しかし、「過渡期」と言ったとおり、万物は流れゆくわけで、世代が進むに連れ、オーストラリアは独自のアイデンティティを確立していくさなかにあります。キレイゴトに過ぎないと揶揄する人もいるマルチカルチャリズムも、とにもかくにも数十年も実施されて行く中で、「新しい水」で生まれ育った若者は出てきます。彼らは(人にもよるけど)、古臭い「イギリスの尻尾」なんかどうでもよく、新しいオーストラリアをもってごく自然に自分のアイデンティティに取り込んでいけるでしょうし、実際アンケート調査などではそういう結果も出てます。
さきほどやや悪く描写したイギリス系オーストラリア人ですが、懐古趣味に取り付かれてるのは比率で言えば少ないと思われます。そうでなければ、そもそも数十年前に白豪主義を捨てなかったでしょう。マルチカルチャリズムにしようというのは、オーストラリアを取り巻く世界情勢がそれを強制したであろうけど、基本的には彼らの決断であり、彼らの意識でもあります。
前政権である労働党政権、とくにポールキーティング前首相は、ヨーロッパ懐古趣味に取り付かれ、海が奇麗だけが取り柄のオーストラリアでは、いずれは落ちぶれて「バナナ共和国(バナナを輸出するしか産業がない南半球の国家という一種の蔑称)」になってしまうとかなり過激な推進をしたようです。規制緩和をガンガンやるわ、アジア中心外交をするわ、2000年までに憲法も国旗も変え、我々のヘッドは「should be one of us」とアジり、アボリジニに対しては「我々は侵略者であった。全てはこの認識からはじめねばならない」と言い切り、ともあれガンガンやったわけです。ストリートファイターとかベアナックルファイター(素手のケンカ屋)とあだ名されるくらい、ディベートすれば舌鋒鋭く相手を追いつめ誰も勝てないという、まるで信長みたいな人だったのですが、前回の選挙で大きな揺れ戻しがきて、以後クソミソに言われたりしてます(本人は選挙敗北のあとスッパリ引退したけど)。
キーティング前首相を政治家としてどう評価するかは不勉強な僕にはよう言えませんが、感情的には好きです。実際(今は時流が変わって隠れてるけど)ファンも多いようです。とにかくポリシーが明確なのがいいし(ビッグピクチャー(大風呂敷)と揶揄されたりもするけど)、選挙敗北のスピーチでも「私は一度たりとも「次善の策」は選ばなかった。私が狙ってたのはいつだってBig oneだ」と言い残したように、辣腕の理想主義者だったと思います。国の最高権力者が一番過激だったりするというのは、掛け声ばっかりで何にも進まない日本の政治からすると羨ましいと思ったもんです。いっとき彼をヘッドにしたオーストラリア人は長い目で見れば幸福であったろうし、また短期的には(生活がシビアになるので)不幸であったかもしれない。
彼を排斥して、口を開けば「オーディナリィオーストラリアン(「普通の」オーストラリア人)のために」ばっかり言ってる、「リトルジョン」「グレイマン(灰色の人=パッとしない人)」とか言われてるスター性のないジョンハワードを首相に選んだオーストラリア人は、アホというか、「見えてないなあ、こいつら」と思ったもんです。そう思ってたら、日本でも自民党が返り咲いて相変わらず土建行政やろうとしてるので、もっと重症かなとも思うので、どこの国でも「先行き不安。変わらなきゃ。でも変わるの恐い」で反動的に保守路線に戻るのでありましょう。
でもそれで長続きするわきゃないから、また再反動もくるでしょう。オーストラリアでも「(アボリジニとか福祉優先とかアジア重視とか言ってないで)普通のオーストラリア人のために」だけではポリシーとして何も言ってないに等しい。要するに「そんなに急に変わるのヤダ」「寒いからコタツから出たくない」と言ってるだけの話ですから、いずれはそうも言ってられないでしょう。シビアな国際環境は、どの国に対してもコタツから出ることを強制するだろうし、強制するどころかコタツそのものを叩き壊していくだろう。内向きになって「目を瞑れば世界はなくなる」なんて言ってったって、世界は無くなりっこない。
話が逸れましたが、オーストラリアも今は過渡期ということでした。過渡期といえば日本も過渡期。そういえばアメリカも過渡期、中国も過渡期。よく考えたら世界はみーんな過渡期。もっと考えたら歴史は全て過渡期です。
だもんで「過渡期」と言っただけでは不十分で、そこで大切なのは「どこからどこへ向かうのか」というベクトルだと思います。で、ベクトルは一つだけではなく、二つも三つもあるのでしょうし、中学生の理科や高校の物理かなんかで習ったように、「力の合成」で最終的な方向が決まるのでしょう。
オーストラリアの過渡期の場合、出発点は「イギリス植民地」であり、そこからアイデンティティの模索というステージがあり、国際社会でのポジションという局面があると思います。最終的な方向性としては、マルチカルチャリズムやコスモポリタン化しか生き残る道はないと僕は思ってます。「200年しか伝統のない世界からの寄せ集め集団」としては、他の国家のように「古来からの伝統文化」に根ざした方向に向っても頭打ちでしょうし、所詮は「二番煎じ」にしかならない。寄せ集め部隊は寄せ集め部隊の特性を生かして、「伝統に縛られず、むしろ新しいものをクリエイトしていくフットワークの軽さ」「寄せ集めならではの多様性」を武器にやってくしかないと思われます。
それは移民国家、新興国家の宿命でもありますし強みでもあります。それを最も推し進めて強力になったのがアメリカでしょう。母国イギリスの植民地のうち、長男アメリカ、次男カナダ、三男オーストラリア、四男ニュージーランドとか言われますが、長男坊はきかん気が強く、とっとと親(イギリス)と大ケンカをして(独立戦争)、親離れします。そのおかげでアメリカは「アメリカ!」という強烈な文化を作り、「イギリス植民地の尻尾」は殆ど残ってないように思われますし、伝統に縛られない強烈な独自文化を日々作り続け、それが世界中の野心家を魅了し、人を集め、ますます巨大になっていくということで成り立ってるんじゃないかと。
一方、「長男の反抗」に懲りた親(イギリス)は、経済的に行き詰まってきて仕送り出来なくなったこともあり、オーストラリアの独立に関してはあっさり認めたもんだから、両者の関係は断絶もせず、それが故に親離れもせず、今日に至っています。「お兄ちゃんはしょうがないけど、おまえは違うよね」「うん」ってなもんだったのかもしれません。しかし、いつまでも「イギリス・マザコン」でやってられるわけもないから、「自立しなきゃ」というムーブメントは高まっていくでしょうし、統計調査でもリパブリカン(完全独立の共和制移行支持者)は増えてますし、既に過半数を超えてます。ほんでも、ジョンハワード首相あたりの政府筋は「仮にリファレンダム(国民投票)をして共和制になったとしても、49対51という結果だったら国中にシコリが残ってマズイんでないかい?」とかウジウジ言ってたりするわけですが、まあ、これも時間の問題でしょう。
ところで、独自路線をいくにしてもアメリカ方向に向うのかどうかという問題があります。新規創造パワー溢れるコスモポリタン路線でいくにしても、僕としては、アメリカのように「強さ」「成功」を基調とした社会(アメリカンドリーム)に向ってもしょうがないだろうと思ってます。人口1800万ぽっちという国内市場の小ささからして国際大競争に打ち勝つ自国(製造)産業の成長はなかなかに難しかろうと思うからです。また、香港やシンガポールのように、製造業ではなく、金融センターやソフト系で勝負していくかというと、それも立地的に美味しくないようにも思われます。
じゃどうすんの?というと、そこが難しいのですね。僕もようわかりません。ただ漠然と思ってるのは、「力/強さの論理」で成り立つわけではない、また新しい価値原理で成り立つ社会、その方向性だと思います。早い話が、「経済力はダメ。でもこんなにハッピー」というカラクリを作れるかどうかだと。資本主義的競争原理だけでやってくと、半数(以上)は敗者になりますから、敗者にとっては楽しい社会ではない。また敗者の中には犯罪その他に向う者が出てくるから、治安悪化や二極分化も起きて社会が不安定になります。社会保障その他で、社会コストが嵩む。死ぬほど努力して、他人蹴落として競争に打ち勝って高額所得になっても、税金は高いわ夜もおちおち歩けないわでは、なんも楽しいことがないではないかという。
そういう方向に向っても面白くないかなという気もしますし、事実オーストラリア人の中には「アメリカみたいになってはいけない」と言う人も多いです。じゃどうやって「のんびりハッピー社会」を作れるかですが、これってオーストラリアだけではなく、日本にも青写真が求められているだろうし、アメリカだってどの国だって突き当たる、人類共通の課題のようにも思われます。
そこでオーストラリアなんですが、いろいろとその素材はあるように思うのです。ひとつは鬱陶しい階級社会ではなく、イーガリタリアニズム(平等主義)やフェアゴー(公平の精神)が根付いていること。一つは、農産物鉱産物が豊富なので、贅沢言わなきゃ「鎖国」してもやっていけること。働くことよりは遊ぶことに熱心で、遊ぶ場所も豊富で、遊ぶ技術も習熟していること。他民族国家でありながら、内戦状態に陥らず、「なんでもある」ことを積極的に楽しもうという姿勢が定着しつつあること(シドニーどこにいってもタイ料理屋があり、料理番組でも「今日はタイ風にしましょう」と自然に言ってたりして、流行を超えて完全に定着してるとか)。
そして最後には、昨今オーストラリアに移民してくる人々は、僕も含めて、そういう部分をオーストラリアの良さとして認めてやってきていることです。真剣にサクセスを求めるならアメリカ行きます。先行投資なら中国行きます。伝統好きならヨーロッパ行きます。涅槃の境地にいきたいならインド行きます(って違うか)。そんななかで敢えてオーストラリアを選ぶのは、成功、競争、力などのキーワードとはまた違った価値を見出してのことではないかと思うのですね。
類は友を確かに呼びます。世界中からそういう連中が集まって、そういうポリシーの人たちの比率が増えれば、さらに増幅効果で似た者同士が集まるだろう。そんななかで、「どうやったらハッピーになれる社会が作れるか」でやってりゃ案外出来るかもしれんなという気もしますし、そのヒントが得られたらいいなというのが僕の、あるいはAPLaCのもう一つの目標でもあります。最高に洗練された社会行政システムは持ちながら、そこそこ世界水準の経済学術レベルも維持しながら、「でもそれで皆がハッピーになんなきゃ何の意味もないよ」と言えるだけの哲学。適度にシビアで、適度にのんびりするというそのレシピーこそが難しく、求められるものなのかなという気もしています。
それが出来るのかどうか皆目わかりませんし、悲観的な見方に傾くこともありますが、でもどっかでそれ真剣にやらんと、開発成長競争だけでやってたら地球資源や環境の関係からも、「全員が勝つ競争はない」という自明の理からも、いずれは頭打ちになちゃうようにも思います。どうしたらいいと思います?
田村
1997/1/12