今週の1枚(03.03.10)
ESSAY/いろいろあった
世の中には説明できないことが沢山あります。
といっても心霊現象とか超能力とかそういった類の話ではなく、普通の日常的な物事についてです。それを実際に経験したり、知ってる人に対してでないと、なにをどう上手に表現しようがなかなか伝わらない、ということです。
ワーホリでこちらに来たばかりの人が、「一年こっちにいるってのはどんな感じなんでしょうね?どんな具合になるのでしょうか?」と尋ねたとします。聞きたくなる気持ちはわかります。誰だってこれから自分の目の前にどんな将来が展開されていくのか知りたいでしょうから。その質問に対して、一年間のワーホリ生活を終えた人が答えようとします。彼は答えられるか?というと、答えられないんじゃないかなあって思います。いろいろあり過ぎてしまって一口では言えないという。
もちろん断片的に「こうだよ」と言うことは可能です。良いこと、悪いこと、楽しいこと、イヤなこと、面白いこと、詰まらないこと、そういったエピソードを言うことは幾らでもできるでしょう。また、一年の感想を、特別なテーマから、つまり「一年で英語はどのくらい上達するか」という形で言うことも可能でしょう。はたまたちょっとヒネった「気のきいたコメント」を出すことも出来るでしょう。
しかし、こういった「ちょっとした話」を単純に抜き出して提示しても意味がないというか、逆に変な誤解を与えてしまいそうで、それが恐いという面もあると思います。例えば、治安について「こういうメにあった」「ああいう話を聞いたことがある」とか、それなりのことは答えられるでしょう。でも、「へえ、オーストラリアって結構怖いところなんですね」と理解されてしまうと、それは違う。「そういうこともあった」ということと、日常二四時間全てそれで塗りつぶされているということとは全然別物だったりしますから。
ワーホリを1年終えた今現在、リアルタイムに感じていることを、そのニュアンスの襞まで含めて正確に伝えるのは不可能に近いでしょう。その不可能さが彼をして絶句させてしまうことは、往々にしてあると思います。そして、まあ、遠くを見るような目で、「まあ、いろいろあったよ」と言ったりします。
今現在大学におられる人は、後輩の高校生から「先輩、大学ってどんなところですか?」と聞かれたらどう答えますか?高校世界しか知らない人に、大学世界の状況やそこに身をおいて数年過ごした人間がリアルタイムに何を感じるかを、バランスよく、正確に理解させることが出来ますか?僕はできないと思う。もしそれがある程度成功できるほどに語れる人は、小説家などプロの表現者になれるでしょう。あるいは、小学校3年生くらいの子供に、「おにいちゃん(おねえちゃん)の中学高校時代ってどんなだった?青春はありましたか?」って聞かれたら、やっぱり「うーん」と考え込んでしまうでしょう。
同じように、社会人としての経験を積んだ人が、大学生に「社会に出るってどんな感じですか?」と聞かれたときも、「うん?まあ、いろいろあるよね」などと、言っても言わなくても同じという曖昧なことしか言えないだろうと思います。
ワーホリや留学で来られる方の仲には、大学を一年休学して来られる人が多いです。まあ、日本も就職難ですし、無理ないですよね。また若いうちに色々世間を知っておくのはいいことだとも思います。でも、彼ら21,22歳くらいですから、僕の年の半分ですよねー。若いっていうか、僕が年をとったのですけど、ふーん、半分?ふーん、そりゃまたすげーやってな感じですね(^^*)。
雑談で、就職話が出たりするのですが、「うーん、社会に出て働くっていうのはねー」とお答えすることもあります。ムーミンパパのように「いいかい?ムーーミン、男にはね、、」などと優しく説得的に言うことは出来ないのです。どうしても、「まあ、いろいろあるよね」みたいな言い方になっちゃうのですが、それでも何とかお伝えできるものは伝えたいなあとは思います。
「社会に出て働くっていうのはねー、うーん、、、」などと考え込みながらよく言うのは、「あなたが今ここでパスポートをなくして、おまけにサイフもなくしたら、すごく不安とストレスを感じるでしょう?社会に出るってのは、ときによってはその何倍ものストレスを絶えず感じ続けたりするようなものです」とか答えたりします。
えー、そんなに社会ってハードじゃないよ、ちょっと大袈裟だよ、と社会経験者のあなたは思うかもしれない。でもね、パスポート無くしたって再発行してもらえばいいんだし、お金もまた日本の家族に頼んで送ってもらえばいいだけのことでしょ?全財産なくしたっていったって、サイフにはいってる現金くらいのもんだし、たかだか数万円レベルでしょ?被害レベルもたかだかそのくらいで、しかも対処方法も明確になってるし、その対処さえすれば十分リカバーできるわけでしょ。こんなもんストレスのうちに入らないんじゃないですか?少なくともあなたがやってる毎日の仕事のハードさに比べてみたら?
昔むかし、日本がまだバブル時代だったころ--なんかもう「江戸時代」みたいな時代的懸隔を感じますが--、バブルの頃は夜にタクシーがつかまりませんでした。誰もが飲み歩いて贅沢して、誰もがタクシーに乗って帰宅してたような時代ですから、夜更けにタクシーをつかまえるのは難事業でした。タクシー難民なんていわれてたくらいですからね。でもって、同じように飲み歩いて、友達の車で大阪は夜のミナミをノロノロ進んでいたときのことです。道行くタクシーの前に、自殺か?と思えるような勢いで飛び出してきてストップさせて、運ちゃんに土下座せんばかりにしてタクシーを必死に確保している若いビジネスマンがいました。
まあ、当時としてはよくある風景ですね。おそらく彼はどっかの会社に勤めていて、今晩は接待だったのでしょう。そろそろ場もおひらき、ないしは次の河岸に移動というときになって、一番下っ端の彼は、「おう、○○、お前ちょっと外に出てタクシーつかまえてこい」って命令されたのでしょう。接待先のお客さんを待たすわけにはいきません。そんなことすればボコボコにされます。まあ物理的にボコられはしないでしょうが、「使えねーな、お前は」と吐き捨てるように軽蔑されるでしょう。夜の路上に出た彼は、タクシー難民の群れがウジャウジャひしめきあってるのを目の当たりにし、これはマトモな手段ではあと数分でタクシーをつかまえるなんて到底不可能だと知るでしょう。そこで、思い余って、自殺的飛び出しをして、運ちゃんに「アホンダラ、死ぬ気か、おんどれ」と罵倒されながらもタクシーをつかまえるということになります。朝も早よから出社して、キリキリ働いて、夜は夜で遅くまで接待し、好きでもない演歌を嬉しそうにカラオケで歌い、午前0時を廻ったら路上でカミカゼアタックです。それが毎日。ねえ、パスポート無くすほうがまだマシだと思いませんか?
でも、こんなのは社会に出たら一番易しい部類の苦労です。接待されているお客さんの側だって、タクシーの彼の数倍大変な思いをして働いているわけです。たとえばその人は銀行の支店長だったとします。支店長なんかエラそうで、威張ってればいいんだ、なんて思う人は小学生並みの社会知識しかない人です。今もあまり変わってないと思いますが、どっかの銀行の場合、毎月一回本社で支店長会議があり、全国数十、数百の支店長が居並ぶ席上で、さらにエライ人から前月のノルマを達成したかどうかを厳しく問われ、ハッパかけられるわけですね。上位3支店くらいはみなのまえで表彰されます。それはいいのですが最下位3つくらいに入るとミジメなもんです。50歳、60歳のいい年をした紳士が、衆人環視の中、小学生のように立たされボーズで、叱られて、反省文を声を出して読まされたりするわけですよね。耐えられないような屈辱ですよね。その屈辱だけは避けたいから、皆さん支店に戻ったら、ますますキリキリ働く、部下達にさらにプレッシャーを与え、蹴飛ばすようにして働かせ、なんとかしてノルマ達成させようとします。
でもって、支店長ともなれば、胡散臭い連中がピラニアのようにつきまとってきます。不正融資を迫る暴力団とかが、「支店長はん、今度一席設けますさかい、来とくなはれや」と誘ってくるのを、言質を取られないように言を左右にして避けねばなりません。大口取引先の、厚化粧のアホなオバハンのご機嫌伺いにも行かねばなりません。そんなときに限って、部下が内紛をおこしたり、使い込みが発覚したり、胃がキリキリするようなことが続きます。そんでもって、家に帰ったらバカ娘が家出してたりします。
ま、社会に出るってそんな感じですね。
理由のある苦労、スジの通った苦労だけだったら全然どってことないのですが、理由の通らない、理不尽な苦労も沢山あります。濡れ衣なんか日常茶飯事。「やれ」といわれて渋々やったことを、後になって「なんでやったんだ?」と責められても、「すみません」と謝らなければなりません。部下の不始末は自分の不始末で、「管理不行届きでした」と頭を下げねばなりません。
ねえ、タクシー止めてりゃいいんだったら、そっちの方が楽ですよね。ましてや、パスポートなくすくらい屁みたいなものです。パスポートどころか、現場では3000万円くらい平気で帳尻が合わなかったりしますし、「明日まで3000万円ひっかきあつめてモトにもとにもどしておけ」と言われたりもします。これが国政レベルになると数兆円規模で帳尻が合わなかったりします。
でも人間というのはどんな環境でも慣れるわけで、そういうハードな社会でも慣れていきます。タクシーつかまえるにしても、コツというものがあることを知り、鼻歌混じりでやってのけられる人もいます。最初からタクシーを予約しておいて、座がおひらきになる時間を正確に予測しておくことも出来ます、、というかそういう具合に巧妙に座の進行をもっていくのですが。
それにそんなに悪いことばかりではないです。いい人たちも沢山います。ハードな環境でヘコんでいるときに、さりげなく手をさしのべてくれる同僚や先輩、上司もいます。取引先の人も鬼ばかりではありません。大きな仕事を成し遂げたときは、やはり充実感はありますし、自己確認、自己実現の喜びもあります。皆で助け合って何かをやり遂げたあと、乾杯して飲むビールの美味さは格別です。
しかし、これら全てのダイナミックな喜怒哀楽を、ニュアンスも含めて正確に学生のあなたに伝えることは不可能です。個々のエピソードは語れても、そのときの心臓が口から飛び出しそうな、立ってるのもやっとで、歩いていても自分の足のような気がしないというくらいの緊張や不安感、握った手がじっとり冷たく汗ばむイヤーな感じをどう伝えればいいのか。「人の情けが身に染みる」というフレーズが、本当にそうなんだと実感するほどの体験とか。どれだけ心が温かくなるのか、そのぬくもり感。あるいは、大きな安堵と、しみじみ夜更けにやってくる静かな充実感。
これらを伝えようとして、正直にそして誠実になればなるほど「いろいろあった」としか言えなくなるんですよね。
「いろいろあった」としか表現のしようのない情報、それ以外にどんなことを付加しても不正確になってしまう、誤解を含んでしまうような情報、そういう情報って基本的に価値があるのか、そんなことを尋ねても意味あるのか?って気もします。もっといえば、「情報」って究極的には実はぜーんぜん意味ないんじゃないか?って気もしてきます。
ある人の言うことを正確に理解できる人というのは、結局同じような体験をしてきた人になっちゃうんですよね。例えば今の僕の話にしたって、業種や職種は違えど、いやしくも社会に出て働いたことのある人(フリーターとか派遣だったらまた別ですが)だったらお分かりになると思います。でも、それって、最初から知ってる人に伝えているだけでしょう。お互い分かってることを確認しあってるだけですよね。情報というのは、知らない人に伝えるという「伝達」に意味があり、知らない→知るという状況変化にこそ意味あるのであって、最初から知ってる者同士がうなずき合ってても、それは情報の伝達ということにならないんじゃないかって気もします。情報は知らない人が知るために伝達されるのですが、その情報を理解するには最初から知ってないとならないという。およそ情報というものには、こういう根本的なパラドックスがあると思います。
なお、「フリーターや派遣だったら別」という差別的発言をしましたが、その趣旨はこういうことです。正社員とフリーターや派遣の違いは、全人格的コミットメントの多い少ないだと思います。特に日本の仕事風土の場合、正社員ともなると、それもしっかりした職場になればなるほど、全人格的に関わることを求められます。決してお金のためだけに働いているわけではなく、その仕事=自分自身になっていきます。だから、仕事で行き詰まると全人格的に行き詰まるのですね。その閉塞感というか、「出口無し!逃げ道無し!」感というのは凄まじいものがあるわけです。で、人間というのは、限界を超えて、自分の世界を広げていくには、本気でギリギリまで追い込まれないとなかなか突破できない傾向があります。正社員の人は、ギリギリまで追い込まれる感覚が強く、それだけに限界を乗り越えて大きくなっていく機会が多いと思います。逆に追い込まれて潰れてしまう人もいるでしょうし、人格が良くない方向に変わってしまう人もいるでしょう。そこは人次第ですが、いずれにせよ影響力はデカいということです。まあ、これは一般論ですよ。そうじゃないケースはいくらでもあると思います。
あと、フリーターや派遣でもその業界の仕事のスキルを身に付けることは十分に可能だとは思います。が、仕事というのはスキルや知識だけではない。それ以外のサムシングがかなり重要だったりするんです。「サムシング」ってなによ?って問うあなたには、「恋愛と結婚の違い」「予備校と学校の違いみたいなもの」とお答えします。あなたの中学、高校時代を思い出してください。なにしに学校に行ってました?勉強しにいってた?学校は確かに知識とスキルを授与する場です。でも、あなたはそんなものを学びに学校に行かなかったんじゃないですか?朝登校するときに、「よーし、今日は生物をきわめてやろう」なんて向学心に燃えながら通いましたか?違うでしょう?何しに行ってたんですか?というと、友達に会ったり、部活やったり、放課後喫茶店にいったり、好きな人にラブレター渡したり、CDの交換やったり、、、という、知識でもスキルでもない、社交の場として、そして人格的コミットメントを求めていってたんじゃないですか?一方、予備校はドライです。あそこは一点でも多く取るというプラグマティックな目的に統一された工場のような場所です。予備校に青春しにいく人、親友を見つけに行く人はいないでしょう。学校にあって予備校に無いもの、それが「サムシング」です。
フリーターや派遣は、予備校的なドライな感じが強いんですよね。もちろん例外はあるでしょうが、ほんと対価的労働という労働契約って感じです。でも正社員は、人格契約という色彩が強いです。それが旧態依然の労働慣行で、だから日本は遅れているかどうかは議論の余地があるところでしょうが、それはまた違う議論になります。ここでは、ただ、言葉にしにくい「サムシング」が「いろいろ」につながるということ、サムシングが多いほど「いろいろ」も多いという相関関係だけを述べるにとどめておきます。
さて、情報の話です。情報なんか、本質的にぜーんぜん意味ないんじゃないか?って話しでした。
もちろん意味のある情報はありますよ。情報をゲットすることによって、知らないことを知るようになり、なんらかのベネフィットを得るということはあります。例えば、株のインサイダー情報とか、そういった「情報」は意味あります。もっと平たく下世話に言えば、マージャンやってて他のメンツの手はどうなってるかとか、「いまあいつはテンパってるのか?」「ここで”中”はあたるか?」とか。高尚な議論をすれば、アルビン・トフラーの「第三の波」とか「パワーシフト」とか、昔流行りました。世界の歴史の流れは、全ての財は情報という形に置き換えられ、情報をいかに握っているかがパワーを所在を決定するように向かっている、と。今でいえば、ホワイトハウスの対イラク戦略の正確な情報(一体どこで切り上げるつもりかとか)というのは、先物取引などにおいて数千億の価値をもつでしょう。
それはそのとおりだと思います。ただしそれにも関わらず、そういう具合に情報が情報として価値があるのは、すごく限定された局面、つまり経済とか、政治権力とかそういった分野での話でしかないのではないか。「経済と政治だったら全然限定されてないじゃないか、ほとんどそれで全てではないか」という指摘もあるでしょう。でも、僕は限定されていると思う。そういうのって、結局アレでしょ、「ゲーム」でしょ。「ゲームをいかにして有利に運び、勝つか」という点で意味があるわけでしょ。敵対・対抗する勢力があり、その裏をかきあって行われるゲームにおいては、「相手が何を考えているか」というのは致命的に重要な情報になります。だからスパイなんかも暗躍する余地があるわけですしね。
僕がここで言っているのは、「対抗する勢力」なんてものが無い場合です。今ここで、確認しておかねばならないのは、「人生はゲームではない」ということです。その昔雑記帳の「僕の心を取り戻すために」で人生のゲーム性に取り付かれ、やがてそのつき物が落ちたという話をしましたが、よくよく考えてみれば自分の人生の時間を彩る幸せや喜びは、別にゲーム的構造をもってるわけではないです。肩にまわされた恋人の腕のぬくもりや、赤ん坊の笑顔は、これはゲームではない。だから、それらの喜びを得るためには別に情報など必要とはしない。
もちろん人生の目的がゲーム性を帯びることはよくあります。「打倒○○」が生涯の目的になってみたり、ロールプレイングのように数々の試練を乗り越え栄冠に至るというゲーム性を帯びたりすることは、これは本当によくあります。また、そういうゲーム性を帯びたときに限って、非常に充実感を感じたり、生きがいを覚えたりします。それは否定しないし、自分自身もそうだったから良く分かります。
だけど、ここで一番大事な「情報」はなんなのか、最も核となる情報はなんなのかというと、「どうしてゲームをやるの?」「ゲームやると何が面白いの?」ということです。登山家にむかって、「どうして山に登るのか?」と問うようなものです。ここが分からないと結局なんでそんなにムキになって、時として命すら賭けて頑張ってるのかが理解できない。でも、この肝心カナメの部分は情報化できない。
ところで余談ですが、多くの場合、ムキになってゲームに熱中して馬鹿やってるのは男性だったりして、女性にはそれが理解できなかったりします。ご苦労にもわざわざ大海原を横断したり、ヒマラヤ登ったり、犬ソリで北極横断したり、人を百万人殺して天下取ったり、必要以上にお金を集めたり、権力を集めたり。でもって、落語家桂春団治のように女房が愛想を尽かして出て行ったりすると、それがまた「男の勲章」とか「ロマン」とか「哀愁」とか、倒錯した価値観で美談化され、もてはやされたりするわけです。
このようにゲーム化された人生構造においては、個々の勝負の局面で情報というのは値千金の重みを持つことも多々あるでしょう。だから情報を制するものは全てを制するという具合に語られるのでしょうが、何度もいいますが、それって個々の局面、戦術レベルでの話でしょう?ゲームに勝つのに役に立つというだけのことで、そもそもなんでゲームをやるのか?という本体的な部分についての情報ではない。そして、なんでゲームをやるのか=なんで山に登るのか?といわれたら、「そこに山があるからだ」的な回答、何も言っておらず、それが理解できない人には全然意味がない、つまりは情報としては無価値なことしか言えなくなる。
だから結局同じことなんですよね。その情報が人生の核心に触れれば触れるほど、情報の受け手側に、高度な、あるいは特殊な理解力が求められることになり、最終的には「知らないヤツには分からない」ものになってしまうという。
話をもとに戻しますが、大事なことになればなるほど、情報という形では表現できないし、伝えることも出来ない。世の中には説明できないことがたくさんあり、無理やり説明しようとすれば「いろいろあった」としか言いようがなくなる。
逆に言えば、情報など集めても何も見えてこないということです。大事なことであればあるほど、何も知らずに突入していくしかない、何も知らずに突入していく勇気と行動力をもった人だけが、大切なものに出会うことが出来る、ということでしょう。下調べをして、情報を集め、武装してやっていける程度のエリアには大したものは転がってないです。
APLaCもオーストラリア、特に語学学校にスペシャライズしている情報サイトであるわけなのですが、自分が情報サイトをやればやるほど、情報なんかクソみたいなもんだなという感を深くするわけです。なんかね、もう、「オーストラリアは240ボルトですから、変圧器が必要です」みたいな情報とかさ、「そんなこたあ、どうだっていーじゃないか」って気がしてくるんですよね。
最近はつくづく思うのですが、準備してこないのが最高の準備なんじゃないかって。北朝鮮に拉致されるみたいに、ある日会社の帰り道に拉致されて、オーストラリアに連れてこられた方が一番いいんじゃないかって。そうすれば必死になって周囲を見ようとするでしょうし、全ては新鮮に映るでしょうし、下らない先入観もないから素直にモノが見えますしね。大体空港で皆さんをお迎えした僕の最初の役目は、妙な半可通情報に「汚染」された人をもう一度クリーンすることだったりしますからね。「オーストラリアにはハエが多いそうですね」とかさ、どーでもいーじゃんそんなことって思いますよね。ヒドイのになると、「オーストラリアではサングラス着用が法的に義務付けられると聞きました」なんてこと言う人もいるし。
いや、別に情報を集めることはいいんですけどね。僕も技術的な情報についてはどんどんお知らせしますし、メールでも毎日書いてます。ただし、情報を集めすぎて、一番大事な核心部分、「なんで山に登るの?」=「なんでオーストラリアくんだりまで来るの?」という部分だけは汚さないで欲しいなと思うだけです。あなたの一番綺麗でキラキラ輝く部分は、情報ごときに汚染されてはイケナイと思います。
特にワーホリで来られる人には常に言うのですが、準備として必要なのは、1にお金、2に英語力です。頑張ってお金をためること、頑張って英語を勉強してくること、これが一番現地にやってきて役に立ちます。あとのコマゴマしたことは現地でなんとでもなります。それよりも、いかに素直に新鮮にオーストラリアが見えるようにするか、心のウィンドウを曇らさないで欲しいです。なんつったって、これから「いろいろある」わけですからね。曇ってたらよく見えないでしょ。
写真・文:田村
写真は、日曜日の早朝。雨上がりのチャイナタウン(パディスマーケットのあたり)
PS:来週は一週だけお休みをもらいます。
今週から来週にかけて1週間ほどパースに遊びにいってきます。その間メールのお返事もできませんし、来週のエッセイもお休みです。おそらく再来週はパース周辺の見聞録だと思います。
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