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Essay 997:不真面目だから大丈夫〜「なんとなくの直感」とバランス

〜オーストラリアのワクチン周回遅れ戦略
 はじまったばかりのオンラインサロン


2021年07月04日

 写真はつい数日前にWalkingで撮った公園。いつもと同じくらい人が出てる。

 

あんまり危機感のないロックダウン

 ここ一週間ほど、シドニーではひっさしぶりロックダウンしました。シドニーだけではなく、QLD、WA、NTでもやってて、こんだけ全面展開してるのは初めてじゃないかなー。

 とは言いつつ、UberEats的には書き入れ時なんで稼ぎやすいこともあり、毎日あっちゃこっちゃ走り回って見聞した感じでは、ほんとにロックダウンやってんの?という感じでもありました。

 先週の前半、月曜から木曜までは毎日雨模様ということもあり、人出も車も少なかったんだけど、それでも水曜くらいになってきたら朝のラッシュは平常の8割くらいに復旧し、久しぶりに晴れた金曜のお昼時にChatswoodあたりを走るといつもと変わらん感じ。

 もともと「ステイホーム」とかいいながら、個々人に対する制約は少ないのですよね。例外が多い。「エッセンシャル」(必要不可欠な)と限定が入りつつも、買い物のための出かけるのはアリ、テレワークできない仕事のための通勤(通学も)アリ、さらにオーストラリアらしいと言うべきなのは「エクササイズ」(運動)のために出歩くのはアリ。その他、テストを受けに行くとか、治療行為を受けるためとか、コンパッショネイトな理由がある場合(心情的にやむを得ない場合)など細かな例外はありますが、買い物と仕事と運動がよかったら、他にどんな理由で出歩くの?ですよね。

 木曜か金曜あたりに、あまりにも皆ぞろぞろ出歩いているので、「もっと真面目にやれ〜」と知事のお怒りのコメントが出てましたねー(笑)。

 これってオーストラリアだけじゃなくて、日本もそうでしょ。振り返ってみれば、感染が悲惨だった初期のイタリアとかでも、結構皆さん気にせずにぞろぞろ出歩いてて。

人類が何となく大丈夫な感じなわけ

 なんかそこが笑える感じで、ああ、まあ、人類は大丈夫そうね、という。

 政治とかさ、ネットの発言とかは、ポリコレ帝国というか、ポリティカリー・コレクトの支配する場だから「もっともらしい言説」が幅をきかせるじゃないですか。学級会での優等生的発言みたいな。そういう臭気が漂ってる。でもリアルの現場では皆そうは思ってないし、やってない。自習中のクラスルームやら修学旅行の就寝後の部屋できゃーきゃー騒いでる子供と同じ。ここで「自習」は「自分で勉強をやる」、修学旅行は「いろいろな地方に出かけていって見聞を広め、もっと学を修める」とかいう理念がタテマエであり、全てはそれを基軸に論理が展開するのがポリコレ帝国のポリコレ語。

 そこで僕が「大丈夫だあ」と志村けんみたいに思うのは、皆が自習時間に真面目にノートを広げたり、修学旅行で真面目に勉強してたりしてないからです。ここで皆そろってそんなことやりだしたら、けっこうヤバい感じがするんだけど、いい感じにテキトーで、やんちゃだからいいかな、と。

 皆が優等生的になったらヤバいと思いますよ。優等生ってだいだい病んでますからね。仮面だと割り切ってるうちはいいんだけど、仮面がとれなくなって素顔と同化してきたらおかしくなる。社会もまたしかり、です。

 そういえば陰謀論の中の一つに人口削減計画とがあるんだけど、人口削減したかったら、一番簡単なのは、皆を豊かに幸せにすることでしょ。先進国になればなるほど少子化が進むし、新興国でも発展が進むほどに出生率は下がってる。それが一番効率的でしょう。戦争とか、病気とか、天変地異とかでは、長期的にはそんなに減らない。

 だってさ、第二次世界大戦の死者は世界で2000万とも3000万人とも言われている大惨事なんだけど、人類の人口上昇カーブを見てると、一瞬ちょっとバグってるくらい、どうかしたら全くなんの影響を与えていないくらいの感じですもんね。中国だって人口爆発で一人っ子政策とかやってたけど、その前の毛沢東の大躍進計画で、3000万人くらい餓死したりしてるんじゃなかったかしら(諸説あるが、多いのでは4500万人)。当時の中国の人口が数億かそこらで、そのうち3000万人も死んだらえらいことなんだけど、それでもその後に人口爆発だ、一人っ子だとか言ってるくらいなんだから、ちょっとやそっと死んだくらいでは大局的にどうということはない。そのくらい人類というのは繁殖力が強い。

 今78億くらいいるらしいけど、本気で減らしたいなら数十億くらいのオーダーで殺さないとダメじゃないのか?日本も戦後直後1945年には7000万人ちょっとだったのが、わずか10年後(55年)には9000万人になってるらしい。戦後の「産めよ増やせよ」がいかにすごかったかってこともあるけど、当時の日本の経済生活水準って、今からみたらお話にもならないくらい悲惨でしょ。水洗便所なんかはるか未来の話だし、水道すら完備されておらず「井戸端会議」という言葉がリアリティを持ってた(60年生まれの僕でも、おふくろと一緒に井戸まで水汲みにいった断片記憶があるぞ)。新生児死亡率は今とは比較にならないくらい高く、子供なんかすぐ死ぬものだった。だから「七五三」はけっこう切実なイベントだったんでしょう(よくまあ生き延びて育ってくれたという)。60年代以降に「巨人大鵬卵焼き」と言う言葉があって、卵を食えたら幸せだったんだもんね。そんな客観状況でも増えるときは増える。てか、悲惨なときのほうがよく増える。豊かになると、子育てが面倒くさくなるのかしらんけど、なぜか出生率は減る。おもしろいよね。

 だもんで、人口を減らしたり、人数適正化をしたかったら、今よりも皆が豊かで幸せになれる社会を目指すのが一番手っ取り早い。殺すなどの方法で減らすのは容易ではない、てか不可能じゃないのか。実際、世界人口は増えているけど、増え方そのものはブレーキがかかっている。というよりも、増加率そのものをとってみれば、1967年がピークで以後減少しているそうです。これは、2050年には97億人に…それでも世界人口が減少トレンドなワケという記事に紹介されている山口周氏の論説ですが、「より正確に記述すれば、世界の人口増加率がピークを迎えたのは1967年のことです。そこから半世紀にわたり、人口増加率は低下の一途をたどっています。1960年代にピークを迎え、以来半世紀をかけて明確な低下トレンドにあるという点で、先進国のGDP成長率のグラフ(図表2)と瓜二つだということがおわかりいただけると思います。」だと。

 ということは、これからGDPが上がるぞとなると人は爆発的に増え、あんま上がらんぞとなると減る。GDPとかいうと分かりにくいけど、「これから忙しくなるぞ、人手が必要だぞ」((or 「満ち足りているぞ」「そんな頑張らんでもええんちゃう?」)って感じでしょうかね。多分、そういう言語化して思ってるわけでもないのでしょう。生物の本能みたいなもんじゃないのかな。他の動物や昆虫でも群れが増えすぎてヤバくなると生殖率が下がる、足りなくてヤバくなると一部の個体が自然に性転換して生殖環境を整えるとかいうから、人類だって似たようなもんじゃないのか。精子の数は一貫して減ってるらしいし。もうそんなに増やさなくていいよという「天(自然)の声」を皆で受信しているかのような。

「なんとなくの直感」と理屈の対立とバランス

 こういう感覚って、生物の本能というのか、心理学的に集合的無意識というのか、文化的なミームの変遷というのか、わからんけど。多分ね、学術的に正確に把握しきれていない気がする。非常に観測しにくいので、いわゆる再現性とか法則性のドグマに縛られている今のサイエンス(科学)という方法論からしたら苦手な分野なんでしょう。

 ただひとりひとりの個体の感覚でいえば、「なんとなくの直感」が一番当たってるという気がします。思うに、なんとなくの直感というのは重要な特徴があって、理屈に騙されない、権威に騙されない、その他いかなる人為的なものにも騙されにくい。直感だから言葉やら理屈は無力。「たしかに理屈はそうなんだけど、なんかしっくりこない」という感じ。

 だってさ、自習時間に遊んでたり、修学旅行できゃっきゃ夜ふかししてたりしたことって、「間違ってた」わけですか?長〜い目、人生全体を貫く視点でみたら、シコシコ自習してたって大した意味があったとは思えないし、修学旅行でもなんでも好きなように遊んでたほうが思春期の情操は豊かになるじゃないの?

 ポリコレとか建前とか、別に全否定する気はないし、それはそれで存在意義はあると思いますよ。だけど、世の中は車の両輪みたいに対立的な価値観なり、まったく違う世界からの力学が働いて、それでバランス取ってるんだと思います。

 身近な言葉でいえば、親は怒るのが仕事であり、子供はいたずらやって怒られるのが仕事という、異なる価値観と世界が対立して、バランスを取ってる。これがどちらが完全制覇してしまったら、あとあと非常にまずいことになりがち。例えばあまりにも親の権威やしつけが厳しすぎたら、子供の自主性やら、自律的価値観がなくなり、変な人格になりかねない。逆に子供が完全制覇で家庭内暴力やら極度の甘やかしをした王様状態になったら、やっぱこれもまずいでしょ。

 思うに、大量に人が死ぬような悲惨な事態というのは、あまりにもポリコレや正義が強すぎた場合でしょう。ソ連のスターリンも2000万人くらい殺したらしいし、さきの中国の大躍進計画でも毛沢東の神格化と絶対正義を確立してしまって、誰も逆らえない、誰も文句を言えない状態になったから。戦時中のファシズムもそうだし、カルト教団の集団自殺なんかもそうかもしれないけど、一つの正義で染まってしまうのが一番ヤバいって気がしますね。

 だからテキトーに不真面目にさぼったり、面従腹背してたり、愚痴言ったり、文句言ったり、逆らったり、適度に対立して、軽く小競り合い程度にドンパチやってるのが「健康」なんだと思います。

 なぜか?といえば、論証はできないのだけど、おそらくは理性と感性の対立と統合って話になるのだろうけど、理性も感性も、それだけでは天下は取れないからだと思います。おそらくは、なんとなくの直感が一番正しいんだろうけど、でもそれは第一命題にはなりえない。なぜなら直感は言語化も出来ないし、他人に伝えられないし、常に感知できるものでもない。「直感」といっても自分の中のどの感覚がそうなのか常にピタッとわかるものでもない。つまり曖昧すぎるので実際には使えない。ゆえに第一命題にはなりえないし、法律とか国家の政策にもなりえない。だって理由が「なんとなく」しか言えないんだもん。

 第一命題(政策とか、説教とか)には言語化や理論化しやすいものが絶対的に有利なんですよねー。でね、理論とか使ってると、あれって酒みたいなものであんまり浸ってると酔っちゃう。それで全てがうまくいくかのように愚かにも錯覚してしまう。大体はそれで良かったとしても、本質的に外してたり、本当に現場で必要な細かなニュアンスが欠けているから、結局、プラスよりもマイナスが大きくなりやすい。暴走しちゃう。

 さて、何の話かといえば、シドニーがロックダウンされているといいながら、皆さん、ぞろぞろ出歩いていること、気にしているようで、あんまり気にしてないこと。一面でいえば、真面目でないし、けしからんのかもしれないけど、他面で言えばだからバランスが取れているんだろうなーってことです。

 実際デルタ株恐いぞ、すれ違っただけで感染するぞか言われながら、毎日多くて30人かそこらです。人口530万人の都市で、多ときは1日6万回もテストやって、それでもそんな数字。すれ違って感染したからと言って、全てがそうなるわけでもない。また本当に常にそうなるなら、もう数千、数万のオーダーになるはずなのになってないのは、それほどでもないってことでしょ。

 ただし、ロックダウンの影響はビジネス面に厳しい。出歩くくらいだったら出来るけど、あらたまってのイベント、結婚式(葬式)やらは厳しく制限されるし、レストランはテイクアウェイ専門化せざるをえないし、ヘアサロンその他は休業に追い込まれる。また、いつまた中止させられるかしらないので、結婚式でもパーティやイベントも、怖くて計画できなくなるから、関連事業は破滅的な影響を受けます。カフェのテイクアウェイくらいだったら、まだ皆さん利用してるので多少の緩和ができるけど、ヘアサロンとかそのあたりになるとテイクアウェイができないから全面閉店ですもんね。これは笑い事ではないです。

オーストラリアの今後

 先週、オーストラリアの国の首脳(首相はじめ連邦政府と各州知事)がどうすべーと鳩首談義をしました。

 さすがにこんな1人や二人感染が出ただけで大騒ぎしてたら永遠に落ち目になるぞ、欧米ではもうこのサマー・ホリデー観光祭りになりそうで、どんどん周回遅れで差をつけられて、このままだと永遠にジリ貧になるぞと、前からわかってたことなんだけど、改めて議題にでてきます。そうやって真剣に考えてくれるだけでも、知らんぷりしてた以前よりは進歩ではあるのですけど。

絵に描いた餅の4ステージプラン

 んでもって、また、もっともらしく4ステージ・プランとかぶち上げてます。しかし、これね、いろいろ書いてあるんだけど、あんまり内容がないです。

 要は、感染数がどうなったとかいうことを基準にするのではなく、ワクチン接種率がどの程度になったかを基準にして、徐々に自由を増やしていく。国境開放も、ワクチンを接種した人だったらホテル検疫ではなく、自宅隔離で良いことにしようとか、それも要らないことにしようかとか、そういう話です。

 進歩といえるのは「感染ゼロ」にこだわらなくなったということですね。そこが一番厳しいドグマだったし、一番の問題だったので、それは確かに大きな前進です。

 いろんな新聞で報道されてますから出典は省略しますが、概要は、
フェーズ1(第一段階=イマココ):
 とりあえず目下の感染を抑えるために、商用航空便を半分に減らすが、その代わり、オーストラリア人の帰国のための便を増やす。
 とりあえず感染を抑えるのに頑張るが、ロックダウンは最後の手段にする。
 ワクチン済の旅行者には自宅隔離を試験的にやってみる
 この実験的試みを学生やその他商用ビジターにも広げる
 国内的にワクチン済データーのデジタル化(国境における旅行者も含む)

フェーズ2:ロックダウンは極端な場合にだけ限定する。
 ワクチン接種者は、いくつかの例外特典を受けられるようにする
 入国者数の一時的減少をもとに戻す
 接種者に対するブースターショットも考える

フェーズ3:ロックダウンはもうやらない。
 ワクチン接種者には全ての規制を免除する
 シンガポールほかの国々とトラベルバブルを構築する
 ワクチン接種したオーストラリア人は自由に海外旅行できるようにする

フェーズ4:ワクチン接種した旅行者については人数制限も検疫もなにもしないでフリーパス。
 ワクチン接種しない人については、渡豪前後の検査を義務付けるだけで、人数制限はしない。
 

 という感じです。
 なかなか理屈的には整然としているようなのですけど、理屈が整然としているときはだいたいダメなときで、いやな予感があるわけですよね。さっそく批判されてますけど。


 一番大事なのは、「今年の10月までに」とかタイムフレームがないことです。努力目標であってすら、そういう刻限が記されてない。これじゃ意味ないんですよねー。特にビジネス企業にとっては、どこでどれだけ設備投資をするかしないか(雇用を増やすか、リストラするか)、それは手持ちの資金や状況に合わせて考えるわけですけど、刻限が示されていれば、多少それがずれたとしても、まだ頑張ろうかなって見通しがたつ。ビジネスプランが建てられる。あるいは刻限に代わるものとして、「○という条件が達成されたら(ワクチン接種率50%を超えたら、とか)」という基準(スレスホールド)が示されているなら、経過を見てればおおよその見当はつくけど、それも明確になってない。

 刻限がまったく示されていないのであれば、言っちゃ悪いけど、「こうなったらいいなー」という夢のような話を聞かされてるのと同じことです。入社したらまず係長になって、課長になって、部長になって、役員になってとか聞かされてるのと同じこと。そりゃ刻限を示すのは難しいとは思うけど、政府には手持ちのデーターも豊富なんだろうから、もうちょい突っ込んだ話をしてくれいって批判がひとつ。

 第二に、これが一番大きな問題なのですけど、いわゆるワクチン依存戦略で、ワクチンがコケたらもうどうしようもないという点です。まあ、理屈とポリコレでやってるなら、そうするしかないとは言え、厳しいですよ、これは。

 オーストラリアは世界、特にアメリカの先端あたりに比べたら周回、ないし二周回くらい遅れてます。ひとつは、未だにアストラゼネカの血栓問題「だけ」が懸念材料として上がってるだけで、ファイザーその他の問題点(若い人に対する心筋炎など)についてはまだ出てきてない。しかし、この問題点は、いわゆる陰謀論横丁の話ではなく、れっきとしたアメリカのCDCの発表であり、メジャーメディアのロイターが世界報道してることで(若い男性の心筋炎が予想外に多発、ファイザーやモデルナ製ワクチン)、検討課題にはなってます。

 んでもオーストラリアの場合、アストラゼネカの血栓問題という、けっこう以前に出てきた問題にひっかかってて(ガン無視しないでいちいち真面目に議論してるのは良いのだが)、そこから先に進んでない。もう世界はどんどん新たな副反応症例の検討などやってるし、国によってはそれに対応してるんだけど、なんか時が止まってるかのように遅い。まあ、時を早めてしまったら破綻するから、そうせざるを得ないのかもしれないけど。

 だから、いずれ欧米でも議論が大きくなってきたら(なりつつあるのだが)、無視できなくなる。そうなると、上のフェーズなんちゃらも根本的に変えざるを得なくなる。

 第三に、ワクチンが効かない変異体についてどうするか。今はデルタ株とかいってるけど、「市場」にはデルタプラスがあり、さらに南米にはラムダがあり、もう新製品が毎月のように出ている。こんな調子でいけば、今年中にあと数種類新商品が発売されるかもしれず、なかにはワクチン完全無意味ってやつも出るかもしれない。実際ワクチン優等生のイスラエルも感染蔓延してるし、ワクチン依存戦略そのものが破綻する可能性は高い。ワクチンそのものの副作用も症例が増えるに従って精密に吟味にされるべきでもある。

 具体的に言えばワクチン以外の対処法をもっと幅広く真剣に模索すべきでしょう。感染そのものよりも、要は必要な医療が必要な人に迅速にいきわたるにはどうしたら良いかであり、ワクチン以外の普通の治療薬の模索と見当、医療設備や検疫設備のより柔軟で迅速なやりかた、いくらでもあるとは思いますけど、そこが手薄すぎる。

 第四に、より実質的な問題だけど、なんでオーストラリアは先進国中最下位レベル(日本もそうだが、日本のさらに半分程度のドン臭度)、ワクチンの普及(ロールアウト)が遅いのか?こんなダメダメ事務やってたら、いつのことやら?という問題です。

オーストラリアのワクチン普及ダメダメ度

 ここで、なんでこんなに遅いの?という点を簡潔にまとめた「Our vaccine roll-out has been choked by four big bungles ? and they still haven't been fixed」という記事があります。

 この記事に掲示されている図を引用すると、こんな感じ。


 ワクチン射ちゃいいってもんではないと僕は思うのだけど、政府は「いいってもん」の立場。しかし、その割には、なにこれ?ってレベルの遅さです。もうぶっちぎりの劣等生の赤点小僧です。これが自分の子供の通信簿だったら、そこに座りなさいといって説教の一つもしたくなる体たらくです。

 犯罪捜査にも似た高度に複雑な感染トレースに関しては世界でもかなり上手にやってのけられるのに、それに比べればまた簡単なはずのワクチンがなんでこんなに下手なの?その理由はなによ?と。

 この記事によると、概ね4つのバングル(bungle 失策、ヘマ)があり、「wrong pace, phasing, model, and messaging」だそうです。

 「間違ったペース」ですが、政府は最初から「これは短距離走ではなくマラソンだ」「ワクチンはレースではない」といきなり最初から言い訳モードに入ってて、危機感が感じられない。さすがにこんな言い訳はしなくなったが、それでも追加発注中で納品が9月とか、そもそものペースがとろい。やる気あんのか?レベルでペース設定が遅い。

 「フェイズが間違ってる」という点は、誰を優先して射つか、どこで次の段階にいくかということで、病院関係者や老人ホーム勤務者など優先順位1aといわれているところが完了してないうちに、次に進んだり、場当たり的な対応が目立つ。行政事務が整然と行われていない。

 「モデルが間違ってる」こと。ここでいう「モデル」とは、どういうルートで誰が接種するの?という話で、これも二転三転している。最初はGP(一般開業医)だけが接種するのだというGP専権モデルでやってたんだけど、これが失敗。そりゃ国内何万人もいるGP、しかも日本の22倍の国土の広さ、アウトバックの奥部なんか行くだけで車で一昼夜かかるようなところもあるわけで、それら全てに適切に流通するロジスティクスの構築なんか容易ではないでしょう。そこで、急遽大規模センターとGPの併用策になって、これはようやく機能し始めている。これをそのまま継続すればよさそうなものなんだけど、次にファイザーが大量に入ってくる段階になると、またGPオンリーに逆戻りするような計画になってる。せっかく上手くいってるのに、なぜそんなことをするのか?

 「メッセージが間違ってる」という点は、当初、非常にお気楽なメッセージを政府を出していた点。「これでもう大丈夫だよ!」と順番を飛び越えてワクチンを射ってもらってドヤ顔笑顔の首相の写真で始めたものだから、今更、ミスを認めたり、軌道を修正することができなくなってること(これはどこの国でもそんな感じがする。政治家がドヤ顔したい一心で現実離れしたことを大袈裟にいうから、あとで軌道修正できないという)。

 オーストラリアののメッセージの過ちは、ほかにも軍事ヲタ風味な点。ワクチン接種について軍隊の協力を要請しすぎる点、なにかといえば軍を使う。使いすぎ。これでは言外に一般公務員は役に立ちませんよってイメージを国民に与える(事実そうなのかもしれなけど)。また、やたら国旗を出すし(マスクの意匠がオーストラリア国旗とか)、単にワクチン接種をするだけのことを「オペレーション(作戦)」なんちゃらとか軍事っぽく言うし、そう言うとカッコいいとでも思ってるのか、それで批判をそらせるとでも思っているのか。

 ワクチンを射ちたがらない人に対する適切なメッセージがない(しかし、どういうメッセージをすればいいのかはこの記事では書いてないし、メッセージでどうにかなるもんなのかね?って気がする)。

 第三にアストラゼネカの扱いがブレブレ。血栓問題があるから、「50歳以上」中止といいつつ、今度は「60歳以上」になり、そうかと思うと、いきなり「全年齢でOK」だと言い出す。しかし今となっては、多くの人々はアストラゼネカに関心がなくなってるから、今更何をどう言おうがほとんど影響はない。実際、ワクチン接種スケジュールをみると、10月以降アストラゼネカは事実上自然消滅(要求があれば出す)になっている。

 最近の同時多発ブレイク状況で国境の将来を語る余裕はないのかもしれないけど、「Head-in-the-sand denialism (砂に頭をつっこんで何も聞こえないかのような全否定)」でやっていてもしょうがない。NSW州知事(今の所この人が一番生産的な気がする)が、国境をあけるための目安や基準( threshold )として成人80%以上の接種率など具体的な数字を出して議論してるように、「今はそれどころではない」とか抽象的な言葉でお茶を濁すのはやめるべきだと。

 記事は以上ですけど、なかなかよくまとまってます。
 だけど、この記事もそうだけど、ワクチン全面依存ですよね。てか、ジャーナリストなんだから、欧米でどういう議論がされてるかくらい知ってるんじゃないかと思うのだけど、なんなんだろね、これは。

 なんか総じて見てると、日本との比較でいえば、日本人の方がまだ懐疑的な気がする。ワクチンの安全性にせよ、状況の批判的検証にせよ。オーストラリアは、よくいえば素朴純朴で、ワクチンだーといえば、皆で打とうとするんだけど、でも高齢者にはヤバいからダメとか一言いっただけで、一斉にドン引きする。素直というかなんというか。しかし、反面ぞろぞろ歩いているわけで、実像が見えにくいんだけど、僕の直感で言えば、それぞれが「なんとなくの直感」で動いている気はしますね。ワクチンだって、案外「気休めだろ」くらいに思ってる部分もあるだろうし、ヤバいとしても無視しうるリスクかどうかを自分の感覚で消化してる感じがしますね。これは世界中どこでもそうだとは思うけど。

 だから日本の方が懐疑的批判的に見えるのは、そうならざるを得ないくらい公的機関の説明や実働がツッコミどころ満載であること、また日本人の方がSNSその他を使いこなしてるというか、オーストラリアのように野外でリア充やってる度合いが低くて部屋にこもってる率が高いからそうなってるだけというか、そんなところじゃないかなーという気はします。

 メディアに対する信頼度の世界調査(ロイター研究所の2021年最新調査)があって、特筆すべきはアメリカ人の信頼度が突出して低い。もう3割を切っている。メディアの中にはSNSとかも含むから、SNS系は玉石混交が激しいから低くなるのはわかるにせよ、それでもメジャーメディアに対するものも4割を切っているそうです。アメリカがぶっち切りに不信感丸出しなのは、大統領選挙報道をリアルに体験してることもあるのでしょう。日豪はそれほどでもないけど、それでも42-3%で5割を切ってる。アメリカではニュースを鵜呑みをする人の方が絶対少数派、てか珍しい感じになってるの比べれば日豪はマシとはいえ、それでも過半数は信じてないのですよね。そういうメディアが描く「皆の動き」なんか、これも信用しにくいのですよね。ほんとのところはどうなの?というと、それぞれの直感やカンドコロでなんとなく立ち位置を決めてるんじゃないですかね。

 シドニーに長く住んでる人なら覚えているかもしれないけど、その昔、水道に寄生虫だか雑菌だかがおって問題になったことがあります。ワラガンバダムが汚染されて、1立方メートルあたりどのくらいとか。いまのコロナと同じように、些細な数値を大袈裟に、センセーショナルに騒いでたんだけど、ちょうどその頃、ストリートパーティがあって、近所のおっちゃんおばちゃんとBBQやっててその話になったけど、皆さん、全然気にしてなくて。「そんなゼロなんか自然界では無理だよ」「あの程度の数値なんか現実的にはゼロでしょ」「メディアは騒いでメシ食ってるから、いつもああなんだよ」とかそんな感じでした。あのエリアはわりと所得水準も学歴も高そうで、それでも(だからこそ、なのか)そんな感じ。

 感じ方は人それぞれなんだけど、ほんとのところは(差し支えがあるから公的には言えないけど)、適当に、健康に不真面目なんじゃないかなって思います。どこであれ。

エッセイとオンラインサロン

 話はぽんと飛んで、このエッセイも千回間近です。
 あと3回で1000回達成ですけど、1000回で一回切ろうかなと思ってます。前にも書いたけど。

 キリがいいというのもあるけど、サロンの方に時間取られそうな気もするのが一つあります。他の理由としては、「エッセイ2」でもなんでも、仕切りを変えたいというのもあります。ダラダラやってるのもねー。それに千回逃すともう止められなくなりそうで(笑)。

 サロンの方ですが、まだ始めて数日なのでなんとも言えないのだけど、書きやすい気はしますね。感じで言えば、オフで話しているような感覚です。一般掲示板のように不特定多数がみるわけではなく、特定の少数。それもわざわざお金払ってまでくる人「だけ」というのは、わざわざ足を運んで参加する人だけがいるオフの雰囲気に似てるのですよ。それなりに積極的で価値観的にも似通ってる人だけがいるというのが書きやすい感じにつながるのでしょうか。なんかずっとオフやってるような感じです。

 以前、同じく軽く料金を設定してクローズドにした掲示板、「精神と時の部屋」があります。ここでは、胸につかえてる思いを吐き出すのがメインで(王様の耳はロバの耳と言いたいとか)、誰かの発言に対するレスは一切禁止!だから何を書いてもレスはつかない、期待もできない、だけど気を使うこともないという特殊な空間を実験的にやってみたわけです。これがなかなかの雰囲気で、ほんとに精神と時の部屋って感じで、圧倒的にシン!と静まった感じが良かったですね。

 同じような掲示板、同じようなネットでもセッティングをちょっと変えるだけで随分違うもんだなーと学んだものですけど、今回は、もうちょい親密な感じです。

 今の時点で10名ほどですか、お金かかるし最初は1人か二人だろうと思いきや、意外と多く。またいい感じでバラけてるかなー。僕自身会ったことがない、全くのはじめましての人もいるし。

 ともあれ、ちょっと突っ込んだ形での自己紹介とか、どうでもいいような雑談からぼちぼち温めていこうかと。互助とかいっても、お互いを知らないと話にならんですからね。まずは知り合うことからです。オフでさんざん話してるじゃないかっていうけど、実際には人も多いし、そんなにじっくりしっかり話せるものじゃないですよ。一括パックやってる数日間が一番みっちり話せるかな。それに比べたらオフはまだまだ断片でしかない。しかし、ああいう場だとじっくり出来る。もう何年も知ってる人であってすら、ああ、そういう一面が、という新たな発見があって、それが面白いですね。

 それにああいう場で自分の人生のための何らかのプラスにしようと思えば、まずは自分のことを知ってもらうことが大事でしょう。他人のを読んでいてもけっこう面白いんですけど、なにも発言しなきゃ誰にも認知されないわけで。といって、会員リストとか公にする気はないですし、そこは好きにすればいいかと。

 鬱で一時期こんなに苦しんでたとか、迷ってて黒い時代でした〜みたいな話も気楽にできる感じになってて、そういう意味ではいいです。

 てかさ、ここで読んでる人って、どっかしら鬱経験あると思いますよ。なぜなら、ふつーの日本人が「海外」に興味を持つことってそんなにないもん。僕もそうだが、日常生活で海外を思う、いっちゃおうかなとか思うのは、なにかしら煮詰まってるからでしょ?それって鬱っぽいですよね。海外に行くとかいうのは、ある意味では「ポジティブな自殺」みたいなもので、「ここでないどこか」であり、「この世ではないあの世」であり、浄土宗の「厭離穢土欣求浄土(汚いこの世界にさよならして、ハッピーな天国に行こう)」ってことでしょ。

 なんか禅問答みたいだけど、人がポジティブに、それも爆発的に動くときというのは、ゼンマイ仕掛けのゼンマイをキリキリと巻き上げるようなエネルギーの蓄積機が必要で、その蓄積期間というのは、主観的には鬱ですよ。詰まらないからこそ何かをしたくなるわけだもん。だから、鬱の経験とか普通に話せるのは、場がすごいポジティブだからこそって感じにはしたいし、特に何も仕掛けなくても、自然とそうなりつつあって、そこはいいなと思います。



 



文責:田村


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