今週の1枚(01.05.07)
雑文/ガビーンの構造
「今週の一枚」と銘打っていながら、毎週20枚も30枚も載せている。
まさに「看板に偽りあり」なのだが、なんでこんなにセッセとUPしてるいるのだろう?もう慣れっこになってしまって改まって考えてみたこともなかったが、少し立ち止まって考えてみたい。
自分の心理を分析するに、ひとつには「いっぱい写真があるほうが読み手はウレシイんじゃないか」という単純なサービス精神である。これは、ある。確かに。しかし、それだけだろうか?
もうひとつ、すぐに思い付く理由としては、「一枚」にしてしまうと大量の写真を切り捨てることになり、それが忍びないという心理である。せっかく沢山撮ったのに、また甲乙つけがたい写真が幾つもあるのに、わざわざ一枚に絞り込むこともないではないかということである。さいわい、インターネットは、印刷メディアのように誌面のスペースという絶対的な制約に乏しい。その気になったら幾らでも(サーバーの容量の許す限り)載せることができる。逆にいえば歯止めがきかない。
理由はそれだけだろうか?
もう一つ、深層心理(っていうほど大袈裟なものではないのだが)には、自分独特の「過剰体質」が潜んでるような気がする。ほどほどで止めておけばいいものを、つい、あれもこれもとブチ込んでしまいたがる性格である。
これは、もう、このホームページ全体を覆い尽くしている特性でもある。どのコンテンツも超長文の嵐である。ここまでくると、読み手は、「たくさんあってうれしい」なんて悠長な心情に浸ってはおれないだろう。「げげ、まだある、、」てな感じで、さぞかしウンザリしておられるであろう。すまん。
でもって、さらに疑問は続く、なんでオレはこんなにアレもコレも入れたくなってしまうのか?
貧乏性だから。
それは多分に正しい。俺もそう思う。でも、それだけではない気がする。
それは−−−、カッコつけていえば、「可能性」と「多様性」に引っ張られているのだと思う。
この世の中は、どんな突拍子もないことも起こりうる。「まさか」というようなことが、結構頻繁に起きる。また、人の好みは十人十色というが、実際には億人億色くらいに分岐している。「ふーん、こんな人もいるんだ」ということである。
それを知ることは、自分にとっては、けっこう心楽しい経験である。「うそ! そんなこと起きるんだ!!こわ〜」「げー、なんでそんな奴がいるんだよ?信じられねえ!」という具合に、可能性/多様性に接すると拒否反応を示す人もいるが、どちらかといえば自分はその逆で、「ふーん、へー」で感心してしまうタチである。
楽しんだり、面白がったりしている分には害はないのだが、「今週の一枚の写真の選択」という実務レベルになると、この指向性が足をひっぱったりする。どーゆーことかと言うと、ここにボツにしてもいい写真があるとする。被写体も凡庸だし、写真そのものとしても出来が良くない一枚である。で、「あ、これは使えんな」であっさり没に出来る場合も多いが、Delete キーを押そうとして、ハタと止まってしまうこともある。
もしかして、この写真でガビーンとくる人がいるかもしれない、、、、、
な〜んてことを考えてしまうからだ。
例えば上の大きな写真を見て欲しい。
「どってことない」一枚である。撮影場所はたしかDrummoyneだが、そんな地域性なんか写真のどこを見ても判らない。それどころか「ここはイギリスです」といっても通用してしまうだろう。
どこにでもある、ありきたりなフラット、季節は冬、それだけである。
それでも人によってはこの写真を見てガビーンとくるかもしれない。そういう人だっているかもしれないという多様性、そういうことが起きるかもしれない可能性。それに思いを馳せると、「うーん、これも一応載せておこうかな」とか想ってしまうのである。
この「人それぞれのガビーン」は、まんざら机上の空論でもないのである。「今週の一枚の写真、あのフラットの近くに私は昔住んでました。もう5年も昔のことになりますが、見た瞬間、「あ、あそこだ!」って分かりました。とても懐かしく、しばらくパソコンの前で物思いにふけってしまいました」なんてメールが実際にくるのである。そして、それはそんなに珍しいことでもないのである。
さらに、「思い出の場所」などという明確な理由に基づくガビーンではなく、「なんか良かった」程度のことは、潜在的には沢山あるだろうと思っている。
現在シドニーに住んでおられる方で、会社の転勤や親の都合などではなく、純粋に自分の自由意志で来られている方にお聞きしたいのだが、あなたが「シドニー(オーストラリア)に住んでみよっかな」と思いはじめたのは、遡ればいつのことですか?それまでは夢にも思ってなかったことが、いつしかリアリティを持ちはじめた最初の分岐点。線路の転轍器がガチャンと切り替わった最初の地点。おそらくそのときは、そうとは気づいていないかもしれないが。
僕も経験でいえば、何か物事を始めるにあたって、その最初のキッカケなんか極めて些細なものであった。大々的な、「そうだ!俺はこれをやらねば!」みたいな分かりやすい瞬間もあるが、多くの場合は、なんだか判らないけど「気になりはじめる」という感じである。「些細なキッカケ」というが、そんなものすら思い当たらないことも多い。ああ、これって、それまでは普通に友達としてつきあってた人を、ある日を境に異性として意識しはじめるような瞬間に似てるのかもしれない。
いきなり妙な比喩を口走りはじめて申し訳ないのだが、人間の意思決定って、例えば、麻雀に似てるのかもしれない、と思う。
日々多くの情報が僕らの脳にインプットされる。TV、雑誌、インターネット、他人との会話。これらは麻雀でいえばツモ(中央の山から一枚づつひいてくること)みたいなものである。そして、一定の情報が揃って、なにかの「役」を構成した時点であがりにになる。
麻雀の場合、最初から国士無双とかタンヤオとかの役が決っている。ポーカーだったら、ストレートフラッシュとかフルハウスとかあがりの型が決っている。でも、実際の人生にはそれが判らない。何と何の情報をインプットしたら、「そうだこれをやろう!」という気になるのか、そんなものは誰にも判らない。そして、それは人によってマチマチである。子供の頃の遠い記憶やら、トラウマやら、無意識に踏襲される自分の思考パターン、いろんなものが重なり合って、ある瞬間、臨界量を越えたら、あがりになる。
シドニーに現在住んでおられる方も、オペラハウスやハーバーブリッジの絵葉書写真「だけ」を見て、よし!と決意されたのではないと思う。もっともっと、自分でもトレースできないくらい、複雑な情報の絡み合いの結果なのではなかろうか。
そして、人生の場合、目指してる(という意識はないが)役なり「あがり」は一つではない。「シェフになる役」「レーサーになる役」「学校の先生になる役」いろんな役があるだろう。なかには、「ヤクザや犯罪者になる役」「自殺しちゃう役」なんてのもあるだろう。
自分の知らない間に、自分の頭の中では、無数の役が日々築かれつつあるのだろう。そのうちのどれかはテンパッてる(あと一枚きたらあがり)かもしれないし、一向聴(あと2枚であがり)かもしれない。
そんなことを考えると(って、別に意識して考えてるわけではないが)、「もしかして、この写真であがりって人もいるんじゃなかろか」みたいなことも頭をよぎるのである。
もう一度上の写真を見て欲しい、、って、いちいち画面をスクロールさせるのは面倒だろうから、ここでもう一度同じ写真を掲示する。今度は少し小さめに。
もしかしたら、ある人はこの写真を見て、天啓のように閃くかもしれない。リアルな夢のように皮膚感覚あふれるデテール。
将来、俺は海外に住むだろう。良くもなく悪くもない平凡なアパートに暮す。まじかに迫った学校の試験勉強をしている。ブラインドを半分開けたままの薄暗い自分の部屋。積み重なった本、辞書。空になったコーヒーカップ。
今日は土曜。壁の時計をみると、既に午後2時を廻っている。どうりで腹が減っているわけだ。椅子から立ち上がり、冷蔵庫を開け、パック入りの牛乳をそのまま口をつけてラッパ飲みする。そうだ、今晩、彼女が遊びにくるんだった。せめてワインでも買っておかなきゃと思う。出掛ける準備をする。
ジャケットを羽織り、ポケットの財布を確かめる。階段を下り、中央玄関から出る。頬がひんやりした外気に触れ心地よい。夜半からの雨もあがっている。玄関から車道にでる渡り廊下を歩きながら顔をあげると、東の空はすでに薄日がさしている。
もしかしたら奇麗な夕日になるかもしれない。入り江に面した西向きの部屋からは、ときどき壮麗な夕焼けを見ることができるのだ。
、、、、、、みたいな。
勿論、こんな小説みたいにイチイチ順をおって考えたりはしない。夢がそうであるように、このくらいのことは一瞬にして思ってしまえる。シチュエーションの肌触りみたいなものが、ダイレクトに心に浮かぶ。
「そういうのって、いいかも」と思えたら、そのとき、なにかが上がるのだろう。
ガビーンというほど音響SE付きではないかもしれないが、そういうことってあるだろう。
というか、僕らの人生なり意思決定とやら言うものは、そういうもので織り綴られているのだろう。
そんなことを思ってしまうと、なかなかこの一枚を削除できなくなってしまったりするのである。
もとより、そんな大々的に考えてのことではない。「うーむ、ちょっと捨て難い味があるかも」くらいに、ほんの1〜2秒思うだけなのだけど。
写真・文/田村
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