シドニー雑記帳




オカルトの話(後篇)

「信じる」ことの本当の意味




     長々書いてきましたが、またもとの「信じるとは何か」に戻ります。

     「信じる」という行為の本質は、先にも述べましたように、世界観の主体的な選択だと思います。100%完璧にこの世のことが判るものでもありませんから、この世をどう捉えるかは、ある程度の幅があり、どれを選択するかはあなたの自由です。数ある選択肢のうちから、「俺は世界はこうなってると思って生きていくことにする」という選択であり主張であると思います。

     例えば性善説・性悪説というのがありますが、あれも世界観の選択だと思います。人の本質は悪か善かですが、これまで経験した事実やデーターからではどっちとも言えるというのが本当のところだと思います。それでも、善と悪、どちらをベースにしてこの世界を見ていくのか、そこでどうやって自分は生きていくのか、それはすぐれてアナタの判断です。どちらがあなたの趣味に合うか、あなたにとって生きやすく気持いいかでしょう。

     自分の軒先で雨宿りしてる全く知らない人に、「いいから持っていきなさい」といって傘を貸してあげて、後日丁寧なお礼とともに傘が戻ってきたら、「いやあ、世の中って捨てたもんじゃないな」と性善説的世界観に傾きます。そうかと思えば、駅前に置いておいた自転車が盗まれてしまえば、「けっ」と思うし、性悪性に傾く。

     恋人が浮気をしているらしい、どうも私は騙されてるのではないか?という疑惑を持ってる人がいます。周囲の知人は「いい加減目を覚ましなさい」などと言います。恋人の挙動もかなり不審です。「この前一緒に行ったじゃない?え、違ったっけ?」などとピンと気になる間違いをしょっちゅうしたりします。もう客観データは真っ黒と言っていいほどなのですが、恋人は「僕を信じてくれ」と熱いマナザシで言います。そこで彼を信じるかどうか、これも一つの世界観の選択だと思います。




     死後の世界はあるかどうかなどオカルト的なことをベースに織り込んだ世界観のほうが気持よく暮せる人と、世界はもっとドライで乾いていてくれた方が自分としては息がしやすいわという人がいるということでしょう。

     ただ、本当の問題は、死後の世界やオカルティックな物事について、「どうしてそのように好みが分かれるのか?」だと思います。なぜこの人は死後の世界を信じたいのか。なぜこの人はそうでないのか。好みの問題といいつつ、好みが分かれるベースには何かがあると思います。それは、僕の心を取り戻すためにの本編の方で考えるべき問題でしょう。

     「あなたは死後の世界はあると思いますか」も「死後の世界を信じますか」も、厳密に言えば全くレベルの違う質問でありながらも、無意識的に混同されているのは何故か?それは、結局、後者の質問、つまりあなたの世界観を聞いているのだというのが暗黙の了解になっているからだと思います。それは例えば「男女間での友情は成立すると思いますか」とか「安楽死を認めますか」のような質問と同じく、あなたの世界観、死生観、生きてゆく流儀を聞いているからなのでしょう。このように聞きようによっては客観世界の話でもあり、あるいは主観的な哲学の話でもあるという話は結構あるように思います。「宇宙人はいると思いますか」なんてのもその一つかもしれません。主観と客観が溶け合うトライワイトゾーン。

     しかし、こう考えてみると、人間の客観と主観の分け目なんか案外いい加減なものなのでしょうね。冒頭で客観認識の典型として知覚をあげましたが、これも自分の目に映っているとおりに本当に世界はあるのか?なんて疑問に持ちだしたらキリがないです。「いや、それは単に俺がそう思ってるだけの話で、本当かどうかなんか怪しいものだ」と疑いまくっていけば、コギ・ト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)というデカルトのおっさんの世界にいってしまうのでしょう。近代懐疑精神とかいうやつですか。つまり「どうも「本当か?」等と疑ってる俺がいることだけは本当らしいな」というところまでいってしまうのでしょう。






     以下は、世界観の話を無理やり客観的な話にして展開してみようということで、屁理屈話の与太話をします。客観的にやろうにもベースとなる科学知識が致命的に無いので、結局与太話になっちゃということです。

     オカルティックな現象は沢山ありますが、僕は変ってるのか、なんか人とズレたことを考えてしまうようです。例えば、幽霊。これに関する疑問は沢山あります。

     幽霊って、あれ何なんでしょうか。僕が死んでから幽霊になることを希望した場合、一体どのような手続を踏めばなれるのでしょうか?それとも自然になるのでしょうか。そのなるとかならないとかいうのは、本人の希望に即しているのでしょうか。幽霊なんかなりたくないのになってしまった人というのはいるのでしょうか。幽霊になったら他の幽霊は見えるのでしょうか。恐くないのでしょうか。

     で、何の為に幽霊なんかやるのでしょうか。恨みを晴らすとか言いながら、全然関係ない人を脅かしてるのもいますが、あれは何ですか、八つ当たりですか。誰よりも多くの恨みを買ってる人というのは、例えば戦国武将なんか何千人という単位で人を殺してますが、なんで秀吉とか家康とか長寿を全うできたのでしょうか。あと地縛霊とかいますが、あれは何が面白くてやってるのでしょうか。

     死後の世界があるとして、それが何らかの規律に基づいて運営されているとしたら、それは誰が決めたのでしょうか。神?神がいるとしたら、その神は誰が作ったのでしょうか。神様ってやってて面白くなさそうだけど、本人はどう思っているのでしょうか。

     輪廻ですが、もし魂が不滅で何度も輪廻するとします。つまり全ての魂はリサイクルだとしますと、最初に一定の決まった数の魂が用意されていることになります。いつ、だれが、どのくらい用意したのか。人類の人口はここ100年くらいで爆発的に増えてますが、魂が足りなくなるのではないか。また人類が猿から進化するまでの間、その魂は何をやっていたのか。ヒマだったんじゃないのか。動物にも輪廻するなら、アメーバとかエイズウィルスなんかにも輪廻するのか。それにしても、まだ生命が発生するまでの間は何をしていたのか。

     輪廻は、魂がそれぞれ修行してより高次のレベルに上がっていくためにやるのだという見解がありますが、僕は、あまりその見解は好きではないです。というのは、何かそれって受験勉強というか出世競争というか、全員が一つのルールのもとで同じようなことやらされているという風景は、ファシズムみたいで心はずむものではないです。それも永遠でしょ。一定の成功目標があるとすれば、それが上手くいく奴と上手くいかない奴も出て来るでしょう。「なんべんやっても駄目な奴」というのも出て来るでしょう。いわゆる落ちこぼれですが、そんな永遠の世界で落ちこぼれたら、さぞツライでしょう。自殺することもできない。そもそもそんな「右肩上がり」の発想で仕切られているというのが何か変な気がするのですが。




     妄想逞しくしますと、未だ発見されていない分子なり粒子なり、この空間を構成している何らかの要素があったとします。そして人の精神活動、これは脳神経細胞の電流パルスの伝達パターンですが、この電流なりイオン変化の軌跡が、何らかの条件が合致したとき、印画紙が感光するように、空間中の未知の要素にそのまま転写されるということが起こりうるとします。

     もしそういうことが起こりうるとしたら、SFでよくある「空間に残留思念が刻まれる」という現象が生じるとおもいます。その残留思念情報がどうやったら霧散するのかあるいは保存されるのか、それなりの法則性はあると思いますが、何らかの形で、再び誰か別の人間の脳細胞に影響を与えることもあるとします。結果としては「他人の思念が頭に入ってくる」という具合になります。

     これは、空気の振動を電磁変化に変換しまた還元するという、レコードの原理と似たようなものですが、僕はレコードがあそこまでリアルに鳴るということが、未だに感覚的に信じられないし、TVの電波が受信されてあんな鮮明な画像と音声になって再現されるということも、「嘘みたい」と思ったりします。そんなことが出来る、生じるくらいだったら、残留思念が何らかの形で存続し、さらに他人に転写されることくらいあって当然なんじゃないかと思ったりします。

     その他者の残留思念を転写しやすい体質の人というのはいると思うし(テレパスとか)、どのように知覚するかはケースバイケースだとおもいます。それが視角中枢に影響を与える場合、何らかの現象が「見える」という感覚になり、あるいは輪廻でよく聞く「知るはずのない過去の他人の記憶を持つ」という現象になるのではなかろうか、と。

     「意識」というのは何なのか未だによく分かってないようです。脳の構造を分析して、これは記憶中枢これは言語野とか機能別に分類してみても、それを統合して出て来るような「意識」という物理的なベースは何なのかよう分からんそうです。これは「コンピューターは自我を持ちうるのか」などと議論されているようようなものでしょうか。

     ほんでもって、脳内を流れる電流なり何かが複雑な一定のパターンを描くとき、そこで生じる何らかの物理反応が実は「意識」と呼ばれるものの実体だとします。で、前述のように電流パターンが空間に転写され保持されるならば、身体的な死のあとも、自分の意識そのものが空間に放射され、コピーないしは移動して、なお自意識として束の間残ることもありえるのではないか。よく臨死体験で「天井からベッドに横たわる自分を見ていた」とかいうのも、もしかしたらそういうことなのかもしれません。もっともその自意識は、目や耳などの感覚器官とコネクトしてませんから、「見えた」といっても夢と同じように、意識の中で勝手に画像をクリエイトしてるだけなのでしょうが。




     これらは与太話にすぎません。思い付きを並べてるだけで真面目に書いてるわけではないです。

     ただ、僕としては、心霊現象なり死後の世界の存否云々以前に、自分のもってるこの「意識」、それがあること自体が不思議で仕方がないです。なんでそんな現象が生じるのか?不思議って言えばメチャクチャ不思議です。幼児期の一定の段階以降で「物心がつく=自意識が生じる」のですから、おそらく意識が芽生えるためには一定の記憶情報のストック、あるいはそれを処理するCPUのような本体部分の成熟が必要なのでしょう。情報の蓄積+処理能力の向上=意識の出現だとしても、どうしてそうなるのかが判らない。なんか魔法みたいに飛躍してる気がする。

     また、TVが映るという現象も不思議でならないです。TVが映るということは、今この瞬間TVでやってるだけの画像情報と音声情報が、電波という形で自分の周囲の空間に存在するということでしょ?「ほんまかいな」と思いませんか?TV受像機があろうがなかろうが、その情報自体は空間にある。それも1チャンネルだけじゃないです。さらにラジオ電波、携帯電話、はるか上空からくる軍事偵察衛星の探索波。今あなたがいる6畳の部屋の空間には、実は膨大な情報が埋め込まれているわけでしょ。もし人間の目が電波の変動を捉えられたら、何万何億という情報が目にも留まらぬ速さで四方八方に駆け抜けていくのが見える筈。その伝達速度はISDNなんかの比じゃない。そんなの見えたら卒倒しちゃうと思う。ポケモンのピカピカ画面の比じゃない。空間は情報に満ちている。そんなことが起きるくらいなら、何が起きても不思議ではないなと思います。




     じゃあ、オカルティックなことだって不思議ではなかろう?と言われそうですが、そうです、別に不思議ではないです。人間が存在してることの不思議(なんでこんなもんがポコンとおんねん?という)からすれば、幽霊なんかあっても不思議じゃないです。それはもう、牛乳があればチーズもアイスクリームも出来るやろというように、物体Aがあればその変形パターンである物体A’やA”があっても当然という感じです。

     それよりも、一般のオカルト話に対する僕の不満は、むしろ「不思議さが足りない」ということです。輪廻の論理にしても、心霊現象の説明にしても、なんか簡単で分かりやすすぎるのが嘘臭いなあと思うのです。ポップすぎるんだわ。それは例えば、TVを見て「小人がTVの中にはいっている」と解説しているような嘘臭さに似てます。「そりゃあ、パッと見にはそう見えるだろうなあ」とかいう共感はあるのですが、でも多分本当のところは違うんじゃないかな?と思ってしまうのですね。人間の感覚に引き付け過ぎているという胡散臭さです。

     さっき「幽霊やってて面白いか」「神様やるのも詰まらなそうだな」とかいい加減なことを書いたのも、オカルティックな世界が、妙にポップで擬人化しすぎているように感じられるから、そこまで擬人化するなら、もう徹底的に擬人化しなきゃ嘘じゃないのか、と思って妄想逞しくしたわけです。


     以上は「あるか、ないか」の客観レベルの話でした。
     では、「信じるかどうか」という主観レベルの話はどうかといいますと、ミもフタもない言い方をすれば、「信じたくなるほどの必要性は、今は感じてない」といったところでしょうか。これがもうしばらくして肉親が死んだり悲しい死に出会えば、気分も変るでしょう。

     実際、死せる人を思うとき、本当に「草葉の陰で見て」いてくれたら「うれしいなあ」とは思います。墓参りなんかもやる以上は、100%全くの無駄な行動をしてるとは思いたくないですわ。その時は死後の世界はあってくれたほうがいいです。そうかといって、自分がトイレ入ってたり、セコいことや、ヤマしいことしてる最中にも、ご先祖様から友人から皆そろってじーっと見てるってのもイヤです。そういう時は死後の世界はない方がいいです。それ以外の時間、例えば電車に乗り遅れそうなので必死に走ってる時など、まあ生きている時間の99%くらいそうだと思いますが、そのときは死後の世界は「あってもなくてもどっちでもいい」と思います。もう「ヤマタイ国が九州にあったか近畿にあったか」というくらいどっちでもいいことです(それに興味のある人は別ですけど)。

     だから、何というのか、僕がOKを出したときだけ見ていてくれるというのがいいという、非常にご都合主義というか、いい加減ですよね。しかし「お盆のときだけ帰って来る」というのは、そういう意味ではメチャクチャ都合いいですよね。調子良すぎるんじゃないの、それ。

     そんなことを不敬にも思ってしまう僕が、オカルティックな話について平均的に思うところとしては、「世の中、まあ、そこまで面白くも、分かりやすくもないんちゃうの?ほんまのところは、もっと詰まらなくて、面倒臭いんちゃう?神様が出てきて全部教えてくれると言っても、多分聞いてるあいだに居眠りしちゃうようなものなんじゃないかな」といったところだと思います。

     だって、神様が18世紀の人に電気の存在という「真理」を教えようとしたら、ファラデーの法則がどうしたとか、電磁誘導がどうした、公式はこれでとか、そういった理科の授業と変わらんことになっちゃうわけでしょ?死後の世界についても、「はい、じゃ死後の世界講座第3回です。前回は人間の魂を構成する要素はざっと17個あるということを説明しました。今日は、これらの要素が結合したり分離したり変化することを学びます。この変化によって死んだ後に魂がどうなるかが規定されるわけです。まず結合におけるパターンとしては3種類ありまして、それぞれ以下の公式で表されます〜」とかやりそうな気がするのですわ。真理というのは、必ずしもエキサイティングで分かり易いものではないと思いますから。むしろその逆じゃないかな。





1999年01月12日:田村

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