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今週の1枚(2012/06/18)



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Essay 572 :生活保護の不正受給報道について思うこと

   
 写真は、ウチの近くのLane Cove。超望遠で撮っているので実際の見え方とは違うのですが、こう撮ると遠くに山が見えるのがおわかりでしょう。ブルーマウンテン方面までクッキリ見えます。
 シドニーは地形的には盆地であり、"Sydney basin"(シドニー盆地)と呼ばれるのですが、こうしてみるとよく分かります。



 リアルタイムに日本にいないので、どんな感じで報道されているのかよく分からないのですが、生活保護の不正受給に関する報道が多いように思います。それはもう、ときによってはバッシングと呼んでもいいくらい過熱したり。

 「なんだかなあ」と思います。いや、「なんだかなあ」という脱力的な感じではなく、より強く「ええ加減にせえよ」くらいに思います。そう思う理由は幾つかあります。

支出削減のテクニック

 過去に何度か書いたと思いますが、ずっと昔に神戸のケースワーカー(福祉事務所職員による)殺人事件の弁護をやり、その際に色々と勉強したのですが、福祉の現場、それも公的福祉・生活保護などの現場では、予算を握る財務省の圧力が非常に強いという実態がありました。とにかく受給打ち切りを良しとする勤務評定やらカルチャーです。

 つまり、いかに人を助けるかではなく、いかに助けないか(支出を減らすか)がポイントであると。
 不正受給はその頃から(って戦後連綿として)ありますし、一族郎党全員生活保護、生まれたときからそういう環境だから、もう生活保護なんか貰って当たり前だと思っている人々がいます。これはもう世の中がバブルであろうが、なんであろうが、変りません。そういう現実がある。

 他方、福祉の本質は「ほどこし」ではなく自助努力の支援であるという理念があります。単に給付していればいいというものではなく、ちゃんと社会で自立できるように、仕事探しをサポートするのも福祉の大事な仕事です。その意味で、受給終了(打ち切り)は、自立・卒業という喜ばしい事態として描かれます。

 この二点から、福祉の現場では、不正な受給を排除し&被保護者の自立支援という二大正論、それにとにかくお金をケチりたい財務省(当時はまだ大蔵省)の意向とがガッチリ手を握り、受給打ち切り、終了は、とっても喜ばしいこと、エラいこととされる傾向があった。もちろん明文化されているわけではなく、カルチャーというか、空気というか、不文律としてあった。

 優秀な官僚は、単に現場にハッパをかけるだけではなく、あの手この手を使います。
 事件を調べているときに、福祉現場の修羅場をくぐってきた(包丁つきつきられて監禁されたり)中川健太朗先生(現在花園大学名誉教授)に現場のあれこれをお聞きし、ご厚意に甘えまくってご自宅までお伺いして意見書を書いていただいたりしました。その際、教えていただいたのですが、官僚のやり方の巧妙なこと。すごいです。

 例えば、これまで生活保護費の受給は、地方の役所の大きなセクション、例えば○○県庁とかで一括してやってたのですが、これを各市町村の出張所で扱うようにしたそうです。名目は、山間部にお住まいの方々がいちいち都市部に出てくるのは大変だから、より受給しやすく「改革」したと。どこからも文句の付けようがなさそうなんですけど、大きな裏があります。

 日本社会では生活保護を受けていることを「恥」とする意識が強いです。それは田舎にいけばいくほど強い。どうしても困って、「恥を忍んで」生活保護を受給するにしても、近隣には知られたくないという意識が非常に強いです。これはマトモな人、真面目な人ほど強い。これまでは県庁所在地など都市部だから、貰っていても村の住人には知られなかったのだけど、自分の村役場で受給してもらうことになると、全てが明るみに出てしまう。もう村には住めないくらいに思い、受給の自主的な打ち切り(諦め)が増えたという。

 以上は記憶だけで書いてますので、もしかしたらデテールが違っているかもしれません。が、エッセンス(やり方の巧妙さ)は同じです。詳細にご興味ある人は、中川健太朗著「誰も書かなかった生活保護法」をお読み下さい。他にも就労指導、扶養調査、費用返還など数十年現場の第一線でやってきた人ならではの分析と提言があります。1991年刊と古いですけど、今尚教科書的な存在でありうると思います。また、寺久保光良著「「福祉」が人を殺すとき―ルポルタージュ・飽食時代の餓死」は、1988年というバブル時期にひっそりと東京の片隅で餓死した母子家庭の背景を追いかけ、日本の貧困の福祉をルポしていきます。今の時代の嚆矢となる本だと思います。僕も読み直したいけど、日本の実家に置いてきたままで、今度帰省したときに持ってこよう。


 で、この受給場所を変更する話を聞いたとき、まず「なんて頭のいいやり方なんだ!」と感心しましたね。目的の良し悪しは別として、霞ヶ関の奥まった部屋に居ながら、日本の田舎の人間心理の奥まで見抜く洞察力といい、それを衝くために、どこからも反論できないような美しい「改革」のコロモをまとわせる創造力といい、「これが日本の官僚のレベルか」とも思いました。めっちゃ優秀ですわ。

 日本では官僚こそがガンだとか弊害だとか80年代から言われ続けて30年、いまだに強いままなのは何故か?といえば、話は簡単、「最強だから」です。日本の官僚ほど、現場と制度を知悉していて+頭のいい人が日本には存在しないからです。いや、個々的には幾らでもいるんだけど、集団としてまとまったパワーになりにくい。口先でいくら批判しようが、実際にパワーがなければ、犬がキャンキャン吠えているのと一緒で、現実は1ミリも動かない。

 だから、なに?というと、即座に連想することは以下の二点。
 一つは、TPPのところでも書いたけど、日本の官僚サマが守ってくれたらアメリカが何をどうやろうとも結構な防波堤になるだろうということです。オレンジ・牛肉・アメリカ車輸入のときもそうだったけど、酢の蒟蒻の(←こういう表現が日本語にあるのが楽しい)といいながら、やるように見せて結局やらない。「はい、ごもっとも!」「早急に!」とか「いいお返事」なんだけど、チンタラやってて進まない、進めない。「早よせんかい!」と突かれても、「今大至急やっています!」と「蕎麦屋の出前」状態でしのぐ。相手がキレたら、「た、大変なことになりました」とか言ってはぐらかす。もう、やりたくないことをやらないで済ませることに関しては、日本の官僚さんは天才ですから。さすがのハーバード大卒の俊英達も叶わなかった。アメリカのエリートは、断固としてやる!という男気系のことは強いのですが、何もしないまま魔法のように”なあなあ”で済ませるという「空気投げ」みたいな技術は日本のエリートの方が強い。だからTPPごとき、どってことないでしょうという。要は日本国内において最終的なキャスティングボードを握っているのは、いかな大国であろうが外国ではなく、身内のエリートさんだということです。彼らがどう思うかで日本は右にも左にも行く。

 だから(その2)は、彼らと戦い、時には共に手をたずさえ、日本を少しでも良くしていこうと思うなら、@彼らと同等レベルに制度&現場の知識を持つこと、A詰将棋のようにあらゆる局面を考え抜かねばならないということです。これは「知的な戦争」なのだと。そのためには、もう戦争レベルの根性で、勉強して現場行って、また勉強して現場行っての繰り返しであり、そうやって得た知見を今度は考えて、考えて、コメカミの血管がブチ切れるくらい考え抜くこと。世直しとか、制度改革とか、何が現実を少しでも良くしていこうってのは、そーゆーことだと思います。「当事者が複数おって、それぞれ思惑が違う局面で何かを自分の思う方向に変えていこうとすること」=「政治」をしようと思えば、どうしてもそうなる。だって、法廷闘争やビジネスという、極めて限られた当事者・限られた局面においてすら、脳髄振り絞ってスカスカレモンになるくらい考え抜き、泥んこ道を重たい荷物を抱えてとぼとぼと現場巡りを続けるという、クソ地味〜な努力が求められるのですから。

官僚=日本人=僕ら

 さて、日々刻々減っていく「米びつ」(国家財政)を見ながら、髪の毛をかきむしっている財政担当の官僚さんが、社会補償費の支出が伸びすぎる、なんとかならんか?とあの手この手で考えるのも当然でしょう。受給場所を変えることで→人間心理というプリズムを通して→支出を減らすという方法を思いついたとしても、まあ、わかります。彼らはちゃんと「仕事」をしたわけです。それが悪魔的なのか天使的はともかく仕事はしている。彼らは「やらない」ことに関しては天才だと言いましたが、決して怠け者ではない。それどころか勤勉の権化のようなものです。とにかく「仕事」は一生懸命、真面目にやる。

 今、「官僚さん」とか揶揄気味に、なんか僕らとは違う人種、一種のエイリアン的にカリカチュアしてますが、本当は僕らと寸分違わぬ普通の日本人だと思います。あれこれ特徴をあげつらってますが、これって官僚の特徴ではなく、日本人の特徴であり、それは僕らの自画像でしょう?なんだかんだ言ってやらないこととか、対立を避けてエブリワンハッピーの「大人の解決」を目指そうとすることとか、今自分のやってる仕事の内容が、人道や天道に照らして真実正しいのかをあまり検討せぬまま、とりあえず働く、それも真面目に、勤勉にやるとか。ねえ、どこが違うの?という。

 そして、その同一性こそが、日本における官僚&制度改革を難しくしている最大の要因だと思います。
 おっとり刀で斬り込んで、本丸まで攻め込んだとしても、近づくにつれ波長同調していって、似てきて、誰が敵で誰が味方かわからなくなっちゃうという。彼らが持っている資料データーと現場知識を共有し、「ね、こうする他ないでしょう?」と言われたら、「そうだよなあ」と妙に納得しちゃうんじゃないかな。多分僕もそうなると思うし、あなただってそうなる。

 それは日本人が無意識的にもっている「問題解決のモデル」が同じだからでしょう。無神論者の多い日本人は、妙なところで醒めているし、すぐれてリアリスティックです。だから「現実的な落し所」というのを探すし、それを妥当とする意識も似てくる。それは日本人が持っている、よい意味でも悪い意味でも「現実的」である点でしょう。現実をまず見て、その上で最大の調和点を探すという。それの何が悪いかというと、現実そのものを叩き壊すような大改革がやりにくいってことです。

 改革というのは、ある種の「非現実的」で「無慈悲」な部分がないと成就しにくい。例えば、飼ってた犬がいつしか孕んで可愛い子犬を6匹生みました。一匹はウチで飼う余裕があるけど、全部は飼えない。そこで友人知人に声を掛けて貰ってもらおうとするけど、2匹しか行き先が決まらない。そうなるとあと3匹どうするか?そのへんに放って野犬化して人を襲ってもまずいし、いつまでもウチになつかれてもどうすることもできない。だから、、だから?、、そう、もう、その場で首をへし折って殺してしまえ!という。これが「改革」という作業のミもフタもない本当の姿だと思います。でも、クンクン鳴いてる可愛い子犬を殺すなんてことは、普通できないです。でも、企業のリストラ担当者というのはこういうことをやってるわけです。家族のために必死に仕事にしがみつく昨日までの同僚や部下を切る。彼らから「人殺し」まがいの面罵を受けつつ。心壊れますよ、普通。だもんで、日本人には中々思い切った改革ができない。リストラや補助金打ち切りくらいだったら、心を鬼して出来るかも知れないけど、それ以上にむごたらしいことは、なかなか出来ない。

 でも、海外ではわりとこれが出来ちゃったりするのですね。それは多分、そういった普通の感覚を麻痺させる向精神薬みたいなものを持っているからだと思います。すなわち宗教、思想、民族意識、それよりやや普遍的な「理念」「信念」などです。「○○のためなら死んでもいい」「○○のためなら人を殺してもいい」というくらい強烈なサムシングを持っているかどうかです。「人命よりも大事なこと」を子供の頃から触れて、考えて、それが精神の背骨になっている度合が強い。

 そりゃエブリワンハッピーで皆仲良く幸福なのがいいに決まってるけど、それが決定的に出来ないということもありうる。そのとき、信じる価値判断にしたがって、誰かを犠牲にして全員を救わないとならない。そういうことがいつかは起きる、いつかは自分も全責任をひっかぶって決断すべきときがくるのだ、という心の強さとその訓練ですね。これがわりと日本人よりもナチュラルに強いような気がする。

 だからテロリストが人質を取って要求をしたときも、日本人は「生命は重い」という一般論に縛られて断固たる行動が取りにくいけど、諸外国はわりと簡単に(って簡単ではないだろうけど)、人質を見殺しにしますよね。「しかたがない」と。それは「命よりも大事なことがある」ということを、意識的か無意識的か、日頃から考える習慣、訓練、文化があるからでしょう。ひいては為政者、リーダー、人の上に立つということは、あるいは「決断」という行為は、そーゆーものなのだという意識が比較的徹底しているのでしょう。


 以下、この精神構造の差異については面白いのでもう少し掘り下げて書いたのですが、長くなるわテーマから外れるわで、バッサリ割愛します。要旨をいえば、日本人には無神論者が多いこと=現実的なバランス感覚に富んでおり=思いやりも深い優しい人々であることが通底していて、結果的に日本における改革を難しくし、なんでも玉虫色で「なあなあ」の解決をはかろうとするんじゃないかってことです。大体、日常的に「場の空気を読む」なんて柔弱なことを習いとしている気遣い人間にとって、「断固たる!」なんて態度は一番苦手でしょう。

 話を戻すと、そのあたりの深層心理というか、なんとなく普通に思う「問題解決のモデル」が、同一民族ゆえに似通ってくるということです。だから、官僚といっても別人種ではなく、同じ立場に立てば、あるいは見えている風景が同じになれば、結局誰もかれも、僕もあなたも、似たような問題解決パターンになりがちで、それも無理もないよねって話でした。改革を訴える政治家や評論家が、実際に政権を取ったり、実務をやるようになると、徐々にトーンダウンしてきて、「官僚にとりこまれた」「言いなり」とか批判されるような状態になるのもこのような事情あってのことでしょう。

 でも、ほんと、弁護するつもりはないけど、リアルにみれば僕もあなたもそうなる可能性は大いにある。やっぱり誰かに面と向かって「すみませんが、死んでください」とはよう言えない。可愛い子犬は殺せない。仮にそれを言える/出来る政治家や官僚が出てきたとしても(実際にはそこそこいるとは思いますが)、今度はそういう人物は過激すぎて嫌われる。メディアでも問題発言とかいって叩かれるし、尻馬に乗ってヒステリックに騒ぐ国民もまた一定数いる。かような次第で、何事もよう決めきらない、決めたところでどっかで抜け道作って骨抜きにする、ゆえに「やらないことに関しては天才的」に見えたりもするのでしょう。それは僕ら自身が、よう決めきらなくて、やらないことに関しては天才的だからだと思う。

福祉支出削減のテク(1)=法令プログラミングの魔法

 さて、もう一段話を戻して、福祉の話です。官僚さんが知恵を絞って支出を削減しているという話です。
 僕が体験したのはバブル〜崩壊直後くらいですが、同じようなことは今でもやってるでしょう。というよりも、国の財政はバブル期に比べるまでもなくボロボロ状態であり、国自体が生活保護を受けたいくらいでしょうから、予算の削減はいっそうの至上命題になっているでしょう。しかし、世の中が不景気になるから受給希望者はうなぎ上りに増えている。お金ケチりたいVSお金欲しいの二つベクトルの激突度は、当時とは比較にならないくらい、今の方が強いでしょう。

 かといって、心優しい日本社会では、官僚さんとしても「金がないからもう払えない」「すみませんが、死んでください」とは口が裂けても言えない。昔「貧乏人は麦を食え」といって物議をかもした総理大臣がいましたが、今はもっとソフトな社会になったから「貧乏人」という言葉すらタブーになってることでしょう。そんな雰囲気、そんな空気で、一体何を言える/出来るというのだろうか?

 そこで出てくるのが、頭の良いというか、姑息というか、回りまわって、巡りめぐって、知らないうちにそうなっているという魔法のパターンです。真綿で首をゆっくり絞めて、あ、なんか気持ちいい、あ、でも気がついたら死んでいた、みたいな。

 この魔法は、一つには法律プログラミング技術です。法律というのは極めて論理的に書かれており、総則や定義から入る。民法でも「”人”とは何か?」の定義から始まる。胎児は民法上「人」なのか?が遺産相続などで実際にも問題になります。厳密に論理的なことを言語だけで表現するから、ぱっと読むと日本語として滅茶苦茶まどろっこしい。だから分かりにくい。分かりにくいだけに、気づかれないようにバグやウィルスを忍び込ませることも可能です。

 例えば委任立法というのがあります。専門的な話になって悪いのですが、千変万化する現場を予め全て予想して法律に書くのは不可能です。一定部分は現場の裁量に委ねるしかない。いわゆる「法」と呼ばれるものには判例法、慣習法、自然法などいろいろあるけど、紙に書かれた「法令」(実定法)のなかにも色々あって、ランキングもあります。「法律」というのは、国民の代表者によって国会で可決したもので(地方議会の場合には「条例」)。しかし、立法機関(議会)ではなく行政機関もまた「法」を作ることが出来ます。これが「命令」とよばれるもので、政令、府令、省令、各規則など。さらにその下に訓令、通達、規定、要項、さらに「○○局長照会回答」とか呼ばれる一群がある。平成24年(2012年)段階で、日本国の法律は1867件しかないけど、政令は2031、府省令は3799件もあります(これに加えて規則や通達などがある)。

 なんでこんなにウジャウジャあるのか?
 会社で例えるならば、まず社長や重役が取締役会で大きな方針を決める。これが「法律」です。でも具体的な実行においては、例えば営業部が行い、営業部長が中くらいに大きな判断を下し、さらに各エリアにおいては部署ごとに営業課長が、さらに係長が、さらに主任が、、と決定権限が少しづつ下におりていきますよね。100万円以下の案件だったら係長決裁でOKだけど、それを超えると課長決裁、3000万円を超えると部長決裁がいるという。それに似てます。

 委任立法というのは「部下に委ねる」ことです。大綱だけ定めておいて、細かなやり方は「政令でこれを定める」という形にする。政令でもさらに細かいことは省令に委ねる。また、個々の場面において、「おやつは300円までにするように周知徹底されたし」という訓令や通達が行われ、また現場から「バナナはおやつに含まれますか?」という照会に対して「昼食のデザートとして食される場合に限りおやつとして扱わなくても良い」という「回答」が与えられる。そして大事なことは、現実に僕らが行政に接する場面(市役所の窓口に行って何をしてもらう)ときに、具体的に何をどうするかというのは、こういった下位規範が定めている場合が殆どだということです。

 長々説明したけど、立派な法律が出来ても、それを実施するための膨大なプロセスが必要であり、その過程において骨抜きにすることも、別の方向にもっていくことも、あるいは限度を超えて拡大することも、出来ないことではないって点です。

 例えば、国が景気対策のために、国民全員に一人頭百万円を配るというありえない大盤振る舞いを決め、そのとおり法律が決まったとします。しかし、具体的にその100万円をどうやって配るのか?という段階で、給付を受けるためには住民票などの他に、二重払いを防ぐために「過去に貰ってませんよ」という未給付証明書を別の役所から貰ってこないとならないとし、さらにその証明書を発行してもらうためには、自分名義の全ての銀行口座における過去半年の入出金記録を提出せねばならず、さらに、、、と幾らでも条件をキツくしていき、勤めていたら到底無理!ということにすることも出来る。また、給付締め切りを設定し、それが過ぎたら権利をパーにすることも出来るので、結局受け取れない国民が殆どだってこともありうるわけです。まあ、百万貰えるとなれば皆必死になって諦めずに頑張るだろうけど、細かな行政給付とかだったら面倒臭いからほったらかしってケースも多いでしょう。

 他にも、引用や準用という「逆サイドに振る」「パス回し」のような事も出来ます。この場合は「○○法○条○項の規定を準用する」と書き、その法律を調べてみると、そこにもまた別の法律を準用するとなっていて、追っかけていくうちに力尽きてしまうという。

 法律というのは分かりにくくしようと思えば無限にわかりにくくできますし、実効性を無くそうと思えば幾らでも出来ます。だから、生活保護に限らずなんかの給付を減らそうと思えば、受け取るための条件をありえないくらい厳しく、あるいは面倒臭くしていけばいいわけです。申請書もペラ一の紙ではなく、電話帳みたいに分厚くしておけば、見ただけでゲンナリして諦める人も出てくるでしょう。法律がプログラミングであり、意図的にバグやウィルスを混入させることも可能、というのはそういう意味です。

 昨今話題の年金破綻だって、これを使えば絶対に破綻させないことは容易です。年金の受給資格を見えない形で制限し、必要書類や手続をありえないくらい膨大にしてしまえばいいのです。必要書類を300種類とかにすれば普通の人にはまず出来ない。また、そこまでいかなくても住民票やら印鑑証明やら、書類を揃えるにも手数料が必要で、それをいちいち払っていた合算額は年金受給額を上回るってことも出来ないわけではない。つまり10万円の年金を受け取るためには、合計12万円の手数料を国や自治体に払わねばならず、だから破綻しないってことも理屈の上では出来る。プログラミングの魔法というのはそういうことです。

 余談ながら、役所はもっと凄いこと=「実力行為」も出来ます。煩瑣な手続を必死にクリアして、やっとこさ申請書を書き上げたとしても、窓口で「これが足りない、あれがダメ」といって突っ返すことも可能。さらには、意図的にサボータージュをして「うっかり忘れる」ことも出来る。大事な書類を「うっかり紛失」なんてことも出来る。

 ゆえに官僚やお役人に目を付けられたら、死ぬほど虐められるということであり、これは江戸時代の「お代官様」の頃から構造そのものはあまり変ってません。申請をしても認可されるまでに3年かかるとか。だからこそ、ことをスムースに運ばせるために「口をきいてくれる人」が必要であり、そこに天下りの需要が生じ、政治家の必要性が出てくるという。ま、これは社会科のおさらいですね。でもって、いくら国民の代表者が国会で決めても、実行部隊の行政機関(官僚、役所)の胸先三寸で生かしも殺しも出来ること、それが出来るくらいに行政が肥大してしまっていることを行政国家現象とか、官僚国家とかいうわけですが、これもおさらい。

 先ほど、クソ勉強+現場と力説したのは、こういった実情があるからです。机上で美しい理論を構築しても、本当に現場でそのとおり廻っているの?ってことです。細かな法令や通達を調べ、実務の現状をモニタリングしという地味な作業無くして、なにごともなしえない。でもって、実際にそういうことに取り組んでおられる方々、それは市民団体、NPO、弁護団、そして政治家/政治家志望者は、日々それをやっておられるでしょう。あまりにも膨大で複雑な作業のため、そういった本当の活動部分がメディアに取り上げられることも少ないです。記者会見をやったとしても、紙一枚のレジュメに「独自の調査をしたところ」のワンフレーズに要約されちゃったりするし、新聞に載る頃にはそれも削除されたりしている。実際いちいち書いてられないでしょうしね。でも、その書かれていないところに、ずしっとした「現実の重み」が潜んでいる。それは知っておいた方がいいだろうし、知っておくのは主権者(=最高責任者)としての国民の義務だとすら思ったりもします。

 前述の生活保護の「給付場所の変更」なんてのは、法律を改正しなくても(国会で国民の代表者が議論・可決しなくても)、行政の一存で決められるような事柄です。このように、一見ちゃんと法制度は整備されているように見えながら、あるいは何も昨日と変っていないように見えながら、実は作動しないということもありうる。精密な電気回路みたいなもので、コンデンサーを一個抜き取ってしまえば、それだけでもう機械は動かなくなる。

福祉支出削減のテク(2)=世論操作の「空気」投げ

 もう一つ、支出削減にやるとしたら、世論操作でしょう。
 日本は曲がりなりにも民主主義だし、実際にもそうです。ということは民衆の意向、世論によって話が決まる傾向が強い。しかし、この「世論」というマボロシのような存在がクセモノなのでしょう。

 日本社会で物事を決めるのは「根回し」が必要だと言います。なぜか?といえば、物事はその場の空気で決まるからでしょう。だから物事を自分の思う方向に進ませるためには、空気をつくるところから始めねばならない。そのために、発言力・影響力のありそうな人に予め話をしておき、シナリオを作る。さきほど「空気投げ」と言いましたが、ほんとにそうで、まずは合気道のように相手の力を利用して投げる、そして最後には「空気で投げる」。

 いま日本の生活保護受給者の数がうなぎ上りだと言われています。確かに数は増えています。でもねバブル崩壊後の停滞、世界経済の流れ、中流層の浸蝕崩壊というトレンドからしたら、思っていたほど上がっていないという見方も可能だと思います。パッと見の印象でしかないけど、僕はそう思う。「え、これだけしか増えてないの?」と。本当はもっともっと増えてしかるべきなんだけど、増えていないということは、なにかしらの「圧力」があるのではないかと。でもメディアでもネットでも、こういう視点でモノを書いているものは、なぜかとても少ないです。

 なぜそう考えないの?って。同じ現象・数値を見ても、経済情勢や失業率、貯蓄率の減少などからすれば、本来貰うべき層が貰っていない可能性が高く、これは受給のためのハードルが高すぎるとか、広報が不徹底であるとか、福祉に対する根強い偏見が社会に残っているからかもしれず、それらの早急な調査と改善が望まれるという議論だって、あっていいじゃないかと思われるのですね。でも、あんまりそうなってないような気がする。なってますか?

 論理的に右にも左にもありうる事柄が、一定方向に固定されているとするなら、そこにはもう「空気」が出来ているんじゃないか。その空気は、もしかしたら誰かに操られているものではないか。

 つまり生活保護や福祉を受けるのは「恥ずかしいこと」であり、どうしても無理もない「真実可哀想な人」だけに許された恩恵的特権であり、まともな人間だったらそんなことを考えないという風潮です。この風潮は、別に新たにクリエイトしなくても、「働かざる者食うべからず」の勤勉民族日本人の得意分野ですから、オリンピックの聖火のように常に種火はある。あとはちょっと風を煽ってあげれば良い。

 この風煽りが、例えば一連の不正受給の報道であったするわけです。
 といっても、優秀な官僚さんが、メディア関係に必死に電話掛けたり会ったりして「煽ってください」なんて愚直な真似をするとは思えません。そんな見え透いたことをする奴は、そもそも優秀ではない。合気道ですからね、相手の力を読み取り、利用し、ほんのちょっとだけ軌道修正すれば足りるはずです。

 例えば今のマスコミはネットに押されてどこも青息吐息です。販売部数を伸ばしたい、てか減少に歯止めを掛けたい。とりあえず売りたい。売るためにはどうしたらいいかというと、手っ取り早いのは大衆の下劣な感情をくすぐるものです。嫉妬心や怒りを喚起させるような、「こんなヒドイことが」「こんなとんでもないことが」というショッキングな図柄になりそうな事件をフィーチャーすればいい。一方、長引く不況で鬱憤溜まりまくりで、八つ当たりしたくて溜まらない人々も一定数いるだろうから、そういう人々が乗ってくる。ワイドショーも視聴率が取れる。広告枠が売れる。こういった「潮の流れ」をクールに見極め、どういうタイミングで、どういうネタ(例えばこんな事例があるとか)を、ボソッとリークするだけでもいいし、某議員がらしきコメントをするだけでもいい。あとは勝手に動くでしょう。

 まあ、真実やってるかどうかは分かりませんよ。ただ、全体の図式は、なんだかんだいって支出抑制の方向に進んでいますよね。そういう空気になっていく。

大局観の喪失と弱者同士の噛み合わせ

 で、これが問題だなあって思うのは、幾つかあって、@物事の本筋や大局観を見誤ること、A近視眼で感情論的な生き物に調教されちゃう、Bでもって弱者同士の噛み合わせをやらされることなどです。どうしようかな、これ書くと長くなりすぎるんだけど。

 @の大局観ですが、不正受給なんか今に始まったことではない。連綿と続いている伝統芸能ですらある。「何を今更」ですよ。言うならば「駐車違反をしているドライバーがいる」程度のことでニュース価値なんかあるんかい?本当に問題の不正受給とは、プロのような連中です。暴力団とかエセ同和団体とか、行政手続に長けて、何を言われようが全く気にせず、強面で押し通す人々。その昔、新潟の福祉事務所に出刃庖丁もって乗り込んだ受給者が職員を刺殺した事件もあるくらいで、彼らはもうほとんど「仕事」のように受給を受けている。これをカットすべきなんだろうけど、本気でやるなら福祉事務所の職員さんに警察レベルの防衛装備(拳銃携帯とか)を与えるとか、訓練や適性をみる必要がある。現場はマルボーレベルの話なだから。

 メディアやネットもこういう部分は触れにくいでしょう。下手に触れたら、自宅を右翼の街宣車で囲まれたりしますよ。おっかないです。でも本当に問題にすべきはそこです。でもって、こういう人らは、不正受給とか世間の圧力や批判が強くなっても屁とも思わない。だから何の実効性もない。逆に、コラテラル・ダメージ(とばっちり)として、本来貰って然るべき人々が、ビビって貰わなくなる。これはもう真面目で、まともな人ほど、貰うことに苦痛を感じているから、「やっぱ自分で頑張るべきだよなあ」とか思っちゃって、無理に頑張って、結局はダメで、幼い子供を道連れに一家心中ですわ。福祉の本質はこの幼い子供を守るところにあるはずなのに。子供が死んでも、部数が伸びたらそれでええんか?まあ、無茶な論理ですけど、でもこのあたりは現実そのものがムチャクチャなのだ。お茶の間で「けしからん!」とか怒って、コタツの台に湯呑みをドン!と置いたところで、現実は何にも変りはしないどころか、その不勉強な怒りや感情が、回りまわって幼い命を奪っているとも言えるのだ。なんたる不毛さ。

 大局観で言えば、普通に考えたらこの先の日本経済が、高度成長時やバブルのような形で栄える可能性は低いです。それを「貧困」と呼ぶかどうかは別として、一定の収入に支えられたライフスタイルというものを見直す時期に来ている。福祉というのはその基軸になるものだけど、いつまでも高度成長時の福祉スタイルでやること自体が無理がある。じゃあどうするの?でしょう、考えるべきは。

 決断でいえば、大きく二つのベクトルがあり、あくまでも「強さ」を求めて、強さによる豊かさで国を成り立たせていく方向性@と、強さは限界あるから弱くても貧乏でもいいから皆仲良く平穏に行く方向性Aで、どっちを取るかです。@を徹底するなら、国際ビジネスの一線で通用しそうもない、足手まといになりそうな国民は、前に書いた「国家による間引き論」のようにビシバシ間引き。皆が幸福にならんでもいい、全員共倒れになるなら、一部の優秀な奴だけでも地力で幸福になる道を残すべきであり、弱者にそれを邪魔する権利はない。これをやったら国は強くなりますよ。ヒットラーの優生思想そのまんまだけど、ナチスくらいには強くなる。@が「鬼畜修羅道」だとしたら、Aは仲良し貧乏道ともいうべきもので、寄り添い合って自給自足の村でも作って、それでも生きていく確かさや喜びを分かち合うような方向性を模索する。物質的には貧困かも知れないけど、精神的に豊かになろうという。

 どっちもありえないくらい非現実的ですよね。でも、「んな馬鹿な」と妙に「現実的」になってしまうのが、僕ら日本人なんだよな。だからBの方向として、@とAの共生を図るんだけど、もう徹底的に峻別したほうが共生しやすいと思います。一国二制度のように、ゴリゴリの資本主義を極める日本Aと、限りなく社会主義に近い体制にする日本Bとに分割する。国民は、随時AかBを選べるようにする。Aに入れば血も涙もない苛烈な競争社会だけど、報酬はデカい。Bに入れば、仕事は勝手に給食当番のように割り振られ、真面目にやってれば、給食のようにゴハンは貰えるし、住まいも与えられるという。徹底的な階級社会だけど、階級にしない。上下関係ではなく並列関係にし、国民はABを常に選べる(変えれる)という具合に憲法に明記する。Aグループでバリバリ外資を稼いで貰う反面、公共サービスなど地味でお金にならないけど大事な仕事はグループBが請け負う。その管理費用をAが払い、Bはその収入で全員を公平に養う。

 Bにおいては、福祉はもう福祉ではない。生活保護はもう生活保護ではない。貰って当たり前であり、それは給食を貰うことをいちいち「福祉」とか考えないのと同じです。まあ、アホなことを書いているようですが、今の日本の問題の根本は、無限に経済成長するという前提で出来上がったライフスタイルにいつまでもしがみついている点、もっと言えば、全員が同じライフスタイルであろうとする点にあると思います。そんなの無理だって。だとしたら、ハードが好きな人と、ソフトが好きな人とに分けたらええやん。原理が違うんだから、違うシステムにしたらええやんってことです。それが僕のいう「大局観」であり、しかし、個別の某芸人が不正受給をしましたとか、けしからんとか、そんな話を百万年やり続けても抜本的な展開はありえないんじゃないの?そうこうしている間に、また幼い命が失われていくのではないの?不正受給が真実ゼロになったって何の問題の解決にもなってないんじゃないの?ってことです。

 感情論的調教とか、弱者同士の噛み合わせ論は、もう紙幅が尽きたので要点のみ。弱者を焚きつけ、他の弱者を攻撃させ不満を解消させたり、問題の本質をウヤムヤにする手法というのは、古代の頃から山ほどあったというお話です。今の時代に即していえば、やれ公務員の給料が高すぎるとか、誰それは不当に給与を得ているとか、そればっかやって嫉妬させ、攻撃させ、相互に足の引っ張り合いをやらせ、いつの間にか国民全体の給与水準がどんどん下がっていくという。気がついたら死んでましたパターンですわ。で、誰が得するのかは、言うまでもない。

 しかし、、、今回の河本氏のケースの場合、「不正」受給ですらないではないか。親族間の扶助義務と受給要件という論点はあるが、そんなことは申請を受けた当該福祉事務所が所定の要件に照らして判断することで、その判断に不当な圧力があったとか、書類を偽造したとかいうなら「不正」であろうが、そういう話もない。ということは適法に受給していてさえ文句を言われるということか?だとしたら、それは法改正をすべきという立法論であり、それはそれでアリだけど、現在受給を受けている人を非難するのは筋違いではないか。

 また、「家族が金持ちだったら養って貰えばいい」という親族扶助論があるが、親族関係が地獄化したからこそ今日の困窮を招く事例も多々あるのだ。例えばDV、例えば虐待。「現場」に行けばそんなケースは山ほどある。笠松刑務所(だっけな)を見学したとき、一人ぽつねんと離れて座っているまだ若い女子受刑者を見かけた。彼女の罪状は父親殺し。しかし、その父親こそ殺されて当然のような鬼畜であり、自分の娘をまだ小学生のころから強姦しつづけ、やがて受胎するも堕胎することを許さずに出産させる。そのときの子が受刑者で、長ずるにつれ自分の母=姉という数奇な出生を聞かされ、そしてまた実の父親に犯されるという。こういう父親が実在したのだ。もちろん極端な例であり、一般化するつもりはないが、ゴキブリと同じで一匹みかけたら30匹はいると思え。バブル最盛期でも、自分の娘を飛田新地に叩き売ったという実例に接したことがある。こういうのは比率でいえば少数であろうが、絶対数でいえば馬鹿にならない数になる。

 というか、ケースバイケースなのだ。いみじくも生活保護受給者を「ケース」といい、その職員をケースワーカーというように、千差万別、無限のバリエーションを持つ個々の事情を斟酌するのが福祉の本質であり、そこでは「一般論」などさほどの意味も持たないし、持たせてはならない。「家族は助け合い、支え合って」というのは、なるほど美しい肖像であるし、実際にそうやっている心暖まる幸福な家庭も多々あるだろう。素敵なことです。しかし全てがそうだというわけではない、というところから全ての問題は始まるのだ。こんなことは敢えて言うまでもなく、普通に生きてたら普通に誰でも知ってることではないのか?なぜ思い至らないのか?

 文革時代の中国共産党のポスター。皆が人民服を着て、リーダーらしきおっさんが高々と人差し指をナナメ45度上方に指し示す。そして他の人々も同じくナナメ45度上方をキラキラ瞳で見つめるという。「美しい一般論」というのはこういうものなのだろう。うさん臭い不動産屋の広告のような「美しい家族団らんの図」「勤労に励む国民の図」。そのグロテスクに美しいイメージを固定し、浸透させ、押しつけ、そこから外れるリアルな個々の問題を「あるまじきこと」として圧潰する。一般論で済むなら警察要らんし、福祉も、政治も何にも要らない。

 さらに疑問は続く。こんな論理的に破綻しまくっている、しかも将来的に自分の首を絞めるような自殺的な主張をなぜするのか?一般に弱者を叩くのは弱者である。その人間が弱者であればあるほど他の弱者をより激しく叩く傾向がある。強者は弱者を叩かない、ただ静かに搾取する。あるいは弱者を焚きつけて他の弱者の足を引っ張られせ、さらに搾取しようとする。適法な受給についてスケープゴートをこしらえ、あたかも生活保護の受給それ自体がいかがわしい行為であるかのように印象づけ、結果的に支出を減らそうとする。これって、戦時中に「勝ち目のない戦争はやめよう」と至極理性的なことを口走った国民を、他の国民が「非国民」呼ばわりして集団リンチにかけていたのと同じ図式ではないか。あるいは、労働者の権利を守るために交渉していた労組員を、他の労働者がアカとかシュギシャ呼ばわりして叩いていたのと同じ構図。ほんっと、変んねーなって気がする。

 その背景心理を考えていくと、どうも日本人には、政治とか公的なシステムを考えたり議論したりする意思が最初から無いのではないか?という凄い仮説も思い浮かぶのであった。全員がそうだというつもりはないが、そういう人が一定割合で常にいるような気がする。彼ら(もはや「僕ら」と呼びたくはない)の関心の対象は「他人の立居振舞」である。どっかの他人の行動や容姿、「音を立てて味噌汁を啜っている奴は下品で嫌いだ」とか、その種のことである。「○○さんちの奥さん、最近お化粧がキツいわよね」「そうよね、外でオトコでも作ってるんじゃないかしら」「あんな若作りの服なんか着ちゃって」「似合ってないのが自分では分からないのかしら」系の、他者のありように対する評価であり、断罪である。他人を査定し、値踏みし、こき下ろすことが彼らの社会生活であり、人生の主たる活動形態であるとするなら、なるほど、なかなか住みにくい空間である。

 そして、支配層(そんなものがいるとしたらの話だが)からしたら、これほどまでに支配しやすい人間類型はいないでしょう。奴隷になるために生まれてきたようなもので、なんせ自分が奴隷という不当な環境に置かれているという全体の構図そのものには全く興味関心を持たないくせに、他の奴隷が少しでも自分よりも待遇が良かったりすると、メラメラと嫉妬の炎が燃え上がり、これをひきずり落とすことに血道を上げ、日頃のストレス解消をやってくれるのだから、まさに願ったりかなったりである。僕が高校の時、この国で多少なりとも人間らしく、自分らしく生きたいのならば、支配層なりエリートなり、とにかく上にいかないとダメだと思った。もちろん若気の至りの性急な決めつけなのだけど、今こうして図式を眺めていると、ガキの頃の自分がそう思うのも、まあ無理ないかなと思ってしまった。もっとも、言うまでもなく、上に行ったところで、この構図からは逃れられないのだけど。

幸福の絶対レベルの底上げ

 オーストラリアにも不正受給はあります。これについては、ESSAY400:福祉バッシングのモデル論理で、3年以上前に取り上げていますし、論旨は今回と同じようなものです。ただし、今回が知的にお気楽な茶飲み話程度なのに対して、これは2倍くらいの硬度で書いてますから、読む人は気合い入れてください(^^*)。しかし、「日本でもいずれ福祉バッシングが起きるだろう」と3年前に書いたけど、本当にそうなってますな。こういう予想は外れて欲しいんだけど。

 オーストラリアの受給者数は、日本なんか比較にならないくらい多いです。なんせ60年代に比較すると、人口比率で5倍にも増えているのですから。オーストラリアは日本と違って景気は比較的良いままなんだけど、それでも受給者数は一貫して増えている。それを問題視する意見も勿論あるけど、日本の感覚すれば信じられないくらい寛容でもあります。あんまり目くじら立てて怒らない。

 なぜか?これは考えていたのですが、思うに幸福の絶対レベルが高いのではないか?と。
 僕自身、不正受給をする人の話を聞いても、昔ほどムカつかなくなりました。てか、今は全然腹が立たない。なんでか?といえば、そんな誤魔化しをしてまで、必死になって給付を受けて、それで「うまくやった!」と思ってるような人生そのものが「不幸」だと思うからです。つまり、不正であろうが何だろうが、そんなセコく、いじこい努力をしている時点で、もうひっくるめて「可哀想な人」だと思う。ある意味では真実困窮して受給を受けている人よりも不幸で、可哀想だ。正規受給者は困窮はしているが、いわばお金がないだけで、イコール不幸であるとは限らない。「うつ」のところでも書いたけど、問題が客観だったらまだしも解決は容易だけど、問題が主観や心に及ぶとややこしい。

 人生というのは、もっと豊かで、もっと楽しくなりうるものだし、そんなことは別に難しいことでない。こちらに住んでいるうちにそういう感覚が自然に身についてきて、知らず知らずのうちに幸福の絶対レベルが上がっていったのでしょう。だから不正申告をして小銭を稼いでいる人に対しても、不当に幸福を得ているという嫉妬心は湧かない。痛ましい気持ちにこそなれ、ムカつきはないです。

 これもずっと前に性善説とキセル天国で書いたけど、オーストラリアではあんまりズルする人は少ないし、ズルする人を咎め立てする気風も少ないのは、「ズルをする」という時点で、もう片足を不幸に突っこんでるからなのでしょう。ズルをして得た利得以上に、自分自身の尊厳とかプライドとか、大事なモノを喪っているわけで、本当の損得勘定では大赤字であり、だからみすみす損をするようなことをする人が少ないのではないか。

 もう一つ、A型/B型ですが、これはオーストラリアには似たような発想があります。高校1年生で卒業するグループと、3年までやり大学に進学するグループとに分ける。前者は、仕事や高収入で自己実実現とかあんまり思わず、ある程度の生計基盤を得つつ、あとは楽しく、愉快に人生を謳歌していくというパターン。後者は、苛烈な競争社会やエリート社会に「趣味で」入っていく人達。で、後者は途方もない高給を得るけど、その分税金もすごく高い。その税金で、公的福祉は日本に比べるとかなり手厚い。でも、社会全体で誰がAで誰がBとかいうのは、そんなに思うほど気にしてない。システムは二つあるけど「部族」化しないというか、そんなのそのときの「気分」で決めてるって感じ。

 普通、低所得、低学歴だと、高学歴・高所得の人に対して、なんとなくまぶしく見えたり、引け目を感じたりしそうなんだけど、そういう部分が、僕がみている限りではあんまりない。てか、誰がリッチで、、なんか見てても分らない。夏にもなれば誰も彼もが短パン+ビーサン、時として裸足だし。お父さんと小さな男の子がハダシで商店街を歩き、そのままポルシェに乗り込んで走り去るという。所得が低いことを恥だと思う意識も殆どなさそう。破産しても、なんというか麻雀の負けを精算したくらいの感じ。

 総じて、お金に対するウェイトが軽い。「しょせん金」と思うからこそ、テクニックとしてのお金論はよく知ってる。小学校の頃からインベストメント(投資)を教え、お金を得る方法は二つあり、@労働、A投資であると教えられる。だから財テク系の知識は平均して詳しいし、バクチを張るのも上手。経済知識も詳しいし、公定歩合の上下が新聞一面トップになり、皆が一喜一憂する。だけど、「しょせん金」って気風はある。あんまり人間や人生の価値とリンクしておらず、たまたまカジノで勝ってるとか、負けが混んでいるとか、そんな感じ。お金を持ってる人よりも、スポーツが上手な人の方が、あるいはボランティア活動などで功績のあった人の方が、尊敬されていると思う。

 国が違うとこうも違うかと思うし、面白いんだけど、でも、構成分子というか、経済規模とか生活水準とか社会秩序とか、、そういったことは、大きく言えば日本とそんなに変らないのですよ。そんな別世界ってほど何が違うわけでもない。

 だから、単なる気の持ち方とか、発想の差とか、価値観の差なんでしょう。そこをちょこっと変えれば、日本も随分と違ってくるんじゃないかと思うのですが、それなのに、不正受給がどうしたとかやってるという、なんか違うんじゃねえかって思うゆえんです。



文責:田村



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