シドニー雑記帳



日本に帰ります




     唐突ですが、この4月に日本に帰ることにしました。帰るといってもわずか2週間の滞在ですけど。

     いや〜、ひさしぶりです。2年8ヶ月ぶりの日本です。こんなに「長欠」するつもりではなかったのですが、なんかね、一応「オーストラリアでこれやってます」といえるようなものが出来ないと帰りづらいなという気持ちも多少あったり、もっと直接的な理由としては旅費が勿体なかったり。

     別に、今だって胸張って「これ、やってます」と言えるようなもんじゃないですし、相変わらず給料出ないし(^^*)。だから、旅費を勿体無く思う心理が軽減されたわけでもないです。じゃ、何で帰るの?と言えば、「なんぼなんでも、、」ということです。なんぼなんでも、そろそろ親に顔見せないと親不孝も極まれりだろうし、これ以上帰らないと、日本の友人知人に完璧に忘れ去られるのではなかろうか、とか。




     忘れるで思い出した。最初に日本を出る頃、ユニコーンというバンドの曲で「素晴らしい日々」という曲が出ていました(ユニコーン最後のシングル)。あまり流行らなかったけど、この曲調と歌詞、それと奥田民生先生の歌いかたがですね、なんとも言えず当時の心境にはまっていてジンときたのですが、そのなかに「忘れる」というフレーズが使われてます。サビのところで、


       君は僕を忘れるから
       そうすれば、もう、すぐに君に会いにいける


     と歌われるわけですが、「忘れるから、すぐに会いにいける」という一見意味不明な歌詞が、ズンときました。「そうなんだよなあ、ほんとにそうなんだよな」と。

     「一回忘れてくれたらすぐに会えるんだよ」という意味は、そこはまあ人それぞれの解釈でしょうけど、僕としては次のように感じました。自分と誰かとの間で、何とはなしに築かれている関係性というものがあります。それは例えば職場の同僚であるとか、趣味の会の友人であるとか、恋人であるとか。で、それにまつわるシガラミみたいなものもあるわけです。でも、しばらく会わないことによって−−−それももう相手の視界から消え失せて忘れられるくらいになったら、そこらへんの関係性も変わっていくのではなかろうか。従来の関係性の型枠みたいなものが消えて、マッサラになっっていく。そうなれば、もう単純に「この人が好き/嫌い、会いたい/会いたくない」というピュアなところで、その人と接することが出来るだろう。だから「すぐに会いに行ける」のではなかろか?と。

     もうちょっと深いという気もしますが、これ以上巧く言葉で説明できない。
     ちなみにニューヨーク在住の矢野顕子氏も、この曲を一聴するなり気にいって自分でもカバー曲として発表したそうですが(これは聴いてないですけど)、インタビューに答えて曰く、「なにげない歌詞一行の中に、3つくらいのそれぞれ違った深い想いが折り畳まれている」と。「言えてるなあ」と思います。



     もう少し歌詞に即してノベると、「たまに会っても話題がない」「とにかく時間が足りない」「いつのまにか年をとって暗い話にばかりやたら詳しくなっ」って、「人のいないとこに行こう、休みが取れたら」と思ってる「僕」がいます。で、僕は、何があったのか、「懐かしい歌も笑い顔も」「すべてを捨てて」生きることになります。全部捨てちゃうわけです。全部捨てていながらも、「それでも君を思い出」すこともありますし、「時々はぼんやり考える」こともあるのだけど、「そんなときは何もせずに眠る眠る」という日々を過ごしてます。そしてこの日々をして、「力あふれ」る「素晴らしい日々だ」として捉えようとしています。

     この歌は、多くを説明してくれてないので良くはわからないのですが、おそらく、忙しさに追われているうちに年だけを取っていく生活に「なんだかな」と思い、これではアカンと思ったのか、自己の奪回をはかったのでしょう。そして、そのためには全てを捨てなければならなかったのでしょう。これは自分に重ねあわせてもよく分かります。十重二十重に色んな関係性に囲まれ、からみとられ、それに引っ張られ押し出されているうちに、「あれ?」みたいな地点にいってしまったとしたら、もう部分修正ではきかず、全部チャラにするくらいでないともとにもどらない。

     で、それをやるわけなんですが、チャラにしたあとの新しい生活−「朝も夜も歌いながら」と新生活を頑張ってるわけなのですが、それを「素晴らしい日々」と言い切ってるわけです。でも、ここの心理はメチャクチャ微妙で複雑な気がします。いや、確かに素晴らしいといえば素晴らしいのでしょうが、何も考えずに「わー、きゃー」で素晴らしがってるという感じでもない。「素晴らしいハズだろう」とか「こういうのを素晴らしいっていうんだろうね」という、ちょっと醒めてるところもあるように聞えます。

     素晴らしい反面すごい寂しいんじゃないかな。充実はしているけど一人ぼっちという環境のなかで、ふと昔の人達を思い出して、別に泣いたりするわけではないけど(泣くというのとはかなり違うでしょう。ましてやホームシックなんていうのとも全然違う)、何かしらの感慨は去来する。で、そういうときは、ただただ「何もせずに眠る眠る」ということをするわけです。しかし、この「眠る眠る」という部分が一番真実で秀逸だと僕は思います。僕も眠ったもん。よくこんなリアリティある歌詞思い付くもんだ。

     そうして月日の流れが、関係性からシガラミ部分を洗い流して、あたかもお酒のようにゆっくり蒸留されてきたとき、すでに自由になっている自分は、いつだってすぐに会いに行けるようになるのでしょう。会うための理由も、用件も、下心も、何にもなくて、ただピュアに会うということが出来るようになるんだよと。 

     忘れるという言葉から脱線しましたが、この曲は佳曲だと思います。そして、この曲の曲調のように淡々とした感じで、「もうすぐに会いにいける」という気持ちで日本に帰ってみよかいなと思ってます。





     とは言いつつ、そんなに文学的に物事進まないのも世の常でありまして、帰るとなればお金もかかるし、あれこれやりたいことも出てきます。そんなに長いこと留守にもできないので2週間だけということにしましたが、最初は2週間もあれば十分じゃろと思っていたところ、とてもじゃないが時間が足りないことが分かってきました。

     親に顔を見せに行く以外の用件としては、日本においてあるお金の管理事務、弁護士会での事務、依頼者の方にちょっとご挨拶、もとの職場にも、あああの人も、ああこの人もとか言い出したら収集がつかなくなりつつあります。




     また、親に「いい加減パソコン買ってインターネットやれば?そうすれば、息子が何してるか一目瞭然に分かるよ」などと焚き付けた手前、パソコン買いに行って、立ち上げて、インターネット接続して、サーフィンできるまで持っていかねばなりませぬ。最悪のときのために、ハードディスクのフォーマットと再インストールの方法くらい実地で示しておいた方がいいかなとか。でも、これ指折り日程を勘定していくと、パソコン買いに出掛けてから全部終了するまで5時間くらいでやってのけないとならないことになります。 できるんかな。




     それに全国行脚もしたいという野望もあります。JRはガイジンさん向けにお得な切符を発売しておりまして、JR乗り放題(新幹線含む、グリーン車は別)で2万8300円(1週間券)というのがあります。これ、日本人でも永住権持ってたら買えるのですね。すごいですよね、毎日毎日仙台=博多を往復(合計7往復)しても3万円でお釣りが来るという。これはもう乗らないと損だということで、貧乏人根性に火をつけてくれるわけです。

     九州から関東まで行脚しようかなと思ってますが、これも会いたい人をリストアップしていったらたちまち30人、50人とふくれあがってしまいます。なるべく3年以上会ってない人、とかいろいろ頭の痛いことをしなければなりません。しかも暇が出来たら、温泉宿にも行きたいなとか、日本の鄙びた村にもいきたいな、とか欲に限度はなかったりします。でも、最低、桜は見たいもんです。

     さらにこれを機会に、日本で買出ししておきたいものが山ほどあったりします。邦盤CDとか書籍とか、専門書とか、ソフトとか。

     ちなみに、「最近日本でこれが流行ってる」云々の流行話はほとんど興味ないです。知る必要ないし、ちょっと経てばすぐに皆忘れるし。アムロも、ルーズソックスも、プリクラも、リアルタイムで全然知らないけど、別に今となってはそんなに必要なことでもないでしょ。PHSなんか、普及する前に日本を離れてしまいましたが、留守の間に盛り上がって、今はもう下火でしょ(そのうちかつての4チャンネルステレオみたいな存在になるかも)。半年くらい日本を離れていると、浦島太郎になるのが恐いものですが、このくらい期間が空いてしまうと、ほとんど関係なくなってしまうようです。




     さらに(まだある)、一応興味の焦点というかテーマとしてはですね、「JAPANってどんなところだろ」ということがあります。やはり、2年8か月は長いです。もうオーストラリアの方が馴染んでしまって、日本に行く(帰るではなく)と思うと、何となくキンチョーしてしまうというか、そこまでではないにしても、知らないうちにもう半分ガイジンになってると思うのですね。カルチャーショックとまではいかなくても、色いろと違って見えたりもするでしょう。

     前回(3年以上前ですが)帰ったときは、わずか半年の留守であっても、それなりにショックというか、今までは違う感覚がありました。例えば、空港付いた途端「ぐわ、蒸し暑い!気持ち悪い!」と思ったものですし、人間の量の多さもさることながら、「見渡す限り人の頭が黒い(髪の毛が黒い)」というのが、なんか異様に見えました。全部アジア人というのが、すごい不自然でしたね。あと、家に帰って「こんな狭かったっけ」というか「こんなに天井低かったっけ」ということも思ったし、買物するときの客が揃いも揃って仏頂面しているのが違和感ありました。レジのところでThank youも言わないし、目が合っても笑わないし。そういえば空も今イチ青くないし。




     今度はそんな初歩的なショックはないでしょうけど、一応いろいろな視点を用意しておこうかなと思ってます。例えば、非常に大雑把なことですけど、

     @日本の風景は美しいかどうか
     A日本の人達は幸せそうかどうか
     Bこの国は将来いい方向に変化しそうか

     などですが、その根っこにあるのは、「この国に永住すべきかどうか」でしょう。

     さきほどの「素晴らしい日々」ではありませんが、「日本人だから日本に住むのは当たり前」という「関係性」もほとんど消えかかっていて、よりピュアに「住みたいから住む」「面白そうだから住む」という視点で日本を捉えることができそうな気がします。そういう目で見て、このJAPANという国は「買い」かどうか、クールな目で見ることができたらいいなと思ってます。

     ちなみに、上記の各問いに対する今の回答は、「全てYES」です。但し、それは「やりようによっては」「見方によっては」という条件付きですが。で、その条件ややり方や如何?というところも又興味があります。予想ですけど、おそらくJAPANという国と社会は、半分ガイジンというか、全くの第三者ではなく第二・五者くらいのポジションをキープしていると、やりやすい、おもしろい所になるのではないかと。全部日本人、全部ガイジンでやってるとシンドイけど、中途半端なところに立ってるとしのぎやすそうな気がします。

     例えば、そうですね、例えばの話ですけど、基本的に生活や仕事の本拠地は海外にしておいて、ホリデーとか楽しみ(あるいは出張)のために日本に遊びに行くというパターンなんか案外いいかもしれません。普通、日本で働いて生活して、休みに海外旅行に行くというのがパターンですが、全くその正反対です。

     日本も経済大国とか言われてますが、ビジネスするより遊びに行くほうが、意外とこの国のポテンシャルな価値にハマってるのではなかろうかと、そんな気もします。でも本当にそうかどうか、ちょっと見てみたいなと思っているわけです。





     しかし、今回、今まで行ったことのない地方にも行くかもしれませんが、在来線の小さな駅の小さな駅前商店街に佇んだとき、やはり僕は「なつかしいなあ」と思うことでしょう。今まで一度も行ったことない所を見て「なつかしい」というのも、考えてみれば妙な話です。なつかしさって何なのでしょう。これが、ずっと国内に居て、たまたま国内旅行でその駅に行ったとするなら、別に懐かしいとは思わないでしょう。

     逆に、そのうち宇宙開発が進んで、宇宙の植民地なんぞに出掛けて、3年ぶりに地球に帰ってきて、今まで一度も行ったことのない国に佇んだとしたら、やはり「懐かしいなあ、地球」とか思うかもしれません。

     懐かしい−珍しいというのも、気の持ちよう一つなのでしょうか。知らない町でも、郵便ポストの形とか、何の変哲もないラーメン屋の看板、コンビニの風景などから醸し出される町の佇まいが、自分の中で温めてる日本のイメージと合致すれば懐かしく思えるのでしょう。要するに、ある風景の中から、自分が知ってるものを探し出していけば「なつかしい」と思い、自分が知らないものを探そうとすれば「珍しい」と思うだけの話なのかもしれません。

     数年ほど宇宙にでかけて地球に里帰りしたとき、知らない国の風景を見て「懐かしい」と感じるとしたら、何を見てそう思うのでしょうか。案外マクドナルドの看板とか、そこらへんで懐かしがってるような気もします。それもちょっと寂しいような気もしますが。


1998年03月23日:田村

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