前回に続いて大学について書きます。前回紹介した新聞記事(5月7日土曜)のあと、月曜、火曜にわたってまた関連記事群が特集されていました。いずれもオーストラリアの大学を取り巻く状況について様々な観点から取材したものですが、大きなフレームワークは同じで、政府の補助金カット→大学財政が厳しくなる→海外留学生を大量に招く→これが諸問題を引き起こす、という構図です。
この問題は多岐にわたるのですが、一つは英語。ただでさえ超ハードなこちらの大学の講義を、第二言語である英語でやっていけるには相当の英語力が必要なのですが、ここで苦労したり落第している留学生があとを絶たないどころか増加しているし、構造的に問題をはらんでいる。つまり大学入学資格であるIELTS(英語テスト)の基準点を、留学生ほしさのあまり引き下げている傾向すらあるし、これは海外の販売拠点、つまりエージェント側では「こんな高い基準では誰も入れない、もっと引き下げて欲しい」という強い意向に迎合してのことであるという。具体的に幾つかの大学が指摘されてましたが、IELTSの要求点数を6.5点から6.0点に下げているという。大学の現場では6.5点でも低いという声もあり、7点に引き上げようとして大学上層部から却下されてしまったケースもあるといいます。
Twenty-four of Australia's 40 universities set a general undergraduate entry English score of 6 when the IELTS organisation recommended 6.5, Ms Cooper said.(中略)
A paper by the International English Centre at Perth's Edith Cowan University last year said an IELTS score of 6 "is inadequate for study in a university setting, especially if a student achieves this score after an intensive test-taking practice course".
But the dean of La Trobe University's law and management faculty, Raymond Harbridge, said Australian universities were under growing pressure from their overseas partners to soften the English entry criteria. Professor Harbridge said that when he was in China last month he was pressed by at least eight of the university's private education providers in different cities to lower the IELTS entry requirement to masters programs from 6.5 to 6. Some universities, which he refused to name, had complied, he said.
Dr Michael Paton, the teaching quality fellow in Sydney University's economics and business faculty, tried unsuccessfully to persuade the university to raise its entry score from 6.5 to 7, because students were unable to paraphrase or summarise at lower levels.(”English tests faked to cheat on residency”May 9, 2005)
可哀想なのが、母国で上手いこと言われてこちらにやってきた留学生諸氏であり、はじめて教室に出てガーンとなったりします。紹介されていたのはMBAコースで頑張ってるタイの学生さんですが、最初のレポート課題で30点中7点をつけられ、クラスの中の10人のタイ学生のうち合格したのは1人だけだったと。("A tough lesson in grasping foreign tongues"May 9, 2005)
ここで紹介されている留学生君がボヤいているように、「こんなんだったら、大学も僕らを入学させるべきじゃなかった」ということで、そもそもついていけるだけの実力がない人間を入学させると、まずもって本人が不幸な目にあうし、結果的に授業の進度やレベルを下げ、地元学生にもとばっちりがいくという。また、こういう記事が出回ることにより、英語の不自由な留学生君はキャンパスの中でますます肩身の狭い思いをするかもしれないです。
既にこのHPで何度も言ってますけど、要求される英語レベルはかなり高いです。IELTS6点だって半端なレベルじゃないです。日本で受験すると結構点は取りやすいと聞きますが(周囲の受験生のレベルが低いからでしょう)、現地受験で6点というのは相当なものだといっていいでしょう。英語学校のスタッフさんと話をしてても、こちらにやってくる日本人ワーホリさんで滞在1年でレベル5(6段階の5、中上級)まで達することが出来るのは100人に一人いるかどうかだと言いますが、そのレベル5になってようやくIELTSの準備コースに入学が許可され、そこで集中的に特訓して受験してやっと合格というのが6点です。しかし、それでも全然足りない、場合によっては6.5点でも足りないといわれているのがこちらの大学の現状です。
大学へのダイレクトエントリーとか、いろいろな「近道」っぽいコースも種々広告されていますが、それで英語学校費用をたかだか10万20万円浮かせたところで、大学で1年落第したら百数十万円のロスですからね。結局ツケはまわってきます。また、別の記事に書かれてましたけど、留学生の多くは新卒者永住権という永住権狙いの人が多いのですが、首尾よくなんとか大学を卒業して資格を得て、永住権申請のリーチをかけても、移民局の段階で、「キミは英語がヘタだから永住権あげないよ」と言われてしまったケースもあるそうです(”Graduates fail visa tests and home-country teaching standards”May 9, 2005)。
もしあなたがオーストラリアの大学への留学という「野望」を抱いておられるとしたら=少年は大志を抱くべきですので、野望は大いに結構ですが=、死ぬ気で英語を勉強してください。もう鼻血はおろか、耳から血が出てくるくらい勉強しなはれ、と。「1日○時間」なんか生ぬるいこといってないで起きてる時間は全部勉強、寝てる間も夢のなかで勉強しなはれ。少なくとも、ちょっと前に抜粋した英語の記事原文を、英語だからといって読むのをパスしてるようでは話にならんでしょう。
僕も留学エージェントの一人なのでしょうが、留学エージェントがこんな消費者をディスカレッジするようなこと書いてていいんか?って人もいるでしょうけど、逆に留学エージェントが言わなくて誰が言うのよって思いますよ。外国の大学の現状なんか普通に生きてたら誰も知らないです。僕だってオーストラリアの大学はこうやって家に新聞が届くからわかる環境にいるけど、これがベルギーの大学の現状とかだったら全然知らんし、知るすべもないし、興味も無い。現場に近い奴が、遠い奴にできるだけ正しい情報を伝えるのは、なんちゅーのか、職業的というよりも人間的な義務じゃないのか。車のドライバー同士で「あっちでネズミ取りやってるぞ」とパッシングで知らせたりするけど、これがいい例なのかどうかわからんけど、知ってる奴が知らない奴に教えるのは、素朴な人間な情じゃないの?って気がします。
ただ、まあ、こんな「素朴」にやってるエージェントばっかりじゃないので、いい加減なエージェントも多いと書いてあります。エージェントは資格制度がないので、この機にオーストラリア政府でも規制を導入すべきという声もあるくらいです。「いい加減」というのも、多少商業的に「夢を売り」すぎたり、手続がトロかったりする程度なら許容範囲ですけど、もっと凄いケースがあるといいます。なにかというと、英語の試験のカンニング、”IELTSの替え玉受験の斡旋”をやったりするらしいです。新聞に載ってたのは主として中国のケースですけど、お金を貰って本人と偽って試験を受け、好成績を取り、その証明書で入学したり、永住権申請をするという。もう年間数千件という単位で存在してるのではないかと書かれています。日本の大学でも替え玉受験とかときどきあるから、そういうことがあっても不思議ではないですけど、でもね、しかし、、、すごいな。
あと、学生さんから授業料などのお金を貰ってそのままドロンというケース、あるいは使い込んで破産というケースもあるようです。これは現地でも良く聞く話ですけどね。可哀想なのは本人だけじゃなくて、大学もそうで、西シドニー大学の子会社みたいなビジネス学校、Sydney Graduate School of Management は営業的に大成功を収めた例として知られてますが、いい加減なマネージメントと授業料未収損金が山積して大変なことになってるようです。例えば、収入が激減してるのにスタッフの給料だけ倍増してるとか、未収授業料については”Unrecovered debts, largely from uncollected student fees, rose from $1.4 million to $2.2 million.”とか書かれてます。でもって、当局は現スタッフのオーバーホールに必死だそうです(”School's dream run takes a nightmare turn”May 10, 2005)。
このあたりちょっと面白いのは、営業成績が下がっているのに、自分たちの給料だけはせっせと倍にしてるという、オーストラリア人の「調子の乗り方」みたいなところです。こっちの人、すぐ調子に乗りますからねー。まあ、そう見えるのは石橋系堅実派の日本人だからでしょうけど、彼らは「いけるときにはガンガンいったらんかい」って感じで、僕らにはちょっとついていけないです。今、オーストラリア人ひとりあたりの負債総額は世界でもトップクラスらしく、バブル経済だからガンガンローンで買いまくってます。日本のバブルを経験した僕でさえ、よくまあそこまで調子に乗れるな、と感心するくらい。あと、大学のマネージメント能力、さらには事務能力の拙劣さは既に何度も書きましたので言うまでもないです。だから僕も大学系の語学学校は紹介したくないのですし。でも、未収授業料が2億円というのはすごいですね。全国で、ではなく、たった一つの学校で、ですから。まあ、そればかりが原因ではないとは思いますが、いかにエージェント段階でお金が止まってしまっているか、ですね。
記事の紹介はこのくらいにして、ちょっと思うところを書いてみたいと思います。
「そこまでしてまで大学いかないとならんのか?」という根源的な疑問です。
この疑問は、あなたがどこの国の人かによって随分違うとは思います。あなたがもっと発展途上国に生まれたならば、やはり大学卒、しかも海外大学卒の資格は、キャリアに大きく資するでしょう。そもそも大学に行けるだけの裕福な階層にいることがラッキーですよね。それをさらに伸展すべく留学しようというのは、現実的な選択としても非常に頷けます。発展途上国という言い方は、馬鹿にした言い方というよりも、今や羨望的な言い方で、「まだ発展・成長する余地がある」ということですよね。つまり将来自分が就職しうるポストや地位や収入がガンガン広がってる社会ということでしょう。高学歴高資格をひっさげて、その肥沃な大地に乗り込んで、思うがままに自分の人生を描いていけるということで、大学に行く価値はあると思います。
あるいは永住権にしても、社会体制が不安だったり、構造的に貧困な状況に追いやられてしまったりしている国や社会からしたら、やっぱりオーストラリアは魅力だと思いますよ。生活水準も、収入水準も、福祉水準も高いし。かなりデフレ貧乏になったとはいえ、まだまだ裕福な日本にいるとなかなかピンとこないけど、仮に、ちょっとバイトやっただけで年収5000万円は固く、ましてや大学を出て専門職についたらプール付き豪邸+自家用クルーザー&ジェット機が当たり前というという国があったら(そんな国ないけど)、あなただって行きたいと思うでしょ?嘘のような生活格差がそこにあったら、人はやはりいい方を選びたいと思うでしょう。
こういう背景事情を持っている人たちだったら、多少難アリだろうが、オーストラリアの大学に行こうというのは分かります。
しかし、日本人の場合はどうか?という疑問はあります。実際、前回に引用したように、日本人留学生の数は、アジア諸国のなかの10番目というかなり低いところにありますが。
この疑問は、@そもそも大学に行くと(国内外を問わず)どんなイイコトがあるのか?、A留学するメリットという二点に分かれます。
前者の「なんで大学に行くの?」ですが、日本がまだまだ発展途上国だった頃は、大学=出世という方程式が社会的事実として厳然とあったと思います。明治時代は、小説「坂の上の雲」の世界で、「朝ニアッテハ国会議長、野ニアッテハ大学博士」というのが多少とも志のある日本男子の共通の夢であり、村人全員に見送られながら「男子志を立て郷関を出ず」と都会に出てきて、頑張ってたわけでしょう。個人としての出世栄達がそのまま国家や社会に対する貢献であり父母に対する最大の親孝行であったという、エブリワンハッピーな幸福な時代でありました。士農工商のガチガチの身分制度から一転して、能力さえあれば水呑み百姓出身だろうが国の中枢までいける世の中になったということで、その頃の日本人のワクワク感は現在の閉塞した日本人の100倍くらいあったのではなかろうか。
戦後の復興〜高度経済成長期においても、大学=出世という方程式はなお続きます。国中が発展し、分野によっては年間成長率300%なんて嘘みたいに爆発してた頃ですから、多少の不況や「大学は出たけれど、、」というボヤキ時期はありつつも、仕事なんか幾らでもあったし、人材も足りなきゃ人手も足りない。中卒高卒=「金の卵」といわれたのもこの頃。チャンスなんか幾らでも転がっていて、その中でどんどん大きな夢を描いていくための足がかりとして「大卒」というのは大きな意味を持ったわけで、大学を行く「意味」=現世利益は十分にあった。このリアルな現実を目の前にした世代が、我が子をどうしても大学にやりたいと思った。
しかし、成長が一段落し、バブル後の長い停滞を経た現在、成長の余地は乏しく(見え)、高齢化はターボ加速し、国家財政は火の車、人々は仕事を増やすよりもいかに減らすか(リストラ)に躍起になっているこの世の中で、いったいどんな夢を持ってどんな生き方をしたらいいのか、ですね。大学に行く/行かないというのは、単純のそれだけの問いかけではなく、もっと大きな社会的図式の中の一部に過ぎないわけで、全体の構造が変われば大学の意味もまた変わります。例えば、戦時中だったら徴兵から逃れるために大学に行く、なんて話もあったわけです。
しかしながら、現在の日本の大学進学率は過去最高を更新しつつあります。統計や数え方によってはマチマチながらも、大学進学率はほぼ50%に近いところまでいってるでしょう。半分も大学に行くなんて状況は、「この国はじまって以来」でしょうけど、しかし何のためにこんなに皆さん行くのだろうか?なにかのサクセスモデルがあって、その第一歩として行っているというよりは、ありていに言って、「皆が行くから、行かないとカッコ悪い」とか、「激しいリストラの嵐で生き残るためにはせめて大学くらい」とかそんな感じだと思います。明確な指針があって行くというよりは、明確な指針が無い、あるいは見えないからこそ、目の前にあるぶっ太い道があったら、とりあえずそこに行きましょうってな感じだと思います。
今時「大学を出てれば人生バッチリ!」なんて能天気なことを考えてる人もいないでしょう。半分も大学に行くんだったら「大卒」という肩書の価値も殆どゼロに近いでしょう。社会のエリートやらの「おいしい立場」が常に一定に限られている以上、そこに辿り付ける人の割合も常に一定であり、そこへ至るシビアさは別に変わることはない。物理化学の法則のように、努力と苦労の総量は常に一定なのでしょう。例えば医師になる道が厳しくごく少数しか医師になれなかった時代は、その代わり医者になってしまえば一生安泰というメリットはあったけど、医師を大量に増員し、医師になる道が楽になったら、今度は医師になった後に生き残りをかけて医師同士で争わねばならなくなる。苦労の総量は同じ。大学進学率が高まっても、特権的地位に行ける割合が同じならば、大学進学の意味自体が低下するだけのことでしょう。
正直言って、僕も、今の日本で大学に行くことの処世術的なメリットというのは殆どないと思います。つまり「大学さえ出てれば」という方法論は今や大した意味をもたない。僕がお世話している方々でも大学卒の人もいればそうでない人もいます。いちいち聞いたりはしませんが、ふとした雑談とか入学申込書に記載する折などにわかったりすることもありますが、でも両者を隔てる差はゼロといってもいいです。「ああ、大卒はやっぱり違うな」と思ったことなど皆無でしょう。大卒だからといって、いまどきの日本では誰も感動してくれないでしょうし、それでなんかイイコトがあるとは、あんまり思えないです。まあ、しかし、社会というのはマダラに進行しますから、スポット的には未だに30年前の時代遅れの価値観でやってる部分もあるでしょうから、そういうところに行くなら大卒もまだ多少の神通力はあろうかと思います。そんなところに行くならば、ですけどね。
じゃあ全く意味はないかというと別にそんなことはないです。ファッションとしての肩書の神通力が無くなったら、今度は「最高学府」としてのソリッドな実質が出てくるだと思います。つまり、「学ぶ場所」としての価値です。医者になりたかったらやっぱり医学部で勉強するのが早道でしょうし、原子力技術者になりたかったらそれ相応の学部で学ぶべきでしょう。つまりは「専門的学術を学ぶ場」に、専門的学術を学びたい人が行く、という意味では今でも意味はあるでしょう。というか、この意味すら失われたら、大学は大学じゃないですわ。もっとも、本当に勉強したいと思ってる大学生がどれだけいるのか、彼らを満足させられるだけの物的人的資源を持ってる大学がどれだけあるのか、という疑問は、ありますけど。
それで望む専門的な仕事に就けたら、高いといわれる授業料も満更無駄ではないとは思います。
その仕事が割りの合う仕事であるかどうか、社会的にステイタスがあるかどうかなんか関係なく、自分が好きな領域で思う存分生きていけるのは、それ自体幸福なことだと思いますよ。例えば、ファーブル昆虫記のファーブルさんのように、好きな昆虫の世界で研究してられたら楽しいとか、子供が好きだから子供に囲まれていたら楽しいとか、メカが好きだから機械油の匂いにつつまれているだけで満足とか、そういう話です。
それに、本来の話で言えば、学問というのは、ソクラテスやプラトンの昔から、貴族がヒマツブシにやるのが極上のありかたであって、立身出世の道具に使うべきものではないです。やりたいからやる、知りたいからやる、学ぶと楽しいからやる、というのが本当の姿だと思います。これは、まあ理想論なんだけど、でも、その分野でそれなりに頭角をあらわしたり、実世間でプロとして通用するような連中というのは、多かれ少なかれ「好きだからやってる」という浮世離れしたところがあるんじゃないですかね。また、勉強が苦痛な人と、勉強が楽しみである人とでは、達成できる進度も自ずと差があるでしょう。好きでやってる奴にはかなわないって。
通じていえるのは、今は「とにかくこれをしておけばOK」というのが少ない時代ですから、それだけに自分の好み、夢、希望、勝手な思い込みでも何でもいいですから、「これが好き!」ってものを持っておくのが以前にも増して大事なことになっているのだと思います。大学という形式に意味がなくなった以上、「学びの場」という実質が浮上してきますから、それだけ自分が何を学びたいのかしっかり把握してる人の方が有利です。また、将来的にどんな職に就くかについても、自分の指針を持ってる人は強いでしょう。つまり、世の中が不透明になればなるほど、霧が深くなればなるほど、頼りになるのは自分自身の羅針盤だということですね。自分の羅針盤がしっかりしてない人ほど、世間的な価値観(どっちが有名かとか、カッコいいかとか)を頼りに進んでいかないとならないわけで、そしてまたこれが曖昧になってきてるだけに、ほんと、何をどうしたらいいのか途方に暮れるでしょう。
もう一点、日本の大学に行く意味ですが、「人柄がゆったりする」という効能があるように思います。これは昔々誰かが書いたのを読んで、「おお、たしかに」と思ったのですが。まず、一部理工系や資格試験系を除いて、日本の大学生は勉強しません。遊び呆けてます。それも4年間。嘆かわしいっちゃ嘆かわしい、情けないっちゃ情けないです。でも、「それがいいんだよ」という説もあるのですね。
大体ただでさえ日本人はセカセカしてるんだから、人生で4年くらい、ホケーっと過ごして丁度いいんだ、と。なんだかんだいって実社会はシビアでタイトですから、とかく目先のこと、実利的なことに頭がいくようになります。それはそれでストリート・ワイズ/世間知が身についていいんだけど、そればっかやってると人間性にゆとりがなくなってきてしまう。「ああ、この同じ空の下に、見知らぬ国の見知らぬ人々が今日も生活してるんだなあ」なんて浮世離れしたことを思い、「人はどうして過ちを犯すのだろう」と考え、ヒマで仕方がないから下らない遊びをし、金の無い者同士安酒で飲んだくれ、貧乏旅行をする、と。
そうやって思いっきり時間の無駄遣いをしてきた人間特有の、スコーンと抜けたような発想や人間性ってあると思うのですよ。そして、それが思わぬアドバンテージになったり、多少のロスは気にしない大人的な人柄を作ることもある。バーゲンに皆が殺到しているとき、上手に立ち回って賢くゲットしてる人もいるでしょうが、皆の動きに取り残されて「人はなぜバーゲンにああも殺到するのだろうか」「なんで女の人が多いのかな、男はバーゲンにそんなに血眼にならないのかな」とボケーっと考えたりするわけですが、それが思わぬビジネスチャンスにつながる視点を提供するってこともあるわけです。
セコセコ&ビシッと抜け目なく、遺漏なく、如才なくやっていくことなんか、日本の実社会に出ればいやでも誰でもスキルとして覚えます。しかし、そんな近視眼的なスキルだけではどうしようもない巨大な壁なり、仕事があるわけであって、そういうときに、大学の遊興生活時代に作り上げた、ぼややーんとして茫洋で巨視的な見方が役にたったりすることもあるでしょう。
まあ、あくまで「することもある」程度で、絶対に役に立つとか言うつもりはありません。遊びすぎて芯まで腑抜けに成り下がる奴も多々いようかとは思いますから、一概には言えないです。でも、セコセコした日本社会において、「せめて四年くらいは遊んでおいで」っていうのは、僕もそう思いますね。ただ、そのときにセコセコ遊んじゃダメですよ。「こんなこと出来るのは学生時代だけだから」とか、そんな若年寄みたいな計算をしてたら意味ないです。「時間は無限にあるんだ」と、湯水のように時間を無駄にする王侯貴族的な豊かさがないと、こういった感性というのは育まれないですから。
今の日本で大学に行く意味というのは、実はこれが一番大きいかもしれないです。だから、好きな分野にいって必死に楽しく勉強するか、はたまた遊び呆けるか、ですね。なんとなく大学にいって、なんとなく真面目に出席して、必死に勉強するわけじゃないけど、適当にチマチマ形を整えるみたいにやってるというのは、大学の利用方法としてはどんなもんかな、って気がします。なんによらず、高校の延長みたいに大学にいってたらアカンよ。
でも、逆説的なんだけど、必死に勉強する大学生活って、ある意味「適当に遊んで、適当に単位取って」という連中よりもよく遊んでるケースもよくあります。東大出の裁判官と話していたら、彼も学生時代、貧乏旅行していて野宿してたらお巡りさんに職務質問をうけ、署まで連れて行かれたとかいいます。僕の行ってた司法試験のための研究室では、朝から晩まで人生かけて皆さん超勉強してるわけですが(最初入室が許されたとき、物凄い気合オーラが漲っていてビビった)、それだけに息抜きも過激に馬鹿馬鹿しかったりしました。真夏の炎天下に、ガラーンとしたキャンパスのグランドにぞろぞろ出て、千本ノックやったりとか。もう吐くまでやってましたもんね。「なんでそんなバカなことを」とか皆思っているんだけど、メチャクチャ楽しかった。今でも受験時代の思い出というと、目が痛くなるようなグランドの陽射しの中を走ってた光景だったりします。西欧の大学も勉強は超ハードだけど、遊びもしっかりやってたりしますから、そのあたりは似通っているのかもしれません。
次にオーストラリアの大学に留学するメリットについてですが、既に大分長くなってしまったのでこのくらいにしておきます。以下、次回。
文責:田村