にして「非」正規雇用などといっているのは何故か?です。ここでもう一回、日本で「正社員」という概念が出てきた背景を考えてみましょう。それは日本にサラリーマンカルチャーが形成されていった軌跡でもあります。

 日本の高度成長時代は何だったのか?論になるのですが、種々の偶然に恵まれつつも、一つには人口1億という国内市場の巨大さがあります。そこで一定のシェアを得れば損益分岐点を超えるというマーケットの特殊性です。これが人口一千万以下の北欧(フィンランドのノキアとか)、あるいは人口が日本の3分の1である韓国ですら、国内市場を制覇しただけでは研究開発費などのモトが取れないので、最初から国際市場を狙うしかない。でも、日本は幸か不幸か国内市場が大きかったら、国内だけで頑張っていれば栄えることが出来た。恵まれていたのですね。しかし、これにアグラをかきすぎたので、今のように国内市場が縮小したらひとたまりもない。

 さて、同一国内、同一民族という比較的変動が少ないフィールドで競争する場合、つまり競争環境が固定的で、しかも永遠に発展するかのように思われる状況下においては、チームワークでガッチリスクラムという「人は石垣、人は城」という家族的経営が成り立ち得ます。そこでは正社員は「家族」として大事に扱われた。戦後一時期の特殊な経済事情に基づいて発生し、編み出された雇用形態だと思います。

 このあたりは細かに研究されているのでしょうが、僕が大雑把に考えているのは、この経済的合理性が、日本人がもともと持っている気質の一つであるムラ社会気質、いわば封建主義的な人間関係と社会システムに微妙にマッチしてしまったのだと思います。

 先ほど高度成長時代に「従業員の囲い込み」と書きましたが、僕らはこういう「温かく緊密な人間関係」というのが好きですからね〜。ムラ社会的な感覚です。「皆で力を合わせて」的な。馴染みやすいんですな。「家族じゃないか」「仲間じゃないか」って感覚がわりと好きなのでしょう。

 もっとも比較文化論でいえば、別に日本人がファミリー中心主義かというと全然違うと思います。何度も書いてますが、娘の初デートを、親戚一同がぞろぞろ後をついて「あたたかく見守る」という風習は日本にはないです。でも、映画「ゴッドファーザー」のシシリーではあるし、ロビン・ウィリアムスの「グッドモーニング・ベトナム」のベトナム社会にも出てくる。シドニーでも知人の教え子であったレバノン系の社会では、同じように親戚一同がデートの後ろをついてくるそうです。他にも、ライカードなどイタリア人比率の高いエリアのレストランの土日では、20人30人レベルの大規模ランチが常駐しています。イタリア系の家族一同勢揃いです。もう日本の感覚では「毎週が法事」のような暑苦しさ。ドライなオージーですら、結婚したら毎週末は実家に顔を出します。日本人の夫婦感覚ではそんな面倒なことやってらんないでしょう。あなたは毎週、ダンナ(ヨメさん)の実家に行きたいですか?ユダヤ系でも、韓国系でも、勝手に他人(親戚、知人)の家にあがりこんだり、勝手に台所でゴハン食べたりという。すごい人間関係が濃いです。それからみたら、日本人社会など冷血動物なみに淡々としてます。

 ただし、この淡々冷血だからこそ、手頃な疑似家庭、手頃な疑似仲間としてカイシャがクローズアップされたのかもしれません。そのあたりはもうちょっと考えるべきですが、実際の家族や隣近所の付き合いが濃い社会では、カイシャなぞただのゼニカネ関係に過ぎないからドライになるが、本来の血族親族関係が淡々としている日本では、逆にカイシャに温もりを求めるという奇妙なパラドックスは、もしかしたらあるのかもしれません。

 いずれにせよ、これら集団=家としてとらえる考え方は、古来の日本にありました。徒弟制度もそうですし、任侠集団もそうです。親方や親分がいて、兄弟子や兄貴分がいて、「襲名」という作業すらやる場合もある。ここまで濃くはないけど、師匠と弟子筋や○○門下という感覚は弁護士でもありますし、医師や学術界もそうでしょう。

 こういった特殊職能社会の人間関係が伝統的な下地になっていたのでしょう。戦後成長の日本の会社にも類似の関係が形成され、会社から正規に雇われた、いわば「会社からサカズキを貰った」者は、一人前の仲間であり、家族の一員であり、譜代の家臣団に組み込まれるという感覚です。ある集団における「一人前の仲間」「それに準ずる人」という身分概念は、ヤクザの盃とバッジ、部活のレギュラー、正会員と準会員にようなもので、わりと僕らにとって馴染みやすい。

 この「会社の家族化」が、慢性人手不足の中で社員を取り込むためにあれこれ特典を付けるという形で行われた。頑張って貰いたいから、給料にイロをつける(ボーナス)とか、将来のキャリア形成のために勉強やら教育的出向もさせるし、住まいの手当もしてあげるし、結婚の世話までし、上司が仲人になったりする。定年後も就職先の世話をしたりとか、休暇中安く遊べるために保養施設を安く使わせるとか、本当に家族のようにあれこれ面倒を見た。それが同時に、うるさ型の労働組合を切り崩したり、分裂させたりという姑息な画策にも使われた。「こっちの(御用)労組に入ったら、来年には○○支店長にしてやる」とかね。

 そんなことを20年、30年も続けていたら、人間というのは賢いようでいて馬鹿ですから、一時的な現象であるにもかかわらず、なんかしらんけど日本開闢以来こうだったかのように錯覚してしまう。その錯覚が今でも続いている。今どきやってるのかどうか知らないけど、上司や同僚の引越ともなれば休日返上して手伝いにいくし、上司の息子の幼稚園運動会ではビデオの撮影係を買って出たりとか。まだやってるんですかね?

 でも、未だにあるだろうなと思えるのは、「職場への土産」って妙な慣習です。出張でどっか遠隔地に行ってきたら、自分のセクションの人数分の饅頭の入ったお菓子を買って帰るとか。これは個人的なホリデー旅行ですらそうですし、超プライベートであるべき新婚旅行ですらお土産を買って帰るという不思議な慣習。バレンタインの義理チョコやホワイトデーのお返しなんかもあります。僕も結構これらには気を使いましたからよく分かる。

 これらのことが相まって、戦後数十年営々として積上げられ、サラリーマンカルチャーと正社員概念を育んできたのでしょう。正社員こそが一人前であり、マトモであり、「正社員にあらずんば人にあらず」という法律上何の根拠もない不可思議な感覚。平安時代の平清盛の殿上人と地下人みたいな、おっそろしく封建的な身分感覚。

時代遅れになっていくわけ


 しかし、ココが大事なところですが、それもこれも全ては経済的合理性あっての話です。
 別に家族が好きだからそうやっていたわけではないです。

 そもそも家族が好きなら、本物の家族をもっと大事にすべきであって、会社などという「疑似家族」にうつつを抜かしている場合ではないでしょうに。全ては、「その方が何かと(お金儲けに)都合がいいから」というドライな利害関係がベースにあっての話です。

 繰り返しになりますが、変動の少ない同一同民族市場で、同民族同士が熾烈な競争をするという、つまりは甲子園で優勝を争うような競争パターンの場合、やっぱりチームワークが大事だし、がっちりスクラム系が大事。全人格的、全人生的なデボーション(献身)がある方が強い。「課長、ここは私が行きます!」「おお、山田、行ってくれるか!」「骨は拾ってやるぞ!」的な熱いチームがやっぱり強い。組織に対するロイヤリティですね。


 ところがぎっちょん、時代が変わった。変わってしまった。

 今や動きが速く千変万化する国際市場が相手になるのだから、スクラム組んでても動きが悪くデメリットの方が多い。臨機応変に鶴翼の陣形になったりという動きの早さが求められるし、不要となったら赤字を垂れ流す前にバサバサ切り捨てる非情なまでの軽快さが求められる。

 日本の家電は特に白物(冷蔵庫とか)でサムソンなど外国企業に徹底的にやられているのですが、どっかのTV番組でやってたそうですが、インド市場におけるサムソンは完全にインド市場に対応した製品を出してるから強い。パナソニック(だったと思う)は日本製品を右から左に持ってきているだけだから売れないどころか、量販店が売ってさえくれない。インド市場に対応というのは、彼らは音楽が好きだから冷蔵庫にUSB付のオーディオ設備を組み込んだり、お手伝いさんなどが中身をちょろまかさないように冷蔵庫に鍵をつけたり、高温なので化粧品を保管するために冷蔵庫に化粧品ボックスを作るとか、本国の感覚ではありえない冷蔵庫をガンガン企画、製造、販売することです。IBM(だったかな)の有名なモットー、"think globally, act locally"を徹底できているかどうかです。

 ここが今の日本企業は致命的な弱い。家族から江戸幕府のようになってしまっているから、尻尾を叩いてから痛いと感じるまで10秒かかる古代恐竜のように反応が遅い。国際市場の現場からあれこれ本社に要望が上がっても、本社の官僚社員が上に持って行かないとか、担当役員のメンツが潰れるとかいう茶坊主政治みたいなことやってるから動きが遅い(かもしれない。よう知らんけど、ありがち)。さらに優秀な企業だったら、同じインドでもベンガル地方とパンジャブ地方とでは気候も宗教も生活習慣も違うから、製品も微妙に変えていくことが短期間に出来るのでしょうし、その決裁権限の大幅な現場委譲、製造過程のフレックス化、、、などなどいくらでもアメーバのように形を変えて浸透していく。そういう企業が勝つ。だって勝敗原理は常に同じで「より安くより優秀」ですから。

 そこでは企業というのは固定的な家族ではなく、さらに組織集団ですらなく、プログラミングされたソフトウェアというか、アメーバーのような流動体であり、ひいては一種の「現象」のような存在になっていくことが求められるでしょう。オーストラリアでもそうですが、3年もすれば上から下まで全員顔ぶれが変わっているという。コンサートのオーディエンスのウェーブのように、たまたまその場にいた人間達が、状況に応じて適宜動く方が望ましい。変化の時代においては、変化に対応するタイムラグが少ない組織の方が強いし、市場の状況に応じて変幻自在に動ける組織の方が強い。そのためには妙に「温かい人間的絆」なんてものは職場に無い方がいい、引かれる後ろ髪はついてない方が良い。

 かくして、日本という金太郎飴ガラパゴス市場で競争をしていた日本企業の戦略も戦闘態勢も時代後れのものになった。そんな時代に、一族郎党家臣団のような封建体制でやっていこうというのがそもそも無理なのでしょう。だとしたら、原則に立ち戻り、普通の雇用契約や労働契約で良く、家族的、特権的な正社員など前世紀の遺物と化して良い。

 ところが中々そうならない。これは日本企業だけではなく、日本社会そのものの通弊とも思います。だいたい、いまどき「外国人採用」なんてのが「ニュースになる」こと自体、驚くべき恐竜ぶりでしょう。実力主義の世界、例えばプロ野球でもサッカーでも、土俵に女性は上げないという前近代的な大相撲でさえ数十年前から外国人採用をしています。つまり「競争に勝つ」というのを至上命題にしている組織はとっくの昔から当然のようにやっていることを、企業がやったらニュースになる。これは何を意味しているのか?つまり本気で競争なんかする気あんの?ってことです。本音では居心地のいいヌクヌク仲良しクラブを作りたいだけじゃないの?会社は何のためにあるの?です。これはまた末尾に書きます。

「しがみつき」のはじまり

 ということで、サラリーマンは全員非正規にすればいい。その方が自然だし、企業も戦闘能力を高められるし、個々人も就職機会が増える。なぜって、給与体系を圧迫している高給取りの上の階層が一掃されるのだから、雇用流動性が高まり、つまりは雇用機会も増える。といよりも、実際に既にそうなっている。小泉改革以降に非正規雇用が増えたというのは、本来の姿に戻った、戻る自由を与えただけのことでしょう。経済は、自然現象と同じく、独自の合理性によって動く。

 ならば経済的合理性が失われた時点=それは既に80年代に言われていたし、90年代のバブル崩壊後には確定的にそうなっていたのだから、その時点で正社員概念を全面廃棄すれば良かった。非正規雇用こそ正規雇用のスタンダードとし、その労働環境の改善、給与水準の上昇、あらたなキャリア慣行などを営々と積上げるべきだった。それだけ思い切ったことをあの時点でやっていたら、失われた20年は無かったでしょうし、必ず成功したとはよう言わんけど、今よりは前向きな展開になっていたと思います。

 しかし、同じ状態が数十年も続いたので、日本人や日本社会はめっちゃ保守的になってしまい、古き良き昔の仕事のありかたに「コアラしがみつき」をしてしまった。それどころか経済実情と全く逆行するように、前述のとおり2004年には労基法18条2が解雇権制限の明文規定を設け、2008年に労働契約法が新設されている。

 かくのごとく、法律というのは実際の社会の動きから数十年、この場合は50年くらい遅れて、「何を今更」「手遅れどころか逆効果」的に定められる。ここで分かるのは、日本は法治主義のようでいて案外と法治主義ではないことです。法律以外の事情で世の中が動いている。これは法律実務をやってる人だったら誰でも日々苦労するところで、法律と現実の間に「戦場に架ける橋」みたいなものを構築しなければならない。余談ながら、法制度と現実の乖離は、法律を作る国会、そのメンツである国会議員によって世の中は動いていないということでもあり、日本の政治を見ていても昨日は見えても明日は見えないということでもあります。正確に言えば「昨日からみた明日」が見えるというか。もっともこれは議員や官僚がアホというよりも、それだけ日本社会や人々の意識がガチガチに変わりにくく、まるで老人の柔軟体操のように、無理に動かしたらグキッ!といってしまうような体質になってるからだと思います。

 さて、繰り返しになりますが、経済は独自の合理性によって動く。
 かつては、法律上に規定はないのに、判例法の積み重ねで解雇権の制限をしていったけど、今度はフィルムの逆廻しのような現象が生じる。

 本来なら解雇が面倒臭くなったら面倒臭くならないように法律や意識を変えればいいんだけど、逆にガチガチに固めていってるから、現場としてはそんな法改正なんか待ってられない。だから、日本社会(アジア社会一般に通じる)特有の脱法的処置が行われる。パチンコの景品交換みたいなもんです。「いわゆる正規の雇用じゃなきゃ文句ないだろ?」とばかりに、最初から期間限定で雇用契約を結ぶ、あるいは派遣労働という派遣会社を間に噛ませることで一般の契約関係にしてしまい労働法の制約から逃れるなど、実務の現場はたくましくというか、したたかというか、姑息というか、とにかく必死に現実に適応しようとしていく。

 そして、非正規雇用の問題点は、まさにその便利づかい性、小手先の弥縫策性にあり、結果として本来の労働内容に比して適正な報酬や権利が与えられていないという不公平、端的にいえば搾取を生みだしている。

「大変だからやらない」「無かったこと」メンタル

 しかしそれ以上に問題なのはメンタルです。いつまでも高度成長時代の「巨人・大鵬・卵焼き」みたいなレトロ趣味満載の「正社員」にこだわっている「しがみつきメンタル」です。

 もちろん、いきなり正社員全廃なんぞをやろうものなら、これまでの体制を前提にローンを組んでいるなどライフスタイルに大きな変容を迫られ、迫られても対処できず、自爆してしまう層が出てくるのでしょう。大変な騒ぎになるだろうし、それなりの経過措置は必要でしょう。気の遠くなるような作業量と痛みを伴うでしょう。

 でも「大変だからやらない」というのはスジが違う。大変だろうが何だろうが必要だったらやるべきだし、大変なこと=個々人へのしわ寄せ=をいかに分散し、軽減するかについては頭を振り絞って何とかすべきでしょう。しかし、そういう道筋にならなかった。バブル崩壊、失われた20年になるかならないかの分水嶺の時点、それは例えば住専管理機構の頃に遡るのだけど、「社会的影響が大きいから」といって銀行などの金融機関に莫大な税金を注ぎ込んでしまった。貸し渋りなどして多くの中小零細企業を破綻に追い込んでいった銀行に、それでも湯水のように税金を使って救済していたあたりです。あの時点で、この世の終わりみたいなドラスティックな構造転換をやっておいて身軽になっていたら(他の先進国はそれをやったのに)、その後20年の日本の展開は遙かに違ったものになったと思います。

 当時、僕はまだ日本にいましたけど、「大変だからやらない」というメンタルを目の前に見て、「あ、こら、あかんわ」とは確かに思いましたし、そういう眼前の状況が僕のオーストラリア行きの背中を押したのも確かです。これで日本は10年は遅れると思った。でもまさか20年以上も遅れるとまでは予想してなかったですけど。

 「大変だからやらない」をやってると時代に乗り遅れてジリ貧になるだけではなく、無意味な苦痛が延々続くという愚劣さがあります。しかし、それ以上に問題なのは、弱者にしわ寄せがいくことです。これはもう本当にトカゲの尻尾切りと同じで、「無かったこと」にしたいから、都合の悪い部分は弱い奴に全部押しつけようとする。汚職や不正行為が発覚したときに、一番気の弱そうで実直な係長あたりに全部押しつけて自殺させてしまうという凄い伝統が日本社会にはあります。人殺しすら屁とも思わないくらいですから、凄まじい方法論です。

 「踏まれているのが他人の足なら、百年だって我慢できる」というのは良くいいますが、まさにそんな感じ。面倒臭い米軍との付き合いは沖縄に全部押しつけ、ヤバそうな原発は福島、福井、青森などに押しつける。そんなことばっかでしょう。学校でイジメと自殺があっても「いじめはなかった」というし。何でも無かったこと、見なかったこと、「別にいいよね」「仕方ないよね」「問題ないよね」的に”処理”する。

 もっとも、一人の個人として思うに、大事なのは「他人のフリみて我がフリ直せ」です。他人のあれこれをあげつらって悲憤慷慨しているヒマがあったら、自分がそれをやってないか?でしょう。自分だって他人の足を踏んでるかもしれないし、無かったことにして済ましている馬鹿野郎なのかもしれない。他人の足をどかせるのは、こりゃ大変ですよ。言って聞くとは限らないし、まあ聞かないだろうし、力づくでどかせるにはパワーも戦略も権力も金も要る。でも自分の足をどかせるのは、これは簡単。今、この瞬間にも出来る。だから、一人一人がそれをすることから始めるべきだとは思うし、自分でそれをやってない人間が幾ら他人を批判しても説得力がない。というか、全員が自分のことを棚にあげて相互に罵倒しあってる集団ってどうよ?ってことです。もちろん適正な批判は大事ですが、同時にもっと有効で即効性のある手法があるでしょう、ってことです。ま、これは余談です。

 話を戻して、正社員なんかとっくの昔に時代後れになってるんだから、「正」なんて観念を叩き壊して、仕事に見合った給与と待遇を公正にやればいいんだけど、あんまりそういう流れにならない。逆に、ますます「正」を守るかのような労基法18条2を2004年に作り、労働契約法を2008年に作る。

 ほんと、話が逆だと思うのですよ。なんでそうなるの?といえば、「大変だから」でしょう。その代わり「正」ではない「非」を増やして誤魔化す。そこでは「やらずぼったくり」の搾取になっているのだけど、本来やるべきことを断じて行う根性がない分、弱い人らに押しつけて踏みつけにするという構図です。非正規雇用という「非・マボロシ」みたいな意味不明な存在こそ、しがみつき→しわ寄せの一つの典型形態だと思うのですね。

 で、この「大変だからやらない」から始まって、主観がツライから客観すらをもネジ曲げようという弱いメンタルが、まさに「しがみつきコアラの世界観」だと思います。原則と例外が逆転するくらいの事態になっているのに、あくまで例外的事項として処理しようとするから、問題が解決される目処は立たないし、小手先の対症療法を重ねるから、逆にどんどん症状は悪化していってしまう。急性炎症を起こしたところを温めているようなものです。気持ちはいいけど、炎症を広げるだけだって。冷やさなきゃ。

 マスコミでもなんでも、正社員になるのが正規の就職だという腐った前提で大卒の就職率がどうのこうの、だから就職の面倒見の学校がどこかとか、中高一貫校はどうかとか、どれもこれも要するにどうやったら少なくなった椅子をゲットできるか論でしょう?

 この傾向は別論でまとめて書きたいのですが、メディアでもネットでもある程度の立論をする人というのは、基本的に競争社会の勝ち組です。子供の頃からお勉強でやってきた、いわばガリ勉族の「お勉強世界観」「学校世界観」です。東大卒の巣窟といわれる朝日やAERAでもそういう発想ばかりが目立つ。いい年して「女子」なんて表現を嬉しそうに使ってるあたりも幼稚な学校メンタリティの残滓じゃないかと僕は違和感を抱くのですが、それはさておき、つまりは椅子のゲット論で終始しており、方法論や世界観そのものを変えようとはしない。僕からしたら「しがみついているなあ」って見える。

 椅子が足りなきゃどうしたらいいか?だったら椅子を全部取っ払って、オールスタンディングの立ち見席オンリーにしちゃえばいいだろうと。非正規こそが「正」。今までの「正」は今日を境に「旧」と呼べばいい。「旧士族」みたいなもの。

正社員全廃論のメリット

 ということで、正社員は本日ただいま即刻廃止ってしてほしいくらいですが、無茶ですか?そうは思わないけどな。
 非正規が普通で、非正規しかないとなれば、世の中良くなると思いますけどね。

 まず企業は助かる筈ですよ。解雇自由の原則に戻るのだから。いくら労働契約法16条で解雇権濫用が明文化されても、「使えないから」「業績不振だから」で馘首するのは「濫用」に当らないという流れになれば、経営状態に応じていつでも身軽になれる。人件費の圧迫がなくなる。

 第二に、いつでもクビに出来るという自由を企業に与えれば、逆に雇用は増えます。「とりあえず雇うか」「使ってみて様子をみるか」というお試し採用も増える。いまだって「試用期間」はありますけど、有名無実というか、試用したらダメなのでクビにしますって言いにくいです。特に正社員で大企業だったら、クビになる方は人生の崩壊くらいのショックを受けるだろうし、問題も起きる。でも、いつでも自由にクビにできるなら、逆に人手が足りないならすぐに補充しようかという気にもなる。ほんと一旦雇ったら最後、どんなスカでも無能でも、死ぬまで面倒みなければならないとか、リストラするにも早期退職金を山ほど積まないとならないなら、おっかなくて気楽に雇えないでしょう。僕がその立場だったら、恐くて雇いたくないですよ。

 それにですね、今の日本に人手が必要なポジション(仕事)がX個あって、仕事をしたい人がY人いるとしたら、何をどうやっても就業率はX/Yでしょう?だからなすべきは適材適所です。求める人求められる人の相思相愛度がマックスになるようにするにはどうしたらいいか?でしょう。今はやりの人材ミスマッチ論ですわね。だとしたら、チャッチャと変えれるようにした方がいいのは自明の理でしょう。誰もが易者さんのように「黙って座ればピタリと当る」と面接だけで人材の奥底まで分かるわけもないし、ましてや応募者にその職場の本当の姿なんか分からんです。また、常に環境が変化するのだから、仕事の内容もカメレオンみたいに変化するし、個々人だって変化する。バリバリ燃えたい時期もあれば、子育てに専念したい時期もある。全てがお天気のように変わる。それを相思相愛マックスにもっていこうとすれば、やることは一つ、激しい試行錯誤でしょう。とにかくやってみる、ダメだったら変えてみる、状況が変わったらまた動く、そしてさらに変える。もう動いて、動いて、動いて、動きまくってトータルでのマックスを得るしかない。

 日本では動かないことを「安定」「安心」として尊ぶ気風があるけど、いつの時代の話じゃい?って思う。
 生まれてから死ぬまで同じ田んぼを耕すとか、江戸時代のど真ん中でひたすらお家大事で無事これ名馬で過せばいいなら、動かないことは最善の策でしょう。環境や設定が同じならば、一つ必勝パターンをみつけて、後はそれを墨守していけばいい。将棋のおける定石のようなものです。戦後成長時期も基本は同じでした。会社は潰れない、仕事は増える、成長するという同一環境だったら長く同じ事をやってる方が絶対有利ですからね。しかし、80年代以降環境が変わってきている。将棋だと思ったらいつのまにか将棋じゃなくなってるようなもので、知らない間に王が5枚出てきたり、チェスの駒が紛れ込んできたり、一マス増えていたり、相手が8人になってたり、しまいには将棋盤に地雷がしかけられていて突如爆発するかもしれないという(^^*)。こうなったら、どんな変化にも対応できるように、常に動いて、変わっていかねばならない。少なくとも動けるようにしておくべき。ボクサーのように絶妙なフットワークとバランス感覚であり、そんな世の中で、手足縛って動かなくして「安心だ」なんてこたあないっしょ?

 第三に、みんな揃って非正規なんだから、待遇面での差別はなくなる筈です。差別ゼロになるかどうかは分からないけど、今よりは確実に減る。だって差別する根拠が無くなるんだから。出てくるのは実質的な「区別」です。使ってみて使える人材、残って欲しい人材、さらには将来の幹部候補生には、これまで正社員にやっていたような優遇措置を付加すればいい。それはそのときの状況をみて臨機応変にやればいいだけで、入り口で決めることではないでしょう?

 日本の社会って、S席、A席、B席みたいに、入ったときにどんな切符を買ったかで一生を決めるという下らんことをやりたがる悪い癖があります。キャリア、ノンキャリみたいに。これは確かに楽なんですよ。システマティックに物事進められますからね。しかし、それは人材育成、選別、管理が無能だという証明でもあると僕は思う。そこが有能だったら強い軍団になる。それはもう500年前に織田信長が証明している。譜代の家老だ家柄だと馬鹿なことをやっていた大名は滅ぼされ、、ほとんど人間以下の身分だった秀吉やら、ホームレスみたいだった明智光秀をどんどん抜擢した信長が勝った。そういう家(企業)は強い。

 でも、競争って本来そういうものでしょう?サッカーチームのレギュラー編成だってそうです。海外の強い企業はそれが出来ているし、日本だってイキの良い企業はそれをやってるわけで、多種多様な人材を、常に変化する状況下で、チャッチャと適材適所に振り分けることができるかどうかです。それが出来ない企業、未だに入口選別を墨守しているような企業は、それがいくら大企業であっても、それは過去のなりゆきで図体がデカくなってるだけの話で、その図体のデカさが仇になっていずれは滅びるだろうし、滅びる過程で順繰りに弱い奴にしわ寄せをするという救いのない終末的な地獄絵図が繰り広げられる可能性が高い。

 第四に、一人一人の人生観や世界観への影響です。いつクビになるかもわからないという前提でやるならば、「そーゆーもんだ」で人生を組立てるだろうし、人生と仕事との間で適正な距離感が掴みやすくなるでしょう。

 それも「一人残らずそうなる」となれば、考え方も変わるし、社会も変わる。大体、一番無鉄砲で傲慢で生意気でパワフルであるべき若い人が「安定してるから」なんて老人みたいなことをいって就職を決めている国に未来はあるのか?です。数年前にも書いたけど公務員だってこれから先安定している保証はない、それどころか、今だってスケープゴート的に叩かれていますし、将来数十年スパンで安定しているとは到底思えない。でもいいんですよ、全員そうなれば別にそれは不安に思うことではない。日本人というのは、「皆といっしょ」だったらどんなことでも出来ます。特攻だって戦争だって出来るくらいなんだから、その程度のことなんかどってことないでしょう。恐いのは、皆安定しているけど、自分だけ不安定という「自分だけ」疎外感です。コレにやられる人は多い。

 そして、誰も彼もがそうなれば、社会の仕組みも変わる。変えないとならない。いつ何時失業するかもしれないのだから、失業問題はどっかの誰かの問題ではなく、等しく全員の問題になる。だから税制とか銀行ローンのあり方も変わる。特に税制。前年度基準とか、1月1日にそこに住んでたとかいう画一的基準で全てを決めるような硬直的なものではなく、「失業しました」証明一本出せば、その月から支払猶予をもらって最後に精算できるようにするとか、電気ガスのライフラインもそうするとか。

 ともあれ日本人の生活の高コスト構造を何とかしないと。日本はデフレで物価が安いとかいうけど、それはコンビニの棚の価格だけ見て言うだけの表面的なものだと思います。低所得者に対する公租公課の非弾力的な負荷の高さはひどいと思う。また奨学金でもオーストラリアのように基本的に申請すれば全額出て、あとは就職後に給与額に応じた額が天引きされるというシステムも考えて良いでしょう。子供の教育費が非常に嵩むから、なにがなんでも失業できない、安定をのぞむという、しがみつかねばならない状況が生まれる。不動産でも更地価格が一番高く、建築物は築何年とどんどん下がっていくから、資産が自動的に目減りする。ローンを途中で解約転売しても莫大な借金が残るとなれば、なにが何でもしがみつく。本来、家というのはメンテさえしっかりすればかなり持つし、ウチの周囲も築100年以上(数えてないけど)が普通。だいたい「築○年」なんて言ってること自体が発展途上国的なバラック安普請感覚の残滓でしょう。途中で転売しても借金が残らないような不動産価格体系にしたほうが、好きなときに買い換えれるからライフスタイルの変更も楽だし、結果的に売買が激しくなるから景気も良くなる。

 一方で、資産が数億、流動資産(貯金など)でも数千万もある人に年金だの恩給だの一律に払ってる馬鹿馬鹿しさもあります。要は日本社会のシステム全てが「ライフスタイルが変わらない」という前提になりたっており、なんでもかんでも「一律」なのだ。だから変わらない奴が一番特をするし、動くと損をするように出来ている。最も変わらねばならないこの時に、未だに変わらない方が得というシステムのままでいるから、アチコチで軋みがでて、しんどくなっている。だから変わるという前提で全てを組み替えていく必要があるでしょう。

 それが出来るかどうかですが、「出来るかどうか」なんて悠長なことを言ってる場合ではなく、やるっきゃないでしょう。でも、やらないで済ませられるなら極力やらない、目をつむれるならつむっていたい、人にしわ寄せして押しつけられるものならギリギリまで押しつけていたい、つまり「しがみつき」たいなら、しがみつくことは可能です。その分、割を食う人は出てくるし、実際出ているけど、それを気にしないなら可能。なんせ、東京大阪を焦土にさせられながらも、まだ「勝つ」とか皆で言ってたくらいなんだから、自分に都合が悪いことは死ぬまで認めないということは出来る。人間というのは底抜けに都合良くなることは出来る。おそるべしコアラ的世界観。

 でも、それでいいんか?ということです。変わりたくない人に無理に変われとは言わないし、しがみつきたければ勝手にどうぞ、です。それは個々人の自由なんだけど、でも、他人を犠牲にしてまでワガママを貫く権利は誰にもないと思うぞ。それに、意識的に変わる変わらないとかいうよりも、もう社会や経済の実態がそっち方向に動いている。正社員の実体が日に日にカスミのように薄くなり、人生的に途方もない固定負債(住宅や学資ローン、公租公課など)があるから、恐くて結婚も出来ない、家も買えない、買わせてもらえないという人が増えるから晩婚化し、少子化し、アンバランスな高齢化が進む。

 社会というのは一種の生態系であり、なにか一つ流れを止めてしまえば、全てが狂うし、社会として機能不全になり、崩壊していく。その大本の原因はどこにあるかといえば、しがみついていることであり、変わろうとしない意思と勇気の欠如、もっといえば人間的な怯懦さでしょう。さらにヘタレ・メンタルで変わりたくなりだけならまだしも、それによって経済的に利得があるという実体もあります。コアラがしがみついている「木」は沢山あるけど、その中には既得権益という「金のなる木」もあり、これが許容の限度を超えているのではないか、というのが金のなる木を持たざるコアラ国民一般の沸騰せんばかりの不満になっている。

しかし、「趣味」の企業はアリなんじゃないか

 ということで、正社員なんぞもともとが幻想なんだから、とっとと無くしてしまえというのが本稿の趣旨です。乱暴な議論は百も承知。しかし、このまま続けていても展望はないんじゃないの?と。

 本来企業というのは戦闘集団であり、飛行機でいえば戦闘機です。それがいつしか旅客機みたいになっていって、乗心地重視みたいに変な話になっていった。本来なら、操縦士がいて、機関砲手がいてという機能分担にならねばならないのに、旅客機みたいになってるからファーストクラスとエコノミーみたいな正社員・非正規という妙な差別が出ている。それはナンセンスだと思うのだ。

 しかし、矛盾するようだが、そういう飛行機があってもいい。それは自由です。それらを全て承知のうえで、昔ながらの日本型経営、乗心地重視の旅客機が良いという企業があるなら、それはもう各企業の自由であり個性です。

 実際、中小・零細企業やベンチャーは、企業の戦闘性よりも、仲良しクラブ的、サークル的、趣味的な要素を全面に押し出しているものも多い。「面白いから」「皆が楽しくなれるから」「世のため人のために貢献できるから」企業をやるというモチベーションで始めて、実際にそのとおりやっている企業も山ほどあるでしょう。大企業だって別にやろうと思えばできる。別に趣味で企業をやってはいけないという法律はどこにもない。

 大体、「お客様第一」「社員の個性を伸ばし生き生きとした職場」「環境やエコに優しく」とかいうのは、当たり前のようで企業というコンバット(戦闘)の本質には矛盾するのだ。それでいて「高い収益性」「輝かしい発展」なぞ叶うわけがないのだ。そんなに競争世界は甘くないのだ。

 だもんでも企業説明でもちゃんと「当社は、あくまでお客様や社員を第一に考えています。それゆえに当然のことながら収益性は極めて低く、常に収支トントンが精一杯という苦しい経営を続けています。しかし、意地でも頑張ります。なぜなら面白いからです。もしかしたら給料が出ない場合もあるかもしれませんが、それでもよろしければ入ってください」と言っていただきたいです。そういう会社なら、入ってもいいかって人は、これは意外と結構いると思うぞ。

 一万人の削減をするソニーも、本社7000人を半減しようかというパナソニックが、思い直して次のように言うこともアリだと思います。「もう人員削減してガリガリ亡者に頑張るのは止めます。従業員を大事にしていたので国際競争ではこんなに遅れをとってしまいましたが、むしろそれを当社の優しさ、存在証明としてポジティブに受け止めています。従業員やお客様を泣かせて競争で一番を取るくらいなら、競争なんか負けても良い、いっそのこと潰れても良いと経営陣一同腹を括っております。もっと大事なものがある!」と、そのくらい言っていただきたいです。

 守銭奴のような株主ばっかりの海外企業(それが資本主義、株式会社という本来の姿だけど)では、こんなこと言い終わらないうちに社長の解任動議が出るだろうけど、株式相互持ち合いの日本なら、それは可能。これこそが「新しい日本型経営」の一つのパターンというのもアリでしょう。

 最後にビヨーンと想像の飛距離を長くすると、今の世界には二つの流れがあるように思います。一つは金儲けマシンとしてのグローバル企業と資本主義を極限まで推し進めていくカレント(潮流)と、まったく発想がちがうカレントです。前者は、行くつくところまで行くしかないでしょうが、世界制覇を目指すなら世界一の人材しか採らないとなっていって、超々エリート社員だけが超高給を取ることになり、椅子は極限まで少なくなり、しまいには極く一握りの中枢幹部だけで良くなり、最後にはそれすらも要らない。巧妙にプログラミングされたソフトウェアが大体のことは賄えるから、人類全員失業か奴隷みたいな。まあ、最後は冗談ですけど、でも「どこまで行っちゃうんだろうね?」ってのはあります。

 もう一つのカレントは、なんで金儲けをしなきゃいけないの?みたいな凄い地点から立脚していくもの。会社は営利社団法人だけど、「営利」って何なの?要るの?みたいな感じ。つまりは「なんか」はやるのだけど、そのモチベーションは「金」ではなく、なにか他のもの。つまり、楽しいから、面白いから、やるべきだからという部活やボランティア的な発想です。でも、人類の歴史をみてても、人々が「なんか」やるのって圧倒的にこの系統が多いです。こっちの方が保守本流といってもいい。武士だって僧侶だって「儲かるから」やってたわけじゃないでしょう。騎士だって、革命家だって、宣教師だって、錬金術師だって、芸人だって、ゼニカネ第一でやってたわけではない。

 人間には「面白がる」という不可思議で、でも強烈な感情があり、また理想や志という感情もある。単なる野盗や山賊と武家集団を分かつものは、利益重視系かそれ以外のサムシング重視系かだと思うのですよ。「なんか」欲しいんですよ。金だけ入れば満足さという人は、実は少ない。だから、古来商人というのは、どこの社会でも一段軽く見られていたし、卑しいとされてきた。士農工商でも最後にくるし、利息を取ってはいけないという宗教戒律すらある。なーんか人間の本性に合わない部分があると思うのですよ。

 つまりは人類社会における「商」とは何か?どの程度に位置づけておけば良いか?論です。
 OWS運動とも通底するけど、どのような社会形態が人類にとって最適なのか?それを、今、地球上のあっちこっちで皆が考えていて、あれこれ試行錯誤しているってのが本当の現状だと思います。日本でもその種のムーブメントは、実はかなり起きていると思います。まだまだ散発的だし、名付けられていないし、メディアに大々的に認知もされていないけど。てか、正社員的発想にひっぱられがちな人(それは大手マスコミの人もそうだけど)に、それが見えるのかな?皮膚感覚では分からないんじゃないかなって気もします。ま、茫漠とした話なんですけど、個人的な興味の焦点は、むしろこっちにあります。




文責:田村



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