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今週の1枚(10.07.26)




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Essay 473 : 伝達・表現の技法  「政治」という日常スキル(3)

 写真は、先日(7月24日(日))にThe Rocksで行われたコーヒーのイベント、Aroma Festivalの様子。
 ラテン系の生バンドがいい音出してました。特にボーカルの女性のフルートがカッコ良かったです。

 しかし、いや、もうすごい人でした→
 ロックスのコーヒーフェスティバルは、確か第一回目(だったと思う)に行ったことがあります。今から12年前の1998年。今となっては貴重な記録資料になってしまいましたが、当時の今週の一枚で特集しました。その頃は、簡素で、ほのぼのとやってましたが、回を重ねるに連れ盛況になっていったのか、久しぶりに来てみたら人の多さにびっくりしました。まあ、エスプレッソマシン、売れてますもんね〜。

 迂闊に車で行ってしまって後悔しまくりです。普通、ロックス周辺はちょっと離れれば結構停まれるのですが、全然ダメ。駐車スペースを求めて南下し、ついにセントラル駅周辺の駐車場まで行きました。いつもは絶対停まれる筈のその駐車場でも空きスペースを求めて上がったり下がったりかなり長いこと放浪してました。なんで日曜なのにこんなにシティに人がいるんだ!と自分のことを棚に上げて腹が立つくらい。

 さて、このイベントですが、一杯2ドルスペシャル価格でコーヒーが飲めるのですが、しかし、そう何杯も飲めるものでもないし、出店が多すぎるし、ある程度予習しておいて、お目当ての出店を幾つか見繕っておかないとダメだと思いましたね。



 「日常生活における”政治”という技術」、何となく連載みたいになってしまってます。本当は一回ポッキリの筈だったのですが、書きだしたら色々出てきてしまって。前にやった世界シリーズも最初はキリスト教についての一本だけの心積りだったのですが、やり始めたらムキになって90回連載になってしまいました。今回は何回くらいいくのでしょうか。

 前回まではビジョンや発想を思いつくという自分内部の話でしたが、今回からはいよいよ他者との関わりに入ります。伝達して、説得して、統率して、実行して、喧嘩して、、、という。まあ一種のコミュニケーション論や組織論、リーダー論になるのかもしれないですけど、そのあたりのレッテルは何でもいいです。

 まずはその第一歩として「他者に伝える」という表現、伝達についてです。いくら素晴らしいビジョンや構想を得ても、それを皆に伝えられなかったら何にもなりません。しかし、他人に物事を伝えるのは難しいです。ましてや「説得」するのはそれに輪をかけて難しい。それはもう僕もあなたも日常生活においてイヤというほど思い知らされてますよね。「あー、もー、話が通じない!」という。


明瞭性・正確性

 大袈裟に「技法」などと言わなくたって、要するに伝えればいいんでしょ?と思われる方もいるかもしれませんが、これがなかなか難しい。それも「ほどほどに難しい」なんて甘いレベルではなく、殆ど不可能?と絶望的な気分になるくらい超難しいです。こみいった複雑な関係を、テーマ性がブレずに、ニュアンスも含めて正確に伝えるのは至難の業ですし、それなりの技法やテクニックがあるように思います。

 まずは初歩。伝えたいことを明瞭に、正確に言う。あったり前の話なんだけど。

 中学校の国語の時間で「5W1H」というのを習いましたよね(習ってないかな)。まあ習わなくても常識で知ってると思いますが、新聞記事などの叙述の基礎テクで、Who、When、Where、What、Why、How、つまり、誰が、いつ、どこで、何を、何故に、どのようにしたかを書いていけば大体の骨格は伝わるよということです。

 世の中には、話が非常に分りやすい人もいれば、何言ってるのかさっぱり分らん人もいます。特に後者は、それがその人の愛すべきキャラになってたりもするのですが、例えば時代劇で出てくる「てーへんだ!」ってやつです。「てーへんだ、てーへんだ!」「おう、どうした?」「どーしたもこーしたも、とにかくてーへんなんだ!」という。あるいは、いつも主体がごちゃ混ぜになってるから分りにくい人。「それで思わず手が出ちゃって」「え、Aさんが?」「違う違う!Bさん!」「え、あのBさんが殴ったの?」「「違う違う、Bさんは殴られた方」という具合に、誰が何をどうしたという話の骨格がグチャグチャだという。非常に初歩的なことですけど、常に明晰に話せる人って案外と少ないです。僕だって出来ているか?と言われれば出来てないです。つい勝手に省略して話がグチャグチャになったりもします。

 だからしっかり伝えようとしたら、気持ち5W1Hを意識すると良いのでしょう。といって、別に常に完璧にする必要もないです。あくまでも「気持ち」。常に完璧にやってたら、何を喋ってもTVのニュースみたいで気持ち悪かったりします。「ただいま」「あら、お帰りなさい、遅かったわね。どこ行ってたの?」「ワタシは、今日午後7時頃、勤務先の○○商事を退社した後、同社に勤務する同僚の山田太郎さん(35歳)とともに大阪市北区にある居酒屋「○○」で約1時間半にわたって飲食歓談をした後、近所にあるスナック「○○」を訪れ水割り4杯を飲み、、」なんて言ってる人はいません。そういう場合は、「や、ちょっと会社の山田君と、、」でいいです。ただ、登場人物が多くなったり、行動パターンが普通と違って予測しにくいような場合には、「あ、殴ったのはCさんね」と軽く付け加える程度。だから「気持ち、意識する」くらいでもグンと話が見えやすくなります。

 5W1Hでは、特に主語は要注意だと思います。
 映像などビジュアルの場合は、カメラが切り替わって対象人物が特定するから主語に関する誤解は少ないけど、話や文章だとそうはいかない。話者の頭のスクリーンではカメラが切り替わっていても、つい対象人物のチェンジに言及し忘れるから、思わぬ誤解を生みます。

 ところで「日本語には主語がない」とかよく言われますけど、本当にないわけではなくて、頻繁に省略されるだけのことです。じゃ何で省略されるのかというと、これは推測だけど、主語を表わす単語が日本語だと長ったらしいのでしょう。英語だと、I、You、He、She、They、Itと全部一音節(シラブル)、一母音(or二重母音)で済みますが、日本語の場合ワタシ、アナタ、彼ら(3音節)だし、「我々」とか「その人達」とかいうとますます長い。だから普通の日本語の会話でイチイチ主語を言うのって面倒臭いし、話がクドくなるのですね。

 さらに突っ込んで、じゃあ何故に日本語では、主語をそんなに長ったらしくも面倒臭い言い方をするのか?といえば、これは推測ですが、おそらくは言わなくても分る or 主語を峻別する必要がない場合が多かったのでしょうか。同一民族で集団生活で農業とかやってたら、誰しも考えるようなことは一緒で、いちいち自他の峻別や個の確立をしなければならない必然性に乏しかったのかもしれません。これは日本人の全と個の関係論としてよく語られるところですが。

 一方、シルクロードなど常に異民族が入り乱れて暮らしているところでは、主客の区別をキチンとしないと困るから、スピーディーに主客を区別出来る言語になっていったでしょう。現代の日本社会は昔のシルクロード以上に複雑になってますから、数百年の長いスパンで見たら、そのうち日本語にも英語並みに簡易な主語が生まれてくるかもしれません。

 ちなみに、英語は主語が明確だから話が分りやすいかというと、それも「神話」で、英語でも分りにくいときは分りにくいです。例えば新聞記事を読んでいても、登場人物が男3人で、いきなり"he"と言われても、誰を指して"he"と読んでいるのかよう分らんときもあります。

  もうひとつちなみに、普通の英語ネイティブでも分りにくい英文を書く人がいます。自分が英語が出来ない頃は(今でも苦労してるが)、意味が分らなくても自分の英語力が足りないからだと思ってましたが、段々と「これって根本的に文章がヘタなんじゃないの?」というのが分るようになってきます。考えてみれば日本人だって分りにくい日本語を書く人がいるわけですから、英語だって同じ事です。TOEIC等の読解問題に出るような文章はプロが書いたキチンとした文章でしょうが、英語世界の現場に行ったら、常にキチンとした英文ばかりではないです。グラマーも結構間違ってるし。


 明瞭に「ちゃんと言える」というのは、「正しい敬語の使い方」以上にビジネスの基礎技術にもなるでしょう。営業マンが何を言ってるのかわからなかったら営業なんかできっこないし。でも、まあ、「てーへんだ!」といって飛び込んでくる営業マンがいたら、それはそれでインパクトがあるような気もしますね。

 僕が日本にいる頃にやってた司法関係では、この明晰性・正確性というのはメチャクチャ大事で、警察にせよ、弁護や裁判にせよ、5W1Hはかなり厳格に明らかにしていきます。

 例えば、刑事裁判などでは、ありふれた交通事故であっても、
「被告人(氏名、生年月日、本籍)は」
「平成21年3月18日午前0時27分頃、東京都足立区○○町○丁目○○番先交差点路上において」
「一旦停止の標識ならびに路面の停止線があるのに一旦停止することを怠り」
「時速45キロのまま漫然と車両を北方から南方にかけて通過させ」
「同交差点の交差道路を東方から西方に向けて歩行中の甲野乙男(本籍○○県○○市○○3丁目2、当年35歳)の姿を発見し、急制動の措置を講じるも間に合わず」
「自車左前部を同人に衝突させたうえ、同地に転倒した同人の左前腕を左後輪で轢過し」
「よってそのころ同人に頭部打撲、左第3、第4肋骨骨折、左前腕橈骨骨折など全治約6か月の傷害を負わせたものである」
と述べ、結論として
「自動車運転過失致傷罪(2007年5月新設)が適用される」
となります。
普通の交通事故ですらこのくらいですから、これが高速道路の玉突き衝突とか、同じ事故でも列車脱線事故や航空機墜落事故になるとさらに複雑を極めます。

 緻密すぎてうざったい印象を持たれるでしょうが(僕も最初は「うへえ」と思った)、しかし、人の一生に関わる裁判にはそのくらいの精密さが要求されてしかるべきでしょう。

 よく日常用語的に「騙された」とか言いますが、ガチ本気で民事裁判や刑事告訴しようと思ったら、それこそ「何時何分」レベルの特定が必要です。加えて、詐欺の場合には具体的に何をどうやって「騙した」のかという特定も必要です。例えば単純な無銭飲食(食い逃げ)であっても、「代金の支払い能力や支払意思がないにも関わらずこれがあるように装って」「チャーシュー麺と餃子各一人前を注文し」「代金が支払われるものと同店店主○○を誤信せしめた」とか、個別具体的にどの発言、どの行為をもって詐欺(欺罔)行為というのか。一般にその行為が欺罔になるためには、@それが真実と異なること、Aその異なった事を被害者に誤信させたこと、Bそれを意図的に行ったこと、までビシッと言及しなければなりません。いやしくも他人様を罪に問う以上、そこまでしっかりやるべきで、漠然と「話が違う」とか「うまいこと言われて」みたいな言い方ではダメっす。


 司法系の話題が出たついでにもう少し書きますと、加害者一人、被害者一人しかも一回ポッキリの出来事ではなく、当事者がやたら出てきて、しかも反復してあんなことしたり、こんなことしたりすると頭がグシャグシャになります。覚醒剤事犯などがそうですね。そういえば去年の今頃はのりピーで騒いでましたねー(8月3日に夫逮捕、のりピー失踪)、もう1年経ったのですね。

 覚醒剤事件というのは、「道端に落ちていた覚醒剤を拾って、一回だけ興味本位で使ってみました」なんてことはまず無いです。大体誰かから譲り受けています。つまり芋づるになってる。しかも何度も何度もやっているし、何度も何度も譲渡行為がある。町の末端売人A→B→妻C→友人Dという感じでブツの流れがあったりするわけです。

 さて、ここでのりピーのように妻Cがパクられたとします。逮捕拘留中の尿検査によってCの覚醒剤使用が立証されたとして、さあA・B・Dは立件出来るでしょうか?ずっと昔に検察修習でこのあたりの「覚醒剤捜査の基礎」を習ったんですけど詳しいことは忘れちゃいました。でも、やたら難しかったことは覚えています。

 例えば妻Cが全てを正直に自白してくれたとしても、直ちにBとDが有罪に出来るかどうかは分らない。なぜなら法廷でCが自白をひっくり返すかもしれず、Cの自白だけで公判維持が出来るかどうかは難しい。速攻でBとDの家宅捜索と尿検査をやってクロと出たら彼らにも覚醒剤所持・自己使用は立件できるでしょう。しかし、たまたまここ数日覚醒剤をやってなくて尿検査がシロになったり(数日経過すると検査に出ない)、自宅にも隠し持ってなかったとなると又微妙な話になっていきます。さらには甲→乙→丙とブツが流れて甲と丙が立証できたら論理必然的に乙も立証できたことになるのか?とか。また、上流の売人、さらにその元締めの暴力団○○組まで遡っていくためには、何をどうやって捜査を進めていくべきか、という話もあります。

 えーと、何を長々と書いているかというと、「明瞭・正確に説明することの難しさ」でした。登場人物が多くなったり、行為そのものが多数回にわたるほど、明瞭・正確に気を配らなくてはなりません。

 そして、明瞭&正確の次に来るのが、「簡潔&要領よく」という次のハードルです。

 引き続き上記の覚醒剤を例にとります。
 検察修習時時代、検察官の真似事をして立件するかどうか、捜査をどう進めるべきかもやらされるのですが、節目節目では上司の決裁を仰がないとなりません。地方検察庁の場合、トップの検事正のハンコが必要です。ところが検事正って忙しいですね。なかなかハンコをもらえる機会がない。しかし逮捕の場合72時間以内というタイムリミットがある。そこで検事正の時間が空いたスキに、ダッシュで駆けつけ、大きな検事正室で「決済をいただきにあがりました!」と軍隊みたいに告げた上、上記のクソややこしい事案説明を検事正の前でしなければなりません。でもって地方の検事正ってエラいから緊張するのですよ。なんせ県警本部長よりもエラいと言われたりするし、海千山千の捜査の大ベテランですから、ギロリと睨まれただけでビビります。複雑な人間関係と捜査の進展状況、さらに証拠の確定状況、そして問題点と自分の意見を「1分以内に説明しろ」と言われるわけです。もう頭をひねって、大きな画用紙に図解したり、色分けしたり、何をどの順番に説明するか、どうしたら一番分りやすいか、かなり徹底的に研究して、仲間内で練習したりします。で、低い声で「○○はどうなってるんだ!」と痛い盲点を突かれたり、「やりなおし!」と何度もダメ出しされたりして泣きそうになりました。いやあ、ほんと鍛えられました。

 これが、複雑な手形のパクリ事件、あるいは延々数年にわたる横領・背任事件、さらには関係者が何ダースも登場してくる構造汚職事件や選挙法違反になるともう大変。脳味噌がウニになります。自分がウニ状態で他人に伝えようとすると、ウニの二乗になり、殆ど幻想文学のように何が何だか分らなくなります。

 明確に事態を把握し、これを的確に伝えること。この「伝達」の重要性はビジネスにおいても全く同様でしょう。例えば上司への報告、部下への指示、さらに顧客に対するプレゼンなどなど、短時間で、誰にでも分るように要領よく説明すること。ここがメロメロだったら仕事になりません。

 でもねー、この「要領よく」というのが難しいんですよね。「正確に」というだけだったらまだしも楽です。緻密に緻密に積み重ねていけばいいのですから。しかし、時間が限られているなど、ペラ一のメモ用紙に要点だけ書けとかそういう場合が多い。そうなると、新聞の見出しやコピーライティングのように、エッセンスだけ抽出して「要するに○○です」と言わねばならない。先ほどの交通事故の例ならば「深夜の交通事故。人対車。交差点での出会い頭。30代男性骨折重傷」とピンポイントに言う。新商品のプレゼンでは、「耐久性が倍増」「工期を3分の2に圧縮」などなど。

 これはハッキリいって技術です。そして、それが技術である以上、ボケっとしてたら身につかず、練習しまくって得るものです。また練習さえすれば誰にでも習得できるものです。


テーマのブレ・ズレ

 伝達においてテーマがブレるという現象もママ生じます。
 桃太郎の話をしていたら、「なるほど、これは動物愛護の話なんですね!犬やキジ、猿と仲良くやっていこうという教訓ですね」とか言われると、「うーん、、、」と絶句してしまいます。テーマがズレて伝わっているという。「あはは、んなアホな」と笑ってるあなた。桃太郎の話を外人さんに英語で喋ってちゃんと伝えられる自信がありますか。時として、とんでもない勘違いをされ、「だー!違う!」って叫びたくなったりするものです。

 英語で、"What's the point?"という言い方がよく用いられますが、要するに何が言いたいのか?テーマは何なのか?です。友達の結婚生活を延々聞かされ、やれお姑さんとの関係がどうとか、育児や出産がどうの、仕事と両立しにくいのと話が進んでいくわけで、てっきり「現代女性の結婚生活の苦労話」がテーマなんだろうと思って聞いていると、最後の最後に「女の友情なんて結婚したら終っちゃうのよねー」と思わぬところからメインテーマが出てきてズッコケたりします。「そーゆー話かい」と。

 笑い話のようだけどありがちな話です。間違えのないように「これから○○について述べます」とか言えばいいんだろうけど、日常会話でイチイチそんなことしないし、それにそういったテーマって口に出して言ってしまうと、「愛と友情の物語」「努力賛歌」みたいにクサかったりして言いにくいですよね。だからテーマを明確にせずにオモムロに話すわけですが、同じストーリーを聞いても人によって感銘を受けるツボは違うわけです。同じ映画を見ても、感動する部分が違ってたりしますからね。この種の受け取り方の違いというのは、結構恐くて、Aのつもりで話していたら、全然違うBの話だと受け取られてしまい、「いやあ、よく分りました」とか言われて困ってしまうという。「いや、あのね、そーゆーことじゃなくてー」って。
 普通の雑談だったら別に構いません。テーマなんてあってなきが如しで、話してて面白かったら何でもいいんですから、会話は一分ごとにテーマが変わりピンボールのようにあっちこっちに向います。しかし、ビジネスなどシリアスな局面では、テーマがブレブレだと結局何の話だったのかよう分からず、うまいこと伝えられないことになります。

 逆に、これは後で述べるかもしれませんが、「敢えて話をグシャグシャにする」という高等テクニックとして意図的にテーマをズラすことがあります。口喧嘩や低レベルの論争などでよく使われている防衛的な反則技です。テーマに沿って一直線に向ってこられると都合の悪い結論になるような場合、どっかで話を脱線させてしまうわけですね。「話を逸らす」ってやつです。

 例えば、あるプロジェクトで賛否が分かれ、結局ごり押しでGOしたものの大失敗だったような場合、責任追及をされるとします。プラント輸出のようなビッグビジネスの場合もあれば、飲み会の場所で予約をしなくても大丈夫だろうとタカを括って行ったら満員でダメだったという些細な日常風景もあるでしょう。で、強行策をとったアナタは皆から「ほらー、だから予約しようって言ったのに」「見通しが甘いんだから」とボロカス言われます。ここで「予約したってどうせ満席だった」とか真正直な言い訳では、「そんなのやってみなければ分らないじゃん」と容易につけ込まれます。それは予約すべきだった論という本来のテーマに沿ってるからです。

 そこで「やってみなければ分らない」という言葉尻を捉えて、「そうだろ?物事はやってみなければ分らないんだろ?だから来たんじゃないか、やってみなければ分らないんだからさ」と一発ジャブを放って相手の出足を止めつつ、微妙に話のテーマをズラし始めます。さらに畳みかけるように「そんな結果論であれこれ言ってたって意味ないじゃん。来てみたら満員でしたってのは結果だろ?結果から他人を責めるなんて卑怯だよな」とテーマの方向性を本格的に変え、とどめに「大体、お前の話っていつだって結果論じゃん。結果が出てからあーだこーだブチブチ言うんだよなー。そんなのどんな馬鹿でも出来るよ。卑怯なんだよ、それ。お前さ、自分で分ってて言ってんの?よく言えるよなー、そんなこと、恥ずかしくないの?」と相手を怒らせるようなことをわざといって方向転換を確定していきます。かくして「予約すべきだった論」は、「結果論で語る○○は卑怯か論」にすり替わっていくわけです。これで殴り合いにでもなればしめたもので、話は決定的にグシャグシャになります。場外乱闘に持ち込むわけですね。

 したがってこの種の口喧嘩においては、テーマがこちらに有利だったら絶対にテーマをズレさせない、こちらに不利だったら必死にテーマをズレさせようとするという、相撲でいえばマワシの取り合いのような闘争が繰り広げられるわけですね。

 でも、こんな低レベルの闘争ではなく、上手な人は知らないうちに非常に巧みにはぐらかしますよね。ニコニコ微笑を浮かべながら、相手に自由に攻めさせ、いくら詰問されても肯定も否定もせずにニコニコしつつ、相手が話の接ぎ穂を失ったり、言いよどんだり、あるいは勇み足で決定的にミスを犯すのを待つ。そして反撃の機会をつかんだら、「あ、それは違いますよ。明らかに事実に反しますね」とやんわり告げ、そこからジワジワと追い込んでいき、相手がグッと返答に詰まると、「ま、こんなことを言い争っていても始まりませんよね」とドローに持って行く。

 暴力団などの常套手段で、以前書いた記憶があるのですが(10年以上前のシドニー雑記帳時代の「インチキ人の道」=の最後の部分)、彼らは誰も反論できないような大正論をグイグイ押してきて、結果的に無理を通させようとする。彼らはそれが非常に上手で、僕も弁護士なりたての頃、結構苦戦を強いられました。例えば、「子供の借金を親に返させる」「彼氏の借金を恋人に払わせる」という、法的に弁済義務のないような人に支払を強要するような場合です。

 「そりゃ親も子供も別人格ですよ。子供は親から独立してなんぼですからな」とまず相手が同意するような地平線から始め、「せやけど」と続け、「別人格ということと赤の他人ということは違いまっしゃろ。別々の人格でもキズナいうもんがありまんがな。おなか痛めて産んだ可愛い子が、なんで赤の他人と同じになりまっかいな。違いまっか?息子さんにも可愛い盛りがおましたやろ?やれ七五三や、やれ小学校上がったゆうて、ね?あなた、今息子さんが死んでも、赤の他人の事故のように無関心でいられまっか?そんな親はおらんですよ。人間、そないなったら畜生以下の外道や。それが親と子のキズナゆうもんとちゃいまっか?親は全力で子を守るもんや、どんな不始末しでかしても可愛い我が子やないですか?世界にたった一人の、かけがえのない我が子でんがな。それをあんた、知らん、関係ない、ゆうんでっか?」とまあ、延々この種の「人の道」論を聞かされるわけです。

 このようにイッコイッコは反論しにくい、まさにテーマ性に寸分のブレもなく畳みかけてくるから彼らはプロなのでしょう。普通の素人だったらひとたまりもない。で、押し切られた挙句に証文取られてしまうのですね。いくら法的に支払義務がないといっても、新たに弁済契約や、重畳的債務引受などの合意があったら、それが優先して効力をもつから弁済義務が生じます。その証拠となる署名捺印を取られてしまったら、あとで裁判でそれをひっくり返すのは難しい。詐欺・強迫による意思表示は取り消すことが出来ますが、巧妙に詐欺にも強迫にも当らないような言葉遣いで言うから難しい。畳にドスの一本でも突き立ててくれたら強迫性の立証は容易なのだけど、「人の道を諄々と説いた」だけという外形を持っているとそれもツラい。

 ちなみにこの種の言い方に対する対抗策は、簡単に同意せず、別のテーマを打ち立てることです。例えば上の例だったら、「そうや、親子のキズナは何よりも尊い。せやけどそれは魂と魂の結びつきや。魂レベルの話や。今ここで言ってるのはゼニカネレベルの話や。レベルが全然ちゃうがな。尊い親子の魂のキズナを、ゼニカネレベルと一緒にしたらあかんで。そこんとこ、間違うたらあかん。ゼニカネはゼニカネで法律ちゅーもんで仕切るのがスジや。誰が決めた?国会で民主的に決めたんやないか。それが法律やろ。皆で決めたことは皆で守る。国民の常識や。常識どおり、きちっと法律守っていこやないか。それとも何か?皆で決めた大事な法律、破ってもええんちゅーんか?」

 とまあこんな感じで丁々発止とシノギを削ったりするわけですね。ビジネス(債権取り立て)という現場における「コミュニケーション技法」、その中での「テーマ性のブレとズレ」に関するケーススタディでした。かなり特異なパターンだけど。要は「何とでも言える」ということですし、一見非の打ち所もないような正論であっても、180度真逆な正論もまた可能ってことです。

 この世界は立体です。三次元世界です。でも論理や表現というのは、ともすれば二次元の平面世界に思いがちなのですね。平面的には完璧に見えるロジックも、立体的に見たら穴だらけ。現実世界も、人間そのものも矛盾のカタマリだし、矛盾の中にこそ真理がある。だから直線的で鋭い論理は、それが直線的で鋭いが故に脆い。そういえば「平行線は絶対に交わらない」というのは平面におけるユークリッド幾何学ですが、曲面幾何学である非ユークリッド幾何学ではなんぼでも交わる。赤道において東経西経の経線は完璧に平行だけど、その平行な筈な経線も北極になると全て交わってしまう。テーマのズレ・ブレを巡る攻防は、平面的な論理に対して立体的に反撃を加えるようなものかもしれません。わかりにくいですね。わからんでもいいです。いずれ書きます。

 話を的確に分りやすく伝えるためにはテーマがぶれないことです。テーマがぶれると話がグシャグシャになると。
 そしてテーマの脱線やら争奪戦を巡って、皆さん、今日もチャンチャンバラバラやってたりするわけです。こういったケースが最もよく見られるのは、例に挙げたような物騒な民事暴力の現場ではなく、実は家庭内の夫婦喧嘩や恋人同士の言い争いだったりするのは、皆さんもよくご存知のとおりでしょう。ダンナが浪費癖のある奥さんに向って、「だからもっと計画的に使えって言ってるんだ。この前もあれだけ衝動買いはやめるって言ってたのに」と攻めていたら、「なによ、あなただって浮気してるじゃない!」ととんでもないテーマ外しの大技を食らって、「な、何を言ってるんだ!」と動揺したところを、「あたし、知ってるのよ」と畳みかけられ、さらに「ほら、すぐそうやって大声を出して誤魔化そうとするんだから」と連続技を繰り出されるわけですね。ま、なんというか、お疲れさまっス。





文責:田村

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