◆◇◆◆◆◆序ノ二:山背大兄王の巻 ◆◆◆◆◇◆



−−−643年霜月

『はぁ、はぁ、はぁ.....
 皆の者、大丈夫か?はぐれし者はおらぬか−−−−』

 もう、今日で4日もこの生駒の山中を彷徨っておるわ。
 いつまでこんなことを続けねばならぬのか?
 俺は、なぜこんな所を這いつくばっているのか...

 父上....
 神のごとき聡明さをもって豊聰耳(とよとみみ)とうたわれた父上。
 大国隋の煬帝に対して、自らを「日出づる処の天子」と述べ毅然とした
 矜持をお示しになった父上。

 この山背(やましろ)は、父上を範とし、努めて参りました。
 父上の声望を継ぐ者と世上でもうたわれておりました。
 その世評に甘んずるところなく、父上の背を乗りこえんと、
 山背は山背なりに研鑽を積んでまいりました。

 あぁ、されど、父上。
 父上がお亡くなりになってからのこの22年間というもの、
 父上がおられた頃にはおよそ予想もつかぬ程の変わりようです。

 父上亡くなりし4年後に蘇我馬子殿が亡くなり、
 その2年後には推古大王(おおきみ)もお隠れになりました。
 推古帝の亡きあとは、私が34代大王として即位する筈でした。
 推古大王もそのように思召しておいででした。
 ああ、しかし、父上亡きあと、推古大王と馬子殿との対立は俄かに激しくなりました。






『おおきみっ!ひめみこが!』
『なにっ!いかがいたした?』
『熱が、ひどい熱が.....』
『おお、なんたること..まだ5才の幼子に、食べるものもろくになく、
 霜月の厳しき寒さ満ちわたるこの生駒の山はあまりに哀れ。もう、4日にもなる...』
『おおきみっ!』
『なんだ。おお、三輪文屋君(みわふむやのきみ)』
『大王っ!
 やはり、ひとたびは山城の深草(京都市伏見区)にお退き遊ばし、
 さらに甲斐、伊豆の上宮(かみつみや)王家(聖徳太子の生家である)の所領まで戻り、
 軍勢を整え、その上で蘇我との決戦に及びましょうぞ』
『また、その話か....』
『されど、いかがあそばすお積もりか。このまま生駒山中を彷徨っても、凍死か餓死は必定。
 ここで大王が逝かれたら厩戸太子様の、上宮王家の血筋は途絶えまするぞっ!』
『止むを得まい』
『なんと!.....今、なんと申された!?』
『止むを得まいと申したのじゃ』






 あれは、推古帝がお隠れになる年(628年)の如月であった。
 もはや死の病におられた大王は俺を招き寄せた。

『や..山背...もっと顔を見せておくれ』
『はい。大王におかれては、お気を確かに...』
『もう、よいのじゃ。私は長く生き過ぎた−−−
 おお、そなたは、ほんに若き日の太子にそっくりじゃ。』
『は。』
『太子はの、太子はそなたのように若くしてこの国を司っておった。
 太子がふと立ち上がり歩を進めるとな、居並ぶ群臣どもは皆息を飲んで太子の吐かれる言葉を待ち望んでおったぞ。
 このわたしも、大王という立場も忘れ、太子の姿を仰ぎ見たものじゃ』
『ははっ。父上の威、この私にも臓腑に染みわたる心地いたしました。』
『太子のあれは”威”ではない。
 あれは威というものではなく、知と光、そう”透きとおった温かき光”であったぞ。』
『......』

『山背。』
『ははっ』
『そなたはまだ若い。皇位については、群臣の物言いに従うがよい』
『は、もとより私は−−』

『本来ならば、そなたが大王になるのじゃ。
 されど、太子亡きあと、私はどうしたら良いのかわからず、やみくもに馬子と諍い、蘇我氏とはどうにもならなくなったわ。
 馬子の子、蝦夷(えみし)も中々の器量者ぞ。
 私には、もうそなたのためにどうしてやることも出来ぬ。許してたもれ』
『大王、もったいのうございます』


 結局、皇位はほとんど蘇我蝦夷の一存で田村皇子となった(舒明天皇)。
 蝦夷は我が伯父にも当たるというのに、おのが妹が嫁ぎ、既に子(古人大兄皇子)が生誕しているという血の濃さに惹かれたか。
 それとも父上ゆかりの斑鳩の法隆寺一門の隆盛を恐れたか....
 皇位継承の群臣の議は、蝦夷の私邸で行われたというぞ。
 もはや、おのれが天下を治めたと思っておるのか−−。

 舒明天皇が在位13年で崩御された後は、蘇我蝦夷とその子入鹿は、その妻、天豊財重日足姫を即位させおった(皇極天皇)。
 古人大兄皇子が成長するまでの中継リリーフというやつか。
 この山背がおりながら、敢えて女帝を擁立しおったわ。
 女帝というても、兄弟何れも殺し殺され一人残り、また明智の誉れ高い推古大王のときとはわけが違う。
 それほどまでに、蘇我めはこの山背が煙たいか。
 いや、この山背と共におられる亡き父上の幻影が怖いのか。

 それだけでなく、蘇我蝦夷・入鹿は、おのれの墓を造るのに、この上宮王家の壬生部をも使役しおったわ。
 我が伯父だから当然だと思っておるのか。
 それとも、これは挑発なのか。





『もう、我慢できませぬ!』
『春米....』
『おおきみ、私とおおきみとは夫婦でございますと同時に、母は違えど共に厩戸太子様を父としておりますのに、おおきみは何とも思わないのでございますか。』
『蘇我蝦夷、入鹿のことか』
『そうです。あの蘇我父子の傍若無人な振る舞い!
 蝦夷殿も入鹿殿も、あの馬子殿に比べれば知慮浅薄で粗暴な者ども。
 その馬子殿でさえ、父上がおられるときは何一つこの国のこと思うがままに出来なかったというのに。
 なぜにあのような粗暴な者どもに、父上の上宮王家が、この斑鳩が、ここまで足蹴にされねばならぬのですか。
 私には我慢できませぬ!』
『春米。落ち着くがいい。』
『落ち着いてなどおれませぬ。』
『父上が見られたら嘆かれるぞ。それでは、まるで父上がこの世の栄達を望んでおられたかのようではないか』
『それは...』
『望めばいつでも大王になれる父上が、何故にこの法隆寺で、日がな一日、階段に腰掛け、遠くを見ておられたかわからぬか。』
『わかりまする!わかりまする!わかりまするが、これではあまりではありませぬか。
 父上亡きあとというもの、日照りが続き、旱魃が続き、ときには桃の実ほどある雹が降りました。
 飛鳥の里も、餓死者が多く、盗賊が往来し、女子はかどわかされ路上で犯されておりまする。』
『そのとおりだ。何もかもがこの俺の器量不足なのだ』
『大王を責めているのではありませぬ。
 ただ、父上がお亡くなりになってからというもの、こうも人心荒れ果つるものなのでしょうか。
 世間はやはり虚仮なのでありましょうか』
『春米.....』






『おおきみっ!!』
『何事ぞっ!?こんな夜更けに!』
『巨勢徳太臣殿、土師婆婆連殿の軍勢が....!』
『なんと!この斑鳩にか?!おお、蘇我入鹿め。先月、法に従わず蝦夷より紫冠(大臣の地位を表す)を授かったと聞くが...いよいよか』
『ここは危険にござりまする!この斑鳩の後方の生駒の山にお逃げ遊ばさて.....』
『うむ。わかった。』
『おおきみ....』
『聞いてのとおりだ、春米。やはり世間は虚仮らしいぞ』






『なんと!今、何と申された....』

『止むを得まいと申したのじゃ。三輪。
 俺は誓ったのじゃ。この10年、飢饉や盗賊に苦しむ民百姓をこれ以上苦しめまいとな。
 俺がまた挙兵すれば、すなわちついてくる兵は、妻も子も親のおる俺と同じ者どもじゃ。』
『何を申される、大君』
『もう良いのじゃ、三輪。同じことなのじゃ。
 蝦夷も入鹿も「力に基づく力」に酔い痴れるのであれば、この山背が挙兵するも同じことぞ。』
『は.?』
『良いか、三輪。
 父上が摂政をおやりになっておられた30年間というものこの国でいくさらしい戦は不思議と起こらなかったであろう。
 父上は、あの猛々しき蘇我馬子を何らの軍勢もなく抑えておられた。
 蝦夷や入鹿どもよりも遙かに器量溢れる馬子殿をじゃ。
 その力は何だと思う?』
『それは...』
『そなたも父上に愛された秦氏ならば、知らねばならぬ。
 父上の力は、「透きとおった温かき光」に基づく「力」ぞ。推古帝がおおせになっておられたわ。』
『なんと、推古の大王が....』
『上宮王家滅びるなら、それも止むを得まい。
 ただ、俺はな、滅びるにせよ、上宮王家として、誉れ高き豊聰耳厩戸皇子の子としての誇りを汚して死ぬわけにはいかぬ。
 蝦夷や入鹿ごときの力と同じことをしてはならぬのだ。』
『大王...』
『良いか。もし、俺がそのような愚かな振る舞いにでるならば、天寿国におられる父上に顔向けできぬわ。
 また、あの輝かしき繍帳を織られ、父上の心お残しになった橘大郎女の義母上にも顔向け出来ぬ。
 俺が、民百姓を苦しめ、おのれの保身の為に軍事に及びしことを見たら、橘の母上は、太子の心伝えられなかったとして天寿国にてお苦しみになるではないか。』
『は...』
『俺は父上の子。俺が父上の心知らずに誰が知るぞ!
 あとは我ら一族がおのれの始末をなす。そなたら舎人はこのまま去れ!』
『おおきみ.....っ!』






『いかがいたした!?もはや山背は孤立無援の身。山背一人殺すになにをもたもたしておる!入鹿殿!』
『これは、古人大兄皇子様。わざわざこの斑鳩までお運びを。』
『斑鳩の宮を焼き払い、骨まで確認したのではないのか!?』
『それが、実はそうではなく、山背皇子は...。この生駒の山中にお進みになった様子にて...』
『ならば軍勢を差し向け、山狩りを行えば良いではないか。我が即位を邪魔だてするは、厩戸太子の声望を引き継ぐかの山背のみぞ』






−−山背大兄王じゃ!
−−おおっ、山を下りてこられる。
−−この斑鳩、法隆寺に向かってこられる。

『なんと...山背が、観念しおったか...』

『道を開けよっ!!
 我は山背大兄王なるぞ!!
 豊聰耳厩戸太子の皇子として、誇り高きこの斑鳩の法隆寺に戻って参った。

 道を開けよっ!!

 蘇我入鹿っ!
 おお、古人大兄皇子も来ておるか。
 世間虚仮なのを知らぬの愚かなる者よ、
 この首欲しくばくれてやるわ!!
 しばし、そこにて待て!』

 我が愛しき妃よ。春米よ。そして我が子らよ。
 法隆寺の門を閉じよ。
 我らのみ、最後の時を過ごそうぞ。

 かの父上が愛された、この斑鳩の法隆寺の夢殿を見ながら、
 我ら一時に、自縊(わな)きて果てようぞ。
 この虚仮なる世間の法にのっとり、
 自らの首に縄を巻き、この法隆寺にて果てようぞ。

『おおきみ』
『春米..すまぬ。このようなことになってしまったわ』
『申しませぬ。これは、虚仮なる世間のひとつのありよう。
 おおきみは間違ってはおられませぬ。』
『許してくれるか、春米』
『わたしも誇り高き父上の子。
 そして父上が心から愛され、命を共になさった膳大郎女の子。
 橘の義母上様がその精根籠めてお示しになった天寿国の繍帳を見ておりまする。
 もはや見苦しきこと出来ませぬ。』
『春米。ともに参ろう。父上や母上の待つ天寿国に。
 この山背、力及ばずかような仕儀になったが、せめて生きざまだけでも父上に泥を塗るわけにはいかぬ....



 入鹿っ!!
 古人大兄王子っ!!

 虚仮なる世間に酔い痴れるが良いわっ!

 おのれらの栄誉、所詮、虚仮なるを知れ!

 それまで間、俺の首を持ちて、遊べっ!!

 千年の時を隔てて栄え盛るは、

 透きとおった温かき光ぞ!!




◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


                        ◇◇◇山背大兄王の巻◇◇◇



=643年11月 山背大兄王。法隆寺にて軍衆に取り囲まれつつ妃、子女
十数名とともに自害。

=その僅か1年半のち...
645年6月12日。
中大兄皇子により蘇我入鹿、宮中にて斬殺さる。翌13日、蘇我蝦夷自害。
ときに、中大兄皇子20歳。世にいう「大化の改新」である。

その3か月後......
古人大兄皇子の一族は、仏門に入り吉野の山に出家したが、中大兄皇子は
これを許さず、吉野に軍勢を差し向け、一族皆殺しにしたという。



初出:92/10/17 00:52
改筆:97/12/20


★studio ZEROのトップに戻る
★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る