シドニー雑記帳




インチキ「人の道」





     人間だったら誰でも皆同意するような、人類普遍の真理みたいなものってどのくらいあるのでしょうか。例えば「人を殺すのはよくない事だ」とか、万国共通の「人の道」みたいなもの。これも厳密に言いだすと底無し沼みたいな議論になるので、ごくおおざっぱな話としてですが。

     例えば「コーヒーに砂糖を入れるべきかどうか」なんてのは、完全に個人の趣味・選択の問題であって、「砂糖を入れて飲むのが人として正しい」なんて話にはあまりならんと思います。これが同性愛などになってくると、「個人の選択にすぎない」とする派と「正しき人の道に反する」派とが出てきてややこしくなってきます。でも「殺人」となると、大多数は「よくないこと」と言うでしょう。

     一体どこらへんに境界線を引くのか?これは、もう昔っから散々議論されてるところですが、今日はその境界線自体は問題にしません。問題にするのは、「エセ人の道」です。昔から、自分の都合を押しつける為のレトリックとして、この種の「ひとの道」を説くケースが多いなあと思ってたわけで、それも大体目上の者から目下の者に押し付ける場合、いわゆる「お説教」の類に、その種のインチキ人道主義が多く見受けられるんじゃないか、という話です。

     誰だってそうだと思うのですが、この種の嘘臭い「人の道」を押し付けられると、ムチャクチャ腹が立ちます。僕が時として異様に理屈っぽくなる遠因は、一つにはガキの時分にこれに反発して、「くそお、論破してやる」と理論武装してたことにあるのでしょう。でも、いい年になってくると、そんな頭ごなしに説教をされる機会も少なくなります。すると今度は、若い人がその種の愚劣なお説教を聞かされているのを見たりして、余計なお世話ながら可哀相になりますし、「そうかなあ」と洗脳されそうになったりしてると横から一言援護射撃もしたくなります。雑記帳でもその昔「目的意識?」というお題で書いたのは、その種の余計なお節介の一環でもあります。




     ここで僕は何も「人の道」一般を説くのがダメとか、すべからくお説教はアカンとか言ってるのではないです。勿論。ただ、それを説く以上はそこに自ずと一定の節度があり、また健全な批判精神があった方がいいんじゃないかということです。これは逆に自分が言う立場になった場合、「一言ピシリと言ってやった方がいい場合」ですが、そのときの節度と自戒にもなると思います。

     「人の道」は何も一つとは限らない。ひとりの異性を一生大切にするのも生き方なら、明治の著名な女性のように奔放な愛に生きるのも生き方でしょう。前者は終生変わらぬ誠実さが尊く、後者は愛の純度を求める真摯さが人の胸を打つのでしょう。人間の美徳など一つではない。実直誠実という美徳もあれば、豪放磊落という美徳もある。三国志の英雄のように中原に覇を競い、駆け抜ける人生もあれば、良寛さんのように市井の一隅を照し続ける人生もある。「生涯○○一筋」という生き方が素晴らしいからといって、飛行機作ったり絵を描いたり人体解剖図を作ったダ・ヴィンチの生涯が「駄目な人生」になるわけでもないでしょう。医学博士でもある手塚治虫に対して、「医者なんだからマンガなんか描いてちゃダメ」というのも変な話でしょう。

     人間が潜在的に持っている可能性は無限に多様だと言われます。だからこそ人生は多様であり、人の美徳も、人の道もまた多様なのでしょう。お説教にせよ何にせよ、それを踏まえてやる分には説得力を失わないと思います。しかし、人の道がバラエティに富んでいる分、その中から都合のいいものだけを恣意的に抜き出して他人に押し付けるという事も可能だし、自己弁護に励むことも出来ます。そして、それが往々にして行なわれていたりするのでしょう。

     定職につかず、3ヵ月ともたずに職を転々としている若者を指して、「辛抱が足りない」と出来損ないのように批判するのはたやすいです。でも、大成した作家や役者さんのなかには、「若いときには何でもやった。30以上の職業を経験した。そのときの蓄積が財産になっている」という人もいます。「何をやっても中途半端だった俺が最後まで止めなかったのがこの道だ」とか言えば、なにやらカッコ良く響きます。ブラブラしている若者を非難する人は、同じようにこれらの役者さん達が役者として大成するまでの蓄積期間についても同じように「ブラブラしおって」と非難しなければならない筈です。でもそんな風には言わない。何処が違うの?その違いを的確に抽出できなければ、いくらお説教を唱えたって説得力はない。

     「最近の若者は小粒になって、夢も大志ももたない」といって嘆いている人がいますが、そんな人でもいざ自分の子供が大学受験のときに「俺はロックスターになるから大学はいかない」といったら、「そんな夢みたいなことばっかり言ってるんじゃない」と怒ったりするでしょう。

     「人間まっとうに生きなきゃ。一攫千金なんか夢見るんじゃない」とか言いながら、自分はバブルで踊ってたり。「人間地道が一番」とか言いつつ、「庶民のささやかな夢」といって年末ジャンボ宝籤買ってたり。

     全然一貫してないじゃんとか思えたりもするのですが、こんなことばっかり言ってると「人間ちゅーのは理屈じゃないんだ」と怒られそうです。でも、じゃ理屈抜きに「あんたキライ」とシンプルに言ったら怒られないかというと、もっと怒られそうだ(^^*)。





     小学生の頃から、立派な大人も沢山いましたけど、中には「やたらエラそげだけど、ホントは馬鹿じゃないのか?」と思える大人もいました。で、今自分が大人になって思うに、やっぱりあいつらは馬鹿だったじゃないか。

     ただ、馬鹿であることは必ずしも悪い事ではないし、そこに腹が立っていたわけでもない。許せないのは、そのいい加減なご都合主義であり、自分の都合でお手軽に「人の道」を振り回す偽善性であり、あるいは人の生き方に対する洞察と敬意の乏しさです。

     偽善ではなく本当に良かれと思って言ってくれる場合は、それはそれで判ります。まあ全面的に賛意を示すかどうかは別として、その真情たる部分は判ります。だから、鬱陶しいと思ったりもしつつも、そうそう腹も立ちません。そうではなく、そこに偽善が透けて見える場合には、やっぱり許せんもんがあります。単に虫の居所が悪く八つ当たりしてるだけなのに、「大体オマエは仕事というものをナメてるよ」とかもっともらしいお説教を並べるような場合。




     
     でも、八つ当たりとか、露骨に偽善的なのはミエミエですから、ムカつくけど傷は浅いと言えます。

     害がデカいのは、システム的に理不尽なことが「人の道」の大義名分のもと人々を支配してるような場合だと思います。

     例えば、職場で理不尽な命令をされて拒否したりすると、この種の「人の道」的な攻撃が始まったりします。皆がやらされてるサービス残業を「子供が待ってますから」でやらずに帰ってると、やれ「和を乱す」とか何とか「人道的な」非難を食らったりすることもあるでしょう。あたかも沈没したタイタニックの周りに溺れている乗客を救いもせず、一人だけボートで脱出しようとしているかのような、「人間として許されないこと」というニュアンスで言われることもあるでしょう。

     そりゃ、大災害に見舞われて皆で一致団結しないとサバイバルできないとかいうなら、この種の人道論は判らんでもないです。でも、ごく普通の仕事の局面で、人命が掛かってるとか普遍的な重要性があるわけでもなく(それどころか誰も読まない会議の資料作りとか)、しかも「労働法違反だけど無給で働け」という法的にも不当な命令というのは、「子供と一緒にいたい」という自然の情愛を犠牲にしてまで守るべきものなんだろうか?それが「人の道」なんか?と僕は大いに疑問です。

     疑問なんだけど結構これがまかり通ってしまう。よく考えると理不尽なんだけど、もうシステム的に浸透してしまって、「そういうもんだ」で悪慣れしてしまう。だからそれを正そうとすると逆に人道的な非難を受けるという。クラスでイジメが流行ってるとき、一人だけイジメに参加しないと「和を乱す」と非難されるという、グロテスクな冗談みたいな状況。

     戦時中なんか典型的ですが、日本の将来を真剣に考えて日米の戦力を冷静に比較して、「どう考えても勝てるわけないじゃん」という極めて正しい意見を言ったら、もう非国民であり、今でいえば誘拐犯人くらいの扱いを受けたりしたわけでしょ?シドニーから程近いカウラという町では日本人捕虜収容所の自殺的な脱走事件が発生したので有名ですが、そこでも「生きて虜囚の辱めを受けず」という、それこそ人道的にも戦略的にも滅茶苦茶な意見が通ってしまい、「死ぬだけだから止めよう」という意見を言った者は皆の見てる前で自決させられたといいます。

     この救いがたい愚かしさと哀しさは、今だってあると思う。そして愚かしければ愚かしいほど高らかに唱えられるのは「人の道」だったりします。子供を託児所から迎えに行くために、サービス残業を抜け出す同僚を、非難がましく見たり、あてこすり言ったりする奴は、基本的には戦時中のカウラ収容所と同じだと思う。





     政治学という面白い学問がありまして、古今東西の権力者が他の人間を従わせるためのテクニックや実例が分析されてたりします。学者の数だけ政治学があるというくらい好き勝手に色んなことが言える領域なのですが、そのなかで「権力が権力として成立するためには?」という研究があります。諸説ありますが、例えばオモテとウラの2つの条件が必要であると。ウラというのは「暴力」です。最終的には逆らった人間を殺せるだけの物理的攻撃力を持ってること。これが権力成立の一つの条件。警察力、軍隊、世界中どの国家もこれを持ってます。しかしこれだけだったら暴力団と変わらんわけで、単なる暴力を「権力」までに高めるにはもう一つオモテの力が必要です。それが、「権力の正当性」と言われるもので、自分が権力を持つ事が「正しいこと」だと他の人間に納得して貰う必要があります。

     古来、権力者はこの「(もっともらしい)正しさ」をどう演出するか、ありとあらゆる努力を重ねてきたわけですね。曰く「神の一族だから」、曰く「神様から任されたから(王権神授説とか)」、曰く「皆に選ばれたから」。いろいろありますが、皆が尊重する価値原理を最も体現してる(最も神に近いとか、最も男らしいとか、最も優しいとか、最も愛国的だとか)かのような演出をします。平たく言えば「エラい」と思ってもらうわけです。

     余談ですが、選挙風景では、候補者は皆(平均的国民)が最も重んずる価値を持ってることをマーケティングしつつアピールするでしょう。逆にいえば、候補者のアピールを聞けばその国の人々の価値観のおおよその所が判るかもしれません。で、日本の場合は、「誠実」「清廉」「一生懸命頑張ってます」というアピールが繰り返され、「有能」であるかどうかはどっちかといえば二の次にされてます。「出来る人」よりも「いい人」の方が好きだという。オブチさんなんかその典型なんかもしれません。「本来なら政策で選ぶべきなのに」とか言われますが、政策だけ説いている候補は大体負けてるんじゃないですかね。それに超真剣に数字やデーターをあげて政策を説かれたって、国民の方が判らんという問題もあるのでしょう。

     それはともかく、古来権力者サイドとしては、皆が一色の価値観に染まってくれてた方が都合がいいわけです。戦前の日本のように、天皇万歳で「日本は一番エラい」という夜郎自大的な価値観に統一しててくれたら話は非常に簡単です。一昔前の中国のように、とにかく毛首席が一番エラいとか。その価値観に沿って演出すればいいし、さらにお手軽なのは、気に入らない奴を「非国民」とかボロクソ批判して抹殺することが出来るという点です。

     国家レベルに限らず、職場の上司にせよ、クラスの担任の先生にせよ、何にせよ、皆の価値観を一つにまとめあげようと頑張るわけです。そうでないと、皆がてんでバラバラだったら、ほんとうに苦労しますもんね。出来れば集団のために滅私奉公的な価値観に染まっててくれたら、それはそれはやりやすいでしょう。だもんだから、日本では江戸時代、韓国経由の儒教あたりが重宝されたのでしょう。君には忠、親には孝ですからね。ようするに「目上に逆らうな」といってるわけですから、権力サイドとしては楽チンです。これが「正義とは行動することである」「我慢は時として不正義である」という極めてアクティブな陽明学あたりの思想が広まってたら、大塩平八郎の乱みたいな反乱が多発していたでしょう(確か彼は陽明学の徒だったと記憶してますが)。

     ちなみに「韓国経由の儒教」と言ったのは、物の本によると、本来孔子がいっていた儒教と、韓国経由で日本に渡来した儒教とはちょっと違うらしいです。孔子は、一番上に「天」があり、君主など目上の者であっても、天に背くような行いをしたときは、下の者は容赦なく君主を討つべしと言ってるらしいのです。でも、日本に輸入された段階でこの大事な部分が削除されてしまったので、ただ単に「上に従え」という奴隷根性みたいな儒教になってしまったとか何とか。確かにこの部分を入れると、権力側としてはやりにくいでしょうね。

     ともあれ古来、上の者は、下の者の価値観を、まるで筆の穂先を揃えるように染め上げようと思うものですし、その「洗脳」のテクニックも沢山あったりします。そのときに最も頻繁に使われるレトリックが、「それが人の道である」という倫理的な説得法だと思います。間違っても「キミが言う事きかないと、ボクとしては非常に困ったことになるのよね」なんて本音で言ったりするようなことはマレでしょう。戦時中、軍事官僚の無能によって前線の兵士や国民が飢えた場合、「しっかり計算して戦線を展開せんかい」という当たり前の批判を出ささずに、「倹約・辛抱」という美徳レトリックで誤魔化したりするとか。

     しかし、これ便利ですよね。どんなに失敗して皆に迷惑をかけても、その他人に「辛抱の美徳」を押し付ければいいというのはメチャクチャ楽チンだわ。逆にいえば、戦争なんかそうやって集団発狂してるくらいでないと遂行できないものなのかもしれません。

     で、何が言いたいかというと、この価値観染め上げ作業の一環としてお説教が利用(悪用)されるケースも多々あるだろうということです。





     このように上の人間は自分の都合を詭弁を弄して人道的にコーティングしたりするものですが、もう一つもっとヤバいことがあります。つまり、同じくコケにされてる者同志で足の引っ張り合いをするという、もっともっと愚かしいことです。

     些細な一例として「サービス残業一人シカトケース」を挙げましたが、このケースで、帰る人を迫害するのは何も権力者(上司)だけではありません。むしろ同僚や仲間からもっと迫害されたりもします。

     どうしてそうなっちゃうのか?さっさと帰られちゃう側の憤懣も、実はわからんではないのです。その怒りの実体は、一人だけ楽してる奴を見たらとりあえずムカつくということだと思います。「ひっど〜い」「ずる〜い」とかいう、素朴な嫉妬心でしょう。

     単に「ズルい」と思うだけではなく、そこにはそれなりのモットモらしい「人の道」的レトリックがあったりします。例えば、「苦難は仲間で分かち合って」とか「人という字は支えあって〜」とかいう美徳が語られたりするわけです。しかしそんな美徳を語る前に、より大きな枠組としては無料奉仕を強制されてるという奴隷的状況があるわけで、それを無視していくら仲間の美徳を語ったって、所詮は奴隷の美徳に過ぎない。根から奴隷根性の染み付いた奴隷が、奴隷になりたくない人間を、「奴隷としてなっていない」と非難してるというのが、ミもフタもない歪んだ構図だと思います。

     温かい連帯感や、助け合うことや、思いやりの尊さは僕にも良く分かります。そんでもそんな尊い人間的価値は、こんなセコい場面で使うもんじゃない。「人という字は支えあって」とかいう、そのホンマの価値は、古い友人がやってきて「何も言わずに百万貸してくれ!」と言われたときに、ほんとに何も言わずにポンと百万貸してあげるようなときに出てくるのではなかろうか。電車の中で酔っぱらいに絡まれて泣きそうになってる人を、「もしかしたらボコボコにされるかもしれないな」とビビりつつも助けてあげるようなことじゃないのか。職場やクラスで言われなく差別されイジメられてる人がいたら、近寄っていって「今日一緒にお昼ゴハン食べにいこうか?」とニッコリ微笑んで話し掛けることじゃないのか?大きな矛盾に目をつむり、サービス残業のつきあいような場面でイチイチそんな人間的価値が出てきていいのか。

     でもまあ、一概には言いません。例えば、サービス残業を命じる課長さんも、上に言われて止む無く命じていて、しかも彼は職務と家庭のプレッシャーで精神失調に追いつめられてるのが手に取るようにわかるような場合。あるいは、残業を命じられた仲間が、本当は子供が急病だから帰らなきゃいけないけど、リストラが恐くて帰れない、だから皆で手伝って一刻も早く家に帰してあげようとか。それだったら話はわかります(ただ、それでもなお且つ選択だとは思いますが)。ここで一番得するのは皆にタダ働きさせている会社なんだけど、これは後に時期が来たら3倍にして復讐することにして置いておきましょう。
     そういった「誰かが危機的情況にあるから助ける」という具体的な絵が見えないのに、ただ感情的な「ズルい」というムカつきを、仲間の連帯意識やら何やら人道的レトリックで誤魔化して非難するのであれば、それは違うと思います。

     個人的好悪でいうと、この種の人の方が、権力的な人間よりも僕はキライです。権力的立場にある奴が偽善的に振る舞うのは、自分のエゴで他人を傷つけるという「罪ひとつ」ですが、仲間の足を引っ張る奴は単にエゴだけではなく、勇気のなさや嫉妬という、社会の空気をネガティブに向わせる毒素を撒き散らすという罪も犯しているので「罪二つ」とも言えるからです。前者は「社会のダニ」くらいで済むけど、後者は感染増殖する分「社会のガン細胞」ともいえる。ヒドイ言い方ですけど、でも、ほんとそう思うです。ともすれば自分もそうなりがちなだけに、より自戒の意味も含めて「やっちゃいけないこと」だと思うのです。





     ただし、同じケースを全く違う視点で見ることもできます。本題からは外れるのですが、職場の人間関係における「人の和」ということの本当の意味です。職場というのは仲良しグループじゃないんだから人を選べない。だからイヤな奴、気に食わない奴も当然いる。というより好きな奴の方が少なくて当り前だろうし、毎日家族よりも長い時間顔を突き合わせてたら当然鼻につくこともあるでしょう。でもそこで地を出してイチイチ喧嘩したりしてたら能率が悪いし、不愉快です。喧嘩して話合って和解し合えるような相手ばかりでもない。でも毎日顔を合さざるを得ない。

     この環境で出来るだけ互いの不快感を減らしてやっていこうとするなら、あんまり地を出さないで表面的に付き合ってる方がいいです。仮面かぶって「職場はいい人ばっかりゲーム」をやるっきゃない。それは虚しいことかもしれないけど、しゃーないことでもあります。正直にやって、我と我が対立して、ムカっ腹立てて疲れ果てるよりは、まだ虚しさの方がしのぎやすいのです。職場というのはマラソンみたいなもので、そんな短距離ダッシュしたらあとが続かない。どだい、ぶっちゃけた話、お金欲しさで職場に行ってるわけで(給料ゼロだったら行かないでしょ)、そこで「人間的ふれあい」なんて求める方が間違っている、と。皆疲れた体をムチ打って今日も職場に出てるわけだし、家だの恋人だのでそれぞれ悩みがあったりするわけだから、出来るだけ人間関係で疲れさせないように配慮してあげるのが大人の優しさでしょう。

     不毛なことで消耗しないように皆で仮面かぶってやってる場においては、話題も当たり触りの無いものがいい。問題に深く切り込んだりしない方がいい。これは日本だけではなく、アメリカの本だっけな、処世術みたいなことで「初対面の相手とは政治や宗教の話題を持ち出さないのがマナー」とか読んだことがあります。極端に意見の分かれそうなテーマは持ち出されると面倒なんですね。いくら正論であろうが、信念であろうが、そういう生々しい人格的なテーマを持ち出されると、つい皆も人格の地が出てしまいやすく、結果として場の雰囲気がササクレやすくなるわけです。で、皆疲れてしまう。



     職場で正論を吐きまくったり、「我が社のここが駄目です、こんなんじゃダメです」とか言ってると、「若いねえ」とポンと肩を叩かれたりします。この「若いねえ」は「馬鹿だねえ」と同じニュアンスで言われたりするから、言われた方も益々ムキになったりします。

     でもねえ、馬鹿というのは一面真理なんですよね。君は若くて他に人生のステージがないから、有り余ったエネルギーの発散場所を職場に求めようと無謀なことをするけど、他の人は、カミさんに離婚を切り出されて悩んでたり、住宅ローンの借り換えに苦しんでたり、中2になる娘がこの3日帰ってこなかったり、あるいはやっぱり婚約を破棄しようか悩んでたり、そろそろ親がボケてきてその介護をめぐって兄弟内部でモメてたり、、、色んなことがあるわけです。退社後ワンルームマンションに帰って缶ビール飲んでればいいキミと違って、皆さん人生のステージは沢山あるわけです。はっきりいって疲れ果てて職場に来てるわけだし、仮面かぶってりゃ何となく上手くいく職場は息抜きの場でもある。それはもうハッキリいえば上は社長から皆そうだったりする。

     僕は思うに、仕事とかいっても、神様の視点でみれば、皆さん半分位は上の空で、「心ここにあらず」でやってたりするんじゃないかな。だから「我が社は駄目」とかいってもダメで当り前だと思うのですね。だって皆さんテキトーにやってんだから。というか適当にやらないとやってらんないんだわ。だから皆フルマラソン走ってる最中なんだから、またぞろ職場で「生身の人間同士のふれあい」なんてうざったいことしたくないんだわ。ただでさえ人間関係なんてややこしいのに、これ以上ややこしくせんでもええやないか、と。

     ただ「仮面劇」といいつつも、本当に100%仮面だったらシラけてしまうし、それはそれで不愉快です。だからそこには本物の人間の優しさや温もりも出します。出すけれどもそれも恋人や家族みたいな全人格的なものであってもならない。そのレシピと線引ができるというのが大事なのでしょう。また自分のキャラクターに合せた微調整も必要でしょう。これはセコい戦略として言ってるのではなく、れっきとした社会人のマナーでもあると思います。ただ、そのレシピや温度差が、世代によっても、立場によっても、個性によってもバラバラなので難しいところなのでしょうが。

     とまあ、そういう視点でサービス残業ケースをみれば、自ずと見え方も変わってきます。その現場におったら、妙に正論を唱えてその後の人間関係がギクシャクする苦痛に比べたら、帰宅時間の1時間や2時間遅れるくらい屁でもなかったりします。僕だって疲れてたらそう思いますわ。そんなに早く帰っても道が混んでるだけだもんね。それに学校の放課後みたいな解放感で同僚と缶ビール開けながら仕事してるのも悪いもんでもないですから。

     そういう現実も踏まえつつ、でも敢えてインチキ「人の道」の胡散臭さはやっぱり言っておきたいわけです。疲れないための擬似的「人の和」でやってるところで、その擬似性を暴き立てるのもルール違反なら、同時に擬似性を真実のものとしてお説教的に人の道を言うのもルール違反だと思います。

     もひとつ言えば、その「人の道」がインチキではなく真情から出たホンモノである場合でも、「擬似性から逸脱」というルール違反のリスクは被りますので、かなり時と場合を考える必要があると思います。よくシングル女性に「○○ちゃんもそろそろ結婚せな」とか言って嫌われたりするパターンというのは(言ってる本人は悪気はないのだが)、そういう生々しい意見の分かれそうな、相手の仮面を取り外すような振舞いがイヤがられるのではないかなと思います。





     さて、ここから例によって余談に入ります。

     さて仮面劇とか言ってますが、日本社会が息苦しいとか暑苦しいとか、タテマエばかりで本音を言わないとか、そのくせ人の和ばかりを重んじるとか、いくらでも批判は出来るでしょうし、その種の議論は山ほどあります。でも、別にオーストラリアだって似たようなもんだと思います。余計なこと言って無駄に消耗するときは本音言わないのはどこの民族も同じだと思います。

     ただ何処が違うかというと、一つは「あきらめ度」が高いんじゃないかな。他人が自分と同じ価値観や趣味を持ってたとき、温かいモノが心を流れる快感がありますが、「そんなこと滅多にないよ」とあきらめてる指数が高いという。それは個人主義の伝統でもあり、他民族国家だからでもあるのでしょう。あまり多くを他人に期待すると、やっぱり喧嘩になっちゃうしツラいし。民族数が少ない日本はその点まだ期待度が高いのかなと思います。期待するから腹が立ち、腹を立てないようにいろんなテクニックが出てくるという。





     もう一つは、単純に社会資本でしょう。物質的豊かさ。日本は豊かとかいうけど、それは値段が安くなるほど豊かになるという妙な特徴があると思います。大体10万円以下の物(文房具とかオーディオとか)は非常に豊富で安価にあるけど、1000万円以上のもの(家とか)は高くて少ない。1000万円以上のものを買うときのライフスタイルのオプションも乏しい。

     そもそもの問題は、なんで家にいるときに疲れて、職場が息抜きになるか?だと思います。さっきの例ではないですが、住宅ローン、子供の教育、そして老後(親の介護と自分の老後)です。一生の間にこの3つをクリアしようと思ったら、そらヘトヘトになると思います。

     住宅ローンがあるから、しばらく退社して鋭気を養いたくてもできない。住宅&老後費用で生涯年収億単位稼がないとならないから、いい会社、いい学校に入らないとならない。だから学校もその方向に向うし、塾もいかなきゃならない。だからまた生活コストがかさむ。さらにそういったものに追い立てられ高ストレスに晒されている親が、人間らしい素朴で力強いバランスを持ち続けていられるかは疑問だし、親のストレスはまず子供に伝染するでしょう。だから余計に教育が荒れたりする。その弥縫策として情操教育なんかやるからまた金がかかって益々家計を圧迫。もう何重にも絡まった悪循環とも言えます。

     で、結局、何が悪いかといえば、要するに社会資本が貧しいのが最大のネックだと思います。文化の問題以前にもっとドライな物質レベルの問題。だってローンの額が半分になっただけでも随分楽になるでしょう。贅沢しなけりゃ大丈夫という年金が絶対出るというなら、そして公的介護もバッチリだったら、話も違ってくるでしょう。そこまで必死に働かなくても何とかなるというなら、転職、休職もゆとりをもって出来るでしょう。何がなんでもいい大学入らなきゃってもんでもないなら、詰め込み勉強も緩和されるでしょうし、そんなに教育費に注ぎ込まなくてもいい。全体にかなり楽になると思います。

     そういう意味では日本が豊かなんてのは大嘘だと思います。「オレタチは貧乏なのだ」とハッキリ自覚した方がいいと思う。物質的に貧しいからココロがすさみがちなのよね、と。大体、10万円以下の小物が溢れててもそれは豊かとは言わない。大物が自由にならないから代償的に小物をずらっと並べているだけではないか。最新のDVDや大型TVがあるよりも、「海辺の家で日曜日は子供にヨットのコーチ、でも都心まで30分」の方がいいでしょうに。もし僕がシドニーに生まれて、日本でやったとのと同じ程度の努力(司法試験とか)したら、その程度の生活できますもん。畜生、この差はなんなんだと言いたい(^^*)。日本も小物並べて喜んでる場合ではない、もっと大物を狙おう。都心のマンションが安くなったとか空前の低金利とか、そういったフィールドでやってないで、「海岸まで歩いて3分の家」というのをまず大前提にして、そこから職探しから何から組み立てるくらいでないと、、、とか言っても、なかなか難しいのですけど。

     じゃこの社会資本の差はどこから来たの?と言われたら、ラッキーカントリーで資源売ってりゃ生活できたオーストラリアと、資源がなく町工場からのしあがっていくしかない日本の差といってしまえばそれまでです。でもそれだけじゃない。もっともっと色んな要因があるのですが、これ言い出すと余談レベルを越えるので、またの機会に。






     余談ついでにもう一つ。

     理不尽を通すレトリックとして「人の道」を説く最も極端な例としては、ヤクザやサラ金の脅し文句があると思います。いわゆるインネン付けたり、強硬な取りたてをするような場合。

     これ、直接体験した人は少ないでしょうけど、意外にも「てめーぶっ殺すぞ」みたいなストレートなことはあんまり言わずに(言ったら刑法上の脅迫になるし)、もっぱらジュンジュンと「人の道」を説くような言い方をするケースが多いように聞きます。で、巧いんですよね、反論させる隙を与えないように、一見当たり前のようなことばかり言ってくる。例えばこんな感じです。

     『奥さん、ワシら無茶言うてるのんと違いまっせ。借りたお金は返してください、約束は守りましょうとゆうてるだけでっせ。ちゃいまっか?ワシの言うてることがおかしかったらナンボでも言うてくださいや。借りたもんは返す、当たり前のことでんがな、ねえ?奥さん、子供さんいてはりますやろ?お子さんに何てゆうて育ててます?”約束は守りましょう”って教えてますやろ?そのお母さんが約束破ったらあきまへんがな。今更”待ってください”言われても、それは聞けませんわ。

     奥さん、約束破るいうなら、それ相応のことしてくださいよ。約束は守らん、何もせん、それで済むねやったら人の道に反しますわ。そうは思いまへんか?思いますやろ。せやったら、もう少しやりようゆうもんがありますやろ。ワシらも、約束破った、「さいでっか」でいきなりこの家競売にかけてもええんでっせ。しゃあけど、人間そんなもんと違いますやん?奥さんさえナンナと誠意みせてくれたら、ワシらかてそない大人げないことせんで済みますんや。判りますやろ?人間ゆうのは、そうやって助けあわなアカンのと違いまっか?』

     とかなんとか、「ここ」といって反論しくいような流れで来るパターンが多いように思います。これうっかり聞いてたり相槌打ったりしてるうちに、どんどん言質とられて抜き差しならなくなってしまう。弁護士なりたての頃とか、よう流されそうになりましたけど、だんだん受け流したり、逆に切り換えしたり覚えますけど。『いやあ、ほんまやなあ、アンタの言うとおりやなあ。せやけど、無い物は無いんや。これは開き直ってるわけやないで。事実をいうてるんや。まず事実を認めな話が進まんのと違う?』『もちろん何とかしようとしてる。せやから「ない場合はこうしなさい」とちゃあんと法律で定めてくれてるんやないか。そのとおりにやろうと言うてるんやないか、それの何がアカンねん?』とかね。

     子供のころインチキ「人の道」に反発してあれこれ理屈いってたわけですが、それが大人になったらサラ金相手に似たようなことをやってるという(^^*)。余談でした。



1999年05月04日:田村

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