シドニー雑記帳
世界周遊旅行記 その4
− 英語と日本語 −
今回、英語国アメリカ、デンマーク語国デンマーク、日本語国日本と3ヶ国を廻ったわけですが、その中で「英語と日本語」について気付いたことを挙げてみたいと思います。
前回ご紹介したとおり、あんまりパッとしないデンマーク訪問だったわけですが、その中で非常に印象的だったことがあります。それは「デンマーク人はほとんど英語を話せる」という事実でした。我々の親世代になると英語教育を受けていないのか、使わないから忘れちゃったのか喋れないのですが、それでもドイツ語程度は話せる人も結構いるそうです(私はドイツ語知らないので、彼らのドイツ語のレベルは計りようもないのですが)。
田舎の中学3年生の子とも英語で会話しましたが、語彙力はまだ十分ではないけど、ふつうに会話するには全く遜色ない英語でした。特に英語塾に行ってるというわけでもなく、普通に学校の授業受けてるだけの中3女子です(英語教育は日本と同様、中1からスタートします)。日本の中学生じゃ、英会話教室に行っててもあそこまでは上達しないでしょう。
また、特に日常英語を使っていない大人でも「英語を喋るのは高校卒業以来だから15年ぶりかな」なんて言いながらペラペラ喋る。15年ぶりでなんでそんなに喋れるのぉ〜?!と驚嘆いたしました。下手すると私の方がヘタなくらい。
「なんでなんで、デンマーク人は皆あんなに英語喋れるの?」と聞き出したところ、理由はいくつかあるようです。
- デンマーク語と英語はやっぱり似てる。少なくとも日本語と英語に比べれば、語彙も文法も似てる。そして、これが決定的だと思うのだが、語順が同じ。日本語と英語では語順が違うから、頭を切り替えるのに時間がかかるけど、語順が同じならただ単語をあてはめていくだけだから、単語さえ一旦覚えてしまえば楽だろう。だから、日本人が英語を学ぶよりも、ヨーロッパ人が英語を学ぶ方がずーっと楽だと思われる。うう、悔しい。
- 政府が外国語教育に力を入れている。国民たった500万人で国としてやってくのは無理だから、出来るだけ外国語を学んで外国に出て、外国と交流しないと産業が成り立たない。実際、子供の頃から「いい仕事に就きたければ、英語をマスターせよ」と言われ続けてきたそうです。
- 大学では授業が英語で行なわれる。これも政府が外国語教育に力を入れている一例に過ぎないのだが、これが要因としてはデカイと思われる。大学に行きたければ英語をマスターするしかないのだから、中学高校から必死こいて勉強する。万一、大学に入れても、英語出来なければ入ってから苦労する。そいでもって、大学時代から英語でモノ考えたり、論文書いたりするクセがついてるから、企業に入ってからも日常的に自然に英語を使うようになる。
そういうわけで、私としては暗いデンマーク滞在中、相手が英語喋ってくれることで精神的にかなり救われました。逆に、ラースを日本に連れていった時に、私の親戚や友達はあんなに英語喋れる人は少ないし、どうしよーと心配したくらいです。まあ、結果的にはなんとかなったのですが。
さて、ここで疑問が湧いてきます。何故、日本人は英語が喋れないのか?と。「なぜデンマーク人が英語を喋れるか」の反対を考えれば、大雑把な仮説は出てくるでしょう。
- 日本語と英語が違いすぎる。私たち日本人が中学高校大学と10年も英語やっても喋れるようにならないのは、日本の英語教育のせいだけではないと思います。言語のモトにある概念が母国語とあまりにも違うので、その馴染みのない概念を自然に身につけるのに、ものすごい時間を要するのでしょう。
実際、オーストラリアでも日本語教育が盛んだが、がんばって勉強するわりに、他のヨーロッパ系言語に比べて伸びないそうです。で、最近の教育界では「日本語なんかいくら頑張っても使い物にならないのだから、日本語を第二外国語から外そう」という動きも出てきているくらい。つまり、日本人が英語学習に苦労するのと同じように(いや、それ以上か。漢字もあるし)、オーストラリア人も日本語学習に苦労しているわけです。
- 政府が外国語教育に力を入れている・・とは言い難い(最近、英語教育を小学校にも取り入れることになったそうだが、教育内容までは検討しきれていないとか)。そもそも英語学習に対するモチベーションが弱すぎる。1億2千万の人口がいれば、国内だけで産業は成立するのだから、なにも皆して英語を学んで海外と交流する必要はない。英語なんて限られた人たちだけがマスターしてくれれば問題ないのであって、庶民が苦労して学んだところでメリットはそうそうない。
- 大学の授業はすべて英語で行なわれる・・なんてことは、ありえないだろうな。最近じゃ学生数が減ったから学生集めのマーケティングで英語で授業する学部をウリにした大学も出てきているようだけど、そう簡単にメジャーにはならないでしょう。なんせ先にも言ったようにモチベーションがないもん。
そこでハタと気付いたのですが、日本人は本当に英語を学ぶ必要があるのだろうか?と。「1億2千万の日本語スピーカーがいるなら、日本語圏だけで経済も文化も成立するんだから、英語なんか勉強する必要ないんじゃないの?」とラースは言います。確かに、日本の出版物刊行量は世界一とも聞きますし、日本語文献読んでいれば世界のほとんどのことは分かります。産業、経済的にも一部のエリートが海外交渉してくれればいいわけだし、英語スピーカーと日常接する機会もそんなにないし。だいたい英語マスターして何かいいことあるのん?という。
一昔前の日本には、なんだかしらないけど「英語喋れるとカッコイイ」という価値観があったりして、英語を使って何をするという具体的な目的などなく、ただただ「英語喋れるようになりたいから」という純粋な目的で英語学校に行ってる人が多かったように思います。私も大学時代、なんとはなしに「英語喋れたらいいな」で、ラジオ講座を聴いてみたり、ECCなどに通っていた時期もあったくらいです。けど、決まって長続きしない。そりゃそうです、確たるモチベーションもご褒美もないんですもん。
今回、東京でとある英会話学校の車内広告を見ました。「英語を喋れると10億人(人数はウロ覚えですが)の人とコミュニケートできる!」というキャッチコピーに、私は「あれ?」と思いました。「英会話を学ぶのに、そんな具体的な理屈みたいな目的が必要になったのか」と。ちょっと前までは「英語を喋れると云々」なんてことも考えずに、「英語?勿論喋れるようになれたらいいじゃん」という単純反応が一般的だったと思うんです。少なくとも英会話学校に行くのに「英語が喋ると、こういうメリットがある」なんて具体的な理由は必要なかったと思うんですね。で、このキャッチコピーに、ちょっとした「時代の変遷」を感じたわけです。
じゃあ、英会話を学ぼうとする意識の裏にある、日本人の変化とは何なのか? 考えてみたのですが、
- 景気が悪くなったので、「余芸/趣味」としての英会話に捻出するだけの金銭的余裕がなくなった。折しも英会話学校が乱立したため市場競争が激しくなり、生徒獲得もままならなくなっている。だから、英会話学校としては、生徒確保のためには具体的に「英語を喋れることのメリット」を訴求しなければならなくなった。
- 日本経済の悪化により、外資系企業が乗り出してきた。マツダもフォードに買収されて以来、元マツダ社員は必死こいて英語を勉強していることだろう。買収されなくても、職場の中で海外と接触する機会は増えていくだろう。つまり、職場での英語の必要性がより明確になってきた。
- 国内に外国人が増えてきた。街を歩いていて、英語で道を聞かれた経験をもつ人も増えているだろうし、お隣さんとゴミ出し当番の交渉をするにも英語が必要、という人だって、一定数いるかもしれない。
- プライベートでも海外に気軽に出られるようになって、意識的に海外が近くなってきた。海外に留学やら移住やらする人も珍しくないし、「いずれ私も」という目的意識が掻き立てられる出来事も身近に起るようになってきた。
・・・くらいでしょうか。いずれにしても、英語に対する具体的なニーズは今後もどんどん上がってくるでしょうね。そんなわけで、語学留学をお考えの方は、APLaCの「シドニー語学学校研究」をどうぞ(^^*)。
では、我々日本人が、タダでも違う英語をもっと楽にマスターする方法はないものでしょうか?
効率的な英語の学習方法については、私も田村も今までいろいろ考えてきたのですが、王道というものはやはりないように思います。そんないい方法があったら、教えて欲しいわい!という。結局は量の勝負であり、努力と根性がモノを言うのでしょう。で、その努力と根性が続けられるかどうかは、モチベーションひとつだと思うのですね。具体的なメリット=ご褒美、そして、具体的なデメリット=不利益を被るなど具体的な悔しい出来事がないと、続かないですわね。だから、「英語上達したければ、モチベーションの弱い日本にいないで、オーストラリアにおいで」と日頃から言っているのですが。
ちょっとここで、「日本で日本人と英語でコミュニケートしてきたラース君」のアイデアを紹介してみます。日本人に本気で英語マスターさせたかったら、こうすればいい、というのですね。
- 英語版の映画の吹き替えを止めて、字幕にすること。吹き替えしてしまえば、折角の生の英語が聞こえない。音を聴いているだけで、耳はかなり慣れてくる筈だ。
(ちなみに彼は大学時代、英語が苦手で、英語版の映画をガンガン観たそうです。おかげで聞き取れるようにはなったんだけど、大学で使う英語とは大分違ったんだよね、と。でも、言語の発想が違う私たちが英語版の映画を見てるだけで英語に馴染むか?というと、多少のご利益はあるにせよ、それだけではマスターしないような気がするんですが)
- 街の標識や看板に英語も併記すること。ガイジンのためだけじゃなく、文字を日頃から目にしていれば馴染みやすくなるだろう。
(実際、英語を併記した標識もよく見掛けますよね。でも、無意識的に日本語だけを目が追ってしまうので、英語にまで注意が廻らないような気もします)
- デンマークでやってるように、大学の授業を英語にすること。大学生が英語に馴染めるだけでなく、海外留学生が日本の大学に留学しやすくなる。街にも留学生が増えるし、交流の場も増える。
(私はこれだけはまず無理だと思うんですよね。だって日本の大学教授って英語文献は読めてもほとんど英語喋れないでしょ? 教授総とっかえくらいしないとダメじゃないかな)
- 親が子供に強制したり、過大な期待を押し付けないこと。語学習得は時間がかかるものだということを親がもっと認識して、精神的なプレッシャーを子供に与えないように気を配った方がいい。
(ラースは今回日本で私の従姉妹の子=中1と英語で話したのですが、親が見てる前だと一言も喋らない子が、二人きりになると積極的に会話したそうで、そのギャップに驚いていました。この経験からこういう発言が出てきているのだと思います。私も常々感じるのですが、外国語を勉強した経験がない親ほど、子供の英語習得に過大な期待をする傾向があるようには思います)
私からすれば「無理な注文を・・」と思う部分もありますが、彼のサジョッションとしてありがたく拝聴しておくことにしましょう。
それから、デンマークでペラペラ英語を喋る人々を眺めながら私なりに思ったことなんですが、日本人は完璧主義が過ぎるのではないかと。いやあ、あの人たちは文法ミスなんか全然気にせずガンガン喋るわけです。英語がうまいかどうかが問題なのではなくて、自分の言いたいことが通じるかどうかが問題なのだ、という意識がしっかり通ってるんでしょう。ところが、日本人の場合、意思を伝えることよりも、とかく「正しく」喋ることに気を取られてしまう傾向があるように思います。
私も他人事ではなく、最初シドニーに来た時はミスを犯すのが恐くて貝のように口を閉ざしていたクチです。「三単元のS」とか「時制の一致」だとかに気をとられ、全体の文脈が頭の中でグチャグチャになってしまうから、喋る勇気がなくなる。言いたいことを一度頭の中で文章に組み立ててからじゃないと、自信がなくて口に出せない。な〜んてことをやってるから言葉を挟むタイミングを逃して、思わず沈黙してしまう。そんなこんなで、「ああ、間違ってもいいんだ、とにかく喋れなきゃダメなんだ」と自覚するまでに半年ほどかかったのでした。
これは日本の○×式教育の弊害でもあるのでしょうが、それ以前に英語に限らず、日本には「完璧じゃないなら黙っていた方がマシ」という価値観があるような気がするんですが、どうでしょうか? 「沈黙は金」とも言いますし。100%自信がない時は、他人に見せない、言わない、外に出さない、という。「100%確実でないことを世間に出すのは恥」といったような完璧主義指向があるようですけど、そんなこと言ってたら、こんなふうに雑記帳なんか書けませんわね。
それが語学習得の際にネックになってしまうように思うんですね。なにしろ語学なんて使ってなんぼですから、間違ってようが何だろうが、とにかく口に出さなきゃ上達しないですから。そこがどうも、日本の風土に合ってないのかな、と思いました。
「間違いを恐れず、ガンガン表現する」ということは、言語習得の王道ではないけど、近道にはなりうると思います。言うは易し、ですけどね。しかし、これが高じると、本当に間違いだらけの英語をいつまでも喋ってることにもなりかねない。ある程度まで行ったら、今度はより的確で美しい表現が出来るように精進しなければならないでしょう。私も「やらなきゃなあ」と思ってはいるんだけど、日常生活が楽に出来るようになるとついつい努力を怠りがちになってイケマセン。特に結婚してからは、ラースとのコミュニケーションは日々楽になる一方なので、ますます英語学習への意欲は衰えております。「一応コミュニケーション出来るんだから、もういいじゃん」って気になったりして。まあ、英語習得に関しては移住以来、結構必死こいてやってきましたから、「一種の倦怠期なのかな」と自ら言い訳しているのですが。
ところで、これまで「日本人は英語出来ない」という前提で書いてきましたが、まあ、デンマーク人ほどは出来ないことは確かだとしても、「日本では一体どれくらいの人が英語喋るんだろう?」と疑問になってきました。英会話学校に通ってる人もかなりいるだろうし、仕事で日頃から英語に慣れている人も一定数いるだろう。それに、義務教育で少なくとも3年は英語習ってる筈だし、高校進学率は90%を越えてるわけだから、ほとんどの人が6年間も英語を習っているわけです。
今回のラースの経験では、街を歩いてる人に英語で道を聞いても答えてくれず、無言で立ち去られることが多かったそうです。何度かトライしましたが、成功率0%だったと。たどたどしい日本語で「スミマセーン、ココハドコデスカ?」と聞けば、日本語で親切に教えてくれるんだけど。
これは私の推測ですが、ほとんどの人は相手が何を聞いているのかは、何となくでも分かってるんじゃないかと思うんです。だけど、英語で説明する自信がないんじゃないかな。英語がダメなら日本語でもいいから喋ればいいんだけど、「英語、出来ない」ということに引け目を感じてしまって、あるいは「ガイジンだ〜」でビビってしまって、思わず黙って去ってしまうということもあるような気がします。
また、英語を理解できる店員さんが少ないとボヤいてました。ファーストフードの店員さんなど、日本語ですらマニュアル通りの接客用語で接することになっているせいでしょうか、ちょっと推測すれば分かりそうなことでも機転がきかず、英語で来られるとポカンと口開いた状態になっちゃったそうで。「この国に住むなら、絶対に日本語マスターしなきゃダメだー」と、彼は結論づけていましたが。
でも、私の親戚やら友人と会っている時は、それなりにコミュニケート出来たんです。私の友人が特別英語出来るというわけでもないと思うのですが、意外と外来語とカタコトの英語でなんとかなる。「俺、英語まったくダメだからね〜」と最初から宣言してた人でも、私が席を空けている間には、ちゃんと二人で話してる。で、思ったんですが、皆さん、コミュニケートせざるをえない環境に置かれれば、どうにか出来るんですね。単語だって文法だって基本的なことなら多少は知ってるんだし、あとは本人目の前にしてコミュニケートしようとする意思があるかどうかだと思うんです。
前述の「完璧主義指向」もこれと関連しているのかもしれないけど、「英語」というと構えてしまう、なんかビビってしまうという心の障壁があるような気がします。6年間もそれなりに(嫌々ながらも)勉強してきたんだから、もっと自信をもって積極的に出てもいいんじゃないかと思うんだけど。心の持ち方ひとつで、眠ってる英語力をフル活用することが出来ると思うんです。勿体ないですよ、折角実力あるのに眠らせておいちゃあ。
最後に、ラース君から見た「日本語」について、ちょっと書いてみます。
彼は今年の3月から日本人3人と共同生活していますので、日本語の会話は折々耳にしていますし、「こんにちは」「いただきます」程度の挨拶用語は旅行前から少しは覚えていました。でも、旅行中に覚えた量はすごいです。彼の場合、既に日本語の音に耳が慣れているせいか、人が言ってる音をそのままピックアップして、「あの人があの時言った、この言葉はこういう意味でいいのか?」と聞いてきます。だから、頻繁に耳にする、実際よく使う言葉から覚えていきます。「えっと〜」「どーも」「すいませ〜ん」「ああ、そうなんですかぁ」とか。まだ先は長そうですけど。
で、日本で会った人たちは皆「日本語は難しいでしょう」と言っていたそうです。私もそう思ってました。ガイジンさんにとっての日本語は、私たちにとっての英語よりもずっと難しい筈だと。でも、彼にしてみると、日本語は喋り言葉に関してはそぉんなに難しくないよ、と言うんです。そりゃデンマーク人が英語を習得するよりは難しいけど、言うほど大変じゃないと。まず、発音が難しくない。中国語やタイ語のように真似できない抑揚とか、韓国語のように違いが聞き取れない発音とかはほとんどない。それに、たぶん日常会話で使ってる言葉ってかなり限られてるでしょ?というんです。
うーん、確かに日本語って母音は5コしかないし、日常使ってる単語の量は英語に比べれば少ないような気はする。まあ、音の種類が少ない分、同音異義語が沢山あってヤヤコシイんだけど。あと、私たち日本人が「日本語ってガイジンにとっては難しいだろうなあ」と思うのって、読み書きのことを想定しているからかもしれませんね。漢字なんか日本人だって小学校の頃からコマメに漢字練習帳とか使って必死こいて覚えたくらいだし。サンコンさんも小錦も、日本語喋れるようになるまでは早かったけど、読み書き&漢字までマスターするガイジンさんは珍しいでしょう。
その漢字ですが、彼らにとっては「アート」として見ると面白いようです。これはオーストラリア人の日本語勉強してる学生さんからも聞いた話ですが、「絵から生まれた表意文字」というのが英語圏の言語の発想とは全く違ってて、興味深いそうです。私もラースに「読み方はいいから、漢字の部位の意味だけ知っておくと、便利よ」と、「この形はこの意味」という教え方をしています。こういうやり方するとややこしい漢字も馴染めるみたいです。
またデンマークで会った高校生が言ってたのですが、「漢字ってカッコイイ」んだそうで、友達の間で漢字で刺青(といってもインスタントですが)入れるのが流行ってるんだそうです。「友」という字を私に見せて、「これってフレンドの意味でしょ?」と聞いてました。そういや、香港でも「ひらがな」がカッコイイとされてブームになってるとか聞きました。意味なんか知らないながら、ひらがな入りのTシャツが人気になってるとか。単に「なんかワケわからん文字」にひかれる、ということなのかもしれませんけど。それにしても、日本語が世界で人気になってるというのは、悪い気はしませんね。
そんなわけで、次回日本帰国の折には、ラースの日本語ももうちょっと使えるようになっているかもしれません。「いずれは日本に住みたいね」と言っているのですが、「やっぱり言葉覚えてから」なんて悠長なこと言ってると実現はいつになることやら。ラースの日本語上達を待つよりも、在住日本人の英語の上達を待った方が早そうだな、とひそかに期待しております。
1998年10月10日:福島
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