初出: 92/10/17 11:06
突如として歴史モノにハマってしまいました。
相変わらず長くてすみませんね〜。
読むの大変でしょう?無理して読まなくて結構です。
読むのも大変でしょうが、書くのも大変で、◆橘大郎女◆を書くのに5時間くらい掛かりましたし、2作目で慣れてきた◆山背大兄王◆は一発で書けたけど、それでも2〜3時間くらいは掛かりました。
その前提作業として、視点設定やら、時期設定やら、周囲の史実やら、全体の歴史の流れとの整合性やらを考えてる時間が、そうですね2〜30時間くらいかかっていると思います。
本格的な歴史小説ならば、この数十倍時間かかると思います。なんたって時代考証とかが恐ろしく面倒臭いですから。
僕の場合、「無粋な注釈」で上げた3冊しか見てませんし、突如として「リストラ」とか「情報」とかいう単語を割り込ませたりしてますので、随分楽なんですよね。真面目にやろうとしたら、上代のやまとことばで、リストラクチャリングの概念に対応する単語は何だろう?と、ここで1か月位行き詰まってしまうのですね。そこまでは流石にやってらんなくて。
聖徳太子というと、かの名作「日出づる処の天子」という少女漫画が思い出されます。7年くらい前にパラパラと読んだ記憶があるのですが、あれは名作やね。何かの賞を取った筈だけど、凄いっ!と思った。
ただ、今は殆ど忘れてしまったんだけど、もう一回読みたいんだけど、これ終わるまで読むの我慢してます。だって、読んでしまったら、どうしてもそれに引っ張られてしまうでしょ。それって詰まらないし、書いてても苦しいし。
聖徳太子に目をつけたのは、参考文献でも挙げた堺屋太一さんの『日本とは何か』という本に、『どうして日本人は、神道と仏教を違和感なく混在させることができるのか』という点で、この民族的感性の原型を造ったのは聖徳太子であるという下りを読んでからですね。
『こいつはなんて凄いやつだ』とガビ〜ンとなって、それからこの読んだ下りを通常放送ででも言おうかと思ってるうちに、何かもっと色々知りたくなって、他の本とか読んでましたら、聖徳太子の凄味に圧倒されてきました。
聖徳太子の行ったことというのは、殆どその後1300年の、そして今後も続くであろう日本や日本人の原型というか、フォーマットというか、基本パラダイムのベーシックな部分を全部一人で作り上げてしまったと言えるんじゃないか、と。およそ一人の人間がなしうるものではない、と。
そして、「戦略」vs「純粋」という枠組がありますが、一個の人間として見た場合これほどまでに周到な戦略に長けている人はいないし、反面、哲学者やアーティスティックな感性の面でも傑出しているし、全体を通じて彼が何を求めていたのかを考えると、とても深く深くなっていくわけです。こら、ハマりますわ。
聖徳太子は日本史上でも群を抜いた政治家でしたが、その指向するものが国家百年の計というより、国家千年の計くらいのスパンでやられているし、どうかすると国家の計というより人類普遍の真理にまで根ざしていたのではないかと、今の僕には思われるのです。縦横無尽に機略戦略を駆使しつつ、指向するものの流れのゆき先は普遍的なものであったという。戦略と純粋の究極の一致を目指してたのではないかと思うのです。
歴史上、傑出した英雄は沢山おりますが、「で、こいつは結局何がしたかったのか?」という観点で見ると、一族の繁栄とか結局私的なものだったりして、「人はもっと光り輝ける」というある種青臭い高邁な理想を掲げて現実の政治に携わった人というのは、案外と少ない。
そして、高邁な理想を口だけで語る人は掃いて捨てる程おりますが、現実の政治や戦闘の修羅場に立って、手を汚しながら現実の世の中でそれを行おうとした人は少ない。賛否何れかは分かれるでしょうが、有名なところでは織田信長とか坂本竜馬を始めとする幕末/維新の人々で、彼らの軌跡を見てると、単に自分らが現世で栄達することだけを考えていたとすると辻褄が合わないこととか出てきて、もっと他の何かを指向してたんだろうなと思えます。
「俺はこの天下を制覇する」という野望というのは、男と生まれたからには(女でもそうかしらんけど)、一度は望み、それが出来るのなら死んでもいいと思うことなんだろうけど、実はそれ以上に高いレベルのことがあるという気が遠くなるような世界があるということ。
そんななかで、聖徳太子というのは、まだ飛鳥文化も花開かぬ、天皇家と言っても掘っ建て小屋みたいな所に住んで、奈良盆地をうろうろしていた上代で、なんかとんでもないことをやろうとしてたんじゃないかという気がしてならないのです。弱冠20歳の青年が、です。
橘大郎女は「純粋」部分のプロローグとして、山背大兄王は「戦略」部分のプロローグとして書いたつもりです。このあと、おいおいリアルタイムに太子本人を動かしていくつもりなんだけど、あまりに巨大な人なだけに自分の貧しい力量がどこまで追い掛けられるか。心もとありません。
この2作については、出てくる事実は、乏しい資料のなかですが90%くらいはノンフィクションです。史実として出てくる事柄を、並べていって、あとは弁護士が反対尋問やらで使うテクニックですが『こういう事実を前提にすると、人はどう考えるだろう』という推論をカマしていって、登場人物のセリフを考えていくわけですね。
◆橘大郎女◆
聖徳太子が妃・橘大郎女に『世間虚仮〜』を告げたというのは有名な話らしいのですが、太子の死後、橘は推古天皇に繍帳を発願します。そして、その繍帳には、『世間虚仮〜』と記されているという事実。
しかし、当時の上代仏教は氏族仏教で、後世のように整備されておらない原始宗教の哲学性が色濃かった時期の筈で、単純に太子が宗教的逃避をしてたりしたとは考えにくいのですね。あれほど凄まじい現実改革を断行していった聖徳太子の言葉が、『世間はヴァーチャルだ』という。このアンバランスが、何ともいえぬ凄味を感じさせるわけです。最初から世捨人になってこの言葉を吐くなら分かるんですけど。
橘大郎女のテーマは、これはもうひたむきな程の切ない愛情でして、あれだけの思想的巨人である太子が胸に描いた世界を、そうそう周囲の人間が簡単に理解できるわけはないし、ましてやそれを図案にするという(文章の方が表現としては楽です。伝えればいいんだから)ある種無謀な試みをしようとして、そして現実にやり遂げてしまったという事実をどうみたらいいのだろう、と。
橘が実際にこの困難な作業をやり遂げたのか、あるいは企画だけポンと出して後は大陸の技師に任せて自分は何もしなかったのか、手持の資料ではよく分からんので、ここは書き手の解釈なのですが、やっぱり前者だったのではないか、と。
だって、聖徳太子って、俺思うに、絶対モテたと思うのです。
「優しくて、怖くて、聡明で、そして現実的手腕は当代随一」なんて男がそうそう転がってるわきゃなくて、俺が女だったらまず惚れると思うのですね。だから、橘にしても、太子を亡くした思慕の念なり、その切なさはすごかったんじゃないかなと思うわけで、だからこそ天寿国繍帳を思いついたのだろうし、橘にとって、繍帳こそが亡き最愛の夫との現世での接点であった筈で、企画だけだして後は知らんということもなかろうと。
そして、太子の身近にいるものとして、太子個人の人間としての寂しさを後から一生懸命追い掛けるように反芻してたのではないか、と。太子個人の内面をある程度理解しようとしなければ、天寿国という発想は出てこないかもしれないな、と思うわけです。他にも太子の政治的文化的偉業を讃えて石碑を建てるとか、現実に太子より一日早く亡くなった膳大郎女は、太子の病気治癒を祈願して釈迦三尊像(法隆寺にあります)を造らせたりしてるんですが、何かそんな現世的なものではなく、もっと太子の深い内面に根ざしたものを追い掛けてたのではないかと思われるのですね。
だからこそ、『世間虚仮〜』というある種ニヒリスティックなフレーズを書き込んでいるのだろうし、そこには太子亡きあと、懸命に太子を理解しようと努めて、努めて、何かに到達したんじゃないかと思われるのです。太子の望んだ世界を、太子の望んだように後世に伝えようという確固たる意思があったんじゃないかと。そう理解してもいいんじゃないかと。
そのときの橘の心情を想起すると、と胸を衝かれるような心地がします。
「天寿国繍帳」というと、歴史の教科書や資料集で必ず登場してくる定番のお馴染みさんで、忘れてしまってるかもしれませんが、誰でも一度は、写真をみたことある筈です。「飛鳥文化」とかいうタイトルの下で、退屈で眠そうな目でご覧になったことある筈です。
僕も退屈そうに見てたクチですが、今回、32歳になって、人を愛したり政治的な交渉やら体験させられてきてから、この天寿国繍帳なり当時の状況を知ると、その余りの生々しさに圧倒されてしまうのです。
愛に形があるならば、世界にも珍しい確固たる愛の形がこの繍帳ではないかと思ってしまうわけです。女の人が男を愛する気持ちというのはどういうか分かりませんが、この橘大郎女の姿は、女が男を愛する一つのパターンを示しているのではないかと思います。その強さ、激しさゆえに、1300年後まで語り伝えられ、今なお僕らの胸を打つのではないかと。大袈裟ではなく、これは一つの奇跡ではないか、と思うわけです。
そんな想いが、◆橘大郎女◆のモチーフだったりします。
あぁ、橘やってるだけでこんなに書いてしまった。
山背は、また機会があれば。
では、また。