今週の1枚(01.09.24)
雑文/ 情報という名の呪縛
情報が少なければ少ないほど、理想は豊かに花開く。
情報が少なければ少ないほど、理想と現実の区別が曖昧になる。
ただしここでいう「情報」には、新聞やテレビなどのメディアや、人からの話、インターネットなどは含まれない。
これら二次情報、三次情報は、あくまで自分自身で体験した一次情報の補完としてあるのであって、一次情報抜きの二次情報を幾ら集めても殆ど何も知った事にはならないし、むしろ有害な場合も多い。
これら二次情報については、上とは逆に、情報が多ければ多いほど、理想は豊かになるし、理想と現実の区別が曖昧になる。
そして、一つ情報を仕入れるたびに、一つ「なにか大切なもの」が失われるのだ、と。
だから頑張って生きてる意味があると思うのだけど。
やあ、終わった終わった、言いたいことは全部言ったぞ。今週の「今週の一枚」、終わり!といきたいところですけど、まあ、これじゃなんだかさっぱり分からんでしょうね。
「情報ありすぎるのも善し悪しだな」と思うことはないですか?
あなたは今何かの仕事をしておられる。いわばその道のプロ。ご自分の仕事のことを考えてみてください。まだプロと呼べるほど働いたことのない人の場合は、自分の生まれ育った地域について考えてみてください。そのエリアに関しては、あなたは「地元民」、いわばプロです。そこに「やたらよく知っている素人さん」がやってきて、あれこれ口出ししたり、論評したりするところを想像してみてください。「だー、もー、うっせえなあ」って思った事ないですか?
例えば、あなたが東京に住んでいたとします。そこへ他の地方から友達がやってきます。東京についてはかなり勉強したようで、やたら詳しい。やれテレビ局の場所であるとか、いま流行ってる有名な店であるとか、築地の毎日の水揚トン数とか新宿駅の一日の乗降客数とか、どうかするとあなた以上に詳しかったりします。道を歩けば、「あ、これ、○○でしょう?○○に出てた出てた、コレってアレでしょ?」とか、最初は「うふふ」と笑って聞いてるあなたも、一日中これやられたら段々イライラしてきませんか?
でもって、ここがキモなんですけど、そーゆーことを沢山知ってるからって、その人のことを「東京を知ってる人」だと思いますか?そんなこと幾ら知ってたって、ハッキリ言って、「東京に暮らしているリアルな実感」とは全然関係ないと思いませんか? つまり、満員電車で駅に止まる度に有利な立ち位置をキープするための独特の計算やテクニックやら、居場所がありそうなんだか無さそうなんだかよくわからない感じとか、人通りがマレな地下鉄の長い連絡通路を独りで歩くときの寂寥感とか、東京のくせにやたら頻繁に顔を出す妙に田舎臭く間延びした風景とか、、、。
話を大阪にもっていくと、これがミナミのくいだおれ人形とか、ここで無名だったダウンタウンが出演していたとか、OBPがどうしたとか、そんなのどーでもいいです。OBPなんか知らんでええし、「六甲おろし」なんて歌えなくたって構わないです。六甲おろしやOBPを言うなら、OBPのすぐ近くの京橋のグランドシャトーの、「きょうばしは、ええとこだっせ〜、ぐらんしゃとーがおまっせ」というCMソングを歌えた方がよっぽど大阪だったりします。
自分のよく知ってる地方や、自分の所属してる業界がテレビの特集かなんかで登場すると、妙にむず痒い感じがしますが、あの感覚。「そりゃそうだけど、そんなことどーでもいいの。そんなもん幾ら積み上げたって本質的には無意味なの」という感じ。
ああ、もっといい喩えを思い付いた。
大の日本通を自称する外国の友達がやってきて、一緒に寿司屋にいったとします。で、カウンターで、「おー、これはガリですね〜、ジンジャーのこと、ツウはガリって言いますね、ワタシ知ってます」「おおっ、オヤカタっ!今日はイイの入ってますか?」「うーん、このマグロは近海モノですね〜、味が違いますね〜、ワタシ知ってます」「おお、このタイは、やっぱりアカシのテンネンモノですか〜?」、とまあ、次々に大声で言われたら、最初は笑ってても、しまいには頭を抱えたりしませんか?ケリの一つも入れたくなったり。
なんでこんなこと言うのかというと、オーストラリアとか、英語とか、ホームステイとか、ワーホリとかに関する情報は、今はもうウナリをあげるくらいにあります。ホームページでも星の数ほどあります。あるんだけど、あれ全部読破しても、あんまり意味ないよ、と感じるからです。最近、とくに。このAPLaCのHPも例外ではなく、こんなもん、あんまり読まない方がいいよ、と。自分で作っていてナンですけど。
コアになるべき自分の体験という一次情報がないまま、これらの二次情報ばかり集めていると、どっかが致命的にズレてきたりします。
例えばホームステイならホームステイで、行く前からきっちり理想というか、「やさしいお父さんとお母さんと、ヤンチャなボクがいて、家族の一員として楽しい日々を送るワタシ」みたいな型が出来上がっていて、それと寸分違わず実現しないとガーンとなっちゃうとか。
これはもう(一次)情報が少なすぎるのと、どーでもいい二次情報が多すぎるが故の弊害だと思います。確かに、語学学校のパンフレットのホームステイの項目なんかには、まさに理想を絵にしたような写真が掲載されてます。実際にそういうケースもあるでしょう。だけどそうでないケースもある。だから、あれはコマーシャルなんだって。コマーシャルに出てくる、「幸福な結婚生活」とかさ、「充実のキャンパスライフ」とかさ、「豊かな将来へのキャリアパス」とかさ、その類のことなんだから。
大学、就職、結婚、、、、実際に自分で体験した人にお聞きしますけど、実際にやる前に漠然とイメージしていたことが寸分違わず現実化した人っていますか?コマーシャルに出てくるイメージそのままを地でやった人っていますか?どうかすると、一から十まで全然違ってませんでしたか?
ホームステイだって、離婚率50%のオーストラリアで、どうしていっつも両親が揃っていたりするわけよ。また単身赴任ってこともあるだろし。そういえば、今日、お向かいさんのところに迷彩服を着た若いオージーが遊びにきているのを見かけました。おそらくは、アメリカの愚挙に付き合って出陣させられるアーミーの青年が両親のところに遊びにきたのかもしれません。彼が結婚してたら、これもやっぱり単身赴任にはなるでしょう。共働きでキャンベラとシドニーで別々に住んで週末に一緒に暮らしてるカップルも結構あると聞きます。だから、常にカップル両方揃っているとは限らない。
仮に両方揃ってたとしても、ありがちな話として共働きの子育てで、育児ノイローゼみたいになってるケースだってそりゃあるでしょう。なきゃ嘘だわ。また、シングルマザーであったとしても、苦労した分、人に優しくなれているというケースも多いです。もっといえば、中年の男性の一人暮らしというところでホームステイなんてのもあるわけです。で、それで非常にうまくいってるケースもまた多々あるわけですね。
ホームステイだって、人間と人間の付き合いなんだから、コレとコレとコレが揃ってたらOKなんて、そんな麻雀みたいな話になるわけです。そんな外的条件だけ揃えたら人間関係OKになるんだったら、誰も苦労しないです。
「実際に自分がやってみた」という一次情報ないまま、二次情報ばかり集めることは、100%無意味とは言わないけど、あくまで参考に留めておくのが無難だと思います。参考意見として隅っこに置いておけばいいです。隅に置いておけばいいものを、中央にひっぱりだして、あまつさえ神棚に祭り上げて、「これだ!」とばかりに拝んでたらマズイわけです。なにがマズイかというと、本当の現実とのギャップで、ものすごいクラッシュをする可能性があるというのが一つ。
とはいっても、その強烈な一人よがりの思い込みこそが、多くの場合、何かの行動に駆り立てる原動力になりますから、必ずしも悪い事ではないです。というか、ある程度馬鹿でないと物事なんか始まらないのかもしれない。当然のごとく生じる、「こ、こんな筈では、、、」という現実とのクラッシュは、それはそれでいい経験だし、必要なステップなのでしょう。学ぶものもあるからそこで一皮剥けるだろうし、軌道修正すればいいだけなんだから、まだ傷は浅い。
僕が本当に懸念するマズイことは、そういった貧しい情報の断片をつなぎ合わせて描いた理想やら夢 − もっと実も蓋もなく言えば「幻想」「一人よがりの思い込み」−は、強烈な呪縛になって目を曇らし、発想を制限し、行動を縛り付ける危険性があるということです。ひいては、現実にコミットする柔軟な適応力を殺してしまう。
絵に描いたようなホームステイだけを思ってその呪縛にハマってしまうと、ホームステイにせよ基本的には人間関係なのだという当たり前の本質を見失わったりもします。気づかぬうちに、生きた人間をして、自分の夢のプランを実現する「道具」にすぎないかのような、とんでもない、殆ど人としてやってはイケナイような思い違いをしたりする。
これって、一度も女の子とつきあったことの無い奴が、妄想のなかで「従順な美少女」を育み、それと現実がちょっとでも違うとキレて殺しちゃったみたいな話と、基本的な精神的な方向性のパターンとしては、気味悪いくらい似てたりするわけです。
こーゆー話って、よく考えてみれば沢山あるでしょう。結婚生活に勝手な思い込みを持ち込んできて、「朝起きたら味噌汁の香りがしてないとヤダ」とかさ、古典的だけど(^^*)、「こーゆー幸せな家庭を作るんだ」みたいに、マンガのフキダシみたいな画像イメージを強烈に持ちすぎるってのは、ちょっとヤバイことだと思います。
勿論この地上にいるのは、(幽霊を除いて)生身の人間なわけだし、(幽霊も含めて)それぞれにエゴがあり思惑があるわけですから、ンな自分の思い通りいくことなんか滅多にないし、あっても偶然そうなっただけ。こんなこと、人間5年もやってれば(つまり5歳のガキでも)知ってることなんだけど、なんかの拍子につい忘れてしまう。乏しくも過剰な情報がそれを助長してしまう。そのヤバさですよね。
海外生活とか、海外で働くとか、留学とかワーホリとか色々なメディアが色々な事を書き、またコマーシャルも沢山流れていることでしょう。でも、究極的なところの実感でいえば、「生きて生活していく」という根幹の部分は、日本だろうがオーストラリアだろうが同じです。つまり「働かなければオマンマ食い上げ」「仕事は楽しいことばかりではない」という基本原理は全然変わりないし、結局はその基本原理に従って生きていくしかないわけだから、煎じ詰めればどこも一緒というのが、一番素朴な実感です。
ただ、周囲の環境の差というのは歴然としてありますし、それに伴って日々の生活実感も多少違ってくるのは事実です。で、何が違うかというと、「英語、ビザ、お金」の三種の神器だと思います。オーストラリアにいる殆ど大多数の日本人の頭の中はどうなってるかというと、もうこの3つだけで80%くらい占めてしまうかもしれない。日本にいるあなたが、意識するともなく、ごく当たり前に自分の持ってるお金のこと(=どうやって稼ぐか、十分か、どうやってやりくりするか)を考えるのと同じように、こちらでは自分の英語力を考えてると思います。まあ、他人の頭の中はよく分からないから断定はできないけど、少なくとも僕はそうです。
7〜8年住んでたって、毎日少しづつでも勉強しようと心がけていたって、それでも全然自信ないです。やっぱり、当たり前だけど母国語とは違う。出来なくて、悔しい思い、情けない思いをすることは今だってあります。英語で電話しましょうとなると、やっぱり緊張してしまうもんね。「ああ、こういえば良かった」ということはしょっちゅうです。まだまだ免許取りたてで、とりあえずいつものルートは通れるけれど、ちょっといつもと道が違うとおっかなびっくりになってしまうようなものです。そりゃ、なんとかする自信はあるけど、そもそも「何とかする」とか思う時点で既にダメだもんね。「とりあえず通じればいい」なんてレベルでやっててもしょうがないんだし。
こういう日常の当たり前の現実が、メディアやネットのオーストラリア情報のなかでどれだけ伝わってるのかな?というと非常に怪しいと思います。また、僕自身どれだけ伝えきれているのかなと思います。と、同時に、所詮伝えきれるものではないな、とも思います。
だから思うのですけど、別にもうそんなに情報なんか要らないんじゃないかと。
そんな情報、コアになる自分の体験がなかったら、幾ら積み上げたって大して意味があるとも思えない場合が多いし、なにより「情報による呪縛」にハマってしまうマイナスの方が多いような気もします。
下手な考え休むに似たりで、準備して準備し切れるものでもないし、頭を真っ白にして、素のまま目の前にある現実に丁寧にコミットしていくしかないし、それが一番いいと思います。
そりゃ情報がないと大変だけど、大変なだけでしょ?もちろん生死にかかわるようなことはシャレにならないけど、オーストラリアくらいだったらカントリーリスクも低いし、そうそうおかしなことにもならない。知らなければ、そこで必死に注意力を働かせるし、そこで見分したものは強烈に記憶に残るし、必死に人に聞くから英語も喋れて練習になるし、そこで生のオージーとの接触も生まれるし、オーストラリア社会のありようみたいな断片も垣間見る事が出来るし。
よくメールの質問で「持っていくべき荷物の分量」について尋ねられることがあります。僕の意見としては、一般的には、飛行機へ持ち込む20キロ制限以内で十分ですし、「全部持って2キロ歩ける程度」でそれ以上持ってきても殆ど無駄」とお答えしてます。これに敷衍して、「荷物の量は自信に反比例する」と言うこともあります。自信の無い人ほどあれこれ持っていきたがると。荷物と同じように、(求める)情報の量も自信に反比例するのだと思います。自分に自信がある人、その場の局面局面で現場処理していける自信のある人だったら、そんなに無闇やたらに情報を物色したりはしないだろうし、イチイチ「こういう場合はどうしたらいいだろう」なんて取り越し苦労もしないでしょう。
もちろん情報が薄いゆえに沢山失敗もするだろうけど、失敗しないと物は覚えないし、見えるものも見えて来ないと思います。「大変なこと」に対して、あんまりビビリ過ぎて、そこから避けよう避けようとばかりしてると、結局何にもならないんだろうなあって、これは自戒も込めてそう思います。
僕が来たときは、幸か不幸かインターネットなんかまだ全然一般的ではなかったし、現地に関する日本語情報なんてのも非常に乏しかった。バスの乗りかた一つろくすっぽわからなかったし、ましてや賃借の契約の方法なんか「ぶっつけ本番」以外にやりようがなかった。でも、その「ぶっつけ」のお陰で、ものすごくオーストラリアについて色んな事を考えました。発見も多かったし、毎日が大冒険で充実してたし、なによりも一番大事なのは、妙な情報がない分、妙な先入観もなかったから、現実をそのまま受け入れることが出来て、すぐに馴染めたということです。
バスの情報が乏しいままぶっつけ本番でバスに乗ったら、もう必死で周囲を見回して情報を探すわけですよね。で、例えば上の大きな写真のように、「そうか、立ってる乗客が15人を超えたら、もうバスに乗せてはイケナイのか」ということが判明したりするわけです。で、本当に15人以下か振り返って数えてみたりして。ここで、妙にガイドブックなどを見て乗ってると安心しちゃってこういう情報を見落としてしまうのですね。バスや電車、町角のこういう標識、ちゃんと見てますか?
中途半端に知ってると、「こんな筈では」とか余計なことを思うから、なかなか素のままの現実を受け入れられなかったりするのですよね。一つ情報を仕入れるたびに、このインノセントな、純白無垢な自分の心の領域が − すなわちそれが「なにか大切なもの」なのですけど − それが一つづつ汚されていくようにさえ思います。
オペラハウスだって、あれ、なーんにも予備知識ゼロで、いきなり見たらかなりビックリすると思います。「なんじゃあ、こりゃあ?」の世界だと思う。でも、妙に事前に観光ガイドとか読みふけったりしちゃうから、「ふむふむ、ここにオペラハウスがあるわけね」という、まるでガイド本の検証をするかのような、まるで仕事のような、感動に乏しいことになってしまうのではなかろうか。だとしたら、非常に勿体ない話ですよね。
「ワーホリいってた友達が○○だって言ってました」とか「HPにはこう書いてありました」とか、良く聞くのですけど、ほんと、一つ知るたびに、一つ呪縛に懸かるということに、もう少し自覚的であってもいいと思います。AとBとで、Aがいいという情報を知る事によって、「迷わずAに行ける」というメリットはあるけど、同時にそれは「実はBの方が自分に合ってるかも」という可能性を失うことでもあるのですから。
だから、まあ、情報なんてあくまで参考ですよね。それ以上でもそれ以下でもない。
無垢な心で現実に相対したとしたとき、どう感じたか、何を覚えたか、学んだか、それに優る財産はないようにも思います。
これは別に、盲目的な経験主義に陥れと言ってるわけではないです。そうならない為に、二次情報というのは使えばいいと思うわけです。少なくとも、呪縛にかかった頭で紡いだ理想、夢、幻想、思い込みなどというシロモノを定規にして現実を図るようなこと、現実をその理想に強引に当てはめたりすることだけは、慎重になった方がいいと思います。それはかなりヤバイことだと思います。
主観と客観の境界が溶けだしてくれば、客観は主観に侵食され、主観は客観に犯されます。自分の思い通りにならない現実を否定してみたりします(主観が客観を侵食)。また、「○○はこういうもの」というメディア等によって与えられたイメージに縛られて、踊らされ、本当に自分は何がしたかったのか忘れてしまう。ひいては、自分というものが希薄になっていってしまう。カタチからはいっていくうちにカタチしかなくなってしまう(客観による主観の侵食)。
実際にやってみたら思ってたのと全然違ったということは、非常にありふれた出来事です。「うわ、話が違うやんけ!」でドカーンとなる体験は、耳年増という一種の精神失調に陥ってる自分を救い、再び現実とのバランス感覚を復元させる非常に大切なアジャストメントだとも思います。一種のプラクティカルなリハビリであり、セラピー。だから、ドカーンとなることは、基本的にはイイコトであり、めでたいことなんでしょう。それを避けてはいけないのだと思います。
ところで、じゃあ、例えばウチのHPは何なのよ?そもそも僕がこう書いてることも「情報」の一つであるわけで、自分で情報を出しながら、情報をあまり摂取するなと説くのは矛盾じゃないか?と言われそうですね。はい、そうです、矛盾してます。でも、矛盾するかどうかは、この情報の受け止め方だと思います。
つまり、「こういうことを考えて、文章書いて、HPにあげている日本人がシドニーに一人いる」という「現実」ですね。これは、今、あなたが相対している一次情報であるわけです。そう捉えてヒントにしていただければ、と思います。
蛇足ですが、これはややこしい話なんですけど、APLaCというホームページそのものの基本性格ですが、僕らは情報とかデータというよりは、その情報処理の方法/物の考え方という「ソフトウエア」をUPしたいと思ってます。もっと言えば、物の考え方を組み立てるヒントみたいなものです。だって海外生活で一番大事なものといえば、前述の
英語・ビザ・金を除けば、結局そこに行き着くと思うからです。
ですので、個々のデーターとか多少間違っていても、古くなっていても、極論すれば、それはどうでもいいことであって、大事なのはその対象に触れたときの僕らの生の主観であり、対象に対するアプローチの仕方であり、そしてそれが数あるなかの一つの方法にすぎないのだということが、なんとなくでも伝わればいいなと思ってます。だもんで、この主観部分は、しつこいくらいに書き込んでるつもりです。そうご理解ねがえればうれしいです。
写真・文/田村
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