★思春期の長い旅★
初出: 92/07/14 01:55
さて、今回は、思いっっっきり馬鹿馬鹿しい話をします。
こんなところまで読んでる奴は少ないだろう踏んで、書いてしまうわけです。
男性諸兄に伺いたいのだが、『キミは女性性器の正しい認識を何才の時に把握したか?』ということなんです。あ、そこ、ひっくり返らないように。
思いおこせば小学校の時、『男にはチンポコが付いているけど、女はどうなっているのだ?』という深遠なテーマを某学友が提出したことがあった。我々一同、困惑して深い思索にふけった。
純真だった俺は、女というものは、単に『チンポコが付いていない人』だと思っていたのだった。学友に向かって、その旨、自分の見解を素直に開陳するとジャイアンツの野球帽を被って袖口が鼻水でテカテカに光ってる学友は、せせら笑うようにこう言ったのだった。
『馬鹿だなー、田村っ!じゃ、女はどうやってオシッコすんだよ〜?』
俺は、それを聞いて愕然とした。『え?女って、肛門でオシッコもするんじゃないのか?』という反論が喉までせり上がってきたのだが、押し殺した。それを言うともっと馬鹿にされそうだったからだ。
結局、その時の学友は、『オシッコとウンチの穴は別々に存在している』という真理には到達していたが、それ以上の明確な認識は有していなかった。ただしかし、単に排泄器官が2つあるというだけではなく、もっと奥の深い謎があるのだと力説していた。それが何なのかは分からないのだが、『それだけじゃないんだ』と言っていた。
また、友達の家に遊びにいき、そこのお父さんが持っているプレイボーイなり週刊ポストなりのヌード写真を、本能に導かれるように皆で眺めていたその時、ある学友は、こういった。『な?こうやって、皆、股の部分を隠してるだろ?隠してない写真は高いんだ
ぞ!』言われてみて、『なるほど』と思った。高いかどうかは知らないが、確かに、思い起こせば、どの写真も局部は隠されていたのであった。『どうしてだろう?』と俺は思った。その時点の俺の認識は、『オシッコの穴は独自に付いているが、やっぱりチンポコのない人』であったから、別にそんなとこ隠さなくてもいいじゃないか?何もないんだからと不思議に思った。
ただ、不思議に思いつつも、その部分を『見てみたい!』と子供心に痛切に思ったのであった。この明状しがたいウチなるパッションを他の学友にそっと告げると、『俺もだ!』と、我が意を得たりとばかりに彼は深く頷いた。
しかし、誰も知らなかった。
赤ちゃんは、まさかコウノトリが運んでくるとは思わなかったが、お腹から生まれるというので、『腹部を手術のように切開して出産するのだという説』、『赤ちゃんは肛門から生まれるのだという説』が、不毛な争いを展開していたのであった。
月日は流れた。
小学校卒業を控え中学校に入るかどうかという頃、思春期のトバ口に差し掛かっていた頃。
またしても、教室の隅で学友が、必要以上に声をひそめて、『女には第3の穴がある』という自説を展開していた。『え?!』。それを聞いた一同は、落雷に打たれたように硬直した。しかし、一方、『あれは穴ではなく、溝なのだ』という説も唱えられていた。『え?溝?え?』。俺たちは混乱した。
『ちょっと!男子!ちゃんと掃除しなさいよ!』
という学級委員の女の子の声に、教室の隅にいた俺たちは振り返った。
勝気で背の高いその女の子を、俺たちは見た。俺達の頭の中には、ある一つの考えが共通してかけ巡っていたのだと思う。
『悪いけど、ちょっと見せてくれないか?』
しかし、俺達はそれを言い出す勇気もなく、『うるせーな、黙ってろよ。掃除なんかやってられっかよ』と、半ば事務的に言い返すだけだった。
さらに議論は混迷の度を深めた。
なるほど、第三の穴だか溝だかはあるのだろう。しかし、それは何の為にあるのか?そして、その3つはどうやって付いているのか?あのスペースに3つも付いているのか?女の子自身、何が何だか分からないんじゃないのか?
肛門とチンポコだけという極めてシンプルな構造しか知らない男子にとって、女子はまさに複雑怪奇以外のなにものでもなかった。
3つの穴の配列を巡って、活発な議論の応酬があった。
横に3つ並んで付いているのだという説、当時流行していたボーリングの球の指穴のように三角形に配置されているのだという説...どの説も説得力が無かった。
思春期にして、俺は貴重な人生の教訓を学んだと思ってる。それは、
『決定的な情報不足の中では、幾ら何を議論しても意味がない』
という教訓であった。
さらに、月日は流れた。
学友達と、あるいは一人で、町の図書館のオレンジ色の夕日の射し込む古い書庫で、『十代の性』など『性』と名の付く本を読みあさった。俺達は情報に飢えていた。そして、書物でみる女性性器の図解は、『小陰唇』やら『陰核』やら『恥骨結合』やら難しい言葉で示されており、あまりの複雑さに、殆ど理解の範囲を越えていた。本当にこんなになってるというのが想像できなかったし、これは解剖図じゃないのかとも思った。しかし、この難しい熟語を一度みたら二度と忘れなかったのも事実であり、ここでも俺は大切な教訓を得た。
『真剣に興味のある情報は、一発で記憶でき、一生忘れない』
ということである。
結局、そこから数年間、理解はしばらくストップすることとなった。これ以上は、もう、実物を拝見する以外方法が無かったからだ。『真実を知りたい!』俺は渇望した。『これを知らずに死ぬことだけは、絶対に出来ない』とも思った。女性性器のなんたるかも知らないまま、しかし相変わらず局部を隠したヌード写真を見てオナニーだけはシッカリ出来たというのが、今から考えると不思議と言えば不思議ではある。
ここでも、貴重な教訓がある。
『本能は、必ずしも情報を必要とせずに成立する』
さらに月日は流れた。
童貞を捨てる日がやってきた。
しかし、『それは、そうなのだが、出来たからいいのだが、しかし...』と忸怩たるモノが残った。
SEXはしたけれど、暗いわ夢中だわで、念願の真理究明は果たされていないのからである。貧乏だった俺は、風俗関係に通う資力もなく、『いい?これが女の人の身体よ』と優しく教えてくれるお姉さんという人脈もなく、恋人同士のSEXだった。愛には満たされたが、知的欲求には満たされなかったのだ。
無修正外国ポルノも見たが、挿入状態で撮影されており、単体としてどうなっているのかは、さらに謎であった。『大リーグボール2号の残り20%の謎』という段階の花形や左門のように、俺は悶々としていた。
大学3回生の頃、ビニ本/裏本の時代がやってきた。
下宿の先輩が入手した。その話が出たとき、盛り上がってたマージャン等瞬時にどうでもよくなり、一同、『見せて!』とハモった。
見た。
『え?』だった。
それは小陰唇まで押し広げた写真ばかりであり、異様に不自然に感じた。『え?そうなんか?』であった。『わかったよーな、分からんよーな』である。何となく釈然としないのである。結局、しばらくの間、SEXとは愛であり性欲であると同時に『好奇心』であ
る時代は続いた。
『あぁ、そういうもんなのか』『別に珍しくもないね』と思えるようになったのは何才の時からだろうか?
長い長い旅をしてきた。
今のガキはこんなことないんだろーなー。
97年12月の追記:
『インターネットのアダルトサイトに青少年がアクセスするのは教育上好ましくない』という意見がある。僕はこの意見に対して懐疑的であったが、今回、昔書いたこの駄文を読み返して見解が変わった。そうだ、やはり教育上好ましくないのだ!
しかし、その理由は、世間で言われているものとはちょっと違う。青少年がちょっとアクセスしただけで幾らでも無修正ポルノが見れてしまうというのが宜しくないのは、単純に「てめーらも、もっと苦労せーや」「ズルイじゃんかよ」というエモーショナルな理由からである。
いや「教育上」の理由もある。このテーマ以上に、「なんとかして真理に到達したい」という純粋な知識欲を刺激するものはないだろう。七転八倒しながらも、「自分の頭で考え抜いていく」その経験こそが、教育上はかり知れないほどに貴重なのだ。よく「宇宙の果てはどうなっているのだろう」と考えるが、こと「真実への渇望感」の強さという面では、リビドーとタッグを組んだこのテーマの敵ではない。