◆◇ 征夷大将軍/源頼朝之独白 ◇◆






  

俺は、征夷大将軍になった。
もうこれでいい。
俺は、右大臣にも、太政大臣にもならぬわ。
俺は幕府を開く。




思えば、清盛は偉大であった。
力しかない我ら武家でも、あの小賢しい公家どもに飼われず
この国の中心になりうることを示してくれた。
これは、あの純友にも、将門にも出来なかったことだ。

しかし、清盛めが阿呆だったのは、
あの煮ても焼いても食えぬ、公家どもの中に入ろうとしたことだ。
自ら太政大臣となり、皇家と縁戚関係を結んだのはいいが、
結局、よもぎのように乱れる公家社会の中に取り込まれてしまった。
殿上人への憧れは、父忠盛が初めて昇殿を許されたとき、公家どもに嘲り笑われたトラウマのなせるわざなのか。

いずれにせよ、成り上がり根性から脱することが出来なかったのだ。
後白河などほおっておけば良かったのだ。





建久元年(1190)霜月7日。
俺は俺の軍団を率いて上洛した。
奥州藤原氏を討伐し、後白河の要請に応じ、30年ぶりに京に戻った。


しかし、俺は義経のような馬鹿ではない。

義経は、この俺すらも舌を巻く戦の天才でありながら、
老獪な後白河めに取り込まれよって。
所詮は侍大将の器だったのか。

ああいう単純な奴は、吹き込まれるまま、自分の意思もなく、よく大局を見定めもせず、直線的に動きおる。

もはや、大きな戦もあるまい。
この先奴が活躍するとしたら、
それは即ち謀叛しかない。

俺は義経とは違うぞ。
俺は、公家に利用されずに、公家どもを利用してやる。
官位を餌に飼われてたまるか。
だから俺は、右近衛大将・権大納言に任じられても、わずか4日でそれらを辞したぞ。
そんな官位など意味がないのだ。征夷大将軍でなければ。力ある武家共を従わせることの出来る軍事総司令官でなければ意味がないのだ。


そして、俺は、義仲のような馬鹿でもない。
この都で略奪狼藉に及べは、天下を敵に廻すことになる。都は利用するものぞ。溺れたらしまいぞ。





後白河めが、とうとうくたばりおったか。
あやつめ、俺の野望を見抜きおったか、
俺が征夷大将軍になることを終始反対しておった。
せっかく関白九条兼実を手なずけておったというのに、
あやつ一人の為に俺の野望は今一歩のところで閉ざされておったわ。

敵ながらあっぱれというべきか。
しかし、これで邪魔するやつも居なくなった。


見よ。
今年(1192)の3月に後白河が死におってから、その7月にはとうとう俺は征夷大将軍になれたわ。




唐代の律令制度を輸入した平城京時代の我が国の律令制。
その中では、歴然と官位が定められ、ヒエラルキーが定まっておった。
400年続いた平安王朝は、一握りの者どもがこの官位を巡って生きておったわ。紫式部や清小納言なる女子らも、所詮は○○の中将がどうしたこうしたという三高志向だったではないか。


くだらぬ。
くだらぬ。
くだらぬわ!!

生きてゆく力なき者が、虚栄の官位を巡って、意味もなくのさばっているような下らぬ世の中は変えねばならぬ。

俺が変えてみせる。


律令制度に定められてなかった官職。征夷大将軍もそうだ。
『令外(りょうげ)の官』だ。
征夷大将軍など、もともとは西方の鎮西大将軍と並ぶ、「東部方面作戦指令長官」に過ぎぬわさ。かの坂上田村麻呂がそうであったように。

しかし、この「令外の官」は使い勝手があるのだ。
真に力ある武家どもに対して直接の指令権を有しているのだからな。
そして、それで充分なのだ。

それ以上のものを望むならば、力に裏打ちされぬ虚飾に遊ぶことになる。
その愚は平家一門が俺に教えてくれた。
見よ、僅か2〜30年であれだけ獰猛だった平家が、かくも張り子の虎にふぬけおったわ。






俺は−−−

俺は、この鎌倉の地で、東夷とコケにされておるこの坂東で、坂東武者による、力による新しい世界を開いてみせるわ。

京にいる公家どもは、官位を巡って、力なき虚飾の絵巻を繰り広げておけれ良いわ。
未来永劫、あさましくも醜き舞いを演じておればよいわ。
誰にもかえり見られぬまま、永久に踊り続ければよいわ。

俺は、新しい世を創る。
俺は、この国の歴史を変える。


俺の名は、源頼朝。


「力」に基づく、透明で分かりやすい世の中を創ってみせようぞ。






初出:92/10/06 01:15
改筆:1997年11月09日:
★studio ZEROのトップに戻る
★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る