オーストラリア・シドニー版
現代用語の基礎知識(キーワード)
★96 March election(96年3月の総選挙)
96年3月にオーストラリアでは連邦議会の総選挙が行われ、13年与党にあった労働党(レイバー・パーティー)は大敗北し、代わって自由党(リベラル・パーティー)と国民党(ナショナル・パーティー)の連立与党(Coalition government)が政権を取りました。
その後オーストラリアの政治や社会の流れは、かなりガラリと変わってきてますし、昨今言われているキーワードの原点は殆どここにあるように思います。
レイバー・パーティーは名前のとおり、労働者の党、労働組合などを基盤とする党で、右か左かといえば左。昔の社会党みたいなもので、福祉中心、よりリベラルな路線ですね。一方の保守党が「リベラルパーティー」という名前というのも混乱を招くのですが、まあ日本の自民党だって「自由(リベラル)民主(デモクラッツ)」という名前ですから、そんなもんなのでしょう。
ポール・キーティング首相率いるレイバー政権の政策は、単に労働者保護だけではなく国際指向が強く、将来を見据えたアジア中心外交、国際門戸開放(関税引き下げ)、マルチカルチャリズムの推進などの他に、アボリジニとの和解(reconciliation)、福祉充実という路線でやってました。でも、ボロ負けした。
なんでか?皆がそれにウンザリした、ここがポイントだと思うのです。
大きな世界史的流れとしては白人層の相対的地位低下の危機感というのがあると思います。19世紀なんか独占状態だったのが、段々民族独立で植民地は失うわ、アジアの新興(第一陣は日本)やらで状況は厳しくなってきている。失業率も上がる。もう帝国主義時代やその名残の頃のように、「白人だ」というだけでいい暮らしができるものではない。さらにメガコンペティションという国際競争の激化が追い討ちをかける。
早い話がリストラその他でメシが食えない。オーストラリアなんかも20世紀初頭は世界一裕福な国だったらしいのですが(ラッキーカントリーとか言ってたくらいですから)、今ではローン返済や子供の学費に追われてたり、失業したりしてる。このように生活は苦しくなる一方、中国を筆頭にアジア圏などエスニック経済パワー台頭は物凄いときている。
そんななかで、アジア系移民が、永住権を取るや一族郎党呼び寄せて、失業保険や年金などをガバガバかっさらっていく姿を見る(実際見てる人は少なく殆どは単なるイメージだが)が腹が立つとか、アジア系マフィアがドラッグを売り捌いているとか、アボリジニへの社会補償が手厚すぎる、あれは全部俺達の税金じゃないか、俺達がこんなに苦労してるのにあいつらときたら、という気分も起きてくる。でも前政権の下ではそんなこと言える雰囲気ではなかった。また、国際競争が激しくなれば、潤うのは国際派の一部エリート層で、地方農村部や労働者層はリストラその他の進展で全然生活が良くならない。そんなこんなで、"Enough is enough!(もう沢山だ)"ということで、コーリションの"landslide victory(地すべり的大勝利)"になったと言われています。
この反動的ともいえる一部の人々の心情をストレートに代弁したとされるのがPuline Hanson議員で、この1年物議をかもしまくっています(彼女については異様に長くなりそうなので別途述べます)。
★PC/Politically Correct(ness)
これも非常に難しい概念で、未だによく分かってるとは言い難い。直訳すれば「政治的正しさ」ということなんでしょうが、これじゃ「何のこっちゃ?」ですね。「政治家が使用できる、差別的表現を含まない」としている辞書もありますが、これでもイマイチよくわからない。
日本語で一番近いニュアンスを挙げるとすれば、「建前」と「正論」を足して二で割ったような感じでしょうか。「それは確かに正論かもしれないし、理想だろうが、地に足がついてないし、行き過ぎだし、偽善的ですらある」というニュアンスかな。
人間というのは本音レベルでは結構身勝手で、そのエゴそのままで多数決取ったら少数派や弱者にしわ寄せがいったりするし、後々悲惨な結果をもたらすかもしれない。だから、いかに皆が自分勝手な意向を持ってたとしても、それを統合し方針を決めていく政治レベルにおいては、より正しき方向に修正していかねばならない場合もあります。そのとき、皆の実際の意見と政治的な公式見解はちょっとズレたりするのですが、その「ズレ」が、長い目で見ればより正しい方向にいくのでイイコトなのかもしれないけど、場合によっては独善的、皆の意向に逆らって「正しさ」を強要してるかのように感じる、と。
これはどんな社会にもあると思うし、日本にも沢山ある。例えば筒井康隆氏の断筆宣言(復帰したけど)で物議を醸した、「差別的表現」や「放送禁止用語」の問題があります。「差別される人達の心の痛みを慮って表現には気をつけよう」という原点においては、人道的に正しいし、誰も文句は言わないのです、でも「これも駄目、あれもダメ」と年々差別表現が増えてきたり、些細なことを針小棒大に騒ぎ立てるような人、「正義」の傘にきて居丈方になる人などもいないわけではなく、そんなこんなでウンザリする人も出てくる。で、これって行きすぎじゃないか、偽善ぽくないか?という気になった人が、この差別表現云々の動きに対して批判するとしたら、Politicaly Correctnessじゃないかな。
オーストラリアの場合、96年総選挙の政権交代、社会の保守化が言われるようになってからこのフレーズがよく耳にします。論点はいろいろあるんだけど、「マルチカルチャリズム」「アジア中心主義」「アボリジニーとの和解」「福祉優先主義」などが、やり玉にあがっているようです。とくに「アジア系移民はこれ以上いらない」という部分では、前政権の頃は、「移民の適正な数を議論しようしただけで、レイシスト(人種差別主義者)というレッテルを貼られて何も言えなかった。別に人種とか関係なく移民政策の是非をオープンに議論したっていいじゃないか。それが出来ないのは息が詰まるし、一種の魔女狩りだ」という気分が結構蔓延していたみたいですね。で、「なにかというと人種差別云々と騒ぎ立てるのはPoliticaly Correctnessだ」と。
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