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今週の1枚(07.02.12)



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ESSAY 297:皆で幸せになる 〜心優しい全体主義



 写真は、City、ランチタイムあたりのMartin Place。



 先週まで二週続けてホワイトカラーエグゼンプションについて書いてきました。
 第一週はホワイトカラーエグゼンプション制度の説明や現状について、先週は日本の労働環境の特殊性、つまり労働者の権利が憲法上の保障になっているにも関わらずあんまり重視されておらず、「勤労の美徳」という倫理観が、公正/公平という「社会正義」にすり替わってしまっている妙な構造について触れました。

 今週は、なんで日本はそうなっちゃうの?という、労働環境に関する日本社会や日本人の精神生理のようなものを考えてみたいと思います。



 こういうことって語り出したら無限に語れそうですし、また過去においてもいろいろ書いてきてますが、一番根本にあるのは「自他の不分明」なんでしょうか?って、結論だけポンと書いてもわかりませんよね。ゆるゆると説明します。

 「自他不分明」というのは、自分とそれ以外の外界(他者や自然)の境界線があいまいだということですが、僕ら日本人の場合、自分と自分を取り巻く外界とをクッキリ分けて考えるという傾向に乏しいように思います。「オレはオレ、それ以外はそれ以外」ってビシッと線をひくのではなく、全体の中に自分も存在し、言うならば大宇宙と一体化しているような感覚。

 うーん、わかりにくいですよね(^^*)。なんというか、ヨーロピアンや、これはチャイニーズもそうですけど、彼らは日本人よりももっと強烈に自己というものを意識してるような気がします。それは自我認識やエゴが強いとかいうレベル以前に、ベーシックにこの世界を捉える感覚レベルで、まず自分というのがあって、そして自分を取り巻く環境(=非自分)があるという。自分と非自分とをクッキリ峻別してる気がします。境界線ががぶっ太く、ハッキリしてる感じ。

 でも日本人の場合、全体に同じ色で染まっていて、ただ自分の所だけその色が強いというか、モコモコした固まりがあってそれが自分、みたいな感じ。ハッキリ外界と分れておらず連動しているような感じ。周囲の外界と自我とがあんまり峻別されていないから、周囲の影響を受けやすいし、周囲に合わせようとする。カメレオンみたいなところがあって、周囲が緑色だと自分も緑色になり、周囲が灰色だと自分も灰色になる。しかも、そういう色に「偽装」するのではなく、自分はそういうものだと思ってしまい、アイデンティティレベルでその色に染まってしまう。

 その結果、僕らには他民族以上に強い同調性があります。よく言えば全体としてのハーモニーを重んじるし、全体として調和してないと気持ちが悪い。全体が美しく調和するなかで、全体の中の一部である自分もまた充足する。全体的に調和していた方が何をやるにしても効率がいいとか、争いごとよりも平和が良いとかいうのではなく、そういう功利性や倫理性ではなく、全体的にまとまっていると、とにかく「気持ちがいい」という、これはもう信条とか思想ではなく、「生理」だと思います。



 こんな抽象的に言っていても一向に分からんでしょうから、もう少し具体的な話をします。

 うまい喩えかどうか分からないけど、例えば僕らは日本人であり、日本国民ですよね。日本国籍を持っている。この事実、このアイデンティティですが、生まれたときから自然にそうなっています。大いなる決断をして、「よし日本人になろう!」と思って日本人をやってるわけではないです。でもあなたがオーストラリアを気に入って、日本国籍を捨てオーストラリア国民になった場合、「俺はオーストラリア人(国民)だ」というアイデンティティは、かなり人工的、意志的なものになるでしょう。自然的、宿命的なものではない。自分が自分であるために何らかの決断と実行があるのと、ただ何となく自然にそうなっているのとでは明らかに自己認識に違いが出てくるでしょう。

 僕は今のところオーストラリア人になる気はないけど、それはもっぱら二重国籍が認められていないので、日本国籍を失うと日本に帰ったときに何かと不便だからです。日本で外人やるのって面倒くさそうですもんね。やれ外国人登録証だの、やれマンションの賃貸一つで苦労させられそうだし。帰国する度に面倒くさい思いをするのはイヤですもん。逆に言えば、こういった日本での不都合がなくなれば、今日にでもなっても構わないですよ。選挙もしたいし。でも「あなたは今日からオーストラリア人です」とか言われても、あんまりピンと来ないでしょうね。「あ、そうなの?」って感じで。そのときどういう気分になるかというと、国籍なんか別に便宜上のモノであって、どーでもいいって突き放した感覚になると思います。何人であろうが「俺は俺じゃい!」っていう、国籍とか出身地に縛られない「自己」というものが強力に浮かび上がってくるでしょう。自分が日本で生まれたという宿命的なことも過去のエピソードの一つになり、オーストラリア人であるという現状も、しょせんは車の車庫証明のような行政手続に過ぎないって思うでしょう。自分というアイデンティティから、出身地、民族、現国籍といった要素が引っぺがされることになります。それらは事実だけど、自分の本質ではない。いや本質を形成してるかもしれないけど、一部に過ぎないって。そう思うでしょう。まあ、現時点でも既にそう思ってますが。

 何を言ってるかというと、僕ら日本人が「自分は日本人だ」と自己認識してるのは、たまたま生まれ育ったという外部的な事情がそのままストレートに自我に侵入してるわけですよね。「外部環境とアイデンティティが一体化している」例として出してみただけです。しかし、それがアイデンティティではなく、外部環境に過ぎないのだということは、自分が他の国の国民になってみたらよく分かるでしょう。

 今は国籍というトピックで例にしましたが、そういった外部環境=自分という構造は、他にも沢山あります。そして、それらをイチイチ分解して考えないのが日本人の精神傾向だということです。



 まだまだわかりにくいでしょうね。「そーゆー傾向がある!」と、ここで僕に宣言されても、「ふーん?」てな感じだと思います。この「ふーん?」を「ほう?」くらいには持っていってあげますから、もうちょっと読んでね(^^*)。

 周囲と自我とが美しく調和したい僕らの精神生理は、周囲と自分との間にズレが生じることを無意識的に嫌う傾向があります。自分は周囲全体の一部であるし、周囲は拡張された自我であり、両者は根っこにおいて同質であり、それはあたかも水田(全体)の中の一本の稲(自分)みたいなものでしょう。外部の何かと自分とが不協和音を立てるのを好まないから、無意識的に対立を嫌い、周囲と自我とを波長同調/チューニングしようとするでしょう。モメ事は嫌いだし、モメ事はどちらかといえば好ましくないこと、あってはならないこと、起こりうるし実際よく起きるんだけど、それでも無いに越したことはないことです。外界の価値観、外界の論理を、速やかに自分の中に取り込み、自分も又その外界の一部分としてズレのないワンピースになろうとする。なんだかウィルスみたいですね(^^*)。

 また、全体=個人であるから、自我の延長である周囲の状況は知っておきたいし、自分の理解できない出来事が周囲(日本社会)に発生するとパニックになる。妙な犯罪が起きると、「なぜだ?」と思う。「世の中にはいろんな人がいるからねえ」では済まされない。自分でありながら、自分が理解できないというのは、これはもう生理的に許せないでしょう。また、自分と異質がモノが外部環境に入り込むと、自動的に排除しようとする。ちょっと違う人間をイジメたり、外国人や帰国子女を差別しようとする。ここにくると、なんだか白血球みたいですね。

 なんでそうなるかというと、繰り返しになるけど、外界と対立してでも押し通したい自我というものが、僕らにはそもそも曖昧なんですよ。世間を敵に回しても、パブリックエネミーNO1になろうとも、指名手配になろうとも、後ろ指100本指されようとも、「うるせー、俺はコレでいくんじゃあ!」っていうモノが少ない。というか、そもそも「俺」があるんだか無いんだかもわからない。よく「自分探し」って言葉が使われますが、さもありなんって気もします。だって、外界をシャットアウトして、純然たる自分自身を突き詰めて考える機会というのが、今の日本社会には乏しいですもん。海外で暮すと、特に最初の頃は、「自分以外は全部異物!」って環境になるから、探すまでもなく自分自身はココにありますけど。

 だからこそ、一般の日本人的通念でいえば、海外や外国は「異次元世界」でしょう。だからもうアレは別枠って感じで視野から排除してしまう。たまに天体観測をするみたいに、「海外では〜らしい」という断片情報が降ってくるくらいのことで。日本に帰る度に妙に感じるあの密閉感、エレベーターに閉じこめられて耳がキーンとなるような感じ。もしかして、日本って地球に無くてもいいなじゃないか、日本列島だけ切り取って金魚鉢みたいにして宇宙空間に浮かせておいてもいいじゃないかとすら思うくらい、外界との遮断感覚があります。



   そのような精神生理を持っている僕らならではの現象というか、特徴がいくつかあります。

 日本人同士の話し合いや会議は、満場一致が多い。
 10人で採決して満場一致にある数学的確率は、えーと2の10乗分の2(満場一致で可決or否決)で、1024分の2ですか?の筈なんだけど、9割以上のケースが全員賛成ってことになってませんか?まあ、議論の過程で意見が一つに収束していくこともあろうし、それは実りあるディスカッションであるとも言えるんだけど、株主総会のシャンシャン総会にせよ、取締役会あるいはクラスの学級会でもそうですが、激しい議論の応酬の末、多数決で決まりましたってケースは多くはない。もちろん個別には沢山あるとは思うんだけど、割合でいうと少ない。でも、会議をやる以上、そこで議論の応酬がなかったら会議をやる意味が無いんじゃないの?そもそも会議をする意味ってあるの?会議をやる以上、激しい議論の応酬があって当たり前、無ければ嘘なんだろうけど、そんなことはないでしょ、僕らの場合。でもって、激しい議論の応酬があった会議を、「荒れた」会議といって、なにやらネガティブに感じるでしょ?「充実した討論だった」とポジティブに思いにくい。

 その理由の一つとして、会議で意見が対立すると、僕らはえらくピリピリするんですよね。「○○さんの意見には反対です」と言ったときに、場に緊張が走ったりします。本来いくつもの意見が出て、一人では思いつかない多様な観点での意見を聞き、よりすぐれた判断をしましょうってのが会議をやる意味であり、違う意見が出てきたら、それは歓迎すべき事態なんですよね。でも、あんまりそうはならない。それどころか往々にして感情的になったりします。「お前、俺に恨みでもあんのか!」と反対された人間が激昂したりもする。なんでそこまでナーバスになるの?また、反対する人も、反対しようとする時点で既にテンパって、感情的になってたりする。だから、異なる意見が戦わされる実りある会議が、単なる感情的な喧嘩になったりもする。だから「荒れる」と表現される。

 自分と異なる意見、異なる価値観を持ってる人が目の前にいるという状況に、僕らはそれほど慣れていないし、不快さを感じる。理性的には「それもアリだな」って思ったりもするけど、それで全く心が波立たないってことはない。やっぱりザワザワ心がざわめく。僕らにとって大事なことは、同調、調和、ハーモニーであって、内容はともかく、同調してない、不協和音が出ているという状況自体が既にイヤなんでしょう。

 その延長線上として、僕らは対立構造に慣れてないです。他人と対立的な状況になるのが苦手であり、そうなってしまうと緊張するか、心の平衡を欠いてしまう。



 これに対して、オーストラリア人やヨーロピアン、あるいは中国人もそうだと思うけど(要するに世界のなかで日韓人以外ね)、対立構造に慣れています。面と向かって相手と違う意見をぶつけることに慣れているし、それが失礼でもないし、反対された人もそれで日本人ほど心がザワつかない。けっこうクールに展開していきます。改めてディベートなんて言葉を使うまでもなく、意見のどこが違うか、なぜ違うか、じゃあどうしたらいいかを冷静に議論しようとします。まあ、いつもそうなるわけでもなく、こっちだって激昂する人は激昂するでしょうけど、皆が考える「あるべき姿」というのは、双方十分に持論を展開し、説得し合うのが良いことだとされます。だから、反論機会を封殺して意見を押しつけたりしたら、その行為自体が社会から非難される。

 対立構造や異議申立に慣れているから、異議申立のテクニックも開発され、子供の頃から練習を積んできています。自分の意見を、誰が聞いても納得しやすいように述べる技術、何をどの順番に説明すれば一番分かりやすいかを常に考え、どういう部分に感情的フックがあるかも考え、論理的に、しかも情動的に話す。僕らはあんまりこういった技術に慣れてません。学ぶ機会も乏しかったです。学級会をやっても、「皆がいい方でいいでーす」なんて言ったりします。

 その結果、こっちでホームステイやシェアをするときに色々と問題が起きるわけです。生活習慣も味覚も何もかも違うんだから、双方「擦り合わせ」という作業を行うべきなのですが、そういう行為を日本人はあまり好みません。食事に出されたモノが口に合わなくても、「おいしいです」と無理矢理食べたりします。ヨーロピアンとかはそこは率直に、I don't like it と言っちゃいます。逆に、一生懸命日本料理を作って食べさせても、「これ、嫌い」って言われて終わりという悲しいこともママあります。でも、それは「悲しい」事態でもなく、無礼な言動でもないです。

 周囲の環境と自分の欲求が食い違った場合、日本人の取る第一の行動パターンは「我慢しちゃう」ことです。そして、我慢すること自体に意義と美徳を見いだす。そしていよいよ我慢しきれなくなった時点でキレる。だから日本人が反対意見を言うときは、我慢の限界を超えた時点ですから、既に感情的になってしまっていて、冷静に解決を見いだすという感じにはならない。だから論理的説得的に展開することもできず、「イヤなものはイヤ!」という子供みたいな言い方になり、それがこちらの人の失笑を買う。

 我慢することは、忍耐強い、堅忍不抜という文脈に置かれれば、英語世界でも人間の美徳として賞賛されます。parientとかpersistentという単語もあります。ただ、それは我慢してやっていることが価値がある場合です。頑張って勉強するとか、何かの研究をまとめあげるとか、意味あることをやってるときに、頑張ってやり抜くその根性はエラいと賞賛されるわけで、単にガマンしてるからエラいとは思いません。それどころかやたら一つのことに固執する、偏執的=パラノイヤって評価されちゃいます。実際、日本人がこっちでコンプレイン(苦情を言う)ときは、その非論理性と感情的な態度から、パラノイヤって表現されちゃうことがよくあります。そう言われるから、ますます激昂するという悪循環。

 ホームステイで、口に合わないモノが出てきたとき、お互いのカルチャーが違うんだからまずなすべきものは、自己情報の開示ですよ。つまり、自分自身の好き嫌い、何なら食べられて、何は食べられないか、どういう味付けを好むかという自己情報です。これはもうそういう人間なんだから仕方ないです。好き嫌いをしてるから犯罪を犯してるとか、人倫の道にもとるわけでもないです。そして、お互いの情報を出し合って、それから話し合いになるわけですね。だから、「せっかく作ってくれて悪いのですが、これはちょっと食べられません」と言えばいいんですよ。「あら、そう?」って別に怒りもしないだろうし、次に、「じゃあ、どんなものがいいかしらね?」って献立のディスカッションになるでしょう。逆に、これはよく聞く話ですが、ハリウッドの映画ロケなどでは、一人一人食事は何がいいか、卵焼きだったらどんな焼き方がいいか?と国勢調査みたいに延々書かされるそうです。自分の好みは徹底して言うし、人の好みも徹底して聞く。それこそ「我慢強く」聞く。もし、ここで「ツベコベ言わずに食え!」って言われたら、それはルール違反ですし、ホームステイだったら変えて貰えばいいです。だから、不味いと思いつつガマンして食べているのは、美徳でもなんでもないです。むしろ「なすべきことをしない」怠慢、自己情報の開示を怠る不誠実として、非難されるべきことに写ってしまうのですね。

 しかし、日本人は、内容はともかく「ガマンをする」という行為そのものを尊いこと、人間の美徳して称える傾向があるでしょ?何ででしょうね?世の中には無駄なガマンもあります。授業中にトイレに行くことは、こちらでは当然自由です。トイレをガマンすること自体健康に良くないし、そもそもガマンしながら集中力の欠いた状態で授業を聞くこと自体大きな機会損失でしょうし、先生だって生徒には万全な体調でしっかり聞いて欲しいです。だから、イチイチ断るまでもなく、授業中席を立ってトイレにいっても別に咎められることはないです。でも、日本人ってどうしてもガマンしちゃうんですよねー。僕もなんだか我慢しちゃうんだけど、あれ、なんででしょうね?その行為に意味があるとか無いとか考えずに、ただひたすらガマンすることを正しいことだと思う。それはなぜか?

 僕が思うに、日本社会で「我慢をする」ことは、最も重要な社会的義務の一つなのだと思います。子供もそこから躾けられます。日本人は、全体の調和を大事にしますが、十人十色の個性のある人間集団で、全体の調和っていっても中々難しいですよ。ナチュラルに多様な意見もあろうし、趣味嗜好は千差万別でしょうよ。でも、そんなこといって各自の個性を無制限に容認していたら調和なんかほど遠い。そこで、出てくるののが「我慢をする」、自分の欲求を自制するという態度とスキルなのでしょう。これがちゃんと出来ないと、日本社会という巨大なジグソーパズルのワンピースとして認められない、つまりは一人前の人間として認められないわけでしょう。我慢している理由、あるいは反対している論拠なんかどうでもいいんですよ。全体として調和してるかどうかが大事なんです。だから、調和のためなら問答無用に我慢しろってことですし、それが僕らの習い性になっています。もう骨身に染みこんでいるのですね。



 別の例を挙げます。日系企業とビジネスをする外国企業は、日本企業側の説得方法に違和感を抱き、イライラするといいます。外国企業は、まず結論をいい、次に論拠を一つ一つ示していきます。「我々はこうしたい、何故ならば第一に〜、第二に〜」という具合にです。しかし、日本企業の伝統的な説得方法は違います。まず我が社の歴史的沿革からはじまって全体を述べる。全体の状況や流れを事細かに説明していく。大河ドラマのようなスートリーを聞いてる方としては、「なるほどそういう事情なら、○○するしかないわな」「うーん、○○さんも辛い立場にあるんだね」と同意するという。

 これはもう認識方法の違い、人間の脳作用のOSの違いとすら言われますが、西洋人はまず自分があり、次の直近周囲があり、さらにその周辺があり、最後に大きくバックグランドがあるという認識をします。まず自己という個体があり、その上で自己に対立する外界があるという構造認識になる。でも日本人は違う。バッググランドから認識し始める。絵を描くとしたら、遠くの山や夕焼け空から描き始め、近景に移り、最後に自分の姿をポンと点描するような感じ。全体の風景のなかに自分があるという認識方法がもうどうしようもなく脳内回路に焼き付いており、それはもう演算回路が違うとしか言えない。

 端的な例。日本の住所は大きいところから書きますよね。東京都→千代田区→霞ヶ関→○丁目○番→○号室に住んでいる○○(名前)と。でも西洋の住所表記は、まず自分の名前があり、そいつはどこにいるのかというと○番目の建物におり、その建物はどのストリートにあるかを書き、そのストリートはどのサバーブになるか、どの州にあるかと、小さいところから大きいところに視点が広がっていくという認識方法をとります。あくまで「自己」というものが確固としてあり、あとは直近からの付帯事情の説明になる。また、これは履歴書の書き方もそうです。日本の場合、小学校から順番に書き進み、最後に直近の仕事になりますが、英文の履歴書は、まず直近の仕事内容から書きます。

 このように全体から始まり、全体を描くことによって個別的なことも自動的に決まってくる日本的説得方法があるわけですが、これを西洋人や他の民族に聞かせたところで、「なにをエピソードばっかり延々言っているのか」「早く本題に入らんかい」ってムカつかれたりするわけです。喋ってる途中で、「要するに何なの?YESかNOか?」と話の腰を折られ、いきなり回答を迫られたりするわけです。

 あと、このような日本人の発想から英作文をすると、日本人は異様に "There is"構文が好きだという傾向があります。「〜がある」「〜である」という全体描写、風景描写をしようとするからです。There is a problem.(問題がある)という感じで。これでも文法的には間違ってないけど、自分の側に問題があるときは、I have a problem.というのが一般的です。Haveというのは、日本人的発想でいう There is なんですよね。There is Mt Fuji in Japan というよりは、Japan has Mt Fujiといった方が英語としては自然でしょう。We have Mt Fuji と言ってもいい。ということで、英作文をしているとき There is という書き方をしようと思ったら、haveで書き直せないかチェックしてみるといいですよ。



 他にも例を挙げていたら枚挙にいとまがないくらい、日本人の全体指向、全体と個をチャネリングして波長同調しようという傾向は強いと思います。
 これは何も日本人の性向が悪いとかいいとか言ってるのではないです。そういう方法で世界や自分を認識しようというOSなのだというドライな事実として言ってるだけです。

 なんでそうなったのか?これはそのあたりの見識に乏しい僕としては憶測をたくましくするしかないのですが、いわゆる日本的農耕社会と西欧的狩猟社会の違いなんかもあるのでしょう。もっとも、ヨーロッパだって立派な農耕社会であり、純然たる狩猟民族なんかどれだけいるのか?って気もしますが、説明原理としては分かりやすいです。

 皆が狩りをやって暮していた場合、重要なのは個人の技量でしょう。ウサギが森から飛び出したを見て、瞬時に矢を放ち、正確に射抜くためには、弓矢がメチャクチャ上手な人間が必要です。腕が悪い奴が10人おってもウサギは取れない。でも上手な奴が一人いたらそれでウサギは取れる。こういう環境で育ってきたら、個々人の技量、ひいては個人個人というものが独立のピースとしてしっかり認識されるようになるでしょう。まず自分(主体=狩猟者)がおって、獲物(客体)がいるという発想も自然に馴染むでしょう。あとの背景は文字通りバックグランドです。でも、農耕社会の場合、荒地を一人で耕すのと10人で耕すのとでは人数が多い分だけはかどります。だから「力を合わせて」という発想が出てきやすい。また、田植えや収穫などに個人の飛び抜けた技量や才能は必要ないです。全部で何人いるか、全員でいかに力を合わせるかです。また、狩猟の場合、狩りが下手な奴は餓死し、上手な奴は生き延びます。しかし農耕の場合、凶作となれば全員が餓死し、豊作となれば全員が潤う、運命共同体です。さらに、農耕の場合、タイム感覚は1年単位であり、因果関係も1年単位です。梅雨にしっかり雨が降らなかったから出来が悪いとか、そのくらいのタイムスパンで考える。また、自然の立地や気候の変化にモロに影響を受けますから、いやでも全体を見ようとするでしょう。しかし、狩猟の場合、瞬間瞬間が勝負ですし、仲間に伝えるにも「いまそこの木立から3秒前にウサギが飛び出した」という秒単位の時系列でモノを言わないとダメでしょう。そんなこんなで、日本語は主語がない(全員でひとつだから要らない)、時制がわりといい加減なのに対し、英語をはじめとする西欧言語は時制が非常に厳しいし、主体客体の区別をしっかりしようとする。



 それとですね、日本は稲作耕作民族ですが、稲って東南アジア原産の熱帯植物です。インドネシアだったかな三毛作なんか当たり前に出来るそうですし、そんなに必死に苦労して育てなくてもグングン育つ。頑張れば四毛作までやっているというエリアです。さすが原産地。そんな熱帯植物を、温帯の日本列島に持ってきて栽培しようというのが、もともとちょっと無理があったのかもしれません。実際、日本の中でも寒いエリア、つまり東北は常に飢饉に襲われ大変な目にあってきました。幕末で倒幕勢力になったのは薩長など温かい富裕国です。温かいから米がよく取れ、財政も潤い、その金で軍艦や鉄砲を買って幕府を倒したのでしょう。「日本で稲を栽培する」という植物学的に無理メなことをやろうとするから、ものすごく丁寧に育てていかないと枯れちゃう。すごく人手が必要だったのだと思います。油断しているとすぐダメになっちゃうから、お百姓さんは忙しい。朝から晩まで土まみれになって必死に働いたのでしょう。そこでは村人全員が一致協力してやらないと生きていけないというサバイバル環境にあったのだと思います。日本人の中に、まず全体が豊かにならないと個人も豊かにならない、全体=個だという発想が自然に出てきても、僕は不思議だとは思わない。もし、日本がもっと温かく、東京や仙台で普通のバナナやマンゴーが生い茂っていて、何にもしなくてもそれだけ食べてたらとりあえず生きていけてたら、日本人の性格もカルチャーもだいぶ変わったものになっていたように思います。



 もう一つ、これは西洋と東洋の宗教の差でよく語られるところですが、西洋+中東の宗教、つまりユダヤ、キリスト、イスラムは、いずれも砂漠の宗教です。カラカラに乾燥した荒野の中で生まれた宗教であり世界観。一方、仏教、日本の神道などアジアの宗教は濃密な植物相と豊かな水源の中の宗教であり、世界観です。とかくアジアの宗教はやたら沢山の神様が出てきます。豊かな自然によって「生」を貰っているという環境で生きていれば、自然の数々の恵みがそのまま信仰の対象になっても不思議ではないです。中国でもそうですが、かまどには竃の神様がいるし、朝露のしづく一滴にも神が宿るのだと言われたら何となくそんな気もするでしょう。だから、大した違和感も抱かずに自然と自分とが一体なものだと思いやすい。死んだら「草葉の陰」に行くわけです。

 しかし、過酷な砂漠や荒野に生まれ育てば、自然が恵みをもたらすとは思いにくいし、自然との一体感も得にくいでしょう。ゆえに、想像力によって人工的で超絶的な一個の神を生みだし、厳しい戒律を伴う強烈な一神教になっていったのかもしれません。アジアの神様は、信じるか信じないかというギリギリの問いかけをする必要もなく、ごく普通にそこらへんに居るって感じなのでしょう。神様というのは信仰の問題というよりは、カミナリ様のように自然現象としてそこにある。だから過酷な教義や戒律も乏しい。キリスト教などは、神と子と聖霊という三位一体の契約によって世界が成り立っているという、人工的でビジネスライクな世界観だと思います。だから中々日本人には理解しにくいです。僕も三位一体って何度説明されてもピンと来ないですもん。



 まあ、こんな沿革的理由は幾らでも考えつくものだと思います。僕も、深刻に突き詰めて考えて書いているわけではありませんので、読み流しておいてください。  ただ一貫して言っているのは、僕らは彼らほど全体と自己とを峻別していないということであり、またそれをする必要もないくらいハーモナイズされた環境ではぐくまれた文化圏にいるということです。

 僕らは自分のことを気にするのと同等か、それ以上に全体の幸福を考えます。全体のことを気にし、全体のリアルタイムな状況を正確に知りたいと思い、また全体における自分の役どころを的確に演じたいと思ってます。この「全体」というのは、クラスや職場の部下などの集団において、「皆どう思っているか」です。皆の気持ちを正確に察知するのは、一人前の日本人が持っていなくてはならないスキルであり、マナーでもあります。すなわち「察しの文化」ってやつです。自分のビールのコップが空になったら、自分でとっとと注ぐのではなく、周囲の誰かにビールを注ぎ、その人に「お、これは気がつきませんで」と注いで貰うという複雑なことをしている民族です。

 それは昔の世代だけかというと、そんなことないです。最近流行ってる日本語で「場の空気読めよ!」ってのがありますが、「場の空気」という英訳不可能で、古くさい表現を、2ちゃんなどのネットの掲示板などで若い世代の人がガンガン使ってるわけです。ぜーんぜん変わってないです。いや、イケイケの80年代バブルの頃の方が日本人はもっと奔放だったし、その頃の方が大らかだったように思います。丁度あの頃に、多少ピントがずれている人を馬鹿にしたり排除したりするのではなく、「天然」といって珍重しようとする雰囲気もありました。今の方が集団の中で仲間はずれになったらイジメられそうな気がしますし、世相が右傾化していくのも分からないでもないです。ナショナリズムや右傾化というのは、世間知らずになればなるほど強まる傾向がありますから。

 ただ、このような精神生理が、もう遺伝子レベルと思われるくらい深い所に食い込んでしまってる僕らは、一体どうしたらハッピーになれるのでしょうか。
 ホワイトカラーエグゼンプション制度について立ち返るならば、制度がどうかという以前に、憲法上の労働者の権利を軽んじているのは経営者だけではなく、実は労働者である僕ら自身であったりします。サービス残業にしたって、上から強制的にやらされながらも、同時に自発的にやっているという側面もあります。それは勤労の美徳や構造的欺瞞だけではなく、労使関係という「対立構造」が生理的に好きではないからでしょう。また、誰それさんが頑張って残業してたら、一緒に残ってあげるという「おつきあい残業」なんかもやっちゃったりするのは、全体がハッピーになってはじめて自分もハッピーになるという心理傾向があるからだとも思われます。



 既に今回のページ数も超えましたが、つらつら考えるに、日本人のディープな精神生理からしたら、民主主義というやりかたも、資本主義という方法論も、法治主義も契約も、議論も、多数決も、ぜーんぶ肌に合わないって気もしますね。なんか無理して、カッコつけてやっているというか。もっと言えば、日本の政治や社会システムって大昔からずっと外国からの借り物だって気もします。奈良の平城京の頃から唐の律令制度を持ってきて、中国の建築様式を持ってきて、中国の民族衣装着てたわけでしょう。あんな冠なんか被ったりしてさ。明治維新は西欧列強のシステムを強制移植して、チョンマゲやめて西欧の民族衣装(洋服)を着て、戦後はアメリカ的カルチャーを導入し、自動車乗って、Tシャツ&ジーパンで、ジャズ〜ロック〜ヒップホップ聴いて、パソコンやって今僕らはこうしてインターネットやって、そしてアメリカ式資本主義と経営方式を受け継いで、そんでもってホワイトカラーエグゼンプション制度とか言ってるわけでしょ。

 日本人がオリジナルに開発した社会システムとかカルチャーって意外と少ないです。それは日本人のオリジナリティの貧困さの現われであると言ってしまえば簡単なんだけど、発想を変えて考えれば、そーゆーことって日本人にはあんまり必要ではなかったのかもしれません。日本人のナチュラルな精神生理を一言でいえば、「皆で幸せになりたい民族」なんじゃないかなって気がします。個人単位にバラしてから構築していくのではなく、全体としてハッピーになっていくようにする。歴史的に見ても、日本にも戦乱や悲惨な世の中は幾らでもあったけど、他国のそれほど悲惨ではない。西欧とか中国とか、もう虐殺に継ぐ虐殺で、皆殺しのテーマですもんね。三国志でも、戦争に勝ったら相手の兵士や市民は皆殺し。一人残らず首を切ってピラミッドにして積んだりします。ジンギスカンなんかもっと徹底していて、女子供はおろか犬猫の首まで切らせたらしい。殺さなかったとしても奴隷にしてコキ使う。反乱を起こした家臣は、親族や家臣全員皆殺し。日本人はそこまでしません。戦争に勝っても、負けた側の大将が腹を切って終わりでしょ。皆が見守る晴れの舞台で、最後に詩を詠んで(辞世の句)、潔く腹を切り、「あっぱれ」「お見事でござった」と全員が称える。負けた軍団の家臣はそのまま転職。今の吸収合併みたいなもんです。領民は支配者が変わるだけで、今の県知事が替わる程度でしかない。日本史上、虐殺=ジェノサイドをやったのは、織田信長の長島一揆征伐や比叡山焼き討ちくらいでしょう。西欧の植民地支配くらいまでは日本人の理解の範囲だけど、奴隷制度や奴隷の人身売買なんか理解外です。何を考えたら、そんなヒドイことが出来るのよ?って。



 人間集団をコントロールしようと思った場合、二つの方向性があると思います。一つは西欧方式で、まず個人から出発し、個人の意志や嗜好は個人の聖域として尊重しつつ、ワガママな個人と個人、個人と社会という外部的な関係を法律などで規律しようという、いわば外在的コントロール方式。もう一つは日本方式で、まず全体としての最大幸福を考え、それに合わせて個々人の性状や思想それ自体を変えていってしまうという内在的コントロール方式です。冒頭でカメレオンの例を出しましたけど、日本全体が一匹のカメレオンなのかもしれない。周囲が帝国主義、軍国主義になるとその色に染まり、周囲が民主主義、自由資本主義になるとその色に染まる。そして僕ら国民はカメレオンの中に一つ一つの細胞であり、全体が赤になれば細胞もまた赤になり、全体が緑になれば僕らも緑になる。昨日まで日本刀振り回して、尊皇攘夷といってたのが、一夜明けたら文明開化でいきなり洋式化しちゃうし、それで誰も「おい、攘夷じゃなかったのかよ?」とツッコミをいれない。昨日まで鬼畜米英だ神州不滅だと言ってたのが、一夜明けたらアメリカ万歳、民主主義万歳になっているし、今のイラクのように日本各地でテロが激発していたわけでもない。

 僕らにとって大事なのは、皆で豊かに幸せになることであり、幸せになる方法論や思想なんかどーでもいいのでしょう。「あ、こっちのやり方の方が良さそうだな」と納得したら、すぐにそっちに行く。こだわらない。政治システムも、思想も、法律も、全て外在的な規律方式だから、日本人的にはそんなのどうでもいいんでしょう。大切なのは、それで皆が幸せになれるか、それで自分も幸せになれるか、そのためには自分をどう変容させていけばいいかです。日本人のスゴイのは、これらを理屈や議論でやるのではなく、ほとんど直感や無意識でやってることです。いわば、「心優しい全体主義」みたいなものですね。だから、政治も、経済も、システムも、法律も、宗教戒律も、全部外在的規律方式だから、本音をいえば、日本人はそんなに興味関心がない。あなただって本当はそんなに興味もないんじゃないですか?一応、一人前の社会人としての「たしなみ」として多少は知っておこう、考えようとは思うけど、自らが信じる政治思想のために死んでもいいとは思わないでしょう。日本で労働運動や学生運動が華やかだった時代もありますが、あれも思想的正統性よりも、「皆で幸せになろう」という部分が心の琴線に触れたのではないでしょうか。日本の左翼も右翼も根っこは一緒というか、左翼は「幸せ」という部分に力点をおいた心情左翼だし、右翼はカメレオンの全体的統一、全部きれいにそろってないと気持ち悪いという生理右翼のような気もします。

 このように直感や無意識レベルで全体像を模索し、それに合わせて、「場の空気」だけで皆がスルスルと適切なポジションに動いていく日本においては、実はそんなに政治なんか要らないんじゃない?って気もしてます。今、阿部首相が期待はずれの不人気らしいですけど、総理大臣なんか別に居なくてもいいんじゃない?総理大臣に舵を取って貰わないと我々の生活も成り立たないぞとはアナタだって思ってないでしょ?「リーダーシップ」とかいうけど、実はそんなに求められていないのかもしれない。ロックバンドのボーカルみたいに、ステージでイエー!とか言ってる程度のリーダーシップでいいんじゃない?というか、そういう心情的に分かりやすいリーダーシップがいいんじゃないかな?「よし、今度は緑色だぜ、皆で緑になれ!」「イエー!」「よし、今度は赤だぜ!」みたいな。まあ、そういうカリスマ性はどの国のリーダーシップにもあるけど、日本の場合は特に微妙で、そんなに一人の人間にあれこれ引っ張っていってもらいたくもないのでしょう。小泉首相が支持されたように、なんとなく「時代の空気」を象徴してくれればそれでいいんでしょ。ヒントだけでいい。あとは自分で「なるほど、赤だな」と感じて、自動的に動いていけるんでしょうね。

 などなど幾らでも考えは伸びていくのですが、日本を13年以上離れて、「あの世」同然の海外に住んでいながら、なんでこんなに日本のことが書けるのかというと、別に僕が愛国的だからでも、日本について特別な心情的なこだわりがあるからでもなく、生理的にわかっちゃうという部分が強いです。僕だってカメレオンの細胞の一つですからね。全体感知能力みたいなものがあるのでしょう。全体が個の中にある。日本は僕の中にあるから、自分の心を照らしていけば、ああ、多分、日本は今こんな感じなんだろうなってのが、なんとなく分かる。

 しかし、こういう特殊能力を持った僕らはどうしたらいいんでしょうね。
 皆で幸せになりたい僕らは、だからこそ、格差社会という「皆」性を放棄したかのような世相に居心地の悪さを感じたりするし。でも、グローバリゼーションなどを考えれば、そんなカメレオン生理だけでやっていけるわけもないし、苦手な外在規律システムにも多少は慣れないとならない。そのあたりの調整作業が難しいところだと思います。ホワイトカラーエグゼンプション制度にしたって、ああいう資本の原理バリバリで、企業は最大利潤追求マシンであるというドライな発想を持ってこられると、まず生理的に非日本人的だなと反発してしまうのでしょう。制度の欠陥や、法的問題点などは前回、前々回に幾らでも書けるけど、根っこにあるのは、「自分だけ強欲になってんじゃねーよ」というアンチ「皆」性、アンジャパニーズな感じ、悪代官に対する百姓的反発であるような気がします。


 なお、似たようなエッセイは過去にも書いてます。関連リンクを挙げておきます。
 ESSAY94/日本人と全体把握力
 ESSAY 147/ 「甘えの構造」」について



文責:田村

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