前回、
前々回に続いてオーストラリアの大学について書きます。前々回は、財政危機のために海外留学生依存体質になってしまったオーストラリアの大学、そのために諸問題を引き起こしていること、前回はその延長と、「そんなに高いお金を払ってまで大学にいく価値があるのだろうか?」ということで、日本国内の大学に行くメリットを考えてみました。今回は、オーストラリアに大学に留学するメリットを考えてみたいと思います。
おヒマでしたら前々回の新聞記事をもう一度目を通していただきたいのですが、あの記事は、海外留学生の大量受け入れなどの要因のためにオーストラリアの大学のアカデミックスタンダードが下がり、財政難+リストラで、大学の人的物的水準もかなり低下してきているということを、いろいろ「こんなにひどい」という例証をあげて、ガンガン警鐘を鳴らしていたわけですね。でも、記事を翻訳しながら、僕は、「うーむ、確かにヒドイ」と思いつつも、しかし半面「でも、そうはいっても、、、」とも思ってしまったのです。
例えば、自分の書いた翻訳を引用しますが、
「同大学の経営上層部は、こういった指摘を否定し、同大学には学生とのコンサルティング時間に関する一般的な規則はないという。しかし幾つかの学部の教官達は、学生に手間を掛け過ぎだと当局から言われたと言う。学生一人・一学期あたり1時間以上査定に時間をかけるな、対面コンサルティングも最大30分までにしろ、と。
シドニー大学においては、看護学の3年次のチュートーリアル=そこでは患者に投与する薬剤の計算方法も含まれているのだが=に、48人もの学生が詰め込まれていたと、学生代表者はいう。
チャールズスタート大学の教職員組合によると、かつて学生60人に教官3人だったのが、いまや教官一人にまで減らされているという。
ニューカッスル大学の工学部の学生は、前学期に、50人も学生と一緒にチュートリアルに参加したと言う。」
という具合に、「こんなにヒドイ!」という大学の水準低下の事例として「これでもか」と挙げられているわけです。
しかし、ヒドイですかね?
大学で、教官が学生一人の成績を査定するのに一学期あたり1時間以上かけるな、カウンセリングも30分以内にしろ、という圧力があるのが、さぞ大問題のように書かれているわけですが、日本の大学の場合、いったい教授が学生一人あたり何分時間をかけているというのか。もちろんしっかり採点したり、面談して細かく指導しておられる教官もいるとは思いますが、一般的に言って、また自分の経験からいっても、採点なんか年に一回のテストを数分かけて読むくらいじゃないですか。よく昔から冗談で言われているように、扇風機で答案用紙を飛ばして一番遠くに飛んだ順に落第させたり(字が書いてないから軽いという)、階段からバーっと撒き散らしたり、、、とか。まあ、冗談にしても、「そうであってもしょうがないか」みたいな雰囲気はありますよね。学生側もろくな答案やレポート書いてこないし、真剣に採点されるとむしろ困るって部分もあるでしょう。
大学の先生と学生が一対一で面談、、、、なんか、まあ、無いですよね。卒論の指導などの場合はあるかもしれないけど、一般の講義の場合は、まあカンニングが発覚したとかそういう事態でもないと、面談なんかしないんじゃないでしょうか?
チュートーリアルに50人とか60人とかいわれても、日本の大講堂だったら500人くらい詰め込んでるでしょう。そもそも少人数教育自体が少ないし、あっても学生が鬱陶しがるって面もあるでしょう。
だから「こんなにヒドイ!」という記事を読むにつれ、逆に僕は「こんなにスゴイ!(よく勉強している)」と感銘を深くしてしまうわけですね。常に言ってることですが、こっちの大学と日本の大学とは、もう比較にならないというか、次元が違いますよね。どっちがエラいとかエラくないとかいうことではなく(それはその社会においてどういう大学が求められているかに根ざすから)、名前こそ同じ「大学」だけど、全然別物くらいに思ってた方がいいと思います。
要するにこちらの大学は「勉強するために行くところ」であり、専門学術知識や技術を「本気で」叩き込むための所だということでしょう。日本の大学は、多少の例外はありつつも、概して言えば勉強するために行くところじゃないですしね。それが証拠に、その辺の大学生に「なぜその学部や専攻を選んだのか」と聞いてみたらいいです。ろくな答えが返ってこないでしょう。また、大学を卒業した人に、大学時代何を学んだのか、今この場で学会で発表するくらいの学術水準で述べてみろと言ったら、言える奴なんか殆ど居ないでしょう。
日本でも医者になりたい人間が医学部に行き、医者になります。医学部出て医者にならない、医師免許も取る気がないって人はマレでしょう(試験に落ちる人は多いけど)。でも同じように法曹界に入りたい人だけが法学部に行くのではないし、経済学者やエコノミストになりたい人だけが経済学部にいくわけではない。「せめて大学でも」という親御さんだって、「大学卒」という一般的な肩書に用があるのであって、この学部で○○教授に師事するとこういうパーステクティブが広がってて、、なんて考えないでしょう。
オーストラリアの、あるいは西欧の大学は、日本の感覚に引きなおして例えれば、板前さんになりたいからどっかの料亭の板場にはいって修行するとか、相撲取りになりたいから○○部屋に入門するとか、漫才師になりたいからヨシモトに入るとか、そういう感じだと思います。専門技術をいかに叩き込むかですよね。そしてそこで得てきた専門技術やスキルこそが問題なのであって、○○大学出身というのは、一般的に殆ど語られることはないです。学位を名刺やプロフィールにあげるとしても、BA(Bachelor of Art)とか○学士とかそれだけで、出身大学なんか書かないです。それは、自動車運転免許のようなもので、免許をもってるかどうかだけがポイントであり、○○自動車学校卒なんてのは普通誰も気にしないのと一緒です。
その意味で、日本社会でやたらめったら出身大学を記載したり問われたりする風習というのは、運転免許を語るときに「○○自動車学校を出ました」なんて言ってるくらい滑稽なことに思えるでしょうし、出身大学で学閥があるというのも、「○○自動車学校同窓生」で固まって路上を走ってるようなものに見えるかもしれません。まあ、西欧でも、ハーバードとかケンブリッジクラスになると、それなりに出身大学名が意味を持つ場合もあるでしょうが、それでも現時点でのスキルや実力あっての話でしょう。
そのような「本気で専門技術を叩き込む場」としての大学としていえば、記事で語られているような状況というのは、「危機」なわけです。基本的には「師匠と弟子」みたいにマンツーマンで叩き込むことを考えているわけだから、師匠と弟子の接触が一学期に1時間あなり30分なりしかないってのは、「そんなバカな!」みたいな話なんだろうと思うのですね。数十人のチュートリアルとか、「ナメとんのか」みたいな受け取られ方をするのでしょう。その前提がないと、あの記事はそもそも成立しないですよね。
では、そのような「本気場」としての大学に、日本からわざわざ留学する意味は何処にあるのか?です。
仮に日豪の大学の授業料が似たようなものだとしても、「専門学術の修得」という意味でいえば、オーストラリアの大学の方がずっとコストパフォーマンスは良いと思われます。というか、日本の多くの大学の場合、そもそもパフォーマンスがゼロに近いというか、大学側は頑張ってるかもしれないけど学生や社会がそれを求めてないって部分があるので、比較にならないのだけど、、、。
まあ、ともあれ、ミッチリ学ぶという意味ではオーストラリアの大学の方がいいでしょう。日本だって別にミッチリ学ぼうとすれば学べますけど、多くの場合、自覚的にやっていかなきゃならないですよね。そこがネックかもしれない。レジャーランド大学で皆がチャラチャラやってるなかで、黙々と図書館にこもって勉強三昧、、というのは、ちょっとツライかもしれないです。僕も、大学三回生になってから真剣に勉強はじめましたけど、それまで2年間同じようにバンドやったりマージャンやったりチャラチャラやってたわけですけど、いざ自分が勉強を始めるとなると周囲のチャラついている奴らが邪魔臭かったですよね。人間なんか勝手なもので、自分が真面目になったら、他人が真面目でないと腹が立つという。かなり精神的に孤独というか、「なんでこんなことやってんだろ」という気になります。その意味では、全員が軍隊のシゴキを受けているかのようなオーストラリアの大学の方がまだしも気分的に楽だし、話が通じる友達も多いかもしれませんな。
おー、そうか、やっぱりオーストラリアの大学留学は正解なんか、と早合点せんといてください。
確かにミッチリ勉強したい人にはいいかもしれないのだけど、問題は「そんなに勉強したいことってあるの?」です。なんせ、「なんとなく大学へ」とか「一応大学くらいは出ておかないと」というライトでゼネラルな理由だけだったら、あまりにも勉強がハード過ぎますもんね。「いや、俺はハードに勉強したいんだ」というくらいやりたいことがある人は幸いですけど、そういう人ってどのくらいいるのかしら?って気もします。
言葉の問題もなく、費用的にも安いオーストラリア人でさえ、なんとなく大学に行ったりはしていないです。そもそも高校1年(Year10)終了時に進学希望でない人は卒業してしまい、高校2,3年の進学コースに残る人の方がむしろ少数派でしょう。また、オーストラリアの大学生は、高校からすっと入ってきた人よりも、一旦社会に出て仕事をして、自分のやりたい分野が見えてきてから入学してきたって人が多いです。どっちかというとその方が多いかもしれない。つまり、この世界に何らかのやりたいことがある→それを実現するためには資格なりスキルが求められる→それを取得する場の一つとして大学があり、自分の場合大学が最も適している→だから大学に行く、という発想法でいきます。目が痛いから眼科に行くとか、車が壊れたから修理工場に行く、みたいに、完全目的志向であり、「最初に大学ありき」ではない。
日本の場合、国内の大学に行く大多数の日本人は、「とりあえず大学」みたいに大した目的志向もなく、入学試験と卒業証書という”社会的ステイタス”のみに意味があるという感じですよね。その同じ日本人が、海外留学になった途端、「うおお、俺はこれをやりたいんじゃあ!」と自分の人生のパースペクティブ(見通し)がクリアに見えている、、、というのも、なんか嘘臭いような気もします。「○○という専門技術を身につけたい」とか「○○がやりたい」という特定的なことではなく、「海外留学をしてみたい」っていうやっぱりゼネラルな動機が大きいような気もします。
もちろん、それが悪いことだとは言うつもりもないし、僕自身そう思ってません。ただし、「なんとなく行くにはハードだよ」ということだけは、最初に知っておかれた方がいいかなと思います。
それと、大学に行ってからどうするの?という問題があります。
学んだり、知ったりすることが最終目的であるという、もっとも純粋にアカデミックな情熱だけで留学される場合は、学びたいことを学べるというだけで基本的にはOKです。最終目的達成ですからね。しかし、そこまでアカデミックな情熱だけに燃えている人ってどれだけいるのだろうか?いみじくもあの記事に「大学卒業の資格によっていい職を得られなかったら、その資格に何の意味があるというのでしょう。高いお金を払って投資する価値があるでしょうか」と書かれていたように、多くの海外留学生の留学動機は「母国に帰ったときにより有利な就職ができるから」というのが今日の大学進学の主目的だと思います。
オーストラリアの大学や大学院を出ていると、本国に帰ったときになんかイイコトあるだろうというのは、タイやインドの場合にはそうかもしれないけど、日本の場合はどうなのでしょう。海外留学した方が日本での就職は有利になるのでしょうか?これは、正直言って僕にはわかりません。日本のことはリアルタイムに日本にいる人の方がよくご存知でしょう。教えてもらいたいくらいです。どうなんですか?
まあ、分野によって違うでしょうから一概には言えないと思うのですが、少なくとも明治時代の「洋行帰り」みたいな権威は無いでしょう。ヨコのものをタテにしたからといってありがたがられる時代ではない。また、オーストラリアの大学や研究室の中で、世界的にみても突出してるような「おいしい部分」に行き、自分の研究や造詣を深める、、、というのは、一般的な入学というよりは、大学研究室相互間の交換留学などで行われているでしょう。
それに一般的な資格でいえば、オーストラリアで取得した資格をそのまま日本に持ち帰ることが出来るかというと、出来ない場合の方が多いでしょう。オーストラリアの大学法学部を出てこちらの司法試験を合格して法曹資格を得たとしても、日本の法曹資格は得られません。いわゆる「外国人弁護士」として外国法務のエキスパートにはなれますが、一般的な意味での弁護士資格は得られない。医師資格も同じように、右から左にもってこれなかったと思います。
もっと根本的なレベルで、日本とオーストラリアとでは社会構造が違うって問題がありますよね。何度も書いてますが、日本社会の場合、大学卒業生に求められるのは(特に文系)、別に専門技術やスキルじゃないですもんね。より入学の難しい、偏差値の高い大学に入学したかどうか(卒業したかどうかではなく)です。そこで注目されているのは、一般的な頭の良さであり、受験勉強に深刻に疑問をもたず反逆もしない体制への順応性であり、高度な事務処理能力でしょう。専門能力や技能というよりは、あくまで優秀なゼネラリストとしての「素材」の問題なんですよね。
その端的な例が、国家公務員一種試験(昔だったら上級甲)のような「キャリア」でしょう。受験エリートの最後の総本山であり、東大のなかのトップクラスがシノギを削るこの試験は、しかし専門性は無いですよね。あくまでゼネラルな試験であり、そこでの合格の席次によって、昔だったら通産省やら大蔵省にいき、あるいは警察官僚になるという。入る時点では専門性は問われません。個別の省庁に入省してから、その専門的業務を学ばされるという。
これは別にごく一握りのエリート官僚だけの話ではなく、日本全国至るところでこのミニチュア版というか、似たようなことが繰り広げられているわけでしょう?民間企業だって、大企業になるほど有名大学を出ているほうが有利でしょ。これはもう動かし難い事実としてそうですよね。まあ「事実」としていえば、これに反する事例は幾らでもあると思うのだけど、全体的な傾向はそうだし、なによりも日本人一人一人が「そういうもんだ」という社会認識を、もう信仰のように抱いているでしょう。そうでなければ、なんで週刊誌で「全国高校、東大合格者実績ランキング」なんていう下らない特集記事が何十年も連綿として続いているのよ。全国大学学部別偏差値ランキングとかさ、受験雑誌だったらそういう特集もわかるけど、普通の週刊誌でしょ。オーストラリアで、こういう特集記事というのはついぞ見たことないですよ。新聞にHSC(統一高校卒業試験)の結果やら、大学への入学基準(HSCで何点取ったら入れる)を一覧で特集することはあるけど、あれはランキングではなく大学側が発表している入学事務の情報です。
ちょっと余談になりますが、日本社会の特徴としては、@ランキングが大好き、Aなんでも家元制度になる、という二点があると思います。@のランキング好きですけど、高校大学だけの話だけじゃなく、「冬のボーナス全社ランキング」なんて特集もあったりしますもんね。オーストラリアだって会社ランキングは経済記事としてよくありますけど、あくまで投資情報やビジネス情報として掲載されてるだけでしょう。これはもう単一文化民族の「業」じゃないかと思えるのですが、大体皆似たり寄ったりの価値観と生活してるから、ほとんどマニアックなまでの微細な差がオタク的に話題になるのでしょう。似たり寄ったりだからこそ、すっごい他人のことが気になるし、常に他人と比べてないと気がすまないのでしょう。単一文化の中のさらに温室純粋培養のような単一文化内部、つまり官僚社会とか大企業の中とかだったら、歴然として出世コースがあって、入社何年目で札幌支店長をやってるようでは「あいつは脱落だな」みたいな見方がなされたりします。僕も修習で裁判所内部にいたとき、裁判官が全国人事異動を告げる電話帳みたいな無味乾燥なリストをもとに雑談してる風景を良く見ました。元裁判官で今弁護士というおっちゃんが裁判官室に入ってきて、「○○さん、○○高裁統括だってねえ、意外だねえ」みたいな話をしてました。ほんま、好きやねんな、そーゆーの。
Aの家元制度ですけど、裏千家がどうしたとか、池ノ坊がどうしたという世界が、日本全国津々浦々に広がってます。医師の世界の東大閥・慶応閥をはじめ、系列会社があり、身内意識があり。これはもう暴力団や暴走族の世界にまでありますもんね。日本人というのは、単体存在がしにくく、組織的結合性を本来的にもっているのでしょうか。なんか化学の授業やったような、原子や分子で単一に存在するケースはマレであり、原子モデルに継手みたいなのが伸びていて、ほっておくと他の原子や分子と結合しやすい性格をもつとかなんとか、やりましたよね?うろ覚えだけど。
確かに巨大な組織を作ったり、シンジケートを作った方が組織活動の経済としては有利であるという事実はあろうかと思います。しかし、それを超えて、そういう組織に属することをもって安心するというか、居場所があってうれしいというか、そういうどうしようもない生理的傾向があるのでしょう。「身内/よそ者」意識です。新しい分野だったらそういうことないかというと、より歴然とあったりしますよね。これはもう「宇宙誕生の秘密」みたいに、家元創造の過程がリアルタイムに見られるから面白いのですが、ある新しい技術なり資格なりを日本に持ち込むと、大体「日本○○協会」みたいなものを作りますよね。でもってこれが一つだけだったらまだしも、幾つも幾つも乱立して、それぞれが学校作って、商品を販売して、同校の卒業生でなければ販売しないとか、会員でないと売ってはいけないとか、要するに「囲い込み」を始めるわけです。Aという組織の学校を出て資格をとっても、Bという組織では全然認められないとかね。自由な相互互換性がない。
オーストラリアの、というか西洋の学校や技術資格というのは、非常に互換的ですよね。まず交通ルールのような万人に適用されるような共通ルールを作る。○○という資格や学位(ディグリー)を認めるためには、○○と○○という科目を履修することと定められ、○○を履修したといえるためには、こういうカリキュラムでこういう実技をこれだけやるべしという基準がしっかりあります。あたかも「暗刻4つで四暗刻になる」という麻雀のルールのようなもので、「こうなったら1役、こうなったら2役、こうなったらマンガン」みたいに、これだけ履修したらディプロマ、これだけ履修したらアドバンスディプロマ、ここまでいったらバーチャローというルールがハッキリしてます。これは、自動車免許みたいなもので、どこでも共通。出来れば世界共通にしたいというくらい普遍性への志向性が強い。だから、Aという学校で履修した単位は、Bという学校でも認められ、エグゼンプション(履修免除)を受けられる。すごいのは個人教授であっても、その教授者が教授資格を認知されていれば、そこで習ったことは他所の学校にいっても免除されます。これは西欧人の普遍性志向の強さだと思うのですね。歴史的にどういう経過から出てきたのか知らないけど、おそらくはルネサンスあたりからきてるのかもしれないけど、学問というのはとにかく万人に開かれていないとならないという確固としたポリシーがあるように思います。
こういった自由な互換性のある社会からくると、日本は閉鎖的というよりも、互換性を拒否するところにその本質があるようにすら思えます。これは批判してるのではなく、そういう特質がある社会だということです。物事の原理からいって、互換性を広く認めてしまったら、ある集団の固有のアイデンティティや求心力が薄まってしまいますもんね。Aという集団の会員にならないと、Aという資格で仕事ができないとか、商品が買えないからこそ、Aという集団の独自性や、構成員の帰属性が強くなる。それが、AでもBでもどこでも同じとなったら、別にAである必要なんかないもんね。そうなると、とりあえずAの家元としては、家元としての「うまみ」がなくなってしまうし、資格授与権をもとに法外な料金や上納金を徴収する権能を失い、自由経済競争に晒されることになります。教祖様から一介の商人に転落するわけですから、えらい話ですよね。家元制度というのは、経済活動でいえば、リピーターを永遠にリピーターとして固定し、商品の自由選択権を制度的に否定するものなのでしょう。公正取引法違反って気もしますな(^_^)。
ただ、それだけではなく、やっぱり家元制度を長年認めてきた僕らの社会は、それが生理的に合っているのでしょう。経済的損得でいえば、あの制度の中にはいって出世した方が得っちゃ得ですよね。あれは一種のマルチみたいなものだから、上にあがって自分が親になればなるほど上納金やロイヤリティの分配に預かれるわけだし、しかもそれが排他的に保証されるわけですから、いい話ですよね。かくして、寄らば大樹で、大きな組織に入り、組織内部に出世すればするほど少ない労力で多くの報酬を得られるというシステムになってるわけで、これは日本社会の特質になっているのでしょう。いつも書いているように、日本社会というのは、末端労働者になればなるほどその質は世界一優秀だけど、上にいけばいくほどダメになると。日本の首相が世界をリードすることなんかまず考えられない。それは上に行けば行くほど楽チンなシステムになってるからでしょう。
さらに、このシステムは日本人の「老後強迫神経症」にもマッチします。「老後を制するものは天下を制する」というエッセイをずっと昔に書きましたけど、とにかく老後、なにがなんでも老後、老後ばっかり心配している国民性があると思います。へたすれば中学生でも心配してますもんね。堺屋太一氏のネーミングを借りれば「先憂後楽」のメンタリティです。最初に苦労して、あとになって楽をしたいという、「苦あれば楽あり」パターンです。下級生のときは奴隷扱いされても上級生になったら王侯貴族になるというシステムが、我々はことのほか大好きなのでしょう。上に行けば行くほど厳しい責任と批判に晒されるという西欧システムはあんまり好きじゃないのでしょう。老人に優しい、いかにもアジア文明の末裔たる長老主義ですな。そして、それが今の日本を動脈硬化させて暗くさせている最大の原因だという気がします。昔のように皆が50歳で死んでたらそれなりに血行循環も良かったのでしょうけどねー。寿命が延びて、高齢化し始めた時点で、僕らの社会システムを改めるべきだったという気がします。
ところで、何の話をしてるかというと、大学の話です。
なんでこれが大学の話かというと、知っておくべきだと思うからですよ、海外の大学を卒業したと帰っていく母国がどういう所かということを。海外留学をお考えの諸氏は、心しておかれるといいです。あなた方が再び帰っていく社会は、こういう家元社会だということを。
これをプラスとみるか、マイナスとみるかはあなた次第でしょう。
海外大学卒は絶対数でいっても大分増えてきました。雅子皇太子妃だってハーバード卒です(そのあと東大いってるけど)。それでも、やっぱり、雅子さんが居場所に困っている(かのように見える)ように、海外大学卒の人の「居場所」は、日本社会にはまだまだ未整備だと思います。なんせランキングでも何処に入れたらいいのか分からんし、家元や学閥からも立ち位置が不明確でしょう。ですので、ランキングや家元集団でおいしい思いをすることはないでしょう。それは覚悟すべきでしょうね。
その代わり、日本社会ではあんまり得られない「異分子としての自由」は得られると思います。階級に組み込まれることが少ないので、それだけ自由に振舞うこともできるし、逆に不自由な制約を受けることもあるでしょう。それは覚悟も期待もすべきでしょうし、同時に、より賢く、より軽やかに「個」としてのご自身の人生を切り開いていって欲しいと思います。
ただ、書いていて思ったのですが、別にこれって海外の大学を出るまでもなく、海外に何年か住んでたらそれでいいのかなって気もしますね。文化というのは、ある種非合理的で、ケッタイなもので、自然と理屈を超越した宗教色が出てくるように思うのですが、単一文化社会である日本は、ナチュラルに「日本教」という宗教があるのでしょう。そして、海外の大学を出たり、あるいは僕のように海外に何年も暮らしていると、日本教以外の”教義”が頭の中に入ってしまいますから、日本教的には、「異教徒」にならざえるを得ないのでしょう。その疎外感、違和感というのはあると思います。そして違和感の代償として得られるのは自由です。というかね、自由と違和感は同一のものなのでしょうね。
もちろん日本に帰ってきてからも、日本教徒としてふるまうことは技術的には全然可能でしょう。生まれてこの方ずっとこれまでやってきたことですもんね。もとの日本社会を構成するワンピースとしての日本人に戻るのは、やってやれないことではないし、出来るでしょう。ワーホリとかの1年程度の短期滞在だったら、別に努力する必要もなく、自然に日本人に戻れるでしょうし、ワーホリは「いい思い出」として解毒されていくでしょう。しかし、数年単位で住んでしまうと、かなり思考や価値観の中枢まで「冒される」場合が多いでしょうから(どういう滞在の仕方をしてたかによるけど)、そのあと日本人として振舞うのには、多少の努力と技術が必要かもしれません。それでも、まあ、出来ますよ。それは。ただ、それをしたいかどうかは別問題だし、それこそが問題なのだけど。
のんびり書いてたらかなりページ数を費やしてしまった。もうそろそろUPしなきゃならない締め切り時間も近付いてます。大急ぎでまとめます。海外留学のメリットは、
@、良くも悪くも日本社会から離れられること。とりあえずは一時的に離れて日本教から”解脱”(あるいは”落伍”)するチャンスが与えられること。
A、そこで得られた日本社会の「異分子」としての違和感と自由を、その後の人生で抱えていくこと。それはプラスにもマイナスにも働きうるし、オンにしたりオフにしたりも出来るので、賢くやっていくこと。
ということでしょうね。
今回語りませんでしたが、以下のようなメリットも当然あります。
B、とにかくムッチャクチャ勉強させられることから、一生に一度くらいクソ勉強する機会があってもいいという側面もありつつ、それで落第して帰国という挫折感を抱くリスクもあります。ただ、いずれにせよ「いい経験」だとは思います。同時に、なにかやりたい分野があった場合「お腹いっぱい」に勉強できるとは思います。
C、大学を卒業できる程度やれば、それなりに英語を使えることになります。口語や実戦性にやや不安が残りつつも、それだけ出来れば大したもんですし、それは後々のスキルになるでしょう。
D、互換性の認められる広い普遍的な世界にでるキッカケが与えられるでしょう。オーストラリアの大学を出たから就職はオーストラリアしかダメなんて閉鎖性はないです。今後世界のどこにいっても働けるような気がするでしょうし(気がするだけかもしれんけど)、そういった世界への登竜門としての機能はあります。ただし、就職になると、そんなに簡単に仕事があるか論と、労働ビザはどうする論という別次元の問題が出てきます。
E、2年以上大学にいけば、オーストラリアの永住権を取得できるチャンスがある。新卒者永住権ですね。実際問題、オーストラリアの大学にいっている日本人の多くのメイン目的はこれだったりするのでしょう。ただし、ビザの規定は猫の目のように変わります。入学時にそうだったとしても卒業時にそうなってるとは限らないという、いわゆる「二階に上ってから梯子を外される」という憂目にあるリスクもあります。
最後の最後に物凄い大雑把な要約をしますと、海外の大学留学は、あなたのパーソナルな面を深化させる方向に働くでしょう。ともかくも一人ぼっちでやっていかなきゃいけないし、こっちでも異民族、日本に帰っても部分的には異民族になりますから、「個」としてのあなたを育ててくれるとは思います。そのあとの人生も「個」として動いていくようになるでしょう。逆に日本の大学の場合は、「個」としての自分を育てるというよりは、あなたのソーシャルな面(社会的ステイタス)を育ててくれるでしょう。階級社会内部における「出世」ですよね。
まあ、どっちも必要なことだとは思います。まず個人としてしっかりしてなければ話にならないでしょうが、あなたの存在ややり方を社会的に認知させないと現実的には意味がないです。その意味で、ソーシャルなステイタスも大事。別に虚栄心とか下らないランキング意識ではなく、「他人から文句言われたくなかったらそれなりにエラくなれ」ってことですね。個性が立つのはいいんだけど、どこにいっても仲間外れだったら活動範囲も狭められてしまうし。自分の個性の自衛力・防衛力としてのステイタスです。もう既に個性が立ちまくってる人は、これ以上海外にいって個性をさらに立たせたりせずに、日本社会での地歩を築いた方がいいかもしれないですよね。作家とか教授とか社長が多少「変な人」だったとしても社会はこれを許しますが、ペーペーで変人だったら厳しいでしょう。
しかしですね、これらのメリットというのは、別に大学にいかんでも得られるのではないか、、という気もしますね。話はまた元に戻るのですが、数百万円投資しなくても、本人さえその気ならなんぼでも鍛えられるような気もしますね(Eのビザは別次元だけど)。ただ、その気になって自分で出来るくらいなら、最初から苦労はいらないのかもしれないです。そのあたりが、社会における大学という存在の難しいところなのかもしれません。絶対必要ってもんでもないけど、まるで無意味ってもんでもないという。生ぬるい実用性みたいなものがありますよね。だから、結局は個々人がいかに賢く利用するかなんでしょうね。まあ、こう言ってしまえば、何だってそうなんだろうけど。
文責:田村