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僕の心を取り戻すために(5)

「心を豊かに」の幻影(その2)


(承前)

「心の豊かさ」を求めたくなる環境的必然


 ところで、ここでちょっと視点を変えて、なんでそんなに「心を豊かに」なんてことが言われるのだろうか、どういうニーズあってのことなのかを考えてみます。

 ここでふと思い出すのは、あんまり心が豊かじゃない現状の認識として「今の日本人の大多数は精神障害の一歩手前である」という表現をよく見聞しました。このフレーズを聞くと、思わず「そんなアホな」「いや、確かにそうだろう」という相反する言葉が頭の中でハモってしまう人は僕だけではないでしょう。この種の表現は、バブルの時にも、不況のときにも変わらず言われますので、あんまり景気とは関係ないようです。

 今もこのフレーズはそれなりに正しいとは思います。しかし今にして思えば、この言葉は、より正確に「全て人類は精神障害の一歩手前である」とすべきでしょう。なぜかといえば、結局、世の中は、そして人間は、「そういう具合に出来ている」と思うからです。




 何を言ってるかというと、一つには、いま感じているフラストレーションは、多くの場合、結局自分がそれを望んだから出てきたもの、より優先順位の高い自分の欲望を満たそうとしたことによって必然的に生じた副産物だと思うからです。水に濡れなきゃ魚は採れない、イヤな思いをしないと金は稼げない。無実の罪で監獄に入れられる等の一方的で外在的な理由でストレスが溜まる場合は別として、大多数は、結局そうせざるを得ないから、それを自ら望んだからそうなったと言えるのだと思います(だからこそ悩みも深いのでしょう)。

 会社勤めが嫌だったらとっとと辞めればいいのです。でも辞めたらお金がなくなり、ホームレスになってもっとイヤな展開になります。「仕事に追いまくられ子供とゆっくり話もできない、これではいけない、もっと心にゆとりもって生きよう」というのは正論でしょう。しかし、じゃあバンバン有休をとりましょう、5時にさっさと帰りましょうなんてことが出来たら最初から苦労はいりません。そんなことして首にでもなったり、昇給が遅れたら、子供の教育費すら出せなくなるかもしれない、ローン返済の予定が狂うかもしれない。

 そりゃ有休ちょっと取ったくらいでいきなりクビにはならないでしょうが、クビにならなきゃそれでいいのか?というものでもない。同僚や部下の視線もあります。「うっそー、○○さん、自分だけとっとと帰っちゃったの?信じらんない!!」という部下の女性社員の罵倒が幻聴のように聞こえるかもしれません。

 だから無理して子供との時間を増やしたところで、ストレスの収支勘定はもっと赤字になるかもしれない、いや往々にしてそうなるでしょう。それであっさり黒字になってハッピーになれるくらいだったら、誰だって馬鹿じゃないのだから、とっくの昔にやってると思うのですね。何をどう組み合わせて最高ポイントを築いてみても、それでもまだ足りないからフラストレーションが溜まるのでしょう。




 一方、精神的満足というのは、肉体的満足に比べてキリがないです。食欲や睡眠欲は一定満たされればそれ以上は望みません。ところが心の満足というのは、本当に限界がない。

 僕の貧乏下宿時代には、「アルミサッシ願望」というフレーズが内輪で笑いを取ってました。「隙間風を防ぐアルミサッシの窓のある部屋に住めたらどんなに幸せだろうか」なんてシャレになるような、ならないような事をいっては「とほほ」と笑ってたもんです。ところが、あっさりそういう家に住めるようになったら、今度は部屋が小さいとか、環境がどうのとかいう話になります。「三丁目の夕陽」じゃないけど、僕が保育園行ってるころは、親子四人で二子玉川の四畳半で暮してました。微かに記憶に残ってる3才頃に杉並に暮しているときには、年がら年中断水してたようです。あのころは日本中そんなもんでした。もっと前には4畳半に一家七人なんてのもザラだったといいます。もう少し遡れば、バラック・闇市ですもんね。

 ビートたけしが昔こんなことを言ってました。モテない新人の頃にやっとSEX出来た時はメチャクチャ気持よかった。今売れっ子になっていくらでもモテるようになった。昔に比べて100倍出来るようになったといってもいいけど、あの頃の気持ち良さに比べると100分の1に減ってしまったような気がする、と。

 「今の状況ではこれが限界」なんて一見絶望的なことでも、このレベルまで到達したときには結構幸福だった筈です。大学生活になじめない五月病も、だったら入試で落ちた方が良かったのかというとそんなことはないでしょう。あのときは合格して大喜びだった筈です。

 今悩んでいるこの現状が改善され、自由時間が増えて「心にゆとり」が出来たとしても、それにすぐ慣れてしまう。そんなにハッピーだとは思わなくなるでしょう。仮にこの世の帝王になれたとしても、しばらくしたら詰まらなくなるでしょう。

 何故かといえば、それは人間の環境適応能力や忘却能力のなせるワザだと思います。ツライことがあっても「時が癒す」といいますが、早い話が忘れるわけです。これ忘れられなかったら気が狂っちゃうと思います。あなたが部屋の大掃除をしていて中学時代の日記なんぞ出てこようものなら、懐かしさよりも先に恥ずかしさを覚えるでしょう。あの頃の愚行やら恥やらグチャグチャやらを、死ぬまでぜーんぶ克明に覚えてたら、やってらんなくなるでしょう。でも都合がいいことに人間は忘れることができる。そしてまた、不幸な環境に陥っても、過去の幸福だった記憶を適当に消しちゃえるから、それなりに現状に適応することもできる。と同時に、快適な環境になったとしても、すぐにそれに「適応」(?)して慣れてしまう。




 というわけで、イタチごっこというか、一定レベルのフラストレーションはどうしたって生じてしまうのでしょう。僕らは、どんなに最適な環境にもっていってもすぐにそれに慣れてしまい、またアラ探しを始めるという厄介な(でも生存のために必要な)性質を持ってます。かなり快適な広々した環境を用意しても、すぐにボーダーギリギリまでトコトコと行ってしまい、「ここまでしかないのか」と不満に思う。そのボーダーを超えたいなあと思い、フラストレーションが溜まり、ともすれば心のバランスを崩しそうになるのでしょう。

 それに人間はいつだって頑張ってベストな環境を作ろうとしてると思います。現状が不満だといっても、よく考えてみれば結構それなりに上手いこと組み立ててる筈で、ちょっとばかり現状を変えたところで、また別の(それまで気付かなかった)不満が生じてきたりします。都会が嫌といって田舎に暮してみたら、今度は退屈で死にそうだ、まだ前の方が良かったとか文句を言ったりするものでしょう。それまで当たり前だったものも、無くなってみるといかに大切だったのか分かったりします。だから「幸福とは失われて初めて分かる」とか言われるのでしょう。

 僕が「精神障害の一歩手前」と言っているのはそういう意味です。それが自然で、それが当たり前なのだと。ほおっておいても勝手にボーダーギリギリまで行ってしまい、すぐ次を望み、勝手に不幸がるという。でも、「一歩手前」なんだからまだ「正常」なのです。だから何とかやっていけてるわけだし、このナチュラルに陥る不幸から、向上心なり前進の力が生まれるのでしょう。だもんで、人間が精神障害の一歩手前であるといっても、そのショッキングな表現ほどには、別に大して驚くことでもないと思うわけです。


オモチャの切れ目が幸福の切れ目

 ここで、「いやそうじゃないんだ。お前が言ってるのもわかるけど、現状はそんな「ナチュラルな不幸」とかいうレベルを超えてるものがあるんじゃないか。一歩手前どころか、半歩手前、4分の1歩手前とかいう人だっていると思うぞ」というツッコミもあろうかと思います。

 そりゃそうだと思います。完全にイッちゃった人と全然大丈夫な人が居れば、その中間には無数のグラデーションがある筈で、そんな一概に言えたものではないでしょう。また、パソコン通信の掲示板やら泥沼化する喧嘩やらを見てると、「ああ、皆たまってるんだなあ」「病んでるなあ」と思います。

 これは日本だけの特徴なのかどうか、おそらくは人類に普遍的なことだと思いますが、一番良く知ってる日本的環境を考えてみると、それなりに日本独自の特徴もあると思います。

 日本の場合、高度成長時代は、給料も上がる、家も大きくなるし、車もカッコよくなるしで、ほおっておいても自然と快適度が増してました。だから新しい快適環境にも慣れて不満が出て来る頃には、また適当に目先が変わってましたので、わりと精神的にはハッピーだったと思います。ところがそれが頭打ちになっちゃうと、もうこれ以上自動的にハッピーになれなくなります。で、ボーダーまでいってしまって、「心が」という話になったという側面もあるかもしれません。

 だってさ、あのまま経済成長を続けてたら話はまた違ってると思うのですね。「ごく普通に勤めていたら大阪城が買える」という世の中だったら、やっぱり楽しいと思いますもんね。いいですよお、大阪城(^^*)。「これ全部オレのもの」と思いつつ、夕暮に沈む大阪の町を見ながら天守閣でビール飲んでたら、そら気持ちよろしいわ。「心が〜」なんて思わんと違う?

 はたまた、その昔の冷蔵庫や自家用車のような画期的な製品が登場したら−−例えば19万8000円で自由に空を飛べる重力遮断装置が買えるとか、テレポーテーションが出来るようになるとか、タイムマシンが36回ローンで買えるんだったら、やっぱり熱狂しますよ。面白いもん。だから、「心の豊かさ〜」なんて言ってないんじゃないかな。



 ただそうやって世の中が進展して、物質的にも精神的にも幸福の水準があがってくると、それをキープするだけで一苦労でしょうね。車は金持ちだけが持つもの、大学は一握りの秀才だけが行くところ、マスクメロンはよほどの大病にかからないと食べられないもの、服は寒暖をしのげればOKとなっていたら、楽ですわ。

 ほんのちょっと昔、日本人は平気で服にツギをあてて着てました。別にそれで不幸でもなんでもなかった。でも、今そんな服を着てたら不幸を感じるでしょう。だからブランドバリバリでなくてもいいから、そこそこ小奇麗な服を着なきゃいけない。小奇麗な服を着れるというのは本来ハッピーな筈なのですけど、それが当たり前になっちゃってるから、逆にキープしなきゃ不幸になっちゃう。戦中戦後はメシさえ食えたら万事OKで、味なんか二の次だったでしょう。それが、今はマズイもの食べると不幸になっちゃうから、頑張って美味しいもの探して食べないといけない。ところで、逆に、オーストラリアでは穴のあいたストッキング穿いてても全然OKですから、相棒のように日本から女性はハッピーになれるようです。

 現状維持するためだけにも、八面六臂に頑張らないといけない。でも、それでハッピーになれるかというと、もう慣れちゃってるからそうも感じない。キープすべき項目リストが膨大に増えただけに、それをこなしていくだけで時間もなくなるでしょう。大変ですわ。同時に恋人4人つくってヨロシクやってるようなもので、それを維持するためには、分刻みのスケジュール、過去の会話の正確な記憶、プレゼントその他の手配、やること沢山あります。金も時間も精力もなくなるでしょう。バイアグラも欲しいでしょう。ほんと、大変ですわ。で、もうそれが当たり前になっちゃってるから、恋人が一人もいない奴が殺意を抱いて羨むほどには本人は幸せではないという。

 日本以外の貧しい国から日本人の生活を見たら、家に車とテレビがあればもうOKじゃないかと思うかもしれません。内戦で肉親が明日死ぬかもしれない国からみれば、戦争の心配をしなくてもいい世の中なんか考えられないでしょう。だから日本人は何を不幸がってるのか、何が「心の豊かさ」なんじゃ?なに寝言言ってんだと理解できないかもしれません。でもそういう国の人だって、同じ環境におけば、1年もしないうちに同じこと言い出すと思います。それが人間なのでしょう。




 というわけで、いろいろ何かとご多忙な現代の日本人が、心の余裕がなくなり、また大きな希望も持ちにくくなり、心の安らぎや豊かさを求めたくなるのは分かります。これはアメリカ人も、オーストラリア人も同じだと思います。メンタルヘルスとかヒーリングとか言ってるのは、大体先進国の連中だと思いますもんね。ところで「先進国」とは良く言ったもので、「先に進」めばそれでいいのかというと、先に進めばそれだけ先に壁にもブチ当たるのでしょう。

 ちなみに、現代の日本人は「高度に管理された」「ストレス社会」で「多忙」だから「心の安らぎ」を求めるというのは、もう見慣れた単語ばかりですが、本当に多忙なの?ホントに高度に管理されてんの?ほんとにストレスあるの?と突っ込んでいきたくなります。突っ込み過ぎると面白すぎて脱線しちゃうからまたの機会にとっておきますが、ここでは、これまでの話との関連で以下の点だけ付記しておきます。

 経済成長して世の中が便利になると、取りあえずハッピーになれます。それは失業や金欠の不安から解放されるという最もベーシックな幸福があります。だから今日でも景気回復が叫ばれるのでしょう。さらに、金持になると色んなモノが買えます、美味しい物も食べられますからハッピーになります。思うに「新しいオモチャ」「美味しいモノ」というのは、幸福になるためには、非常に簡単でとっつきやすいメソッドだと思います。で、「飽きる頃には次のが出てくる」という循環をしてる限りは何とかやっていけます。TVドラマの新シリーズやトレンドなんちゅーのは、「飽きたから次」で出てくるのでしょう。皆飽きなかったら同じ物だけやってればいいのですから(偉大なるマンネリでやってる定番もありますが)。

 オモチャやモノで手っ取り早く幸福になってても、オモチャが尽きてくればもう後が無いです。「欲しいものはもう無い」ということになると、マズローの欲求五段階説のように、もっと上位の快楽が欲しくなります。それが、まあ「心」なんだろなという側面はあると思います。

 「高度に管理されたストレス社会で多忙を極める現代人が」「心のオアシスを」どーのこーのというのは、カッコいいけど、カッコ良すぎるような気もします。本当に皆して「多忙」だったら、何で夕方に帰宅ラッシュになるの?5時6時で帰ってる奴けっこういるじゃないですか。「管理」にしたって、その昔の儒教道徳バリバリだった頃に比べれば、むしろ無秩序とか乱れてるとか言われてるじゃないですか。いまポンとブラウザ動かしてアダルト関係の掲示板なんか見に行ったらわかるように、何でもアリ状態になってるんじゃないですか。「ストレス」というのも、戦時中の命がけのストレスに比べれば大したことないでしょ。

 だからそういった外圧的要因もさることながら、もっと別種の内圧的なもの、言うならば「煮詰まってる」ような部分で息苦しくなってるんじゃないかなと思います。それは、オモチャが無くなっちゃった的な部分もあるでしょう。オモチャという気晴らしのための麻薬が切れたら、シラフになって自分と向き合うことになり、嫌でも精神的なことに興味が向かうとか。また、物質的な環境に関しては、かなりハイレベルに組み上げちゃったから、それ維持するだけで忙しいということもあるでしょう。

 もちろんそれらの事だけで全て説明がつくものでもないでしょう。しかし、なんでもかんでも「高度な現代社会なんたら」という外因に責任をおっかぶせればいいというものではないと思います。第一、その「現代社会」とやらを作ったのは、他ならぬ僕ら自身なのですから。別にゴジラが作ったわけでもないし、世界征服を企む悪の結社が作ったわけでもない。「かくありたい」と望み、かくなったというのがベースにあると思います。


物象あっての心象

 ところで、「心を豊かに」とポンと思っただけでそうなれるんだったら苦労いらんです。それで何とかなるようなケースは、もう腐るほど金を持っているけど、取り付かれたように金を稼ごうとして多忙を極めている人が、「あ、別に俺こんなに働く必要なんかないじゃん」と気付くような場合、つまり現実には殆どありえないような場合だけでしょう。それにしたって、そう思っただけで豊かになれるもんじゃないでしょう。そして、多くの場合は、現状(の幸福)を維持するため働く必要があるからキリキリ働いているわけです。「心のゆとり」も大事だけど、まず先に「生活のゆとり」がくるわけで、それあっての心という部分はあると思います。

 「心を豊かに」というスローガンに、今も昔も僕がピンとこないのは、それだけ言ってても仕方ないからです。本来、話は「じゃあ心にゆとりを持つためにはどうしたらいいか?」という方法論に繋がるべきであって、さもないと「心にユトリを持ちたくても持てない自分」という現実にさらに苦しみ、ユトリは益々なくなってしまうからです。

 でも、詳しく知ってるわけではないけど、僕のイメージでいうと、これらの所論は、そこまで実戦的な方法論というよりも、「心がギスギスしてくる現状の問題意識や事例紹介」「物質主義の反省」レベルで留まったり、「心が豊かになれるといいなあ」という単なる願望やお説教に留まったりしているような気がして、だからよう分からず、あまり魅力を感じなかったわけです。もちろん、これは僕のイメージ(偏見)に過ぎず、本当はちゃんとしたことが書かれていると思います。

 ただ、僕としては、その程度の表層的イメージで終わっていました。というのは、心が豊かになる方法論なんかないだろうなと思ってたからです。もっと正確にいえば、方法はあるんだけど、それは本なんか読んでどうにかなる種類のものじゃないだろうと思ってたからです。




 僕は、まず「現状だってそれなりにベストであり、幸福である筈で、これで不幸を感じるなら、もうどーしよーもないですね」という地点を一回確認すべきだと思ってました。

つまり、
「物質水準は落とさずに、自由時間が増える・精神的満足度が増える」なんてことは、まあ物理的にありえないだろうと。だから心にゆとりが増えるなんてこともない。それどころか、ほっておけば慣れて、飽きて、満足度は減っていって、膠着状態になるでしょう。

 なんでかといえば、「ココロが豊か=ゆったりリラックスした気持ち=ハッピーになる」というのは、「リラックス出来ている自分という”現実”」を構築して初めて実現するものだからです。それは精神的なイトナミというよりも、すぐれて現実的なイトナミだと思うからです。

 多くの場合、現実の物象世界の影響によってココロが貧しくなっているとするなら、現実の物象世界を変えないことには心にゆとりは生まれない。ちょっとばかり気の持ちようを変えたくらいで、ピョコンとゆとりが生まれるとは思えない。

 そりゃ「心脚滅頭すれば火もまた涼し」いかもしれないけど、普通はヤケドしてたら熱いです。心の余裕なんか生じない。全身火だるまになりながらも平常心を保てる偉大な人もいるだろうが、そんな境地に達するよりは、とりあえず「火を消す」という現実的作業をした方がよっぽど心は救われるんじゃないか。

 常にそうだとは言えないのは重々承知してますし、今の自分がまさにそうです(物象世界的には特に不満はないけど行き詰まる)。でも、「心を豊かに」と言われている多くの場合においては、心の問題だけ独自にとらえるよりも、物象世界との関連において捉えた方がフィットするように思えるわけです。

 だもんで、物象によって心が貧しくなっているなら、物象を変えずして心が豊かになることはないと、ムチャクチャ絶望的に聞こえるかもしれないけど、まずそこから出発しなければ何も始まらないと思ってました。

 そのあたりのことをもう少し述べます。本当はとっとと次のステップにいきたいのですが、しつこく、世間で言われている「心の豊かさ」とそれに対する自分の発想を整理しておかないとスムースに次にいけないのです。「ゲーム性現実過剰適応」なんたらなんて半分茶化して呼んでますが、あれはあれで結構体系としては堅牢で、そんなに簡単に乗り越えられないのです。



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1998年11月25日:田村
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