シドニー雑記帳
ホームステイ事情・2000/傾向と対策(中編)
引き続きホームステイの話ですが、ところで僕の中では、話はもう一歩進んでたりします。
「クオリティが下がってる」とかいうけど、ホームステイにクオリティなんてものを求めること自体が、本当は正しいのかどうか?と。そもそも「ホームステイのクオリティ」って何なんだろう?
遡って考えれば、留学やワーホリって何の為にやるの?という問いにまで行き着きます。「快適で楽しい思い」をしに来たのか?要するに金で快楽を買うような「レジャー」なんだろうか?と。
旅行だったら、レジャー性、すなわち「お金を出して豪華で快適なものを求める」という方向性はアリだと思うのです。飛行機の座席でも、ホテルの部屋でも、ツアーでも、「快適さという結果」保証に応じて、料金が高くなってます。金を出せば天蓋付きの豪華ベッド、金をケチれば雑魚寝、出さなければ野宿と、ハッキリしてるんです。それは良く分かる話です。
でも、ワーホリとか留学になると、(それは個々人によって違うのは勿論ですが)そんな一概に言えたものではないだろう、快適になりたくて、楽しいことをしたくて、来るばっかりじゃないんじゃないかと。
我が身を省みますと、僕は、リアルな生身の自分自身を試したくて、そして鍛えたくて、こちらに来ました。一体オレは生身の一個の人間として、どこまで通用するんだろう?と。日本にいたら、お約束ごとばっかりで、中々見えてこない自分自身を見たかった。海外という環境で徒手空拳でやっていくことは、まるでリトマス試験紙のように自分自身の弱さも、しょーも無さも、逞しさも、強さも浮き彫りにしてくれるだろうと。そこで本当の自信というものを掴みたかった。今までの立場で得られてる自信ってのが、どうも嘘臭く思えた。別に、快適になりに来たのではないです。
だから僕が欲しかったのは、嘘偽りのない、人為的にバイアスのかかってない、100%ピュアな「現実」でした。それは「この程度の英語力しかない人間にはこの程度の取扱い」、「この程度の財力の人間にはこの程度の家」という具合に、本物の現実。もちろん、ハッピーになりたいわけですが、正真正銘にハッピーになるためには、大前提となる岩盤のような現実に嘘があってはならないと思うわけです。そこに人為や作為が入ったら意味がない。
例えば、本当はもっとミジメに取扱われてもいいところを、○○さんのコネがあるからとかいう、自分以外の理由で厚遇されるとか。それもまあ現実といえばひとつの現実なんだろうけど、自分の関知しない条件によって実際以上にチヤホヤされても、それはちっとも嬉しくない。そんなんでいい気にならない程度の最低限のプライドはあるわいといったところでしょう。これは逆もあって、日本ではいわれなくミジメに取扱われていても、本当の一個の人間として自分はそこまで貶められねばならない筈はないから確かめたいということもあるでしょう。
ここはまあ人それぞれですが、人は誰しも向上心はあるし、向上心の表れのイチパターンとして、そういうケースというのは、結構あろうかと思います。鍛えるといえば大袈裟ですが、見聞を広めるとか、視野を広げるとか、そういったことを期待される人も沢山いるでしょう。
だとしたら、「フレンドリーな外国人家庭での快適なホームステイ」なんて「結果を金で買う」のようなことをするのは、本来ちょっと違うんじゃないか?って気もしてきたりします。数多いフレンドリーじゃない家庭の中から選りすぐって、ホストも地ではなく愛想笑い的にフレンドリーに振舞ってもらったりして、そんなホームステイに価値あんのか?という気もするんですわ。舞台の書き割り、ハリボテの大道具のような嘘じゃないのか。ディズニーランドみたいな「ホームステイランド」という架空の空間じゃないのか。嘘がイヤだからオーストラリアくんだりまで来たのに、また金で嘘を買うようなことしていいのか?とか。
オーストラリア行の航空券は、「オーストラリアに連れてくる」ということだけしか保証しないように、学校もステイも、とにかく学べる席がある、オーストラリア人の家とゴハン、というところまでしか保証しない。そこから先の、「楽しい学生生活/ステイライフ」の「楽しい」って「結果」までは保証しないものなんじゃないか。それは自分で作りあげるしかないのではなかろうか。金で買えるのは、そうなりうべき「機会/チャンス」だけじゃないのか。
ホームステイというのは、生身の現実のオーストラリア人家庭に入るということで、そこで保証されてるのは、「本物のオーストラリア人家庭」であります。その家庭が財テクに走ったり、育児ノイローゼで悩んでようが、夫婦仲が不和であろが、学生とトラブって決まりごとが増えようが、それはそれで、ありのままの現実だと思います。本物だからこそ、そういった凸凹が出てくる。
ありのままの現実だからこそ、視野も広がり、経験も増える。嘘のない、ガイドブックに書いてない、本物のオーストラリア人の内幕を見る事ができるのではないのか、と、そんな具合に思うようになりました。
もちろん金が動く契約である以上、最低限の品質保証はあります。例えば物置に寝かされたとか、ゴハンを全然作ってくれないとか。そのあたりになってくれば、契約違反ですからクレームしたらいいわけです。
ただそれ以上の「フレンドリー」とかいう曖昧な部分になってきますと、これはもう人間関係ですし、相性もありますから、結果の保証なんか出来るものではないし、また保証を求めるべきではないという気もします。一応は、ホームステイなんか面倒なことをやろうという人達ですし(斡旋する学校側もトラブルは面倒だから事前にセレクトしてるし)、またオーストラリア人は普通にしてても日本の感覚からすればずっとフレンドリーですから、そんなクソミソの話ってのは実際マレだと思いますけど。
ところで、ある人はそのホストと非常にうまくいっていて、ステイを出てからも誕生日にパーティをやってくれたり、カードの交換をしたりしてるそうですが、そのホストが「今度来た日本人の学生は全然喋ってくれない。フレンドリーにしたくてもできない」と愚痴ってたそうです。ある人にとってはフレンドリーであっても、他の人にとってはそうではないという具合に、ものすごく個人差や相性があります。
フレンドリーというのは、つまり「フレンド」として成立する最低限の信用関係あっての話ですし、それは一方的に作られるものではなく、ホストと学生の共同作業である部分があるのでしょう。フレンドリーってのは、単に優しいとかワガママを聞いてくれる、甘やかしてくれるってこととは違うと思います。また、フレンドリーが本当に価値があるのは、その無償性にあるのであって、お金を払ったからといって優しくしてもらっても意味がないんじゃないか。あなたのことが好きだから優しくしてくれるからこそ価値があるのではないか。だとしたら、やっぱりフレンドリーというのは、お金払って買うものではなく、自分の全人格をもって築き上げるものなのだという気がします。
というわけで、犯罪的性向とか極端な性格異常とかなら格別、「ああ、こういう人は日本にもいるわ」と思えるくらいのノーマルな範疇に入っているならば、それはそれで当然受け入れるべき「現実」じゃないのかなって思うようになってきてます。飛びぬけて優しい親日家ばかり選んで交際してても、それじゃオーストラリアに接したことになってないだろうし。
ひるがえって、ビジネスライクの何が良くないのかというと、それは妙に手慣れているところでも、システマティックになってるところでもなく、学生さんと人間関係を築こうとする意欲であり、それをなしうる時間的余裕なのだと思います。そしてそれは学生の側にも等しく言える事だと思います。
これらを前提にもう一回整理すれば、
@、ホストから話し掛けてこられても、英語の壁で潰れちゃったり、いろんな人と「うまくやっていく能力」つまりは対人関係構築能力という日本人学生サイドの問題が一つ。
A、人間関係を築くという手間暇かかって面倒臭いことをやってるだけの余裕が徐々に乏しくなっている、オーストラリア、とりわけ大都会シドニーの現実。
これが問題の所在なのだろうと思います。
@についていえば、英語力がある人ほどトラブる率が少ないのは、もう厳然たる事実だと思います。ホームステイストレスの内容を緻密に分析していくと、英語ストレスがかなりの部分を占めてたりもします。つまり、ホストに言われたことよりも、それに対して反論できなかった自分に対するストレス、情けなさ、もどかしさです。
一方、「どこに行っても愛される人」ってのは本当に居て、そういう人の場合、英語が全然出来なくても、ニコニコしてるだけで他人の心を蕩けさせる。僕らもサポートしてて、「ああ、この人だったら何処行っても大丈夫だわ」って安心して思える人、いますもん。
「どこに行っても大丈夫な人」はどーゆー人かというと、難しいんですが、例えば心理学的に言えばストレスの処理が上手な人。他人からすごいイヤなことを言われて一日落ち込む人もいれば、「いやあ、世の中には色んなこと言う人がいるわな」て済ませてしまえる人っていますもんね。ステイ先のゴハンが不味くても、「だんだん今日はどんな具合にマズイのか楽しみになってきますもんね。なるほど、こういう方向にマズくなるわけねとか、そう来ましたかとか」などと言えちゃう人。
要するにハッピーになれるストライクゾーンが広いんですね。寒かったら寒いなりに雪合戦してハッピーになり、暑かったら海水浴してハッピーになれる。人から裏切られても、「ほっほっほ」で笑ってすます。ある意味では人間の度量とか器量という気もしますが。
逆にストライクゾーンが狭い人は大変です。なかなかハッピーになれないから、いつもピリピリしている。自分好みの細かな環境が整ってないと不愉快になってしまう。絶えず環境のメンテに気をつかってなくちゃいけないから、他人に対しても、あけっぴろげになれない。「俺、別に何でもいいっすよ」とばかりに、他人に自分を全部預けちゃうことが出来ない人。別の言葉でいえば、生命力が弱い人。
ちなみに日本人って、どんどんストライクゾーンが狭くなってるような気がします。極端なことを言えば、人間なんか、死なない程度に食い物があって酸素があったら、基本的にハッピーになれなきゃウソだと思います。動物がそうであるように、生きるということに充足するハズ。だから、今のように物資的に豊かで、食うに困らなくなってたら、何がどう転んでもハッピーになれてる筈です。ほとんど全部ストライクゾーンって言っていいくらい。
それを狭めているのは、ひとつは今の販売戦略。ほっとけばズボンにツギを当てても機嫌良く暮せる筈なのに(実際昭和30年代の日本人は服にツギ当てしてるのが当たり前だったし、それを誰も不幸だとは思わなかった)、それだったら新しい服が売れないので、それを「見っともない」「カッコ悪い」とかいうことにして「不幸」にしちゃう。それが昂じて、ブランドでなきゃ駄目、ブランドでも型遅れは駄目とか。どんどんハッピーになれる領域を殺していって、ハッピーになれる領域を飛び地のように狭めていって、そこに集中させる、そして売る。
ともあれ、「○○じゃないと駄目」とハッピーになるために鋳型を作り、そこに当てはめる。パソコンだって、車だって、あんなにイイモン使う必要なんかないもん。車だって、一部のマニアは除き、多くの人にとっては安くて丈夫だったらそれでいいもん。問題は、その車を使って、誰と、何処に行くかでしょ。車の塗料が1ミリハゲただけで烈火のように怒る人がいるけど、ハッキリ言って病気だと思うわ。要するに、その人は、ほんの1ミリぽっちでタチマチ不幸になっちゃう程度のヒヨワな幸福構築能力しかないんだわ。
老荘思想みたいなことを言えば、ハッピーになるために、物とか道具とか条件とかに頼ってるうちはハッピーになんかなれっこないような気がします。むしろ逆の方向にいってる。
あるいは文化論的にいえば、文化というのは進歩すればするほどソフィスティケイトされるけど、見方を替えたらどんどん人工的で、不自然に、ひ弱になっていく。だから1ランク上の文化というのは、不自然極まる技巧と、その本来の荒々しい生命力なり野趣なりをいかに忘れずに覚えているか、それらをどう調和させていくかだと思います。日本文化のワビサビというのも、要するにボロいということだけど、ボロいんだけど「敢えて何もせずに放ったらかしにする」、そのギリギリの見極めなんでしょうね。繊細極まる高度な技巧をもっていながら、それを使っちゃイケナイところがあるのだ、と。
だからハッピーになりたいのだったら、「敢えて何もしない」という領域を残し、本来の野性を残しておくのがコツなんじゃないかなって思ったりもしますが、これは、ちと、余談が過ぎました。
もう一つの、A昨今のオージーの余裕の無さですが、これはもう現実がそうだということで、逆にその現実を見聞するチャンスだと思うしかないです。同じ英語圏ということで、日本よりも先にグローバライゼーションの洗礼を受け、国内企業はどんどん英米資本に買収され、景気が良くてもリストラの嵐は全然止まない。
日本もこれから先、どんどん海外資本が入ってくるでしょう。リストラも益々激しくなるでしょう。だから世知辛くなるでしょう。今のシドニーの姿は10年後の日本だと思います。失業率7%とか8%とかになりながらも、いかに病まず、イラだたず、ギスギスせずにやっていくか?
ただそんな中で、人々はなにをどうやって頑張っているか。「生活の為の戦い」は勿論どこでもありますが、「生活の為の戦いに、ユトリを殺されないための戦い」というもう一つの戦いがあるのだと思います。
もともと陽気でのんびり屋のオーストラリア人が、ここ十数年、アメリカ産の苛烈な資本主義の大波にさらわれてます。かなりギンギンに頑張らないとならない状況ですし、新聞広げれば紙面のアチコチでこの種の軋轢や葛藤が報じられてます。しかし、「大変なんだけど、意地でもノホホンとしてやるもんね」という部分もかなりあるように思います。いや、場合によっては、そういったトラディショナルな生活スタイルを信仰のようにしてすがり付いているようにさえ見受けられます。
ユトリの為の戦いに勝ってる奴も、負けてる奴も、一進一退の奴もいます。それぞれに、学ぶべき点、反面教師としてすべき点、さまざまにあると思います。
ところで、ステイがヤだからシェアしようとかいっても、シェアの人間関係の方がもっと難しかったりします。
ステイは、まだ、なにくれとなく世話を焼いてくれますし、英語が分からなくても許してくれますが、シェアになると対等ですから、そのへんの甘えはきかない。また、特にフレンドリーな人だけがシェアを求めるわけでもないし、学校や斡旋業者のようなチェック機能も救済機関もない。極端な話、犯罪者と同居する可能性だってないわけではない。じゃあ日本人同士のシェアが安全かといえば、そういえば、日本人同士のシェアで、シャワールームに隠しカメラを取り付けてビデオに撮って売り捌いてる人が警察につかまってましたわ。いかにも日本人だなあという(^^*)。
でも、それでも現地の人はやってるわけです。現地にいる日本人もやってるわけです。シェア広告を見て、下手な英語でタドタドしく電話をかけたら、「言葉もロクに喋れないような奴はお呼びでないわ」とばかりに、いきなりガチャ切りされて泣きそうになったりもします。それがこちらで生きていくための「現実」だったりします。どんな社会でも生きていくための最低限の強さとタフさは求められるというだけの話です。
そういえば、先日、シェア先の女性(日本人ですが)が異常に潔癖でしかもキツいので泣きそうになって出ようと思ってけど、思い直して頑張ってる方もいました。なんで思い直したかというと、どうせこの先結婚したらお姑さんとこの種のトラブルは起きるだろう、また仕事もホスピタリティ関係なのでどんなタイプの人間とも楽しく付き合えるようにならなく駄目だろうと、思ったそうです。
このように「強くなければやっていけない」という、万物普遍の真理に辿り着いちゃうわけですが、強くなくても楽しくやりたいなら、お金かけて大名旅行をすればいいわけです。大名旅行も、それはそれでいいでしょう。しかし、ハッピーになるための強さを少しづつ獲得していく喜びは、なにものにも代え難いとおもいます。それまで乗れなかった自転車に乗れるようになったときのような、自信が生まれ、世界が広がる喜びです。
...........と、ところで、読み直して見ると、なんか脅してるみたいですね(^^*)。ホームステイなんかしない方がいいよ、シェアなんか悲惨だよ、オーストラリアなんか来ない方がいいよ、と。
でも、翻って考えれば、日本でそれなりにやってこうと思ったらもっと大変でしょ?人間関係の面倒臭さ、うざったさは日本人同士の方がもっともっと大変だって気もしますよね。フレンドリーじゃないとか、ビジネスライクとか、そんな生易しいレベルじゃないもんね。ステイや学校に当たりハズレがあるとかいっても、イジメが横行して自殺者が増えてるなんてことは全然ないですもん(^^*)。
それに、日本人の家庭にステイ(間借り)する場合だったら、そこまでそんな麗しい、ほのぼのとした家庭的雰囲気なんか最初から求めないのと違いますか?なんで話が海外になると、いきなり本国で求めないようなオトギ話的なものを求めてしまうのかって。
だから日本でちゃんとやっていけてる人だったら、こっちでもやっていけると思います。どっちかというと、むしろ楽かもしれないし、僕なんかはこっちの方が全然楽だから居るわけですし。ホストとの人間関係構築っつったって、義理やらタテマエやら人脈やら「つきあい」やらに縛られない、かなりピュアで原始的な人間関係だから、本来ずっと楽な筈ですもん。
ただ、まあ、そうはいっても、僕としても少しでもいいホストにあたって欲しいし、そのための努力もします。ステイ先までお送りした後は、なんとか上手くいって欲しいって、護摩でも焚いて加持祈祷したいくらいの気分でいます。いや、ほんとに。
でもお祈りだけしてても始まらないので、以下に、多少なりとも上手くいくための実践的なヒントみたいなものを挙げたいと思います。
→後篇に続く
2000年 04月06日:田村
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