源氏物語シリーズ

病床にて



初出:92年10月9日



    235/236 GEG00343 福島麻紀子 ◇病床にて◇ 紫の上のひとりごと
    (13) 92/10/09 00:17


      ◆◇ 病床にて ◇◆  〜 紫の上のひとりごと


        殿。
        わたくしは、一人で死んでゆきます。
        殿を残して死にゆくのは、とてもかなしゅうございます。
        されど、わたくしは、一人で死にゆきます。

        殿に愛され、慈しまれたわたくしの人生は、
        本当にしあわせでございました。

        まだ、吾子だったわたくしを山の僧院から連れだし、
        大切に育てていただいたこと。
        殿をおにいさまをお呼び申し上げていたあの頃のこと、
        今、脳裏をかすめます。
        野に咲く花を摘んで遊んだ、無邪気だったあの頃。
        殿はいつも、おやさしい眼差しで、
        わたくしを包んでいてくださいました。

        殿とお呼びするようになったのは、いつの日のことからでしょう。
        ああ、そうだわ。
        あれは、亥の子餅の朝のこと。
        わたくしはおにいさまとお慕い申し上げていた殿が、
        急に獣のようになられたのを、かなしく思い、
        お恨みもしたものでした。

        あの日から、わたくしの喜びは、
        深く、重みのあるものとなり、
        一重の喜びにとどまらず、
        哀しみの裏返しの喜びに変わったのでございます。

        殿はおやさしいお方。
        わたくしは、殿のご寵愛を戴けて、しあわせでございました。
        ただ、その分、そのしあわせの分だけ、
        せつなさ、かなしさを感じ、
        それを誰にも言えず、
        一人、心の底にしまって、生きてまいりました。

        わたくし、気づいておりましたのよ。
        殿、ご存知かしら?
        殿がわたくしを見る時の目。
        それはわたくし自身を見ている目ではなかった。
        わたくしはいつも、殿の届かぬせつない愛を
        わたくしを通り抜けてゆく殿の視線に
        感じておりました。

        されど、よろしゅうございます。
        わたくしは、殿と過ごせたこの30年という日々に
        感謝いたしたく存じます。
        殿なしでは、わたくしの人生はございませんでしたもの。
        あの日、桜の精のような殿にお会いできましたこと、
        本当に神様に感謝しております。

        殿と幼い日々を過ごした、この二条院の中庭を眺めながら、
        こうして死にゆけること、どんなにかしあわせなことでしょう。
        今、枕元に殿がいてくださること、どんなにかしあわせなことでしょう。

        ゆえに、わたくしは一人で死にゆきます。
        比翼の鳥のように、共に生きてまいりました。
        あなたを後に残して、先にまいります。
        殿?
        このくらいのわがままは、お許しくださるでしょう?
        わたくし、もう疲れましたの。
        もうこれ以上、殿を思うあまりの
        醜い煩悩や嫉妬や哀愁と戦うことから、解放されたいのです。

        殿より先に、あの世に行きたい。
        一人で行きとうございます。
        しあわせだった時だけを想い、
        喜びだけを噛みしめて、
        あなたに「さよなら」を申し上げたいのです。

        殿、お恨みくださるな。
        殿のお恨みなど、わたくしの醜い数々の想いには、及びもせぬ。
        どうか、そのおやさしい眼差しのままで、
        あの二条院で花を摘んで遊んだあの頃の殿のままで、
        わたくしをお送りくだされ。

        わたくしを愛してくださった殿。
        わたくしが愛した殿。

        さようなら。
        さようなら。

        わたくしは、ひとりで、まいります。






        ◇◆ 病床にて ◆◇  〜藤壺の宮のひとりごと


          病と闘う日々にも疲れました。
          罪深い心と闘う日々にも疲れました。
          そろそろあの世に参りとう存じます。
          あの、おそろしい罪を背負って、罪を償うため、
          わたくしは、ひとり、地獄へ参りとうございます。

          桐壺の帝の女御として、十四で入内したわたくしは、
          帝のご寵愛を一身に受け、かわいい春宮をも授かりました。
          されど、わたくしのお腹を痛めて生まれてきたわが子は、
          光のように美しく、『光る君』と呼び誤りそうなほど、美しく、
          わたくしには、わが子の美しさが、おろそしゅうございました。

          源氏の君。
          あなたはわたくしの息子。
          あなたが亡き母を想うあまりに、
          わたくしに憧れておいでだったのは、よく存知あげておりました。
          それが、あんなことになろうとは。

          あなたのわたくしへの思慕が、恋だと知った時、
          わたくしは心が凍りつくほどに恐ろしかったのと同時に、
          なぜか喜びを覚えてしまったのでございました。
          ああ、なんと、おそれおおいこと。
          なんと、罪深いこと。
          されど、わたくしもあなたを愛していた。
          母としてでもなく、
          姉としてでもなく、
          ただ、ただ、一人の女人として。

          あなたに抱かれた、たった一夜の出来事。
          今、この世から去らんとする今ですら、
          悪夢のように脳裏を掠めます。
          この罪は、2人胸に秘めて、地獄まで持っていかねばならぬ。
          この罪は、誰も知るよしもないけれど、わたくしは知っている。
          院を裏切りました。
          あんなにおやさしかった院を。

          こんなに深い罪を抱きながらも、
          わたくしは尚も、醜い心と闘わねばなりませんでした。
          ああ、時折感じる、この胸の高鳴り。
          わたくしは、嫉妬いたしておりました。
          何の罪悪感もなく、あなたの側に居られる女人たち、全てに。
          なんと醜いこと。
          なんとあわれなこと。

          そんな刹那さを打ち消すため、
          院への罪償いのため、
          わたくしは仏の道に入りました。
          現世とは別れを告げました。

          今は仏に仕える身。
          今さら命など惜しくはございませぬ。
          仏の身元へ参ります。
          現世での罪を償ってまいります。

          ああ、でも、わたくしが本当に愛したのは、
          朝霧の中に光る、一枝の白梅。
          どんな苦しい地獄が待っていようとも、
          あの、ただ一時の道ならぬ恋を、
          打ち消しはせぬ。
          あの、朝霧の中のやわらかな白梅の香りを、
          忘れはせぬ。

          わたくしは、わたくしは、
          あなたと過ごした、たった一夜を胸に刻んで、
          胸の奥深くにしまい込んで、
          このまま死にゆきます。

          さようなら、あなた。

          ああ、院がお迎えにいらしてくださったわ。

          ごめんなさい、院には申し訳ないことばかり。
          わたくしは犯してはならぬ罪を、
          院に許されるはずのない罪を、
          この世で犯してしまいました。

          それでも、院は全てをご存知の上で、ご寵愛くださいました。
          そして、今、こうしてお迎えに来てくださるのですね。
          手をさしのべてくださるのですね。
          院。
          あなたの深い愛に、応えられなかったわたくしを、
          許してくださるのですね。

          あなたと共に参ります。
          ここから、はやく、お連れください。
          さあ、はやく....。






      ◇◆ 病床にて ◆◇  〜 六条御息所のひとりごと


        わたくしは皇族の血を引く高貴な女人として生まれ、育ちました。
        先の春宮の妃として、殿のご寵愛を受け、
        たしなみ深い日々を送っておりました。
        しかし、先の春宮が夭逝してからというもの、わたくしの運命は、
        激流に呑み込まれていったのでございます。

        ひとえに、たった一人のひとを愛してしまったこと故。
        こんなにも人を愛することが、辛く、切ないものだと
        初めて思い知らされたのでございます。

        あのお方は、まだ少年でございました。
        まだ早春の頃、あのお方は、人目を避けて暮らしていたわたくしの
        わびしい六条のやかたにお出でになりました。
        青い月夜に、若く、美しいお姿が、まぶしく映えておりました。

        あのお方は、美しく、強いその腕で、
        亡き春宮の未亡人であるわたくしを、
        いくつも歳上である、わたくしを、
        強引に嵐のように、抱きしめ、
        そして、わたくしを虜にしてしまわれました。

        世の中に、こんなもの想いがあろうとは、
        あの時まで、知ることもなかったのに。

        あの日から、わたくしは、
        醜い魔性と化し、何人もの女人たちを、
        この手で、あの世に送りつけてまいりました。

        わたくしだに、このような醜い真似はしとうございませぬ。
        わが身の醜さは、重々承知しておることよ。
        されど、どうにも出来ませぬ。
        どうにも、わが心の荒波を、抑えることなど出来はせぬ。

        なんども、なんども、苦しみ、もがき、
        魔性から離脱すべく仏にも勤めました。

        されど、わたくしの、あの方を思う想いは、
        いかなる勤行よりも、強く激しく、
        もうわたくし自身ですら、どうにも堪えようもなくなってしまいました。

        ああ、苦しい。
        もうすぐあの世から、お迎えがやってくるでしょう。
        ようやく、この狂おしいまでの想いから、離れられます。
        最期くらい、高貴な姿のまま、死にゆきたい。

        醜かったわたくしの半生。
        恋の狂気と化し、多くの女人を殺してきた、
        わたくしの生霊。

        やっと楽になれます。
        やっと、醜い生霊とも、お別れ。
        あなたともお別れ。

        もう二度とあなたの大切なものを、奪うことはございませぬ。
        ご安心くだされ。

        もっと違う愛し方が出来たなら...。
        もっと違う愛が育てられたやもしれませぬ。
        されど、それは、もはや意味のない戯言。

        今度、生まれかわってくる時には、
        素直に愛を伝えられる女人でありたい。
        そして、また、あなたを愛したい。
        今度は、違う愛し方で。





        ◇◆ 病床にて ◆◇ 〜夕顔のひとりごと


          なにもいりませんぬ。
          なにも望みはいたしませぬ。
          わたくしはひとり、御仏のもとへ参ります。

          いやしい家に生まれ、特別な教養もないわたくしに
          わずかなときでも
          いくらかでも
          愛を傾けてくださったこと。
          それだけで、わたくしは十分しあわせでございます。

          そなたはお忙しいお方。
          今をときめく高貴なお方。
          そんなそなたが、わたくしのようないやしい者に
          やさしさをお分けくださったこと。
          それだけで、わたくしは十分なのでございます。

          ただ、今、こうして死にゆくわが身を振り返ると、
          わたくしは自分に嘘をついてはいなかったか。
          本当に心のままに生きてきたのであろうか。
          さよう、わたくしは、我が心を騙しながら生きてまいりました。
          ひとえに、怖ろしさゆえ。

          ああ、そなたと出会うより前、
          わたくしは激しい恋に落ちました。
          あのお方はおやさしかった。
          心からわたくしを愛してくださった。
          されど...。

          愛する者を奪われる辛さ、悔しさ、寂しさ。
          もうこれ以上かなしいことは、わたくしには耐えられぬ。
          よろこびが増える程、かなしみも増えてゆく。
          されば、よろこびなどいらぬ。
          これ以上のかなしみには、もう、耐えられぬのでございます。

          いたしかたのないこと。
          ああ、あのお方のお子は、わが子は、
          今頃、わたくしの知らぬところで
          すくすくと育っておいででしょう。
          母として何もしてやれなかったけれど、
          わが子へのいとおしさだけは、
          ひとときも忘れることはございませんでした。

          ああ、わが子に何もしてやれず、
          わが子を手放したまま、
          残して行かねばならぬことのみが、くるしゅうございます。
          されど、いたしかたのないこと。

          ゆえに、わたくしはどなたにも、なにも、
          のぞみなどせぬと誓っておりました。
          しあわせなど、のぞんでも、むなしいだけ。

          ああ、そのようなさみしげな眼差し、
          どうかなさらないでくださいまし。
          よいのでございます。
          これが、わたくしが選んだ道。
          これが、わたくしが選んだしあわせ。
          今、そなたの腕の中で、
          こうして息をひきとれること、
          それだけで十分なのでございます。

          そなたが愛した女人の愛の呪いにて
          息を引き取れること。
          そなたの愛、深く、激しく感じております。
          もう、これでじゅんぶん。
          もう、なにもいりませぬ。

          ああ、楽になってまいりました。
          あのお方と過ごした、常夏の国。
          すぐそこに見えてまいりました。
          わたくし、かのちにまいります。

          ありがとう、あなた。
          愛を、ありがとう.......




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