シドニー雑記帳




オカルトの話(前編)

「信じる」ことの本当の意味




     今日は、心霊とか超常現象とかいうオカルトの話をします。

     これは、泥沼長編「僕の心を取り戻すために」を書いていてふと思い付いたことなのですが、本編に入れ場所がないので、こぼれ話ということで、別だてにして書きます。


     さて、オカルトといっても、「あなたは死後の世界を信じますか」とかいう、世間によくある「いつもの話」ではありません。そうではなくて、「どうして”いつもの話”はいつもああなってしまうのだろうか?」ということです。

     何のこっちゃ?といいますと、この種の話になると「信じるかどうか」「科学がどーの」という話になりがちなわけですが、それが昔っから僕には釈然としないのです。「そういう問題なんかなあ?」という違和感があります。

     いったい何が気に食わないのか?今回これを書いてるうちに段々判ってきたのですが、結論的にいえば、「ある/ない」の問題と「信じる/信じない」の問題は、ぜーんぜんレベルが違うはずなのにそれがゴッチャになってるから釈然としないのだと思います。

     とりわけ「信じる」ということの意味です。「信じる」ってどういうことよ?と、そこに引っ掛かっていたわけです。順次書きます。





     人間の意識作用は、例えば「知覚」部門と「思考」部門とがあると思います。

     今あなたの目の前のテーブルの上にリンゴを一個置きます。リンゴが見えますね。で、「目の前にリンゴがある」という現象を「信じますか?」と言われたら、どうですか?なんか変でしょ?信じるも何も目の前にあるじゃないかと。で、否応なく目の前に「ある」という意識はどういうことかというと、これは「知覚」だと思います。

     「知覚とは何ぞや?」とかいうと、僕もよう分からん難しい医学的な話が続きそうですが、まあ、こういうことだと思います。可視領域内の波長をもつ光線(紫外線とかではないやつね)がリンゴという物体に衝突して、反射する。その反射光線が目という器官に触れる。目がその刺激に応じて何らかの反応を起こし、目にコネクトされている脳内神経細胞に電流なり信号を流す。その信号は、脳の別の場所に伝達され、「見えた」という反応を呼び起こす。これが「見える」という知覚のメカニズムだと思うわけです。いいかげんな素人解説ですが、そう大きくは間違ってないでしょう。

     何かが見えるとか、音が聞えるとか、触わって感じるとかいうのは全部「知覚」の問題でしょう。

     次にその知覚情報をもとに、脳の別のセクションが、さまざまなデータをつつきあわせて「判断」を行なうのだと思います。「廊下をコツコツと歩く音が聞える」という知覚情報が入ってきました。そこでこれまでのデーターから、「あの種の音はハイヒールの音だ」「歩く速度が通常であればこの程度の音の間隔になる」等の関連データが瞬時に届けられ、それを総合して、「やや小柄なハイヒールを履いた女性が、ちょっと急ぎ足で歩いているのだろう」という判断を下します。

     情報のインプットが「知覚」だとしたら、情報処理が「思考」であり、最終的に判断(推測)が下されるという段取になるのだと思います。これは、まあ、当たり前の話です。





     退屈な話をしたのは、こういった人間の意識作用のうち、「信じる」というのはどこに入るのだろう?というのが、よう分からんわけです。

     いま目の前に幽霊らしき物体が出現したら、しかも朝になっても昼になっても出現し続けたら、もうこれはテーブルの上のリンゴと同じく、知覚の問題だと思うわけですね。目の前にどうしようもなく、のべつまくなし存在してられたら、もう「信じる」もヘチマもないと思うのですね。だってそこにいるんだもん!てな感じでしょう。

     しかし、この話を親しい友人がしてくれたときはどうでしょう。「俺の家に幽霊がいるんだよ」と。これは「信じる」かどうかの話になると思います。これをどう考えたらいいのか。

     まず、知覚レベルでは「友達の話し声という音波」しか受信してません。これをもとに、「思考・判断」のステージに移ります。何をどう判断するかというと、情報の吟味を行うでしょう。友人の話について、彼の知覚(見間違いではないか)→記憶(記憶違いではないか)→表現・叙述(嘘は言ってないか、無理やり言わされてないか、言い間違えてないか)という各段階をチェックするでしょう。その過程で、彼は今まで嘘を言ったことがあるか、嘘をいう動機はあるか、視力はどうか、そのときに酒を飲んでなかったか、そそっかしい奴かどうかなどなど膨大な関連情報も必要に応じて参照されるでしょう。

     ところで、このように厳密にチェックしても、最終的に100% クリアになることはまず無いと思われます。どこかにグレー領域、「もしかしたら」という疑念は残りますから、自分で見た場合と全く同じという具合にはならない。せいぜい「まあ、90%くらいの確率で本当らしい」という判断になると思います。




     これで一件落着となるべきなのですが、現実にはさらに次のステージに進んだりします。つまり、「その友達の言うことを信じるか」という話になります。ここでレベルがポーンと飛ぶのですね。

     「彼の言うことを信じるか?」と問われて出て来る反応は、「俺は嘘だと思う」「いや、彼は本当のことを言ってるんだ」というものでしょうが、注意すべきは、いつのまにか問題がシロかクロか、ゼロか100かの二者択一になっていることです。「いろいろ考えたけど、まあまず本当だろう、しかし10回に1回くらいは間違いもあるだろうから、90%くらいかな」と判断したなら、それが最終見解なのであって、それでいいじゃないか。そこからさらに「信じる」とか言う必要なんかないじゃないか。

     つまり「信じる」ということは、100%の確証がなくても、それでもシロかクロかの最終判断を強引に下すというニュアンスがある。もっと言えば、100%の確証があったら「信じる」とかいう問題にならない。確証はなく、厳密に理性的に判断を下せば90%であるものを、最終決断の段階で情緒的に100%にしちゃう。折角これまで緻密に考えてきたのに、どうして土壇場でそんなラフな切り上げ・切り捨てをやる必要があるのか?何故なのよ?
     

     僕は何にこだわっているのか。
     それは、『信じる』という行為のマジック。隠されたトリッキーな本質部分。




     僕は「信じる」ということは、知覚とか判断とか「外界(客観世界)のクールな認識」ではないと思います。それは非常に主観的なもの、それは「意志」とか「主張」とか「願望」であり、主体的な「選択」だと思います。

     明日天気になるかな?と思って、窓を開けて西の空を見たり、天気予報を聞いたりして、「うーん、まあ晴れるんじゃないかな」というのが、判断などの客観認識だとすれば、「信じる」というのは、「明日は晴れるに決まってる!」と思い込んだり、言い張ったりすることでしょう。それは客観現実に対するクールなアプローチではなく、「こうだったらいいのにな」という主観的な願望であります。願望と現実を強引にくっつけちゃう行為だと思います。

     極端な話、信じるにあたっては客観情報なんか全然必要なかったりします。それどころか、どう考えてもダメという反対証拠が山ほどあっても、「いやそんなことはない!」と言うこともできます。「仮に失敗する確率が99%であっても、尚も私は残り1%にかける。最後の勝利を信じて!」なんて言い方が端的な例だと思います。ダメ率99%だったらとっとと止めればいいものを、それでもやる。わずか1%の道を選択するわけです。アホといえばアホです。

     でも人々はそういった態度を馬鹿にするというよりは賞賛したりもします。でも、その賞賛は前進しようとする「意志の力」に向けられているものであって、理性的な判断能力に対するものではない

     これが理性的判断の正確性を求められる場面だったら誰も賞賛しないでしょう。天気予報官が、沢山のデーターを無視して、わずか1%の可能性を信じて「明日は晴れるでしょう」と予報を出してたらブン殴られます。




     ただ、実際の世界では、どこまでが客観認識でどこからが主観的意欲なのか、境界が曖昧なこともママあります。企業経営においては、いくら環境が悪かったとしても、「じゃ倒産しよか」というわけにもいきません。一方ではクールに情勢を分析しつつも、それでも前に進もうとします。その場合のエネルギーは、「潰れるわけにはいかないんだ」という強烈に主観的な意志の力です。

     そんでもって、又その主観的な力が、その人の本来以上の力を発揮させることにもなり、客観的な成功率が高まることも実際にはあります。「信じる者は救われる」というか、主観が客観に影響を与え、渾然一体となる。単なる客観データーが全てに優先するのなら、倍率2倍以上の(成功率50%以下)のオーディション、新人賞、起業、試験、あらゆるチャレンジは愚行ということになります。コロンブスが大陸を発見するなんてこともなかったでしょう。

     余談ながら、政府の経済見通しや、大本営発表みたいに、政治的意図のもとに、客観データであるべきものが、主観的に改ざんされちゃうケースもままあります。これもどこまでが客観判断でどこからが主観的願望なのかゴチャゴチャになってるケースでしょう。

     この世には、100%判るなんてことはないです。だから、何を行なうにあたっても、どこかしらバクチ的要素は残る。最大に資料を収集して検討を重ねても自ずと100%はクリアにならない。そこで悩み、「えいや」で決断する。結婚も就職も大バクチといえばバクチでしょう。事前にいくらデーターを集めてもそれでどれだけ未来が予測できるか怪しいですわね。それでも、やる。客観情報の欠落を補完するのは何かといえば、それは主観的な意欲であり、「信じる力」であり、いわゆる「信念」と言われるものでしょう。

     でも、幾ら客観と主観に相互関係があろうとも、客観的な知覚・思考・判断のレベルと、「信じる」ということのレベルは、基本的に全然レベルが違うことには変りがないと思います。




     さて、ここまで考えてみれば、僕がオカルティックな現象について、「信じるかどうか、科学がどうの」という形で議論されることに対して違和感を抱く理由も自ずと明らかになってきます。

     例えば「死後の世界はあるか」という議論があります。
     「死後の世界はあるか」という問いと、「死後の世界を信じるか」という問いは、全然レベルが違う筈です。前者は客観的にあるかどうかのクールな判断です。後者は「死後の世界はあった方がいいと思うか?」という”あなたの希望”を聞いています。明日は遠足だけど、晴れると思うか?という問いと、晴れた方がいいと思うか?という問いの違いと同じことです。

     これがもう致命的にゴッチャゴチャになってるから、混沌としてきて、僕としては非常にキモチ悪いわけです。






     よく「近代科学で説明出来ないこともある。→だから→死後の世界はある」等というメチャクチャな要約で、僕らは話したりします。なんでこんなにメチャクチャになるのかといえば、やっぱり「信じるかどうか」というレベルの話が(無意識的にせよ)メインになってしまって、論理的な検証については今一つ軽視されてるからかもしれません。





     科学・サイエンスというメソッドは、主観的情緒的なものを徹底的に排斥して、「客観的にはどうなっているのか」ということを突き詰めるための方法論だと思います。だから、いつ、どこで、だれが実験しても、条件が同じであれば同じ結果が生じるという普遍性を大事にします。百発百中間違いないというレベルまで達して、科学的証明がなされたと考えます。そうでないと積み上げられないのですね。気分次第で電気が走ったり走らなかったりしたら困るわけです。(なお便宜上ここでは「科学」とは主として自然科学の意味でつかってます)。


     だから、科学の世界においては、前述のように「95%は本当らしい」ということになれば、そのまま95% として表現します。各種実験報告などでも「AとBの相関関数は1.076であった」という表現のされ方になります。「煙草を吸うと肺ガンになる」という命題も、統計的ないし間接的なデーターは山ほどありますが、医学的にドンピシャという証明はまだなされてないという話も聞きました。公害の被害立証なんかも、簡単なようで死ぬほど難しい。まあここらへんになると病理学的証明と疫学的証明の違いとか面倒な話になってきますので割愛します。ともあれ、科学の世界は厳密性を重んじ、非常に堅苦しく融通がきかないわけですが、逆にいえば融通なんかきいたらいけないのです。

     科学的に解明できてないことなどこの世に山ほどあります。そもそも全部解明できてたらこの世に研究者なんか一人もいりません。もっといえば、科学というのは、解明されていない事象に対する最も堅実なアプローチ・方法論なのであって、解明できないことが存在するからこそ科学の存在理由もあるのだと思います。まだ開いてない缶があるからこそ、缶切りの存在理由がある。




     で、サイエンスという方法論を使って、死後の世界が証明できないのは、まあ当たり前のことだと思います。なんせデーターの収集が異様に難しいのですから、無理なのはよく判ります。それは科学の限界でありますが、そういった限界があるからこそ科学を信頼することができるとも言えます。その謙抑性というか、石橋叩いて叩いて叩きまくるところに科学の真骨頂があるのでしょう。

     「科学万能の世の中」とかいいますが、現在人類が到達している程度の段階で万能である筈がないです。万能じゃないからこそ科学、というか科学の立場からすればそれが万能であるかどうかなんかどうでもいいことなのでしょう。「万能」とか非科学的なことを言わないのが科学であり、言うとしても「万能とはいかなる状態か、その定義を述べよ」というところから議論が始まるのが科学でしょう。

     ですので、「科学的証明がないから死後の世界は存在しない」なんていうのは、科学の発想からは出てこないと思います。証明がないので「判らない・肯定出来ない」というだけでしょう。逆に「存在しない」という結論を出すには、存在しないことの証明が必要であるはずです。




     ところで日本のアカデミックなところ(大学等の研究機関)は、心霊現象などについてあまり真面目に議論する雰囲気ではないと言われたりもします。さらに「心霊現象などは科学的ではない」などと非常に非科学的な見解がまかりとおっているやに言われたりします。真偽の程は定かではないです。僕の知ってるサイエンティスト達は皆さん世間の常識人よりももっとフレキシブルというか素っ頓狂なこと考えるのが好きな人達ですので、ほんとにこんなこと言う奴いるのか?多少偏見が入ってないか?とは思いますが、もし仮にそんなこと言う人がいたり、そういう風潮があるとしたら、それは科学的とかいうより、優れて政治的、経済的な発言だと思います。

     要するにそんなこと研究してたら中々教授になれないという学内政治の論理があるのでしょう。個人の立場からすれば、それは大きな経済的損失を招きます。また社会的地位の劣化を招きます。また心霊業界という産業界もありませんので研究しても旨みはありません。天下りなどの就職先もないし、ゼミの学生の就職の斡旋もできません。まあ心霊業界がないことはないでしょうが、製薬業界ほど膨大な金が飛び交うこともないでしょうし、大きなところは宗教団体が独占してしまってますので新規参入は難しいのでしょう。あと権威は詰まるところカッコつけですから「幽霊ではカッコつけにくい」というルックス的な問題もあるでしょう。また、明治維新以来の重工業重視の産軍学共同体の流れもあるのでしょう。心霊研究が発達するよりも、ゼロ戦作ったり、新幹線走らせることの方が重視されたし、国民もそれを望んだでしょう。これらの複合的な理由で、かくなっているのでしょう。全くの推測ですが、多分そうだと思います。一言でいうと「ウケない」と。

     したがいまして「心霊は科学的ではない」という発言は、社会的、経済的文脈においてはとてもよく理解できます。「科学という看板で商売をするには、商品として不適当」ということですね。ただこれは、科学的でも、アカデミックでもないんですけど。

     「死後の世界はある派」の人々が、これら「科学的ではない」発言に反発するのはよく理解できます。科学(特に西洋科学)は万能ではない、科学的証明がないからといって存在を否定する論拠にはならない等、非常に「科学的」な反論をします。そして「それは科学という一つの宗教にすぎない」など正しい指摘もします。さらにその批判の槍の先端は、大学等の象牙の塔アカデミズム(というかエセアカデミズム)に対して向けられているのでしょう。もっとまぎらわしくない明瞭な言い方でいえば「キミらに科学を語る資格はない」ということでしょう。





     科学の限界性を指摘したり、知性よりも権威を重んじそうな象牙の塔への批判は理解できるのですが、そこから一気に「だから幽霊はいるんだ、死後の世界はあるのだ」と、ワープしちゃうのは承服できません。いわんや「死んだら人はどこそこにいって、そこでこういう事をして、そのあと〜」と事細かに言うというのは、お話としては面白いですけど、それが真実そうなってるかどうかなんてのは判らないし、そこまでくると本気で証明しようとしているのかどうかすら疑わしい。

     一応「こういう事例が報告されている」とかそれなりの証明らしきものは沢山展開されます。でも肝心な「証明命題」がなんなのかがよく判らない。「現代科学で説明不能な現象を体験したと語る人が存在する事実」を証明したいなら、ほぼ100%証明できているでしょう。でも「その人達の言うことが事実であること」については、判断保留。これらは伝聞証拠ですので、知覚・記憶・表現・叙述の各過程を吟味する必要があります。そのうえで判断。

     さらに証明命題を「死後の世界の壮大で詳細なストーリー」ということに設定するのであれば、証明できてないと思います。なぜかといえば、その種の体験談の内容が、結構人によってバラバラであり、時として相互に矛盾していることです。またストーリーそれ自体が破綻してたりすることもあります。より根本的には、肉体という物象の消滅した世界でのストラクチャーと論理則は、おそらく現世の我々のそれとはかなり違うだろうから、それを現世的な論理と知覚感覚で表現することはほぼ不可能なのではないかと思われます。早い話が、死後の世界は「こうなってる」という具合に、我々に理解できるような形で表現できるかどうかが疑わしい。だから理解できないことは証明もできないということになりゃせんか、と。




     でも「死後の世界を信じる派」の人々は、そんなクールなレベルでは納得しないでしょう。かなり詳細に「死後の世界はこうなってる」と考える人が多いように思います。でも僕はそれは主観過剰なおとぎ話だと思う。「生命現象の終息後も、その個体の意識はその同一性を保ちつつ存続する場合もあるかもしれない」という程度だったらわかります。でもそれ以上は無理だわ。「死んだことないから分からん」としか言えないです。判るわけないじゃん。

     そこから先に進むためには、もう「信じるパワー」が必要です。「そう考えた方が合理的だ」とかいう客観資料の裏付けから離脱して、「そうあってくれた方が望ましい」「そういうのが好き」という主観的な願望や好みがないと、そこから先には進めないと思います。


★後篇に続く



1999年01月12日:田村

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