今週の1枚(08.03.03)
ESSAY 351 : 閑話休題 〜 全然、ちっとも、ビックリするくらい変わらない
写真は、雨の日の電車の窓(見れば分かるか)。場所は、えーと、North LineのMilsons Pt駅あたりだと思います。最初は「ダメだ、こりゃ」でボツ写真になっていたのですが、見直してみると、この「浸(ひた)ってる」臨場感がええな、と思い直して。
フランス革命に続く今回は、ナポレオンがジャーンと登場することになってますが、ここでChange of pace です。普通のエッセイを入れておきます。いや、深い理由があるわけではなく、あまりも固めちゃうと暑苦しいかなと思って。ちょっと一休みで、肩の凝らない、どーでもいい話をします。どーでもいい話なので内容は限りなく薄いです。Would you mind?
年を取ると変わることと変わらないことがあります。
変わらないのは自分自身の核にあるような部分です。若い頃は、年を取ると自分がなにか別人のようになると漠然と思ってましたが、あまり変わらない。というか全然変わらない。ビックリするくらい変わらない。おそらくは70歳になっても100歳にもなっても変わらないだろうし、おそらくはあなたもそうなのではないか。小学校の校庭で鉄棒にぶら下がっていた頃の自分が、そのまま今のポジションにいるような感じです。
勿論、考え方や好みも変わるし、性格も変わるでしょう。でもそれは「属性」というか「機能」というか、Aという機能を付加しましたとか、Bという体験をしたのでB的なものには免疫がつきましたとか、そういった属性です。人間というのは(何でもそうだと思うけど)、核になる本質部分と、周辺や表面に出てくる属性部分とがあるのでしょう。「核になる本質」というのも分かったような分からないような概念ですが、何というか高尚に言えば魂のようなものであり、日常的に言えば、普段心の中で考えている「自分」「おれ」「わたし」です。
僕自身は同窓会などあまり行く機会はないのですが、小学校のクラスメートだった連中が30年たって殆ど原型をとどめないほど「変わり果てた」姿で登場しているにもかかわらず、「あ、ケンちゃんだ!」とピンとくるといいます。そして、いい年をしたオッサン・オバハンが子供の頃に完全にトリップして、言葉遣いまで「なんだよー、きたねーじゃんかよ!」「うっそでー!」とか言ってたりする、というのはよく聞く話です。多分、魂とか(呼び名は何でもいいのですが)に固有の振動数みたいな周波数があって、それをチューニングしてキャッチすることで人間というのは「これは○さん」という個体識別をしているのかもしれません。もっとも、そんなに強力なミラクルパワーではなく微弱な波長なんだとは思いますが。だって、もしそんなものが強烈に機能しているなら、この世に変装なんて手段は全く無意味になるでしょうし、ちょっと前に流行ったオレオレ詐欺なんてのも成功するわけはない。でも、そこまで強力ではないにせよ、魂固有の「なにか」はあるんじゃないかと思います。それが、まあ、他人から見た「核になる本質部分」なんでしょう。
で、ここで述べているのは、主観的な本質、自分からみた自分、自分が自分であることというか、もう余りにもありふれて日常的なので改めて認識するまでもない自己認識です。何かのドジに気付いて「あ、またやっちゃった。オレもバカだよなー」って心の中で思うときの「オレ」です。「ワタシ、そーゆーの嫌い」って思うときの「ワタシ」です。この部分は幾ら年を取っても変わらないよ、と。
本質部分は変わらない---そんなの当たり前だと思うかもしれない。
だけど本当に変わらんのよ。「げー、ここまで変わらないものだとは思わなかったぜ!」ってくらい変わらない。いつまでたっても俺は俺、10年たっても、30年経っても俺は俺。自我”同一”性とはよくぞ名付けた!と言いたくなるくらい。よく、大人になっても「少年のような心を持って」という表現がありますが、少年のような心を持ってるんじゃなくて、少年そのもの、少年本人なんだわ。もっと言えば、少年のときの自分と大人のときの自分、老人になったときの自分というのがあるのではなく、全部一緒なのですね。「少年時代をやってる自分」「老年時代というポジションに居る自分」があるだけのことで、やってる本人は全く同一人物。それは、朝の自分と、昼の自分と、夜の自分で差がないのと一緒です。あるいは、野球やっててサード守ってる自分と、センター守ってる自分と、バッターボックスに入ってる自分の差がないのと同じ。
この話は、おそらくは20代前半くらいまでの人にはよく分からないと思います。が、それを過ぎ、30代、40代の方々、つまり「ついにワタシも大台に乗ってしまった」とお嘆きの貴兄には分かると思います。なんか、自分が年をとっていくことが「不当な策略」のように思えるのですね。25歳とか30歳くらいだったら、まだしも余裕があるから「もうトシだなあ」とかある程度素直に肯定できたりするけど、自分が38歳とか43歳とかになってみると、そんな余裕も薄らいで、「嘘!なんで俺が47歳なんかやらなきゃいけないんだよ!冗談じゃないよ!」と納得できない。小学校で欠席した翌日に登校したら、いつの間にか保健委員にさせられてるのを知って、「えー!ちょっと待てよ!何だよ、それー!」と猛烈に抗議したくなるときみたい。
30歳になれば、もうちょっと「年相応」の自分になるんだろうと思いきや、全然そうならないまま「はい、30歳でーす。30歳やってください」って無理やり押しつけられたような感じ。この不当感は、上にいけば行くほど激しくなります。僕は今47歳だから、あと数年で50歳ですよ、50歳!「なんじゃ、そりゃあああ!」って叫びたくなる。興奮すると中学時分の巻き舌の江戸弁が出て、50っていやあ、おめえ、アレだろ、あの半分人生が終わったような、擦り切れたスーツで猫背で電車に揺られてたりするオッサンだろ?もしかしたら、あの星一徹より年上じゃねーか。なんで俺がそんなもんやらなきゃなんねえんでー!ってな感じです。目の前に誰かいたら、胸倉つかんでブンブン振り回してるでしょう。おそらくは、この感情は僕一人のモノではない筈。あなたも、あなたも、あなたも「ざけんじゃねえ!」ってテーブルをドン!と叩きたくなったことがあったと思うし、今も思ってるじゃなかろか。
とういうことで、ココにいたって僕は悟りましたね、はい。これまであんまり誰も教えてくれなかったけど、わかっちゃったもんね。この「真理」、あなたにも教えよう。この「自分は全然変わらない」という真理。そう考えた方が、世の中すっと納得できることが多いし、また有益である場合も多い。例えば、子供というのは、僕ら大人が思うほど子供ではないし、老人というのは僕らが思うほど老人でもない。実はトシなんかあんまり関係ない。そりゃ、置かれているポジションで人は変わりますよ。でもそれは、例えばピッチャーやってりゃピッチャー的性格になるし、キャッチャーやってりゃキャッチャー的体格になるようなもので、本質的なものではない。子供は、そいつが子供をやってるからああなってるだけの話です。
誰も教えてくれなかったと言いましたが、実はヒントは沢山あったのですね。例えば、「魂は年を取らない」という金言もあります。あるいは、「老人の不幸は、彼が老いたから生じるのではない。彼がまだ若いから生じるのだ」と喝破した西洋の誰かが居ました。そーなんだよね、全くそのとーりなんだよね。言ってる意味わかった。
子供や若者が概してあーゆー性格や行動パターンを取るのは、その独特のポジションがそうさせているだけです。つまり、知識や経験は少ないけど、肉体的パワーは有り余っているというアンバランスさと、何でもかんでも上から命令される不遇な立ち位置です。そういう状況に置かれたら、年齢に関係なく、誰だってああなる。例えば、あなたがいきなりUFOに乗った宇宙人に拉致されて、どっかの星に連れて行かれたとします。ところがその星にいる宇宙人は結構ヘナチョコで、力は弱いし、動きもトロい。あなたの方が全然パワーがある。しかし、そこのシステムがやたら複雑でよく分からないし、知らないうちにミスを犯して罰としてゴハンを抜かれたり理不尽な目に遭わされたりします。子供や若者が置かれているのは、そういうポジションなのでしょう。だからこそ、同じ子供でも、チームのキャプテンやってたり、学級委員とかやらされると、「立場が人を作る」ということで、大人びた性格や秩序重視の保守的な性向になったりもするのでしょう。
ということは、子供に接するときも、「子供だから」という特別な配慮をあまりし過ぎない方が良いのでしょう。目の前には小学校3年生の男の子が立っていたとしても、タマシイ的には40歳のおっさんが立っているのと同じなのだと思え、ということです。ただ、40歳にしてはモノを知らないし、複雑な概念思考などに不慣れなのだけど、でもそれだけのことなのでしょう。本質的な理解力や考察力は大人と変わらないし、自己認識や自尊心なんかも変わらない。自分が子供の頃のことを思い出しても、結構周囲の大人のやってることを理解してるし、「お母さんはYESという返事を期待してるな」とわかるからYESという、かなり政治的な配慮もしてたりします。今と変わらん。ただ、世の中の知識や体験が乏しいから十全たる把握にならず、また概念操作に慣れていないから自分の漠たる考えを言語的体系的にまとめ切れないだけです。要するにナレッジやエクスペリエンス、テクニックの問題であり、ソウルそれ自体は変わらない。
逆に言えば、50歳のおっさんを10歳の少年のようにすることも可能です。彼がこれまでの人生で築いた地位とか知識とか経験が全部役に立たないような状況に置けばいいのです。それは例えば戦場や無人島、宇宙空間とかですが、別にそこまで飛躍しなくても、刑務所でもいいし、転職して全く違うジャンルの職場に置かれてもいい。海外でホームステイしてもいいです。そういった不慣れな環境で、身長2メートルくらいある巨人達に囲まれ、「無能な奴はひっこんでろ」「バカなんだから言われたとおりやってりゃいいんだよ」とドツキ廻されたら、その無力感によって10歳の頃の自分が戻る筈です。その環境で、それでもケナゲに戦うか、ベソかいて尻込みするかが、その人の特性であり、10歳のときに「なんだよー、ズルいよー」と泣いてた人は、50歳になっても全く同質同量のストレスを与えたら同じように泣くでしょう。
同じ原理を類推すれば、例えば80歳の老人が立っていたとしても、そこには15歳の少年が立っていると思え、ってことです。おそらくは老人の本音は、周囲があまりに老人扱いするから、「まあ、多少はつきあってやるか」で老人というペルソナを演じているだけだと思う。
まあ、このように僕が力説したところで、80歳のジーちゃんはどう見ても80歳だし、15歳に見ろというのは無理じゃという意見もあるでしょう。はい、まあ、無理があるのは認めます。それに、何も80歳のジーちゃんと15歳の少年が全く同じだと言ってるわけではないです。本質部分は変わらないだろうけど、属性や機能は変わります。そこはもうメチャクチャ変わるでしょう。
あのー、ここで、「本質」「属性」って言葉が分かりにくいって人のためにもう少し解説しておきます。例えば、「お医者さん」という概念がありますが、お医者さんのイメージは、白衣を着て聴診器をぶら下げていたりしますが、この「白衣」「聴診器」というのは医者の属性であって本質ではないです。医師の本質は「医療技術を習得した人」です。「白衣を着ている人」ではないし、聴診器をぶら下げていれば誰でも医者なのかというとそんなことはない。ただ「医者は白衣を着て聴診器を下げている場合が多い」という体験的事実から、医者→白衣&聴診器というイメージが出来ているだけのことで、これらのことは「そうである場合が多い」「そういう外観的傾向を有している」だけのことです。これを「属性」と言います。「付属する特性」。あくまで付属品。自動車に取り付ける缶ホルダーのような付属品。
この違い、わかりますか?この本質VS属性議論は、いまやってるキリスト教の神学論議でも出てくるらしいですが、ありとあらゆる事象において見られますし、しっかり区別しておかれると、いつかどこかで得をするでしょう。なぜなら、本質と属性はよくゴッチャになりますし、その境界線は場合によってはかなり曖昧です。医者の例でも、医師の本質として、「医療技術を習得している人」というだけではなく、「医師としての国家資格を持っていること」ということも含むのかというと話は曖昧になります。YESという人は、単に医療技術を持ってればいいだけだったら、医大生だって看護士だって、あるいは単にズブの素人だって肩を揉むのが上手だったら「医師」になってしまうではないか、やはりある程度は客観的でキッチリした基準で「医師と呼ばれるからには最低限○○は知っておけ」という資格認定をしなければならず、ゆえに国家資格の有無は医師の「本質」である、というでしょう。NOという人は、じゃあ国家資格なんてものがなかった昔、例えば赤ひげ先生などの時代には医師国家資格なんかなかったし、そもそも医の神様のようなヒポクラテスの時代だってなかった。ブラックジャックだって無資格だ。じゃあ彼らは医師ではないのかというと、立派な医師ではないか、だから資格の有無は本質的なものではない、というでしょう。難しいところです。
このように境界が曖昧なだけだったらまだ許せるけど、問題はあからさまに属性なものを、なんとなく本質のように勘違いしてしまうケースです。医者と弁護士は金持ちで、政治家は皆腹黒で、子供は全員純真で、アメリカ人は傲慢で、ドイツ人は理屈っぽくて、ユダヤ人は金に汚く、、、てやつです。何となくそう思っているというイメージですね。確かにそういうケースもあるかもしれない、統計を取ったらそういう傾向はあるのかもしれない、しかしだからといって全員がそういうわけでもないし、そうでなかったら○○ではないのか?というと別にそんなこともないという。「○○でなければもはや○○とは呼べない」って部分こそが本質であり、「○○である場合が多い」なんてのは大体属性。そうでなかったからといって別に○○でなくなるわけではないのは全部属性。
そんな世間の無責任なイメージ・属性など、当の本人にとっては何ら本質的なものではないどころか、端的に言って間違ってるから迷惑じゃ!ってケースが多いでしょう。女性としては、ちょっとハデは服を着ているだけで、周囲の男性から「あのコは遊んでる」「すぐにセックスさせてくれる」と勝手に思われたら迷惑以外の何物でもないでしょう。しかし、世の中その種の属性イメージを本質と勘違いしているケースが多いです。勝手なイメージをそれぞれが抱きながら、互いに迷惑かけあっているのがこの社会の実態なのかもしれない。また、勝手なイメージを積み上げて人生設計とやらをやってるだけなのでしょう。
医者になった友達が嘆いてました。「俺もバカだよなあ」って。「なにが?」って聞くと、「いやあ、ちょっと考えれば分かりそうなもんじゃないか。医者になったら先生先生と呼ばれて、看護婦さんにもモテモテでとか考えて医学部いったのはいいけど、医者の毎日というのは、目の前にいるのは病人ばっかり。来る日も来る日も、毎日毎日目の前数十センチに病人がいるの。それも毎日何十人も入れ替わり立ち替わり。こっちまで気が滅入って病気になりそう。それが死ぬまで続くんだよ。それが医者の人生なんだよなー。いくら高校生だって、ちょっと考えれば分かりそうなもんじゃないか」って。「それを言うなら」と僕も慰めてあげました。弁護士だって、毎日毎日来る日も来る日も、会う人といえば、怒り狂ってるか、泣き叫んでる人ばっか。ハッピーな奴なんか一人もいない。全員不幸。朝に喧嘩して、昼に喧嘩して、夜に喧嘩して、明日も明後日も他人のために喧嘩して、喧嘩、喧嘩で人生が終わっていくんだよ。それが弁護士。そんなもんだよ、って。そういや、弁護士時代、もし転職するんだったら結婚式場とかで働きたいなと言ってましたね。ハッピーな人のそばにいたいよ、って。
医者の本質は、医療技術を身につけ、それらを駆使して傷病者にサービスすることであり、弁護士の本質はそれが法律技術になり法的トラブルに困ってる人をヘルプすること。その本質が分かれば、それになった後の日々だって容易に想像がつく筈。それなのに属性に騙されちゃうんですよね。「○○だからウハウハだぜ!」とかね。バカだよなあ。先生なんて他人から呼ばれても嬉しくも何ともないよ。むしろプレッシャーかけられているようでイヤなもんですよ。呼ばれてみたらいい。
どんな職業も同じこと。スチュワーデスさん、マスコミ、看護士さん、広告代理店、、、、それぞれの業界に知人が居ますが、その仕事をしてる人に、「ああ、それってけっこう大変な肉体労働でしょう?」っていうと、「そうそうそうそう!よくわかってますね」と言われます。スチュワーデスさんも、それになるのは難関だし、カッコいいし、立派なお仕事だと思うけど、あれ空を飛んでるからカッコいいイメージがあるけど、飛んでなくてどっかの建物の中だと考えたら、やってる仕事の本質って旅館の仲居さんと同じですよ。動いてなんぼ、運んでなんぼ、ガキのような客のワガママ聞いてなんぼ、頭下げてなんぼ、でしょう。はたから見たらカッコよくても、実際にやってみたらメチャクチャ泥臭かったりするわけです。だから本質をみないで属性イメージだけで見てると失敗します。
同じように、今のあなたは、「老後はどっか静かな村で心安らかに暮らそう」とか思ってるかもしれないけど、何度も力説しているように80歳になってもアナタはアナタ、変わらないの。だから実際にそういうところに住んだら「こんなクソ退屈なところにいられるか!」って思ってるかもしれないのだ。
ということで、自分という本質は、いくら時間が経とうが、年齢を重ねようがそうそう変わるものではないのだって話でした。
しかしながら、一方では属性は変わります。えらく変わります。極端にいえば、一分一秒ごとに変わっていきます。どんな些細なことでも一つ体験したら、必ずやモノの考え方が多少なりとも変わります。また「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で刻々と過去の体験を忘れてもいきます。同時に、あらがえない老化現象というものもあります。流れゆく川のごとく、絶えず変化し、一定ではない。
そんな中で「ふーん、こんな部分が変わるんだ」と多少意外だったことを。
村上春樹のエッセイを読んでいて、「年をとるとあまり精神的に傷つかなくなった」という下りがありました。若いときは、他人の何気ない一言に心が波立ち、数日間眠れないくらい傷ついたりするけど、段々「ま、色んな事を言う人もいるさ」とやり過ごせるようになる。なぜかといえば、ある程度のパターンを経験してくると、「でも、まあ、何とかなるもんだよ」ということも分かってくるから、若いときほど動揺しなくなる、いわば打たれ強くなる。もう一つは、30歳過ぎてイチイチ精神的に傷ついているのは見栄えの良いものでないから、だそうです。
なるほどね、と思いました。確かに若いときはたやすく動揺します。あれはサンプルケースが少ないからでしょうね。自分の外観容貌なども異様なくらい気にしますが、あれもルックスというのは実社会においては思ってるほど重要なものでないという経験が不足しているからでしょう。勿論ルックスが良ければ得をすることも多いですが、損をすること相当あります。またルックスが良ければ全てOKかといえば、そんなこともない。ルックスが良ければ銀行が金を貸してくれるかというとそんなこともない。世の中そんなところで廻ってるわけではない。世の中のパワーの原理は、そんなところにあるわけではない。若い頃は、クラスの人気者になるかどうか、バレンタインでチョコを貰えるかどうかが人生の最大の関心事だったりしますが、やがてチョコを幾ら貰うことよりも、志望校に受かるかどうかの方が重要だということを知り、就職、仕事、結婚、子育てと飛躍的に広がっていく人生のステージでは、そんなもん些細なファクターでしかないということを知ります。
はたまた、若い頃は、友達と大喧嘩して非常にキツイ言葉を投げつけられただけで落ち込みます。「なんてことを言うんだ、そんな奴だとは思わなかった。私の信頼は完全に裏切られた」ともうこの世の終わりのように嘆いたりするのですが、段々分かってくるんですよねー、自分だって思ってもみなかったこと、本音でもないことを言うことはある、と。その場における相手憎しの沸騰した感情に振り回され、最も攻撃力のある言葉を探して口走ってしまう。そんなこたあ、まあ、結婚すりゃわかりますよ(^_^)。それに、仕事してお客に接すればサンドバック状態でボロカス言われます。「死んでしまえ!」と面罵されることも、業務によっては珍しくはないでしょう。
ということで、大抵の事は、過去の経験とテクニックでクリアできるようになります。そうそう滅多やたらと傷ついたりしません。それに、確かに30歳過ぎてイチイチ傷ついてる奴がいたら、僕でも「阿呆か?」と思いますわ。これまでどんな生き方してきたんだって。自我が傷つくことに異常に過敏な人達が、今流行のモンスターペアレンツとかになるのかもしれません。自分のその弱さが廻りまわって世の中に害をなすこともあるわけで、そのあたりの因果関係はちょっと恐い。
勿論、だからといって面の皮が厚くなるのは良いことだととか、馬耳東風と聞き流せば良いということを言ってるんじゃないです。他者の批判は批判として真摯に受け止めるのは、いつだって大事なことです。自分にも改善すべき点はあるのではないか(あるに決まってるんだけど)、と絶えず考えるのは良いことです。そして、幾ら年取ったからといって、無茶苦茶言われたらカチンともくるし、傷つきもするでしょう。全く傷つかないってことはないでしょう。だけど、傷ついたというエモーショナルな反応で終始してたらアホだってことです。クールに分析し、改善すべきことは改善し、どう考えもただの見当外れの悪口でしかない部分には肩をすくめて「やれやれ」ってやり過ごせばいいわけです。まあ、必要があればカウンターアタックかませばいいし、「それなりに対処」すればいいってことです。ちょっと他人に何か言われたからって、身も世もなく泣き崩れ、それで終わりってのは余りにも芸がないでしょうってことです。あなただって、40歳過ぎたオッサンが、「○○君がこんなこと言うんだよー」ってシクシク泣いてたら、「阿呆か」と思うでしょ?
もう一つの属性の変化は、年を取ると死というものがだんだん身近になってくるということです。まあ、当たり前なんだけど。そして、それが恐怖かというと、別にそんなに恐怖ではないという。それどころかちょびっと楽しみにもなってきます。
「楽しみ」というと奇異な感じを受けるかもしれないけど、こういうことです。死後の世界があるかないか僕には分かりませんが(Who knows?)、もしあるとして、そして死後の世界でまた皆と再会できるとしたら、悲しい思いをして死別した人達とまた会えるって事でしょう?僕には非常に親しい友人が既に3人ほど冥界に旅立っていってます(うち、一例は雑記帳にも書いたけど)。年をとるとね、皆、いなくなっていくんだわ。日本に帰れば彼らに会えるというのが帰省の楽しみだったのに、今はもう帰ってもおらず、それが非常に寂しい。が、もしかしたら死んだ後にまたあいつらに会えるのだとすれば、こんな嬉しいことはないですよ。せめてもう一回だけ会いたいですもん。あ、それから、死んでしまったペットにも会いたいです。冥界の入り口の白い霧のかかってる中(勝手な想像)、死んでしまったペットが自分めがけてまっしぐらに走ってきてくれたらどんなに嬉しいだろう。あなただってペットを失った哀しみを知っているならそう思いませんか?
まあ、寿命どおりいくなら、死ぬのはまだまだ数十年先の話です。
だけど、「数十年」というタイムスパンが、昔はほとんど「永遠」に近いくらいの長さを持っていたのに、だんだんその感覚が短くなっていってます。よく分からんけど、10年ごとに半分くらいになってる感じ。10代のときの1年は20代のときの半年くらいにしか感じないし、30代では3ヶ月、40代では1ヶ月半、50代では、、、という感じ。半分というのは極端かなあ、7掛けくらいかなあ。でも、小学校の時の夏休みなんか、たった40日ほどでしかないのに無限の長さをもって感じられたもんなあ。だから夏休みが終わる日はこの世の終末みたいだったもん。それが今は40日なんかあっという間ですよ。
ともあれ「数十年先」といわれても、それほど先の話のような気がしないのですね。おそらく、このまま加速度がついていくなら、実際の感覚では今時点での10年くらいの感覚でしかないかもしれない。今の10年ってスパンは大したことないですよ。感じとしては、今日明日の話ではないにせよ、「まあ、そのうち」くらいの感じです。「いい加減、この車ももうちょっとしたら買い換え時期かな」くらいの感じ。
これだけ近接感を持って死というものが出てくると、そこはかとない終末感覚も出てきます。日曜の午後3時、日もかなり傾いてきたかなってくらい。「さあて、どうしよっかなあ」って。そんなにガビーンとしたものではないですよ。ガビーンとなったのは、30代後半の「折り返し点通過」くらいのときです。あのときは、「ふーむ、そうか、そうなんか」って色々考えさせられたけど(色々書いています)。
「嘘!もう終わっちゃうの?」って感覚は無いですね。まあ、これは僕個人の特殊な事情で、エッセイにも過去に書いたけど18歳の時に「俺は40歳で死ぬ」と決めてかかってスケジュール組んだので、ある意味大概のことはやってしまった感があります。子供には恵まれなかったので大きなパーツが欠落しているんだけど、こればっかりはしょうがないし。というわけで「くそー、時間が足りない!」ってことはないです。かといって「もう早く死にたい」って意識は毛頭ないです。「焦ったってしょうがねーだろ」って。なんだか不思議な感覚ですね。このまま何事もなく現状が過ぎていって、やがて蝋燭の火が消えるようにふっと死んでいくのか?というと、そんな気もしない。まあ、一山も二山もあるでしょう。
でも、ま、このまま終わっちゃっても、今の世界の平均からすればかなり恵まれた一生を送らせてもらったので全然不満はないです。ありがとうございましたって感じ。これがアフリカのどっかの内戦地帯で生まれていたら四歳くらいで栄養失調で死んでたって不思議はないんだからさ。もしも来世があるとしたら、「今度はちょっとハード編なんだろうな」って覚悟もしてます。あんまり悲惨なのはヤだけど。
江戸時代に日本全国を測量して日本地図を作った伊能忠敬って人がいるけど、この人、測量事業をやりだしたのは56歳のときです。もともと婿養子で、せっせと家業に励み、身代を太らせて、やれやれやっと責任は果たしたって隠居したのが50歳。で、ここからが凄いんだけど、縁側で猫を抱いて茶を飲んでいればいいものを、千葉の銚子の近く(今の香取市)から江戸まで出てきて天文学や測量学を勉強するわけです。当時の平均寿命は50歳以下だったと思うから、今でいうなら80歳近くになってからケンブリッジに留学しているようなものです。江戸でみっちり勉強して、測量を開始したのが56歳。以後、第一次測量から第10次測量まで延々行って没したのは74歳です。
だから何だ?って言われると困るんだけど、まあ、そういうこともあるんだよなあって。でも、そうなったらなったで面白そうですよね。「なるほど、俺はこれをやるために今まで下準備してきたのかあ」って思える何かにブチ当たるのは。でも、まあ、そんなイベントが無くても文句はないです。ただ、そんなに凄くはなくても、客観的には些細なことであっても、「なんかあるんだろうなあ」って予感はします。また、「何なんだろうなあ」って耳を澄ましている部分はあります。考えてみればもう数年くらいそうやって漠と模索するともなく模索してますね。まあ、年をとった良さで物事に焦らなくなってますから、どうということもないし、結局分からずじまいで終わっても別にいいけどね。ただ、それが大事なものであるほど、それが本物であるほど、あるとき突然天から降ってくるんですよね。ちょっと楽しみにしています。
文責:田村
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