シドニー雑記帳








中高生の留学現場から見える日本の問題(その3)





     冒頭でも述べましたように、この問題を根本から叩き直す為にはオーストラリア現地で幾ら頑張ってても無駄だという気がします。問題の本質が日本にある以上、元から絶たねばならない。日本でこそ対策を立てねばならないと思います。

     厄介払いするように、あるいは世間体を取り繕うためだけに、子供を海外に送り込む親について、なんとかならんのかという問題があります。こういったアホンダラの為に、現地では大迷惑であります。マトモな子も朱に交われば赤くなるということで、本人ひとりが転落するだけではないのだ。




     「親失格」というなら、法律的にも本当に失格にしてしまったらどうか?という考えが頭に浮かびます。どういうことかというと、民法834条で「父又は母が、親権を濫用し、又は著しく不行跡であるときは、家庭裁判所は、子の親族又は検察官の請求によって、その親権の喪失を宣告することが出来る」と定めてあります。家裁による親権喪失宣告ですね。837条では親権の辞任というものも定めてあります。親権喪失宣告された場合、家庭裁判所は親権者に代わって「後見人」を選任することになります(838条)。

     直接このケースを扱ったこと(APLaCとしてではなく弁護士時代に)はありませんが、離婚の際に定めた親権者をあとになって変更したいという「親権変更の申立」はやったことがあります。この場合、家庭裁判所直属の家事調査官という心理学などのエキスパートが、関係者に面談し、居住環境をみるなど、かなり調査してレポートを書き、裁判官(家事事件では「審判官」というが)に提出し、それをもとに判断がなされます。親権喪失宣告においても同じようなダンドリになるでしょう。

     実際にこの程度のケースで親権喪失宣告が出されるかどうかは疑問ではありますが、一連の家裁手続はショック療法にはなるでしょう。「やったろうかな」と思ったりもしますが、僕らに申立資格はないので(親族または検察官)、所轄の地方検察庁に申立をなすべき公権の発動を促す上申書を送ることはできます。それで、あの忙しい検察庁が動くかどうかは判りませんけど。




     ただ、これは冗談ではなく半分本気に考えてもいます。このケースに限らず、また留学に限りませんけど、昨今の腹に据え兼ねるというか、躾を全然してないような親が結構散見されるという話があります。前回日本に帰った時など、既に子持ちになっている友人などから、「俺も人のこと言えないけどな、でも、ほんまにしょーもない親っておるで」という話を随分聞かされました。なんか、昔以上に増えてるような印象を受けましたし、今は小学生が荒れてるとか。

     その昔、日本人は、他人の子供でも結構叱ったと思います。僕も知らないオバサンに叱られたし、あなたもそうではありませんか。でも、ここんとこあんまり叱らなくなったように言われます。これがまず一つの問題で、これは究極的な問題に連なっていくと思いますので後述します。

     で、他人の親の教育方針に口をだすのはいけないことのようなコンセンサスが暗黙にあったりしますし、脱力するよなケースにぶち当たったとしても、「結局、親があれじゃどうにもならない」ということで、肩をすくめて、そんで終わりになってるのが通例でしょう。でも、いい加減肩をすくめてるだけでは芸がないだろうし、個々の親や学校、ないしは漠然とした「社会」に任せていても事態がよくなる感じでもない。こうなったら、多少内政干渉気味ではあっても、目に余るケースにおいては、「あんた、親としておかしいわ」と言ってもいいのではないか、そういうカルチャーを作っていってもいいのではないかと思います。

     しかし、ただ横から口出しするだけなら、そういう馬鹿親ほど感情的&依怙地になり、単なる喧嘩で終ったりもするでしょう。他人から「あんたは親失格じゃ」と言われるんですから、そら腹も立ちますわね。で、ここでケンカ騒動に終始しているだけだったら何の実りもないので、一歩突っ込んで、例えば親権喪失宣告の申立をもっと積極的に活用する方法はないのか?ということを考えてみたりするわけです。

     親権喪失と言ったって、いきなり隣人や、電車に乗りあわせた人を相手にするわけではありません。その親子の関係をある程度観察することが出来る人、つまりは学校関係者であったり、児童相談所であったり、カウンセラーであったり、留学センターみたいなところであったりしますが、それらのプロが「これは、この親に任せていたら事態は益々悪化するだけだけだわ」とかなりの確信をもって言える場合が結構あると思います。

     これまでは、そういう場面にぶち当たっても、親御さん本人を説得したりするだけで力尽き、虚しい気分を味わうだけでありましたが、そこをもう一歩踏み込む。プロフェッショナルの見地から問題点を摘出したレポートと資料をつけて、検察庁に上申すれば、そしてそれが新方式としてある程度みながやりはじめたら、検察庁としても腰をあげるかもしれないし、その事前調査として当の親を検察庁に呼ぶかもしれません。それ自体がショック効果を上げますし、より客観的な専門家が第三者的に判断を加えますので、不毛な感情的な喧嘩だけに終始することもないでしょう。

     まあ、厳密に可能性や手続をシュミレートしたものではなく、思い付きにすぎません。それに親の首をすげ変えただけで問題が解決するほど簡単ではないでしょう。そうであっても、「親の公的責任」というものを皆で考えるキッカケくらいにはなるとは思います。




     しかし、さらに問題は「どうしてそんなアホな親がいるのだ」ということに行着きます。

     アホな親はいつの時代でもいます。最高裁まで争われて有名な古典的ケースは、娘が父親を殺した尊属殺人のケースですが、この父親というのが、娘がまだ初潮をみるかどうかという時期からずっと強姦しまくっていた。その娘が長じて働きに出るようになり、貧しいけど優しい近所の工員さんと生まれて初めて恋に落ち、やっとこの悲惨な境遇から抜け出せるというときに、この父親は性欲のはけ口である娘に去られるのが嫌だったのか、洗いざらいその相手の男にブチまけるぞと脅迫しました。それがもとで父娘で口論になり、無我夢中になった娘は気が付くと父親を殺してしまっていたというケースです。

     常識的に考えても、こんな親殺されて当然だと思うのですが、刑法上、尊属殺は死刑または無期懲役しかなく、そうなると特殊な事情を考慮して最大限減刑してもなお執行猶予はつけられない(専門的な話になって恐縮ですが、法律上2回まで減刑(刑期を半減)できるのですが、その場合無期懲役を減刑するときは7年になり、さらにその半分だから3年6か月までしか減刑できない。ところが執行猶予は3年以下の刑にしか付けられないことになっている)。ここで、法廷に列席した人々は「むむむ」となったわけです。どう考えても、この娘に執行猶予をつけられないというのはおかしいのではないか?ということになり、ついに最高裁は「これは法律の方が間違ってる」としました。世にいう「尊属殺重罰規定違憲判決」というやつで、法学部出ててこれ知らない人は、よっぽどサボり倒していたのでしょう。

     こういった古典的ケースの他にも、聞いた話で悲惨な例は幾らでもあります。同じく娘による父親殺しですが、これも父親が娘を強姦していたケースですが、もっと酷くて、父親が自分の娘を強姦し妊娠させ女児を出産させた。その女児が後に被告人になるわけですが、自分は「父と姉の間の娘」、姉=母になるという、生まれながらにしてとんでもない境遇に叩き込まれます。この出生の構図、呪わしき行為の結晶が他ならぬ自分自身であることというアイデンティティそのものは何をどう努力しても変わりようがない。

     一体この男(父)は何を考えてたのか、想像を絶するところがありますが、その娘が自分の境遇を知ってから父親を殺害するまでの凄愴な心理風景もまた想像を絶します。その娘は女子少年院に服役していて、僕はそのそこに見学に行って、施設の担当者の人から聞いたのですが、少年院送致は処罰するためというよりも、その娘の心の治癒をより手厚い環境でやるべきだという判断に基づくもののようでした(目を放すと自殺しちゃうとか)。しかし、聞くだけで痛々しい話であり、心のケアといっても一体どうやってやればいいのか途方に暮れるようです。よほど精神力の強い人でもないと、この運命の十字架の重さは、普通の人間で背負い切れるようなものでもないような気もします。




     話は逸れましたが、このような鬼畜系の親も昔から実在するわけですし、現在も尚あるでしょう。オーストラリアでは幼児虐待が常に問題になっていますが、それは問題意識の水準が高いせいで、日本でも実は数多くあるのだと言われます。

     これらは「甘やかし/スポイル」の対極にあるようなケースですが、分かりやすいといえば分かりやすい。育児ノイローゼやら、住環境その他の社会的要因がからみあっているのでしょうが、ある程度構造分析することも出来るし、現にいろんな人が言ってたりします。でも、このスポイルケースに関しては、昔から言われていながらも、「どうして甘やかしてしまうのか」がよくわからない。また、甘やかしているのかどうかの判断もよくわからない。そもそも「甘やかす」ことの本質は何なのかも判ったようでわからない。

     で、僕なりに考えるに、「甘やかす」という行為の裏には、厳しい現実に直面することから逃げているという心理傾向があるように思います。子供がアレが欲しいといって泣く、ここで「ダメです!」とぴしゃりと言えばいいのだが、そう言えば子供は一層泣いたり、駄々こねたりします。端的にいって、鬱陶しいですわね。で、「しょうがないわねえ」とかいって譲ってしまうのですが、こういう安易な妥協は親としてはむしろ楽なんでしょうね。とりあえず子供はニコニコするし、万事OK的雰囲気になる。子供の要求を叶えることも(ちょっと余計なお菓子を買ってあげるくらい)、親からすればそう大した負担ではないし。

     子供と対決して、ねじ伏せ、我慢を教える、ということをしない親は、ある意味自分も我慢してないのでしょう。躾をするという状況は、子供はビービー泣く、自分も怒ってるというわけで、殺伐とした時間が流れる状況ですねよ。誰だってそんなギスギスした関係は嫌ですけど、そこを曲げてやらなきゃいけないときもあるわけです。

     ここが分水嶺だと思うのです。理想的なのは、「叱るけど怒らない」ということで、叱るべきときは叱るのだけど、それでも感情はピシッと制御できていて、不必要に波立たないのがいいのでしょう。しかし、それが出来ない情緒不安定な親は、自分の心も波立ってしまい、叱って躾けるといよりも、ヒステリックに自分もギャースカ怒ってるだけということになります。

     別な言い方をすれば、「この子に正しきことを教えよう」として「叱る」場合は、親の身体から、強き愛というかポジティブなオーラが出ているのでしょう。逆に「うるさいわね、この子は。恥ずかしいじゃないの」で「怒る」場合は、偏狭な自己保身による攻撃性というネガティブなオーラが出ているののでしょう。オーラなんか見たことないけど、「何となくピンとくる雰囲気」ということですね。

     で、平常心でいられず単にネガティブに怒ってる人の場合、相手が無抵抗の子供ということあって、攻撃性はエスカレートし、必要以上にやってしまうという過剰折檻になり、ここまでくれば幼児虐待まであと一歩であります。で、子供はどうなるかというと、「この現実世界は恐ろしいところだ」と思い、また自分は無価値な人間だと刻み込まれるから、大人になって色々問題がでてきてしまう。AC(アダルトチルドレン)とか。

     一方、この殺伐とした時間を迎えるのが嫌だから、なにごとも穏便に済まそうとする親もいるのでしょう。で、甘やかす。「嫌であってもやらねばならないこと」から親自身も逃避してるわけで、子供を甘やかすのは自分自身をも甘やかすことなのでしょう。




     いずれにせよ、「殺伐としているけど、必要な時間」というものの認識とコントロールがヘタクソだということになります。それを平常心をもって遂行していけるだけの心の強さがないのだとも言えるでしょう。

     人間には喜怒哀楽がありますが、喜と楽だけでなく、怒と哀の付き合い方についても修行しておく必要があるのでしょう。例えば自分の弟がイジメられていたら怒らねばならない。権利とプライドは闘争によってキープされるものであり、世の中には「なあなあ」で済ませてはイケナイ問題もある。ときには上っ面の円満さをブチ壊しても闘う必要がある場合もある。そういうハードな時間も、人生には不可避的にあるし、それをいかにして乗り越えるかということがポイントだと思います。

     その場合の見極め、どのように立ち上がり、どのように攻撃防御し、どのように落ち着かせるか。闘いやら喧嘩やらいっても、やたらブチ切れればいいというものでもないし、それなりのルールがあり、やり方がある。単なる殺し合いにすぎない戦争であっても、古来合戦のシキタリはあり、それなりに敵をレスペクトする作法があった。敗軍の将に対して「勝負は時の運」と慰めをいったり、自刃するときはそれなりの礼法をもって報いたり。ガキの喧嘩であろうとも、殴るにしても殴ってはいけない箇所があり、罵倒するにするにしても言ってはいけないことがある。

     だから、そういうきちんとした闘い方を子供の時分に学んでおく必要がある。そのためには、ある程度修羅場慣れしておくことでしょう。それはもう歴然とした「スキル」だと思うのですが、これが下手糞だと言うべきときに言えないし、他にやつ当たりしたり、やりはじめたら止まらなくなっちゃったりする。




     ここで、いきなり話をデカくします。 本来ならば必要な殺伐したハードな時を過ごさねばならないのだけど、それが嫌だから逃げようとするメンタリティというのは、日本社会に満ち満ちているような気がします。

     例えば不良債権。バブルが弾けてもう7年。一体いつになったら額が確定するのよ。厳しい現実に対決することが出来ない連中が、その場しのぎのいい加減な数字ばかり挙げて、ズルズルと先送りにしてジリ貧になってる。またそれを容認するどころか「指導」している大蔵省やら日銀。エイズ訴訟でも自分らのミスをひた隠しにしまくっていた厚生省。大企業のトップのジジイどもは不祥事が発覚してもシラを切りまくり、どうしようもなくなったら責任とって会長やら相談役になってる。皆の前で非難されるのがイヤだからといって総会屋を雇う。発覚したら「あれは部下のやったことだ」といって知らん振りをする。

     古来、日本人が責任取るとなったら、やることは一つ。「お庭の隅を拝借つかまつる」と言って、腹かっさばくんでしょうが。本気で腹なんか切らんでもいいけど、ある程度の潔さは感じさせて欲しいものです。

     しかし我々庶民も、そんなオエラいさんだけ槍玉にあげて溜飲を下げてる場合ではない。そんなアホをのさばらせている俺らも同罪だと思う。その罪状リストは長い。

     罪その1、自分もまた社会を構成するひとりであるという事実を棚にあげ、他人や社会ばかりを批判している罪。これは特にマスコミに顕著だと思う。そう思われたくなかったら新聞勧誘の酷さについて一面トップでキャンペーンやったらよろし。罪その2、いざとなったとき、美学よりも保身を選んでしまうのは同じであるという罪。社内で不正が行われたとき毅然として辞職覚悟でNOを言う勇気がない罪。

     罪その3、正義感なりに駆られて行動する他人を「コドモ」「世間知らず」などと冷笑する罪。これが一番罪が重いと思う。自分の夫が会社の不正に抗議して辞職して、明日から一家路頭に迷っても、「なんてことするのよ、○○ちゃんの塾の費用どうするのよ」とか取り乱す妻は重罪。「さすがはわが殿、よくぞご決断遊ばされました。この私、地獄の底までお供いたします」くらい言えっつーの。父ちゃんが失業して「え〜、私の結婚式のときカッコ悪いじゃないの」などとわめくパープー娘は女郎宿にでも叩き売ったらよろし(段々時代が目茶苦茶になってます)。罪その4、殆ど同じだけど、政治家がどーのと冷笑するわりには全然政治のこと知らない阿呆。「無関心だから選挙に行かない」などと堂々と言ってる馬鹿。日本に徴兵制度が出来たら、これまで選挙に行かなかった回数の多い順に徴兵して欲しいものです。

     会社に不祥事があったとき、潔く責任を取ろうとする人もいるでしょう。当然世間からは厳しく批判されるでしょうが、それにしても「川に落ちた犬は叩け」式に、ヒステリックにギャンギャン騒ぐだけというパターンが多すぎる。過ちを犯した人に対する罰と罰として厳正に下せばいいのだが、潔くその罰を受けようとする人には、相応の品格ある賞賛なり称賛があって然るべきだと思う。それがないと結局どうなるとかというと、認めたら最後死ぬまで叩かれるから、誰も潔くなろうとしなくなる。逃げれるだけ逃げ切ろうとする。逃げ切れてる間は、幾らミエミエであろうが何事もなかったように普通に接しておきながら、いざ公になれば掌返してボロカスにいう。自分だって実は同罪な場合でも叩く。要は正しいか/正しくないかではなく、攻撃しても反撃されるかされないか(自分が安全かどうか)を基準にして唱えられた「正義」に何の感銘もない。

     こーんな世の中で、子供がサバイブしていこうとするなら、一番サバイブしやすいように「進化」するでしょう。つまりは、なにごとも表面的な和を重んじ、多少理屈に合わなくても多衆におもねること。罪もないクラスメートがイジめられていても、一緒になってイジめることが友達作りにかかせない(TBS事件のときTBSをボロカス批判していた他局の姿のように)。本当にやるべきことがあっても、ちょっとでもツラい現実に直面しなくちゃならないのだったら、逃げうる限り先送りにする。いよいよとなってもシラを切る。それでも批判されたら「キミもおとなげないね」と、表面上の平穏を重んずる他の人々を味方につけ誤魔化す。




     話はまた一気に留学に戻りますが、こんな国から来た最新型の子供が、海外、とりわけ「努力しない奴は死ね」という優勝劣敗を社会原理にしているアングロサクソン系の国でやってこうというのがそもそも無理なのかもしれません。優勝劣敗を基本とするからこそ、努力をする場、主張する機会を与える公平さ、オーストラリアでいえばFair Goの精神はとても重視されている。どんなに英語が下手でも、絶対のルールとして「とにかく言い分は聞こう」としてくれる。正々堂々と闘おうとする人にはその機会は与えられる。

     要するに修羅場の原理と倫理が日本以上に貫徹している「修羅の国」であるわけで、分かりやすいといえば分かりやすい。だが、その分、いまの日本人が一番苦手としている「ハードで殺伐とした時間」は多くなるし、その場限りの先送りも許されない。何度か警告してなお出席日数が足りなかったら1学期でスパッと退学にされちゃう。大和銀行事件におけるデーター隠しなんか、修羅道の風上にも置けないとして、業務停止の死刑宣告が下される。あれなんか殆ど即決という感じでしたが、彼らの原理からすれば、そこは絶対「なあなあ」で済ませてはならないところなのでしょう。そこを曖昧にすると社会それ自体が瓦解しちゃうのでしょう。




     かつて世界一プライドが高く、下手に馬鹿にしようものならその場で斬り殺されるとしてビビられた武士道を持つ国が、どうしてこうなっちゃうのでしょうか。よく日本は「平和ボケ」だと言われていますが、なにが平和ボケなのかよく判りませんでしたが、もしかしてそういうことが平和ボケなのかなという気になってきました。「そういうこと」というのは、修羅場経験が少ないがゆえに、人間社会が本来的に持つ残酷なまでのリアリティを感じる力が乏しく、だからこそそれをコントロールすべき強固な意志も視野も乏しく、なににおいても微温的な行動反応しかできないということです。

     「まさかそんなにヒドくはならないだろう」という、妙にタカを括ってるところがあり、それが信仰のようにすらなっている。地震が起き、大企業が倒産し、自殺者が増えていながらも、「まさか自分は」と思って、それが現実のものであるとはどうにもピンと来ない心理傾向は、まさしく「ボケてる」と言えると思います。

     そのボケが冷めて、いよいよミもフタもなく大変なことになるのだと、冷水をぶっかけられるように肌身に感じてシャンとしてきたとき、親も変わるだろうし、そうなれば自動的に子も変わるのでしょう。大体、親が失業すれば、子供を留学なんかさせられる余裕はないだろう。買い与える金銭的余裕もなければ、子供が泣き叫ぼうが拒否できるし、そもそも家の中にそういう緊迫感が漂っていれば、子供の方が「ああ、うちは今大変なんだ」と勝手に思ってムチャなこと言わなくなるだろう。そう思いたいのですけど。

     そんな風に考えていけば、豊かになるのも善し悪しですね。代々の金持ちは新興の金持を「成り金」といって馬鹿にしますが、もしかしたら古典的な金持は、リッチさに伴う「毒」を知っていて、それに冒されないためのルールなりシキタリを持っていたのかもしれません。例えば金でなんでも解決しようとすれば、段々とその人間がアホになり、ひいては滅びるということを知っているとか、唸るほど金があるからこそ金に頼ろうとはしないとか。




     しかし、ボケ退治のためにイチイチ一家路頭に迷ってたら大変すぎるし、それで却ってややこしくなる場合もあるでしょう。そんな無茶苦茶になる前に気付けばいいわけだし、変わればいいわけでしょう。変わるといっても、そんなに大きく変わらなくても、ほんのもう少し行動の美や(虚栄ではない)プライドを感じる目盛を上げておけばいいのではないでしょうか。あともうちょっと心を修羅場モードにしておくとか。1年に一回くらいは誰かに殴られて当たり前くらいに思っておくとか。

     現実というのは、適当に殺伐しているし、汚くもあるわけですが、それが苦みとしてリアリティをもたらしているように思います。殺伐もせず、おきれいなだけの環境というのはどっか嘘くさく、アーティフィシャルな感じがします。社会に生起しているどんな厳しく悲惨な出来事も、「あれは他人事」として殻にこもれば、ぬくぬくとしていられる。ある人はヌクヌク状況を守ろうとするだろうし、ある人はそのヌクヌク感に、やたら甘ったるいだけの嘘臭さを感じる。

     数年前、猿岩石が流行ったりしたのも、苦みをたっぷりと含んだホンモノの現実感が新鮮だったのかもしれません。ワーホリでこちらに来られる人は(全部がそうなのかは分からんけど)、「適当に生活できちゃう日本」の嘘臭さから出なければという意識があるような気がします。この嘘臭さに浸っていたら、自分自身も嘘臭さに染まって、しまいには無くなってしまうのではないかみたいな危機感が、心のどこかにあるのではないでしょうか。勿論全員が全員そうではないのでしょうが、わざわざインターネットで検索して、メールでコンタクト取って、、という紆余曲折を経て我々と出会うに至ったワーホリの人達は、皆そうでありました。

     そういう意味では、健康な反応だと思うし、今までツラツラ書いてきた状況を、「こらアカンなあ」と思う人が多ければ多いほど、日本もまだまだ健康なのでしょう。実際、どこの企業にも、一人で黙々と責任とって頑張ってる人はいるでしょうし、僕も沢山知っています。だから総体として駄目という気には全然ならないのだけど、問題部分にフォーカスを当てれば、当たり前のことなんだけど、やはり問題は問題として厳然としてあるなあということでした。さて、慨嘆してるだけでなくて、何からはじめて何をどうしたらいいのだろうか?

     とりあえず今すぐ出来ることとしては、潔く行動する人を馬鹿にすることだけは止めようと思うのでした。


    ※福島も同じ題材を取り上げて書いてます。
     →「救いなき寒い風景(番外編)」
1998年06月13日:田村

★→シドニー雑記帳のトップに戻る

APLaCのトップに戻る