シドニー雑記帳




日本に行ってきました(その1)




    京都/東本願寺の桜

     前回申し上げましたように、この4月前半の2週間、日本に帰省しておりました。よく『2週間なんかあっという間だ』とか言いますが、異様に密度が濃かったので、滞在1週間の時点でもう一ヶ月くらい居るような気分になっておりました。

     文字どおり連日連夜の飲み会に加え、前回紹介した「1週間JR乗り放題(ひかりOK、指定も取れる)チケット=Japan Rail Pass」をフルに活用して合計2000キロ以上の全国ツアーを敢行したこともあり、『ものすごく色々なことがあった』という高濃度圧縮ジュースのような2週間でありました。

     体力的にもかなりバテバテで、全国ツアーに出る前は、地元大阪で午前4時クラスの飲み会を3連チャンでやってましたし、その4時までドンチャンやってた日の昼過ぎには、京都から高松に向う新幹線にいたわけです。

     以後、高松で飲んで一泊目。岡山、広島、小郡と進み、宇部で飲んで二泊目。宇部から下関、小倉ときて博多までいき、中州で飲んで三泊目。翌朝、博多から一気に東に向います。正体不明のまま新幹線で荷物のように運ばれ、京都を通過して名古屋で途中下車、再度ひかりに乗り込み、小田原経由で小田急秦野に赴き相棒福島のご実家で四泊目。湘南は鵠沼経由で東京は赤坂に向い、また深夜まで大騒ぎをして五泊目。翌朝は西日暮里にちょっと挨拶をしたあと鎌倉まで足を伸ばし、横浜で騒いで、その晩は大和市の友人宅で六泊目。翌日はそこから車で御殿場インター経由で富士山を眺め新富士まで降り、そこから新幹線で京都の実家に帰還。

     週後半あたりから、暴飲暴食がたたって腹の調子がおかしくなって胃腸薬をむさぼり食うわ、足のマメは潰れるわでヘロヘロでありました。東京では、二日酔い状態のままコンタクトレンズの保存液と間違えて洗浄液を目にドバドバ入れてしまい、1時間ほど目が開かなくなって、チェックアウトのあとホテルのロビーでヒーヒー泣いてたり(^^*)、もう大変。

     それはともかく14日間で会った人を合計してみたら70人前後に達しました。「なんでこんなに」と思うのですが、過ぎてみると「ああ、あの人にも会えなかった、この人にも、、、」という気になってしまいます。特に地元大阪では真面目にやりだしたら収集がつかなくなるので極力オミットしてましたし。シドニーに戻ってきてから、会えなかった人が登場してくる夢をよく見ます。




     結局、今回の日本帰省は、「人に会いにいった」「久闊を叙した」というのがメインテーマになっております。

     いや、他にも「APLaCのマーケットとしての日本市場の現地調査」であるとか、「シドニーで手に入らない物の買出し」とかいろいろ目的はありました。実際、備前焼の大きな角皿をひっかついで帰ってきました。讃岐うどんをはじめ沿線各地で食道楽もしてきました。大阪は美々卯のうどんすきも食ったし、京都は天下一品のギトギトラーメンも食ったし、長浜ラーメンも食べました。日本の自然もそこそこ堪能しました。ちょうどシーズンだった桜も、京都大原、高松城、福岡鶴舞公園、名古屋城、北鎌倉円覚寺、そして富士山などなど、これだけまとめて桜を見たのは生まれて初めてというくらい見まくりました。

     それでも「人」というのが最も巨大なファクターになっておりました。これだけ全国各地を行脚したのも、会いたい人が居たからに他なりません。僕にとっての「日本」を再定義するならば、「好きな人がいる国」というのが第一義にくるのではないかと思います。

     そこで会ってきた人は、仕事関係、友人関係様々ですが、そういった「○○関係」ということは、今の僕にはあまり大きな意味を持たなくなってます。これも前回「素晴らしい日々」に歌詞に即して、『長いブランクによっていろいろなシガラミが洗い流され、ピュアに付き合えるようになるんじゃないか』と述べましたけど、実際そのとおりだったわけです。だって今の僕に会ったって何のメリットもないですもんね。3年ぶりに日本に戻ってくるような奴でしょ。弁護士としてバリバリやってるわけでなし、確固たる経済基盤を築いているわけでなし、「つきあっておくと将来なんかいいことがあるかもしれない」なんて要素は皆無でしょう。逆に僕の方からしても、特に営業その他のメリットがあるわけでもない。それでも会いたいのは、単に「会いたいから」としか言いようがない。

     「日本を離れて海外に住む」ということは、「それまでの人間関係が純化されていく」という機能もあるようです。こんなこと今まで真剣に考えたこと無かったのですが、どうもそういう効能があるようです。これは別に日本に居ても同じことなのかもしれませんが、やはり「距離感」というものが微妙に人間心理に与える影響はあるのでしょうか。




     今回色々な人と会って出てくる話は、当然ながら思い出話が多くなったりします。皆それなりに年をとり、当時チョンガーだったアイツもコイツも、家を買ったり、子供をもうけたりしてます。離婚した奴もいますし、転職した奴もいる。それなりに年をとった僕らからすれば、接点となる昔のことは既にノスタルジックな匂いすらします。

     ただ、しかし、そんな思い出話に埋没してしまうには、まだまだ若すぎるわけですし、興味があるのは「今」ですし「これから」です。もっといえば「昔を踏まえた上での将来」だったりします。「あの頃はあれだけのことが出来た、で、今はどうなんだ?」というほんのり苦いものも、会話の中には隠し味として入ってきますよね。それが、また、いとをかし。





     で、今の日本ですが、やっぱり皆さん色々考えておられるようです。

     3年前に比べてみた場合の特徴の一つは、会話の内容、それは常日頃考えていることの反映になるわけですが、それが非常に個人的な、インディビジュアルなものにシフトしてきているのではないかということを感じました。

     昔はもっと、それぞれの仕事や業界の話、日本経済社会の話と一般的な話が主流で、「人生いかに生きるべきか」というような話は、まあ、言わば「クサい話題」として全く語られない−−わけではないにしても、そうメインではなかった。でも、今回、『俺、このままでいいんかな?』というフレーズが多くの人の口から出てましたし、そこそこメインの論点になりつつありました。

     そりゃまあ、昔に比べて年齢的にそういうことを意識する時期になってきたとか、僕のようにオーストラリアに出奔しちゃった奴を相手に話をすれば接点となるべき話題はどうしても人生系統に傾きがちになるとか、色々な理由もあるでしょう。でも、それらを差し引いてみても、なお大きな傾向の変化というものはあると思います。以前にまして、「個」というものが立ちつつある、と。

     それは、一流企業でも一寸先は闇といういわゆる「山一効果」によるものなのかもしれませんし、ここ数年来ジャパン・ペシミズムがメディアを席巻していた反復教育効果なのかもしれません。「今の生活が明日も続く保証はないぜよ、ないぜよ、ないぜよ」と繰り返しTVや雑誌で言われていれば、自然と「どうしたもんか」ということがテーマになるのでしょう。

     そんでもって、僕が出会った人々は、必ずしも「将来が見えず、戸惑う日本人」という感じではなかったです。日本人は、と言うよりも人間は、もっとクレバーなものでしょう。先が見えないなら見えないで、単に立ち尽くしているだけではなく、それなりに絵を描こうとするでしょう。僕がふと感じたのは、その絵を描こうとするときのキャンバスが前よりも広がってきていること、絵の主題が「自分と家族」ということでより鮮明にフォーカスが合ってきていること、何よりも絵を描こうという意欲が強まってきていることです。

     ここで「悩んでいる」とかいう表現をすると、なにかしら途方に暮れているようなネガティブな響きがありますが、実際のところもっとポジティブなものです。就職環境など厳しいものもあるわけですし、それなりに疲れもしますが、それに打ちひしがれているだけではなく、この環境下においていかにサバイヴしていったろかというエネルギッシュな部分も垣間見られたような気がします。「自由」という光が当たれば「不安」という影が出来ますが、不安にシンドイ思いをする部分と、自由を面白がる気分とが、ないまぜになっているような印象を受けましたけど、どんなもんでしょうか?

     ちなみに、こと「APLaCの市場調査」という面でいえば、非常にいい流れではあるわけですね。APLaCの業容を一言でいえば「オルタナティブなものを模索する人のためのサポート」となりますから、皆さんが現状に満足し安心していられてたら開店休業になってしまいますし、自立的に悩んで模索してくれる人が増えるほど、市場は豊かになるわけです。もっとも、こんなことは「風が吹けば桶屋が儲かる」程度の遠い因果関係にあるわけで、だから「市場調査」とか言っても大したことないんですけど。



     ただ、冷静に勘定してみると、確かにこの数年間で人生上の大きな岐路にさしかかった人、例えば離婚した人、再婚した人、転職した人、リタイアした人、なかには破産した人もいましたが、そういう人が結構な割合でいたように思います。そういえば、相棒福島もそうだわ(^^*)。もちろん何にも変動がなかった人というのも沢山いるわけですけど。会う人ごとに「この3年間、あなた個人と日本に、何か変わったことは?」と聞いていたのですが、最初は皆さん「いやあ、別にぃ、相変わらずだよ」と答えるのですが、聞いていくと結構「変わったこと」はあったりするわけです。今現在は無くても、近い将来転機を予定している人もそこそこおられました。

     5年前、10年前に比べてみると、この種の人生上の変化がありふれたものになりつつあるんじゃないでしょうか。例えば離婚なんて、その昔はそれほど周囲に発生するものじゃなかったのですが、気が付いてみれば、あいつもこいつも、あ、○○さんもという具合に、たちまち十指に余ったりします。世代的に見てもバラついていて、「自分の親が離婚した(しそう)」という話もちらほら聞いたりもします。

     こんなことは、マスコミ等でも繰り返し報道されてきたことなのでしょう。例えば、今年の1月1日付の朝日新聞(のインターネット版)には、こんな記事がありました。

      ◆離婚件数、離婚率ともに過去最高に(98年1月1日)
       1997年の一年間に離婚した夫婦は22万5000組にのぼり、件数、率ともに過去最高となる見込みであることが厚生省がまとめた「人口動態統計の年間推計」で分かった。また、生まれた子供は119万人にとどまり、出生率は過去最低を記録する見通しだ。

       97年1月から10月までの市町村への届け出をもとに、厚生省が年間推計値を算出した。それによると、離婚件数は前年よりも1万8000組増加。離婚率(人口1000人当たりの離婚件数)も1.8と、前年の1.66を大きく上回って過去最高となった。一方、婚姻件数は前年の79万5000組より1万4000組減り、3年ぶりの減少となった。


     これ、なにげに読み飛ばしそうですけど、97年で結婚したカップルが78万1000組(79万5000-1万4000)で、離婚したのが22万5000組。78.1:22.5.....簡単にいえば3.5対1で、周囲で4組結婚すれば、別に1組以上は離婚しているということでしょ。年賀状で「私達結婚しました」賀状が4枚きたら「私達離婚しました」賀状が1枚以上来てないといけない(そんなもの出さないけど)計算になるわけです。これって、結構な割合じゃないでしょうか。

     しかし、こんなマクロな記事だけでは実際のところはよく分からないわけで、日本の日常の現場のなかで人々がどのように感じているのかというのが知りたいところですが、やっぱり身近な感覚として離婚等が徐々にありふれたものになりつつあるということは言えると思います。何でそう思うのかというと、周囲のサンプルケースの絶対数の増加の他に、他人のリアクションです。共通の知人の消息話などでその知人が離婚していることが分かったりしますが、そのときも「ふーん、そうなんだ」程度のリアクションで、それほど大きな話題になることもないのですね。今の日本、もう、そのくらいじゃ驚かないのかな。




     ところで、ホテルの部屋で、二日酔いのままボーとテレビをつけていたら、相も変わらず「石田純一、不倫発覚!」とかやってましたが、「まだ、そんなことやってんのか」という感じでした。あの手のゴシップは、自分もやりたいけど出来ない人々の代償・補償としてスターが代わりにやってるような部分ってあるように思うのですけど、今はとっとと自分でやっちゃう時代なんじゃなかろか。どんな大スターであろうが、我が身のことに比べればしょせん他人事。そんなこんなで、ワイドショーというのは、同時代的なリアリティを失って、段々と「古典芸能」のようなジャンルになるのかもしれません。昔はワイドショーって大嫌いだったのですが、今ではわざわざ嫌いになるほどの存在感も感じなかったのですが、どんなもんでしょ。

     一方、石田純一なんかより、遥かに同時代性を感じさせてくれたワイドショー、スポーツ新聞ネタとしては、岸辺四郎の自己破産申請だったりします。自己破産がなにかいかがわしいものであるかのような記事の論調は「不勉強」「時代遅れ」と言わざる得ないのですが、それはさておき、その昔は中田カフスにせよ藤田まことにせよ借金背負って返しまくるパターンで終わっていたのが、近時は自己破産という法的手続に移行しつつあるのでしょうか。

     ここで、読者の興味は、破産に至る経緯、負債総額、予定配当率など、破産に関するよりソリッドな実態の方に向かうのか、それとも「破綻の影に女あり」などのゴシップ系に向かうのでしょうか?今の時代、僕は前者だと思います。今は、地下低迷と住宅ローン返済難やらビッグバンの資産運用やら、昔に比べて色々と考えなければいけないことが多いから、破産話も全くの他人事というわけでもなくなってるのではなかろうか。細かに経緯を追って「ああ、ここでの銀行借入が裏目に出たのか」「保有土地売却をしくじったのが痛かったな」とか、そういう話の方に興味が移行していくのでは?もしかしたら、今もっともワイドショー的な話題というのは、実は経済記事なのかもしれません。そのうち、東京スポーツと日経新聞が限りなく似てきたりして。




     メディアの話になりましたが、それに関連して、日本で聞いてきた話で妙に気になることがあります。友人の一人に、ビジネス系の雑誌の副編集長をやってる奴がいて、彼が言うには「本が売れない」と。統計数値的にどうのという話よりも、雑誌を作る側として、気合を入れて取材してもちょっと長めの記事にするともう読者が読んでくれない、かといってお手軽な記事にしてしまえば本当のところは伝えきれないと。あるいは、業界全体として返本率が増えているとか、はたまた一般の新聞の売り上げが落ち、逆にスポーツ新聞が伸びているなどなど。

     要するに、ある程度の知的水準をクリアしたものが苦戦していて、世の中の人々がどんどんお手軽で薄いものを求めるようになってきているのではないかということです。これを一概に「嘆かわしい傾向」というべきかどうか、彼は「まあ、皆がカッコつけなくなってきたという部分もあるんじゃないの?」という見方も示していました。確かに、新聞なんて半分は強迫観念(新聞くらい読まないと社会人失格とか)で読んでるような部分もありますわね。




     他方では、マスコミや新聞、TVに対する疑念の声というのも以前に増して聞えていました。あの〜、海外から日本の情報をインターネットで読むことはできるのですが、あれだけ読んでたら、もう日本の中学生は男子は全員ナイフを持ってて、女子は全員コギャル文化に席巻されていて、日本経済や社会はもう死ぬしかないような悲惨な状況になっているとしか映らないわけです。で、こっちも「ほんまかいな?」と思って、会う人会う人に「どうなってんの、最近の日本は?」と聞いて廻ったのですが、共通の傾向として誰もが二つの答を持っていました。一つは「マスコミ的通説」です。『世の中もうメチャクチャだわ』的な話ですね。

     では、マスコミ情報を一切シャットアウトして、『あなたが直接見聞きした出来事だけで言うとどうですか?本当に景気悪いの?身近で経済的に破綻した人いるの?本当に子供たちは妙な具合になってるの?』と聞いてみると、この答は逆になるのですね。自分自身に関していえば、特に収入も落ちてないし、そんな悲惨な話も聞かない、と。これ、興味深いですね。

     僕自身、日本の半分を大急ぎで走り抜けてみての印象は、そんなに景気がメチャクチャ悪いという感じでもない、3年前だって5年前だって結構悪かったし。中高生も特にどうってことなかった。ちなみに、いわゆるコギャル的な雰囲気をまとったガキンチョは(たとえばルーズソックスとか)、関東近辺になるといきなり目立ったけど、それより西では殆ど見掛けなかったし、あれって東京ローカルの流行じゃないのかな。

     で、新聞・TV系のメディアに対する疑念としては、例えば、ある事件を境にその日から連日中学生のナイフ記事ばかり載せている不自然さがあります。これは多くの人が指摘してました。これは事件数が増加したというよりも、警察が発表するになったこと、新聞が記事として載せるようになったことという言わば「流通過程」の変化による部分が大きいというのはちょっと考えれば推察がつくでしょう。だから新聞としても「最近これが流行なんで、これからナイフ関連はガンガン載せようと思ってます」と断り書きをつけてくれれば、それなりに分かるのですが、それもしないでただ垂れ流しているだけ。前年同期に比べて事件数は増えてるのか減ってるのか、最も基本的なそこらへんの客観的な数値さえ中々教えてくれない。「なんだかなあ」と思っちゃいますよね。

     他にも、銀行のMOF担が接待するなんてことは、普通のビジネスマンだったら常識として知ってることでしょ。何を今更でしょ。新聞記者さんだって、そんなこと知らないでこれまでやってこれるわけがない。なのに摘発されたら今初めて知ったかのような前提で記事書くから、お約束の演技を見てるように嘘くさい。

     何かなあ、記事選択の作為性やら、視点の嘘臭さやらは、3年前にも強く感じたことが、益々ひどくなってるような気がします。まあ、戦前の状況をふまえて、新聞なんか昔からそんなもんさと言うこともできるのでしょうが、それが以前にも増して顕著になったというか、やり方が下手クソになったというか、「稚拙な売れ線狙い」というか。これを指摘する人もそこそこいました。




    東京/山の手線車内

     で、だからどうという結論はよう出せないのですが、漠然とした印象でいえば、日本全体が何か『身もだえ』してるように感じました。それは、物質的経済的な話ではなく、精神的な部分で。ものすごく薄っぺらなアホになってる部分もあるし、したたかに根を生やしている部分もある。将来に対して虚無的になってる人もいるし、原点回帰で足元を見つめようとしている人もいる。

     だから、統一的に「日本はこうです」と言いにくい時代になってるんじゃないかな。それは例えば、自分が大人なのか子供なのか、よって立つアイデンティティが揺らいでいる思春期のような。

     そして、そのアイデンティティというか自己認識のレベルで、自分達を写す出す鏡の役割を担うのがマスコミの筈なのですが、そのマスコミ報道によって更に混乱が生じているという。どうも、自分が実感的に知っている日本と、マスコミでいうところの日本像とでギャップがあるような気がしませんか?単に自分が世間狭くて知らないだけで、ママスコミ報道の日本像の方が確かかというと、それも前述のとおり今一つ信頼できない。結局、もう、何がどうなってるのか、なかなかスッキリわからない。

     余談ながら、昨今の事件や話題というのは、これまでの「オイルショック」「湾岸戦争」などの外発的・付加的なものではなく、「教育」とか「慣行としての汚職」とか、別に新たに発生したわけではなく、これまで長いこと存在していたことが改めて明らかになったという類のものが多いです。これが又気分を滅入らせるのでしょう。前者は言わば交通事故にあったようなもので、怪我しました、大変だ、わーとやってりゃ良かったわけです。しかし、後者である最近の話題は、「知らない間にあなたの肝臓は蝕まれていました」「実はガンです」みたいな内科的なもの、何か新たな事態が発生したのではなく、「これまで問題なかったのは、問題が無かったのではなく単に知らなかっただけ」という、自己認識=アイデンティティの再認識を迫るようなものが多いですから、そりゃ、まあ、暗くもなるでしょうし、「日本って本当は良いの、悪いの?」と混乱もするでしょう。無意識的に、これまで自分が「この程度は大丈夫だろう」と信頼もし誇りにもしてきた日本像が、実は結構ヤバいのではないかというわけですから。

     ただ、本当にそうなのかという部分で、なんだか今一つハッキリしない。「日本は今メチャクチャですわ」という人多かったですけど、僕としては、メチャクチャなのは、日本それ自体ではなく、「日本という自画像」なのだと思います。自分達が今どうなっているのか、なんだか良く分からなくなってきている、と。国としてメチャクチャというのは、カンボジアとかルワンダみたいな状況を言うのであって、内戦も起きず、餓死者が大量に発生しているわけでもない日本は、まあマトモな方だと思います。




     乏しい材料でいきなり大胆(でも陳腐かもしれない)ことを言うならば、僕は、今は日本が多元化しつつある過渡期にあるように思います。これまで日本は良くも悪くも金太郎飴状態だったので、一つの事件を取り上げればかなりの程度普遍的な現象が読み取れたのでしょう。校内暴力が一つ起きれば、まあ大体日本全国どこの学校も似たり寄ったりの状況にある、とか。他の日本人のやることは、ある程度自分にも理解可能なものだった。ところが、昨今そうとばかりは言えなくなってきた。理解不可能なことをやる同胞もちらほら出てきた。

     で、これを「時代の変化」というパラダイムで見ていいものかどうか、ちょっと疑問があります。なぜなら「時代が変わった」というのは、全員がA地点からB地点に移動するかのようなニュアンスがあり(バブルによって世の中が変わったように)、皆一緒に動くという金太郎飴構造を前提にしての話だからです。そういう部分もあるでしょうが、そもそもその金太郎飴状態自体が変容しているのではなかろうかと気もするのですね。つまりA地点からB地点に行く奴もいれば、行かない奴もいる。あるいはC地点に行く奴、D地点に向かう奴もいるという具合に。

     どうも、四方八方にいろいろなベクトルが散らばってるように思うわけです。すごく拝金的に向かうベクトルがあるかと思えば、その反作用のように精神性を重視する方向に向うベクトルがあったり。知的に向上しているかのようなベクトルもあれば、ひたすらアホになってる部分もあったり。保守志向があったり、冒険志向があったり。




     僕らはこれまでの習慣で、日本というものはある程度均一に説明出来るという感覚を持ってたりします。だから、理解不能な事件や現象などが起きると、「一事が万事」のように、全体としてそっちの方向に、つまり飛んでもない方向に向っているのではないかという、不安定でイヤ〜な気持に陥ったりするのでしょう。でもそれは全体の姿ではないと思う。しかしながら、単なる「例外」として安心するわけにもいきそうにない。「日本のある部分がそうなっている」ということしか分からず、全体としてどうなっているかということは分からない。そもそも、そういう統一的理解というものが難しくなってきているように思います。

     もし、そうだとしたら、これは大きな変化だと思います。「分衆の時代」とかいうレベルではなく、単一民族国家が他民族国家になるくらいの世界観レベルの変化ではないか。もう同じ日本人であっても、人種や民族が違うくらいに考えておいていいのかもしれません。

     ガキンチョがナイフ持ってイキがるということは、僕らの世代からすれば、別に珍しくもないです。もっと前の世代だって、ジェームス・ディーンがナイフ持ってカッコつけてたから、昔っからそうなのでしょう。ただし、ジェームス・ディーンがそうしたように、ナイフ持つなら持つで、その「持ち方」なり「使い方」、「シキタリ」「ダンドリ」というものがもありました。要するにそれなりのカルチャーがあったのだけど、今はそれがよう分からん。「普段から目立たない普通の子」が「先生にちょっと注意されたから」いきなり刺すなんてのは、言ってみれば「てめーがナイフ持つなんて百年早いんだよ」という感じでしょう。

     だから、僕らからしたら、頭の回線が2〜3箇所ショートしているような人々は、正直理解不能ですから、異人種やと思います。




     ただし、200以上の民族に囲まれて暮らしている実感でいえば、他民族社会というのは決して居心地が悪いものではないです。他民族だってちゃんとルールがあれば問題ないです。こちらでは、今この瞬間にも沢山の人種が同じ道路を走ってるわけですけど、別にそれで何の問題も起きないですもん。

     また、どの民族の人でもオーストラリアに暮らしていると自然とオーストラリアっぽくなります。オージー化が進むわけですね。「フレンドリーだけど仕事はいい加減」とか(^^*)。そういう国のカラーというのはあると思います。それが異民族同士をくっつける接着剤なり潤滑油になる部分ってあるのではないかろうか。

     だから日本が他民族化してもそれ自体は特に問題はないと思います。かえってカラフルになっていいくらいで。しかし、問題は、他民族同士でも「うまくやっていく」ためのノウハウというものを、あまり僕らは持ってないので、それをこれから作らないとアカンのかなと思ったりもします。と、同時に、異民族の人がしばらく暮らしてたら染まってしまうような、日本独自のカラーというものは何なのかということでしょうね。

     異民族でも理解しあおうとしたり、カルチャーの違いを面白がるゆとりがあれば、所詮根っこは同じ人間だから、そう大した問題ではない。でも、日本人の中で分裂化しつつある各異民族達は、世界の異民族達がそうしているように、自分達のカルチャーを表現しているのかというとちょっと寒い。そもそもカルチャーがあるのかどうかすらよう分からんという。

     いきなりナイフで刺した少年たちが異民族だとしたら、やっぱりそこには独自のカルチャーがあると思います。彼らが属する母集団というのはあると思う。それは非行少年のカルチャーではなく、また単なる輪切りの世代論でもない。ナイフで刺した少年は、どの民族やどの国にも存在する犯罪者に過ぎず、その母集団が犯罪者や犯罪者予備軍で構成されているわけではないでしょう。これ、間違いやすいところですけど。だとしたら、彼らにはそのカルチャーを発信してもらいたいし、僕らも耳を傾けたい。

     「もとは自分らと同じ日本人が、何かの間違いによってあんな出来損ないになってしまった」という具合には、僕は考えません。もう最初から違うんだという前提で、どこが違ってどこが同じかを考えていったほうが建設的だと思います。だって、そうやっていかないと一つの社会で他民族がうまくやってくことなんか出来ないし、ギスギスした世の中になってしまいです。

     また、こういった少年達だけが異なってるのではなく、普通の日本人も、実はいろんな異民族に分散していると思います。例えば、「日本で弁護士やってたのがいきなり目算もなくオーストラリアに行って四苦八苦している」という僕みたいな人間にしたって、それを「分かる」と言ってくれる人もいれば、「理解できない」という人もいるでしょう。極道になる奴、新興宗教にハマっちゃう奴、ひたすら霞ヶ関で階段登ろうとする奴、いろんな奴がいるわけで、これらも異民族と思ってればいいのでしょう。あなただってどこかの民族に属してる筈でしょう。

     ただし、何度も言うように、異民族であっても、根は同じ人間だし、同じ国に生まれ育ってれば、共通項は沢山あるわけです。価値観が全然違う二人であっても、日本に生まれ育てば、味噌汁の美味さは共感し合えるわけですから。でもって、他民族社会で一番やっちゃイケナイことは、民族間で「優劣」をつけようとすることでしょう。これやりだしたら泥沼になるし、行き着くところはナチスのような世界でしょう。




     ほんでもって、そんな日本において、僕としては、あるいはAPLaCとしてはどうしたら良いかということですが、まあ、このままでいいんだろうなと意を強くした部分はあります。今の日本は金持ちだから、または軽薄になってるから、APLaCのような、自らの気持ち良さというかポリシーというか趣味性にこだわって経営的にド下手なことやってたらアカンよという意見が、誰に言われたわけでもないけど(というか誰にでも言われますが)頭にこびりついていたわけです。「これだけの情報、有料ホームページにしなきゃ嘘です」とかさ。

     そんでも、「これでいいんじゃないのか」と思ったりもします。なんだか良く分からない日本ですが、だからこそ、鮮明で骨太な主張というのは残しておいた方がいいと、その方が長い目でみれば結局人々に信頼されるのではないか、と。今の日本で求められてるのは、そーゆーことではないのか、と。カルチャーの発信です。

     拝金的傾向があるがゆえに、皆の心の底にあるその反作用もかなり強いというのは感じました。いや、ほんと、低次元化していく部分に対する『ええ加減にせんかい!』という反発は、結構なものがあるように思います。ただ、金太郎飴じゃなくなってるので、そうでない人も相当数いるということですね。そうでない人にフォーカス当てて、それを日本人の代表のように考えればムナシくなりますが、自分の目で見てきた感想でいえば、必ずしもそんなことなかったです。捻じれてグチャグチャになった日本の自画像のそのダークな部分に、敢えてフォーカスを当てることもないし、そうやって儲けたとしてもケッタクソ悪いし。


     さて、こんなこと書いてたら全然収集がつかなくなってきてます。うまくまとまらないまま書いては消しを繰り返してますが、キリがないので、この部分はもうこのままUPします。次は、「日本にいると妙に疲れたのは何故だろう?」という話をしたいと思います。(つづく)



1998年04月22日:田村

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