シドニー雑記帳

なぜシドニーに来たのか?




     以前、田村が「どうしてここに居るのか」というタイトルで面白いことを書いていました。
    今回、ある方から「APLaCの皆さんはどういう経歴を経てシドニーにいらしたのですか?」という質問をいただきましたので、返答の意味もこめて、私(福島)の場合を書いてみたいと思います。

     「どうしてシドニーに来たのか?」を考える時、そう明確な回答があるわけではないことに改めて気づかされます。一言でいえば「今までと違う価値観に触れてみたかった」「違う環境で生活してみたかった」ということになりますが、なんかそう単純なもんでもないし、そう思うに至った経緯というのがそれなりにあります。これを自分で納得のいくように説明しようとすると、どうしてもこれまでの自分のやってきたこと、感じてきたこと、考えたことなどを書かないことには片手落ちになってしまいそうな気がします。よって、まずは私ごとからお付き合いくださいませ。




     はじめてシドニーにやってきたのは、3年前のちょうど今頃でした。南半球は「秋」のはずなのに、もの寂しげな色は見当たらず、かわりに真っ青な青空と海、芝生の鮮明な緑色、さんさんと降り注ぐ明るい太陽が印象的でした。

     この直前まで私は東京で暮らしていました。生まれて半年で東京から神奈川の山の中に引っ越して、大学に入るまで山の中で育ち、大学時代からはずっと東京。大学時代は受験で鬱積していた「遊びたい欲求」が爆発して、勉強などそっちのけで遊びほうけていましたが、そういうチャラチャラした遊びの舞台としてはうってつけの東京も、就職して精神的ストレスだらけの生活になると、灰色の街に見えてきました。

     大学を卒業して最初に勤めた会社はマーケティングリサーチの会社。バブル最盛期だったこともあり、仕事は山のようで毎日夜中まで残業、職場で寝泊まりすることも珍しくありませんでした。スタッフの出入りは激しく、社会人1年生の私に様々な面で刺激を与えてくれた先輩たちもどんどん他へ移っていってしまい、気がついた時には入社3年目の私が新人の世話をしながら課の仕事を切り盛りしている状態でした。それでも仕事は好きだと思っていたのですが、無意識のうちに登社拒否症になり、電車に乗れなくなった時期もあります。

     就職してすぐ知り合った人とすぐに結婚していたので、精神的にはかなり支えられていたと思います。二人とも仕事が忙しく、すれ違いの多い生活でしたが、それでもあんなハードなストレスだらけの生活をしながら何とかやってこられたのは、彼がいたからでしょう。

     入社4年目に転職を決意しました。「商品の調査の仕事ばかりしているうちに、商品開発の一部ではなく、実際にひとつの商品を最初から最後まで面倒見る立場に立ってみたくなった」というのが表向きの理由でしたが、本当の理由は「これ以上この会社にいても、自分をすり減らすばかりで吸収するものは何もない」と判断したからです。

     まだ転職が世間でそれほど認められていない時代に、そして既婚者女性の活用など考えていない企業が多い中で、「食品の商品マーケティングをやりたい」という希望をかなえてくれる会社はそうそうあるもんではありませんでした。そんな状況下で私を拾ってくれたのが、スナック食品メーカー、カルビーでした。




     本当にカルビーの皆さんにはお世話になりました。個人プレーしか知らなかった私に、いわゆる日本流の「組織の動かし方」を教えてくれたのも、この会社です。酒の席で上司にセクハラを受けた翌日は、しっかり稟議書を持参し合議にもっていく、なんて余芸も開発しました。「バカバカしいけど避けて通れない処世術」がたくさんあるものだと知りました。そんな泥臭い処世術とは別に、商品への情熱をもって臨めば、損得抜きで協力してくれる人たちもたくさんいました。本当に人に恵まれていたなあと思います。
     しかも、会社自体が過渡期にあったので、自分のアイデアを自分の手で商品化していくという夢を実現させてもらえる自由な環境がありました。今はそんな悠長なことを言ってられなくなったようですが、当時のカルビーは、私にとっては非常に理想的な職場でした。

     それでも、千三つ(千の商品のうちヒット商品になるのは3つだけ)と言われる競争の激しい業界の中で、私が手掛けた商品もなかなか日の目を見ませんでした。うまくいかない要因は商品そのものの問題から流通過程における問題までいくらでも思い付きますが、これらが何かのマジックでスラッと奇麗に好条件にハマった時に初めてヒット商品になるような気がします。これは本当にひとつの魔法です。商品が「神がかる」のです。どんなに商品自体がよくても、99%の成功要因はクリアしていても、最後の1%の要素であるマジックが効かなければ絶対成功しません。

     それを実感したのは、入社3年目で「かっぱえびせん わさび味」を手掛けた時でした。もちろん「かっぱえびせん」という強力ブランドを利用した商品ですから、商品力の点ではそれほど苦労なく及第点にもっていけますし、流通側も消費者側ももともと知っている商品だけに受入られやすいことは確かです。それでもやり方ひとつで、かっぱえびせんブランドそのものに傷がつくというリスクも背負っていました。「わさび味」発売のおかげで長寿商品「かっぱえびせん」が相殺されてしまうことを懸念する声は、社内のあちこちから聞こえてきました。

     でも私はこの商品には「マーケティング・マジック」がかかるという確信がありました。根拠のない自信。これを他人に説明するのは難しいもので、発売間際まで社内論争は続きました。特にあの味付けはギリギリまでもめ、直前に駄目押しでやった試食調査結果をもとに、本生産の1日前に私がこだわっていた味付けで一件落着したものです。

     発売してみると、予想以上の大ヒット。そりゃもう、嬉しかったです。毎日入ってくる売り上げデータを眺めるたびに悦に入ったものです。

     でも、なぜか同時になんともいえない「むなしさ」を感じました。ヒットした喜びは、たとえて言うなら「宝くじに当たった時の喜び」みたいな感じでしょうか。ある意味自分の努力や思い入れとは関係なく、市場における運が作用しただけ、という気がするのです。この商品を企画しだした時から、「これは化ける」というマーケターとしての勘はあったのですが、一方で「それがどうした?」という冷めた気持ちがありました。私はこの商品に対して愛情を感じたことはなく、ただ「成功をもたらす商品」として扱っていました。

     これとは対照的に、それまで3年がかりで育てようとがんばったけどうまくいかない商品がありました。抹茶をつかったスナックで、これに魅入られてから材料を求めて静岡まで足を運んだり、やったことのない茶道をはじめたり、お茶の化学的特性を調べたりと、とことん抹茶に入れあげました。社内でも抹茶スナックの商品化にこぎつけるために、工場に通っては工場長と直談判したり、テスト販売を引き受けてくれそうな営業部に乗り込んでは説得したりと、抹茶の為に日本じゅう飛び回っていました。本当に子供のように愛した商品でした。しかし結果的には、何度か地域限定発売にはこぎつけたものの、ヒット商品として売り場に残るほどの売り上げにはなかなか達しませんでした。

     それでも、この商品がはじめて店頭に並んだ日のことは忘れられません。広島市内の何軒かのスーパーでテスト販売をしてみることになった初日のことです。私は東京から新幹線に乗って売り場を見に行きました。推奨販売のおばさんが売り場にたって、お客さんに試食を勧めています。ポテトチップスの袋をカゴに入れたおばさんが、試食販売のおばさんに声をかけられ、試食しました。「あら、おいしい、これ」そう言って、カゴに入れていたポテトチップスの袋を棚に戻し、代わりに抹茶のスナックをカゴに入れました。

     これを売り場の影に隠れて見ていた私は「やったー、やっと通じたあ」という気持ちでうるうるしていました。そして、おもいました。商品づくりとは、作っている人間と買って食べてくれる人間との間のコミュニケーションツールなんだな、と。そこにお金という媒介はあるけれど、作る側は「おいしいから、皆に喜んでもらえると思うから」つくり、その価値ありとみなした人が「おいしいから」手に入れる。ものをつくるってのは、すばらしいことだなあと実感しました。

     でも、結局この商品には「マーケティング・マジック」はかかりませんでした。熱狂的なファンはいるのですが(よくファンレターを貰いました)、競争の激しいスナック売り場で闘っていけるだけの一般性は持ち合わせていない商品だったのでしょう。反対に、特に愛情も感じず、買ってくれた人たちのことも考えなかった「かっぱえびせん わさび味」は爆発的に売れたのです。この時、私を襲った「むなしさ」「脱力感」をうまく説明することは出来ないのですが、「このままここにいてもしょうがない」という確信が生まれました。これが渡豪のひとつのキッカケになったことは事実です。





     このころ、同時にニフティーサーブのネット上でよく文章を書いていました。日々思うことをつれづれなるままに書いたもので、質は大したものではありませんが量だけはすごくて(毎日「雑記帳」を2〜3本生産しているようなもん)、詩や小説、自叙伝などに挑戦したこともあります。なにをムキになって書いていたのか?と不思議な気もしますが、あれが私にとっては「自分を見直すいいツール」だったのだろうと思います。自分が本当にやりたいことは何か、何が好きでどういうものがキライなのか、どうしてそう感じるのか、そう感じる自分とはどういう人間なのか・・・。そんなことを毎日少しずつ突き詰めていたのだろうと思います。

     今から思うに、ニフティで文章を書き続ける作業と、抹茶スナックを育てる作業とは、全然違うことのようで実は「自分を見つめる」過程としてオーバーラップしていたような気がします。この過程をとおして、「自分の真の姿」を確認していたんじゃないかと思われます。
    このままでいいのか? これが本当に私がやりたいことか? ここで生活していて本当に楽しいか? この先、生きがいを実感しながら生きていくにはどうしたらいいのか? ・・・

     いろいろ考えた挙句に、私は今の環境で「自分らしさ」を阻害していると思われる要素を自分から切り離す方向へ動くようになりました。いわば「自己奪回計画」の実行であります。
     「離婚」もそのひとつでした。彼のことは好きでしたが、結婚という枠組みに自分たちがいることで、本来の関係が歪んでしまっているんじゃないかと思い、籍を抜くこと、別居することを提案しました。私の突飛な行動に動揺し困惑させられた両親には申し訳ないことをしましたが、夫は同意してくれました。「離婚」といえば世間的には一大事ですが、私にとっては「当たり前のとるべき道」でしたから、別に不幸とも思いませんでした。が、周囲からの無理解な同情には戸惑いを感じることもよくありました。結果的には、離婚してはじめて自分たちの関係が素直に捉えられるようになったようで、今年の正月にシドニーに遊びに来た彼とは「やっと自然な関係になれたな」と実感しました。

     そして、もう1つ。「ここで生活していくことへの疑問」が湧いてきました。自然に自分らしく生きていられる心地のいい場所を求める気持ちが強くなっていきました。考えてみると、たまたま大学時代から東京に居着いているだけで、東京は私にとって生きていてあまり心地のいい場所とはいえない。子供の頃から自然に囲まれて育った私にとっては、無機質な建物や生気のない顔をした人々が行き交う街は、肌に合わない。今まで仕事ばかりに夢中になってきたけど、生産性、利益性だけを重視する経済中心の社会では心がすさんでいくような気がする。そう、「抹茶スナック」が売れなくて、「かっぱえびせん わさび味」が売れるような社会構造のもとでは、私らしく生きていけないんじゃないか。
     なにか違う価値基準が働く社会へ行ってみたい、気持ちよく生活できる街へ行ってみたい、もっと自然が身近にある場所、それでいて食うに困らない場所はあるんじゃないか。
     外国−−。日本にないものがあるだろう。どこの国へ行ったらいいのかわからないけど、日本国内なら何処へ行こうと今まで知っているような価値基準とそうそう変わりないだろうけど。

     なぜかわからないけど、日本国内ではダメだという気がしました。最初に考えた「外国」は、何度か旅行して気に入っているイタリアでした。どうしたらイタリアで仕事できるのか、少ない資料で調べてもみましたが、旅行先として魅力的な場所は必ずしも生きていくのに魅力的とは言えないようでした。
     そんな折、「オーストラリアのマルチカルチャリズム」のことを知りました。それまではオーストラリアなんてコアラとカンガルーの観光国としか思っていなかったのですが、今では世界じゅうの国々から集まった移民たちが交じり合って、互いに異なる文化背景を大切にしながら新しい国づくりに挑戦している、ということに惹かれました。ふつう、違う民族同士が集まったら戦争するものなのに、それを一緒にやっていこうとするなんて、なにか面白いことがあるに違いない、と。

     で、オーストラリア行きの準備に着手しました。本当ならワーキングホリデービザを取得したいところでしたが、すでに30になろうとしているところだったので、とりあえず偵察をかねて、どうせ必要になるだろう英語を身につけるため英語学校に入学手続きをとり、学生ビザで入国することにしました。この準備期間は実に楽しかったです。シドニーに知人の一人もいませんでしたし、滞在先のアテも全くありませんでしたが、毎日楽しみでわくわくしてました。よく「不安と期待でいっぱい」なんて言いますけど、私にはあまり「不安」はありませんでしたね。




     来たばかりの頃は英語で苦労することはありましたが、あまり「苦労」という苦労はしていません。よく相棒田村は「メチャメチャ大変だった」と言いますが、私はあまり大変と思ったことはありません。たぶん彼の言う「男性と女性の違い(雑記帳「不器用な男達」を参照ください)」なのかもしれませんが、自分の環境適応能力には感心させられます。

     そもそも言葉が通じないくらい何とも思ってないんです。オーストラリアに来る前にはあちこち海外旅行しましたが、それはほとんど自分で航空券だけとって適当に日々の宿泊先を自分で見て歩いて決めるような気ままな旅でした。たとえばイタリアやスペインの田舎にいけば英語すら通じません。当然私はイタリア語もスペイン語もロクに喋れません。そこで来るのか来ないのかわからないバスを座り込んでずーっと待っていたり、電車で隣り合わせたおばさんとわからないながらもコミュニケートしたりすることで、度胸だけは付いていました。相手がワケわからないことをまくしたてても、コミュニケートしようとする努力をしていれば、どうにかなるもんだ、という自信がありました。身振り手振りでもかなり伝わるものだし。
     そうはいっても、旅行じゃなく生活となれば、賃貸物件の契約やら、電話での交渉ごとなどは英語できなきゃどーにもならない場面はいくらでもあるので、「早く英語できるようになりたい!」とは毎日思っていました。けど、それで打ちのめされることはあまりないんです。

     そんなわけで、シドニーでの生活も英語が分かるようになるにつれて益々楽しくなってきました。「もうちょっと居たい、でも貯金が尽きる、働かないとやっていけない」という状況になり、永住権申請に至ったというわけです。そういえばシドニー来てから精神的に不安定だったのは、永住権が取れるかどうか心配でしょうがなかった頃でしょう。「ここに居られなくなるかもしれない」ということが一番の不安なんですから、それほどここが良かったのでしょう。

     なにがそんなによかったのか? そういやじっくり考えてみることもなかったけど、いい機会だから挙げてみましょう。

    • 何と言っても気候が好き。夏も蒸し暑くなく、冬も冷え込まず、太陽が健康的に照っている毎日。お天気がいいだけで、気分が明るくなるもん。

    • 一応都会なのに、自然に恵まれていること。真っ青で抜けるような空。年がら年中緑色の芝生を元気に駆けている犬たち。ボーッと眺めているだけで心地よい時間が過ぎていく美しい海。自分の存在がちっぽけに思えてくる、こわいほど雄大なユーカリの森。

    • なぜかシドニーって「外国」という感じがしない。街を歩けば髪の黒い人、民族衣装を着た人、はだしの人など様々で、「いろんな人がいて当然」という、ふところの広さが感じられる。生活していて「私だけ仲間はずれ」という違和感が全然ない。

    • 誰も人を既成の概念に押し込めて評価したり説教したりしない。「あなたはあなた、わたしはわたし」と個人が尊重されている雰囲気がある。つまり、日本にいる頃私が取り払ってきた「周囲から自分を威圧するお仕着せの概念」が最初から1つもない。

    • 移民の先輩たちが日常がんばっている姿をよく見掛けられ、勇気づけられる。英語力どころかお金も財産もゼロでやってきて、がんばって生きている人々を見るたびに「私なんか恵まれてるな、がんばろう」って気がする。

    • 人々が親切。(ちなみに今まで出会ったヤなヤツはそのほとんどが日本人だったりする。)つたない英語でも理解しようと努力してくれるし、面倒なことを依頼しても親切心から協力しようとしてくれる人が多いと思う(反面、プロとしての責任感には欠けていることもままあるが)。

    • 自分がどこかの枠組みにどっぷりハマらなくてもよい。これはオーストラリアに限らず異国に行けば同じ環境になるのだろうが、もともと自分はここの地の人間ではないので、ここの地の社会の問題を客観的に観察していられる。

    • 細かいことにこだわらない。本質的なことが正しければ、枝葉末節はどうでもよい、という価値観が通っているようで、型を重んじる日本とは対照的。こっちの方が私には合っている。

    • 日々英語が上達していく。生きていて何かが毎日向上しているというのは、それだけで生きてる意味があるような気がして嬉しいものである。単純だけど、本当にそう思う。



     反対にイヤだなあと思う面を挙げてみると、

    • 朝晩の通勤。道路の渋滞は東京ほどではないにせよ、かなり不快。電車は運行がいい加減で時刻表通りには動かずイライラさせられる。

    • 接客態度がなってない。もともとオーストラリアの平等意識に基づくとか言うのだが、日本なら当たり前の客の扱い方がいい加減。わかっちゃいるが腹たつこともある。

    • 仕事がいい加減。納期を納期とも思ってないような対応をされることもよくある。質問に対して平気でウソを教えられることも(もちろん本人はウソだと気付いていないのだが)。ただ、地位の高い人ほど質のよい仕事をしてくれる。これは、年功序列で能力がなくても上にあがってふんぞり返っている人々が多い日本とは対照的であろう。

    • 今はAPLaCだけでは食っていけないので会社勤めもしているが、社内での「おつきあい」は日本ほどではないにせよ、ある。これがうっとーしい。一緒にいて楽しい人とならお付き合いするのは一向に構わないが、当然職場の全員と気が合うなんてことはありえないのだし、そこで無理して楽しそうに振る舞うのは疲れる(もっともこれは日本人が半分いる会社だからなのかもしれませんが)。日本では当然のようにやっていた「表面上のおつきあい」が、こちらに来てから特に苦手になっているように感じる。

    • 別に「ヤダなあ」ってほどではないんだけど、ときに日本の季節の移り変わりが懐かしくなる。シドニーは年中春と秋しかないみたいだから。夏休みの終わり頃の夏の名残惜しさや、秋真っ盛りの頃の高い空、刻々と変化する紅葉の彩りなんか、シドニーでは感じられないから。


     ひとつひとつ、じっくり考えていくと面白すぎて長くなりそうなので、今回は触れるだけに留めておきますが、好きな面、イヤな面総合すると、「やっぱりここが好き」という結論に落ち着くのでした。





     将来どうするかはわからないけど、今はもう少しここで、取り戻した自分をまっすぐに成長させてあげたいと思っています。それからまたやりたい方向が見えてきたら、他のどこかに移ってもいいし。生活する場所は、自分にとって一番気持ちのいいところ、今の自分にとって必要な環境という観点から正しく選択していきたいなと思っています。まず自分のやりたいことがあり、「こうありたい」という気持ちがあって、それで初めて自分に適した場所を選べるんだと思うんですね。無理に合わない場所で悶々している必要なんかないんだし。

     そのためには「自分」を把握していないとダメなんだけど、逆に言うと適した場所じゃないところからの自己奪回は大変です。大事業になります。環境が気持ちよければ、自然と自分もつかみやすくなる。状況が許す限り、いつも「今の自分」に最適な場所で暮らしていたいなと思います。いつも一番気持ちのいい場所を知っている猫みたいに。


    福島麻紀子(1997年4月6日)


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