今週の1枚(03.02.24)
ESSAY/日本人と全体把握力
(前回の末尾)
思想や宗教に染まりにくい僕らは、それがゆえに個人の人格の核に「思想的確信」というものを欠いていますから、ともすれば「個としての情熱」というものが希薄になり、骨格のないフニャフニャした人格になり、大勢に流されながら、波間にただようクラゲみたいになってしまう可能性もあるでしょう。
しかし、反面、思想宗教というアルコールに酔わないで、いつもシラフでいられるというアドバンテージもあります。いわば「醒めている」という特質ですね。この醒めた特徴をもとに、僕らはどう自分自身をプロデュースしていったらいいか?それが本稿の主題だったのですが、前振りをしているうちに紙幅が尽きてしまいました(^^*)。続きは、また、後日の機会に。
ということで、今週が「後日の機会」です。いきます。
思想や宗教に染まりにくく、常にどっか醒めている人間のアドバンテージとしては、「周囲がよく見えやすい」こと、客観的視点を獲得しやすいんという点が挙げられると思います。物事というのは、概してちょっとクールに引いて見てたら結構見えやすいものなのでしょう。傍目八目とも言いますが、なにか特定の視点・立場・感情に囚われる度合が少なければ少ないほど、事実が事実としてクリアに見えるし、評価もしやすい。だから事実と事実と関連も見えやすく、ひいては全体の見通しがよくなるのでしょう。
その視界のクリアさを遮るのは、ひとえに「思い込み」ですよね。夫婦喧嘩は犬も食わないと言いますが、ファイトしてる当事者はえてして全体像が見えない。もう盛り上がっちゃって、感情や思い込みに囚われて、モノがよく見えなくなるのに対し、「所詮ひとごと」である他人には、「どっちもどっちだなあ」ってよく見える。「こんなヒドイことされた!」と本人はエキサイトしますが、他人から見れば「キミはキミで、それなりのコトしてんじゃん?」って見える。
思想や宗教に染まってしまうと、そのあたりの視界の清明さが損なわれる危険性があるのでしょう。
マルクス主義にかぶれると、全ての労働者は資本家に搾取されていることになってしまう。でもね、一回自分が他人を雇う立場になったら、「くそ、仕事なんかろくすっぽ任せられないくせに、そのくせ給料だけはしっかり取っていきおって、どっちが搾取されてんだか分からんわ」という気持ちにもなったりするでしょう。自分の持分を減らしながらも従業員を手厚く遇している会社だって、世の中にはあります。家族的共同体でやってるところもあるし、昔ながらの徒弟制度やら師匠=弟子の濃い人間関係は、決してマルクス主義のW= c + v + m 的な方程式だけでは解けなかったりします。まあ、これはマルクス主義の責任というよりは、「そもそも日本はそんなに資本主義ではなかった」と理解すべきなのかもしれませんが、いずれにせよ搾取されている労働者階級が立ち上がって革命を起こしなんたらかんたら的な世界観だけでは、この複雑な世の中は把握しきれない。把握しきれないのを素直に「ここ、足りんわ」と認めればいいけど、染まってしまうと認められない。だから、無理やり鋳型にはめ込むような形になり、段々現実から遊離していく。
民主主義という思想についても同じ事が言えるのでしょう。
西欧社会は民主主義が、日本よりは徹底しています。日本の場合は、民主主義といってもどこまでも観念的であって、民主主義のために死ねるか?というと、そこまで信奉はしてないでしょう。それは民主主義の不徹底として、まだまだ日本に残留放射能のように色濃く残っている封建主義的社会(=なにをやっても権威や系列大好きな家元的社会になっちゃう日本の組織構造とか)を温存している悪しき土壌でもあるのですが、反面、そこまで無邪気に民主主義が素晴らしいとも思い込めないから、民主主義を守るためなら戦争もOKとまでオーバードライブするのを踏みとどまらせてもくれます。「イラクは非民主的だからけしからん」といっても、アメリカ人がそう思うほど、日本人はそうは思えない。どうかすると、イラクにおけるフセインの存在は、世界におけるアメリカの存在とどっこいどっこいじゃないの?とすらクールに思えてしまうという。
このあたりのクールさなんですね。だから、日本人には、視野を広く持ちうるポテンシャルな可能性があると僕は思います。
ただし、ここで「ポテンシャル(潜在的な)」とあえて限定付けているのは、今現在の日本人の視野が広いかどうかは疑問だからです。いや、どっちかといえば狭いでしょうねえ。それは特定の思想に縛られているからではなく、単純にインプットが少ないからです。なんせ、世界でも珍しいくらいの単一民族・単一文化ですから、「ありとあらゆる人間の可能性」という視野の地平線はどうしても狭くならざるを得ないと思います。無理ないです。
ちなみに、日本が単一文化の単一民族かといえば、別にそんなことはないと思います。アイヌもいるし、琉球民族もいるし、在日朝鮮韓国人の人々はいるし、数は少ないけど外国人もいます。それどころか江戸時代には日本全国260余州といわれるくらい超多文化社会だったと言われています。明治新政府になっても、津軽人と薩摩人とでは通訳がいないと意思疎通できなかったといわれているくらいですから、言語的にも外国だったのでしょう。少なくとも現在のスペイン語とイタリア語よりも離れていたとは思われます。
江戸時代の各地方色の差というか、バラエティの広さというのは、僕も最近知ったのですが、これはもうかなり凄かったみたいですね。江戸時代というのは、ご存知のとおり徳川幕府が仕切っていましたが、幕府というのは後日の明治政府ほどの中央集権ではなく、大名同盟の首席というか、単に全国の最大実力者が徳川氏であるという程度だったみたいです。幕府の司法権は各藩内にまでは及ばず、江戸にある各藩邸に幕府の司法警察(=御用提灯持った人達ね)は踏み込めなかった。確か、忠臣蔵で吉良を討った赤穂浪士は、そのあとどっかの藩邸に赴き、幕府からその藩に連絡がいったのではなかったでしたっけ?あるいは、幕末なんかでも、志士たちがどっかの藩邸に逃げ込んだのなんのとやってますから。大使館の治外法権に似てますし、スパイ映画でスパイが大使館に逃げ込んだりするのと一緒だったのでしょう。
その意味では、江戸幕府というのは、現在の世界や国連におけるアメリカの立場に似てるのかもしれません。とにかく一番実力があって、逆らったら潰されるという意味では幕府もアメリカも「支配者」なのですが、だからといって世界の国々がアメリカの領土になってるわけでもないし、アメリカの法律が無条件で適用されるわけでもない、と。だけど、意向には逆らいにくいと。
そのくらい多様性があった日本社会も、明治維新以降、強力な中央集権国家となり、戦後もさらに中央集権であり続け、今日地方分権が叫ばれつつも、なおも原則は中央集権でしょう。まあ、そんな政治体制はここではどうでもよく、人々がどれだけ「オレ達は単一」だと思うかですが、これも行政やメディアによってさらに単一と思い込むことをエンカレッジされている部分はあります。本来、かなり多様な社会だとは思うのですが、自らその多様性を封殺しているところがあり、それが僕には勿体無く思えます。
ともあれ日本人の平均的意識では単一文化の単一民族でしょう。これはもうそう言い切っていいでしょう。通りの向こうを歩いてくる見知らぬ他人は、まあ十中八九日本人であることを予期しますし、その人に自分と同じ言語が通じることを当然のごとく期待しますからね。また、「日本語の通じない日本人」という存在をあまりうまく想像しにくいでしょう。この「どいつもこいつもオレと一緒」と自然に思えてしまう社会というのは、やっぱり「単一」なんでしょうね。
でもって、このナチュラルな単一性と、メディアに洗脳された単一性によって随分損してる部分はあると思います。単一社会であるという呪縛がかかってるから、好きな生き方がしにくいという面もそうですし、海外に出て単一性が破れた途端、何をどうしていいのかまったく分からずお手上げになってしまうという脆弱性もそうです。
あたりまえですが、世界には色んな民族があり、いろんなカルチャーがあり、いろんな人がいます。他の人間とコミュニケートするためには、「共通の土俵」にのぼることが必要です。同じ日本人同士だったら、同じ言葉を喋り、同じような知識を持ち、大同小異のライフスタイルをしてますから、かなり高度な、あるいはマニアックに細部な部分からいきなりコンタクトできます。同じ年代、同じ地域、同じ組織だったら、なおさらコンタクトはマニアックになっていくでしょう。でも、「象牙海岸からやってきました」という人とどうコンタクトをするかについては、壊滅的に経験不足だったりします。何をどうしていいのかわらかん、と。
一旦分からんと腹を括ってしまえばいいです。どんなに文化や言葉が違うといっても、そこは同じ人間、酸素を吸って二酸化炭素を
吐いて、一定量のゴハンと水と睡眠をとらないと死んでしまうのは一緒です。喜怒哀楽というものがあるのも一緒でしょう。それよりなにより、今この同じ時間、同じ空間に存在しているという点で大きな共通点があります。だから、ベーシックなところからコンタクトしていけばいいだけのことで、シャイにならないで自然に構えていればいいってことだと思います。
ただ、それでも子供の頃から異民族がごちゃごちゃ住んでて、国境線というものが日常的に存在して、異文化にもまれ、そのなかで育ち、その中で自分を主張することを覚えてきた連中は、やっぱり世界のことをよく知ってます。ヨーロッパ人なんか、やっぱりよく知ってますよね。だから、彼らの方が圧倒的に視野が広く、世界が広いんだろうなと思ったりもします。イギリス人なんか、どうかすると世界はもともと全部自分のモノだと思ってるんじゃないか、とかね。そういう連中に比べたら、海外出たばかりの日本人は、事実上の共通語になってる英語もろくすっぽ喋れなかったりするし、子供のようにひ弱な存在に思えるでしょう。
だから、こういった環境では、日本人が本来もってる「クリアゆえに広い視界」というアドバンテージは、活かしきれていません。どこまでいってもポテンシャルなままです。
それでも、海外に住んでますと慣れてきます。慣れるしたがって、世界の連中の、特に西欧の連中の、世界知識や経験の豊富さ、他者と堂々とわたりあっていける自己主張の明確さなど、尊敬すべき点は多々あることは重々認めながらも、なんか違和感を感じるようになったりします。「確かにこいつら、よくモノを知ってるし、経験もある。だけど、なんか本質的なところでアホちゃうか?」という気がしたりする瞬間があるのですね。あなたにはありませんか?
そう、海外経験のあるあなたには、こういう経験はありませんか?話をしていて、「お前は(ジャパニーズは)、何を聞いてもいつも "It depends "(それは場合によりけりだよ)しか答えない」と言われたこととか?うまく説明できないまま、半ば言い負かされそうになりつつも、「なんだよ、そんなに世の中シロクロつけられるわけないだろうが?シロクロつけなきゃ気が済まないのかお前らは?そんなに単純だったら苦労しないよ」って思ったりしませんか?
「日本人はYES/NOをはっきり言わない」とかいう話があります。
これは二つの面があると思います。確かに批判のとおり、僕らは何事についても自分の意見というものを持つ習慣が乏しいですし、それを他人に述べる準備もしてないです。それは、「個の確立」という意味ではマイナス面であり、冒頭で書いたように「大勢に流されるクラゲ」的側面でもあります。しかし、それだけではないんじゃないか。
僕らは第二の本能のように知っているのだと思います。世の中ではYES/NOでは解決しない問題もあり、YES/NOを言えるのだけど言ってはいけない局面もあり、さらに言えばYES/NOでやらない方が結果として上手くいく場合も多々ある、と。
僕らは、まず自分の意見がどうとかいう以前に、周囲の状況を知ろうとします。いま全体にどういう状況に置かれているのか、長期的には何が求められているのか、短期的には何が必要なのか、誰が求めているのか、それはなぜか、、、という複雑に入り組んだ状況と、それにまつわる人間関係を理解しようとします。それをひとあたり理解したうえで、自らの「なすべきこと」が、ある種論理必然的に決まってきます。
これは実践的には「場の空気」ってやつですね。僕らは、もう自然にやってるからあまり意識はしないだけど、これってかなり複雑な計算だと思います。自分の意見はとりあえずAなんだけど、露骨にAといってしまうと田中さんの立場がなくなるし、Bといえば折角自分を招いてくれた山本さんの期待に反することになる、さて、どうすべきか?ですよね。そこで、山本さんの期待に添いつつ、田中さんの面子も潰さない「うまい言い方」が求められるわけです。英語で、"win-win situaton"といいますが、お互いにメリットになるような言い方を模索するわけですね。
こういう発想は、全体主義的であり、ムラ社会的でありとかいう意見はあろうと思いますが、ここではその是非は問いません。僕らはそういう思考パターンに馴染んでるということです。この発想の核心にあると思われるのは、自分自身の価値観なり思想をわりと「空」にしておいて、まず全体の客観的状況として何がベストなのかを考える部分でしょう。チームプレイみたいなもので、まずチーム全体を考える。ここは一番ホームランを打って目立ちたいという主観的欲望はさておき、犠牲フライを打つことを心がけるみたいな感じですね。「1対0とリードされた8回の裏、ツーアウト満塁、バッターは今日不調ですでにツーナッシングに追い込まれている。さて三塁ランナーであるオレは次の一球にどう動くべきか?」ということで、全体状況を的確に把握しつつ、自分のスタンスを決める。
なお、「チームプレイ」という英語がある以上、西欧系でも同じような考えはあります。が、敢えてイチイチそう命名しているだけあって、特殊な環境の特殊なシチュエーションにおける戦略としてそうだというだけであって、ごく普段の食卓の会話レベルでまでそんなことは考えないでしょう。でも、日本人は考えるんですよね。「なんだか宮本さんが退屈そうだから、ここらでそろそろ彼の得意な話題でも振ってあげようか」とかね。
日本人が全体構造を知りたがる強さ、全体理解に対する欲求は強いです。日本の書店にはビジネス書が山積みされており、それらの多くは大企業の経営者や経営コンサルタントが読んでしかるべきような、トップマネジメントに関する秘伝書のようなものだったりします。それを、日本人の多くのビジネスマンは買ったり読んだり勉強会をしたりします。で、意地悪い見方をすれば、「キミが読んでも仕方ないでしょう?」というペーペーの人でも読むわけです。詳しくは知りませんが、バリバリのエリート幹部候補生はともかく、一般労働者はそんな小難しい本なんか読まないんじゃないでしょうか?というか、幹部候補生は最初からMBAをとったり、大学でそれなりに学んできますから、本屋で買った本をパラパラ、、なんてことは逆にしないかもしれません。
この日本的な傾向は、ビジネスマンに限らず、工場の工員さんにせよ、お店のウェイトレスさんにせよ、道路工事のおっちゃんにせよ、等しくみられるところだと思います。「とにかく与えられた仕事をやってりゃそれでいいのさ」的な仕事をしたがらないし、そういう態度で仕事をしてる人は職場で「使えないヤツ」と言われます。どんなに末端であろうが、全体状況を把握して、自分のなすべきことを的確に把握することを、日本では求められます。
日本が戦後奇跡的に復興したのも、この日本人の特性と無縁ではないでしょう。「今会社はシンドイんだ」って皆が当たり前のように全体状況を認識しているから、自発的にボーナスカットに応じたり、ガンガン残業したりしますからね。企業経営としては、こんなにロスが少なく、夢のような環境はないでしょう。そりゃあ、効率いいですよ。どの二等兵も士官クラスの能力を持ち、しかも奉仕精神あふれた軍隊なんだから、世界最強なのは当然といえば当然でしょう。
このあたりの「全体状況の把握」ということを、世界の人たちはあまり日本人ほどやらないような気がします。もちろん、人それぞれの個性差はあり、日本人顔負けなくらい「気ぃつかい」のオーストラリア人もいます。英語でも、"read between the lines"(行間を読む、言外の意味を汲み取る)という表現がありますので、まるっきり無頓着ということはありません。しかし、それでも全体的に言えば、日本人ほど気をつかわない。
これはもうどちらが良いというよりは、全と個のエネルギーの配分の問題なのでしょうね。西欧系の人が、まず自分の意見や好みがあり、それを全体においてどう表現していくかというルートを通るのに対して、日本人はまず全体状況を把握してから、もっとも適した自己のありかたを決めていく。日本の会議では、皆が同意する共通認識をひとつひとつ確認し、全景を埋めていって、最終的には出席者全員が「それしかない」という結論にもっていくように進んでいきます。個々人の意見をガンガン戦わせ、その戦いを通じてどちらがより適当なのかを考えていくパターンは、日本人には馴染みにくいです。
日本人の方法論だと、どうしても個性が希薄になりがちですから、「日本人は顔が見えない」という批判を浴びたりもします。が、日本人からみたら、西欧人の言うことを聴いていると、「よくまあ、そんな下らない意見を恥かしげもなく言えるよな」と思ったりもします。日本のおける個々人の成熟度はこの全体把握力であるのに対し、西欧系の人の成熟度は個の確立と自己表現であるから、日本人からしたら全体に整合しない的外れな意見をもつことが「恥かしい」ことであるけど、西欧系にとってみたら個人の意見を持たないことがまず「恥かしい」ことだったりするのでしょう。どちらが良い/悪いの問題ではなく、そういうギャップはあるように思います。
この全体把握力の強さと個性の弱さは、いろいろな局面で登場します。全体把握に長じている日本人は、仕事、特に事務処理などをやらすと抜群に上手かったりします。オーストラリアだと、このあたり、個性の差がワイルドですよね。例えば、教室で皆でなにかの書式に記入していて、出来た人から先に前に持っていってチェックを受け、OKだったら帰ってよしということをやっていたとします。この場合、前でチェックする人としては、出してくれた順番のとおりにチェックしますよね。先に出した人の書式を先にチェックする、と。チェックしている間に他の人がもってきたら、書類の山の一番後ろに廻すか、順に積み上げてもらい下の書類から順に取り出しますよね。ところが、書類の山に順番に積み上げさせ、その書類の山の上からチェックしていく人がいたりするわけですね、こっちでは。もう順番なんかメチャクチャになっちゃうから、先に出せば出すほど後回しにされてしまうという。こんなの、日本人から見てたら、「阿呆かお前は、脳みそついてるんか?」と怒鳴りたくなるのですが、そういう人もいます(もちろん一部ですが、一部でもいるというのがスゴイです)。
その他、「お前、ちょっと考えたらわかりそうなもんだろうが」ということで、イライラさせられることは多いですよ。日本人は子供の頃から訓練されてますから、こうするとAさんが困る、こうすればBさんが迷惑するという、「三手先を読む」みたいなことに長じています。長じているというか、もう当たり前になってしまっているから、特に長じてるとすら思わないでしょう。でも、長じてるんだと思います。西欧系の人もこれに長じてる人は長じてます。どうかすると平均的な日本人など足元に及ばないくらい有能な人もいます。が、個体差の開きが激しい社会ですので、ダメなヤツはとことんダメだったりします。このダメダメ度がえてして日本人の想像の範囲外だったりするわけですね。
反面、日本人の個性の弱さ、プッシュ力の弱さというのはあります。全体が気になってどうも自己表現に躊躇してしまったりね。日本人の言うことに "depends"が多いというのも、いろいろな場合や色んな意見を考えないと結論なんか出せないと僕らはごく自然に思っているからでしょう。たとえば、原発に賛成か反対か?というテーマでも、そんな素人がぱっと考えて結論が出るような問題じゃないだろう、結論を出すにはまだまだ自分は勉強不足であると思ってしまうのですね。そりゃ原発事故の悲惨さは多少は知ってるから、そこだけ見てれば絶対反対になるけど、日本人には「そこだけ見て、全体の意見を決める」という、スカスカで粗雑や意思決定方法が耐えられないのでしょう。
なんというのか、日本人の場合、考えなければいけない領域のキャパシティというか、チェック項目が多いので、それを全部埋めてからでないと個人の意見なんか出てこないと思ってます。最初の2,3の欄を埋めて、「あ、オレ、こっち!」と簡単に意思決定してしまうことに抵抗があります。でもって、ジャーナリストや研究家でもない限り、そんなに深く研究している問題なんかあるわけないから、「いやあ、私ら、難しいことはよくわからないんだけど、、」という言い方になってしまう。自分が現在わかっている範囲でどう思うの?という中間報告みたいな形であっても自分の意見というのを作るのが苦手、というよりそういう習慣がないのですね。
なんでそこで個人の意見を作らないわけ?というと、これは大胆な仮説かもしれないけど、日本人は「個人の意見」なんて、そんなに価値あるものだとも思ってないんじゃないでしょうか?中途半端に理解しているような人間の意見など、全体の方向性を決めるにあたっては、そう大して役に立つものではない、と。これ、バリバリにドライな見方をしたら、判断能力もろくすっぽないような人間の意見なんか、無視したっていいですもんね。だって客観的に役に立たないんだもん。それよりは、良く知ってる人に一任した方が良いだろうと。
ルネサンス以降の西欧的な価値観の究極にあるのは「個の尊厳」であり、「個」というものをいかに守り、充実させていくかという価値観で全てが始まってますから、民主主義という発想も出てきやすい。皆の意見は個として平等ですから、誰にでも発言の機会は保障しようと。でも、日本人はそんなに「個」が大事だと思ってない。個なんか、茶碗の中のゴハンの一粒に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。個の意見が、原則的にみな平等であるとも思ってない。その問題の研究に一生を費やしている人の意見と、そのへんの素人連中の意見とでは、明らかに重みに差があるではないかと。それが平等であるはずがないだろ、と。だから、「アホはすっこんどれ」という文化になっていくところはあると思います。
そこへもってきて、何度も言ってますが、日本人には思想や宗教に免疫があり、一つの考え方に頭からどっぷり漬かるということがないです。だから、ますます個々人の「強固な信念」みたいなものは薄らいでいきます。これはもともと免疫があるから、そういう全体把握力に長じているのか、全体把握を要請される均質的農耕社会だったから個体の個性は重視されなくなっていったのか、あるいは全然関係ないのか、そのあたりはまだ深く考えていません。
ここでいえるのは、日本人には体質的に深く特定の考え方に傾倒する度合が薄く、個体としての強烈なカラーや自己主張は薄いものの、全体を把握する力、志向性は強いんじゃないかということですね。
で、こういったベーシックな特質を、これから先、日本人はどうやって活かしていくか、です。
それこそが本稿の主題だったのですが、賢い日本人だったらもうこれ以上書くことも無いでしょう。「なるほどね」と全体が見えたら、あとは自分で推論していくのは強いですからね。アメリカの教則本のように、idiot proof のように、「どんな馬鹿でも理解できる」ように、ステップ1からフローチャートで書いてあげる必要は無いです。
というわけで、全体構造がわかると同時に、僕ら日本人はやることが沢山あるってことも分かりますよね。僕らのこの特性は、使いようによってはものすごいアドバンテージであると同時に、世界の人に理解されにくいという欠点もあります。「ものすごく深いことを考えてるから、逆に何にも言えなくなって、表面的にはアホみたいに映ってしまう」というリスクもあります。だから、場合によっては、多少アホアホでも、見切り発車で生煮えのままの意見を、「こうなんだよ!」と力強く言い切るようなテクニックも必要でしょう。これはもう、そういう人間になる必要はなくて(なったら日本人のアドバンテージがなくなる)、単純にテクニックとして割り切ればいいでしょう。
同時に、全体ばかり気をつかってしまって、そこで力尽きて、個人としての幸福を構築していく時間もエネルギーも乏しいという問題もあります。これはもう少しエネルギーの再配分を試みたらよいのでしょうね。まあ、それが簡単に出来たら苦労はいらないんですが。
さらに、「全体」を把握するにしても、日本の中の自分の周囲半径5メートルの社会での「全体」ではなく、今度は文字通り世界全体ですから、「世界はどういう仕組で、何がどう動いているの?」という全体構造、つまりは世界地理、歴史、政治経済、文化、の「お勉強」が待ってます。これも、まあ、簡単に出来たら苦労はいらないんですけど(^^*)。
「全体把握→個人の方針決定」という方法論は、この最初の「全体」を把握しそこなったら、あとは悲惨ですからね。戦時中のように、「全体」が世界全体ではなく日本国内だけに限定されていたら、国内が狂信的になってたら、じゃあ自分も狂信的になりましょうってな具合になっていっちゃいますからね。これはコワイです。あるいは、自分の所属している業界、その職場の慣行によって、不正なことまかりとおっていても、「そういうもんだ」という具合に思い込んでしまい、モラルハザード(悪いことを悪いと感じない)が起きます。それらは全て、把握しようとした「全体」が、全然「全体」ではなく、きわめて限られた一部に過ぎなかったことが原因です。中途半端に狭い世界を全体だと思うくらいなら、全体把握なんかしないで、個人の信念で突っ走った方がまだマシです。
なかなか難しいわけですけど、でも、Good Newsは、これらの課題の多くは、単なる知識とテクニックのレベルの話だということです。発想法や思想を変えろというのは難しいですが、知識とテクだったら単純に積み上げていけばそこそこのレベルまでいきますからね。それに、自己中心的だったのを全体に目配りできるようになれというのは人間的成長が伴うから難しいですが、全体志向だったのを「もうほんの少し、ワガママになってもいいんじゃない?」と緩めるのは比較的楽だと思いますよ。
というわけで、世界のあちこちで、どうも損をしてきたのではないかと思われる僕ら日本人ですが、もうこれだけ誰もが海外に住めるようになった今日、もう少ししたたかに新戦略を考えても良いのではないかと思うのでした。
もっとも、そうやって考えていくうちに、「全体把握に長じた洞察力ある日本人」というのがクラシックなモデルになってしまって、最近の日本人はどんどんその性能が落ちているという話もありますが、それはそれでまた別の話です。
写真・文:田村
写真は、Woolongong/ウーロンゴン。シドニーから南に約80キロほどいった町。
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