オーストラリア・シドニー版
現代用語の基礎知識(キーワード)
アボリジニ編(その1)
★Indigenous Australian
先住民族=アボリジニーのこと。より正確には、「アボリジニーとトレス海峡島民(Aborigines and Torres Straits Islanders)」。91年時点で約26万5000人。オーストラリア人口が1700〜1800万だからざっと1〜2%。
観光としてオーストラリアに来る場合、アボリジニーといえば、絵画、クラフト、音楽などの民族芸術&お土産系統にいきますが、国内においては、大きな大きな問題。なんせ、何をどう言いつくろっても「他人の土地を力づく制服して住み着いた」というのが建国の根幹であるし、およそ地球上の文明形態上、全く対極にあるようなもの同士が共存しようというわけだから様々な問題が発生しているわけです。
派生する問題は、@両者仲良く和解できるかという問題、Aオーストラリアはもともと誰のものかという土地の問題、Bアボリジニの人達が置かれている社会状況の厳しさをどう解決するかという問題、などなど多岐にわたります。
解決のための大まかな道筋は、まず「イギリス系移民がやってきて先住していたアボリジニの人達を追い払って移住し、その過程で随分ヒドイこともした」という歴史的事実を認めようということ。で、「というわけで失礼しました〜」とアボリジニ以外の全ての人がオーストラリアから退去すれば話は簡単なのだが、現実問題そうもいかない。そこで、現住している人々やシステムはそのままに、いかにしてアボリジニの人達と歩み寄って共存共栄が出来るか、さらに、「先に住んでいるか後から来たかの違いだけで、ともに平等なオーストラリア人なのだ」ということでやっていこうということでしょう。白豪主義を捨てたオーストラリアは、基本的にこの路線でこれまで頑張ってきてるわけです。根本理念としてこれらの命題を否定する人は、おそらくはいないと思います。超極右翼であっても、「目障りだから、この際アボリジニを皆殺しにしろ」「あいつらは格下だから差別してもいいんだ」ということを理念として掲げている集団や個人はいないでしょう。
でも理念はそうでも現実にはどうなっているのか?現実の政策のなかでどの程度のことをすればいいのか?ということになると、バラバラだったりします。
なお、ものの本によると、「アボリジニの人達を"Aborigines"と称するのは時として侮蔑的に響くことがあるので最近では"Aboriginal people"という場合が多い」となっていました。確かに、そう言った方があたりが柔らかくなり、より礼儀正しいニュアンスになるような気がします。また、オフィシャルにはそう表現されている場合が多いかな(今度から気をつけて聞いてみよう)。aboriginal"の本来の語義は「土着の、現住の」という意味ですが、これ日本語でも、「土着民」と「土着の人」というのではニュアンス違いますよね。面と向って「土着民」と言われるとなんか馬鹿にされたような気がしますが、「あなたは土着の人だから」と言われると、まあ中立的な感じがします。それと似たようなものなのでしょうか。ここでは、日本語で言った場合にそれほどのニュアンスの差もないので、いちいち「アボリジナル・ピープル」とは言いませんが。
★reconciliation
リコンシリエーション。アボリジニーの人達との和解、歩み寄りのこと。オーストラリア国内のニュースなどでこの単語の使われる場合のおそらく90%以上は、特にアボリジニーとの和解のことを言っているのだと思って良いと思われます。非常に頻繁に出てくる単語なので覚えておくといいでしょう。
この営みは心ある人達によって営々と築かれていたわけですが、一つのターニングポイントになったのが、1967年のreferendum(リファレンダム/国民投票の意味で、これもちょこちょこ使用される単語)。アボリジニの人達を他のオーストラリア人と全く平等に扱うという憲法改正をしたわけです。ちなみにこのときの投票結果はYES票90%(518万票対52万7000票)という圧倒的なもので、リファレンダム史上ダントツだそうです。最近では「国歌の変更」、また近い将来においては「共和制への移行と国旗の変更」が話題になってるリファレンダムですが、これ意外と否決される方が多い。なんでも、67年以前に提起された24の案件のうち賛成多数になったのはわずか4件だけ、同じく67年以降行われた18案件のうち可決したのは4件だそうです。
しかしながら、征服者と被征服者との和解/リコンシリエーションというのは、たかだか憲法の文句を変えただけで何とかなるほど甘いものではなく、その後も、また将来も多大な努力を必要とされるでしょう。例えば「アボリジニの人達がおかれている劣悪な環境」とひとくちで言っても、やっぱりその大変さは相当なもので、象徴的なのは、平均余命が他のオーストラリア人に比べて15〜20年も短いという事実。
同じ国にいながらこんなことがあるのか?と思いますが、そうらしいです。しかもこの数字は殆ど改善されていないという事実。他にも病気の罹患率、新生児の死亡率、犯罪率、いずれも非常に高い。有形無形の差別もなお残存し、警察や刑事司法における差別的な取扱などなど、多々指摘されています。
これらの詳細をみていくと「社会福祉政策の現状と課題について」という全10巻の全集が出来るような気がするほど複雑に入り組んでおり、とてもじゃないが僕の手に余ります。言えるとしたら「そんなに簡単なものじゃない」ということ。例えば、もともと伝統的なライフスタイルが違うのだから、無理やり西欧流の「健康で文化的な生活」の型にハメればそれでOKというものではない。また体質的にアルコールに弱い人が多いのでアル中になる率も高いという生物学的要因もあったりする。本来、各部族の言語、伝統というものがあるのだから、それを習得しながら、同時に英語やその文化を学べというのは、ほとんど無理難題。でもそれが出来ないと、社会の上層部にはいけないし、経済的に低水準のまま。そもそも「なんで俺らがオマエらの基準に合わせないとイケナイんだ。オマエらこそ後から来たんだから俺達に合わせろ」という至極もっともな反発もあるだろう。
さらに「福祉」というものの永遠の課題として「自立」というのがありますが、単に与え続けてるだけなら依存性が強くなるだけでいつまでたっても事態はよくならない。したがって自立を促すよういろいろやるわけですが、自立を志したところで今度は社会がそれを快く受け入れるかというと必ずしもそうでもない。幾ら頑張っても社会の上にいけず、差別され続けるだけなら、やるだけ無駄だし、補助金貰って酒飲んでた方がマシだという態度の人も出てくるだろう。犯罪に走る人もいるだろう。民族的に免疫のないまま、現在社会の毒気にあてられれば、酒や麻薬に溺れるものも出てくるだろう。そもそもアボリジニの人達といっても、本来部族が数百もあり、伝統も言葉も違うのだから、それ自体が国連のようなもので、意思統一するだけでも大変というのは想像に難くない。
といっても、これまでの政府や社会が何もしなかったというわけではなく、かなり頑張っていたようです。多額の予算を割いて、住宅補助なりインフラ整備なりやってきたわけですが、砂地に水を撒くように殆ど効果が出てないじゃないかという指摘も強いし、徒労感もある。ポーリンハンソンのように「与えすぎ、逆差別」という不満を強く口にする人も多い。理念的にも「金を使ってどうこうしようという発想だけでは無力だ」という反省も出てますし、かといって現場の職員など第一線からは「人的物的施設が全然足りない、過労死する」という悲鳴もあがっているやに聞きます。
この5月27日にメルボルンで、リファレンダム30周年を記念して大会が行われました。こんな大変なことを30年も(それ以前からも)、営々とやり続けている人々が、白人側、アボリジニ側にも沢山いるわけで、これらの人々の献身的な努力によって、なんとかかんとか前に進んでいるわけでしょう。無関心だったり心ない人達もいる反面、死にもの狂いで闘っている人々も沢山いる。そのどちらの顔も「オーストラリアの素顔」であるのでしょう。というか、問題の所在と構造は別にオーストラリアだけに限ったことではなく、そのままサイズを拡大して地球規模でみても、縮小して村規模でみても、どの人間集団にも当てはまるとも言えるので、むしろ「人類社会の素顔」と言った方が適切かもしれない。
ちなみに、シドニーでもそうですが、アボリジニ本来の用語を用いた地名というのが沢山あります。Kirribilli、wooloomoolooとか。あれ、自然とそう呼ばれるようになったのだ漠然と思ってたのですが、もちろんそういうのもあるのでしょうが、行政の側で積極的にそういう具合に仕向けている(新興地などそう命名するとか)部分もあると読んだことがあります。こういうのもリコンシリエーションへの努力の一つなのでしょう。
★アボリジニ編(その2)へ進む
★オーストラリア版現代用語の基礎知識トップに戻る
★→APLaCのトップに戻る