シドニー雑記帳




妊娠レポート(その2)






     前回の「妊娠レポートその1」を書いてから、これまた沢山の方々にお祝いメールを頂戴いたしました。なんか最近お祝いメールばっか戴いてて、恐縮です(^^*)。ご丁寧にありがとうございます。こうして皆さんから反応していただけると、「シドニー雑記帳」の視聴(読?)率も悪くないぞ(^^*)と確認できますし、読後感や皆さんの経験など聞かせていただいて非常に参考になります。

     さて、ますます面白くなってきました、オーストラリアのお産事情探求。と、同時に自分の身体の変化も興味深いし、今まで考えたことのなかった命について、家族について等いろいろなテーマでモノ考えさせられています。その辺り、ざっくばらんにお話していきましょう。




     現在9週間めですが、いまだにツワリもなく、平常と変わらない体調です。但し、食品に対する嗜好はちょっとずつ変わってきていますね。やたら納豆とオレンジが食べたい、コーヒーは絶対飲みたくない、フェンネルの香りはダメ、辛さにはより敏感になってる、以前より塩気の多いものがおいしく感じられるようになった(私はもともと超薄味なんで、ふつうレベルになっただけかもしれない)等々。このあたりの変化は個人差も大きいし、おなかの子供の嗜好?によっても異なるそうですが、とにかくツワリがないのはラッキーですね。

     あと、「食べたいってことは身体が欲してるんだ〜」みたいなエクスキューズがあるので、欲望の赴くままに思い切り食べてしまいがちという問題を認識しはじめています。45キロだった体重がこの1ヵ月で47キロになってしまった。まだ9週間だというのに、このペースで増え続けたら、妊娠中毒症パターンに陥るかも。気を付けねば。

     というわけで、ここんとこ夜中に軽く走ってます。世界周遊旅行に向けて基礎体力もつけておきたいし。ウチの前の道Angus Avenueほんの数百メートルを往復するだけなのですが、急坂なのでかなりコタえ、実質的には走るというより、ほとんど歩いてしまうのですが(^^*)。もともとヨガは日常的にやってるのですが(これもオーストラリアに来てからハマッた)、Angue Avenueを1往復する方がずっと効率的に筋肉使いますね。「適度な運動」は当面この2本立てでイッてみたいと思ってます。

     あ、そういえば、ほとんど忘れてましたが、1〜2週間ほど前だったか、突然原因不明の発疹に襲われて大変な騒ぎになったのでした。突然夜中に身体じゅうに赤い発疹が出来て、かゆくてかゆくて死にそうだったので、深夜に公立病院の救急病棟に駆けつけました。そしたらなんと「4時間待ち」と言われ、「どこがEmergencyなんだ!」と腹たちかけましたが、待合室の隅っこのベッドで全身から管つけてる人たちを見て、「あ、あの人たちには勝てない」と思い、おとなしく退散しました。救急病棟だから、救急車で運ばれてきた生死の境をさまよっている人々のケアが優先されるので、「身体がかゆい」くらいじゃ相手にされないのでした。
     結局その夜は一睡もできなかったのですが、朝になったら発疹は落ち着いてました。でも、また夕方から痒くなってきたので、急遽近所の一般医に電話して「あー、もう終業時刻だと思いますが、今から行ってもいいですか?」とすべりこみました。

     一般医の診断によると「Ulcer(潰瘍)」だそうです。原因は、なにものかに対する反応だそうで、その「なにもの」が食品、空気中の粉塵、石鹸類、温度の変化等、いろいろ考えられるし、今までOKだったものが、突然反応を起こす原因にもなりうるとのこと。また、妊娠による体質の変化で発生する場合もあり、要するに原因不明。処方としては普通は抗ヒスタミン剤を塗れば治るのだが、妊娠中なのでお勧めできない。とりあえず「さほど効果的じゃない塗り薬」を処方してもらい、食べたものをすべて列記しておくようにと指示されました。

     もらってきた薬を塗って一晩明けたらすっかり治ってしまいました。その後も「魚が原因かなあ」などと仮説をたてては、わざと魚を食べてみたりしたのですが、何も起こらない。突風のようにやってきて突風のように過ぎ去ってしまったのでした。妊娠のせいなのかどうかは不明ですが、こういうことが突発的に起こることもあるんですねえ。




     さてさて、私立vs公立の違いを探求するために、私立開業医の産科と、公立病院に二股かけているという話に前回触れましたが、いよいよ両者で初診を受けてきました。感想はといえば、「うわー、こんなに違うの、私立と公立」という。誰に聞いても、私立vs公立の違いは、国民健康保険でカバーされるかどうかと、医師が選べるかどうかだということですが、それだけじゃない。まあ、私立公立と一口に言っても、各産科・病院によって内容は異なるのでしょうが、私が行った2つは明確な差がありました。

     まずは先週金曜日に私立開業医の産科に行きました。公立病院の向いに各種開業専門医が集まってるビルがありまして、その産科はそのビルの一室にありました。このお医者さん、地元では結構有名人らしくて、なかなか予約とれないのだそうです(地元の一般医に「あそこ予約取りました」と報告したら「えっ、よく予約できたね〜」と驚かれた。自分が勧めたんだろが)。12時の予約だったのに、診察が押しているとかで1時間待たされました。

     お医者さんは40代後半、品のよい細身の男性。どっちかっていうとイギリス系紳士の雰囲気が漂ってます。少なくとも「Hey,mate!」とか元気に声かける「フレンドリーだが決して品があるとはいえない」オージーのおやじとは異色。診察室に入ると、まずは一般医でもされたのと同じような基本的な質問(最後の生理が始まった日はいつですか? 生理は規則的ですか? 何か異常はありますか? 肝臓病などの疾患がありますか?等々)をされ、その後、ベッドに寝かされました。私の子宮を外と中から触診したお医者さんは「胎児の位置は正常です」と一言。
     「次の診察は6週間後、その後4週間ごとに行っていきます」とおっしゃるので、「実は、来月から6週間海外旅行に出るんですけど」と言うと、「それなら帰国してから診察すればいいです」と、きわめて平静。


     余談ですが、これまで全部で4名の医師に妊娠中の旅行の是非について確認してきたのですが、どのお医者さんも眉ひとつ動かさず「そうですか」と受け止めます。こっちから「何か旅行中気を付けることは?」と聞かない限り、ノーコメントなんです。

     日本や他国の医師が旅行についてどういうコメントを出しているのかは知りませんが、「飛行機は胎児によくない」といった説もあるそうですね。そりゃあ、飛行機なんて気圧の変化は激しいし、長時間振動に耐えるわけだから、タダでも身体にいいわきゃないと思うのですが、それが胎児にとってどの程度どのようによくないのかが分からないことには判断のしようがないですね。オーストラリアの医師がノーコメントなのは、こういう説を知らないだけなのかもしれないけど、実際外国で妊娠して、妊娠期間中に里帰りし、無事出産した人の話も結構聞いています。

     これは私の仮説ですが、オーストラリアの場合、移民国家なので「妊娠がわかってから母国に里帰りする」というのは結構よくあることなんじゃないかと思うんですね。移民して間もない女性が妊娠した場合、「産まれてきちゃったら、あと何年帰れるかわからない、今帰らないでいつ帰る」という気分になるのはよく分かる。あるいは「やっぱり家族がいる母国で産みたい」と思って一時帰国するとか。だから、妊婦が飛行機に乗るケースが比較的多いんじゃないかな。

     私もなぜか「飛行機乗れるのは妊娠7ヵ月まで」ということは以前から知っていました。考えてみると、シドニーの旅行会社で働いていた頃に、よく「○○さん、結局母国で出産することにしたから、7ヵ月ギリギリで会社辞めて帰国することにしたんだって」といったウワサ話の一環として小耳に挟んでいたんでしょう。もう日常生活の井戸端会議でも登場するような一般的なネタになってるようです。

     一般的に妊娠中の旅行がリスキーだと言われる所以は、「万一なにかあったら」という漠たる不安があるからではないかと思います。重たい荷物を運んだり、長時間の移動で疲労したりするのは明らかにマイナスでしょう。また、万一何か異常があった時、言葉の通じない異国の病院に駆けつけるというのは、確かに不安です。そういった漠然とした不安を完璧に回避しようと思ったら、家でじっとしているのが一番ってことになりますね。

     私の場合は、なんというか「そういう漠たる不安にとらわれたくない」という気持ちがあります。ちょっと街に買物に出た拍子に交通事故に遭うリスクだってあるわけで、そんなこと言ってたら、それこそ文字どおり何にも出来なくなっちゃう。不安材料は出来るだけ削除するに越したことはないけど、あくまでバランスが必要だと思うわけです。各自が専門家の意見を参考にしながら「リスキーだけどOK」という自分なりのラインを設定するしかないんでしょうね。

     今回の世界旅行に関しては、私たち夫婦の中では既に揺るがし難い重要イベントと認識されているので、今更止める気はないです。もうこの旅行を計画しだした頃からそうなのですが、我々ファミリーの将来にとって何か大きな意義があるような気がするんですね。もう向こうから「呼ばれちゃってる」というか。勿論、将来の生活の場を視察し、移住可能性を推し量るというプラクティカルな目的もあるのですが、それ以上の精神的な意味合いが濃い。万一、旅行中に何かあって流産するようなことがあったとしても、それはそれでありのままに受け止めようと思っています。



     えっと、長い余談でした。開業医さんの話に戻ります。

     さて、「6週間の旅」宣告をしたところ、このお医者さん、しばし臨月計算用の円盤?とにらめっこして、「出発直前に念のため超音波検査を受けておいた方がいいかもしれませんね」と言い出しました。「それって何が分かるんですか?」と質問すると、「特別な超音波によるスキャニングで、胎児の首の後ろの皮膚の厚さを測ることによって、ダウン症かどうかが分かるんです。また、奇形も判ります」とのこと。一応その場では、検査師への紹介状をもらって帰ってきたのですが、「本当にこの検査は必要なのか?」と考え込んでしまいました。

     というのは、出発前にダウン症と奇形を診断しておくというのは、要するにそれが分かったら出発前に中絶しましょう、という意味だと思ったんですね。このお医者さん、こっちから質問しない限りまったく説明してくれないので、詳しいことは聞いていないのですが、まあ、そういう異常が判明したら中絶を考慮するのが普通でしょう。

     そこで考えたのですが、もしこの子がダウン症あるいは奇形だったとしたら、中絶すべきなのか?と。お腹の中にいる間にトラブルが生じて流れるのなら、その子の生命力もそれまでなのだから仕方ないとは思うのですが、放っておいてたら生まれてくるだけの生命力があるとするなら、私たち夫婦の独断でこの子の命を絶ってしまってもいいものか?と。私にはそれだけの権利があるもんなのか?という疑問ですね。正論でいえば「誰にも人の命を絶つ権利などない」ということになるのでしょうが、かといって生まれてきても幸福になれないと分かっているのなら、生まれる前に処分してあげた方がその子にとってもいいのかもしれない・・という迷いは出てきます。

     「神様にもらったものなのだから、何がなんでも中絶なんか認めない」というカソリックの教え(イスラム教も同じだったと思う)を固く守っている人もいる一方で、昔から奇形児・障害児は生まれてすぐに部落の長なり医者なりが殺すことを習慣としている文化もあるそうです。いくら理想では「すべての命は公平に生きる権利がある」とはいっても、健常者でさえも生き残るのが大変という状況があるのなら、障害者は淘汰されても仕方ない、というのが厳しい現実だった時代もあるわけです。現代では、医学も発達し生活水準も向上したから、多少の障害を乗り越えて人生を享受することも可能になりましたから、選択肢の幅も広がりました。その分、選択権を任された親は、自分なりの回答を出さなきゃいけない。ある意味では宗教なりで方針を提示された方が楽ですね。特別な宗教を持たない我々としては、自分たちなりの回答を出さねばならないわけで、かなり真剣に考えました。

     ダウン症については私は詳しいことは知らないのですが(「レインマン」のダスティン・ホフマンくらい・・というのは私の勘違いで、レインマンは「自閉症」だそうです。失礼しました)、ラースの友人の弟がダウン症で、昔よくその家に遊びにいったそうです。彼はダウン症だからといってその子が幸せになれないなんてことはない、その友人の弟と一緒に楽しい時間を過ごした経験から、ダウン症だというだけで中絶する気にはなれない、と。ただ、ダウン症の人は静かな生活が不可欠なので、そうなると我々の人生設計もかなり変わってくるだろう。それを犠牲と呼ぶか、貴重な体験を呼ぶかは気持ちの持ち方ひとつだろう、と。
     といっても、実際現場に立たされたら、本当に大変でしょうし、「この子のおかげで私の人生は犠牲にさせられた」と思ってしまうこともあるかもしれません。ここらへんは、いろいろ考えましたが、なんかもう理屈や理想論を超えて、感覚的に「産もう!」という判断がつきました。もし、ダウン症の子が生まれてきたら、いい機会だから今まで知らなかった世界を勉強させてもらおう、と思えるような気がして。

     あとは奇形の場合ですが、これは程度次第かな、と。たとえば片手のない子なら、なんとか自立して生きていけるだろうけど、両手両足がなかったらかなりキツイ。一生植物人間のように寝たきり人生になるのだとしたら、生まれてきても苦痛なだけではないか?という疑問もあります。
     その線引が難しいところですが、私たちの一応の基準は「自立して生きていける程度かどうか」になるような気がしています。まあ、これも実際「あなたの子供は奇形です」と言われた時に、冷静にこんなふうに考えられるのかどうかは疑問ですが。考え方によっては「もし生まれる前から障害があるとするなら、その人生は一回リセットして、もう一度その子の魂にいい身体に宿るよう挑戦してもらった方がいい」という見解もありますし、そこはもう、各人の考え方ひとつなのでしょう。

     もっとも私たちの場合、家系に先天性の障害を持つ人はいないし、私自身も健康体なので、そういうリスクは非常に低いわけですから、あまり深刻に「万一」のケースに備えて悩むのはエネルギーの無駄とも言えるわけです。が、こういうテーマで真剣に考える機会が与えられたことはそれなりに意味があったと思っています。以前から「子供のいる人は何か悟りのレベルが違うなあ」と思っていましたが、こういう難題を乗り越えてきているせいもあるんでしょうね。親になるまでに乗り越えるべきことって、意外といっぱいあるのかも。




     さてさて話題は「私立開業医と公立病院の違い」に移っていきたいと思います。

     そんなこんなで開業医さんには診察料85ドルを支払いました。出産までの診察料は国民保険で返還される分を換算しても1100ドルにものぼるそうで、更に病院での出産費用が400ドルかかるそうです。公立病院を選択すれば、ほとんどの費用が国民保険でカバーされるので、1500ドルまるっぽ浮く計算になります。15万円なら日本での出産費用よりは安いだろうし、大金と騒ぐほどの金額ではないので、その価値アリと判断するなら多少コストかかってもいっかと思ってました。要はコストパフォーマンスだよな、と。ま、お金の問題はさておき、内容の違い、これが面白い。

     まずは公立病院訪問レポートから書き綴ってみましょう。
     今週月曜日に St LeonaldにあるRoyal North Shore HospitalのAnte-natal Clinicに行ってきました。公立だからキャンセル待ちでいっぱいかと思いきや、電話1本であっさり予約出来ちゃったことは「妊娠レポートその1」で報告しました。その予約の後、病院から申込書のフォームが送られてきて、それに必要事項(健康状況、家族状況、保険加入状況など)を記入して送り返しておきました。

     この病院はウチのすぐ近くで、車飛ばせば5〜10分ほど。公立病院は規模がデカイので、病院の敷地内で迷子になることが予想されたため、15分ほど早めに出掛けました。で、案の定迷子になりました。受付とおぼしき人に尋ねながら、予約時間ギリチョンでメインビルディングを探しあて、Admissionで手続きを済ませると、さっそく産科に行くよう指示されました。この時、「何が起こっても病院に責任はありません」という一筆をとらされました。

     さて、産科病棟でも更に迷子になったのですが(こんなにややこしい作りで、産気づいた時迷子になって間に合わなかったりしないんだろうか?)、とにかく指定された部屋に辿り着けました。テーブルと椅子だけが置かれた小さな個室がいくつか並んでおり、そこで一人一人産婆さん(midwife)とインタビューを行います。ここで聞かれた質問は、今までのどの医師から聞かれた質問内容よりもずっと細かく、質問数も多かったです。

     質問攻撃のあと、産婆さんは公立病院のシステムについて説明しだしました(どうでもいいけど、この人超早口だった)。公立病院でお産する場合には、各人の状況に応じて様々な選択肢が用意されています。選択肢の概略を説明された後、「あなたにはこのパターンがいいわね」みたいに提案してくれ、「詳しいことはこのパンフレットに書いてあるから、よく読んでパートナーと相談してね」という具合に、いちいち解説書を手渡してくれます。
     なんだかんだでドサドサ貰い、帰る頃にはパンフレット類はかなりの重さになってました。病院で発行しているものから、政府が発行しているものまで様々で、今まで不審に思っていた様々な血液検査の意味なんかも全部解説されていたりします。おまけに新生児用おむつ、産後の生理用ナプキン、コーヒーのサンプルまで入ってました。公立機関が一定の民間企業のサンプル配布に荷担してもいいんかねえという気もしますが、あんまりこだわってないみたいですね。

     その選択肢ですが、たとえばこんなことです。今後初診は6週間後からになるのですが、そこから先の月イチの診断については、3つの選択肢があります(但し、28,36,40週めだけは公立病院の医師に会う)。

    1. この公立病院の産婆さんに会う(これは移民のための通訳サービス付き。多くの日本人がこのサービスを利用しているそう)

    2. 公立病院内の医師に会う

    3. 近所の一般医に会う(但し、病院が認定したGPでなければならない)

     公立病院の場合、予約は面倒だし一般に混んでいるので待ち時間もかかる。それよりは、地元のかかりつけの一般医に検診してもらった方が、産後の面倒まで一環して見てもらえるので、家族にとってもメリット大だというわけです。通訳が必要なくて、健康体の人にはBを勧めているそうです。

     私たちも近所の一般医のことは気に入ってて、以前から「イチイチ病院に行くかわりに、あそこのお医者さんとこに通えたらいいのにねえ」と言っていたところだったので、「それってイイじゃん」と思いました。すぐ近所なので、いつでも気軽に通えて便利ということもあるし。私立開業医の産科だと予約入れるだけでも一苦労だし、予約したところで待たされるし(私立の産科医の場合は、突発的に起こる早産等のケアをしなきゃならなかったりして、スケジュールどおりにこなせないんでしょう)。

     また、出産後のケアですが、通常出産後4日間病院に入院するのですが、2日目から自宅に帰れるというプログラムがあるんですね。もちろん、家族が世話できる場合、母子ともに健康な場合に限るのですが、早くから家族のもとで新生活を始めましょうというコンセプトで、2日目以降は産婆さんが家庭訪問して、健康チェックと子育てアドバイスをしてくれるそうです。病院側としては、ベッドを出来るだけ早く空け、健康保険コストを削減することが目的なのでしょうが、確かに健康な人にとっては望ましいプログラムじゃないかと思いました。

     産科医に勧められた超音波検査についても聞いてみたのですが、「ふつう、まずは血液検査をして障害・奇形の可能性が高いか否かをチェックする。ほとんどの場合がlowと出るが、highだった場合だけ、更なる精密検査を超音波を使って行う」とのこと。しかも、この検査は義務でもなんでもなく、各人の意思で拒否してもいい。また、私がシドニーに帰国するのは17週間めにあたるので、それから検査して万一中絶することを決めたとしても、20週間までは中絶可能なので遅すぎるということはないんだそうです。「あなたなんか、そのリスクは低いんだから、そんな今から焦って検査することないわよ。あんまり早く検査しても正確なデータは出ないんだし」と、この産婆さんはあっけらかんと言うのでした。「まあ、もし心配なら、この病院内に専門医がいるから相談してごらんなさい」と電話番号だけはくれました。

     うーむ、どうやらあの私立の産科医さんはちょっと完璧主義というか、石橋叩いて渡るタイプみたいですね。まあ、個人の腕で成り立ってる商売だから、一件でも失敗があっては彼の評判に傷がつくわけで、神経質にならざるをえないのでしょうが。それに、私立の産科医にかかる人というのは、私立保険に加入しているので、お金にいとめは付けないのでしょう。お金はかかってもいいから、「完璧な出産」を望む人が私立を選択しているとも言えるわけです。実際、私立保険は支払った医療費が一定額になるまでは返還の対象とならないので、ある程度お金がかかってくれないとせっかくかけた保険がおりなくて困るということにもなるわけです。もっとも、この付近の人たちは概して裕福だから、1500ドルなんて小さな金額でガタガタ騒ぐこともないんでしょうけど。

     それから、情報開示については公立vs私立でずいぶん違いがあるなあと思いました。私立の産科医の場合は「僕にまかせてください」というポリシーなのかもしれないけど(それか単純にスケジュールが押してたからかな?)、とにかくこっちから質問するまで何も説明してくれない。寡黙な性格なのかもしれないけど、「言うべきことは全部言わなきゃ」みたいなノリで機関銃のようにしゃべりまくる公立の産婆さんとは対照的でした。
     また、配布資料にしても産科医の方ではなーんにもくれなかったのに対して、公立では「とにかく配布しておけば間違いはない」という勢いで、ごっそりくれたし。まあ、公立では毎回診察の度に違う先生、産婆さんに会うことになるので、スタッフ間にレベル差が起きないように、誰にでも同じ情報を提供すべく、印刷物を用意しているのだろうと思われます。また、問診も公立病院の方が詳しかった点についても同じ理由でしょう。どの先生にも同じ情報が入るように、経過が客観情報で追えるように、詳しく問診しておくのでしょう。

     最初から「難しいお産」とわかっている場合には、私立を選択して同じ先生にお世話になって経過を見てもらった方が安心でしょうが、特に問題なさそうなら公立のシステムで十分じゃないかと思いました。というか、私にとっては私立のやり方はちょっと過剰気味というか、そこまで完璧主義で来られると、逆に余計な心配しちゃうような気がして。お気楽派の私としては、公立の考え方の方が肌に合うので、「よし、公立で産もう!」と決意した次第です。


     追加情報その1。
     公立で産む人も私立で産む人も、公立病院で主催している「Parenting and Childbirth Education」には参加することが出来ます。平日夜2時間×8回のセッション($80)、土曜日1日コース($60)、産後の新生児ケアについてのセッション($60)、二度め以降の出産用のセッション($35)という具合に、いくつかのコースがあり、適当なものを選択することができます。これらのセッションの内容については、旅行から帰国したら偵察にいってきますので、また報告します。

     追加情報その2。
     前回一般医にFolic Acid(葉酸)を飲むように指示されたと報告しましたが、これについての情報も公立病院から貰ってきたパンフレット(右画像)に書いてあったので、紹介しておきます。これは野菜や穀類に含まれるビタミンの1種で、妊娠初期に1日0.4〜0.5mgずつ摂取することによって、胎児が先天性の神経障害(二分脊椎?)になるのを防ぐ効果があるのだそうです(10分の7のケースで葉酸によって障害を予防できたとか)。本来ならば妊娠する1ヵ月前から摂取するのが望ましく、妊娠3ヵ月まで継続して摂取した方がよいそうです。食物でいうと、アスパラ、ほうれん草(ゆで)、乾燥豆、ブロッコリ、生キャベツ、オレンジ、小麦胚芽などに比較的多く含まれているそうです。





     ところで、前回喫煙についてコメントしましたが、一部誤解を招きがちな表現があったようなので、加筆しておきます。

     基本的に私の喫煙に対する考え方は「タバコが身体にいいわけはないので、出来るだけ控えるようにしよう。だからといって、即刻完全禁煙を目指して神経苛ただすこともなかろう」ということで、バランスを取りながら自分にとって無理なく禁煙の方向に持っていこうということです。

     喫煙して小さく産んだラースのおかあさんの話とか、「そんなにしつこく言われると実験してみたくなるじゃん」という部分は、ひとつのエンターテインメントとしてチャカして書いたつもりだったんですが、このあたりで「おいおい、実験はマズイでないか?」というご指摘を戴いたりしたもので。大丈夫です、妊娠喫煙実験まで敢行するつもりはありませんので、ご安心ください(^^*)。

     言いたかったのは、「妊娠・喫煙云々に限らず、世の中で言われていることが必ずしも正しいという根拠も曖昧なのに、それをただ一つの真理であるかのように信じきって教条的になってしまう傾向はないか?」という点です。具体的にどの情報が正しくてどの情報が間違っているのかは私もすべて検証したわけではないので、なんとも言えませんが、その情報が正しいかどうかをある程度検証して納得する前から「おお、そうか」と鵜呑みにしてしまうのはどんなもんか、ということです。

     たとえば、エイズ感染ですが、「エイズは移るから危険だ」という大雑把な情報だけをマに受けてしまえば、「エイズ患者の側には近寄らないように」みたいな誤った認識が広がり、ひいてはそれがエイズ患者差別に繋がっていく。友達がエイズに感染したからって付き合いをやめる必要はないわけで、ただセックスする時はコンドーム付けましょうとか、キスでも移る可能性があるから、やめといた方がいいかな、とか、「ここまではOK、ここから先はNG」という線引がきちんとなされているなら問題ないのですが、医学的にも線引が明瞭化されていないケースでは(議論はあるが喫煙とか)、やたら過剰反応になりがちだよな、と思うわけです。

     エイズと煙草は違うじゃないかという指摘もあるでしょう。なるほどエイズに罹患した人をいたずらに避けるのは差別という悪しき副産物を産みますが、煙草を止めても困るのは煙草会社くらいであって何の問題もない(吸えないイライラはあるけど)。だから、レベルが違うといえば違います。そのとおりでしょう。しかし、ここで言っているのは、「危険と言われていること」に対するアプローチの仕方です。

     「危ないと誰かが言った」→「断固回避」と直線的に動いていたら、余りにも芸がなさすぎると思うわけです。そもそもどれだけ危険なのか冷静に判断する必要がありますし、そのための情報の収集と吟味も必要。さらに回避することによって生じるデメリットというものもあるわけですから、それも比較考量しなくてはならない。そういった思考過程を経て「うん、煙草は良くないわ」ということであれば別に何の問題もないです。でも「え、煙草?とんでもない!!絶対駄目、駄目!!」と異論を許さずに言われたりすると、「本当にわかって言ってんの?」という気になるわけです。これは煙草がいい/悪い論を言ってるのではないです。物事に対する姿勢の問題を言ってるのです。

     日本でも、O−157でカイワレ大根が疑われ、業者さんは大変な目にあいました。また、刺身などナマモノ系統の売上げがごそっと落ちたりして、当時の菅厚生大臣がTVの前でカイワレを食べるパフォーマンスをしたりしました。まあ、皆がカイワレを避けるのは「無理もない」という気もする反面、同じ時期、同じカイワレを食べても全然何ともなかった人々も沢山いたわけで、二義を許さないほどカイワレ犯人説が確立していたわけでもないでしょう。

     こんな場合に求められるのは、本当にカイワレがイケナイのか、どうしてそうなのか?を納得するべく、行政に対してそれなりの手持情報の開示を要求することであるかもしれません。あるいは、人々の恐怖につけこんであることないこと無責任記事を載せた週刊誌に対するキチンとした「落とし前」をつけることも大事でしょう(その種の論議は日本でなされているのでしょうか)。はたまた、情報がない時点では、「あれだけ疑われている以上、業者さんも衛生には万全を期すハズだから、むしろこれからはカイワレこそが一番安全ともいえる」と独特の読みをすることかもしれません。ちなみにAPLaCの田村は乳児の頃、中毒事件の騒ぎになった森永ミルクを飲んでたそうですが、彼のお父さんは、「これだけ問題を起こした以上、他社よりも万全を期すハズだ」ということで同じ森永ミルクを与え続けたそうです。田村自身は、後日親からその話を聴いて、「ほお、ええ読みしてるやん、と思った」と言ってましたが。

     カイワレが犯人かどうか分からない段階でカイワレを本星として避けるだけでは問題は解決しない。そういうことにして安心したい、疑心暗鬼から開放されて楽になりたい心理というのは分かりますが、もしかしたらカイワレじゃないかもしれない、カイワレが犯人だとしても他にも共犯者がいるかもしれない、カイワレを犯人呼ばわりすることによって、業者さんとその家族の生活が危機に瀕するかもしれない。ほんでもって、そんなに子供じみたヒステリックな反応ばかりしていたら、行政の側だっておいそれと発表できなくなってしまう。「パニック防止のために、もう少し確実になるまで調査を続けましょう」なんて及び腰になって、結局被害を広げてしまうかもしれない。要するに、ワーキャーと騒いでロクなことはないわけです。

     別に煙草がそうだというわけではないですし、おそらく病理学的論証はともかく、疫学的には有害なのでしょう。ただ、同じ避けるにしても、カイワレ的、エイズ差別的にワー・キャー避けているのでは意味がないということです。結果的に正しいかどうかではないのですね。そこをご理解ください。




     リスクといえば、人の一生、リスクだらけです。「飛行機は落ちるかもしれないから乗らない」という考え方があります。確かに飛行機に乗る時はリスクを背負わねばなりません。しかし冷静に考えてみれば、飛行機で落ちて死ぬ確率よりも、街を歩いてて自動車に撥ねられて死ぬ確率の方が高いはずです。じゃあ、外には一歩も出ないで生活するのか?といえば、そこまで神経質に対応する人はあまりいないでしょう。

     生きていれば危険はあります。もう不可避的にあります。より自由に好きなことをやろうと思えば、その分だけリスクは増えます。しかし、それもバランスの問題で、「ここまで自由に生きられるなら、この程度のリスクは引っかぶろう」という具合に各自が覚悟すればよいことで、「こういうリスクがあるから、これはやらない」という発想だけをしていたのでは、人生の可能性が狭められていきます。リスクを完全に管理することはできないのだから、リスクを引受けた上で自分なりの基準を線引していくしかないと思うんですね。

     エイズにかかった友人との付き合いから得られる心の行き交いと、エイズに感染するかもしれないリスクとを天秤にかけた場合、自分ならどっちをとるか、そしてどこまでで線引するか?ということでしょう。リスクに直面し、自らの責任で、自ら判断していかないとならない。自らのよって立つ価値観にしたがって、結果が吉と出るか凶と出るか、バクチを打たなきゃいけないのでしょう。当時の科学水準で安全だと言われていたことでも、後になってみれば全然意味がない、それどころかむしろ危険だったなんてこともあるでしょう。皆と一緒にやってもそれが安全である保証なんかない。「あのときは皆がそうでした」と言ったところで、覆水盆に返らず。自分で全責任を負って判断しなきゃいけないとするなら、世界中の全員が右だといっても、「もしかしたら左かも」と疑いたいです。別に天の邪鬼になるとかいうことではなく、自分の判断である以上、一度は自分の脳味噌の回路に流しておきたいということです。回路を流さず結果だけ鵜呑みにするようにすることはやめよう、と。




     そういう意識で見てみると、特に子供に関する情報にそのテの「リスクはすべて回避すべき」という風潮がよく見られるような気がします。健康上のリスクは回避するに越したことはないにせよ、回避しすぎたデメリットというものを反対側の天秤皿に入れるのを忘れてはいないかなと思う事もあります。例えば、天然免疫の弱い子が増えてる傾向もあるんじゃないですか? 世界レベルから見たら日本の潔癖症はちょっと異常なくらいで、同じ機内食食べてもお腹壊すのは日本人だけだったりする。バイ菌に触れないようにしてれば、次第に人間の免疫は弱くなっていくわけでしょう。もっと自然にしててもいいんじゃないかな。

     それが昂じて、胎教やら英才教育やら、過剰な投資に走っていくのかもしれません。胎教や英才教育は一見リスク回避とは関係ないように思われますが、「危険→逃げろ! 良い→GO!」という短絡回路の根っこは同じという気がします。あるいは、単に短絡なだけではなく、他人もやってるからこれに乗り遅れると大変なことになる、という焦りがあるのではないかと思われたりもします。競争に出遅れないためのリスク回避指向、これがお子さま教育産業の繁栄を支えている心理ではないでしょうか?そうだとすれば、お子さま教育産業は、リスクから逃げることばかりを価値基準にすえると、全体のバランスが悪くなってしまうという一つの例ではないかと思います。そういや、英才教育とか言われ出してから既に十数年以上経っていると思いますが、どうなんでしょう。日本に英才は輩出しているのでしょうか?その逆をいってるような気もします。そんなものより、「キャプテン翼」というサッカーマンガの影響で、今日の日本サッカーの人材が出てきているほうがよっぽど確かな気がします。

     ところで、話はちょっと逸れますが、胎教、乳幼児からの英才教育、お受験、塾通い等々のゴールは「有名大学入学→大企業・官庁に就職→高収入に支えられた安定した生活」だと思うのですが、こんな神話が現代日本にいまだ罷り通っているんでしょうか? だとしたら、ちょっと信じられないですね。昔ほど有名大学のネームバリューは就職時に有効に働かず、それより実力本位の企業が増えています。大企業に入ったところで必ずしも生活が安定するわけではないことは、今の日本経済見てたら分かるでしょう。国家公務員になったところで、若い頃は安月給でガンガン働かされて、昔のように有利な天下り先なんかどんどん消滅して退職後のベネフィットも減っているわけだし。もっと根本的なことをいえば、高収入のある家庭が必ずしもハッピーか?といえばそんなことはない。そりゃあ経済力はあるに越したことはないけど、心のハッピー度と収入・社会的地位とは必ずしも比例しませんわね。実際、日本の教育制度になじめず問題抱えてオーストラリアに留学してくる中高校生の多くは、お父さんが社会的地位の高い人であったりします。

     人間、ひとつの価値基準にとらわれていると、世界がフラットに見えなくなってきて、人生誤りがちだし、不幸と感じがちであると思います。同じ現象でも見方を変えれば、ハッピーにもアンハッピーにもなります。ひとつの基軸しかないと、その基軸でダメなものを他の角度から眺めて評価することが出来なくなってしまって、不必要に不幸だと感じてしまいます。私も他人事ではなく、自分にとって不利な見方をしては勝手に落ち込んでしまうこともあるのですが、それって勿体ないなあと思うんですね。せっかく生きているんだから、与えられた時間を出来るだけハッピーでいた方が得ですよね(^^*)。




     話は妊娠に戻りますが、私もう34なんですね。○高ギリチョンです(日本の○高は40才からになったとか? NSW州では35才以上の出産になると追加検査があったりしていわゆる○高的な扱いになるようです)。もっと早くに妊娠してりゃもっと楽だったかも、とか思わないこともないのですが、自分の中ではこのタイミングで妊娠したことは大正解というか、ハマッたというか、妙に納得するものがあります。

     大学時代は思いっきり遊んだし、就職してからは馬車馬のように働いたし、転職もしたし、納得のいく商品開発もしたし、いきなりオーストラリアに来ちゃうという暴挙も果たしたし、海外生活も海外就職も経験したし、英語もとりあえずマスターしたし、儲からないながらも自分でビジネスやってみたし、あちこち旅行にも行きまくったし、おいしいもんもたくさん食べたし、すてきな人ともたくさん知り合ったし、たくさん恋もしたし、いい人に巡り合って結婚もしたし(しかも二度も)、、、本当に今死んでも後悔しないってくらい、やりたいことは皆やった、という思いはあります。あとやってないのは、ファミリー関連プロジェクトだけ。

     ここまで来るまでには、ずいぶん迷いもありました。20代で結婚→妊娠出産→子育てと「女の王道」を突き進む友人たちを横目で見ながら「あーゆーのもいいなあ、でもまだ私には早いみたい」と思ってました。30代になると肉体的な限界(出産できる年齢)が直前に迫ってきますので、「このままでいいんだろうか、このまま一人でやっていく人生もそれはそれでいいけど、せっかく女として生まれてきたんだから、女の機能は使ってみたいし・・」とか、いつも揺れていました。
     でも、いつも自分に言い聞かせていたのは、「そういう時はいずれ来る。放っておいてもそういう時期になれば必要なものは向こうからやってくるはずだ。来なきゃ来ないでそれも運命。とにかく今は自分の納得のいく毎日を送るようにすればいいんだ」と。ないものねだりをしても、意味がない。ないことを嘆いている暇があったら、あることを喜んで今を楽しもう、と。まあ、こんなふうにキレイに割り切れていたわけじゃなくて、悶々とすることも結構あったんですけどね(^^*)。

     で、今振り返ってみると、必ず必要な時に必要な人、環境はちゃんと巡って来てる。勿論自分から選択したり、努力で展開してる部分もありますが、人生自分じゃコントロールできない要素も多くありますよね。ソレが来た時に、そのチャンスを生かせるかどうかは自分次第ですが、ソレが来てくれなきゃどうしようもない。

     今年に入って結婚して妊娠して、こういう急速な展開になってるわけですが、自分の中では今がひとつの大きな転換期というか、自分の中での新しい時代が始まろうとしているという感覚があります。すべてのコマが揃ってすべてが統合しようとしているような。そして、すべてが「こうなるべくしてなっている」という根拠のない確信のようなものがあったりします。変なこと言ってますが、こんなふうに勝手に納得して妊娠している私って、かなり幸せモノだよなあ、と。あ、これって単なる自慢かもしれません(^^*)。


    ★→妊娠レポート(その3)
1998年7月22日:福島

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