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Essay 994:パラレルワールドの交差点であなたを救うもの

〜それは「生き方のストック」であり、「何となくの人間的影響」の集積によってもたらされる
〜この世を規定し、人生を救うのは実はミクロである


2021年06月13日
写真は、つい数日前の寒かった日のChatswood。駅のホームから望遠で。


薫陶と影響

 「薫陶(くんとう)」という言葉があります。ご存知かと思うけど、「香をたいて薫りを染み込ませ、土をこねて形を整えながら陶器を作り上げる意から、徳の力で人を感化し、教育すること(goo辞書)」です。立派な人格者の師匠と接していると、その人格的な香りを浴びて、あたかも感染するように自然と良い影響を受けるようになるということで、、、まあ、わかりますよね。

 やや堅い表現なので、日常会話よりもあらたまった場合(祝辞やら弔意やら)or 小説などで使われる言い回しですね。

 例えば、適当な例が即座に思い当たらないので、勝手に自分で作ってみると、、、

「斯界の権威、山田博士の一番弟子であった鈴木教授は、師の薫陶をもっとも濃厚に浴びた一人である。研究対象に接するにあたっては、一切の思い込みや予断を排除し虚心に対峙するという、常に背筋がすっと伸びているかのような姿勢にせよ、どんなに年若い学生の稚拙な質問に対しても、あるいは年端もいかぬ子供の質問に対してすら、情熱を傾けて懇切丁寧に説明し、この世界の不思議な感動を共有することこそが学問の真髄であると言わんばかりの鈴木教授の姿は、まさに故山田博士の往時を彷彿とさせるものであった。」

「思えば私の師は、俗なる金勘定をごく自然と拒否していた人物でした。どんなに儲かる案件も、全く儲からぬ、それどころかやればやるほど大赤字になる案件も、全く差別をせずに取り組んでいました。使いっぱしりの小僧から師によって叩き込まれた不肖の弟子である私も、独立して事務所をもち、手広く業務をこなし、今ではそれなりに世間で知られるようになりました。しかし、そうなるほどに、師の態度がいかに困難を極めるものであったのかを日々痛感させられております。凡俗である私は、虚栄を求めて目抜き通りに事務所を構え、高額な家賃経費を補うために、常に胸算用に追われる毎日です。ともすれば仕事も儲かるかどうかで軽重をつけてしまい、経営効率化の美名のもとにただの守銭奴に成り下がっているだけとも言えます。高名な師匠の薫陶を浴びた弟子の一人と世間では言われているようですが、それは形だけのことで、私には到底その資格はありません。俗塵にまみれた私は、師の人格的高潔さ、その人間的器量の巨大さに思いを馳せるたび、深夜ひそかに赤面するばかりであります。」

 これらは典型的なくらい典型的な例ですが、僕が思うのですが、いわゆる「薫陶」というのは、ここまで人間的な立派でなくても良いと思います。あるいは言い方を変えれば、「薫」というほど突出して素晴らしくなくとも、人というものは身近な他人の影響を受けるものでしょう。良きにつけ悪しきにつけ。

 影響を与えることをinfluence(インフルエンス)と英語でいいます。似てるけどインフルエンザじゃないすよ(笑)。「影響」というものは人が人に与えるだけではなく、自然環境やら地形やら時代やらでも生じます。およそ人間が経験知覚できるものであれば、常になんらかの関係はあるとも言えます。

 ネット世界では、インフルエンサー(影響を与える人)という言葉が出てきて、これが広告やプロパガンダに活用されるとか、それが仕事のネタになってるとかいう現象があるようです。僕などは、そういう流れを「ふ、小賢しいわ」とか思ってしまう系なんですけど。一昔前にはオピニオン・リーダーとか呼ばれてたものの化粧直しでしょ?目新しくもなんともないよねってのがひとつ。もうひとつは、その効果も年々下がってるんじゃないかって気もするのですよ。別にそんなリーダーを求めなくても、我々の周囲には影響を与えてくれる事物にがあふれかえってますし、個々人における影響の選択はより緻密になってると思われるのですよ。このコロナ期を通して、マスなりマクロなりというものの値打ちが下がってきているからなおさらです。この点は最後に書きます。

 ということで、今週はこの「影響」をネタにします。

実はデカい、「なんとなくの人間的影響」

なにかは学んでる

 教育、人が人に何かを教えること、学校や塾の教師であれ、親や上司であれ、そこで一般に語られるのは、教育内容です。何を教えるか。良いことでも悪いことでも教えられますし、偏ったことでも、間違ったことも教えられます。なので何を教えるかというのは常に一つのテーマになります。次に技術論。どう教えるか?です。スパルタ式にやればいいのか、暗記詰め込み式がいいのか、談論風発的な自由空間がいいのか、それは段階によりテーマによりさまざまでしょう。

 それと並行して、改まって教育内容や方法という形にはならないんだけど、なんとはなしの「人間的影響」というのはあると思いますし、実はこれが一番強力なのではないか、とも思うのです。

 「薫陶」というほど高尚でもない。薫陶が「人格」的影響だとしたら、今言ってるのは普通に「人間」的影響です。人格というほど固まってるわけでもないし、また良き人格が保有する「魂の韻律」のような凄いものではなく、単なる佇まい、クセ、雰囲気なんかも入ります。

 小中高校大学を通じて過去に教わった先生、あるいは部活や職場の先輩、上司など、それぞれに何らかの影響を受けているんだけど、何をどう影響を受けているのか自分でもよくわからない。だけど、その特定の人物と、クラスルームやら職場やらで一定期間いっしょにいると、なんとはなしに伝染ってくるものはあるだろう。そして、それって意外と今の自分を作ってる要素になってるんじゃないかなということです。

 先生には個性があります。人間だから当然です。やたら謹厳実直風な人もいるかと思えば、べらんめえの伝法な口調でくだけている人もいます。のんびりしている人もいれば、せっかちな人もいる。原色ドッキリ系の人もいれば、淡いパステルの人もいます。

 そこで何を学んでるのかはわからないんだけど、「なにか」は感じるんですよね。今までとくに意識もしてなかったんですけど、この歳になってそれがなんか大事なもので、多少なりとも言語化できそうな気がして。

わかりやすい反面教師

 わかりやすいのは嫌いな先生(親、上司)の場合です。嫌いな大人といってもいいけど、それは人間的欠陥の博覧会みたいなもので、やたら感情的になるとか、マウントしたがるとか、上下関係でしかものを考えられない狭量さとか、思い込みの激しさとか、他者(特に目下の者)に対して過度にきつかったり、言ってることがブレブレだという一貫性の無さであったり、、、まあ、あなたもいくらでもカウントできるでしょう。

 それらは反面教師として、何かを教えてくれますよね。ああはなりたくないなとか、人が醜悪になるパターン集というか、陥りやすいダメダメ人間シリーズとか、これはこれでかなり貴重な学びの機会だとも言えます。まあ、学んでる最中はひたすら不愉快だし、ムカつくんだけど、それでも知っておいたほうがいいことではあるでしょう。あんまりそればっかりで、この世界が黒く塗りつぶされてしまうのも問題ですけど、かといって何も知らない、この世の全ての人は賢くて優しい善人ばかりだと思って育つよりは、将来のリスク管理という意味で良いでしょう。

 ただし、ダメだなーとか思いながら影響を受けてしまうことも多々あります。自分の親のこういうところがキライとか思いながらも、いざ自分が親になったら同じような振る舞い、同じようなフレーズを使って子供を傷つけているのに気づいてハッとするとか、ありますよね。悪しき学びもある、と。

 そういえば僕がどっかの弁護士事務所に最初に就職するときも、先輩に言われたのだけど、きちんとしたところに行け、と。仕事はハードで要求水準もきついけど、でも最初はそうやって叩き込まれたほうがいいと。料理人でも、最初に一流どころで仕込まれると、それはそれは厳しいんだけど、仕事の要求水準が高いからそれが当たり前のスタンダードになる。どんな仕事もそうだけど、いい仕事をしようと思えば手抜きをしてはいけない。それをもっと身近な生理感覚に置き直せば、「面倒臭さとの戦い」です。これはどんな仕事をしてる人と話しても共感するのですけど、手を抜いたらやっぱりテキメンに質が落ちる。だけど質を維持するのって本当に面倒くさいんですよ。そして、最初に仕事を覚える時点では、手を抜かない面倒くさいことを強制的にやらされて、慣れっこにしてしまえばいい。慣れたらもう何も考えなくても手が動きますから、あらたまって面倒だとも思わない。だけど、最初に手抜き仕事が多い、いい加減な職場で覚えると、あとで向上するのは難しい、というかほとんど不可能だといいます。ゆえに悪しき学びがスタンダード化しないためにも、最初の学びは結構大事だと。

 このようにダメダメな局面はすぐに思い当たるのですが、良い局面はそんなにエッジが立ってないから気づきにくいです。でも、実は学んでるんだって思うのです。

気づかないけど実は大きな人間的影響

 それが僕がここでいう、学んでないけど実は学んでる「人間的影響」のことです。

 過去の先生でも、本当にいろいろなパターンがあって、知らない間にどっかで影響されてるのかなーって思うことはあります。ベテランの先生は、ベテランの味というか、常に一定の品質を保持って部分があって、それは確かに一つのモデルになってるような気がしますね。でも、逆に新人の先生の場合、まだそんなプロフェッションの仮面が出来てないから、ときに感情的になったり、地が出たりするんだけど、それが僕の好感を呼んだりもするんですよ。「いや、俺もほんとはわかんねーんだけどさー、とりあえずやれって言われてんだから、やっといた方がいいんじゃねーの?他にもっといいやり方を思いつかないならさ」とか、本音みたいなことをポロッと言ってしまったりするわけなんだけど、それで「なにか」を学んだと思う。ああ世の中理屈だけでビシッと正邪が決まってってもんでもないのね、プラクティカルな有用性での話なのね(子供だからそんな難しい概念で思ったわけではないが、本質そのものは理解できてた)。

 つまりですね、先生でもなんでも、いろんな大人、いや目上に限らず目下であろうが対等水平であろうが、いろんな人に接することは、それだけでも良いことなんだと思うわけです。

 なぜなら、
(1)視野が広くなる
(2)生き方の選択にストックや引き出しが増える

 という2つの効用があるからです。

 (1)視野が広くなると何が良いかといえば、騙されにくくなることでしょう。他にもいろいろあるけど、それが一番大きいかな。そして、視野が広いということの生理感覚的な実感でいえば、矛盾する情報が大量に混在している状態です。今現在でいえば、やれワクチンが良いのだという人もいえば、あれはヤバいんだって人もいるし、そのニュアンスもひとそれぞれです。結局よくわからない。まさに矛盾する情報が大量に混在している状況であり、視野が広い人の頭の中は常にコレ。常にそうだから矛盾してても動揺しなくなる。世の中には巨人が好きな人もいれば、阪神が好きな人もいるわけで、まさに人それぞれ。矛盾対立して当たり前だし、そもそもそれは矛盾ですらないくらいに受け止め、さて、そんななか自分はどう思うのかと選択し、あるいは創造していく。情報が錯綜して、それだけでキーっとなってる人は、そういう状況に慣れていないし、その程度の視野の狭さだということです。

 人でも同じで、教師と言ってもいろいろな人がおり、日本人といっても顔や指紋が違うように大量のヴァリエーションがある。それを「教師は常に○だ」と思いこんでいると、まずその事自体が間違っている場合が多いし、そうではない現実に触れたときにそれを素直に受け止められない、結果として良き人生のチャンスを逃してしまうというミスをやらかしてしまう。

 また心がつんのめってバランスを欠いてる人は、悪い人から見たら、これほど騙しやすいカモはない。ゆえに、多くの人を騙そうとすれば(ある一定の方向に思ってもらおうとすれば)、情報を統制するのは基本になる。当然知らされるべきことが語られない、隠蔽なり歪曲されているって感じるときは、なにか大事なことが隠されている場合でもある。別の角度でいえば、なにかに騙されているときというのは、気持ちいいくらい論理が通る。AだからBであり、ゆえにCであると、すーっと話が通る。そうだそうだ、そうに決まっていると、すごく正しいように思える。きれいに一本背負いで投げられている。でも本当はAという時点で、実はそうではないという噂もあり、Bということでも疑義があり、AだからBになるってもんでもないしと、常に全てのステップでひっかかりがある。このひっかかりがあるほど現実に近いと言ってもいいでしょう。

 かくしてステレオタイプで人を見ているうちは、危なっかしくて世の中渡っていけないと思います。それを補正するには、視野を広くすることであり、矛盾する情報を沢山自分の中に取り込むこと、全然タイプの違う人にたくさん接することだと思います。

生き方のストックとパラレルワールドの分岐点

 しかし、今回は(2)生き方のストックの広がりに注目して書いてます。

 僕らの日々の生活は、ある意味では、一瞬一瞬がパラレルワールドとの分岐点だともいえます。上司に不当に叱責されたとき、部下がアホなことをやらかしたとき、どういうリアクションを取るかは、自分に任されているわけですけど、そこで激しく敵対的な姿勢を取るか、極めて温和な対応にするか、その中間に無数のバリエーションがあります。そこでどういう対応をとったかにより、人生が少しづつ変わっていく。

 上司に無茶言われたときに、言われるままに泣き寝入りをする人、いきなりバーンと反発して勢いあまって上司をぶん殴ってしまう人、そこは人それぞれだろうけど、そこでどういう対応をとるかが、僕のいってる「ストック」です。

 これはかなり技術論や知識論に近いし、交渉術なんかでもそうですけど、ほとんど役者のように千差万別の対応を臨機応変にとれるかどうか。「ここは一発怒っておいた方がいいな」と思えば、全然腹は立ってないけど「冗談じゃないですよ」とかましてみるとか、あくまで低姿勢にとか、ニコニコ温和に、しかしぬらりひょんのように尻尾を掴ませない言い方とか、すごく誠実に言ってるようで実は何も与えていない言い方とか、、、いろいろあるわけです。

 本当に大事な人の場合(配偶者とか恋人、親友など)は、そういう小賢しいテクニックは使わず、素の気持ちのままぶつかっていけばいいんだろうけど、そうであってさえ、素の気持ちが、そのままの誠実さで伝わるとは限りないです。というよりも、そこらへん意識しないで表現したら、まず大体の場合間違って伝わる、誤解されてしまうわけで、ちゃんと伝える意味でも、あるいは伝えないためにも、「こういう表現をするとこう伝わる」というバリエーションは数多く知っておいたほうが良いです。技は多ければ多いほど良い。

 だけど、ストックが少ないと、似たような局面で同じようなことしか出来ない。イヤなことを言われてムカッときたら、とりあえずぶん殴るという対応しかできないと、社会的に安定した人生を営むことが難しくなりますよね。そこはわかるでしょう。そこは幅広く、腹立ちを表現するにせよ口だけにとどめておくとか、一瞬だけ濃密な殺気を発するにとどめる、「目で射殺す」かのような視線を投げかけるにとどめるとか。言い方がわからないならまた言い方のストックを増やすとか。腹立ちが強ければ強いほど、優雅に紳士的に慇懃無礼に振る舞うとか。また、相手の言い分を誠実に聞き、受け入れる場合、それはそれで受け入れるんだけど、でも異論もあるよねって言う場合、百パーセント完全に従う場合、いろんな表現があります。年の数くらいは知ってていいかもしれないです。あなたが30歳なら、30通りくらいの返し技は習得しておきなさいねってことです。

 対人的なストックに限りません。状況や事態に対するストックもあります。財布や携帯を落としてしまって、キャーッとなってるときにいかにパニクらないで冷静に対処するかのストックとか、駐禁切符切られたとか適度な不幸にあったときの対処、はたまた全力をかけた大勝負に負けちゃって真っ白になったときに立て直し方とか、いくらでもあります。

 その場合、やっぱりどれだけ他人のパターンを知ってるかというのは大いに役に立ちます。それは映画や小説でも良いです。「そのとき、〇〇、少しも慌てず」とか、やせ我慢でも余裕ぶっこいたフリをして、「ほほう、そうきますか」とか、とりあえず言ってみるとか(笑)。

 でもやっぱり、ライブに勝るものはなく、そこで過去の人々、学校の先生でもなんでも、いろいろなパターンの佇まいを身近に体験していると、たしかにストックは増えます。まあ、それで変なのが感染ってしまったりもするので、一概に良いとは言えないのかもしれないのですけど、でも、総じていえば、知らないよりは沢山知っておいたほうがいいです。

 さきほど虐待されて育つとまた虐待する側に回ってしまうと書きましたが、別にそれはいくらでも回避できますし、全員がそうなってるわけでもない。そうでない人の方が多いかもしれないし。逆になんでそうなるのか?ですけど、それは多分「ストック」が少ないから、生き方の引き出しが少ないからだと思います。カチンときたら、とりあえず身体的暴力を振るってスッとするというアホみたいな反応を繰り返し受けてきたら、こういう場合にはこうするというのを学びたくなくても学んでしまうでしょう。そして一旦学んでしまったものをゼロにすることは出来ないなら、他の方法論で上書きをする、あるいはストックを増やすことで相対的に薄め、選択肢を増やすということは出来ます。こういう生き方もある、ああいうやり方もある、こういう流し方もあり、ああいう受け方もあると。

 学校の先生で覚えてるのは、叱り方ですかね。ヒステリックな人はいたけど、多くは立派なもので、ギャンギャン怒られるよりも、静かに諭すように言われたほうが胸に刺さりましたよね。子供だって、自分が悪いのは知ってますから、「悪いということは自分でも分かっていただろ?」みたいに言われるのが一番応えます。ギャンギャンいう大人だったら、体外的な何かと対決対処すればいいだけなんだけど、「自分でも分かってるんだろ?」みたいな言われ方をすると、対決すべきは自分自身になってしまうから、こたえるのですよね。だもんで、今でも覚えてるよね、「なんであんなことやったんだ?」「悪いってことは分かってただろ?」って静かに言われたときの感覚は。

 そういう良い叱られ方を沢山しておくと、自分が叱る番になったときでもストックが増えていいです。なるほどこういう言い方があったんだって。

 あるいは言葉ではなく行動。「背中で教える」とかいいますけど、そういうのは確かにあります。僕らが調子に乗って騒いでとっ散らかした教室で、あとで先生がしゃがみこんで掃除してるのを見てしまうと、その背中をみただけで、ああ、先生、ごめんなさいって気になりますもんね。

 仕事なんかでもそうですけど、自分だったら、はいここで終わり、一丁上がりってところにきて、「いや待てよ」とかいって尚も確認しようとしたり、もうこれ以上完璧な文章は無いだろうというくらいであっても、「むむ、、、」と呻吟して朱を入れて書き直してる姿とか見てると、それは教わるものがあります。「なるほど、あそこまでやるのか」と、百万言を費やして説教されるよりも、よくわかる。

 ただそういった教育的なことだけではなく、日常的なごく些細なクセ、言い方のくせ、頭をボリボリ掻くときのくせ、照れたときの誤魔化しかた。あるいは、なんとも言えない茫洋とした雰囲気、高原でヤギがもぐもぐと口をうごかして草を食べているような時間感覚が流れてる人もいて、「おお、そんな「やり方(生き方)」もあったんだ」という参考にはなります。もちろん、そのときは参考になったとか勉強になったとか、そうは思わないのですけど、頭のどこかにインプットされていくと、知らないうちにそれが持ち技になっていきます。

 書いていて思い出したけど、小学校高学年の頃の担任の先生がいい味してて、軽い天パーに黒縁眼鏡の朴訥とした佇まいだったんだけど、怪談がすごい上手で、ときどき自作(?)と思われる怪談話をしてくれて、それがめちゃくちゃ面白かったのを今でも覚えてます。もうクラス中皆わくわくで、声のトーンやら間合いやらタメやらが絶妙で、クライマックスになると「きゃー」とか悲鳴があがって涙ぐんでる女の子とかもいて、「先生、おはなし!」とかいつもせがんでたものでした。それの何が良くて何を学んでるのかは僕は未だにわからないのですけど、でも50年くらい経ってもまだ覚えているというのは「なんか」あるんですよね。

 思えばカリキュラムもゆるゆるだったのかなー。今だったら1時間まるまる潰して教師が怪談話を聞かせるなんて許されないかもしれない。でも、許すべきだよなー。当時のあのクラスは、新興住宅地の走りの頃で、普通の出来たばかりの公立なんだけど、なんかしらんやたら平均知能指数が高くて、クラスの中の上のくらいの友達でも普通に慶応中学とか進学してて、小学生の参考書では物足りなくて、皆中学生用の参考書買ってたし、僕も買ってた。そのなかでも一番出来る子は、小学生の分際でもう大学入試問題とか趣味で解いてたってくらいだし、学級会の話題が我が国の防衛計画大綱の批判的検討という、変な学校だったんですよ。戦後の一時期の新興住宅地の風景。そんなこましゃくれた連中なんだけど、それでも皆口を揃えて「先生、おはなしー!」とかきゃっきゃ言ってて、そのくらいその先生の話術はすごかったんですよね。

 なにやら昔の、囲炉裏ばたで子どもたちがあばあちゃんの周りに集まって「おばあ、おはなし!」とせがむような、まるで座敷ぼっこが出てきそうな、メルヘンチックな風景がそこにはあって、ああいう体験はいいですよね。何がどう役に立ってるのかはわからないけど、それは役に立ってないからではなく、逆にもう完全に消化して溶け切って、、必須アミノ酸やらになってて原型をとどめてないからだと思う。ああいった体験は、確かに今の僕の価値観やら世界観の一部を確かに作ってます。例えば、そういう怪談を無駄なことをしてるとか、教育の本筋から逸脱してるとは全く思わないし、むしろ本質はそこだろって思うくらいでもある。それを無理やり言語化すれば、世の中の、あるいは人生の本当の部分は、寄り道とか、道草とか、本筋からちょっと離れたところにあるのであり、ある意味本筋なんかどうでもいいってところがある。仕事でもなんでも、冒頭の薫陶で書いてように、「経営効率化」「合理化」とか聞いても、「け、小賢しいわ」とか思ってしまう価値観につながってます。そんなこと言ってるから、あんたの人生しょぼいんだよって思っちゃうくらいで。

 どう役に立ってるか?を無理やり言えば、例えば、単に話すというだけで、こんなにもエキサイティングな時空間が作れてしまう、「ライブ・パフォーマンス」というものの本当の凄さ、テレビや漫画など金払って得るものだけが楽しさではないのだ、ストーリーが意表をついて面白くて、表現方法が傑出してたら、もうそれだけこんなに満足感を得られるものなのだという経験は、ものすごく豊かな示唆に富んでます。それで演劇舞台を目指していく人もいようし、ドラマツルギーやら物語論に興味を持つ人もいようし、口頭でしゃべるということの技術論の面白さを感じる人もいようし、皆の心が一体化していく不思議なわくわくライブ感覚に魅入られる人もいるでしょう。だけど、そんなの文章で説明したって全然わからんのですよね。体験すれば一発なんだけど。しかしそんな「何の役に立ってるか」なんて議論がしゃらくさく感じますよね。

 そういったことも含めて、冒頭で述べた「薫陶」と呼ばれるものの実態は、こういうミクロな日常の膨大な集積によるものだといっていいでしょう。

ストックが救いになる


 いわゆる仕事が切れる人の立ち居振る舞い、スパン!といい音が聞こえるくらいの決断の早さ、千手観音のようなマルチタスクの神業的なやり方なんかも参考にはなります。なるほど、仕事が出来るというのはああいうことをいうのか、とか。逆に、自由に、のんしゃらんと、飄々とやっていく人を見ては、「そういう生き方もあるんだな」とか。

 そういう数々の選択肢、ストックが、あなたの人生を救います。一つのことにキューッと絞り込んでいって、それがゆえに出口なし!絶望あるのみ!みたいになっていってしまうのを防いでくれる。視野が狭いとすぐ騙されるし、すぐ絶望するし、すぐ鬱になる。なので、生き方のパターンも数限りなく習得すべきでしょう。ときには「え、そんなんでいいの!?」という目が飛び出るくらいの驚きと感動をもたらすくらいのストックは、あなたを救ってくれると思うよ。海外体験が面白いのは、そこらへんが手っ取り早く出来るという点もありますよね。いとも簡単に常識をぶっ壊してくれるし。

 海外でなくても、僕が今でも覚えているのは、大学で司法試験をガチにやりはじめた頃です。経験者ならわかると思うけど、民法の物権変動とか賃貸借とか論点が鈴なりになってて複雑で、頭がウニになって、絶望的な気分になるのです。同期の連中ともあそこは難しいとか深刻な顔を向けあっていたもんです。そんななか、一学年上の切れる先輩と雑談してたとき、「え、物権変動?あんなの簡単じゃん!」って明るく言い放たれて、それがショックでした。結局、何がどう簡単なのかの説明も覚えてないし、その後見違えるように理解できたってこともないんですけど、学んだのは、「簡単じゃん!」って明るく言い切ってしまえる強さであり、なによりもその姿勢です。どうも人間の習性として、ちょっとやってみてどうにもならない事柄があると、それで必要以上に難しく考えてしまい、ひたすら深刻になるだけで、物事が一歩も進まないというアホパターンがあるな、まさに今そのパターンなのかもしれないなってことが分かったのがデカイのですよ。

 以後、必要以上に深刻になるのはやめて、今の時点では全く歯が立たなくても、そのうちなんとかなるだろー、そうに決まってると思うようになりました。このAPLaCのHPは1996年ころからやっており、当時、HTML記述について書いた本も少なく、ましてやネットなんか黎明期だからろくすっぽ資料もない時代です。Googleなんか影も形もなかった頃です。その頃からタグを自分で書き込んで作ってきてますけど、最初は「ぐわー、こんなの無理!」とか思ったけど、無駄に深刻になることだけはなかったので、以後なんだかんだやってこれてます。このエッセイも、HTML Project2というフリーソフト、わずか3.8MBという超軽量ソフトで作ってますけど、膨大なカスタマイズを自分でやらないと使い物にならないくせの強いソフトではあるものの、使い慣れるとこれに勝るものはないです。知らんことだろうが、多少歯が立たないくらいであろうが、あんまり気にせずガンガン行けるのは、多分この「簡単じゃん!」あたりに原点があるような気がします。その意味では結構デカい出来事だったんだなーと。当時はそんなこと全然わかりませんでしたけど。

 似たような経験は探せばわりとありますし、あなたにもあると思いますよ。いつだったか、けっこうヤバい局面があって(といっても大したことでもないけど)、皆でひきつって、えらいこっちゃどうしようとなってるときに、もとから地顔が笑ってる友達が、ニコニコしながら「いやあ、困っちゃったねえ」とのんびりした口調で言ったのですね。お前、なにニコニコ笑ってんだよ、笑ってる場合かよ、なにそののんびりした口調、「朝晩はだいぶ暖かくなってきましたねえ」みたいな言い方はなんだよ、わかってんのかよ、このキンパクした状況を、、、とか思ったんだけど、それで落ち着いたのはあります。まあ、笑い事っちゃ笑い事だわな、大したこっちゃねーなって全然別の見方が立ち上がってきて。その、なんというか「やり方」みたいなのは、今も残ってます。

 言いたいこと、わかります?こういったことを学び的に、「平常心」がどうのって啓発本で読むとかやるよりも、そういうのって教えてもらったり、読んだりしただけでは本当の意味では身につかないんですよね。それよりも、別に教わってるつもりもないし、相手も教えてるつもりもないんだけど、たまたまそういう他人の佇まいやら言動やらで、なにかがわかることがあります。「わかる」というよりも「感染する」といった方が近いのかもしれないけど。でもよくよく考えると、実はそういうルートで自分の中に流れ込んで、積み重なっていったものの方が多いんじゃないか、そっちの方がむしろメインルートなのではないかってことです。

「〜しかない」という言い方は暗示になる

 あ、余談ですけど、ここ数年、「怒りしかない」などの「しかない」っていい方が流行ってますけど、あれ、良くないと思いますよ。なぜなら、視野が狭くなるように自己暗示をかけてしまうからです。「もう絶望しかないですよ」とか言っちゃうと、本当にそうなのか?他に打開策はないのか?というという思考を殺してしまいます。そういう打開策を考えるのは、なかなか思いつかないこともあって、とりあえず辛いし、しんどいし、その意味では絶望しておいた方が楽なんだけどね、でも言ってると本当にそうなるからヤバいです。

 嘘だと思うなら、毎朝毎晩「もう自殺するしかない」と自分で言い続けてみたらいいです。最初は単に言ってるだけだったとしても、何度も繰り返していくうちに、遠からず本当に自殺してしまいそうで恐くなりませんか?それと同じことです。

 なんにせよ、この世に「しかない」なんてことはないよ。そう思うのは単に視野が狭いだけ、単に頭が悪いだけ。流行ってるからって、口癖のようにしてると、ヤバいと思いますけど。


あなたが教える立場になったら

 ということで、あなたが学校の先生や職場の上司的な立場についたとして、あるいは親でもそうですけど、立派な人間像を装って、それこそ冒頭にのべた「絵に書いたような」「薫陶」を目指すのも良いです。とりあえずは目指してはください。だけど、自分はそんな立派な人間ではないと思ったとしても(まあ、普通はそうだよね)、だからダメってことはないのですよ。

 こんなことは何の参考にならんだろうと思っている自分の立ち居振る舞い、喋り方、ものの考え方、解決の仕方、単に座ってお茶を飲んでるだけであっても、その全てが他人に影響を与えているし、実は個々の知識や技術よりも、そっちの方が大きいようにも思うのです。

 語らずとも伝わるものはあり、自分の生きてきた流れを振り返って、緻密にみると、実はそういう物事の方がはるかに大きく自分に影響しているのですよ。

 その意味で、全ての人、全ての物事はインフルエンサーでありうるし、知らないうちにそうなっているというころが最強であるゆえんでもあります。

 「神は細部に宿る」といいますが、そういうミクロな局面の膨大な集積が、なにごとかを本質的に決めていくのだと思うのです。

ミクロの時代〜補論

マクロがミクロの面倒を見なくなった

 ミクロとマクロの話はこのエッセイでもよくしますけど、ここ1−2年のコロナ騒動やらオリンピック騒動その他を通じて、もしかしたらマクロというのが影響力を失っていくかもしれないな、時代はミクロだよな、そのあおりでマスメディアも影が薄くなるかもしれないなって思いました。

 コロナや世界動向はマクロの話です。これはこれで謎解きみたいで面白いし、激動ってくらい今変わってるので、よくエッセイでも書きます。だけど、書きながらも、どっかしら興味本位な部分、プロ野球で「今年の阪神はやりますよ」とか、サッカーで「来年の日本代表は強いですよ」とかいってるよう部分もあるのですよ。あんま本気じゃないというか。

 いや、これでほとんど生活人生ぶっ壊されてる部分もあるんで、それはそれで大影響なんだけど、でも、そんなのは大地震があっても、勤めている会社が倒産してもありうることだし、言ってみれば風呂屋の富士山のペンキ絵みたいなものです。さて、そんななか、自分はどうしていくの?というミクロ論が常に中心にあるわけで、それは誰もが同じでしょう。

 でね、これだけ激しくマクロ論(コロナ対策をどうすべきかとか、ワクチンの不透明性はどうなんだとか、五輪はこれでいいのかとか、オーストラリアはいつになったらヤドカリ状態から抜け出るのかとか)が展開されると、逆に、マクロのありがたみというか、神通力が落ちてきてる気がするのです。

 いくつか理由がありますが、一つにはマクロ(政府や国家、大メディアや企業)がそれほど正しく的確なことをやってるような気もしないし、またその説明も不十分であることです。前からそうだったにせよ、それにしても、というレベルでひどくなっている。もう一つは、どうも流れとして、マクロはミクロの面倒を見ない方向になっている気がする点です。いくら景気が良いとかいって、失業率が改善されたところで賃金は全然上がらない。これはオーストラリアですらそうです。格差是正や弱者救済についても、どうも心を入れてやってる風でもない。それどころか、マクロはミクロ(個人)に命令はするけど、責任は取らないというのが鮮明になりつつある。端的なのがワクチンで、射てと呼びかけるくせに、自己責任でやれという。責任はミクロにおしつける。それがどうも一過性でも、局地的でもなく、大きな流れとしてあるようだと。

 そうなってくると、マクロの命令を聞いて、素直にそれに従っていて、そんでいいのか?という疑問が広がっていく。もともとそういうのがキライな人はもとからいるけど、体制順応的で円満系の人でも、不安が広がっている。結果としてマクロの価値なり、神通力が下がる。「お上の言うとおりにやっておけば間違いなんだから」という発想は薄らいでくる。

ミクロの強力化

 他方、ミクロである個々人の総合力は昔に比べたら強力になってるとも言えます。日本の場合でいえば、所得それ自体は増えてないし、減ってるくらいだけど、しかし生活コストもまた昔に比べたら安くなってるともいえます。なんでも完備されている正社員は少ないけど、でも別にバイト君でも選ばなければ仕事はあるし、食っていくくらいだったら出来る。大きな流れで技術や生産性があがってきてるので、食料などの値段も贅沢言わなければリーズナブルになっている。だいたいバイトの時給30分〜1時間で一食分くらいの感覚でいえば、時給千円でワンコインランチが食べられたりするのだから、ある意味ではオーストラリアよりも楽ともいえる。

 何よりも大きいのがスマホ一台で結構済んでしまうというコスト削減です。あとはネットのひろがり。僕が高校大学の頃は、LPレコードを買う以外に新しい音楽に触れる機会は乏しく(あとはFMラジオだけ)、しかもレコード一枚3000円、高校生の一ヶ月の小遣い3000円平均だったので、アルバム一枚ゲットしたらもうそれだけで一ヶ月終わってしまう。当時のバイト料が時給400円くらいだったので、バイト7-8時間くらいやらないとレコードが買えない。今の時給千円に換算するとCD一枚7-8000円です。だから友達とカセットにダビングしてもらってとか取引があるんだけど、カセット代も馬鹿にならない。写真にしてもデジカメなんか無くて全部フィルムだし、現像代いれたら、24枚撮影しただけで千円以上ぶっとぶ。もう本当に普通になんかやろうとしても、ものすごく金がかかったのですよね。一ヶ月同じレコードを延々繰り返し聞くだけとか、そんなありえない感じ(その分、個々の楽曲やアーチストに対する理解は深まったけど)。

 それ以上に情報力です。マスメディア以外の情報の量が桁違いです。ツイッターでもブログでも、どんどん色んな情報が入るし、人ともつながれる。70-80年代にこれと同じだけの情報収集力を個人で得ようと思ったら、今のフリーのルポライター以上のフットワークと活動量がいるでしょうし、それでも無理かな。政府がやってること、海外で起きていることのわかりやすい解説は非常に少ないし、あったとしてもバイアスかかってたりするし。それに比べれば、今の情報力は凄いです。きちんと使ったら、その昔の百倍以上の情報力がありますよ。これは同時に、全然接点のなかった人とのつながりが出来ることをも意味します。普通にやってたら、学校縁、部活縁、バイト縁、職場縁くらいしか人間関係なかったけど、今はそんなことないもんね。その気になったらどんどん広がっていける。

 つまり、何が言いたいかというと、ミクロはマクロに見捨てられそうになっている昨今、しかしミクロはミクロとして独自に動ける環境もかなり整ってるんじゃないかってことです。オンラインサロンをやろうというのもその流れです。

 それが今回の話とどう関係するのかと言えば、ミクロで影響を与え合うことにもっと自覚的になってもいいかも、ってことです。マクロによって世界の流れは決まっていきますが、こと個人の人生を規定するのはマクロではなく、ミクロです。その度合は、盲目的に会社員やってれば家畜的に一生が安泰だった昔よりも、今の方が強い。ミクロの独自的世界を構築すべき必要性も高くなってきてるし、同時にそれが出来るだけの技術的インフラ的環境も揃ってきている。あとはやり方だけだと。

マスメディアも政治も希薄になる

 マスメディアは、その名の通り、「マス(マクロ的、集団処理的)」な情報を収集&配布する「メディア(中間媒介)」です。でも、マスが背景事情以上の決定力をもたなくなり、人生の指針や正邪の価値を教えるものではなくなったなら、マスへの興味も自然と薄らぐ。同時に、ミクロ個人同士がダイレクトに連携できるなら、メディア(中間卸売業者)みたいな存在もいらない。産直で販売すれば卸問屋は要らない。

 感覚的にもそれがわかるような気がします。だって、マスのものって昔に比べて面白くないんだもん。大スターの大ヒット曲なんか無いし、ベストセラーも興味ないし、今どの映画がどうのって興味もないし、あっても古臭い80年代的なメディアミックスでやってるだけで質が伴ってないし。それよりは、プロであろうが、アマであろうが、ネットでぶらり散歩するみたいに聞いたほうが早いってのはありますよ。

 このようにマス文化に対する興味が失せてくると、今度は広告というものの意味が薄らいできますし、広告代理店なりその種の産業や利益構造も変わっていくでしょうね。

 それは同時に皆揃ってなんかやる、物事を共通するという事柄の減少につながり、政治機会の減少にもつながっていきます。公共インフラ整備はあった方がなにかと便利だけど、そのくらいのことで、別に政治家やら政府から、この世はこうなってるとか、これが正しいとか教えてもらう必要もないし、そもそも何のためにいるの?というくらいの気分すらあります。今の日本の行政府でいえば、ああも何でもかんでも民営化し、ああもなんでも外注に出して、しかも法外な値段でぼったくられてるなら、最初っから全部民間でやった方が遥かに効率的に、安く済むのではないの?という気もしますね。

 社会的な問題に対することでも、結局はミクロの問題なのかもねっていう気もします。例えばオーストラリアでも人種差別問題はあるでしょう。基本白人国家でアジア人やってると差別されることもあるんだろうけど、こと自分に関して言えばそんな記憶はないです。でもそれは、個々の日常の局面で出会う人達のミクロの態度の集積だと思うのですよ。政府がいくら旗振って、予算つけて、何をやっても、個々のミクロの局面で皆の態度が変わらなかったら現実になにも変わらない。しかし、ミクロの局面で一人ひとりが態度を多少なりとも変えると現実は変る。

 組織内の差別や同調圧力などの問題などがあっても、そこで誰かがちょっと何かを言うだけで何かは変わります。自分がそれにそっと手を添えるだけでも変る。てか、そういうことなしには何も変わらない。だけど、流れに逆らってなんかするのは難しいんだけど、そこは「やり方」だし、「ストック」だと思いますよ。ちょっとした言い方で全然違う。職場内で誰かがいじめられてるっぽかったら、「君たち、イジメはやめたまえ」とか言ったら角が立つでしょうし、やってる方もひっこみがつかないからこじれてしまうこともあります。パワハラしてる上司に対しても、「それはパワハラです」とかいうと余計に激高するかしらんので、「お話中、すみませんが、お時間が。。」とか別件のことで割って入れば冷却されることもあるでしょう。そうやって助け舟を出してくれる人がいるうちは、まだ救いがあるし、自分でも救えるなら救えばいいです。その際に、皆が救い方やら、言い方をどれだけ知ってるかによって、けっこう違ってくるんじゃないかなーってのはあります。

   大体、差別は良くないとか、イジメが悪いとか、そんなことは言われるまでもなく、誰でも知ってることでしょう。そこまで馬鹿ではない。ならば後は個々のミクロの現場における実践があるのみであり、その際に大きな役割を果たすのは、表現ややり方の「ストック」であろうと思います。

 そういうことを何となく考えていくうちに、「そういえば」と思ったのが今回のネタです。そういえば、振り返ってみて、自分に影響を与えたものって、そのほとんどがミクロだったなって。もしかしたら、その重要性に気づいてないだけで、人生のなりたち、あやなり方みたいなものは、あんまり変わってないのかもしれないな、そしてこれからはそういったものに重点がシフトしていくのかもしれないなって思った次第です。

 





文責:田村


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