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Essay 990:漂流するオーストラリアの国境
〜完全風見鶏化しているモリソン首相はもう居ないも同然で、要は世論の動向。
〜コロナとカウラの類似点=「クソ正論」+「いい子」は破滅のレシピー
2021年05月16日
写真は、Newtownの路地裏にて。気がつけば、こちらではすでに晩秋。
またちょっと時間が過ぎたので、オーストラリアのコロナの現況から述べます。
オーストラリアの状況
オーストラリアのコロナ問題はいつにかかって出口戦略、つまり国境は開くのか、いつ開くのか、どういう道筋で開くのか?に尽きているように思われます。だけどこれが難しい。
順を追って説明しましょう。
感染状況と洗練されたロックダウン
オーストラリア国内の感染状況ですけど、ほとんどゼロといってもいいくらいです。国内でも思い出したようにボソッと感染者が発見されたりして、一時的にロックダウンしたりしてますが、最初のクルーズ船の頃から鍛えられてきたNSW州が一番上手な気がします。先日も3日だけ(さらに一週間延長)したけど、およそ「ロックダウン」というようなものではなく、公共交通機関内のマスクと、レストランでもなんでも営業可能(立ち飲みだけダメ)で、レストランを含むインドア小売店ではマスク着用なんだけど、飲食時は外してOK。ちょうど母の日を目前にした時期にやったのだけど、母の日の行事を取りやめないでやってくださいとアナウンスしてました。ギリギリまで必要最低限に抑えるという意向が伝わってきます。
ちなみに、オーストラリアは最初の半年くらいはマスクは義務化されてませんでした。医学的にもプラマイあって一概にすればいいものでもないというわりと理性的なスタンス。それがだんだんマスク義務化とかいい出したんだけど、その方針転換の説明は、僕の知る限りでは無いです。
僕個人の推測で言えば、多分、行政当局ももうやることが段々なくなってきて(すでに病床の飛躍的な拡充、医療体制、感染追跡練度の上昇、膨大な検査を短期間でやってのけられる体制の構築などなどはもう出来ているので)、人々に気を引き締めてもらうためにマスク〜とか言ってるだけのような気がしますね。マスクにそこまで大きな効果は期待してないし、そんなもんでなんとかなるほど甘いもんでも無いのもわかってるけど、「注意喚起」「行儀作法」みたいな感じ。
実際、先日のロックダウンは、あんまり誰もマスクしてなかったような気もしますね。ショッピングセンターでも半数くらいはしてるところもあれば、してない人が多かったりとか、現場の感覚でいえば、もう人それぞれの趣味ってことでいいんじゃない?って感じでした。レストランでも従業員がマスクしてないところも結構あるしね。僕も、面倒くせえなとか思いつつ、Uber Eatsでピックアップにマスクをして行ったんですけど、誰もマスクしてなくて拍子抜けしたもんね。まあ、そんな感じです。
NSW州は経済回復に意欲が高く、被害を防ぎつつ、いかに経済をノーマルに戻すかに気を配ってる印象があり、国境でも要はホテル検疫の物理的制約があるからそれが壁になるのであれば、設備を増やせばいいだろう、ホームステイとか民間の設備を検疫用に認めるような手続きを進めたらいいじゃないかとか言ってたような記憶があります。んでも、中央の連邦政府の反応が悪いので、やきもきしたり、不満の意を表したり。
問題は国境、問題はモリソン風見鶏
国境は中央の連邦政府の専権事項なんで、結局は中央、ひいてはモリソン首相の胸先三寸にかかってるんだけど、このオヤジはダメっすね、よう決めきらんわ。この人、自分が褒められること、あるいは非難されないことがメインになってる感じ。本来、政治家というのは、炎上面罵されようが、暗殺されようが、信念を貫いて堂々と所信を述べ、断固として実行するべきなんだけど、そういう素養がこの人には感じられないですね。もともとスコモーとか呼ばれて大して人望無いし。ちなみに、今どきそんな土性骨のある本物の政治家というのは、世界でもかなり減ってきたと思います。僕らはみんな、豊かな時代にぬくぬく育ってきたお坊ちゃんだから、そこまで肝っ玉座ってるのは絶対値として少なくなってるんでしょうね。迷走するのもやむなしかも。
日本の戦前の国会議事録とか面白いですよ。激しい論戦になって、「君がそこまで言うなら根拠を示せ、私が間違っているという明白な根拠があるなら、よろしい、国会の庭を借りて私は腹を切ろう。しかし、もしそういう根拠がないなら、君が腹を切れ」とかやってて議事録に残ってるそうだけど(出典は忘れたけど)、戦前までは日本のリーダー層にはまだ切腹文化が残ってたのでしょう。事実、敗戦とともに伝統的な作法にのっとって切腹した人もいるし(大西中将とか)。また戦前まで政治家なんかボコボコ暗殺されてたし(2.26とか)。
話戻って国境ですけど、結局はモリソンの肝っ玉にかかってるんだけど、これが小さいから、結局玉虫色のことしかいわない。今年の年末には開くとか、来年の後半までダメだとか、いろいろ憶測が乱れ飛んだり、報道されたりしてますけど、「人命は何よりも大事なので、、ごにょごにょ」しか言ってないし、言う気もないしで、待てば海路の日和あり的に、そのうちになんか事態がよくなって、自分が傷つかないで、なにもかもうまくいくといいなあって感じじゃないですか?
この人、周囲の人気は気にするくせに、意外と空気を読めてない。キャンベラ政界でのセクハラ(てかレイプ)告発が次々にあがってきても、なんとも歯切れの悪い対応をして反発を食らってる。昨今のインドの状況を鑑みて、インドにいるオーストラリア人を救出する飛行機を出してますけど、それ以前に帰ってきたらダメとかいい、しかも無理に帰ってきたら最大懲役5年の犯罪にするとか言って、これは与党内でも激しい反発を食らってます。「オーストラリア人の安全を守るため(キリッ)」で点数あげようと思ったんだろうけど、思いっきり外してます。アホちゃうか?ってくらいだよ。
ちなみに国境に関しては、例えばGoogle検索で、australian international borders(past 24hours)で毎日見てると良いです。時期制限を外したり、過去一週間にしただけでも、かなり漏れてしまいます。24時間くらいに設定してると、いろいろなサイトがあがってくるのでいいですよ。ただし、その何を見ても、肝心のモリソン大明神が風見鶏だから、各界のいろいろな人が、「私はこう思う」「こうしてほしい」と主観を述べているに留まります。でも、皆がそれについてどう思ってるのか?という先行のヒントはあります。
アメポチと弱者切り捨て(てか見えて(見たく)ない風)
ところで、モリソンちゃんですけど、この人の特徴は2つあって、(1)極端なアメリカ従属、(2)弱者無視ですね。1は、アメリカの意向(といっても、今やアメリカの意向がどこにあるのか国内分裂してわからんのだけど)、やたら中国に喧嘩をうって点数稼ぎをしている。ほんとは大失点だと思うけど、本人は得点だと思ってる感じ。2は、それで農村が干上がっても知らん顔という点。ほかにも旅行、留学業界が壊滅し、学生ビザや労働ビザのビジターが生活が苦しくなっても知らん顔。いつぞやワーホリ35歳とかぶち上げて期待させてシカト決めてた頃から変わってないです。ほんでも国内の不動産はめちゃくちゃ値上がりしてるし、求人も盛んになってます。もっとも、これには辛口の批判も多々あって、政府が優遇して不動産を煽ってるわけだけど、これ以上上がったら、オーストラリアの若年層はますます絶望するしかないわけで、それでいいのかという点。第二、第三の不動産を購入するような、あきらかに転売投機目的でも優遇する意味がどこにあるのか?と。
求人については、高給ホワイトカラーではなくて、低賃金のマックジョブ系の求人が多いと思われます。コロナの有無を問わずそういう世界経済の潮流であることに加えて、来るはずだったら労働力(学生ビザやワーホリビザ)の労働力が数十万という規模で消滅してるんだから、人手不足、スキル不足にもなろうというもの。しかし、それでもそれまでホワイトカラーだった中高年層の再就職はしんどくて、ホームレスになってる人や、シドニーだったらFairfieldにある大きなキャンピングカー暮らしの場所に行くとかないとか、家賃の再度高騰によってビクトリアの若年層がホームレス化してるとか(Rental price spikes increasing homelessness in regional Victorian towns)、もう問題は山積みなんだけど、見ないふりをすれば、何も起きてないかのような。
国内的にも、長期的に見れば年間17万の新規顧客層(移民)が失われ、外貨の貴重な稼ぎ頭である観光と留学がコケたらかなりヤバいんだけど、こういうのは内臓疾患みたいなもので、表面に出てくるまで数年かかるでしょう(その代わり表面にでたときはもう手遅れだったりするんだけど)。特にその業界周辺でなければ、コロナ感染が事実上ゼロが続き、なんの制約もなく海でも山でも行けて、行けないのは海外旅行だけっていうなら、別にそれでいいや、これで下手に国境を開けてヨーロッパやインドみたいにならなくてもいいよって国民の大多数が思っても不思議ではない。実際60%の国民が国境閉鎖を支持してるそうです。
だけど段々不満も溜まってくる。支持60%っていうけど、ちょっと前は80%くらいあったと思うから、減ってきてるんじゃないか。少なくとも、経済のことをよく知ってるビジネス界、財界からみたら、手遅れになる前になんとかしろという声は強いし、意味なく国外脱出も禁じているから(親が死にそうなのでドイツに帰りたいという人が4回申請して全部却下され、今度5回目を出すとか)泣き別れ状態が延々続いている。国外に出る分には感染が増える危険はないので出してやればいいだろうけど、一旦出すとまた帰ってくるときに山積みになって政府を悩ますから、要は仕事を増やしたくないのでしょう。それが透けて見えるし、自らが家族と泣き別れ状態な人は、時を追うごとにどんどん増えてくる。富裕層は、大好きな海外旅行が出来ないまま1年以上お預けくらってて、いいかげんにしろよって気にもなってる。カンタスのボスが悲痛な声を出して、もう10月には飛ばすぞとか騒いでいるのもそう。
ときがたつにつれて、「いつまでこんなことやってるんだ」感は深くなっていきます。だけど、先日の予算を見ても、新規に検疫施設を作る予算はゼロで、全くやる気なし。それについてビクトリアの知事がブーブー文句言ってたけど、ここまでやる気がないのも凄いなーと思うけど、待ってるうちに事態が良くなるんじゃないかって感じじゃないの?としか僕には思えない。だったら、内政的に割を食らった人に手厚い補助をすればいいのに、それもしない。そこはドケチ(日本に似てるな)。
実は切れる人だったという仮説
ここで、視点を変えて、実はモリソン首相はめちゃくちゃ切れる人だったという仮定で、ものすご〜く善意に解釈すると、、、、ここで妙に開けても、どうせ感染がまた生じて、ロックダウンやりなおしてってその繰り返しになるに決まってる。ヨーロッパはまさにそれで、ちょっと良くなったら国境開いて、観光業とかそこらへんに儲けさせて、「息継ぎ」をさせて、また閉めてまた開けてをやってしのいでいく。それはそれで一つの方向だけど、あれは最初の頃から、今のインドなんか目じゃないくらい大きな被害が生じて国民も慣れっこなってるから出来ることで、オーストラリアのようになまじ感染ゼロに慣れてしまったら、わずか千人かそこらでも大パニックになりかねない。だからロックダウンも激しくやって、またゼロ付近まで戻すのにえらいかかる。その間の経済被害は莫大だし、開けたときのプラスよりも、あとで閉めるマイナスの方がずっと大きい。一方、後日、ぶっ潰れた大学や観光業を復活させるための費用もいるだろうし、失業者救済の費用もいるだろうし、とにかく国庫を豊かにせねばならない。ならば、ここで多少見殺しにしようがなんだろうが、ゼロ無菌状態を出来るだけ長く維持させて、稼げるだけ稼いでもらい、取れるだけ税金とりまくっておいて、後日に備えたほうが良い。
ひるがえって、観光業も留学業もこれで死に絶えるわけではない。確かに個々の企業体は死に絶えるし、個人個人の人生は失業したり破綻したりするかもしれないけど、産業構造そのものとしては健在。なぜなら、「売り」は「オーストラリアの自然と、ゆたかな社会」なのであり、そこは全く傷ついてない。留学だって真剣に勉強したいというよりは、オーストラリアの永住権が欲しくて来ているのが大半だろうから、オーストラリア社会が健在である限り、そのニーズは減らない。ゆえにいくらでも再生可能。ならば偽りだろうが、あぶく銭だろうが何だろうが、今の「繁栄」をできるだけ引っ張って、維持して、世界に誇示アピールしておいた方が、その後の産業復活に役に立つ。だから今の人は気の毒だけど、長期的にはそれがベストなのだ。
などと思ってるのかもしれないです。まあ、多分違うと思うけど(笑)。
留学も観光もかつかつ活かすくらいには出来たわけだし、去年の7月くらいにオープンさせて、検疫を拡充して、大量処理に慣れさせて、感染ゼロではなく常に千人くらいはいるんだけど、別にそれでも大過無いわくらいの状況に意図的に持っていった方が、後日の政策のフリーハンド化にはよっぽど有益です。ムキになってゼロにこだわったら、今では一人出ただけでも「敗北」になってしまい、身動き取れなくなるし、現に身動き取れなくなっている。最初の時点から、ものが見える人達からそれは散々指摘されていたにも関わらず、目先の功名心で動いてしまってるから、長期的展望なんかないっしょ。
感染なり被害なりが「重大」なのか「収まった」とみるかは、すぐれて相対的なものです。今の日本で1日の感染者が10人くらいになったら、かなり「収まった」感はあるし、皆も安心するでしょう。だけど、オーストラリアで1日に10人も感染者が出たら大騒ぎになるのですよ。同じように、最悪時期のイギリスでは、今年の1月8日に、1日に6万8192人も感染者が出てます。百万人あたりは千人。だからイギリスでは1日の感染者が絶対数で2万人とか、百万あたり300人になったら(3分の1になったら)かなり「収まった」感を抱くでしょうよ。でもインドの場合、同じ百万人あたり300人がこれまでの最悪日(5月5日)になる。つまり同じ絶対値がイギリスの安心=インドの地獄に感じられる。もっぱら印象の問題。日本の場合は百万あたり60くらいがこれまで最悪です。オーストラリアの最悪は28人くらい(VIC州のとき、その後はずっと1を切る)。今イギリスはかなり収まった感があり、国境開ける気まんまんだけど、百万あたりの比率でいえば40-60人くらいで、日本と大差ないですよ(GW初期にはイギリスのほうがややひどかった)。
つまり「慣れ」というのがあって、すごーい賢く辣腕な政治家がいるとしたら、出口戦略を考えて、国境あけて経済をノーマルに戻すにしても、不可避的にこのくらいは感染がでるなーと予想しつつ、そのくらいだったら「許容範囲」であると思ってもらうように、それまでの経過を操作するんじゃないかしらん。狙ってできるものではないかもしれないけど、狙いとしてはアリでしょう。
てかさ、問題は、いくら感染したかではなく、いかにトリートメントできるか、いかに医療体制を融通無礙に上げたり下げたりできるか?でしょう。スウェーデンでは、いっとき医療従事者の給与を最大250%の時間給に増額したというけど(出典)、必要なことを必要なときに出来るかどうかでしょう。10万人の感染でもしっかりケアできるなら、全然ケアできない10人の感染よりも良いです。
出口戦略を考えるなら、話の焦点を、感染数の上下動ではなく、医療体制の整備に移した方がいい。現にゴロナの何十倍も死んでいる他の病気(ガンにせよ、心臓病にせよ)、一応対処が出来ている領域は特に大騒ぎにはならないわけで、数そのものは問題ではないのですよ。対処できるかどうかでしょ。そっちに持っていかないとおよそ収拾がつかない。
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消えたワクチン問題 行政のできない行政府
日本と同じく、オーストラリアも消えたワクチン問題があって、3末までの接種予定のわずか数%しかできてないこと。ミスではないと強弁してるけど、誰がどう見ても大失敗以外の何物でもない。日本だって、5300万出荷をうけているのに、接種したのは300万かそこらで、消えた5000万はどこへ?という話になってる。これ、日豪それぞれに大失敗でしょう?5300万入荷を受けて5000万失くしてしまったら、民間企業だったら速攻クビというか、社長は当然辞任で、株主代表訴訟を食らっても不思議ではない。オーストラリアだって同じことです。いくら流動的とはいえ達成率が10%切るというのは無能以外のなにものでもない。ここで2つの見方がありえます。善意で(悪意ともいえるが)解釈すると、実はどちらの政府も本当はワクチンがあまり望ましくないは知っていた。そんな陰謀論的に射てば全滅ってことはないにせよ、被害が無視できないくらい増えてきたら、因果関係がない、わからないで逃げ切れないかもしれない。法的には逃げられても、政治的には逃げ切れないかもしれない。そのリスクはある。そこまでリスクを負ってワクチンを射つか?というと、二の足踏んでしまったという見立てです。これ、ありえそうなんですよね。多分色んな情報が上には上がってきてるだろうし、「え、マジにこんなの射っていいの?」とビビったとしても不思議ではない。なんせ製薬会社が責任とらないとキリッと言い切ってる=作った本人が「ヤバいかもしれないよ」と言ってるのも同然ですから。ほんでも背に腹は代えられず今やってるけどさ、最初の頃はビビってウジウジしてたんじゃないかって気がします。
それか、あるいはそれと並行して、そのくらい無能だったという説。これもありうるんですよね。なんか行政府というのは行政事務を統括するんだけど、その基本的な能力がないんじゃないの?つまり国にこれだけの組織があり、それをつかってこういう目的を達成しようと思ったら、こことここをこうして動かすというということが全然わかってない。もう一つは、いかに優秀な政治家が努力しても、どうしようもないくらい行政機構が非効率のポンコツであり、誰がやってもダメだという説。どっちもありうるし、共存してる説(人も馬鹿だが、組織もポンコツ)が有力。
日本の場合は、アベノマスクが好例ですけど、どう考えてもあそこでああいう失敗するメリットはない。速やかに良質なマスクを配り終えてポイントを上げたかったからやったわけで、つまりは配ることに関しては全力でやっただろうと思われるんだけど、全力でアレかよ?って感じなんですよね。クロネコヤマトやアマゾンだったら楽勝に一週間で出来たようにも思えるんですけど。つまり、今の政府(少なくとも日豪)は、行政を行うという基本的能力がないのではないか、ロジステクスのなんたるかを全く理解してないのではないか(そういえば戦時中も同じだったからもはや民族病かも)。ワクチンを射つぞといってるときも、「マスクですらあの体たらくなんだから、それが専門知識のいる注射になったらもっと悲惨な話になるのではないか」と懸念する声も多かったのですが、やっぱり、、という。
ということで、やる気がない、仮にあっても能力がないという絶望的な状況なわけですよね。ただし、コロナ全体が、胡散臭いというか、大騒ぎしすぎって部分もあるし、ワクチンだって射てばいいのか、状況を見極めたほうがいいのかよう分からん部分もあって、「功罪相半ばする」みたいな皮肉な状況になってるようにも思えます。
日本を見てても思うのですけど、ヘタクソや無能な奴がジタバタ動き回って傷口を深くするくらいなら、モリソンちゃんのように徹底的に何もしないでおとなしくしてくれていた方がまだマシかもしれないです。
風見鶏なので、居ないと仮定して正解
今後のオーストラリアはどうなるか?ですけど、全く分からんです。ここまでひどいとは僕も思わんかったけどね。なんかさ、世界的にもそうだけど、仲間の中で一番出来が悪いやつに任せているかのような。仲間の中で、一番料理のヘタな奴を炊事当番にして全員のご飯をつくらせて、全員で不味いメシをもそもそと食ってるかのような。ともあれ、モリソン首相に確固たる方針らしきものが見えず、要するに風見鶏だとするなら、皆が右だといえば右、左だといえば左にいくなら、ある意味では究極の民主主義(ある意味では究極の衆愚政治でもあるが)、もう首相なんか「いない」と仮定して見たほうがいいかもしれないですね。モリソンなんか居ないと。いるような気がするけど、それは錯覚ですよと(笑)。
要は皆の気分次第だというなら、段々皆の不満が高まってきて、いい加減開けろよって声が大きくなって過半数を越えたら開くでしょう。この夏(北半球)に、ヨーロッパやアメリカは開けて、夏の観光シーズンでがっちり儲ける気満々です。フライング気味に、ギリシャとかイタリアとかは5月に開けるとか言ってた気もする。それで、うまくいって、欧米の皆がきゃっきゃ楽しそうにやってたら、オーストラリア的にも指を咥えて見てるのがイヤになって、「なんでウチらがこもってるんだ」という気になり、早く開けるかもしれない。逆に、欧米でまた第○波とかいってぶりかえしたら、また遠のくかもしれない。
いい話は、NZとの完全オープン(トラベルバブル)は好調で、NZとは完全に行き来できるようになってるし、検疫も要らなくなってるんだけど、それでこれといった問題は生じていない。次はシンガポールで、シンガポール政府はやる気満々らしいです(そりゃ観光客ほしいだろうよ)。その次が韓国で、その次くらいに日本になるとかいう話だったんだけど、さてどうなることか、です。
来年後半というのは、全く無制約に完全開放するのはいつかって話です。多分、トラベルバブルで日本が先行する可能性は高いと思うので(オーストラリア的にもメリットあるし)、一般論よりも早くはなるだろうなーって予想はします。しかし、それをモリソンちゃんから明言されることは、最終的にそうと決まるまでは無いんじゃないかって思います。
コロナとカウラは似てる
以下は余談ですけど、オーストラリアのカウラというところで第二次大戦中、日本軍の捕虜が集団脱走事件を起こして全滅したという事件があります。昨今のコロナの状況を見てて、なんか似てる感じがするんですよ。
カウラの話は、在豪の日本人ならたいてい知ってると思います。僕も昔読んだきりの記憶ですが、非常に日本人として大事な教訓がそこにはあります。話の経緯は(それが史実かどうかはここでは特に問題ではなく、寓話的に意味があるので、時間もないのでここでは仔細に検討しません。間違ってたらすんません)、カウラというシドニーから数百キロ離れたところに、第二次大戦で捕虜になった日本人兵士が収容されてました。オーストラリア人の人柄の良さというか、特に捕虜を虐待したということもなく、毎日しっかりご飯を食べれて、ゆっくり眠れて、半死半生でジャングルをさまよっていた日本兵士にしたら天国のようなもので、これで終戦の後、日本に帰れたらいいな、よかった死なないで、みたいな感じだったんじゃないかと思われます。
だけど、ある晩、発狂したかのように集団自殺行為としか思えない反乱を起こし(食事用のナイフくらいしか武器がないのに)、脱走を始めた。オーストラリア兵士も制止を聞かないのでやむを得ず機関銃とか重火器で対応し、当たり前のことだけど、全員死んでしまった。なぜそんな集団自殺を日本人はするのか?オーストラリア人としては理解しがたかったのですが、とりあえず慰霊碑を作ってくれて、今でも残ってます。
ではなぜそんな集団自殺をしたのか?です。経過は、読んだ話に僕なりに注釈を加えて説明すると、要するに、どこの集団にも多少はいる「クソ正論」を吐く奴がいるわけで、これが元凶その1。ここでの「正論」はなにかといえば、「生きて虜囚の辱めを受けず」という帝国軍人のオキテです。まずこれ自体がナンセンスで、捕虜になったら、出来るだけたっぷり食って体力を蓄えて出来るだけ生き延びて祖国の明日に備えればいいと思うのだけど、「恥ずかしい」「立派に死ぬ」とかいう情緒的なことが優先してしまって、冷静なマネジメントが全然出来てない点。
でもって、日本兵士といえども、素顔は僕らと同じ普通の市井の人々ですから、本当はここで無駄に死にたくはない。懐かしい祖国に帰って、愛する家族と再会したい。人間だったら誰でもそう思う。多分そう思ってた人が多数だったと予想されます。でも、ここで「クソ正論」をつきつけられると、この種の正論というのは非常に反論しにくいのですよ。もちろん勇気をもって反論した人もいたらしいです。こんなところで武器もなく反乱を起こしても、まず間違いなく無駄死にするだけだし、仮に生き延びて外に出られても、こんな荒野のど真ん中みたいなところに出たら餓死するのがオチであり、意味がないと。
で、激論になって、最後は投票になったそうですけど、結果は、圧倒的多数で反乱を起こすことになってしまった。え?なんで?って思うのだけど、皆、「他の人が反対するから、どうせやらないことになるだろう」と考えて、自分だけ賛成に入れたという。この保身意識、自分は「いい子」になりたい意識、敢えて自分の意見を言うまでもないという逃げの意識、そのあたりが元凶その2です。
結果やることに決まっても、それでも反対する人は反対した。俺はやらんぞと言ってたけど、チクられたら困るからか、反対者は全員、皆の前で無理やり首を括って自殺させられた。この時点で、「おい、いくらなんでも」と誰か言えば良さそうなものなんだけど、それもなし。
で、結果的には一人残らず死んでしまった、、のかな?一人残らず死んでしまったらこういう経緯がなぜ分かるのかよく分からないから、生き残った人もいるのかもしれないですけど、まあ、それは本題に関係ないです。
ここで思うのは、集団を全滅に導くもの、破滅のレシピーみたいなものがあるとしたら、
(1)クソ正論を言う
(2)みなが「いい子」になりたがる
この2点が揃ってしまうと、その集団は時として破滅する、へたすりゃ皆殺し状態になる。
ミクロとマクロとクソ正論
ではクソ正論とはなにか?とかおいしいテーマがあるのですが、本格的にやってると長くなるので簡単にいえば、例えば、合理の論理と情緒の美学を混同することです。あるいはミクロの論理とマクロの論理を混同すること、個人の美徳と集団の合理を混同すること。ミクロとマクロといえば、「合成の誤謬」って概念があります。ご存知の方も多いでしょうが、それぞれが最適解と思われる行動をするのはいいんだけど、皆がそれをすると、最適解だったものが最悪解になってしまうという皮肉な状況のことをいいます。「ミクロの視点では正しいことでも、それが合成されたマクロ(集計量)の世界では、必ずしも意図しない結果が生じることを指す経済学の用語」と定義されたりしますが、ポイントは「ミクロとマクロは違うこと」「最善がいつの間にか最悪になること」です。
それがコロナとどうつながるの?といえば、コロナにおけるクソ正論は「人の生命はなによりも重い」ということでしょう。それ自体は間違いではないですよ。だけど、その種の正論は、時と場合によるのであり、もっぱらミクロにおいてのみ通用するものです。例えば、個人の人生で、受験や仕事に失敗したから自殺するとかいう場合に、ゼニカネの話と命の話を比べたら、明らかに命の方が大事でしょ?とかいう場合です。
でもマクロにおいては、そういうミクロ正論はさしたる意味をもたない。むしろ有害な場合も多い。典型的な例は、戦場で戦略や戦術を立てる参謀の場合、平然と味方を殺すことをします。陽動(おとり)作戦なんかそうですけど、とある部隊が戦場に出て、敵方にこれを攻撃させ、引きずり出したところで、裏から回った本隊が敵の本拠地を叩き潰し全面勝利するという簡単な作戦でも、おとり役になった味方の部隊はどえらい損害を蒙ります。へたすれば全滅だし、全く無傷ということはない。だけでここで普通にやってたら結局負けてしまい、全員が殺されるならば、一部の犠牲で大局的に勝利する方が良い。もともと戦術というのはそういうもの。
ここで「人の命は重い」とか言ってたら何にも出来ない。出来ないから有効な策が打てず、結果として全滅という最悪の事態を引き起こす。勝つためには平然と味方を殺せるくらいでないといけない。少なくともそれが出来る軍隊の方が結果的には生き残れる可能性が高い。
あるいは「人の命は〜」とかいうなら、交通事故でもこんな悲惨な死に方をしてるんだから、自動車なんか全面的に禁止すべきだという話にもなる。電車で投身自殺があるなら、電車は全部廃止すべきだ。飛行機が落ちて遺族がこんな悲しいを負うならば飛行機なんか禁止してしまえ。コロナ以外の病気でもお酒の飲み過ぎで肝硬変など死ぬ人もいるんだから、この際、酒は一切禁止すべき。蜂に刺されて死ぬ人がいるなら、この世から蜂を全滅させるべきだ。子供が怪我するなら、公園のシーソーも鉄棒もジャングルジムも全部取っ払って禁止しろ、転んで怪我したら路上は全部ウレタンでコーティングして布団みたいにフカフカにしろ、、、もうキリが無い。
ミクロのクソ正論がなんで間違っているかと言えば、一つの価値観にのみ固執して、対立利益の考量をしないからです。ミクロ、すなわちそれが個々人にとどまる限りにおいては、それは本人の勝手だし、対立利益も自分の内部にあるものだから、個々人の価値観で決めればいい。事故が恐いから自動車には乗らない、酒は飲まないという生き方のスタイルは人それぞれであって良い。でもそれは価値観(煎じ詰めれば”趣味”)の話であって、趣味は他人に強制すべきものではない。
マクロ=膨大な不特定多数の利害がからんできたら、いろんな価値観もあるし、思いもよらない様々な局面で問題も出てくる。対立利益は一つだけではなく、複数、場合によっては数十という単位で出てくる。それらを総合して決めていくという面倒臭くて緻密な作業をしなきゃいけないわけです。でも、それをやらないともっと悲惨なことになる。
ただし、マクロはマクロの論理があるといっても、マクロのためにミクロを、全体のために個人を犠牲にすることがあるとしたら、出来るだけそのようなことは起きないように運用上配慮する、起きたとしてもその程度を緩和するように配慮する、さらに個人にしわ寄せがいった場合には十分に補償措置をすることが求められます。マクロだから、ミクロは踏み潰していいのだ、見殺しでいいのだってわけではないのですよ。ただ総合的な判断においてはマクロの視点で決める、しかる後に、それによって生じた弊害を個別にフォローするという段取りになるので、そこはお間違えのないように。
コロナにおいては、あきらかにマクロの話をやってるわけで、ここでコロナによってこんな悲惨な死に方がとか言ってても大した役にも立たない。なぜなら、コロナでなくても、病気で死ぬのは大体において悲惨なのであり、また病気でなくても人が死ぬのは悲惨なものです。悲しいしやりきれないし、そんなことは言われなくても皆知っている。
コロナがカウラに似てるというのは、ともすれば、このミクロ的な正論に引っ張られすぎている部分です。もちろん現状でいいとは思わないし、批判もすればいいとは思うけど、それがマクロの議論として成り立ってないものに、僕は説得力を感じないです。お気持ちはわかりますけどねって。
もう一点は、「いい子」です。
炎上を恐れたり、空気を読んだり、なんとなく期待されている風な行動を取ってしまうことは、場合によっては、そのこと自体が犯罪的ですらあるのだと。もう「いい子罪」「空気読み罪」というのを作ってもいいんじゃないかってくらい。いい子であることそれ自体が悪いのではなく、「保身のために自分の本音を隠すこと」「本音と異なる意見を言うこと」が良くないと言ってるんです。特に全体の物事を決める場合、おかしいと思うことがあったら、おかしいと言うべきであって、それをしないとカウラのように全滅してしまう。ましてや勇気を出して発言する人を、集団の圧力で潰そうとするのは、これは実刑にしてもいいくらいに罪なことだと思います。
このように断片的でワンフレーズ・ジャスティスなクソ正論と、なんでも無難に大勢迎合するいい子風な処世術は、ことあるごとに人間の理性を妨害し、みすみす皆そろって地獄に落ちる危険につながる。その危険性はコロナの比ではない。
まあ、そういうのがお好きならどうぞご随意にってことだけど、でも、僕はそういう人々の集団の中にはいたくないですね。つまり、やたらクソ正論を述べて他人を恫喝したがる人、保身のために自分の意見を言えない人、こういう人達と同じ集団にはいたくないです。なぜって、僕は集団自殺する趣味はないですから。「みんなと一緒なら怖くないよね」とか言われても、恐いですよ、死ぬのは。それもみすみす馬鹿みたいなことで破滅するのは願い下げです。
コロナ世界大戦〜疲れたら終わり
世界のコロナ騒動は1年経っても全然収まらず、どうかすると永遠に収まらないかのごとき状況になっています。こりゃもう下手したら3−4年くらいかかるかもしれないなー、この世界レベルのワヤクチャな感じでいえば、ほとんど世界大戦に匹敵するんじゃないかって感じすらします。世界大戦に似てるというのは、最初はそれぞれに思惑があって合理的に考えてるんだけど、実行してる間にぐちゃぐちゃになってきて、引っ込みがつかなくなって、何がなんだか〜になっている感じが似てます。
それがどれだけ続くのかといえば、おおざっぱにいって3〜4年くらいかなと。なぜかというと、第一次世界大戦も第二次も大体4年くらいで収束してるからです。あれだって別に正しく正義が悪に打ち勝ったわけではないです。歴史は勝者によって書かれるから、後出しジャンケンみたいにそう描かれるんだけど、実際は違うでしょう。リアルには、そのくらいドンパチやってると、どこの国も国力がヘロヘロになってくる。あとはもう我慢比べみたいになってきて、やがてどっかの国がなにか致命的なミスをして国力をドカンと失ったりして(ナチスのソ連侵攻の失敗、日本軍のミッドウェー敗戦など)、破滅的に体力が尽きたところが負けて、そのまま大勢の決着がつくというか、もうこれ以上やる元気がなくなって自然収束みたいな感じでしょう。
そのくらいワケのわからん状況になってしまってると思います。僕の感覚で言えば、最初の頃から書いてるように、なんでこの程度の病気に皆さん大騒ぎしてるのか腑に落ちないし、今でも理解し難いです。そもそも大したものでもないものを重大なものであるかのように扱ったところに、最初のボタンの掛け違えが起き、それが仇となってしまっているように思います。
しかし、その是非はさておきます。
問題は、そういう前提(すごい怖い病気で、対策としては感染ゼロにするしかない)を維持するなら、論理的に未来永劫、収束は不可能なんじゃないか?という気もするのですよ。だってワクチンだって万能じゃないし、副作用だってあるし、一方、変異体は未来に向けて無限のバリエーションで永遠に生じ続けるわけですからね。将来的にすべてのバリエーションに対応できるワクチンなんかありっこないし、もしそれが出来たらインフルエンザも克服できるでしょう。そしてそんなことが出来るくらいならもうとっくにやってるだろうから、それが無いということは、つまりは出来ない、と。
変異体についても、世界変異体祭りみたいになってるけど、もともとウィルスとしては、宿主を殺してしまったら自分もホームレスになるんだから、理想は共生です。宿主も元気で自分も元気という。だから進化論(適者生存)でいえば、変異体で生き残ろうとすれば弱毒化するしかない。といってもウィルス株式会社が企画会議を開いて新商品を開発しているわけではなく、DNA転写エラーというたまたまの自然偶然が無数に起きて、たまたまそれが状況に適しているものが最終的には生き延びるということでしょう。エラーはランダムだから、今言われているように強毒化する場合もあるだろうけど、それは宿主を殺してしまうから結果的にはあんまり生き延びられない。実際こうやって問題視されて対処されてるわけですから。
いずれにせよ、感染ゼロとか収束にこだわる以上は永遠に収束しない。インフルエンザや風邪の絶対ゼロを目指す戦いにみたいに永遠に終わらない。ワクチンが出来た頃に変異体が出てきて、ワクチンではきかない奴があるのならワクチンは終息の決め手にはならない。新しい変異体のための新しいワクチンが〜とか無限に続く。そのうちワクチンの副作用を大々的に取りあげれば、その副作用を除去した新ワクチンなり、さらにそれを抑制するための新薬を死ぬまで飲み続けなければならないとかにもなるし、さらにその新薬に副作用があるのが判明、それを抑えるために開発された新新薬を飲み続け、さらに、、、無限に製薬会社が儲かる仕組みだって作れます。
ちなみに、僕がふと思うに、弱毒化してる変異体もあるはずだということです。ここは全然語られないのですけど、普通に考えたらあるはず。だけど症状を発生させないから検査もなく、存在を気づかれないのですけど、もしかしたらものすご〜く弱毒化し、その代わりものすご〜く感染力が強いのがでてきているのかもしれない。でも症状が軽微だし、これまでのコロナとは違う症状だからそうとは気づかれない。そのうちその症状のどっかで、既存の病気のなにかと結合してヤバいことになるかもしれない。そういう危険性もあるでしょうね。それを言ったらキリがないのですよ。これって、要するに「風邪の特効薬を開発できたらノーベル賞が貰える」のと同じ話です。それを問題視するなら、普通の風邪も問題視すべきで、要するに一定から先は「仕方がない」と諦めるしか無い。つまり「諦めるのが正解」なんだけど、問題はそれが出来るか、です。
出口戦略の重要性
最初の頃は感染爆発をコントーラブルなくらいに減らしていくこと、どう対処すればいいかを模索する試行錯誤の時期でいいとは思います。しかしデーターも集まってくれば、感染を無くすことよりもいかに実害を防ぐか、そのためのシステムをいかに構築するか。特に大掛かりな感染対策をせずに、完全自由にしたときに不可避的に生じる感染被害にいかに対応できるようにするかに焦点を移すべきでしょう。つまり去年の中頃くらいからは、いかに感染防ぐかではなく、いかに何もしなくても致命的な実害が生じないように医療体制を構築するかに論点を変えるべきだったし、実際にもそういう動きはあった。今は無駄に宇宙服みたいなものを着て、何から何まで特別仕立てで扱うから医療機関の消耗度が半端なくひどい。だから限界がすぐくる。民間病院がほとんどを占める日本で、その民間が使えなくなっている。わざわざ使えなくなるような体制にしている。なんでコレラ並みの感染2類にしたまんまでインフルレベルの5類に落とさないのだと去年の8月くらいにはそういう動きになっていたし、報道も盛んにされていた。でもなってない。いわゆる感染の専門家が反対してるからとか言われているけど、2類解除になってるんですか?直近では話題にすらならないんですけど、「それは言わない約束」みたいになってるんですけど、どうして誰も言わないの?不思議でならない。
台湾やNZ(オーストラリア)も「成功例」と言われてますけど、まだ半分ですよ。この先、特になにも感染対策をしない、完全に日々の経済活動をフリーにし、国境も全面開放して、それでも大丈夫、命が失われることがないように態勢を万全にしてはじめて「解決」というべきでしょう。感染防止は究極目的ではない。なぜならそれによって何らかの形で経済活動の閉塞が続くなら、困窮者やホームレスの増大、すでにアメリカで起きているように都市犯罪の増加、治安の悪化、やがては国庫の破綻、そうなれば医療そのものが資金不足で崩壊する。つまりはカウラの集団自殺行為です。
なぜそちらの方に議論がいかないのか不思議なのですよ。戦争でもなんでもそうですけど、中盤戦以降のメインテーマは出口戦略、つまりどのようにして勝ち逃げするか、ですよね。どうやって終わらせるかです。感染をゼロにするとかいっても、世界中から感染が消えてなくならない限りはそれは無理。そしてそんなことあり得なさそうな気もするので、永遠に無理って話になりそうですよ。おかしくないか。
確かに日本の場合の政府批判は一理も百理もありますよ。オリンピックは僕も反対ですし、ワクチン射つ手際が悪すぎるし、アクセルとブレーキを同時踏んでスピンしてるかのような方針には解せないものが多い。だけど、僕が五輪に反対するのは、感染防止のためではないです。五輪の醜悪な拝金体質にうんざりしてるからです。もうやるんだったら放映権全部無料にして利権が発生しないようにするとか、一国がやるのではなく、競技別に世界中に開催場所を分散させるとか、もっと抜本的なことすべき。現状のまま、特にアメリカのスーパーボウルの放映があるから、過酷な真夏にマラソンをやろうとか金で話が決まるような愚劣な五輪は開催すべきではないと思うからです。コロナが理由ではない。政府批判も山程あるが、それは行政執行能力の無能さとかが理由でありコロナだけが原因ではない。
だけど政府批判が好きな人は、コロナを理由にして政府批判をしますよね。五輪もコロナの感染防止のためにとか言ってる。結論は同意するけど、理由付けには同意できない。それが誤ったコロナ対策を導くこと、出口を塞ぐことになってること、ひいては結果的にクソ正論になってる危険性にも配慮すべきだと思う。
これが収束するとしたら、戦争みたいに、国が疲弊して、皆も疲弊して、もうやってられなくなって、「なんとなく終わる」みたいな感じでしょうかね。あるいは疲弊度がひどくなり、貧困やら治安悪化やらがひどくなり、社会そのものが維持できなくなって、「コロナどころではなくなる」とかね。
だけど、こんなことは最初の時点でわかってたと思うのですよ。ちょっと考えたら誰にでも分かる理屈でしょう。
それがいつまで経っても延々と危機を煽られ続けているのか?もうマスメディアの煽りにはうんざりしつつも、なんでまだ性懲りもなく煽られてる人がいるの?メディア自体、ネットに客を取られて広告収入ガタ減りだし、存続の危機です。だから何でもかんでも大変だとか煽って頑張るしかない。もともとメディアというのは「大変屋」であり、「クソ正論製造業者」といってもいいくらいです(優秀な論説ももちろんあるけど)。遡れば、さきの日本の戦争も、もっともその原動力になったのは、一部のエリート参謀と満州系財閥だと言われてるけど(政府のメインはかなり消極的だった)、僕が思うにまずメディアの責任が大きいと思う。大局観もなにもなく、世界情勢にも不勉強で、やたら国民がいい気分になれるような景気のいいことをぶち上げて稼いでいた大新聞です。まさにクソ正論製造業者であり、またそれに乗ってしまう馬鹿な(敢えてそういう)国民でしょう。てか、本当は半信半疑の人も沢山いたと思うし、良くないなと思ってた人も多いでしょう。だけど、言えない。カウラで賛成票を投じてしまったような図式。極東裁判でなんで大新聞の社長を絞首刑にしなかったのか(まあそれをするとアメリカ国内もヤバいんだろうけど)。
今はその頃よりもメディアが食えなくなってるんだから、その歪曲度はもっとひどくなってると推測されます。国による電波割当の特権階級的措置やら、電通やら大企業やらの広告費で、ほとんど延命措置みたいに生き永らえているんだから、ほとんど何も言えないでしょうよ。
メディアがマスゴミと言われて久しく、年々のその権威も信憑性も下がってますけど、ならばどうするか?でいえば、一般市井の庶民レベルになると思います。今はネットも普及してるし、僕がここでこう書けるようには誰でも言える。んでも、ここでクソ正論をぶち上げたり、妙に空気を読んで当たり障りのないことを言ったりしてたら、それで地獄に落ちても、そこはもう自業自得でしょう。
その意味で、陰謀論だろうが何だろうが、いろんな意見があるのは良いことだと思います。世の中にはいろんな奴がいるという事実が共通認識として深まるほどに、いろんな奴のバリエーションが増えれば増えるほど良いとすら思います。なぜなら、そうなるほどに、クソ正論がはびこる度合いが減るかもしれないからです。今までだったら「○○だ」と言ったら、誰も反論できなくて同調するしかなかったところ、「そんなことないだろ」というやつが増えたら、そうはならなくなりますからね。
西欧の啓蒙思想の勃興期に、誰だっけな、ヴォルテールか、「君に意見には全く賛成できないけど、君がそれを言う自由は命をかけて守る」といったけど、まったく賛成できないクソ意見だろうがなんだろうが、聞くだに不愉快しか感じないとしても、それでも一つの意見ですべてが染まる怖さに比べたらはるかにマシだし、その不愉快さこそがベストな状態なのだと思うようにしてます。
体力温存
さて、この馬鹿騒ぎの消耗戦が世界大戦並のアホらしさを誇るのだとしたら、考えべきは、まずはいかに生き延びるるか、ですね。個人の生活ではまずそれ。先のことを憂慮するがあまり鬱になるとか論外ですよ。まずは元気で生き延びること。そして、ことがおわったあとどうなるか、です。第二次大戦も終わってみれば、主役級の英仏独はそれぞれ国土がめちゃくちゃになり、有意な人材も枯渇し、消耗しまくって、歴史の主役から降格しました。代わって主役になったのは、アメリカとソ連で次の冷戦時代を作った。なんで米ソなのか?といえば、「田舎だから」「二流だから」でしょう。アメリカも当時はモンロー主義とかいって気取ってたけど、要は植民地に毛が生えた程度の存在感でしかなかったし、欧州の社交界や檜舞台では粗野な田舎者でしか無かった。ソ連だってロシア時代から欧州宮廷文化に憧れつつもイマイチ田舎ぽくてダメだった。あまりにも陰キャで魅力がなかったから主戦場にもならなかった。皮肉なことに、それが幸いして、最後まで国力を温存することが出来た。戦後世界史の主役になれただけの話でしょう。
ではコロナではどこが最後まで国力を温存できるでしょうか?といえば、これも皮肉なことに、このままいけば中国じゃないかって気がしますね。最初はすごかったけど、今はほとんど感染ないし、経済もバリバリやっている。もともと経済的にそろそろアメリカを抜くかどうかって時期だけど、コロナの間に、欧米はロックダウンで疲弊し、国内も二分し、イギリスではスコットランドと北アイルランドがいよいよ独立かという情勢になり、アメリカは国内分裂し、先のことを考えたら、マジにコロナとかやってる場合じゃないんじゃないの?
国力の温存再生という点で言えば、オーストラリアのように鎖国してたらダメです。小康状態は保てるけど、ジリ貧の貧血状態が続くからよくない。どこであれ、完全開国して、完全GOにしても、それでも対応できるだけの医療体制をどこが先に作り上げるかであり、いかなるステップで開国していくかです。オーストラリアでは、観光業界や大学などが政府に対して開国までのロードマップを示せと要求してますが、基本戦略を知りたいわけで、それは当然でしょう。目処がたてば借入金などやりくりのしようもありますから。だけど、先述のように「居ないも同然」のモリソン首相なので、確たる返事はありません。
最後に、ふたたび個人レベルに戻るなら、これも国力温存ですよね。体力、気力、経済力をいかに温存するかです。陰キャ過ぎて誰にも振り返って貰えなかったからこそ、米ソが次期覇権を握ったように、こんな時期に別に華々しく成功する必要はないですからね。
文責:田村
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