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今週の1枚(04.03.15)
ESSAY 147/ 「甘えの構造」」について
写真はBradleys Head からシドニーハーバーを望む
「日本人の甘えの構造」という言葉は一度はお聞きになったことがあると思います。僕も何度もあります。でも、実際に、日本人が何をどう甘えているのかというと、実はあんまりよくわからなかったりします。なんとなく、日本人のノホホンとしたお気楽な物の見方が「平和ボケ」とか「甘い」とか言われたりして、そのあたりのニュアンスの事をいってるんじゃないかと思ったりもするのですが、でもそれは「甘い」のであり「甘え」ではないですね。「甘い」というのは「不徹底、不十分であること」であり、「甘え」とはちょっと違うんじゃないでしょうか。じゃあ、日本人の「甘えの構造」とはなにを言ってるのでしょうか。
「甘えの構造」というのは、今をさかのぼること30年以上前に出版された、精神医学者土居健郎氏の著作「”甘え”の構造」という著作に端を発しているようです。かなり有名な古典的名著でベストセラーになった本ですが、不勉強な僕はまだ読んでおりません。ただし、手元にある文献で孫引き紹介されているので、ある程度のことはわかります。
土井氏の発想は、まず彼が外国に留学したときのカルッチャーショックに基づきます。そして、英語には「甘え」に相当する単語はないことを発見します。もちろん部分的にそれらを表す言葉はあるけど、日本語の「甘え」という概念をそのまま表した英語はない、と。うーん、確かにないかもしれませんね。
よく、spoiled という言葉を使うことがあります。「甘やかされてダメにする(ダメになった)」という意味で言いますし、spoiled brat (”甘やかされたクソガキ”という罵倒用語)なんてのもあります。でも、spoil の本質的な語義は「ダメになる」ことです。物の価値や有用性を「損なう」という部分に意味がある。spoil a sheet of paper で紙を一枚書き損じる、spoil eggs で卵を腐らせる、spoil my holidays で休日をブチ壊しにするという意味です。ですので、この英単語の本質を漢字一字で書けといえば、僕は「損」だと思います。「損なう」「毀損」「損害」「破損」の「損」です。”ぶっ壊す”という。とすると、spoil は「甘え」という行為ではなく、「結果」ですよね。甘やかされた結果ダメになるという。ちなみに、英単語の本質を漢字一字で書けというのは、僕が思いついて時々やってるボキャブラリの勉強の方法です。言葉というのは、核心にあるコア概念を理解しないで、ただ語義を羅列的に覚えていても意味がないですから。
dependent という英単語もあります。これは「依存性が強い、頼っている、従属している」という意味で、「甘えている」という日本語を訳するときに使うことはできそうです。「他人に頼ってばっかりの人」=「甘えている人」とは言えるでしょうし、甘えの本質は依存性でもあるでしょうから、spoil よりはかなり意味的に近いでしょう。でも、これも依存性という範囲が、日本語の「甘え」に比べるとやや狭すぎる、、というかちょっとズレているように思います。dependent という言葉のニュアンスは、親亀の上に子亀が乗ってて親亀がコケたら子亀もコケるという関係をいうように、ドライな物理的・力学的な関係性を示します。例えば、金銭関係で誰か他人の世話を受けているような場合もdependentという単語を使いますが、これが「親のスネをかじってる」場合であれば「甘え」と同様の意味になりますが、「当組織の運営は寄付金によって”まかなわれている”」というような場合も dependent を使います。でも、「寄付金に”甘え”ている」というニュアンスはないですよね。税金の申告の際の「”扶養”家族」も dependent を使いますが、これも甘えているというニュアンスはない。「明日の遠足は天候”次第”だ」という場合も、dependent を使いますが、「天候に甘えている」わけではない。だから、dependent は、人間の精神や行動に限らず、Aという物事とBとがヒモで結ばれていて、Aが動いたらそれにひっぱられてBも変動するという、その力学的な”関係性”を言ってるのでしょう。ところが日本語の「甘え」は、ある人間の精神的”状態”をなので、dependentでは十分に「甘え」を表現しきれていない。
では、日本語でいう「甘え」とは、一体どういう概念なのでしょうか?
土居氏の所論をここで手際よくまとめる力量は僕にはないし、そもそも本を読んでないのでよく分かりません。ただ、孫引きしてる文献を見ると、氏の言う「甘え」とは、「人間存在につきものの分離の事実を否定し、分離の痛みを止揚しようとすることであり、分離についての葛藤と不安が隠されている心理でもある」と定義づけられているようです。分かりにくい表現ですが、例えば母と子は本来別人格を有する別人で、いつしか独立して離れていくものですが、離れていくとなると寂しい。この寂しさが「分離の痛み」なのでしょうが、この痛みゆえに分離の事実を否定し、一体化しようとすること、これが第一点。そして、分離がどうしようもないとしたら、その痛みをなんとかしようとしてあれこれ心を働かせることで、この痛みを乗り越えて自立できればいいのだけど、そうとばかりは限らない。というか、そうならない場合がむしろ一般で、その心理は「すねる」「ひがむ」「ひねくれる」というネガティブな心理になってあらわれがちであるという指摘がなされています。
これらを甘えの特徴点だとし、日本人は他の民族よりも構造的に甘えの心理が強いとするならば、@本来分離しているのに分離したくないという意識が強い、一体化していたいという欲求が強い、A分離の痛みを乗り越えるよりはむしろそこでネガティブに向かってしまいがちである、ということだと思います。
一方、他の人の関連所論などにも目を通すと、小此木啓吾氏の「阿闍世コンプレックス」というものありました。阿闍世(あじゃせ、と読むのであろう)コンプレックスというのは、西欧のエディプス・コンプレックスに対応した日本版コンプレックスとして位置付けられているようです。阿闍世というインドの王様の名前で、この話は仏教の経典に出てくるエピソードです。長い話を無理やり端折ると、阿闍世の母イダイケという女性がおり、自分が老いて夫(当時の王)の寵愛を失うことを恐れ、早く子供が欲しいと思った。預言者に尋ねると森の仙人が死んで自分の子供として生まれ変わる聞いた。待ちきれなくて思い余ってインダケは仙人を殺してしまう。仙人は死ぬ間際「お前の息子になって生まれ変わりお前の夫を殺してやる」と言った。母インダケは阿闍世を身ごもったが、恐ろしくなって阿闍世を堕胎しようとするが、結局果たせず、阿闍世は出生する。成長して自分の出生の秘密を知った阿闍世は激怒し、父親を幽閉して殺す。さらに母親を殺そうとする段になって阿闍世は罪悪感に襲われ、またひどい皮膚病に倒れる。母インダケは、阿闍世を献身的に看病し、やがて母子ともに釈迦に会い、深く帰依するという話です。
これもよく分からん物語で、そもそも仙人がそんな簡単に殺されるのか?悟ってる筈の仙人がそんな卑近な恨みつらみを述べるか?父親は別に何も悪いことしてないのになんで殺されなきゃならないのか?とかツッコミどころは満載なのですが、それはさておき、終始一貫母子の物語であること、母子間の憎悪と葛藤がありつつも最終的にはそれぞれ分離独立するのではなく母子がまた一体化して終わってしまう点に特徴があります。エディプス・コンプレックスは、提唱したフロイトによれば、外界の象徴たる父親との葛藤・闘争を経て、自立した一人前の人間になっていくという旅立ちの物語なのに対して、阿闍世物語は結局旅立たないんですね。で、語られているところによれば、日本人はこの阿闍世だというわけですね。葛藤はありつつも、分離して発展していくのではなく、またより大きく一体化してめでたしめでたしになる、なろうとしたがる、そういう精神傾向があるということでしょう。
あ、ところで、これは言っておくべきだと思いますが、「甘えの構造」の土井氏は、巷間よく誤解されているように、「日本人は甘えているからダメなんだ」とは結論付けていません。そもそも「甘え」というネーミングがネガティブなので、どうしてもネガティブに語られがちなのですが、別にネガティブな結論を持ってきているわけではない。そういう特徴をもつ、そういう社会精神構造がある、と。その分析こそが主眼であり、批判する意図はない。そして、それは一定の状況に置かれた人間だったら普遍的にそうなるという意味で、別に日本人特有ではないけど、そういう状況に置かれているのがたまたま日本人だけだったので日本人の特徴のようになっているだけの話であると。
この本、「甘え」というネーミングの妙味でベストセラーになったという気がしますが、このネーミングが一人歩きしてる恨みもありますね。単に不徹底な態様をさして「甘えの構造」と誤用されているケースが多いように思いますが、それは冒頭でも書いたように「甘い」のであり、彼のいう「甘え」の「構造」ではないです。だから最初から「甘え」なんて紛らわしいネーミングは避けて、「高精度予測社会構造における精神傾向」とでもすれば誤解も少なかったのでしょうが、その代わりベストセラーにもならなかったかもしれませんな(^^*)。
ところで、「甘えの構造」も「阿闍世コンプレックス」も、きのう今日言われ始めたものではありません。「甘えの構造」の刊行は1971年ですから、もう33年前の話ですし、阿闍世コンプレックスになると、小此木氏の前に先達はいて、なんと1932年に古澤平作氏がウィーンでフロイトに対して提唱したのが源流というくらい古い説です。70年以上前の話ですね。だから、ここまでの話は説の内容がどうとかいう以前に、”そういう所説があるということを一般教養として知っておくといいよ”というレベルの話なのでしょう。またそれ以上深く切り込めるほど、僕も詳しく知るものではないです。
以下、これらをヒントにして、自分で勝手に考えてみます。あらかじめ言っておきますが、今回はオチがないです。あれこれ四方八方に考えをめぐらせて、スケッチするだけで終わってしまいました。全体像はうすぼんやりと見えるのですが、マジメに調べて書いていったら本数冊分くらいの分量が必要になりそうになって収集がつかなくなりました。だからメモ書きくらいにとどめておきます。妙に小さくまとめてしまうよりは、発想のスパイク(トゲトゲ)を丸くしないで沢山残しておいた方がいいと思ったからです。よって、今回は、とっ散らかった文章になりますが、ご容赦ください。
まず、上記の所論を通じていえるのは、日本人の場合、「自分は自分、他人は他人」とあまり割り切ってものを考えないということでしょう。ガーンと壁を作って、他者をシャットアウトすることをせずに、ゆるやかに常に一体化しようとしているし、一体化していることを前提に物を考え、人生を生きていく。これはもう誰もが言ってますし、僕もこれまでエッセイその他で言ってきたので、簡単に流します。
日本人に限らず単一文化、単一民族だったらどこも似たようなものだと思うけど、要するに同じような文化と環境下に生まれて、同じような生活してれば、同じような人間になり、同じような物の考え方をするということでしょう。自分と他人との差がすくないから、自分が感じるようなことは他人もまた同じように思っているだろうという予測が容易にできます。だから、相互理解の進度が最初から深い。相手が何考えているのかよく分かる。似たような連中ばっかりだったら、あんまり自他を峻別して分けようという気分にならないですよね。
これが全然違う民族が入り乱れて暮らしてたら、どうしようもなく自他が分離するでしょう。相手が何を考えてるかよく分からない。分からないと困るから聞く。勝手に誤解されたらたまらんから、自分のことについても積極的に説明しようとする。流れとしては自立へ、自立へと向かうでしょう。
日本の場合は、自分も相手も、まあ80%から90%は頭の中の組成成分が同じようなものだから、因数分解で同じものをカッコで括り出すように、双方同じようなことは敢えてイチイチ確認するまでもないから省略します。「言わなくてもわかるだろう?」ということで。いわゆる「察しの文化」になり、より相手のことを深く察することが「大人」とされます。また、あれこれ細かいところまで自己主張をするのは、むしろ「はしたない」ことだとされます。
だからそういう文化で育った日本人が、「言わなきゃ分からんだろうが!」「自己主張は権利というよりはむしろ義務であり、礼儀ですらある」という西欧社会にやってくると戸惑うわけですね。「甘えの構造」の著者の土井氏もアメリカ留学時代同じように戸惑ったわけです。「これいるか?」と聞かれて、遠慮して「いえ、結構です」と答えたら、二度と勧めてくれなかったり、食後のお茶にしても、コーヒーにするか紅茶にするか、ミルクはいれるか、どのくらいいれるか、砂糖はどうするか、いちいち全部指示することを求められる。日本人からしたら、「どうでもいいじゃん」と面倒くさくて仕方がない。そういえば、映画「ラスト・サムライ」に出演した渡辺謙さんが、ハリウッド映画撮影のときに、膨大な契約書にサインさせられ、その中に弁当は何が良いかイチイチ細々指定しなければならなかったと述べておられるそうです。もう、パンがいいか米がいいか、米だったら銘柄はどこがいいか、どのくらいいるかとか、飲み物はどうするか、どのくらい必要か、いつ欲しいかとかそんなことまで全部契約書に書いてあるという。だから30年以上前の土井氏の留学時代も現在も状況は一緒ですよね。
日本人同士の場合は、そのあたりは全部省略ですよね。「お茶いれましょうね」と言われたら、もう相手任せにする。「あ、なんでもいいです」って言い方になるでしょう。現場の弁当でも、別に「なんでもいい」ってのが普通で、その場その場の状況に合わせて適当にやっていきます。「おまかせ」が多いのですね。
逆にいえば、「おまかせ」できるというのは、それだけ相手の行為が予測できるということでもあります。完全に任せてしまっても、そうそう変なものは出てこないという予測が立つ。「お茶はもうなんでもいいです」といっても、まさかイモリの黒焼きを煎じたものとかが出てくるとは思ってない。まあ、日本茶かコーヒー紅茶の類だと思ってますし、その予測でほぼ99.9999%間違いないです。お茶以外でも、日本人同士だったらある程度の行為の予測はできるし、その予測に基づいて行動します。また、予測された方としては、その期待を裏切らないように振舞うことが求められる。その予測の正確さとつつましさ、また予測に的確に答えることのできる能力こそが、日本人の大人として要求されるスキルなのでしょう。
実際の日本語会話を見てても、この論理にしたがって展開されていたりします。例えば誰かの家にお邪魔したときに、「あら、あたしったらお茶も出さないで、ごめんなさいね」(←相手が要求しなくても当然お茶を出すくらいの配慮をなすべき義務があり、その義務を怠った謝罪と、自分にはその義務を知る程度の配慮能力はあるのだということを示す)、「や、もう、結構ですから。どうかお構いなく」(←お茶を出してもらうのが通例だとしても、出してもらって当たり前と思い上がってないことを示すとともに、相手の労苦に対する儀礼的配慮を示す)、「いえいえ、どうかご遠慮なさらずに。もう立ち上がってしまいましたし、立ってるものは親でも使えって言いますでしょ」「そうですか、、、じゃあ、すみません」「なにになさいますか、コーヒー、紅茶?」「や、もう、なんでも結構です」、、、。
という具合に進んでいくわけですね。これが発展というか行き過ぎると、「京都のぶぶ漬け」になってみたり、さらには微笑ましくも見苦しい奥様同士の”レジ前バトル”になったりするわけでしょう。「あら、奥様、ここは私が払いますわ」「何をおっしゃいます、ここは私が」「いいえ、私に払わせてください」というアレです。
このあたりになってくると、予測可能性の極限に挑むような感じで、「察しの文化」が「腹の探りあい」になり、まるで将棋における先手の読み合いのようになっていきます。高度な知的ゲームになったりしますし、日本の社会でやっていこうと思ったら、このゲームに習熟していることが必要になるわけです。柔和な笑顔とともに「おやおや、あっははは」と言われたら、「寝ぼけたこと言ってんじゃねーよ、このボケ!」という拒絶の意味だと理解しなければならないとかね。かなり面倒くさいですけど、僕らは日常これをやってるわけです。予想された会話のシナリオを前提に、それを微妙にズラし、その「ゆらぎ」を的確に察知して相手の真意を推し量る。突き詰めれば言葉の芸術のようになりますが、日本人は昔からこれが上手なんですね。源氏物語でも和歌を「かけことば」というダブルミーニングで詠み合って意思疎通してますし、禅問答なんて哲学的なものもあります。自己主張しなきゃいけない場面でも、ギリギリまでその表現を削ぎ落としていく。
ここで話を四方八方に拡散させます。ネタだしというか、気のついたことを書き留めておきます。
物の本によりますと、なんで日本人は「ありがとう(thanks)」という局面で、「すみません」「ごめんなさい」(sorry)というのか?という疑問が呈されています。上記の会話例でもお互い謝ってばっかりですよね。なにを謝る事があるのか?とガイジンさんからしたら不可思議でしょうし、「日本語ムズカシイデス」ということになるでしょう。逆に海外にいって、ありがとうの意味で、I'm sorry というと「?」という顔をされます。とかく日本人はsorryばっかり言ってるとかよく言われますが、日本人からしたら「ありがとう」の意味で言ってるんじゃ、別に謝罪してるんじゃないわい、ということになるでしょう。なぜ、日本人はthank you のときにsorryというのでしょうか?
これを書いていて気づいたのですが、human being,あるいはman のことを、日本語で「人間」といいますよね。「人」ともいうけど、「人間」ともいう。この「間」って何なの?意外とこのあたりがポイントなのかなと。人と人の間に、自分でもないし他人でもないグレーな領域があり、そのグレーな領域こそが、日本人の対人関係のツボでもあり、アイデンティティでもある、と。
「甘え」に関する所論のなかに、甘えとは「受動的な愛情欲求」であると定義づけているものがありました。なるほど、と思います。冒頭の「甘え」を意味する英単語を言いましたが、依存性というよりは受動性といったほうがより近いかもしれません。より言えば、”受動的な期待”。だから、「甘え(ている人)」を英語で表現しようと思えば、"someone who always expects too much"なのかもしれません。
これらのことをひっくるめて考えてみたいと思います。
日本社会には、”俺もお前も皆同じ”という、絶対的な一体感覚、同一感覚があり、その一体性の中で、「相互に面倒をみあう」というカルチャーが形成されている。相互に面倒をみることができるのは、相互に同じような人間なので相手のことがよく分かる、察することができるという高度の予測可能性あっての話です。
そして、相互の人間関係においては、自分と相手の中間に位置する、100%自分のことでもないし相手のことでもないグレー領域でことが進み、そこではある程度「相手は自分にやってくれるものだ」という期待があり、また「相手にしてあげねば」という義務感もある。ただし、それは「やってもらって当然」というほど強いものではなく、「本来やってもらえなくても文句は言えない」という冷静な認識もあるのでしょう。一方では無くても当然、でも他方ではあっても当然という二重の感覚を常に持つ。ダブルスタンダードですよね。基準ラインとしては「無くて当然」というクールなラインをひきながらも、そこを踏み越えて相手がしてくれた場合は、期待しつつも、それを「好意」として受け取る。この、「やってもらって当然」とは思ってないけど思っているという二重構造が、日本人の場合特に強くあるのではないでしょうか。
この「思ってないけど思ってる」という暗黙の「期待」の心理が、「甘え」の本質だと僕は思います。100%甘えきっているわけではないから、やってもらえればお礼はいいます。そして、その二重構造の陰影の深さが、そのお礼の言い方につながると思うのですね。シンプルな「ありがとう」よりも、もう少しニュアンスの深い「すみません」「申し訳ありません」という謝罪的なものになる。
なんで謝罪的になるかというと、謝罪というのは相手に迷惑をかけた場合に言います。迷惑をかけるというのは、相手に本来不要な余計な手間をかけさせることであり、謝罪は相手のダメージに対する認識の表明でしょう。正確に翻訳すれば、「本来、公平正義の見地からしたら、あなたは○○を被るいわれない。しかし、自分が原因であなたはそれを被ってしまった。だから私が悪いのはよくわかっています」ということでしょう。英語でも"I'm sorry"というかわりに端的に"my fault"と言ったりします。この「本来やる必要は無いのに手間をかけさせてしまった」という状況認識の表明という点で、一般の謝罪とお礼の場合とで似通っているのですね。「あなたは私のために、貴重なあなたの自由時間と労力を費やし、私財であるお茶を私に供与する義務は何もない」という認識を表明することが、すなわちお礼になるのだと思います。だから、日本人にとっては、謝罪にお礼も同じだったりするわけです。そもそも「謝礼」という両方の意味を兼ね備えて言葉すらありますもんね。もっと端的には、「そこまでしていただいたら悪いです」って言いますもんね。「悪い」んですね。善悪の判断表明なんです。「そこまであなたに手間をかけさせてしまった私の過ちです」と。
そして、なぜ日本人はお礼が謝罪と同じになるのかというと、「本来○○であるのに」という認識を共通にできるからだと思います。あえて確認しあわなくても人間関係のクールなスタンダードはわかる。つまり両者同じような価値観・世界観を持っているというのが当然の前提になってるからでしょう。これが全然価値観がちがったら、「対人関係においては普通そうするもの」という「当然の行動規範」というのがわからない。だから、物事の現象面だけに着目し、相手の「好意」を認識する場合は「お礼(appreciate)」になり、自己の行為の非を認識する場合は「謝罪(apology)」になり、両者は混同されないのでしょう。それを混同している日本人の態度がよく分からんということになるのでしょう。日本人からしたら、それが理解できない外国人が分からない。
この二重構造性が「甘え」の本質であると書きましたが、実際、そのものズバリで表現している会話例もありますよね。「どうか晩御飯も食べていってくださいね」「は、すみません。じゃあ、お言葉に甘えまして」って言ってるじゃないですか。ねえ、「甘え」てるじゃないですか。まさにこれが「甘え」の構造なんだと思います。
そしてまた、期待しないのが当然でもあり、期待するのが当然もあるという、人と人との間にあるグレーな領域、そのグレーの微妙なグラディエーションこそが、日本人の人間関係の基本になっているのだと思います。
さらに受動性について述べると、日本人のものの見方はナチュラルに受動的だと思います。これは「お茶をいただけますか?」と堂々と要求するよりも、向うから出してくれるのをじっと待ってるという行動にも見受けられますが、それだけではない。能動と受動があった場合、どうしても受動の方に目がいく、加害と被害があった場合はどうしても被害に目がいく。
上記の土居文献の紹介のところで、「甘え」の構造が一歩間違えてネガティブになったら、「すねる」「ひがむ」「うらむ」という方向にいってしまうと書きました。これもよく見受けられるパターンで、やってもらえるものと期待していて、その期待がかなえられなかった場合、なんとかして成就しようと自分から能動的に関わるというよりは、やってくれない状況に甘んじる、耐える、そしてスネる、恨む。要するに被害者意識に転じてしまいがちである。
一番いい例が政治でしょう。今の政治状況や世の中が良くなかったとして、普通だったら、「こんなヒドイ世の中に住まわされている」という被害者的な視点でしかものを考えないでしょう。でも、一応日本はシステムとしては民主主義であり、平等選挙が実施され、投票所に戦車がゴゴゴと乗りつけてきて銃火に強制されるようなものではない。はっきりいって制度としては、日本くらい平和で、自由で、民主的な政治体制をもってる国はそう多くは無いです。他の西欧諸国と比べてみても、貴族制度の名残も残ってないし、差別も他国に比べれば少ないし、国民相互の所得格差も最小に近い。だから、今の政治が良くないとしたら、それはイチにもニにも主権者たるあなたの責任であるわけです。今の政治状況が悪いのだとしたら、「ああ、俺はなんというミスを犯してしまったんだあ!」と加害者意識をもったって良さそうなもんです。でも、ほっとんどが被害者意識でしょ。かくいう僕もそんなに加害者意識は持てませんもんね。
そのあたりですね、「自分がやらなくても誰かがいいようにやってくれるだろう」と思ってる部分はあると思うのですよ。これはまさに「甘え」ですよね。ある程度は土井氏の「甘え」の範疇に属するけど、度が過ぎてもっとひどい「甘ったれ」になってる部分はあると思います。expect too much です。
通常の場面でしたら、能動性を発揮しなくても、相手が「察して」くれるからコトが足ります。そして、自分が能動的になる場合は、相手を「察する」場合です。そうなってくるとですね、これが昂じると、本当に能動的になれるのは、誰か他人に対するときだけになり、自分のためには全然能動的にならないという人間類型が出てきてしまいます。でもって、実際、昔の日本人、特に女性の理想像はこれで、夫や子供のためには献身的に、つまり能動的に、ガンガン行動するけど、自分自身のためには「じっと耐える」という。
ふと思いついたのですが、日本で選挙をマジメにやらそうとしたら、代理投票をさせたらいいのかもしれません。自分の一票は自分で入れないで、他人にやってもらう。愛する人の一票を自分が全責任において行使する。日本人は自分のことになると能動的になれないけど、他人のこと、特に大切に思ってる人のためだったら非常に能動的になれますからね。愛する子供のため、その子供の一票を自分が入れるとなれば、真剣にやるんじゃないかと。棄権なんかしないで必死で調べて投票するんじゃないかと。
さて、話があっちこっちに話が飛びましたが、もう一度頭を整理しつつさらに広げていきます。結局根っこはひとつなのでしょう。
日本のような同質的な社会においては、皆さん頭の中身は自分と似たり寄ったりであるから、自分と他人とをキッチリ分けて考える必要性に乏しい。場合によっては無駄ですらある(分かりきっていることをいちいち聞くのは無駄)。
そのため他人が何を考えているか、何を欲しているか、かなり正確に予想できる。「察する」ことができる。察して分かってしまえる以上、人情として良くしてあげようと思う。これは「転んでる人をみたら思わず助けてしまう」という心情と一緒で、根本は日本人も他の人類も一緒である。ただし、他の連中は「転ぶ」とか目に見える形になってはじめて相手のことがわかるのに対し、日本人は目に見えない時点でもかなり正確に見抜く。そうなると人間関係は基本的に察し合いになり、あえてイチイチ自己主張する必要もないけど、エスカレートして将棋の先手の読み合いみたいな心理ゲームになる部分もある。
その場合、察するについても自ずと予測の幅がある。「好意」というのは、いくら日本人が同質といっても人によって範囲に差がある。そこで、基準ラインとして、「当然このくらいやるべき」のライン(最低限の客観ライン=例えばお金を借りたら返すべきとか)と、「別にやらなくてもいいのだけどやってもらっても不思議ではない」ライン(希望的な期待ライン=例えば、他人の家にゴハン時に居ればゴハンが出てくるとか、客が来るならお土産をもってきてくれるだろうとか)という二本のラインがあるのでしょう。そして、対外的、オフィシャルには最低ラインを前提にしつつ、腹のなかではもう少し期待しているということになる。これが日本人のダブルスタンダードであり、「ホンネとタテマエ」とか言われるものでもあるのでしょう。
さて、このような社会は、いちいち面倒くさい自己主張をしなくても周囲が適当にやってくれる社会でもあるから、すごく楽です。大まかな方向性だけ示せばあとの詳細については「おまかせ」しておけばいいし、「適当に」やっておいてくれます。これは、大勢に従ってる分には楽なんですが、いざ大勢と異なる道を進もうとすると、この「察し」があたかも空気抵抗のようにまとわりついてきます。これが日本社会の居心地のよさでもある反面、鬱陶しさにも通じます。
「あなたはわたし、わたしはあなた」というゆるやかな一体性を形成する社会においては、個人を分離独立して立たせる必要はなく、また独立自立を積極的に支援する文化も乏しい。家族間における「親離れ、子離れ」も、システマティックに分離や自立を果たすように出来ておらず(18歳になったら家をでて自活するのが当然という具合になっていないし、それを支援する奨学金やシェアの風習もない)、個々人の努力にかかっているので逆に大変である。かえって家督相続をやっていた昔の方が、次男坊以下は家を継がないから当然家の外に出るもの、女は他家に嫁ぐものという法律に近いくらいの強力なオキテがあって、それで強引で「分離」がなされていたが、近時はそれもない。
分離独立するキッカケに乏しいこと、自己主張しなくても周囲がやってくれる楽チンさという環境によって、日本人には、能動的にアクションを起こし、積極的に自分の世界を切り開いていくという習性に乏しい。これは別に日本人が怠惰で臆病だからではなく、そんな難儀なことをする必要がないからである。西欧人が独立心が高いのは、彼らが優れているというよりは、社会のシステムがそうなっていて、そのように躾られてきたからである。だから、昨今のオーストラリアのように、職探しが大変になり、大学やシェアの費用も高騰して経済的に自立が難しくなってきたら、いつまでも親元にパラサイトせざるを得ないオーストラリア人も増えてくる。だから、こういうことは、個々人の個性や能力ではなく、環境とシステムの問題だと思う。
日本人の能動性の乏しさと受動的な発想は、期待したほど周囲がやってくれないなどの葛藤が生じたときに、それを乗り越えて頑張るというよりは、スネるとか、不運を嘆くとか、被害者意識に赴きやすい。この精神傾向は、なにかコトが起きたときに被害者に感情移入しがちであり、いわゆる「判官びいき」という不運のヒーローを好む嗜好にもあらわれるといいます。また、大地震や災害が起きた場合、能動的にどう対処すべきかというよりは、被害者達の労苦に感情移入して、そこで終わって政策論につながらないという面にも現れる。神戸地震の被害内容については皆も結構詳しく言えるのだけど、その後どのような防災システムの改善が加えられたのか、その詳細を知る人は少ないでしょ?また第二次大戦の惨禍については日本人の被害(広島の原爆とか)に焦点がいき、自分達が加害者であるという認識は少ない。つまり、加害者的立場、為政者的マネージャー的立場という能動的なポジションは、どうも生理的にしっくりこないのではないか。これも倫理観とかマネージメント能力とかいうのではなく、単なる生理的な傾向だと思う。
あー、この1パラグラフ分のネタだけでエッセイ一回分くらい書けそうですね。キリがないのでこのくらいにしておきます。
最後に、このようにツラツラ述べてきたわけですが、だから日本人は「甘え」の構造があるから良くないというつもりは僕にはないです。もちろん改善すべき点は多々ありますが、別にこの甘えの構造そのものは悪いものだとは思ってません。日本社会のように同質的な社会においては、最も多くの人を最も少ない労力で幸福にする方法論という意味では、これが最も合理的であろうとは思います。ただし、絶対ではない。絶対ではないから過度に押し付けるのはよくない。ここがポイント。人間関係の形成のしかたは、なにも日本式しかないわけではない。もっと他にもいろいろな方法がある。そのなかの一つに過ぎない。
だから、ケースバイケースでこの方法論を使ったり、抑制したり、別の方法論を持ってきたりして改善改良していくのがいいのだろうと思います。例えば、「察しの文化」は人としての思いやりや優しさから発してるわけですが、これだけ人の生き方が多様になってきたならば、むしろ「察しない」ことが優しさなのだろうと。例えば、他人に対して必要以上にプライベートなことは聞かない、既婚か未婚かとか、結婚してたら子供はまだかとか聞かない。聞かないだけではなく、そもそも知りたがらない、興味を持たない。状況にあわせてソフィスティケイトさせていくべきだろうと思います。察しの文化は、一歩間違えればやたら他人のプライバシーを暴きたがる出歯亀文化にも堕するリスクがあるわけで、そこをわきまえること。察しの文化の真髄は、「いかに察しないでほっておくか、その見極め」でもあると思います。
海外にいる日本人の場合、これら日本の伝統的なメソッドから自由になりうる環境にあるし、また日本のメソッドだけでは円滑に生きていけない環境にもあります。ですので、日本以外の方法論(ツボを得た自己主張と能動性など)を身に付けることは必須スキルになったりします。しかし海外に居ても、いや海外にいるからこそ、自国の文化はビシッと押さえておいた方がいいんだろうなと僕は思います。両者に精通しておいた方がいいと。異国の地にいる人間は、好むと好まざるとに関わらず、文化的なインタープリター(通訳者)たる立場に立たされることが多いしですし、それを期待されもします。僕だって日本にいたらここまであれこれ日本のことを考えないですよ。こっちにいるから考えるようになる、考えざるを得なくなるのです。もっといえば、海外にいる日本人は、必然的にステレオで物を見ざるを得ないだけに、日本独自の文化をより普遍的なものに改良していく格好のポジションにいるのだと思います。
またオーストラリアにいようが、火星にいようが、日本人同士であれば日本的なメソッドで付き合いますし、日本的なメソッドから免責されるわけではないと思います。なぜかといえば、「日本人だから」という情緒的な理由ではなく、当事者間における意思疎通と対人関係構築においては、もっとも効率的な方法を用いるのが最も合理的だからです。日本人同士であれば言わなくてもわかることをイチイチ言う合う必要はないでしょう。無駄ですもん。また、察して先回りに相手にしてあげれるならば、言われるのを待ってからやるよりは時間的にも短くて済みます。「察する」原点にあるのは、「思いやり」であり、ひいては「愛情」という人類普遍の美徳の一つですから、別にこの能力を封印する必要はないと思います。ただ、日本人以外はこの能力に劣るので、日本人と同じように察してもらうのを期待しちゃいけないよというだけのことでしょう。
あと、オーストラリアに来られる人は、これらの根本的なパラダイムの変化を肝に銘じておいた方がいいとは思いますが、同時にあまり過大に考えすぎる必要はないです。西欧系の人間が自己主張が激しいと一般的にはいえても、現場においてはそんな一般論を木端微塵に打ち砕くもう一つのベクトルがあります。つまり「個人差」というやつです。オーストラリア人でも日本人以上に深いところまで思いやり、察してくれる人もいます。日本人でも全然その辺の気働きがきかない人もいます。ですので一般論をあまり金科玉条のごとく過大に思わない方がいいです。野球で言えば、ホームランバッターがいつもホームランばっかり打つわけではない。比率でいえばむしろゴロとか打ったりして凡退してる場合の方が多い。それでも他のバッターよりはホームランを打つ確率が高いということです。あるいは、右バッターの打球はレフトに飛び、左バッターだったらライトに飛ぶといっても、統計的な確率での話です。実際に常にそうなってるわけでもない。「その程度のこと」くらいに思っていて、あとは目の前にいる人間の個性を掴むことに傾注した方がずっと意味があると思います。
文責:田村
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