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オーストラリアとは何か?(その1)
「虚構の帝国」?オーストラリア
「オーストラリアってなんだ?」という途方もない巨大なテーマに挑戦します。オーストラリアに来る前から現在に至るまで、そして死ぬまでこの疑問は続くでしょう。答なんかでっこありません。答を待ってたら一生書けません。だから途中報告という形で、思ってることを書いて(書きなぐって)みます。
別の箇所でも少し触れましたが、「オーストラリアに住んでる人」(「オーストラリア人」ではなく敢えてこういう言い方をします)の特徴としては、誰もが「二重のアイデンティティ」を持ってるような気がします。つまり100%完全無欠な「オーストラリア人」というのは実は存在しないのではないかということです。
のっけから何をワケわかんないことを言っているのかというと、こういうことです。一般にオーストラリア人と聞いて連想するのが、「200年前にイギリスから渡ってきた入植者の御一統さんとその子孫または関係者」ということで、ぶっちゃけた話、「白人」「西洋人」であり、そのなかでも「イギリス人」であります。つまり「イギリス本国からオーストラリアにやってきた人」ということです。これが最も保守本流の「オーストラリア人」だと言えるでしょう。それより前はそもそも「オーストラリア」という地名国名すらありませんでしたから。
ところで、「イギリスから移り住んできたワタシ」というのはアインデンティティとしては非常に脆いんじゃないかと思います。「キミは結局イギリス人なの?オーストラリア人なの?」と問えば、結構答えに困るというか。
明治維新の後、多くの日本人(ヤマト民族)が屯田兵その他で北海道に入植し現在に至ってますが、ここで北海道が独立国家になったとすると、「北海道国の国民」になるであろう北海道住民の皆さんのアイデンティティはどうなっちゃうでしょうか。100%「もう俺は日本人じゃない!」とふっきれるでしょうか。多分ふっきることは出来ないと思います。おそらく時を重ねて、何代も下ったあとに、心からそう思える世代が登場してくることでしょう。
オーストラリアは、未だにその過渡期にあると思います。
オーストラリアの正式な元首はイギリス女王です。全ての土地の法形式的な所有権は、このクィーンエリザベス2世というオバハンの名義になってて、ここで土地買っても純粋な法理論でいえば特殊な地上権/借地権になると読んだことがあります。オーストラリアの政府機構で形式上最もエライのは首相ではなくガバーナーゼネラルという「女王の代理人」だったりするから、彼が首相を任免したりします。もっともこれは、日本でも首相の任命は天皇がやるとなってるように、形式的なものに過ぎないのですが、それでも数十年前、本当にこのガバーナーゼネラルが首相をクビにしてしまうという「事件」があったりします(当然大騒ぎになったようです)。
国旗も未だにユニオンジャックが残ってたりしますし(ニュージーランドの国旗と区別できる人は世界でもそんなに多くないだろう)、国歌も10年ちょっと前まではイギリス国歌(ゴッドセイブザクィーン)でしたし、要するに「イギリス植民地時代の尻尾」が未だにところどころに残っていたりするわけです。端的な話、2000年のシドニーオリンピックで開会式に臨席する「国で最もエライ人」は誰かとなると、やっぱりクィーンに来てもらわんとならんことになるのではないかと(これ、国内でも議論になってます)。
ここらへんの感覚は、世界でも珍しいほどアイデンティティ度100%の日本人(正確に言えば日本国民でヤマト民族だと思ってる人)からすると、他人事ながら「何やってんだか」と阿呆らしくなります。この阿呆らしさは、モナキスト(立憲君主制支持者→要するにイギリス女王をカシラに戴くことを積極的にOKとする人々)の言うこと聞いてるとさらに募ります。「我々は偉大なる大英帝国の遺産を引き継ぐ者であるから」云々などのたまうわけですが(多少誇張してますが)、「そんなにイギリス好きならとっととイギリスに帰ればいいじゃん」とツッコミを入れたくなるわけです。
余談ながら、ここらへんの感覚は、「地方都市に左遷されたエリート社員の心理」に似てると思います。田舎臭い現地の生活や住民とは「ちがうんだぜ」という優越感をよりどころにしつつ、左遷されたコンプレックスもあるわけです。一方、本社の人間に対しては「現地は自然があって、のびのびしていて素晴らしいよ」と威張ろうとするわけです。これに似てるなあと。つまり、保守本流オーストラリア人としては、先住民族アボリジニ、あとから来た南欧系や中東さらには最近のアジア系移民に対しては、「西洋文化の正当継承者の優越性」で対抗しようとするわけですが、それ一本でやってると本家のヨーロッパからすれば「所詮、落ちこぼれだろ」と言われちゃうわけです。で、そこは「太陽と海と開拓者魂のおおらかな自由平等のオーストラリアは、腐った階級社会のイギリスなんかよりも素晴らしい」と言って対抗するわけです。
このことを考える度に、「動物vs鳥戦争のコウモリ」の話を思い出します。場合に応じていいところ取りしてる鵺(ヌエ)的な、ゲゲゲの鬼太郎のネズミ男的な態度は、結局どちらからも馬鹿にされます。また、グローバル化の進展する昨今、「イギリス直系だからエライ」みたいな世界的エリート意識だけを支えに頑張ってる人々は、いずれ絶滅するだけの斜陽貴族でもあります。それが自分達でも分かってるだけにジレンマがあったりするわけでしょう。
さらに余談ながら、この屈折したエリート心理は、イギリス系に限らずどこの国からやってきた移民(+駐・滞在人)にも当てはまるように思います。王族が移民しないように、天皇が移民しないように、その国で最も中枢を占める保守層は決して一番美味しい本国を離れないのだと思います。移民するというのは、大なり小なり本国で冷や飯食わされたり、面白くないことがあってのことではなかろうか。また、アメリカみたいに「世界の中心」に野心をもって出撃していくのではなく、オーストラリアというG7にも入れないような「半分リゾート」国家に行くのですから尚更でしょう。これは移民に限らず、会社の海外勤務でも、エリート中のエリートはオーストラリアなんかに配転されないような気もします(ほんとかどうかは知らんけど、裁判官世界でも超エリートは法廷なんか出ないで事務政務に廻されるし)。
「オーストラリアの常識」を書いたポートラング(文献参照)は、「アメリカ人に出身を聞くと、よくぞ聞いてくれたとばかりに曾祖父の代からの移民物語を嬉しそうに語るが、オーストラリア人にそれを聞くとあまり語りたがらない」と指摘してます。これも本当かどうかは知らないけど、「We are NO.1!」と傲然と自慢できるアメリカ人に比べ、オーストラリア人の場合は、「どーせ俺たちゃイナカもん」と、どっか一本屈折してるのかもしれません。
さて、話をもとに戻します。二重アイデンティティの話でした。
最も中核となる保守/ブリティッシュ系白人層でさえ、「イギリス系オーストラリア人」ともいうべき「二つの祖国」をひきずってるのですから、それ以降にやってきた他のヨーロッパ諸国の人々においては尚更でしょう。日本人の蔑称でジャップというのがありますが(必ずしも蔑称として使われているわけでもないが)、イタリア人、ギリシャ人に対する蔑称スラングも沢山あることからして、あとからやってきた奴は「転校生いじめ」みたいなものが当然にある(まあ、日本の場合、在日韓国人の人々に国籍すら
与えない国籍血統主義をとってたり、ついこないだまでアイヌ民族に関して「旧土人なんたら法」という放送禁止用語の名称の法律があったりしてるので、こっちの差別基準でいえば「論外」レベルではありますが)。
一方、誰はばかることなく「オーストラリア人」と名乗れる正当血統者である先住民族アボリジニにおいては、そもそも「オーストラリア」などという「侵略者の帝国」を自分のアイデンティティにすること自体、ムカつきを感じる人もおられるでしょう。
だから結局、「オーストラリア」なんて「虚構の帝国」に過ぎないんじゃないか。ここにいる誰もが、「オーストラリア」というアイデンティティに片足しか突っ込んでなくて、もう片足は自分の出身民族国家にしっかりと残しているのではないか。だとすれば「オーストラリア人」という概念は、日本人が考える「日本人」という意味での民族国民概念とはちょっと違う、単なる「よそ者集団」ではないかという気もするのです。
このホームページに頻出する「隣の大家さん/サムおじさん」ですが、彼は40年前に地中海のマルタ島から移民してきました。彼はとてもいい人なのですが、1年半にわたって話を聞いてると面白いことに気づきます。彼が話す「We/我々」という主語が場合によって中身が違うのです。時と場合によって、「オーストラリア人」の中に自分が入ったり入らなかったりするわけですね。「この国の連中は〜」とちょっと距離をおいて喋るときもありますし、「われわれは〜」と一緒にして喋る場合もあります。そうかとおもうと、アジア系に対置して語るときは「我々ヨーロピアンは〜」という言い方になったりもします。
これはサムおじさんがどうのという話ではなく、誰だってそうなると思うのです。また先ほどネズミ男的とネガティブに表現しましたが、人間誰しもネズミ男的な部分は持ってると思うのですし、事実僕の中にもそういう「調子いい」部分はあります。ですので、思うのですけど、「オーストラリアは〜」と考えてくと、結局いつも「人間とはどういう生き物なんだ」論に辿り着いてしまうのですね。
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(田村)
1997/1/12