今週の1枚(05.07.04)
写真は、Rosebayの海辺のレストランで無言でエサをねだっている(らしい)ペリカン君たち。お坊さんの托鉢みたい。
遠くからみると、右の写真のように見えます。なんかユーモラスです。
既に何度もこのエッセイで書いてますが、僕は「情報」というものについてけっこう懐疑的です。「ふーん、『情報』ってなんかの役に立つの?」って。例えば、エッセイ20番の「情報という名の呪縛」、エッセイ96番の「いろいろあった」などです。 また懲りもせず似たようなことを、角度を変えて書きます。
情報が役に立つか?ですが、もちろん役に立ちます。天気予報にせよ、ニュースにせよ、健康診断の結果にせよ、なんにせよ事実認識に関するものは全て「情報」ですし、僕らの精神作用、僕らの意識、人格、僕らが僕らであることそれ自体が情報の集積だといっていいでしょう。そういう意味で情報を捉えれば、役に立つどころか、情報こそが全てといってもいいでしょう。
ただ、そこまで話を広げないで、いわゆる日常生活で「情報」といってる物事について言えば、僕らは情報偏重のキライが大いにあると思います。高度情報化社会なんて言葉がもてはやされて随分たちますが、高度情報化社会とやらになってなんかイイコトあったのかしらね。あふれかえっているのは商品情報やジャンク情報が多く、その代償として失ったものは、この世界のリアリティであり、生きている充実感ではないか。情報なんかそんな大したもんじゃないよ、そんなもんに頼ってると大怪我するよ、もっと言えば幸福になれないよとすら思います。役に立つ場合も勿論あるけど、情報ゆえにせっかくのチャンスをみすみす逃したり、成長の機会や、感動を減殺させてしまってるデメリットも相当多いと思います。
いわゆるオーストラリアの「情報サイト」をやってる僕がこんなこというのはナンですが、僕だからこそ言えるって部分もあるでしょう。はっきりいって、「APLACは情報サイトじゃないです」と言い切りたいくらいの気持もあります。「じゃあ、なんなのよ?」といわれれば、僕らが提示してるのは、「現実に対するイチ個人のアプローチの記録」です。時々地元の新聞から記事を紹介してますが、そこで僕が示しているのは、記事の内容もさることながら、「地元の新聞をちゃんと読めばこういうことがわかる」というアプローチの方法です。そして、その記事を読むことによって、現地に長いこと住んでいる僕が何を思うか、感じるかという主観です。このサイトに書いてあることは、全部僕の頭を一回通した主観情報です。バリバリ徹底的に主観に偏り、主観にこだわるからこそ客観が見えるという方法論です。言ってる意味わかるかな。
例えば、ちょっと前に中国で反日デモが激しかったことがありましたが、こんな事件があった、こんな被害があったという情報は大事ではありますが、全てではない。情報という形、ニュースという形にする時点で、その形になりやすいものだけが取捨選択されますが、僕はそういうのはそんなに細かく知りたいとは思わない。知りたいのは現場に住んでおられる僕と同じ日本人の普通の感覚です。「TVをみて、”へー、そんなことが起きてるんだ”と初めて知った」という現地在住の日本人も、これは沢山いると思うのですよ。「中国人の友達に聞いたら、あんなデモやってる奴はヒマな奴だけだよ、あいつらは騒げればなんでもいいんだって言われた」とかね。そのあたりの現実感覚が知りたいです。もちろんそういう断片が全てを代表してるわけではないですし、一部だけで全体を推し量るのは危険です。ただ、それはニュースなんかも同じでしょう。ニュースだって断片事実を述べていることに変わりはない。しかし、断片事実をもって全体を語らせようとするニュース情報の持つ特性から、どうしても現実の生々しい感触が抜け落ち、定型化されたパターンに注ぎ込まれ、そうして成型されていく過程で、本当のことが見えなくなるのが僕はイヤなんです。断片事実のクセにエラそうに肥大化していく過程で、断片が本来もっている真実の匂いが抜け落ちていく。
ニュース的定型、情報的定型、それに伴う「定型ゆえの虚偽」というのは絶対あると思います。
例えば、家の近所でなにか犯罪があったようなとき、ニュースでは「付近住民を不安に陥れています」って定型文句で言うけど、あれだって嘘でしょ。フィクションでしょ。そりゃ不安になる住民もいるだから全くの虚構とは言わないまでも、別に不安にならないし、そもそもそんな事件があったことすら知らないって奴も相当いるはずですよ。僕が大阪に住んでるときも、近所で通り魔殺人があったのですが、別に僕自身は不安なんてちっとも感じなかった。通り魔なんて非常に珍しい犯罪だし、かなり偶発的な犯罪で、それが一件あったからってまた近所であるってもんでもないでしょう。犯人が既に捕まってたら尚更です。僕らの現実的な感覚でいえば、「そういうことは滅多にない」と思ってますもん。それに忙しい日常では、そこまで考えもせず、「ふーん」で終わってるのが実際でしょう。
「いや、そんなことはないぞ、俺は不安でたまらんぞ」という人もいるでしょう。そういう人はいるでしょう。でも全てではないし、どのくらいの人が不安に感じ、どのくらいの人が感じないのかの正確な比率なんか誰にもわからない。そもそも不安とかいう人も、どれだけ真剣に不安に思ってるかどうか?そういえば最近日本列島各地で地震が起きていますよね。あれだけ地震が頻発し、いよいよ大地震が来るぞ、来たら都市部は壊滅だぞ、生存率低いぞと皆で言いながら、なんで東京とか都市部に住んでいるのですか?なんで都会のマンションをこれから買う人がいるのですか?なんでそんなに危ない日本に住んでいるのですか?本当に不安で、本当に恐怖を感じていたら、逃げたらいいじゃないですか。いきなり日本を離れられないにしても、地震の二次災害が少なそうなエリアに引っ越せばいいじゃないですか。そんなこといっても、会社があるとか、ローンの支払が残ってるとかいろいろな事情はあるでしょうけど、死ぬよりはマシでしょう?だから、不安とか口先では言いながらも、「でも自分だけは大丈夫」とか、「そうなったらそうなったときのことだ」と思っているんじゃないですか。それが真実じゃないですか。それが現実じゃないですか。
その昔、アイドルタレントの岡田由希子さんがビルから飛び降りて自殺したという事件がありました。それから2週間以内に日本全国で25人の自殺者が相次ぎました。これは事実です。そしてニュースでは、「後追い自殺」とか「自殺ブーム」とか、著名人の行動の社会的影響やら社会的責任やらという論議がありました。しかし、それは虚構でしょう。なぜなら、確かに25人の自殺者は出ましたけど、その頃の日本の統計では、月間平均50名の自殺者がいたわけです。だから2週間25人というのは全く平均的な数字です。実際、その年の自殺者数は、前後の年に比べてみても少なかったです。したがって、岡田さんの自殺が、他の自殺に全く何の影響をも及ぼさなかったと言い切るのは難しいにしても、全体の動向を左右するほどのことではなかったとは言えるでしょう。でも、「2週間に25人も自殺者が出た」という言い方をされると、いかにも影響が大きかったかのような錯覚に陥るでしょ。それが虚構だというのです。
だから、犯罪報道だって、「付近住民を不安に陥れてません」「多少不安を感じたようですが、それもまた日常生活に埋没し、遠からず忘れ去られるでしょう」と報道するのがより現実に近いんじゃないか。しかし、そんなこと言ったらミもフタもないから、ニュース的定型にまとめようとするのでしょう。各地の行楽ニュースなんかでも、「春の訪れを楽しんでました」とか「過ぎ行く夏を惜しんでいました」とかいうけど、ほんとにそんなに風流一色に心を染めてる人なんかどれだけいるというのだ。初デートにこぎつけたカップルは季節どころじゃないし、家庭サービスのお父さんは「あーもー、ピーピー泣きやがってうるさいガキだな」と思ってるかもしれないし、駐車場に車をとめたら「くそー、こんな原っぱで1時間500円もぼったくりやがって」と思っているでしょうし、そんな平安貴族が和歌を嗜むような時間を過ごしている人などマレでしょう。
こういった表現は、ぜーんぶ「お約束」なのでしょう。誰だって本気で受け取ってないです。まあ、クソ寒くてどうしようもない正月に、「初春」「新春」なんて言ってるのと同じです。太陰暦による旧暦正月は今の太陽暦2月中旬だから、まさに「新春」というべきだけど、明治維新のときに強引に太陽暦にしちゃったから、昔の季節感覚と現実のカレンダーの間にはどうしようもないズレが生じてます。今の元旦は昔だったら霜月(十一月)ですもんね。1月というのは、これから年間で一番寒い2月上旬を控えてるわけで、それを「春」なんていうのは大嘘なんだけど、国民一丸となってその大ウソの呪文を唱えるわけです。なぜか。お約束だから。
でも、お約束だとわかっているうちはいいですよ。
これが段々お約束だということすら分からなくなるのが恐いんです。
オーストラリアに来られる人が、「オーストラリアはこう」「ワーホリはこういうもの」「シェアはこう」という具合に先入観バリバリでやってこられるのを毎回毎回解きほぐしているのですが、そのくらいだったら可愛いものですが、段々その根底にある世界観や人生観の薄っぺらなリアリティの無さみたいなものに、ふと恐さを感じてしまいます。
もちろん、何も情報のない時点で、漠然とでもイメージを抱くのは悪いことではないし、間違っていようがなんだろうが何かのイメージに惹かれて行動するのは悪いことではないです。「とっかかり」としての先入観は悪いことではない。しかし、それを行動指針にしたり、それに呪縛されてしまうのだったら有害性の方が高いです。それを「情報」としてありがたがって金科玉条のように思うのだったら、そして、その「経典」に目がくらまされ、目の前の現実をちゃんと見られなくなったら何をしに来たのかわからんでしょう。
オーストラリアについて色んなことが書かれたり、語られたりしていますが、その多くは「まあ、そういう面も確かにあるけど、そればかりではないし、そうでない部分も結構ある」というようなものだと思います。それは例えば「ホームステイとシェアの違い」という認識にも現れます。ホームステイは、両親に子供が揃ったいわゆる「ファミリー」で、ファミリーの一員として迎えられ、家族的団欒のなかで暮らすことであり、シェアは若い人達だけがお金を出し合って共同で暮らすことだという認識が割合と行き渡ってると思いますが、「商品化されたイメージ」としてはそうかもしれないけど、現実ではない。
仕事柄、ホームステイやシェア先に皆さんをお送りしたりしてるわけですが、累計で言えばもう700名以上、つまり700軒くらいオーストラリア人の家の中を見てるわけです。その経験で言えば、ホームステイとシェアの本質的な違いは殆どなく、強いていえば「ゴハンがついているか、ついていないか」だけじゃないかと思います。ステイがファミリー構成で、というのも現実に反していて、半数ないし半数以上のステイ先が、母子(父子)家庭であったり、子供なしの夫婦、老夫婦、一人暮らしだったりします。33歳の男の学生さんが、31歳の独身男性の家にホームステイしたという実例もあります。オーストラリアの離婚率の高さと、いわゆる「巣立ち」の早さを考えれば、別に不思議なことでもなんでもありません。逆にシェア先がファミリーであるという可能性もあります。
「オージーの家庭の中で楽しい異文化体験!」というのは、間違ってはいないけど、それは広告情報です。
現実に対するアプローチとしては、例えば、ステイやシェアの本質は何か、なぜ彼らはそういうことをするのかを考えることだと思います。本質は、経済的側面で言えば、空き部屋という「遊休資産の有効利用」ですよね。部屋が余ってるから他人を住まわせてそれで賃料を得よう、家計の補助にしようという。もちろん、人間の行動は経済的理由だけではなく、世界からきた学生さんを住まわせることで自分の子供達に小さな頃から学習体験をさせようという教育的意味、一人暮らしは味気なく誰か気の合った人と暮らした方が楽しいという精神的理由もあるでしょう。はたまた、女性の一人暮らしは物騒だから、治安対策として複数人で住もうということもあるでしょう。
他にも色々な個人的な理由があるでしょうが、少なくとも、これらの理由の有無やレシピーは個々人によって全く違うということは言えるでしょう。強烈に洗脳でもされない限り、みなが同じ考えて同じことをすることなんか社会的にありえない。だから、ステイといい、シェアといっても、その内実は千差万別であり、結局共通するフレームワークや特徴は、「契約内容」という無味乾燥な骨子になってしまうでしょう。そして契約内容でいえば、一般的にはステイの場合は朝晩(週末には三食)のゴハンが用意されているということであり、シェアはそうではないということです。簡単に言えば、賄い付間借りがステイで、ただの間借りがシェアだということです。といっても別にそういう法律があるわけでも、そういう統一定義があるわけでもなく、そういう意味で使われている場合が多いということです。
付け加えれば、オーストラリアは今不動産価格が非常に高く、不動産バブル状態になってるのは再三ここでも言っています。ゆえに、不動産価格の高い都市近郊においては、多くの人々が膨大な住宅ローンを返済を行っていると推測されます。それから考えればホームステイをやる理由のうち、「家計の補助(ローン返済の一助)」という理由が、以前よりも高くなっているんじゃないかという推測も可能でしょう。そして、その傾向は不動産価格の高い都市部の方がより強く、田舎にいけばいくほど相対的に弱くなっていくのではないかという推察もできるでしょう。そういった背景事情からさらに考えていけば、「学校や都心から至近距離にあって同時にアットホームな家庭」というものは、現時的にはなかなか難しいだろうということも思い当たるでしょう。
また、もともと共働き率の高いオーストラリア家庭で、ローン返済に追われ、子供の教育費なども嵩んできたら、ますます共働き傾向が顕著になり、両親ともにクタクタになるであろう、だから英語もろくすっぽ喋れない学生さんの相手をしてる時間的・精神的余裕はますます無くなっていくんじゃないかという推測もまた出来ますよね。そして、「もうイチイチゴハンなんか用意してられない」というケースも多々出てくるでしょう。それは東京に住んでいる日本人家庭の実体とそう変わるところはないでしょう。というわけでホームステイに入ったとしても、毎日テーブルに冷凍食品が置いてあって「チンして食べてね」ってことになったとしても、僕は不思議だとは思わない。また、ゴハンを毎日を作るなんてことはできないから、もうホームステイは無理だ、ゴハンなしのシェアの方が楽だというケースもあるわけです。だから、ファミリーであってもシェアメイトを募集するというケースもあります。
何を長々書いているかというと、要するに、ああも言えるし、こうも言えるということです。
日本の家庭ですら、その居住形態は千差万別であり、家の中のルールなんかもバラバラ、もちろん性格も個人個人で全部違います。あなたが日本の家庭にステイするとしたら、「どこに入っても同じ」だとはまず思わないでしょう?単一文化の日本ですらそうなのですから、世界に名だたるマルチカルチャルなシドニーにおいては、もう暴力的なまでに個人差、家の差が激しいであろうことは、これまた簡単に予測できるでしょう。だから、「ホームステイとはこういうもの」「シェアはこういうもの」という類型的なイメージが、いかに根拠の乏しい、いかに現実離れした妄想に近いかということも、ちょっと頭を働かせれば分かると思います。
僕が言いたいのは、「ちょっとは自分の頭を働かせろ」ということですわ。
自分の頭で考えること=色んな背景事情を推測し、仮説をたて、現実にあわせて検証するというのは、生きていくための基本中の基本でしょう。それが現実に対するアプローチというものでしょう。あなたが無人島に流されたとか、原始的な状況で生き抜いていかねばならなくなったら、これが出来ないと飢死します。一日のうち何時ごろのどこそこの入り江に魚が多いとか、このケモノ道を獲物が通るとか、風上に匂いを残したら逃げられるとか、あらゆることを頭を振り絞って考え、実行し、失敗し、成功し、法則性を発見し、効率的に食いものをゲットできるようにならないと生き残っていけない。そして、この原理は、形は違っても、現代社会においても全く同様です。ビジネスだって、こういう押し付けがましい広告をすると却って客は離れていくとか、そこまで謙虚になってたら無視されちゃうとか、最初にキチンと言っておかないとトラブルになるけど、あんまり言い過ぎると引かれてしまうとか。男女関係だって、よかれと思ってやったことが大体裏目に出たりしますし、いいカッコしようとして寒くなってしまったり、爆笑されたりとか、考えて→実行して→失敗して→また考えて→懲りもせずにトライして→今度は成功する、という過程を経るでしょう。それがすなわち「生きていく」ということの実体でしょ。違いますか。
ホームステイでも、「こんな筈じゃなかった」ということは、そりゃ起きるでしょう。
そして、そのときが「学びの機会」として一番大事なんですね。そもそも、そんないい加減な広告イメージに乗せられてる自分が馬鹿だったんですよ。上記のようにちょっと頭を働かせればわかりそうなものでしょ。また、「こんな筈では」と思う内容が具体的に何か、それはどういう事情によって生じているのかを分析する。それで「そりゃそうだよなあ」って分かれば、イメージから現実へ脱却できたのですから、ものすごく貴重な「成長」をしたわけですよ。Welcome to the real world! ですよ。シャンペン開けて祝ったらいいです。また、承服できない問題点があるなら説得的なクレームをするとか、話し合うとか自力救済をなすべきでしょう。そこで学びもせず、また話し合いやクレームをする根性もない人が、日本人同士固まってブチブチ愚痴を言い合ってたりする風景は、僕は、情けないと思いますし、同情する気にもならない。「生きるための力量」の乏しい人間が、正しくドツボにはまってるだけでしょ。
また、そういう人に限って「せっかく高いお金を払ったのに」とかいうフレーズで文句言ったりするようですが、その人にとっては、「生きる」ということと「商品を買う」ことがイコールなんですかね。そこをまず問いたいですよね。それに「高いお金」とかいうけど、シドニーの高級ホテルに泊まったら一泊200-300ドルはしますよ。素泊まりで。それを7日間ゴハン付で220ドルかそこらという金額が「高い」ですかね?アコモデーションという意味では破格に安いと思いますよ。また、それを4週間で900ドルくらい、つまりは8万円くらいですが、これって絶対金額としてどうよ?と思います。高校生が年賀状配達のバイトをやって必死に貯めたらなら格別、30歳前後にもなって100万以下の金額でギャーギャー言うのってみっともないぜよ。「ふーん、そんなに甲斐性ないんか?」って僕なんかは思っちゃいますよ。「100万以下ははした金、授業料としては安いもんですよ」というセリフくらい、本当にプライド持ってるなら言ってみなはれ。同じ年頃で億単位の金を動かしてる奴も世間にはゴロゴロいるんですから。勿論、貧乏であることは恥ではないし、病身の家族を抱えてとか、ハンディキャップを負ってとかいうなら、心底エライなあって尊敬しますし、1円たりとも無駄にすべきではないですよ。でも、日本人で海外に来てる奴なんてのは、五体満足で、誰かの生計を支えねばならないという義務からも解放されてるケースが多いわけで、基本的に恵まれてますよ。
僕が実際にお世話をする場合は、こういった事情を事前に言いますし、「それでもしたいか?」と聞きますから、目立ったトラブルは少ないです。またこういった背景事情や人間力学みたいなものをすっと理解できるだけの人間的に成熟に達している人は、そもそもそんなにトラブルにならないです。
あと、「海外で仕事をしてみたい」というのもよくある「呪文」だと思います。
これもなー、なんだかなー、なんでそんなこと思うのかなーって思います。ぶっちゃけた話、仕事はどこでやろうが仕事です。つまりそんなに面白いものでも、カッコいいものでも、美味しいものでもないです。
これも今まで述べたことと同じく、ああも言えるし、こうも言えるわけだし、そのどれもが正しい。つまり現実は思いっきりバラエティに富んでいて、複雑だということです。「海外で仕事をする」ということの意味内容は、「国内で仕事をする」といったときの無内容さ以上に無内容です。南極観測船に乗るのも、イラクに自衛隊員として派遣されるのも、南米でコーヒー農場で働くのも、「海外で働く」ことに違いはないですから。
だからこれも「イメージ」なんだろうなって思います。海外の方がバリバリキャリアを生かせるとか、自分らしい生き方が出来るとか、そういう幻想があるみたいだけど、確かにそういう側面も一部ではあります。明るく、溌剌と海外で働いている日本人だって沢山居ますけど、別に明るく溌剌と国内で働いている日本人だってその数百倍いるでしょう。歩合比率で言うと、海外の方がいいかどうか、一概には言えないですよ。どっちかといえば歩合比率は悪いんじゃないかな。
またオーストラリアという国は、そんなに仕事をするための国じゃないですよ。キャリアにもなりにくいし。アンビシャスなあなたはアメリカや、その他それぞれの専門分野で本場と言われる国に行った方がいいでしょう。僕もオーストラリアで仕事をしている日本人ですし、まあ自営ということもあり、自我を殺すことなく好き勝手やってる方だと思います。それでもね、別に仕事したくてオーストラリア来てわけじゃないですもん。オーストラリアは、僕が思うに、生活をエンジョイするところであり、生活のためにお金というものが必要だからしょうがなく働くって感じです。
それに海外で働く日本人の大多数は、日本語が使えること、日本人であることが最大のセールスポイントになりますから、やっぱり日本から逃れられないですよね。なにか世界に通用する手に職があれば話は別ですけど、それですら日本人であることや、日本とのつながりはビジネス上メリットですから、どっかしら日本とのつながりはあります。例えば、シェフなんかは手に職系ですけど、やっぱり日本料理がメインになっていくでしょう。美容師さんなんかも永住権が取りやすいから多いですけど、やっぱり日系の雑誌に広告を出し、日本人顧客が多いでしょう。別にそれは悪いことではなく、ビジネス戦略としては至極まっとうな話だと思います。仕事ってのは遊びやファッションじゃないんだから。
手に職がなく一般事務とかになれば、やっぱり日系企業になるでしょう。あるいは外資企業でも日本市場を意識してるような場合が多いでしょう。やっぱりそれだけ英語力のある日本人が少ないのと、仮に英語が完璧だとしてもそれでスタートラインだから、あとはこれまでのキャリアとかスキルの勝負になり、そうなると昨日今日やってきた「よそ者」は弱いですよ。日系企業になっちゃうと職場環境は、それなりに日本っぽくなります。場合によっては日本以上に日本になりますよね。また、日本人社会というムラ社会が強固に出来てたりして、誰もが誰もを知っているという、日本以上に自由度がなかったりしますよ。それはちょっと覚悟しておいた方がいいかも。
それに働くにしてもビザという鬼のような難関があります。オーストラリアの労働ビザは、いまや永住ビザよりもゲットしにくいと言われてますし(ケースバイケースですが、もちろん)、永住権を取るのでなければ、ワーホリや学生ビザなどで働くみたいな感じになろうかと思います。しかし、ワーホリは3ヶ月、学生ビザは週20時間という制約があるから、結局はフリーター的な仕事しかないです。「キャリア」というほど輝かしいものは少ない。
一般論として、クールにクールに考えれば考えるほど、他人の国にやってきて、母国でやるほど面白い仕事が出来るとは思えないですね。同じことをやっても、収入的にも割損な場合が多いでしょう。一番いいのは日本で採用されて現地に駐在することですよ。ペイはいいですから。未だに公務員とかでも、現地採用の給与は本国(日本)採用の半分だそうですからね。一番美味しいのは、母国でバリバリやってたのを、海外からスカウトされるような場合でしょう。客員教授とか。まあ、自分で現地で仕事を探すにせよ、駐在やらスカウトされるにせよ、いずれにせよ「母国時代にバリバリ鳴らしていた」って実績が必要です。母国でぱっとしないから、海外で一旗上げるというわけには、現実はいかない。そりゃいくわけないですよ。言葉でハンデを負い、コネもなく、ビザもなく、、じゃあ、マイナス要因の方が多いですからね。
なんだか海外に関する幻想を次々に叩き壊しているみたいですけど、ええ、そうです、叩き壊してるんです。幻想死すべし、です。
なぜ幻想は壊れるべきか、そこから本当に始まるからです。
未知なものに対して勝手に思い込んだり、幻想を抱くのは、ある意味、人間としては当然だと思うのですよ。だって知らないんだもん、わかるわけないんだもん。知りもしないことを正確に予想することなんか出来ないし、正確に予想できる程度だったら「未知」でも「冒険」でもないから、逆にあんまりトライする意義もないのですな。
勝手な思い込みは、現実に触れることで一瞬に崩壊します。岩石に生卵をぶつけるように、ペシャッていって潰れます。それでいいのだ。問題は潰れたときに、ちゃんと現実をみようとするか、学ぼうとするかです。それは偉大なる出発点であり、そこから全てが始まり、この世界の奥行きとか、陰影とか、複雑でザラザラした手触りを身体で覚えていくのですね。学習作用というのはそういうことでしょう。
先ほどホームステイといってもバラ色なわけではないよと書きましたし、海外で仕事をするのは本国で仕事をするよりもトホホな状況が多いよと書きました。だからといって、するなというつもりはないです。どんどんやってください。勝手な幻想もどんどん抱いてくださいな。現実に触れて学べばいいんだからさ。
別に幻想を抱くのはステイとか海外就職だけじゃないです。それこそ恋愛だろうが、結婚だろうが、一般の就職、進学、なんでもそうです。一個の人間が100年足らずのタイムスパンで、この巨大な世界を知りきることは不可能です。1万分の1もわからんでしょう。だから、僕らは、常に未知なものに挑戦し、知らないから勝手な幻想を抱き、現実に触れてペチャンコになり、それで学ぶということの繰り返しです。一生その繰り返しです。俺もお前もみなアホやねんな、アホは失敗して覚えなあかんねん。
そして現実は、ものすごく、ものすごく巨大です。ホームステイだってめちゃくちゃ理想的なところにいくかもしれないし、その可能性だって十分あります。海外で働いている人だって、思いっきり充実してる人も沢山いますし、個人的にも知ってます。でも、そうでない人も沢山いるし、なんだかなーって場合も多いです。どっちも本当なんですよ。それをどっちか一つの認識に統一しましょうってのが無理というか、考えるだに愚かしいです。Don't even think about it. それって、オーストラリアにたまたま1日滞在してその日が雨だったら、オーストラリアは一年中雨が降ってるといい、その日が晴れだったら一年中晴れてるといってるようなものです。現実は、晴れの日もあれば、雨の日もあり、曇りの日もあれば、夏の晴天にいきなり雹が降ってくる日もある。「いろいろある」というのが正解です。
ただ、この世に生まれて20年以上生きてたら、もうちょっと学んでいてもいいだろうって部分もあるのですね。ホームステイがいかにも和気藹々とした楽しいステイであるかのように広告したり説明したりするのは、僕は全然悪いことではないと思います。そりゃ広告だもん。それに100%ダメダメなものを良いといってるわけではなく、「いろいろある」んだからバッチリなケースも多々ありますからね。だけど、「いろいろある」んだから、今ひとつ波長が合わないという場合もあるでしょう。それにいずれにせよ、オーストラリア人の現実の生活空間に行けるという意味では契約内容は果たされているのだし。でも、そんなことをイチイチ説明する義務があるとは僕は思わんです。そこまで客の知性を馬鹿にしてはいけないと思うのですね。「そのくらい、わかれよ」って感じ。
じゃあ、なんでお前は今こういうことを書いているのか、お前が一番馬鹿にしてるんじゃないか?って言われるかもしれませんよね。そうなんですよ、それが問題なんですよ。僕は、人間というものはそこまで馬鹿じゃないと、今の日本人も馬鹿だ馬鹿だと言われているけど、そこまで阿呆じゃないだろうと思っているのですよ。でもね、もしかしてそれこそが「幻想」なんじゃないかという薄気味悪い思いをすることもあるのですね。もしかしたら、本当にそこまで馬鹿なのかも、、、と。
せっかく現実世界に触れているのに、それでもまだ現実を見ようとせず、壊れてしまった幻想イメージにしがみついてる人も、いないわけではないです。こういう人は結構キツいですよ。いや、本人にとってキツイ人生になっていくだろうなってことです。だって、幻想が潰れたときに学ばなかったら、ほんと幻滅の失望感しか残らないわけじゃないですか。そこで学ぶから、洞察力をはじめとする人間力が徐々にアップしていって、その後の人生、そうそうミもフタもない失敗はしなくなるわけですよね。それが大事なんですよね。孔子大先生も言ってるじゃないですか、「過ちて学ばざる、これを過ちという」と。でも、そこで学ばないなら、将来のリスクは一向に減らないし、たたひたすら幻想→幻滅の繰り返しの人生になっていくわけでしょ?オートマティックに不幸になるようなもんじゃないですか。
それに、幻想という名の「目隠し」が外れて、現実が目に入ってきますが、そのときに、それまでチマチマ抱いていたいい加減で薄っぺらなイメージなんか話にならないくらい巨大で複雑な現実が見えるわけですよ。この現実の方が百万倍面白いんですよ。無知な自分が勝手に思ってた貧弱なイメージなんか almost nothing です。
だから幻想死すべし、なんです。現実の方が遥かに面白いから。楽しいホームステイライフ!みたいな幻想が、現実のギスギスしたホストの夫婦関係やらでぶっ壊れたとします。でもね、そんなディズニーランドみたいな嘘臭いイメージライフよりも、現実に目の前で展開されている夫婦喧嘩の方が面白いじゃないですか。こんなもん、滅多に見れないですよ。外国の家の中のトラブルなんて、映画でみるくらいしかないのが、目の前で展開されてるんだもんね。リアルファイトだもんね。そのうちお父さんの言い分とかお母さんの言い分とかがわかってきて、「ははあ」とストーリーが読めてくれば連続ドラマみたいなものでしょう。浮気がバレてドンパチやってる家庭なんかも、僕は見てみたいですな。「オーストラリア版嫁と姑の冷たい鞘当」みたいなのは現実に見たことがありますが、非常に興味深かったですね。「ああー、やっぱりそうなんだ」って世界がどんどん立体的に見えてくるから面白い。
ある程度責任ある仕事をしてる人だったら分かると思いますが、学生時代になんとなく抱いていたイメージなんか、現実の職場では木端微塵に打ち砕かれるでしょう?でも、その代わり、学生時代には想像すらしなかった、複雑で巨大な世界がひろがっているでしょう?それはもう一言ではいえないでしょう。
こんなに豊かで、こんなに変化に富んで、こんなに融通無碍で不定形で、こんなにリアルな感動があって、そしてなによりもインタラクティブなもの、つまり自分自身もそれに関与できることが目の前にあるのに、それが見えないで、古びたイメージを後生大事に抱えているのは、ある種病気なんじゃないかって気もします。まあ、病気というと言い過ぎかもしれないけど、精神傾向に独特の偏りがあるのは確かでしょう。二次コンみたいなものですよね。可愛らしい女の子を描いたマンガ世界にしか欲情できず(萌えず)、現実の生身の女性には触れられないってやつです。そりゃ、現実の女性は、勝手に思い浮かべた幻想(妄想)のように動いてくれないですよ。あんなに可愛くないし、あんなにナイスボディじゃないし、あんなにツボをついた癒しの言葉を吐いてくれないし、あんなこともしてくれないし、こんなこともやってくれませんもんね。そりゃもう、場合によっては、ひたすら面倒くさい存在だったり、理不尽な怪獣だったりするわけですよ。でも、現実の方が面白いでしょ。「女の子はこういうもの」なんて到底一言で言い尽くせない巨大な宇宙がそこにあるわけですよ。そして、実際につきあったり、結婚したりした連れ合いは、「女は」なんて匿名的な一般論とはかけ離れた、もっと具体的な名前をもった具体的な存在でしょう。しまいには性別すら、その人の属性の一つに過ぎないくらいになります。
それと、本当にこのエキサイテイングな現実に触れていたら、「ホームステイをした」という表現では思わなくなるでしょう。もっと個別具体的に、「ジョンの家に住んでた」という形で認識されるはずです。それを第三者にわかりやすく説明するときには、一般名称である「ホームステイをしました」という言い方になるけど、そういう認識で自分自身思ってるわけではないでしょ。
そうそう、子供が出来てハッピーな人は、他人に対しても自分の子供を名前で呼ぶでしょ?「ウチの次男が」「娘が」とかいわずに、「ウチの健太は」「沙弥香も今年で幼稚園で」とかね。その子を愛していればいるほど、「ウチの子」という一般名称でよそよそしく呼ぶことに抵抗があるんじゃないかなって推測します。ほんとのこというと、第三者にいうときは、それはちょっとルール違反なんじゃないかって気もしますけど(そんな固有名詞で言われたってわからないし、他人の子供の名前なんか興味ないから覚えてないよって)、微笑ましいから許します。
現実世界に入っていけばいくほど、一般的なイメージからは遠ざかるし、一般名詞的な表現ではモノを考えないです。僕も、こういうエッセイの場ですから、「オーストラリアに住んでます」と書きますけどね、普段暮らしてるときにそんなこと思わないですよ。「このあたり」の「この家」「ウチ」で暮らしてるだけですよ。今日本にいるあなただって、「ワタシは今、日本に住んでいます」と日々思いながら暮らしてますか?「私は東京都民です」とか自覚的に思ってますか?仕事だって、「いま”仕事”をしています」って抽象的には思わんでしょう。「1時に山本さんが来るから、それまでにこれプリトアウトしておかなきゃ」とか具体的に思ってるでしょ。
長くなってしまいました。
まあ、結論的に言えば、勝手に幻想を抱いて、勝手にやってきてください。その上で現実に触れて幻想が生卵のようにペシャッと潰れてください。さあ、そこからが本当のスタートです。Welcome to the real world ! この巨大な現実世界にモミクチャにされて、滑って、転んで、泣いて、へコんで、落ち込んで、ホッとして、笑って、楽しんでください。そして学んでください。
The world is your oyster.(Shakespeare)
文責:田村
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