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今週の1枚(2011/09/05)



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Essay 531 : 間引き

 写真の場所は、Glebe。
 17年前に僕が住んでた頃から全然佇まいが変わっていない酒屋さん。
 しかし、書かれている値段は輸入ビールが多いのですが、よく見るとハイネケン49ドル(24本・カートン)よりもアサヒビールの方が高いのですね。しかし、いずれにせよ高いな。僕はいつもの国産(オーストラリア産)のカートン35ドル前後で済ませますけど。


間引きが出来ない

 オーストラリアに来て住んだ2軒目の家(賃貸)は、通称「セミ」と呼ばれる二戸イチの平屋でした(セミ・デッチャブルの略)。久しぶりにマンション生活ではなく、「庭のある生活(猫の額だったが)」が出来たのがうれしく、さっそく裏庭に野菜などを栽培したのですが、これが上手くいきません。その後も、時折思い出したように園芸まがいのことをやるのですが、ほんと才能なーし!って感じで、ダメダメです。

 原因はいろいろあれど、一つには僕には間引きが出来ないのです。種を蒔いて、ばっーっと生えてきた後、よさげな苗だけ残して後は全部つみ取ってしまうという間引き作業が、すっごい心理的に負担で、ああっ、My heart is brokenって感じになってしまう。そんな可哀想なことが出来るか!と。

 だって、それって「落ちこぼれは皆殺し」ってことでしょう?優秀なものだけ生きる資格があり、劣ったものには死こそ相応しいという、ナチスの優生思想そのまんまじゃないか。ナニサマのつもり?神様のつもり?って、抵抗感があるのです。

 まあ、たかが園芸の間引きごときでナチスが出てくるあたりで僕も相当ヘンなのですが、でもなあ、抵抗ないですか?大体、園芸とかって別に食うために必死にやってるわけでもなく、いわば自然や生命に触れて、ちょっといい気持ちになりたいという趣味の作業でしょう?そんな効率を追い求めてどうする、と。間引きされて殺されてしまう苗だって、懸命に発芽して、可憐な双葉をふるふるさせているわけで、もうそれだけで愛しいじゃん。彼らが「殺さないで〜、僕も生きたいよ〜」と言ってるように聞こえてしまったら、間引きをしようとした手も止まってしまう。そこで感情移入しちゃったらもうダメで、発芽した芽を全て救済分離して栽培しようとするから途方もなく手間がかかるという。でもそこで感情移入するからこそ園芸ってやる意味があるんじゃないのか?という気もするし。

 こんなに素晴らしい花が咲きましたとか、こんなに大きな野菜が取れましたとかいうけど、それって人間が勝手に定めた「目標」であって、いわば自己中なゴールに過ぎない。その目的のために、その過程で幾ら弱者を虐げ、殺してきても、結果さえ良ければそれでいいのさという気分に、僕はなれない。そもそも野菜(果実)とか花だって、別に植物は人間を喜ばせようと思ってやってるわけでもなく、彼らが必死に作り上げた次世代のための大事なステップを勝手に横取りするわけでしょう?鬼畜の振る舞いじゃないかと。だから自然なんか全然愛してないんじゃないか、自分がちょっといい気持ちになるために自然を利用し、自然を搾取してるだけじゃないかとか考え込んでしまうのです。極論なんですけど。

 自分でも過剰にセンチメンタルなことは分かってますし、別に園芸をやっておられる方を非難するつもりは毛頭ないし、悪感情も持ってないです。間引きしなきゃ結局は全滅なんだから、鬼手仏心の慈悲の振る舞いなのだというのも分かってます。また、お百姓さんなどのプロの方々は、結果出してなんぼのプロだし、真剣に生きるためにやってることだから、大自然の法に従っても殺生は許されるでしょう。

 ここで思ったのは、より良い未来を築くためには「犠牲」は不可避なのか?ということです。自然の残酷な適者生存の法則や、優勝劣敗、弱者切り捨てについてです。

間引きしないとダメなのか?

 社会が何らかの形で「発展」とか「成長」とか「豊かさ」を求めると、どうしても優秀か/劣等かというモノサシが入ってきてしまいます。農耕にしたって、そこには上手な栽培の仕方があり、僕のように間引き一つでうろたえている「使えない奴」は劣等の刻印を押されるでしょう。氷河に追われて南を目指す部族においても、足が遅い弱者(病者や老人)は、しばしば置き去りにされたりもする。これが戦後時代や軍事国家になれば、もっと分かりやすく強い/弱いが基準になり、弱い人間・国は強者に蹂躙されたままで救いもない。例えば、ポーランドもいっときは大勢力を誇りますが、弱体化してからは周辺国家にピラニアに襲われるように食いちぎられて消滅し、第一次大戦後に一瞬復活するものの、あっという間にナチスとソ連に占領されて再び消滅します。戦後の平和な世の中といっても、それでも形を変えて生存競争は続きます。平和ボケと言われるくらい平和な日本でさえ、受験競争はあり、就職、出世、リストラ回避のための競争はあります。

 こういった競争は人類社会の活力にもなってますし、競争があるからこそ社会が豊かに発展したのだとも言えます。それは否定しない。しかし、競争があれば選別はあり、勝者がいれば敗者がいる。優者がいたら劣者もいる。優者をどんどん抜擢して大きな与えていくことが強くなっていく条件だとしたら、役に立たないと判断された敗者をガンガン切り捨てていく無慈悲な社会の方がより強くなることにもなります。

 そして、実際そうなんですよね。ある集団を強くしようとすれば、敗者や弱者の面倒なんかみないで切り捨てていく、つまり「間引き」をした方が強くなります。原理的にもそうだし。ナチスの場合は、ユダヤ人だけではなく、身障者も激しく迫害してます。優生思想とはそういうことで、遺伝子的に何らかの欠損のある人間、あるいは能力や容貌において劣る人間を排除します。そうやって強い奴ばっかり集めて集団を作れば、そりゃあ強くて当たり前でしょう。甲子園に出る名門校でも、優秀な生徒を全国から集めたり、厳しい練習についていけない脱落者には一顧だにしないでしょう。「野球は皆で楽しく」とかいってたら強いチームは出来ない。東大合格者を増やそうとする進学校でも同じだろうし、業績を上げる企業でもそれは同じでしょう。出来の悪い人間に関わってる分、貴重な資源戦力の無駄になりますから。

 つまりは、間引きをしないで、皆で仲良くやってたら、どうしても弱くなりがちだということです。「絶対弱くなる」とは言いませんよ。弱者を大事にする優しさが、構成員の組織に対するロイヤリティを高めるという作用もあるからです。しかし、身も蓋もなく言ってしまえば、選抜精強部隊の方が強いっちゃ強いでしょう。

 国家や組織集団における「政治」とは、ある意味では、この「間引き」をどのくらいやるか/やらないかの匙加減なのでしょう。

 ある集団における政治の仕事というのは、煎じ詰めれば以下の2点に絞られるでしょう。

 @集団全体の生産力や戦闘能力をマックスに持っていくこと、
 A構成員全員の幸福を図ること、

 @とAは往々にして相反します。構成員の一部を犠牲にして(間引きをして)@を図るか、あるいはAを重視して@を減殺するか。

 例えばボートで漂流しているとか、敵部族に囲まれているとかいう、生きるか死ぬかの極限状況に置かれた集団としては、全体が生き残るためにAを犠牲にせざるを得ない場合もありえます。乗員が多すぎてボートが沈みそうなときは、誰かを海に叩き落としてでも重量軽減を図るとか。敵に囲まれて全滅の危機に瀕しているときは、まず屈強な戦士に優先的に食糧と睡眠を与えベストコンディションで臨ませ、足手まといである弱者には食糧を廻さないとか。

 上は極端な例ですが、この毒性を何十倍にも薄めたことが日本でもどこでも行われています。優秀で従順な企業戦士を選抜するために受験競争を激しくさせ、ついてこれない成績劣等者には落ちこぼれの烙印を押すとか。また、企業内においても、円満な家族生活を営むことが困難なくらいの激務や配転をし、結果として家庭崩壊しようが、鬱病になって自殺しようが、香典出してそれで終わりとか。はたまた、企業活動を第一に考え、自然破壊や公害汚染については目をつむるとか。日本の高度成長時代というのは、まさにAよりも@を優先していた時代とも言えるし、だからこそ強かったとも言えます。

 日本その他の先進国は、価値観が@からAへシフトしてきています。いまどき「お国のためだから我慢せよ」といっても通じないだろうし、「国民を幸福にしない国家は存在価値がない」というのは、社会契約論という近代国家の原点からも正しい。ただしAを充実させるためには、やはり莫大な原資が必要なのであり、そのためには@は絶対必要という悩ましい関係があります。これは国家だけではなく個々人の生活にも生じる悩みであり、子供に良い教育を受けさせようとすれば、ゆとりのある生活環境と教育費が嵩む。これらをを稼ぐために夫婦揃って馬車馬のように働くと、今度は家庭内部が空洞化し、ギスギスし、家族がバラバラになってしまって、なんのこっちゃ?になる。

 かといってAの充実ばかり考えていたら、国そのものが先細りしていく。年金、医療費、教育費などの社会保障費の負担がズシリと重くなり、それが財政破綻を招き、欧州ではいわゆるソベリン・クライシスを起こす。また、行政のきめ細かい保障は、場合によっては拘束になって大胆な改革を阻げるという部分もあります。

近未来に間引きは必要か?

 何でこの問題にウジウジこだわっているかといえば、これからの時代、この問題が一層先鋭な形で現れてくるだろうと思うからです。

 何度も書いてますが、今の世界の潮流は先進諸国は、新興国の経済成長に押されてどこも長期凋落傾向にあります。活力のある企業ほど海外にシフトし空洞化が起きる。そのくらいやらないと熾烈な世界競争に勝ち抜けない。しかし、そうすると国内経済は落ち込むし、失業者は増える。加えて高齢化による支出も増大します。つまり、Aに引っ張られて@が後手に廻る。あまりにも救済しなければならない弱者が多くなると、それだけで手一杯になり、国の競争力が落ち込んでしまい、いずれは共倒れになる。

 今の日本で単に国際競争力(だけ)を強化しようとすれば、Aから@に重心をシフトさせることでしょう。それこそ明治時代や戦後のように、国際的に勝ち抜けそうな分野・人材に優先的・重点的に予算配分をし、その分弱者を切り捨てる。老人医療も介護も年金もガンガン打ち切り、失業保険もなし。大学も旧帝大系など一握り、それも大幅に入学定員を減らして、世界的に通用しうるエリートのみを養成し、あとは補助金を打ち切って潰れるに任せる。企業も役所も規模の大小を問わず、世界的に通用しない非効率なところは潰れるに任せる。工業生産に電力が必要なら安全性など二の次でガンガン原発を操業する。

 ごく一部の国の役にたちそうな「優秀」な人材・組織だけを優遇し、それ以外の落ちこぼれは切り捨てるということで、要するに「間引き」です。弱者の栄養分を強者に集中させることで強者をより強くし、対外的に勝ち抜けるようにして、集団が生き延びられるようにする。

 無茶苦茶な発想なんだけど、中国の科挙なんかそうだったみたいですね。一族郎党の中で神童レベルに賢い子供が生まれたら、全員がこの子の教育に投資する。女の子など売春宿に売り払ってでも金を作り、優秀な家庭教師を雇って科挙に合格させようとする。見事合格して官吏様になったら一族に手厚く恩返しをする。明治期の日本も、寒村貧農で家族でお金を出し合って優秀な子を旧制高校に進学させようとしたという。確かに、ヒューマニズムもクソもないくらい生きるか死ぬかに追い詰められたら、最も生存確率の高そうな方法を取るしかなくなる。それが良いかどうかなど平和な時代の価値観に過ぎないという。言うまでもないけど、今僕はものすごい極論を言ってます。誇張した方がわかりやすいからそうしているだけ。実際にはもっともっとマイルドな肌触りになるのだろうけど、でも、根っこにある原理は同じということです。

 @とAが鋭く対立した場合、どうすべきか?論です。
 日本でもだいたい80年代以降にAにシフトしてきたように思われます。明治以来の「産めよ増やせよ」のクソ頑張りで生活水準やゆとりも増えた。社会がソフトになってきた。弱者に対する心配りも、まだまだ不十分とは言いながらもそれ以前に比べたらかなり向上した。環境や食品の安全性基準も高まり、生活や労働環境も整ってきた。しかし、それもこれも@時代の蓄積あればこそでしょう。@時代に虐げられた先輩同胞の犠牲=それは公害の犠牲になった方々であったり、企業戦士によって崩壊した家庭であったり=の上に成り立ってる、いわば「二世的な豊かさ」です。豊かさがスタンダードになり、僕らの幸福感はとてもお金と資源がかかる水準に高止まりし、また保護された環境でエゴもまたぶよぶよと肥大化し、些細なことで心が壊れるほどにもなった。

 今また、過ぎし日の@時代を超える競争時代を迎え、@時代よりも遙かにAの負担が重くなってきている。国民皆の要求水準は高く、ストレス耐性は低い。ぶっちゃけ@時代に比べたら使えなくなっている。そうなるとどっかで破綻しそうな気もしますが、ここで論理的に考えうる可能性は二つ。IMF管理みたいな途方もない@的な荒療治、つまりは間引きをする。あるいはAの方向に突き進み、皆仲良くビンボーになる。どっちもイヤだけど、でもこれが先進国が今置かれている現状でしょう。

 アメリカのティー・パーティ・ムーブメントなどは、明らかに@でしょうね。その主張を要約すれば、失業者なんかほっておけ、努力しない奴が悪いんだ、弱者なんか切り捨てて強いアメリカに戻るんだってことでしょう。一概には言えないけど、総じて、白人+45歳以上+比較的富裕+結婚している保守層がメインだそうですが、つまりは勝ち組の主張です。もっとも本当の勝ち組はこんなこと言わないから、負けそうになって不安にかられている勝ち組だと言っていいかも。ボートが沈みそうだから使えない奴を蹴り落とせと。

 日本の場合は、(皮肉な意味ではなく)心優しいから、Aの皆でビンボー方向に流れるような気もするし、あるいは@とAで明確な態度決定が出来ずにウロウロしながら押し流されるというパターンかなという気もします。@を断固貫くような政治家も政党も登場しにくいし(当選するためにはAを言わないとならないから)、仮に政権をとっても@を断行できるほどの権力もないでしょう。だから「なしくずし」って感じになるかも。もっとイヤらしくいえば、ボートから蹴り落とされる人がいても見なかったこと/無かったことにしていくような。


タコ部屋の歴史

 考えてみれば社会が大きく変わる時、大量の失業者というか、遊民というか、ニート的な存在が増えていました。産業革命当時のイギリスでは大量の失業者があふれ、生きるために軽微な窃盗を犯したりして刑務所が満杯になり、流刑地オーストラリアが作られた、というのはちょっと前に書きました。

 では日本ではどうだったか?というと、これが実は似たようなことがありました。「タコ部屋」というスラングで今尚語られている地獄のようなダークな日本史。司馬遼太郎の「街道を行く15 北海道の諸道」に、いくつか書かれており、「ふーむ」と考えさせられてしまいました。

 一つは江戸時代の佐渡の金山です。「ドサ廻り」の語源ともいわれる佐渡への島流し。以下引用します。

 「ただ江戸の人口増加に手を焼いた江戸幕府が、市中のごろごろしている無宿の遊民たちをごぼうを抜くようにとらえては佐渡金山の水替人夫として島送りにしたという重大な事例がある。(中略)江戸期における佐渡金山史でも、江戸末期にちかい安永6年(1777年)以前にはない。この場合、幕府の官僚も、遊民の増加によって江戸の治安悪化を心配する側がこの案をたて、積極的に推進しようとしたのに対し、受け入れ側の佐渡奉行は頑として難色を示した(中略)。自由を奪われた無宿人は地獄以上といわれた過酷な労働のすえ、たいていは数年で斃死してしまうのである。(中略)遊民を囚人にし、さらには奴隷に仕立ててその命を数年で使い果たせてしまうという残忍無恥な処置を、国家権力が継続的にやったというのは、人間に対する感覚を鈍化させてしまうという点で、権力自身が自分を腐食させる--統治能力を失う--ということになってもどってくるのである」


 そして、明治においても北海道開拓でこのパターンを踏襲するのですね。引き続き引用すると、

 「多分にキリスト教的要素の加わった華やかな開拓使(明治2年から同十五年まで)がおわると、舞台が暗転したように囚人の奴隷労働による開拓時代が始まった(中略)。
 ”モトヨリ暴戻の悪徳ナレバ、ソノ苦役ニタエズ斃死スルモ、、、(略)”この文章を書いた者は、金子堅太郎である。福岡県士族で、明治四年藩の留学生として渡米し、ハーバード大学で法律、政治、経済をおさめ、明治一一年卒業して同年日本に帰った。以後、元老院大書記官など政府部内にあって法制的な立案者として活躍するこの当時の代表的な秀才官僚である。
 この文章は要するに、「かれらは悪いやつだからたとえ斃死しても可哀想ではない。むしろ死んだ方が、監獄予算が軽くなって助かる」ということで、(江戸期の幕府官僚よりも)遙かに徹底していて、幕府官僚もこれほど血も涙もない文章はかけなかったにちがいない。金子の文章は、いまにも予算面で潰れそうな--西南戦争のあと--新興国家の中核にあって危機意識がバネになっていたとはいえ、凄味がある。
 「囚人を使いましょう。彼らが死んだ方が政府ももうかるじゃありませんか」と(西南戦争)戦後政権が寵児のようにしていた法制官僚の金子が、放言でも雑談でもなく、堂々たる公的文書として論述するにいたるのである。
 「それに囚人の賃金は安い」と金子の論述は下世話になっていく。(中略)近代国家というのは前時代と異なり、理念の上に成立しているものだが、これでは江戸期の田舎妓楼の経営者の感覚で人民と国家をとらえているとしか思えない。
 金子が官命で北海道の行政調査を行ったのは、明治一八年である。樺戸集治監が出来て数年後のことだが、その間、わずか1年というあいだに二割以上の囚人が死んだ。かれらは極寒のなかを単衣一枚で労働させられ、屋内でも火気を用いさせられなかったことなどによる。この現状を十分踏まえた上で、右の文章(北海道三県巡視復命書)を書いたのである。
 (中略)北海道におけるこの方針は明治二〇年代のおわりまでつづく。
 次いで道路・鉄道工事といった開拓の基礎土木を「官」に代わって受け持つのは土木資本だが、その爪牙を無法な暴力組織にうけもたせ、「官」の”文化”を継承し、囚人に代わって「タコ」を奴隷化する。」

 「タコ」については、同書の数頁前に出てきます。
 「農村からはみ出て東京へでてきた若い者がぶらぶらしている。今なら当たり前の現象だが、募集人はそういう者に眼(がん)をつけ、甘言で騙し、周旋屋と結託して北海道のタコ部屋へ売り飛ばすのである。送り出すことを”玉出し”という。対象は当時多かったルンペンや家出人などだが、ときには大学生もいたし、まれには然るべき家の旦那もいたらしい。路上で仲良くなり、酒色を共にし、あっという間に「玉出し」のために何輌かを借り切ったいわば専用といっていい列車に乗せられて運ばれていく。
 こんにちとなれば、それほどうまくいくものかと思われたりするが、釣る者にとってはさほど難しい仕事ではなかったらしい。貧困がずっしりと居座った社会においては、あてどなく東京に出てきた農村の潜在失業者に甘い息をふきかけるのは何でもなかった。」

 長々と引用したのは、日本の政府も民間企業も、こういうことをなし得る、ということです。日本は歴史的に、西欧に比べて奴隷制度が少なく、それは誇るべき美徳だと思うのだけど、それでも尚かつこういうことはあった。

 金子堅太郎は、明治期の大物官僚・政治家で、明治憲法の起草も行い、日露戦争のポーツマス会談でルーズベルト大統領と話を付ける勲功もあり、日米友好にも尽し、位階は従一位、伯爵号も得ています。日本大学の初代学長でもある。かなりの人物なのでしょうが、彼の文章から垣間見られる人間観・世界観は、明治期の官尊民卑の弊風だけではなく、日本におけるエリートや官僚の一つの原型のような気がします。

 又、その後、現在にいたるまで実は続いている言われているタコ部屋労働は、日本社会の民間底辺における人権感覚というか、地底がそのまま地獄につながっているような薄気味悪さを感じさせます。

間引き・補論

 既に長くなったので大急ぎでシメたいのですが、幾つか思うことを。もう箇条書きで。

 ★間引きをするならハッキリさせよう
 間引きというのは、栄養や資源の意図的な偏在、重点的な配分をすることで、一概に悪いことではないです。皆のために割を食う層というのは、常に一定の割合で出てくる。それはもう不可避的に生じると言ってもいいです。

 しかし、間引き的なことをするならするで、ハッキリさせるべきだと思う。先ほどちょっと書いたように、実質的に弱者にしわ寄せがいっても、「知らんぷり」「無かったこと」にするようなことは避けよう。最低限でもそれは人間としての仁義じゃないかと思うのでした。不十分かもしれないけど、犠牲に対する補償措置、そして最低限の敬意。

 でも、「見て見ぬふり」ってやっちゃいそうだよなあ。それに「囚人を使う」というのは「あいつらは悪いことをしたんだから自業自得だ」という安易な正当化に使われそうで恐いです。普通の人間を犯罪者に仕立て上げることなんか、実は簡単。今だって、公的な安全ネットの薄い日本では、リストラされたら一気にホームレスまで転げ落ちる可能性がある。そうなれば、乞食行為は軽犯罪法違反です。さらに条例などによって「公園や公共地での睡眠、居住」を処罰対象にすれば、匙加減一つで逮捕、拘禁、刑務所送りに出来る。でもって、受刑者を放射能汚染瓦礫の撤去作業や、死ぬに決まってるような発電所内部の作業にひそかに従事させるとか。やろうと思ったら出来ないわけでもない。どうせ「無かったこと」にするんだから、何でも出来るちゃ出来るのだ。

 大体平和時においても、原発のメンテは釜ヶ崎のおっちゃん達が下請けの下請けのという何層も重なった最末端で働いてたりするのだから、日本社会の不気味な「底が抜けた」あり方への懸念はあります。

 ちなみに、軽犯罪法一条4号には「生計の途がないのに、働く能力がありながら職業に就く意思を有せず、且つ、一定の住居を持たない者で諸方をうろついたもの」というのがあって、これなんかもホームレスそのままで処罰できるし、幾らでも「応用」がききそうです。こっそり改正して、最初と最後をちょん切って「働く能力がありながら職業に就く意思を有せず」だけにしたら「ニート罪」のできあがりですもんね。

 ★ヒステリックにならない
 「政治」というのは突き詰めればこの間引き作業とも言えます。メリハリの効いた重点的な政策をすれば、どうしたって犠牲になる部分は出てくる。それを弱者切り捨てだとばかりに非難してたら政治はできない。チームのレギュラー定員は決まっているのだから、必ず選から漏れるメンバーが出てくる。それを「切り捨てだ」と非難してたら人選一つ出来ない。切り捨てることこそ政治の本質であり、それへの批判は、切り捨てる対象が妥当かどうか、その方法が適正か、代償措置は尽されているかという諸点においてなされるべきで、切り捨てそのものを感情的に批判するのは卒業すべきだと思う。

 なぜなら、ここをしっかりしないと、かつての原発神学論争のようになるからです。切り捨てそのものが悪だとしたら、切り捨てをしてる/してないという不毛な観念論議になり、事実上の切り捨てが行われても当局は極力これを秘匿しようとして、疑心暗鬼のグチャグチャになる。

 ★しかし、間引きは有効なのか?
 ここにきて議論をひっくり返すようなことを言いますが、現在のグローバル経済は、国家単位での政策によってどうにかなるようなものなのか?国が一生懸命間引きをして、重点配備をして、経済を繁栄させたからといって、それで国民全体が潤うようになるのだろうか?つまり、@を頑張れば、ひいてはAの充実をみるという因果関係が今もあるのか?です。ないかもしれない。

 なぜなら、今日の恐竜のような巨大な多国籍企業群にとってみたら、国家というシステムすら前世紀の遺物というか、企業活動をあれこれ規制しようとする邪魔臭い存在に感じているかもしれないからです。彼らにしたら、国家など、ビジネスを円滑に進めるための単なる「インフラ整備業者」みたいなもので、物理的・司法的インフラさえ提供してくれたらそれでいい。

 真の強者は国家(他者)の支援を不可欠とはしない。自力で十分に勝っていける。強者が国家に望むことは「邪魔をしないでくれ」ということくらいでしょう。レッセ・フェール(自由放任)。逆に言えば、国家や政府に対して、あれをしろとか、これが足りないとかブーブー言ってる人は、もうその時点で間引かれるべき弱者と言えなくもないのだ。現在のアメリカを見ても、国全体の経済や政府は長期不況になってのたうち廻っているのに、個々の優良企業、例えばアップルもグーグルもアマゾンも、そんなアメリカの現状とは関係ない強者ぶりを誇っています。

 だとすれば、@「国家による産業育成」なんか余計なお世話だし、国家がいくら企業を育てても、企業は国民の雇用を増やさないし、給料もあげない。それはここ10年の日米の状況がよく示している。@をやってもAにつながらない。国家・政治は間引くのが仕事だと言いましたが、これからは違うのかもしれません。国家は既に間引く権能・地位から滑り落ち、@を行う役目からおろされている。間引き機能は、「国際経済」という、国家以上にスムーズでそして冷酷なシステムによって執行されている。もっと言ってしまえば、最強のグローバル企業群からみれば、国家ですら「弱者」であり、21世紀の(先進国)国家とは、競争に敗れた弱者を世話するボランティア集団程度の存在なのかもしれません。

 本当にそうかどうかは今後の緻密な思考が必要なんだけど、ラグビーのパントみたいにポーンとボールを蹴ってみると、「国家という19世紀のシステムとロジックが、21世紀の経済を仕切れるわけがない」というすごい命題になります。

 間引くとかいうのも19世紀的な枠組での話、国家が神のような権能をもってた古き良き時代の話であって、国家が一ローカル自治体に過ぎなくなった今日、巨大企業と国家の関係は、あたかも東電VS福島県みたいなものに過ぎなくなる。だとしたら国家の役割は、間引くことではなく、経済による痛みの緩衝と分散、共有と互助ではないか?という気もします。


 ★戦争という間引き
 先日もオーストラリアにおいてアルコール+暴力犯罪が増えている(他の犯罪は減少しているのに酒・暴行だけが減らない)という記事がありました。背景事情で色々語られているのですが、やっぱ皆「たまってるんじゃない?」ということです。イギリス暴動もそうですが、経済によって間引かれてしまった層の鬱憤が溜まっているのではないかと。

 18世紀以降、これまでだってこういう局面は多々あったろうに何で今頃?と思ったのだが、すごい意見を発見しました。「昔は戦争がありましたからね。怒れる若者達は皆戦場に連れて行かれたんです。いまは70年くらい戦争がないですから」と。そ、そうか、戦争というのは、あれも一つの間引きだったのか。まあ、過去の戦争はそんなつもりでやったのではないでしょうが、結果的にそういう側面もあったというのは、考えさせられてしまう。



文責:田村




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