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Essay 999:ダンバー数とe市民〜カジュアルな建国

〜エストニアや加賀市で試みられている「そこに住んでいなくても準市民扱いにする」e市民制度や、人間集団の適正サイズを示すダンバー数
 土地と国家の分離を契機に、利権装置に成り果てた現代国家に代わるものとしてのカジュアルな建国の可能性  


2021年07月17日

 写真はシドニー空港近くのクリスピークリームの店舗。デリバリーで取りに行ったときのものですが、広い空港の滑走路を見る度に、早くまた飛行機に乗りたいと思います。


エッセイの今後

 このエッセイもラス1まできました。次回1000回で最終回にします。

 一方オンラインサロン、だいぶ温まってきました。7月1日に募集を開始して、半月(15日)経過時点で、130発言、参照回数1630ですので、まずまずの賑わいかと。けっこう各発言が濃いので読み応え十分、というか読むのが大変なくらいです。

 僕自身、すでにエッセイ数本分くらいは書いてますし、あそこで書いたのをコピペすれば今週のエッセイ出来!ってもんでもないんだけど、でもテーマの統一性とか起承転結のつながりとかに気を使わずに、そのトピックだけ1−2パラグラフ書けばいいので、すごく書きやすいのは確かです。

 実際、テーマ性とか、全体のまとまりというのは、書いててすごい制約になります。まあ、このハードルがあるからこそ一定の品質レベルがキープされるのだとは思うけど、いくら膨らませても一本にまとめるのは辛いし、読んでても面白くなさそうだということでボツにしてるネタは沢山あるのですよ。それが気安く書けるのは、単純にうれしいです。

 でも、あっちに書いてしまうので、このエッセイを書く時間がなくなってきてます。それもあってちょうどキリ番千回でやめるタイミングに合わせたんですけど、このあとどうするのか、自分でもよくわかってません。エッセイ2にして同じようにして続けていくのか、形を変えるのか、すっぱり辞めるのか。

 普通の広報はFBでやればいいし、皆のまとまった近況トピックなどのはブログでやればいいけど、「ちょっと思いついたこと」はもっぱらサロン掲示板になるのかな。書きやすいですからね。クローズドだから一歩踏み込んだところまで書けますし、誰かとの対話(レス)形式というのも良いです。。

 ただし、ある程度まとまった尺が要るような話、ちょい論文くらいのボリュームが必要な話(簡潔に書いたら意味がないような話)になると、掲示板向きではないので(そんな長いのあの形式で書いたら読み疲れるし)はエッセイみたいな場が欲しくなるかもしれないです。ネタや着想とかは、思いついた時点で掲示板に書くとしても、それらをまとめて一貫したテーマ性のある話をしたくなることはあろうかと。

 しかし、それは定期的に出てくるものではないし、敢えてひねり出すようなものでもないから、毎週にはならないでしょう。時間的に無理っぽいし。まあ、動かしながらおいおいと考えていきます。一昨年のエッセイは月イチくらいのペースに落としましたし、そういうのもアリ。ま、必要に応じて変化させていくといういつものパターンですね。

 

ダンバー数

 ところで、ダンバー数というのがあるらしく、イギリスの人類学者であるロビン・ダンバー氏が唱えたもの。1990年代に提案されたというから、別に新しいわけではないけど、なかなかおもしろい。

 もともとは人間の脳の大きさの進化と人間関係の数との関係を考察したもので、人間の脳のキャパ(記憶力など)からして、人間集団の大きさはだいたい150人くらいだといいます。この150人という数字がマジックナンバーみたいになって、ダンバー数といわれているらしい。もっとも150というのは確定した数字ではなく、2-250の平均値であり、だいたい100-200人くらいというレンジらしいです。

 この150人という人間関係の濃さですけど、ダンバーさんは、1500人(名前を言える人)、500人(知り合い)、150人(定期的に連絡して会う安定した関係)、50人(仲がいいサークルではない友達)、15人(近しい友人)そして、5人(親友や愛する人たち)という区分をいい、しかしそれも人によりけり、場合によりけりだと。(科学者曰く150人以上の友達作っても大丈夫らしい(ダンバー数突破))


 "知り合いの数は150人"なのはなぜか?「社会脳」と「時間収支」を軸に人類の進化から解き明かす【橘玲の日々刻々】によると、「人類学者の調査によれば、狩猟採集民の社会は、バンド/野営集団(移動生活をともにする集団)、クラン(共同体)、メガバンド(やや大きめの共同体)、トライブ(民族・言語的集団)というように、親密さによって階層化されている。ダンバーはここに、「5を基準にして3倍ずつ増えていく」という法則があることを発見した。
 友人・知人のネットワークを考えてみると、親友と呼べるのは5人、いつもつるむような友だちは15人くらい、たまにいっしょに遊ぶのが50人、相手のことがある程度わかっているのが150人、顔と名前が一致するのが500人、たんなる「知り合い」が1500人で、それ以上になると認知の上限を超える。そしてこの友だちネットワークは、バンド(30〜50人)、クラン(150人)、メガバンド(500人)、トライブ(1500人)という狩猟採集民の社会構造と重なる。なぜなら、脳がそのように「設計」されているから。」

 これについては諸説あるようですが、150人というのは、なんとなくピンとくる数字でもあります。

 先週ちょっと紹介した大昔にやってたパソコン通信のフォーラムでも、名前を認知できるくらいのレギュラーか準レギュラーで150人くらいだったんじゃないかなー。そして、会社作ったとき、5万円ドブに捨てる気で出資した人(そのくらい入れ込んでいる人)が40人前後だったかな?30から50の間です。こういった過去の経験からしても、このダンバー数というのはしっくり来ます。

 また機能面からいっても、レギュラーが50人くらいいて、準レギュラーまで含めて150人というのは、わりとまとまりがよく、且つ動かしやすい規模でもあります。これが1500人くらいになると、ちょっとまとまりという意味では難しい。1500人が均等に発言するのは物理的にも難しいしね。興味があるからなんとなく見てるという参加者なのか見物人なのか曖昧な外野席の人達も含めて1500人くらいでしょうか。大体60-250人くらいで昔の歩兵中隊、30−60人で小隊だというから、機能的にもそんなもん=そのくらいが動かしやすいサイズ=なのでしょうね。

 それが何か?というと、サロンをやるにしても、そのあたりが人数の目処になっていくのかな、ということですし、いつも書いてる話ですけど、国家に代わるものとしての人間集団の基本になるかもしれないです。つまり150人とか1500人くらいで独立国みたいな感じにしちゃってもいいのかもなーと。ただし、今の国家とは全然性質が違ってきますので、単なるサイズの問題だけではないのですが。

e市民 エストニアと加賀市

 電子国家といえばエストニアが有名で、ここと加賀市が次世代電子行政の実現に向けて連携合意をしたことがニュースになってました(次世代電子行政の実現に向けて連携合意 )。ブロックチェーンを利用したデーター処理などについての話です。

 これ自体はそれほど僕の興味を惹かなかったのですが、e―加賀市民制度 「関係人口」時代の切り札にという記事は「ほう」と思いました。

 なにが興味を惹いたのかといえば、「e―加賀市民制度」「住民票を持つ住民でなくても市民になれるという制度」という点です。e市民になると、「電子市民になると、滞在日数に応じて加賀市往来時の宿泊費などを支援してもらえたり、セミオンデマンドタクシーが利用ができたり、コワーキングスペースなどが無償で借りられたりといったサービスが用意されている。移住の手続きや法人設立も支援してもらえる」とかあるらしいんですけど、そういった特典はさておき、住民票と市民を切り離した点です。

 そのお手本というか、先行していたのがエストニアで、「世界中のエストニア電子市民がエストニアで起業したり、働くことなどを積極的に支援している」そうです(同記事)。

「人口減少社会の中では、これまでのように移住してもらう施策だけでは限界がある。多くの自治体は「関係人口」という何かしらの形でつながりを持つ市民を増やすことに目標をシフトしている。
 「ニューノーマル時代にオンラインで仕事が可能になった人が増えたことで、一年に一回旅行に来るような人だけでなく、年に数カ月だけ加賀市住むというような多拠点生活を行う人達も増加することが期待される。そうした人々を取り込むことが新しい地域活性の方向であり、電子市民のサービスはそうした人々を増やす施策となっている(同記事)。」

 なかなか新しい方向性のヒントになる試みのような気がします。これをもう少し発展させてみたいですね。しかし、その前に、これまでの「なんで土地に縛られているの?」を通観してみたいと思います。

現代で土地主義をとる意味

 国家にせよ、地方自治体にせよ、土地絶対主義です。
 そこに住んでる(生まれた)人、あるいはその血統とかで誰が住民(市民)、国民かを決める。もともと国家の三大条件が国民・国土・政府でこれも土地絶対主義です。しかし、これって「いつの時代の話やねん」というくらい古いのではないか。土地が絶対なのは、生命維持=農業しかないみたいな客観的条件あってこその話だと思うのですよ。生きていく必須条件として田畑があって、それを基軸にして戸籍が作られ、租庸調や年貢が作られ、三世一身法やら班田収授法とかが作られ、坂東の新田開拓と利権保障(一所懸命)から鎌倉幕府や武家政権が出来て、、とか歴史の流れでそれはよく理解できます。

 ほんでも日本の農業人口は令和2年統計(ここ)によると136万人しかおらず、うち95万人が65歳以上。人口の1%ちょいであり、もう絶滅危惧種です。若い人たちをはじめとして、新たに農業に従事する人が増えてますけど、顕著な数字になって現れてくることもない。

 こんな時代に土地を基軸にした集団編成なんかやってて意味あんのか?という気はしますね。封建時代の「封」の字は、土を二つ重ねてますけど、そこに住んでるからこれで一単位というのは、生計=農業、国民=農業従事者=その領地を所有する権力者が所有する家畜のような資産ということでもある。だいたい戸籍制度が、財産目録みたいなものだったといいますから。

 しかしですね、この土地基軸主義を外してしまうと、今の国家システムは瓦解しかねない。だって誰が国民であるかの基準と根拠がなくなっちゃうんだもん。強いて土地と関係ない国籍根拠をいえば、日本国籍の血統主義ですけど、これだって古代の身分制度みたいで時代遅れな感じがしますよね。

 国民である根拠がよくわからない=なぜ「ここからここまで」の集団をワンセットとして考えるのか、その実質的根拠が薄いとなると、国家制度そのものの根拠も曖昧になります。てか、はっきりいえば今の時代に国家を作る実質的根拠なんかほとんど無いというのが僕がいつも書いてる持論ですけど。

暴力収奪システムとしての国家

 大航海時代や産業革命以降、脱農本主義みたいになった時点で、土地という地球の球面座標上の特定範囲を起点とした考え方を変えていっても良さそうなものなんだけど、実際にはそうはならなかった。民間活動(企業など)は易々と国境を超えて多国籍化しているけど国家の方は依然として領土主義だった。

 なぜなのかといえば、ひとつには西欧の黒歴史である収奪主義や征服主義(自分で働くよりも、他人のものを奪う or 他人を奴隷として働かせた方が効率が良い)が出てきてしまったことです。植民「地」だって土地起点ですからね。そうなると必然的に土地の奪い合いになり、武力衝突(暴力的闘争で誰が支配するかを決める)になり、強大な軍事国家が必要になり、できるだけ大きな国である方が良く、なのでどんどん国を大きくしていくべきとなります。

 19-20世紀前半くらいまでは、皆で雁首揃えて大きな集団を形成するメリットはありました。また、産業的に技術的に初歩的なインフラだったから、大きくやったほうがスケールメリットはあった。だからそれまで260くらいの小国に分化していたドイツは、辺境の小国だったプロイセンが力をつけてドイツを統一し一つの国にするし、イタリアがイタリアとして今の形になるのも戦争直前くらいです。日本だって60余州と言われるくらいエリアがあり、江戸時代の藩は270とも500とも言われてますけど、明治期に日本一国になった。結局、今の国家概念は「暴力(軍事)的に有利だから」という実質的理由しかないと思います。それに慣れてるからそんなもんだと思うけど、本来の歴史的な流れでいえば、日本でも数百レベルに分化している方が自然なのでしょう。

 しかし、誰もが言うけど、もう戦争でどうにかなるような時代はとっくに終わってます。第二次大戦くらいだったら、まだ戦争もわかりやすかったけど、最新鋭の兵器になってくると、なにやってんだかわからん。国が軍隊持つよりも傭兵会社に依頼した方が良かったりもするし、ロボット兵器もだいぶ開発が進んだ。頑張って敵前上陸して突撃するよりも、サイバーアタックかけて敵国の核兵器を自爆させた方が早いし、金融システムに入り込んで全てのデーターを消去してしまって経済打撃を与えた方が効率がいい。サイバーアタックに関して言えば、天才的なハッカーをいかに発掘して大金を積んでスカウトするかでしょう。あの世界は秀才が千人いるよりも天才一人いるほうが遥かに意味があるでしょうし。これら最新鋭の兵器を揃えるのは、最先端のテクノロジーであり、それを独自に開発したり購入したりすることが出来る経済力であり、要するに煎じ詰めれば金です。

 そして有効に金を稼ぐためには、喧嘩が強いことよりも、商売が上手ければいいのであって、ならば広大な領地と国民が必要なのではない。そもそも戦争で相手国を占領するメリットなんか無い。今の時代、他国を占領してみても、要求意識の高い国民のご機嫌をとるために出費しなきゃいけないから、先進国はどこも赤字財政だし、領土を得て、奴隷人民を得たところで大した意味はない。今どき綿花なんか作ってもしょうがないし。強いて言えば特定資源の採掘権くらいでしょう。

 ただし、暴力(軍事)でお金を生み出す方法は進化しました。どっと隣村に攻めていって、貯蔵してある食料や金目のものを収奪し、人々は奴隷労働力としてこき使ったり、売っぱらったりというのが初期のスタイルです。強盗+人身売買型ともいうべき植民地型。だんだん悪賢くなってきて、強大な軍事力を背景にその国の政治に圧力をかけ、自分らに都合がいいルールを押し付け、それで経済取引をする。自分らに都合がいいからどんどん儲かると。一番それをやりまくってきたのがアメリカで、音楽やらハリウッドやら自国の文化をメディア支配力を利用して世界的に売る。IT産業が勃興してくると、今度はソフトウェアの保護とかやる。だから80年代以降、著作権というのがものすごく世界的に唱えられた。御用学者や御用マスコミが、これからのビジネスマンは著作権に詳しくないとダメとか言ってた時期があります。なんのことはない、アメリカの利権保護です。これはまだやってて、音楽著作権がフリー化する期間も50年から70年に延長されてます。著作権の原点であるベルヌ条約では死後50年になってたけど、アメリカやEUは90年代に70年にし、アメリカの家畜的存在である日本も70年にしてます。

 ほかにも資源国あたりに圧力をかけて資源の国際価格をコントロールして儲けたり、わざと軍事紛争を起こしてクソ高い兵器を売ったり。昔の単純強盗型から、押し売り型になったり、会員権詐欺商法やら霊感商法など知能犯型になってますよねー。ちなみにコロナの陰謀論もいろいろありますが、こういう歴史的な流れを考えてみると、なんか企んでても不思議ではないですよね。


今の国家の本質

 じゃあ今の国家はなにかといえば、単に過去からの惰性でしかないと思う。なんとなくそういうもんだと皆が思ってるからそうなってるだけ。

 今の国家の本質は独占的な徴税権と通貨高権くらいじゃないかな。あと認証独占権かな(パスポートや戸籍を発行して本人認証をする権利)。しかし通貨においては国家の手から離れられる仮想通貨が既に利用されている。今は一生懸命一般市場と同じレベルにリンク付けし、単なる投機対象に貶めて扱って、その印象を広めているけど、本質的には世界に一つデジタル通貨があればそれで良いことにもなる。そうなると国家は経済政策はできないし、そもそも税収が入ってこないから崩壊します(だれにどこでどれだけの所得があるのかわからなくなる)。本人確認作業なんか、別に国家にやってもらわなくてもいくらでも出来る。役所発行のペライチの紙切れよりも、DNA鑑定書でも指紋でも顔認証でもいくらでもできる。

 あと国家独占でいえば国境管理権があります。国境警備隊的な役割で、不法入国を水際で防いだり、ビザを発行したりする「土地管理権」です。これが崩壊すると移民難民がどっとはいってきてメチャクチャになるからです。もっともこれは先進国サイドのものの見方であり、そもそもなんで移民難民が押し寄せるのか?といえば、もとを質せば植民地時代からの搾取圧政が途上国の国内秩序をメチャクチャにしたからでしょう。もし途上国も先進国も変わらないくらい世界の富が共有されているなら、難民が押し寄せるという事態は少なくなるはず。歴史的な「正義」を回復するなら、どっと押し寄せてミックスして、エントロピーの増大とイクイビリアム(均衡化)する方が「正義」であるとも言える。

 結局、今盛んに活用されている国家機能は、国家という器を使った巨大な錬金術(利権装置)くらいじゃないですかね。ここからここまでの人々を「国民」として規定し、国民には納税義務があると定め、税金という名のミカジメ料を徴収する。膨大に集めた税金を、まともに使えば(福祉、医療、教育、治安その他)にそれはそれで問題ないけど、そうでもない。使うべきところにケチりまくり、どうでもいいことに大金を投じ、その過程で不正な蓄財をする。その不正な蓄財が慣行化し、利権化し、政治=利権の争奪戦になる。世界史をみても国力が落ちてきて、斜陽になればなるほど、あるいはうまいこと離陸上昇できないほど、この種の不正は激しくはびこる。貧困と不正は兄弟みたいなものです。国全体を豊かに膨らませて皆でシェアすることが困難になってきたら、あとは蔵に眠ってる膨大なお宝をいかにちょろまかして私財を蓄えるかというのがメインテーマになる。

 話戻して「国家と土地」ですけど、いかにミカジメ料を徴収するかにあたっては、いかに対象者(家畜のような人々)を選定するかであり、それには国民や住民という土地を基準にした選定方法が一番自然で、誰もがわかりやすい。それだけではなく、その土地に生まれたら一生そのシステム下におかれるという宿命的な制約にもなり、人々を諦めさせる心理環境にもなる。こんなクソみたいな国に生まれたのはもう宿命なんだからどうしようもないんだよと。国家サービスの優秀さによって自由に選択できるのであれば、ダメ国家は人気がなくなり、誰もいなくなるから、収奪できなくなる。家畜に移動の自由を与えたら、餌が多くて、収奪屠殺されない牧場にいってしまうから、家畜扱いの悪い牧場は淘汰される。

 しかし、そうなってもらったら美味しい国家利権は崩壊する。ゆえに、それは国家利権で美味しい思いをしている人達にとっては国家と土地は切っても切れない関係にあるというドグマは絶対に守りたいわけでしょう。国と人と土地が分解遊離しはじめたら、そういった根本原理が揺らいでいく。これはもう彼らにとってみれば死活問題でしょう。

コロナと国家

 ときに昨年からの無駄に続いているコロナ祭りですけど、上に述べた国家の存在理由と活用(悪用)実例という文脈で考えてみると、なかなか興味深いですね。

 誰もがいうのが国家による国民の統制を強めるという側面です。
 今の豊かな社会、多様化する価値観、共生志向、自由な往来(海外旅行の世界的傾向)などからいって、個々人はどんどん自由化してますから、古臭い国家システムが賞味期限が切れてることに気付く人も増えるだろうし、だんだん国民の統制がとれなくなっていく。ゆえにガッチリ統制をしたいと。そこから派生してデストピア的な国民管理増強ベクトルもあります。これはコロナ以前のマイナンバーなどもそうですけど(古くは国民総背番号制)、利権国家観からすれば国民はアセット(資産)であり家畜ですから、ほんと生まれた時点で体内にチップでも埋め込んで24時間監視したいでしょうしね。

 次に思うのが、土地主義への回帰で、これが国境閉鎖につながります。感染防止の大義名分で人の行き来を制限する。土地に縛り付けよう、もともとの国家の姿に戻そうと。数年やってたら、なかにはすぐに順応洗脳されて、海外にいって活動するという選択肢があったことを忘れてしまう人達も出てくるから、人材物材の世界的流動化を防げると。

 あとはよくいわれている、なにがなんでもワクチンを射たせて儲けるワクチン利権です。国家権力とコラボしてお金を儲けましょうという、昔からある方向性。

 だけど、これ、結局全部失敗してると僕は思いますね。
 もともとが自由化の流れがあるわけで、その流れを止められることへの反発も強いからです。一つ統制すると二つ反発があるという感じで。だって自由に対する制約は最も動物的な怒りを掻き立てます。一回的な税金の徴収も反発を食らうだろうけど一回的です。時が過ぎたら忘れる。でも延々続く行動制限というのは、日々怒りが新たになるから、反発も強い。

 第二に国境閉鎖が長引いて海外志向や旅行志向が一時冬眠してたとしても、再び再開されて、周囲の人間が楽しみ始めたら、また火がつくでしょう。万引き犯、放火犯、薬物事犯など、なんぼ反省しても再犯率が高いことからわかるように、人間というのは、一回覚えてしまった快楽を忘れることは出来ないです。あの快感をもう一度とか思い出してしまう。

 第三に、これが深刻だと思うけど、国家統制の色を強めて、俺の言うことを聞け〜とやったはいいけど、それまでさんざん利権国家風味に仕立てあがってるから、行政事務という本業がヘタクソになっている。ロックダウンしては経済を痛め、失業者を生み、人生の夢を叶えたともいえる多くの小売店を崩壊させられた人々の恨みはすごいでしょう。そのわりにはパッとしない。下火になって解除、やったーとなってもまた再開、解除、再開、解除、いいかげんにしろ、何も進んでないやんってことにもなる。ワクチンも絶対ではないから、要するに解決できない。偉そうに強権を振りかざしたところで、お前、何も出来てないやんって感情になります。

 結果として、常時ムカついているような人々の視線は厳しくなり、それまで隠されていた種々の不正やら無能やらが明るみに出てくる。パソナや電通などの中抜き利権も白日のもとに晒されるわ、マスメディアやビッグテックの偏向性もわかりやすい形で出てくるわ。今度のオリンピックは、いかに利権構造が骨髄まで染み込んでいるのかを皆が知るところにもなるし、また、最近では、IOCとか上位の国際機関が美味しいところを握っており、開催国(都市)などは植民地時代の現地民レベルの決定権しか持っていないことが明らかにもなった。

 国家の存在意義を改めて印象づけて信頼回復ストーリーとして活用しようというなら、大外れだと思います。これはたとえば、家庭内で地位が低下しているお父さんと同じで、嫁さんにも娘にも馬鹿にされているお父さんが、台風が来たとか、地震だとかで俄然燃えて、「俺の言うとおりにしろ!」とリーダーシップを発揮して信頼回復〜と思って頑張ったのはいいけど、延々時間をかけても物事は全然好転しないわ、日々家族の不満は鬱積していくわで、「ここまで無能だとは思わなかったわ」と言われてしまうという。停電が直らないのは別にお父さんのせいではないのに、なまじ強権的に振る舞ったために、全部お父さんが馬鹿だからこうなったかのように思われてしまう。もうやらないほうがよっぽど良かったと。

 ちなみに楽しい陰謀論風に考えてみると、これってもしかしてハメられたのは国家の方じゃないのか?と。何処の誰かは知らないけど、古臭い国家システムや利権構造、存在理由のなくなったメディアなどなどを一掃しようと思った人達がいて、そのためには、まずそれらの醜悪な構造をわかりやすく天下に晒す必要があり、コロナを仕掛けたという陰謀です。

 ま、でも、そんな人達が予め示し合わせたことはないと思います。そんなの無理だし。しかしですね、権力や利権の周囲で、下人のようにこき使われながら甘い汁を吸わせてもらってない人々が大量にいるとは思います。政治家の秘書とかさ、ワクチンやオリンピックの現場実務担当者とか、いろいろ。あるいはナンバー2くらいにまでのし上がってるから、あとはトップの寝首をかくだけって人。そのあたりの人々が、別に示し合わせたわけではないけど、それぞれの部署でちょっと意図的になんかやることは出来ます。そんなことやっても失敗するのが現場サイドではよくわかるようなことでも、止めもせずに「断固、やるべきですよ」とかさりげに乗せて、イケイケに煽って、大転覆みたいな感じ。

 だって、毎日のように内部リークの話が載るんですよ。こんなの絶対腹心レベルがリークしないと出てこないだろうという情報が、ふんだんに出てきてるわけですよね。特に日本の場合は、人間的に醜悪な部分がリークされている。こんな発言をしてパワハラをしていたとかさ。これってリアルに知ってる人でないとわからない情報だし、不正の事実そのものよりも、「人としてどうよ」って視点で出てきてることから、「怨恨説」というか、モチベーションはそこらへんにあるのではないかと。

 ちなみに巷の陰謀論である、製薬会社が陰謀をしかけた説は、まあ便乗商法的に儲けただろうけど、製薬会社ごときににそこまで(最初から絵を描く)の世界的権力はないでしょ。もしあるとするなら、一番デカい、バイエル・モンサントが鳴りを潜めてる事実がよくわからんのですね。まあ、グリホサートなどで世界的に評判悪しい、敗訴もしてるから、お前が出てくると勘ぐられるからおとなしくしてろって業界内部の取り決めがあったのかもしれないけど。

 さらにちなみにIOCの欧州貴族がどうのという話も、多分バッハ君などは前線の二等兵の弾除けというか、大した権力ないと思います。もっと上がいるはずです。てかね、オリンピックがいかにデカいといっても、全世界の権力や富を考えたら微々たるものでしょ。しょせんは「運動会の幹事」ですからね。なんとなく推測するに、ヨーロッパには(もと)貴族とかたくさんいるし、名誉職とか適当に投げ与えて飼ってるような感じじゃないんですかね。官僚の天下りの比較的パッとしないクラスみたいな。欧州貴族でバリバリに力があるのは、EUのブリュッセルの奥の院で頑張ってるんじゃないですかね。ま、よく分からんけど。日本で言えば、JOC、あるいはスポーツ体育でメシを食っていく総本山、家元みたいな存在になるのかな、日体協(今は日ス(ポーツ)協)とかだけど、公認スポーツ指導者資格の登録事務かなんかで権力はあるでしょう。だけど、日本全体の政治、経済(金融、自動車、家電、発電、運輸、、、)の全産業のヒエラルキーで言えば、スポーツ界が日本を牛耳る大権力って感じはしませんからね。だから欧州でもそうで、いくら貴族といってもオリンピックとかやってるのはその程度のレベルなんじゃないんですかね。だけど、その程度の木っ端役人にも顎でこきつかわれているのは悲しいけど。

人間集団〜土地からの分離〜カジュアルな建国

 さて、そういう背景を考えると、加賀市の試み、土地と住民の分離というのは、もしかしたらすごい画期的なのではないかと思ってしまったわけです。そこに住んでなくても、準市民扱いを受けられるわけでしょ?まあ、今の所限定されたサービスでしかないのかもしれないけど、それでも居住制限を外してしまうことの可能性はかなり大きいですよ。だって、優秀な行政サービスを施すことで、領土に住民がいなくてもなんらかの歳入はありうるからです。まあ税金(市民税)という形ではとりにくいから、入会金とか年会費とかいう形にするだろうし、それを払った分だけ今住んでるところの市民税が安くなるという関係を築けたら良いのでしょうけど、そこまではまだ何ステップもあるでしょう(もっとも「ふるさと納税」という先例システムがあるから全く不可能ではないだろうが)。だけど、必死こいて住民を集めなくても、税収らしきものが得られるというのは自治体にとっては大きいと思う。

 これって別に自治体に限ったことではないんじゃないの?と発想は続きます。
 なにもそこに住んでる奴だけで国(集団)を作る必要なんかないじゃないかと。世界中に点在している有志が集まって「建国」することだって、別に可能じゃないか。建国とかいっても、初期において具体的に出来る範囲は限られているとは思いますが、出来る範囲でやっていくことはできる。

 そして話はどんどん冒頭に集約されていくんですけど、そういった私的集団のカジュアルな建国みたいなものをする場合、適正規模はどのくらいかといえば、やっぱダンバー数みたいな数、50-150-1500くらいのものが手頃かなーという気がしますね。

 そして最も冒頭のオンラインサロンに収束していくわけですが、そういったカジュアルな集団で建国とはいうのは大袈裟ですけど、どのくらい何ができそうなのか実際にやってみて見てみたいという好奇心が強いです。

 これらカジュアル集団は、現在の国家や自治体とは似ても似つかない形になるでしょう。そんな拘束性もないし、義務と権利と対価がそこまで明確でもないし。また、クラブ活動のように「かけもち」があるのが当然でもあるでしょう。かなり既成概念をぶっ壊して頭を柔らかくしないとついてこれないと思います。ただし、「ついてこれない」くらいどんどん先に進まないと「開けていかない」という気もするのですね。

 一人の人間が複数の集団に属するのは別段珍しくもないです。あなたが東京のどっかのマンションに住んでいるとしたら、あなたは日本国の構成員(国民)でもあるし、都道府県クラスの地方自治体(その1)の構成員(都民)でもあるし、市区町村クラスの地方自治体(その2)の構成員(○○区民とか)でもあります。同時に、住んでいるマンションの自治会のメンバーでもあります。一方、家族親族という集団の構成員でもありますし、職場においては「○社の社員」でもある。それと同時に出身学校を卒業した時点で自動的に同窓会や卒業生OB集団の親睦会の会員にさせられていたりもするでしょう。趣味の世界では、どっかの社会人サークルに入ってるかもしれないし、なにかのファンクラブに年会費払って入ってるかもしれない。そして、私的な飲み友達がいたり、なんだかんだあります。消費者として、あるいはネットで何かを申し込むと自動的に会員にさせられているとかいうのを含めたら、それだけで数十くらいあるかもしれない。

 一般に社会的ステイタスがあがると所属グループは等比級数的にあがります。この数は忘年会の数とけっこう比例するのですが、大阪弁護士会長レベルだと、いくつだっけな300くらいあるとかないとか。弁護士1-2年目の吹けば飛ぶようなペーペーの(そして義理のつきあいがキライだった)僕ごときでも、忘年会が17くらいありました(年末進行で超多忙な折、地獄だった)。積極的に人脈増やしてる同期のやつは忘年会予算だけで150万円用意したとか。

 だから住んでる場所に限らず、なんらかの「縁」があったら人間集団は出来るのであり、それらが何十何百と重層的に折り重なっているのは、別に普通の社会人だったら普通にあることでもあります。全然珍しい話ではないです。

 でもね、お義理とかつきあいとかを差っ引くとその集団の数は激減します。また、なんでも好き勝手に言い合えるカジュアルな関係になると、さらに減ります。そして、意識的に互助的な方向性、自分の人生や試みを、虚栄も衒いもなくどんと置いて、それで話し合える集団はさらに減ります。

 逆に国籍やら納税やらでけっこうガチガチに拘束されているはずの国家やら住民やらについては、逆にそんなに所属感もないです。なんかもう天災のように税金が降って湧いて、あるいは勝手に天引きされてるだけで、積極的な権利(補助金をもらえるとか)は、ねじり鉢巻で必死に調べないとなかなかゲットできない仕組みになっている。最大の権利である選挙権は、二人に一人が使わずにポイ捨てですもんね。

 さてさて、今の我々は、ダンバー数の示すような古代狩猟時代の生活集団としての集団を構成しているのか、使いこなしているのかとなるとお寒いものだと言えます。こんな状況じゃあ、そりゃあ孤立感も抱くわな、鬱にもなるわなって気もしますね。

 何を言いたいかといえば、
 複数の人間集団に重複参加していることそれ自体は、今現在でも激しくやってることであり、全然珍しい話ではなく、よって問題なく可能であること。
 しかし、自分の人生や生活とリンクさせて、それなりの収穫のある集団となると、意外と少ないこと。

 ならば、自覚的にやってみるのもいい経験になるだろうなーということです。

 もっとも、矛盾するようですけど、そういった「効用」はあんまり「自覚的」にやるもんでもないです。互助といってもどんな人がいるのか分からなんかったら意味ないし、メンツがわかったところで気に食わない奴ばっかだったら意味もない。それに、効用といっても、直ちにお金が入ってくるとかいうのはずっと先の話で、WEBを開くと見てしまう、そのくらい面白いコンテンツであること、楽しみがあることが第一の効用。面白くなかったら意味ないですもんね。そして、「やあ、○さん、こんちわ」と言ってくれる人がいる、なんとなく居場所があるというのが第二の効用です。これだけでけっこう日々救われるでしょう。

 そんな感じで淡々とやってると、これが不思議なもんで、なんか出来てくるのですよねー。「ねー」とか言ってもわからないかもしれないけど(笑)。

 あのですね、いわゆる「親睦を深める」とかいっても、別に特別なことをする必要はないです。「いやあ、しかし、ナンですねえ、最近〜」とか座談の名手になる必要もなければ、「さ、さようでございますとも」とか太鼓持ちになる必要もないです。てかなってはいけない。ごく普通の、どうでもいい世間話で十分です。普通に話してて、「あ、俺、ピーマン駄目なんですよ」「え、アレルギーとか?」「いや、味がどうも」などの話ですら、「いい年してピーマンが苦手な○○君」ということで巧まざる愛嬌が出てくるもんです。人間って不思議よね。

 心理学的に、より長く、より多く、その人のことを知ると、好意が高まるという法則があるそうです。新人タレントでも、最初は変なやつだな、こいつキライとか思ってても、だんだん見慣れてくると気にならなくなって、逆に好ましくも感じるようになると言われます。広告などもこの原理ですよね。別にあざとい話ではなく、それが普通。学校時代の友達なんかもそうでしょ。初対面の印象は最悪に近く、なんだこいつ生意気なやつだなーとか思ってても、意外な一面とかいろいろ見聞きするうちに、いいヤツじゃんみたいになっていくという。

 そして何らかの好感を抱いてる人が、なにかで困ってたら、出来る範囲でなんかしてあげたくなるのが人情であり、あえて互助とか言うまでもなく、自然な情理に従ってたら自然とそうなるでしょう。また自然とそうならなかったらあんまり意味がないとも言えます。

 だもんで少しづつ温めていって、誰でもなんか語れる場をあちこちに作っていこうかと。それでしばらく回してみる。今は会議室(スレッド)6つだけど、昔やってたフォーラムでも20会議室くらいあったし、そのくらいあっても邪魔にならないかったら、そんな感じですかね。






文責:田村


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